• 婚姻制度の歴史を考える—⑦古代嫁取婚

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    隋書倭国伝に次の文章がある。「女多男少婚嫁不取同姓男女相悅者即為婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不淫妒」意味は「女性が多く、男性が少ない。男女が互いに恋愛すればそれが即ち婚姻である。婚姻は同姓を取らず、婦人は夫の家に入り、まず犬を跨き、及んで夫に相見え与る。婦人は浮気をせず、嫉妬もしない」つまり、当時の倭国では嫁取りが行われていたのである。は西暦581年から618年まで存在しているから、六世紀末から七世紀初頭ということになり、日本では飛鳥時代が対応する。ということは、私が「婚姻の歴史で考える—④妻問婚」で書いたことが間違っていたことになるか?

    ならないのである。倭が九州にあった王朝であることは、古田武彦氏の論証によってほぼ確実と言えよう。常に大陸と交渉し、大陸の文化を吸収する最先端の地である。首都は当然太宰府に置かれていたであろうが、その民の風俗として大陸の嫁入りが取り入れられていたとして何ら不思議はない。婚姻は同姓を取らず、とはまさに中国の倫理である。

    では、九州王朝の威令下になかった国々ではどうだったか。妻問婚が粛々と行われていたのである。これは、近畿天皇王朝が伝える「古事記」「日本書紀」にも現れているし、万葉集に妻問いの歌が多いことは既に述べた。あるいは「婦」とは高貴な身分の女性を表すことから、上流階級だけの風俗だったのかも知れない。いずれにせよその原則に「男女相悅者即為婚」があることを考えると、後世の父権制における嫁取り婚とは異質なものであることは間違いない。それにしても「犬を跨ぐ」のは何故だろう。古代中国の商(または殷)の時代には、犬は感覚が優れているため、邪気や呪いを人より先に察知することができると信じられていたようだから、あるいはその影響かも知れない。

    七世紀後半に白村江の戦いで倭軍・百済連合軍は唐・新羅連合軍に大敗北を喫した。好太王碑にそれは記されている。六世紀にあった日本書紀でいう「磐井の乱」、その実は「継体の乱」によって打撃を受けていた王朝は、この敗戦によって王権が大きく傾き、七世紀末に滅んでしまったと考えられる。それは、西暦701年に近畿王朝が「大宝」という元号を定め、以降絶えることがなかったことからもそれがわかる。それまで元号を置かなかった近畿天皇王朝が元号を置くのは、九州王朝が滅んで元号を布告する基がなくなってしまったからである。つまり、近畿天皇王朝が日本の「天子」となったのである。もちろん、それでも九州南部に退いてまつろわぬ王朝の遺民たちがいた。近畿王朝から「熊襲」と呼ばれた人々である。しかし今は本題ではないので詳しくは述べない。

    隋書倭国伝は次の文章で締めくくられている。「於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶」にはその後遣使が派遣されないまま、が滅びてしまった。そして、旧唐書東夷伝の倭人条は次の語句で終わっている「二十二年又附新羅奉表以通起居」そしてこの記事を限りに倭国は中国の史書から姿を消す。代わりに「日本国」が登場する。
    「日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本為名或曰倭國自惡其名不雅改為或曰日本日本舊小國併倭國之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山為限山外即毛人之國」ここではっきりと日本は倭国とは同種だが別の国だと述べられている。ここで「蝦夷」が出てくるのが面白い。しかしこの後白村江の戦いがあり、倭が大敗したことは上で述べた。

    九州王朝が滅んだ後、跡を継いだ近畿天皇王朝は、彼らの制度である妻問婚を持ち込んだであろう。それは想像に難くない。古代にあった嫁取りの風習は廃れ、再び興るのは室町時代に入ってからである。

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