• 婚姻制度の歴史を考える—③群婚

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    族長婚(集中婚)から私有婚への流れは②で記述した。しかし日本では事情が異なるということも書いた。本稿では、日本において族長婚(集中婚)がどのように変化したかを追っていく。

    ヒトの集団が、縄文時代の日本のような、外敵が少なく(深い森の中でなければ肉食獣としては狼がいるくらい)、食料が豊富な地域にたどり着いた場合、リーダーに対する不可能課題として主要な「外敵からの安全」と「食の確保」という命題が解除される。これは、

    ①リーダーに対するプレッシャーが減少する
     =性の解放をリーダーに限定する必要が薄くなる。
    ②生存においてリーダーに強く依存することで保たれていた集団秩序が崩壊する。

    ことを意味する。また、比較的安全で食料が豊富であるということは、

    ③他の集団も流れ込んでくるため、人口密度が上がり、集団間の緊張が生じる。
    ④集団内の人口も増え、同時に適齢期の男女も増加する。

    従って、ここに新たな集団秩序を構築することが必要となる。集団間の緊張が生じるということは、自集団の結束を高める必要が出てくるのだが、一方でそれまでの族長婚で維持されていた秩序は崩壊しており、そこへ返ることは集団の自滅、または分裂を招く。また、適齢期の男女が増加するということは性に対する要求も強くなると言うことで、リーダーはそれを無視したり、押さえ込んだりすることが極めて難しい状況に置かれる。

    このような中で、性を紐帯として集団の結束を固める集団婚が模索される。同じ食、同じ性を分け合うことで、集団を統合したのである。

    この群婚の風は、時代がだいぶ下るものの、万葉集や常陸国風土記に見られる「歌垣」がこれを裏付けられる。万葉集にある「鷲の住む 筑波の山の もはきつの その津の上に おどもひて をとめをとこの 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言とへ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな」という歌によって、歌垣がかつて神前集団婚であったこと、また、万葉の時代にもその遺風があったことを伺わせる。

    考古学的には縄文時代が群婚であったことを直接示す遺物は出ていない。しかし当時の住居跡が中央に広場を置いた馬蹄形をなしていることから、高群逸枝氏はここを群婚神事の場と見なし、弥生時代の住居跡が塊状へと変化することを妻問いへの移行のためと判断した。けだし卓見というべきであろう(高群逸枝『日本婚姻史』38頁)。

    しかし一方で、縄文時代の住居規模やそこから出土した人骨の数から、当時一夫一婦またはそれに近い生活実態があり、群婚はなかったとする説が考古学では流行しているようだ。この説に対する反論は簡単で、住居に男女とその子供と思われる骨が出土するのは、住居が子を扶養する目的があり、あるいは男女の性交の場にもなったことまでは言えても、それをもって家族と断定するほど固定的な関係であったとは証明できない点を突けばこの論は崩れる。おそらく歯冠測定法で血縁の有無を調べたのだろうが、歯冠測定法は血縁があることは高い精度で判定できても、血縁がないことは判定できない統計的手法である。従って、例えば岩手県二戸市・上里遺跡の場合のように、出土した複数の男女と子供の骨から、女の一人が男の姉妹であったことは確言できても、それ以外はすべて空想となる。別稿で述べるが、縄文時代といっても長く、後半には既に妻問婚が芽生えていたと考えられるので、やはりただちに現代的な家族を想定することは困難がある。単に男女の骨が一緒に出てきたことを持って現代的な家族を妄想するのは楽しいだろうが、何の根拠もない。いかに縄文時代が豊穣であったと言っても現代の飽食の時代に比べればその貧弱さは話にならないレベルであり、集団のメンバーは集団に依存せずに生きることは不可能だったと思われる。

    さて、群婚にも段階があって、集団内の群婚に対し、後に集団外共婚が発生したと高群逸枝氏は主張する(高群逸枝『日本婚姻史』20頁〜34頁)。確かに、歌垣が、市場(市は多くの集団が交流する場でもある)や入会山などの場に設定されていたのも、他集団との交婚の便宜を考えてのことだとすると、その存在を想定することに無理はない。しかし、氏が挙げた集団外交婚の例が、いずれも海外であり、日本の例が存在しないように、日本ではこれを伺わせる文献史料や考古学的史料、あるいは民俗学的史料が存在しないのである。故に日本では集団外交婚が存在しなかったとする論者もある。

    私は日本の場合、集団内の群婚から妻問婚へ移行したと考える。集団内の群婚は、祭りの際の神事として庶民の間ではかなりの期間残存し、所によっては戦前までその風習が保存されていた。それは既婚者であるかどうかを問わずムラ総出で群婚を営んでいたのであり、そのような風習が残っていたという事実そのものが、集団内群婚から集団外交婚への移行がなかったことを示すと考えられるからである。

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