• 婚姻制度の歴史を考える—⑥母系制

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    ヒトがいつから存在するかは未だ確定していないが、そもそもヒトの社会は母系制であったと考えられる。ヒトの妊娠、出産、育児は、他の動物と比較して異常なくらいコストがかかることは改めて述べるまでもない。であれば、それを担うメスを中心としてこれを保護する形で集団が営まれるのは自然なことであり、むしろ生殖負担が全く異なるチンパンジーやゴリラなどを例として父系制を唱えるのは滑稽なことだと言える。

    ヒトが始原において母系制であったことは、各地の神話に地母神の信仰が見られることからも推測される。例えば最古の文明と言われるメソポタミアシュメール神話におけるナンム、イナンナイシュタル、それを引き継いだアッカド文明におけるバビロニア神話ティアマトも母なる神である。中国の神話に登場する女媧も人類を生み出した母なる女神である。元々苗族が信仰していたこの女神を後に伏羲とのペアに改変したものらしい。かつてユダヤ人が侵入してくるまでカナンで信仰されていたのもアシュトレトフェニキアアスタルテも地母神である。ギリシャ神話にもガイアという地母神が登場する。あるいは北欧においても同様であり、インドでも初期のヴェーダ文化から地母神への信仰が存在すると考えれている。ケルト文化でもダヌという古い女神が存在する。詳しく知りたい方は、Wikipedia をご覧あれ。日本においても皇室の祖先とされているのは天照大神という女神である。(天照大神は元々男神だったのが古事記編纂段階で女神へと改変されたという説がある。確かに太陽神信仰において太陽は通常男神に仮託される。また、天の岩戸に隠れた天照大神の気を引くためにアメノウズメがストリップをして他の神々と騒いだというのも男神でなければ意味が通らない。しかしこの説が正しいとしたら、にも関わらず、男神から女神へと改変されたという事実こそが問題となる。元々天照大神を信仰していた集団を別の集団が取り込んだ際に自分たちの母神信仰に適合させるために改変が行われたという推測が一応は可能だが、祖が母神でなくてはならない理由とは何だったのだろうか)

    中国には古典に『爾雅』という辞書がありこの釈親条に昭穆という関係が登場する。これは母系氏族が族外集団婚を行った場合の家系の見方を表していると高群逸枝氏は解いた(高群逸枝『日本婚姻史』昭和38年5月30日初版 至文堂 30頁〜34頁)。遙か古代のそのまた古代には中国にも母系制があったことがこれでもわかる。

    原始、ヒトが性交と出産の関係を理解するまで、親といえば母親を意味したのは当然であるが、日本ではこれが長く続いた。万葉集で親を歌った歌はほとんどが母親を対象としており、父を歌ったものはごくわずかである。要は、父は親の範疇になかったのである。このことは国語学的にも確認されている。古代日本ではそもそも、子供が兄弟姉妹を指していう言葉(イロセ・イモセ)と実母を指して言う言葉(イモセ)はあっても実父を指す言葉がなかった。言葉がないのは実父というものが存在しなかったからで、これも母系を支持する有力な根拠となる。加えて、古代日本独特の禁婚観念がある。日本では実母子および同母の兄弟姉妹の婚姻が禁止されていただけで、他に禁婚とするものはなかった。実際、上古には異父の兄弟姉妹での結婚が数多く見られ、父系のオジ、オバとの結婚すら見られる。これは父系が同族、今日で言う親戚という感覚がなく、他人同然であったことを示唆する。そのような婚姻感を支えうる制度も、やはり母系制以外考えられない。

    母系集団では、男は成人に達すると集団を出て他の集団へ参加するものだという。が、そもそも人類初期は集団を出たからといって別の集団に遭遇する確率は極めて低く、そんなことを本当に行っていたか疑わしい。ニホンザルの行動様式からの誤った推論だろうと思われる。では人口密度が上がればどうなるか。我々は既に答えを手にしている。略奪集団間であれば数が力であった時代であるから、受け入れられただろう。原始の共同体を残している集団相手であれば、妻問いが行われただろう。それだけだ。しかし、そのような恒常的な離脱を集団が許したであろうか。答えは否である。ヒトがまばらな黎明期に一人ハグレヒト(?)となって集団を離脱するのは自殺行為であったことは容易に想定がつく。人口密度が上がり、集団間の緊張が高まると共食共婚によって集団への帰属意識を植え付け、一丸となって集団の存続を図った。やはり恒常的な離脱があったと見るのは難しい。結局、婿取りが始まるまで集団からの恒常的な離脱という現象は見られなかったとするのが正しい見解だろう。

    なお、そもそもニホンザルのオスやチンパンジーのメスがなぜ生まれ育った集団を抜けて他の集団へ参加するのかはよくわかっていない。近親交雑を避けるためとかもっともらしい理由が挙げられることが多いが、そのような本能が存在することは証明されていない。

    話を日本に絞る。日本がかつて母系制であったと考えられることは既に述べた。妻問婚において、子の帰属は母の集団となり、母の元で育てられ、母の集団で死んでいったと思われる。純粋な母系制が存在したということである。尤も集団運営において主導権を握ったのは、女とは限らない。族長婚の段階のように外敵からの防衛や食料の入手先の判断といった不可能課題が課されるわけではないこの段階の族長は、あるいは女であったかも知れない。あるいは族長婚の流れを汲んで男であったかも知れない。集団ごとに様々な取り決め方でリーダーが選ばれていたであろう。

    弥生時代に入り、本格的な農耕を基盤とする渡来人/帰化人集団と共に武力紛争が日本に入ってきた。「⑤妻問婚補記」で述べたように環濠集落が瞬く間に北九州から近畿へと広がったのは、弥生時代前期のことである。おそらく渡来人/帰化人は別にこの時期に限らず、何度となく日本へ大移動を繰り返したと思われる。春秋戦国時代に滅んだ国の末裔や、戦乱を避けた集団があっても不思議ではない。春秋末期には呉越の戦争が激化したことから、江南からも南西諸島沿いに渡来人/帰化人が移動してきたことは容易に想像できる。戦国時代末期に秦に滅ぼされた国の末裔、あるいは戦乱を避けた集団が、朝鮮半島経由であるいは南西諸島経由でまた大人数で移入しただろう。楚漢戦争の折りも、前漢末から後漢建国に至るまでの間も、三国志の動乱の際も同様の事態が起きたに違いない。高地性集落の分布を考えると、前漢末から後漢建国の間に最大規模の移入があった可能性が高い。中国は既に西周時代より、完全に父権制社会へ移行していたので、その価値観も同時に移入されたと見るべきである。

    しかし、同じ頃日本は群婚から妻問婚への移行期または既に移行を終えていた段階とはいえ、母系制が社会の基本認識となっていた。生活基盤である生産手段とその継承が母系で行われているところへ父権制を持ち込んでも機能するはずがない。だが、既に「②私有婚と私有制度・身分制度」でも述べたように私有婚からも母系制は発生する。従ってこの鋭い相克を止揚したのは、父権母系制であったと判断できる。例えば中国でも古代の商(または殷)時代は、父権母系制社会であった可能性が残されている。王族は4つの氏族に別れていたのだが、その氏族の継承が母系であったかも知れないのである。中国人は一面記録人種であるため、その記憶が渡来人/帰化人に引き継がれ、日本の母系制と自分たちの父権制をその記憶を基に融合したことは十分ありうる過程であったと思われる。農耕、武力闘争と共に、身分社会が誕生したのは明らかであるが、その契機も「②私有婚と私有制度・身分制度」で既に述べた通りである。また、既に身分社会を経験していた渡来人/帰化人がそれを持ち込んだことも充分な可能性がある。ただしこれがどの程度末端まで行き渡ったかは定かでない。

    いずれにせよ、父権母系制、あるいは人により双系制と呼ばれる制度は、子の養育は母とその氏族が行い、財産も母から娘へ継承されるが、氏姓や身分は父から息子へ継承される。これは農耕につきものの戦闘を考えると、集団運営の実権を男が担うこと、身分社会とは血の継承が前提となるのでその実権も男系継承されることは当然の帰結である。

    少し脱線するが、日本人の特性として「和を以て尊しとなす」「ねばり強い」「上の言うことに唯々諾々として従う」「世間を過剰に気にする」といった内容が挙げられ、農耕を基盤としたムラ社会の伝統によるものだなどとまことしやかに嘘を吐く言論人がいるが、これら日本人の特性と言われている項目はすべて狩猟採集民族に強く見られる特徴なのである。農耕民族はそこまでお人好しではない。むしろ過剰なくらい好戦的である。中国で革命と称する農耕民族である商(殷)を滅ぼした行為を、は天命による革命と盛んに自己宣伝したが、逆に言うと派手な自己宣伝が必要なほど強引に商(殷)の天下を簒奪したのである。実際、商(殷)紂王は敗れたが、はその子武庚禄父を諸侯に封じたり、武庚禄父が背いたらこれを討ってかわりに紂王の異母兄である微子に封じたりしている。商(殷)の氏族を完全に滅ぼすことは実力的にもできなかったし、またそれを諸侯が許さなかったのであろう。実際、革命が非常に強引であったがゆえに西周時代はゴタゴタ続きであり、終にはは自滅している。このあたりの顛末は、司馬遷の『史記本紀に詳しい。農耕民族が極めて好戦的であるということがおわかり頂けたであろうか。

    農民が好戦的という事例は日本でも顕著に見られる。赤松啓介氏が自身で経験した旱魃における水騒動を『非常民の民族文化』で詳しく説明されている。

    この「水騒動」の実戦部隊の主力となるのが、すなわち「若衆組」なのだ。用水源を防衛したり、あわよくば他のムラの用水であろうと掠奪して、一合の水でも欲しい。血の一滴よりも、水の一滴が役に立つ。したがって水騒動、水喧嘩の乱闘では負傷者も出るし、ときには死者もあって、それほど激烈な抗争になる。いわば戦争状態であるから、なかなか他所者は立ち寄れない。スパイなどに疑われると、袋だたきにされる。

    赤松啓介『非常民の民族文化 —生活民族と差別昔話—』1986年7月8日初版 明石書房 134頁

    どこが和を以て尊しとなすなのかぜひ識者に伺いたい(笑)。農耕に戦闘はつきものなのである。

    話を父権母系制へ戻す。この習俗は非常に長く続き、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代と延々と続いていく。高群逸枝は「天皇は系だけあって母族から母族へ転移した抽象的存在形態(ヤマト時代の父系母族制を端的に表現した)ではなかったろうか」と述べているが(高群逸枝『日本婚姻史』昭和38年5月30日初版 至文堂 58頁)、それは何も天皇に限ったことではない。古代豪族—葛城氏、息長氏、大伴氏、物部氏、蘇我氏、あるいは誰もが知っている藤原氏ですら—すべてが共有した制度なのである。その間に妻問婚は廃れ、婿取婚が取って代わり、鎌倉時代へ入って擬制婿取婚へ進み、戦乱と闘争が全国へ広がっていく室町時代になって、やっと父権原理が全面勝利し、日本も父権制社会へ移行する。日常的に闘争が発生する社会では暴力が常に必要とされる。ここまで闘争が激化して初めて父権制が確立されるのである。

    では母系制は完全に死に絶えたかというとそうでもない。昨今、息子は嫁を迎えて家を出て実家に寄りつかなくなるが、娘は結婚しても実家の面倒を何くれとみてくれるので良いという人が多い。父権制がちょっとでも緩むとたちまち母系制の一面が顔を出すのである。あるいは、日本は離婚調停において子を母につけることがほとんどである。母が禁治産者や生活無能力者でもない限り親権が父親にいくことはまずない。これなども母系が顔を出している一例である。さらには母子家庭が父子家庭に比べて非常に優遇されているのは論を俟たない。もちろん、経済的に母子家庭が不利であった過去があるからであるが、母子を重視することには違いない。

    戦前まで夜這いや群婚の風があったことは「③群婚」でも述べた通りであり、これらの風習については赤松啓介氏の著作が詳しい。むろん赤松氏の方法論に批判があることは百も承知であるが、実体験であるだけにそのような習俗があったことまで否定することはできないだろう。となると、することをすれば子もできるわけで、そういった子もムラの子供として何ら差別されることなく受け入れられていたのは、やはり母系が顔を覗かせた側面であろう。

    将来の婚姻制度がどうなるか、今はまだ混沌としているが、父権原理が事実上崩壊している現実がある以上、新たな制度が生まれてくることだけは予測できる。それは現代の我々からすると非常識かも知れないが、かつてあった制度だって現在から見れば非常識である。我々にできるのはその登場を刮目して待つことだけであろう。

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