• 日本の古代史を考える—③魏志倭人伝

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    卑弥呼で有名な邪馬台国が記載されていることで有名な魏志倭人伝。魏志とは、西晋陳寿が編纂した『三国志』のうち、の正史である『魏書』のことを云う。

    魏は、西暦 220 年から 265 年に中国に存在した国である。この国とその祖曹操については、三国志演義で日本人にもおなじみであろう。なお、日本では弥生時代後期にあたる。弥生時代を代表する遺跡といえば、昔々は登呂遺跡だったりしたのであるが、現在では何と言っても吉野ヶ里遺跡であろう。筆者も現地へ行ったことがあるが、見ると読むでは大違い。吉野ヶ里遺跡は、非常に大規模な遺構であり、現地に立つと圧倒されるものがある。さてもこのような基地を設けねばならなかった時代背景とは非常に物騒なものであったと実感した次第である。このような基地を必要とした時代とはどんな時代だったのであろうか。それを読み解く鍵のひとつが魏志倭人伝である。

    魏志倭人伝については、古来より邪馬台国の所在地を巡って(蒙昧かつ無駄な)論争があり、未だ決着を見ていない。ところが、魏志倭人伝には邪馬台国なる国は載っておらず、現在残っている版本ではすべて邪馬壹國となっていることを本ブログでも既述した。では、改めて本分を検証してみよう。

    倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國

    倭人は帯方郡の東南の大海におり、山島の中で国邑を作っている。元々は百あまりの国であった。前漢の時代に朝見するものがいた。現在使者や通訳が往来するのは三十国である。

    「舊百餘國。漢時有朝見者」とは『漢書』地理志燕地倭人条に記載されている内容を受けている。「漢時有朝見者」は『漢書』地理志燕地倭人条の誤読か、あるいは別に情報があってこのように書いたのかは不明である。そして「今使譯所通三十國」と続く。の時代にの都あるいは帯方郡から倭へ、あるいは倭からへ使者が行き来している国が三十ある。つまり、「往古そういう国があった」ではなく「よくわからないがそんな国があるらしい」でもなく、の当時の日本、あるいは日本の一部について相当に確実な情報があったことをこの文は表している。この点を留意して頂きたい。

    從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

    帯方郡より倭に至るには、至る行程を以下に述べる。海岸に沿って陸路で韓国に入り、水行、韓国に入って、南行東行を繰り返して、主に川を航行し、川の途切れたところは陸路を取る行程を取り、川に沿って南へ下ったり東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到る到着したその間七千余里その間の行程は実質七千里余りになる。初めて一海を渡り、千里余りで対馬国に至る到着した。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)である。家が千戸余りあり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。また、南に一海を渡ること千里余り、名を瀚海(広漠とした海の意)といい、一大国に至る到着した官も長官をまた卑狗といい、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、ここも南北の市に出かけて糴する。また別の海を渡り、千里余りで末盧国に至る到着した。家が四千戸余りあり、山海に沿って暮らしている。草木が盛んに茂っており、前を行く歩く人の姿が見えないような険しい行程だった。上手に魚や鰒(アワビ)を捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。東南に陸行すること主に陸路を取り、五百里歩いたところで、伊都国に到る到着した長官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。家が千戸余りあり千余りの家があり、代々王がいる。ここまでの国は皆、女王国の統治下に属していた。郡使は往来の途中で常にこれらの国々この国に立ち寄るのである。東南に行くと百里の行程で奴国に至る到着した長官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、家が二万戸余りある。東に行くと百里の行程で不彌国に至る到着した長官は多模、副は卑奴母離といい、家が千戸余りある。南へ行くと水行二十日で川を航行して投馬国に至る到着した航行には二十日をかけた。長官は彌彌、副は彌彌那利といい、家は五万戸余りはあるかあることを確かめた。南に行くと邪馬壹国、女王の都するところである。帯方郡からは総日程で水行十日、陸行一月である。川を十日かけて航行し、陸路には一ヶ月をかけた。長官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。家は七万戸余りはあるだろうかあることを確かめている。女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、そこから南の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。次に斯馬国があり、次に已百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に彌奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に對蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国がある。これが女王に属する領域内の全部である。そのそれら女王国の南に狗奴国があり、男性を王と為し、長官には狗古智卑狗があり、女王に従属していない。帯方郡より女王国に至るには一万二千里余りである。

    ここで『邪馬國』が初めて見える。後で出てくる景初二年が、三年の誤りであるというのはわかるが、この『邪馬國』が『邪馬國』の誤りであるとするのはわからない。確かに『後漢書』以降、後代に作成された正史には、『邪馬』と出てくる。普通はそういう場合、国名が変更になったのだと考えると思うのだが、なぜ誤りでなくてはならないか。それは『邪馬(ヤマタイ)』→『ヤマト』と繋ぎたいからである。何のことはない。皇国史観にどっぷり浸かって色眼鏡で見るからそう見えるだけのことなのだ。それでも写し間違いは誰でもあるし…とお考えの方には、唐代に用いられた楷書正字と、三世紀当時、正式な文書で用いられていた隷書、およびその基となった小篆で字形をお見せしよう。
    』楷書(唐代正字)壹(楷書)隷書壹(隷書)小篆壹
    』楷書(唐代正字)臺(楷書)隷書臺(隷書)小篆臺
    これが写し間違えるほど似ているというなら、何だって似てるだろう。『後漢書』が書かれたのは五世紀であり、国名が既にタイとなっていたことは、『隋書』に「俀国伝」となっていることからも明らかである。だがそれをもって三世紀の『三国志』の頃も同じと見なす根拠がない。学者の脳は常人とは異なる不思議な思考回路を有するものらしい。『俀』については、の時代に『大倭』を「たゐ」または「たいゐ」と読んで自称していたものが「たい」に変化したものではないかと筆者は考える。ちなみに、日本がヤマトを公式に使用するのは、八世紀の養老令からである。全く時代が違うのでお話にならない。中国上古(前漢後漢の時代)に『邪馬國』はなく、中国中古(の時代)にはあっても「やまたい」としか読めないのである。どうやっても「やまと」にはならない。これは皇国史観で見るからおかしな話になるわけで、九州と近畿に別々に王朝が存在していたと考え、九州の王朝が朝見していたと考えれば、おかしくも何ともなくなる。残念ながら。こういう事例を見かける度に歴史学とは胡散臭い学問だとの想念が頭をよぎるのである。

    なお、邪馬壹國への行程、所在地だが、これを検証することは本稿の目的ではないので省く。
    (2013年6月2日追記)「南へ行くと水行二十日で投馬国に至る」が特に不明なのだが、距離的には台湾になるのか? しかし魏志に琉球を飛ばして台湾が登場するのもおかしい…琉球だとして水行二十日もかかるか? と愚考す。まあ少し考えてわかるくらいならとっくに謎は解決されているはずですな。(笑)
    (2013年6月3日追記)「歴韓國乍南乍東」の翻訳を古田武彦氏の説に従い修正。当時「倭」は「諸韓國」とも交通があり、また「諸韓國」も帯方郡と交通があったので、陸路を取ることは別段不自然ではない。さらに、「対馬國」と「一大國」は「南北市糴」していたのだから、両国を経由し「狗邪韓國」と「末盧國」を結ぶ定期便が出ていたと解釈するのが妥当であり、「倭」の航路として確立していたと考えれば、帯方郡から船で直接北九州へ行かなかったことの説明がつく。
    (2013年7月4日追記)訳文を中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従い修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。

    成人の男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。古来より遣使が中国にやって来ると、皆自分を大夫だと称した。夏王朝少康王の王子が会稽に封じられている。髪を短く切って入れ墨をすると大魚や水禽の害を避けられるとその王子は人民に教え諭した。現在、倭で海辺に暮らす者は自ら海に潜り魚や蛤を捕っている。入れ墨をしていると大魚や水禽が近寄ってこない。しばらく後になって、装飾にもなった。諸国の入れ墨はそれぞれが異なり、体の左側にしたり右側にしたり、あるいは大きく入れ墨する者や小さくする者もおり、身分によっても違いがある。いる。身分秩序があり、その道理入れ墨の風俗や身分がしっかりしている理由を勘案するに、と、これこそまさに会稽東治(夏王朝少康王の王子の治績)が東の地にまで及んだものである。

    さて、縄文時代弥生時代を通じて、現代でも有名な風習とは何か。即ち「抜歯」である。然るに、魏志倭人伝は抜歯の風習に触れていない。当時の中国にはそのような風習はなかった(4,000年以上前に廃れた)から、もし倭に抜歯なる奇怪な風習があると記録に残っていれば、あるいは使節が抜歯をしていれば、当然触れられるはずのものが一切記載されていない。これは、倭と総称された国々には、抜歯の風習がなかったことを示すと筆者は考えている。筆者はまた、北九州では抜歯痕跡のある弥生時代人の人骨出土が非常に少ないのではないかと考えており、倭を北九州、特に太宰府を中心とした政権と考えているが、それを論証する、あるいは否定する調査結果を見つけることができなかった。詳しい方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いである。一方、気になるのは入れ墨である。身分の高低に関わらず、とあるのだから、王も庶民も入れ墨をしたいたのである。ところで近畿天皇王朝が伝える『古事記』『日本書紀』には抜歯の風習も入れ墨の風習もかけらも出てこないのである。少なくとも一族揃って入れ墨していたという例は皆無である。実際に出自がそうであれば、説話として語り継がれてもよさそうなものだが、撰者に抹殺されてしまったのかも知れない。あるいは元々入れ墨の風習がない部族であったことも考えられる。どちらかと言えば後者の可能性を見る。つまり、倭が大和政権と関係ないという傍証がこんなところにも転がっているわけである。
    (2013年7月4日追記)訳文を中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従い修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    それはさておき、倭は東夷の一種なので、その風俗が中華からの教化が及んだ結果であると陳寿は考えた。考えただけでなく論証した。それが、少康の子の話として出てくるのである。会稽とは古い国名でいうと「」である。呉越同舟の臥薪嘗胆呉越である。また、「魏略」には「其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後」とある。太伯とは太伯を言うので、自分たちは太伯の末裔であると称していたという意味である。つまり、呉越すなわち江南の人々が日本へ移住していたこと、それを通じて倭が教化されたことをこの文は言っている。古代の人々は現代人が考えるよりずっとアグレッシブだったのである。

    其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。

    その風俗は道をはずしていない。男性は皆が露紒(ろけい=頭に何も被らない)で、木綿(紵のことか? 当時木綿は日本に伝わっていなかった)を頭に巻いている(つまり鉢巻き)。その衣服は横に長い布を互いに結束して連ね(これを再現した写真があります)、簡単な縫製もない。婦人は髮を伸ばして髷を結っており、衣は単被のように作ってその中央に穴を開け、これに頭を突き出す(貫頭衣のこと。これも再現した写真があります)。水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、桑を植え養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、真綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄、あるいは骨の鏃、有無するところが儋耳や朱崖(ともに海南島の地名)に同じである。

    男性の服装女性の服装ともに簡素だが、絹を産していたことには注意が必要である。昔も今も絹は贅沢品だ。庶民やあるいは身分の高い人でも普段は紵でできた衣を着ていたのであろうが、絹が倭の特産であったわけだ。真綿も絹のことなので念のため。とすると当然、倭があった土地からは絹が出なくてはならない。それもひとつやふたつでは論外だ。産していた以上、結構な数の絹製品あるいはその残滓が出ないとおかしい。もちろん、弥生時代の絹などほとんどは消滅しているだろう。保存性が良い素材ではないからだ。弥生時代は人骨ですらあまり多く見つかっていない。考古学的に物が残りにくかった時代なんだろうか。牛や馬がいないということは、農耕はすべて人手によって行われていたことを意味する。矛、盾、木弓を用いて戦うとあるのはもちろん戦争のことである。弥生時代は戦争の時代でもある。

    倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處

    倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。立派なお屋敷もあるが、父母と兄弟それぞれは別のところで寝る(妻問婚のため、夜寝る時は、成年男子は妻のいる里へ出かける)。

    「父母兄弟臥息異處」だが、私はこのように解釈している。あるいは中国においては儒教の影響で父母兄弟が同室で寝るのは野蛮な風習とされていたから(遊牧民のパオやゲルを考えてみるとわかる。彼らは北狄、あるいは西戎と呼ばれていたのだ)、別室に寝たというだけだという意見もあるが、その直前に「有屋室」とわざわざ断っているのに、「異處」するわけだから、少なくとも、建物自体を別にしたとするのが妥当である。それに、当時の庶民は竪穴式住居に住んでいた。建物ひとつ=一部屋であることを考えれば、少なくとも「別の建物」であることは自明のことである。弥生時代竪穴式住居から出る人骨が男女一対、または男性一人に対して女性複数、あるいはそれに子供が付属するという例が非常に多く、馬鹿な考古学者はこれを一夫一婦制の萌芽と酔ったことを言っている。寝る時は夫婦だけ、または夫婦と小さい子供だけで寝るのが当たり前だったのなら、それと家族制は何の関係もないことになることは子供でもわかる。それとも何か、一夫多妻で母系制の大家族なら複数プレイでいたしていたとでも主張したいのだろうか。いかに学者というのが想像力貧困であるかこういう事例でもよくわかる。

    以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

    中国の白粉を用いるように、朱丹を身体に塗る。飲食には籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る木製の皿、あるいは鉢)を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴びをする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

    丹とは赤い色をした鉱物のこと。辰砂鉛丹を含むため赤い色をしている。白粉のように使うとあるのだから、顔にも塗ったのであろう。箸はまだない。棺はあるが槨がない、私たちはそういう墓をいくつも見ている。甕棺墓と呼ばれている墓がそれである。塚はいわゆる墳丘墓だろう。お葬式の時、お酒を出して騒ぐのは—今や自宅でお葬式をする人も少なくなったので珍しくなったが—この頃からの風習のようだ。葬儀の後、水浴びするというのはのことだろうか。

    其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

    中国を訪れるには、海を渡って行き来をするが、必ず遣使の一人に、頭髪を櫛で梳(けず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を取らず、衣服は垢で汚れるままにし、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにした者を含める。これを持衰(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれれば、それを顧みて報酬として、生口(奴隷)や財物を与え、もし疾病があったり、暴風の災害などに遭ったりすれば、ただちにこれを殺そうとする。その持衰が謹んでいなかったことがその原因だとするからだ。

    道中無事を祈るのはいつの時代も同じだが、専門の人を置いていたのはこの頃の特徴だろう。誰もが気軽に海外へ出かかられる時代ではない。無事に帰れればよし、ご褒美も貰えるが、さもなければ命がないとなれば、道中の間、必死になって祈ったことだろう。今の時代、フェリーや飛行機に乗るからと言って命を落とすことを覚悟して乗る人は、まずいないだろうが、当時のことだから、危険性は遙かに高く、あたら命を落とした持衰も少なくなかったものと思われる。尤も、遙か後の遣唐使が辿って散々な目に遭った南路と違い、北九州から壱岐、対馬を経て朝鮮半島へもしくは朝鮮半島沿いに帯方郡へ行ったのだから、そうそう難に遭うこともなかったのかも知れない。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    出真珠、青玉。其山有丹、其木有柟、杼、豫樟、楺、櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黑雉。

    真珠や青玉を産出する。山からが取れる。樹木には、楠木タブノキ、楺、橿がある。竹には篠簳、桃支がある。生姜山椒茗荷があるが、賞味することを知らない。猿や黒い雉がいる。

    とは翡翠のことで、硬玉軟玉がある。硬玉は、翡翠輝石つまり、ジェダイトのことで、中国には18世紀にミャンマーから輸入されるようになったのが始まりである。従ってここで言う「青玉」は、軟玉ネフライトのことである。青が実際は緑色を指していることに注意。杼を栃と訳してみたが、どんぐり全般を言うのかも知れない。楺は不明。この頃蜜柑はなかったので、橘をミカンと解釈している翻訳があれば間違い。(この項、2013年7月4日に追記)

    其俗舉事行來、有所云為。輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拜。

    その風俗に、何か事を行う、あるいはどこかへ往来するにあたり、言動を行う予定ができれば、必ずお告げを頂く。そのたびごとに都度、骨を焼いて卜占でその吉凶を占うことが挙げられる。い、先ず卜占の結果を唱えるが、目的を告げるため骨に刻む。そのとき方は令亀(亀甲を焼いて生じるひび割れで占う亀卜のこと)の法と同様で、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆を占う。会同での立ち居振る舞いに、父子男女の差別がない。人々は酒を嗜むことを好む。身分の高い者への表敬の仕方を観ると、ただ拍手することが跪拜(膝を着いての拝礼)に相当する。

    獣骨を焼いて卜占を行うのは、非常に古い、どちらかと言うと原始的な占いの形で、当時の中国では既に廃れていた。中華で廃れた礼式が周辺国で保存されている好例だと言える。会同で座る順番や解散の際の退場順など中国の礼はかなりやかましく、当主、子、女性でそれぞれ異なっていたが、日本ではそういったことが重視されていなかったことがわかる。それらの礼は当然地位を表しているわけだから、男女あるいは父子でそういった差を意識していなかったことになる。貴人に対する礼として拍手するというのは驚きだが、多分拍手して頭を下げたのではないだろうか。今も神社での拝礼の作法はそうなっている。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    なお、卜があるということは文字があるということでもある点に注意が必要である。卜には、

    1. 前辞
      「(日付)に(貞人)が占う」という意味を持つ定型文「(日付)卜(貞人)貞」
    2. 命辞
      占う内容に該当する主文
    3. 占辞
      王の判断
    4. 験辞
      実行後の結果

    を書き込むことが必要で、文字がないと卜にならないのである(占辞、験辞はない場合もある)。
    (2013年7月14日追記)

    其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。

    人々は長寿で、中には百年生きる人もいるし、あるいは八、九十年を生きる人もいる。その風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の妻を持ち、下戸(庶民)にも二、三人の妻を持つ者がいる。婦人は浮気をせず、嫉妬をしない。窃盗をする者がなく、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子を没して奴隷とし、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている(上下関係の秩序があるの意)。租賦を収める。それを納めるための邸閣(立派な高楼)が国にある。国には市もあり、双方の有無とする物を交易し、身分の高い倭人にこれを監督させている。

    当時既に百歳を越える人がいたのは驚きだ。また一夫多妻の制であったことがわかるが、妻問婚が行われていたのであれば、庶民でも二、三人の妻がいることに納得できる。嫁取婚では、庶民でも複数の妻を持てるという点が腑に落ちない。当時は現代的感覚の「身分は庶民だが大富豪」なんてものは存在しない。庶民=財産なしということである。この点からも嫁取りはかなり疑わしい。さて、犯罪を犯す者が全くいなかったわけではないだろうが、現代でも犯罪に対する忌避感が強く、訴訟を好まないのが日本人である。少なくともこの頃からそういった風俗を維持していることがわかる。

    自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

    女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国に常駐して治めており、国の中では刺史の如きものである。洛陽(魏の都)や帯方郡諸韓国に詣でて王へ遣いを使わして、帯方郡の郡使がその答礼で倭国に来たときは、皆、港に臨んで文書や賜物を点検照合し、女王の元へ届ける際に、間違いがないようにする。

    刺史は、州の行政、警察、司法、軍事を管轄する高官であり、大変な権力を持っていた。それに匹敵するというのだから、一大率も強権を振るっていたのであろう。これをみても伊都国は重要な国であったことがわかる。それにしては千余戸と人口が少ないように思えるが、海沿いの交通の要所であったからか、あるいは宗教的に重要な土地だったのだろうか。遣使の帰還や郡使の到来の際は、ここで下賜品や文書の点検をしたとあるから、少なくとも「倭国」の入り口と考えられていたのは間違いない。

    下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

    身分の低い者が高貴な人物と道で出会えば、後ずさりして草群に入る。伝達すべきことや説明すべきことがあれば、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまづ)いて行い、両手を地に着けて相手に対する敬意を表す。応答する声は噫(あい、ぅあい、わい)と言い、これで承諾を示す。

    この作法は何と近代に入っても変わってません。身分が上の人に尻を向けるのは大変な無礼とされ、去るときは後ずさりするのが正しい作法です。両手を地に着けて経緯を表すのは時代劇でもよく見かける作法ですね。明治に入って椅子に座るようになってからは立礼が基本となって廃れましたが。(この個所が抜けていたので、2013年6月8日に追加)

    其國本亦以男子為王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫婿。有男弟佐治國。自為王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

    倭の国は、もとは男性を王としていて、七、八十年は問題がなかった続いたが、その後倭国に内乱が相次ぎ、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道に従い、よく衆を惑わした。高齢になっても夫がおらず王に立てられた時既に成人していたが、夫はおらず、弟がいて国の統治を補佐していた。王位に就いて以来、面会できるものは少なかったけれど、婢(下女、あるいは女奴隷)が千人、その側に侍り、を千人自分のそばに侍らせていた。ただ一人の男性が食事を給仕飲食の給仕をし、言葉の取り次ぎのために出入りしていた。居住する宮殿や楼観には、城柵が厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいた。

    倭国大乱(?)の後、卑弥呼が立てられたことを述べた部分である。鬼道とは、初期道教である、五斗米道のことである、初期の神道である、と様々な説があり、決着を見ていない。中国は当時もちろん儒教だったので、その儒教にそぐわない政治体制を「鬼道」と称した例があることから、これもそうではないかとする者もいて、人の数だけ「鬼道」がある状況。:) 筆者は初期神道だと考えている。儒教的観点からするとそれは「正道」ではなく「鬼道」となる。「よく衆を惑わした」とは「民衆が卑弥呼の指導によく従った」ことを表す。「鬼道」による卑弥呼の指示を民衆が聞き入れるのは「惑わされた結果」と解釈するのが儒教的立場というものでもある。

    ところでここの文章は様々な解釈が可能で、例えば、「住七八十年」の「住」を「とどまる」と解釈すれば、男王が七十年から八十年続いたことを表すが、「やむ、やめる」と解釈すると、七十年から八十年は男性による王位の継承が断絶していたことになる。『後漢書』は後者を拡大解釈して「王が七十年から八十年いなかった」として「倭國大亂」と称しているが、その後に「歴年」とあるのに注意。「歴」はつぎつぎに巡り歩く意から転じて年月を経る意味になっているので、次々と年月が経る長い間抗争が続いたことを述べている。「七、八十年乱れて、さらに何年も攻め合う」では意味が重複するため、『後漢書』の解釈を取ることはできない。また、「本亦」とある点に着目して魏使が到来した頃には再び男王が立てられていたとする説もあるが、それだと女王が七十年から八十年続いたことになり、「乃共立一女子為王」と文脈が繋がらない上に、後の壹与の即位事情に繋がらない。悩ましい。(この項、2013年7月4日に追記)

    「年已長大」は呉書巻五十二「張顧諸葛步傳」にやはり「年已長大」とあり、曹丕が王位を継いだ時のことを述べている。曹丕(魏の文帝)は四十歳で死んでいるので、年寄りという意味ではない。後に壹与が立てられた時まだ十三だったので、それに対して成人していたという意味だろう。古代は早婚なので成人しているのに夫がいないというのが魏使の目には奇異と映ったと思われる。「有男弟佐治國」は祭祀の王と政治の王による複式統治を表したもので、卑弥呼の神託を現実の政治に反映するには、そのような制度が不可欠であったのだろう。(この項、2013年7月4日に追記)

    また、「自為王以來少有見者以婢千人自侍」も読み下すと「王と為りて自(よ)り見ゆる者少なく有れど婢千人を以て自らを侍らしむ」となるが、王であるのに遭ったことがある人が少ないとはどういうことだという疑問が出てくる。これは誰に会うことが少なかったかということを考えなくてはならない。民衆はまあ無視してよろしい。たまに顔を見せれば済む。しかし、祭祀や政務について各国の王たちやその配下と会見を持つことは必須である。これは或いは卑弥呼が国人、つまり氏族の主たちに人気があるので、これ以上存在感を増されて自分たちの地位が脅かされることを恐れた部族長たち、即ち各国の王が氏族の族長クラスの面会を制限した、ということではないか。じゃあ何故そのような女性を王位に就けたのだと問われれば、まさしく国人の要求がそれだけ強かったからと答えるしかない。しかし、王は存在を誇示してこそ王なので、会えない王はいないのと同じである。やはり悩ましい。なお、卑弥呼は祭祀王で、また巫女でもあったので、男子をそばに近づけなかったのだが、はしためでは用を為さない用事については例外を認めて一人だけ男子の出入りを許可したことが覗える。(この項、2013年7月4日に追記)

    女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

    女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。それも皆、倭人である。また、その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黑歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。倭の地と比較して訊いてみるとを調べたり訊ねてみたところ絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど海の中に島々が互いに離れて存在し、海で隔たったところもあれば、繋がっているところもあり、周囲をぐるりと囲むと五千里余りあることがわかった

    魏の一尺は、24㎝ 余りだから、身長が 1 m に満たない人々が住んでる国があったことになる。倭国の人から聞いたのだろうが、倭の人がおおげさに言ったのだろうか。女王国の南に四千里余りですから、一里 = 433.8 m(長里)で計算すると、南に 1735 ㎞、一里 = 75 m(短里)で計算すると、南に約 300 ㎞ なので、長里だとすれば、フィリピンのことを言ってることになる。短里が正しいとすれば、日本国内にあったことなることは間違いない。縄文人は短身だったので、中でもひときわ背の低い人たちが生き延びて建てた国があったということかも知れない。ところが興味深いことに、フィリピンにはネグリトと呼ばれる民族がおり、「小黒人」と別名がついていたほど背が低い。長里、短里どちらの説を採るべきだろうか? 侏儒国から東南の方向に、船で行くと 1 年かかるところにある裸国や黒歯国の場所も面白い。そこまで長旅をしてたどり着く可能性のある土地は、南アメリカ大陸である。してみると、倭人は南アメリカ大陸に関する知識を持っていたことになる。謎は尽きない。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」

    景初二年(238年)六月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。太守の劉夏は官吏を遣わし、遣使を率いて洛陽に詣でた。その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を大切に思う。今、汝を親魏倭王と為し、金印紫綬を授ける。包装して帯方太守に付託して、汝に授けさせるものとする。同族の人々を安んじいたわり、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中よく勤めた。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮け、引見して慰労を賜い、遣わして還す。今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを汝の貢献の値として贈答する。また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して授けるので、難升米、牛利が帰還したら目録を受けとるがよい。(これらの品々を)すべて汝が国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである」

    さて、有名な卑弥呼の遣使を説明した段だ。まず景初二年が景初三年の誤りであるのはこれは古来より言われている通りだと思う。いくらかの有名な司馬仲達といえど、公孫淵を切って朝鮮を平定した後、過去に遡って帯方郡を置いたとは考えられない。何が何でも原典に誤りなしと拘るのも問題だろう。さて、朝貢において、奴隷の他に班布を二匹二丈献上している。班布は一組の絹布地のことで、長さ 240 m × 幅 50 ㎝(二匹=四反=八丈+二丈=合計十丈、一丈は魏尺では約 24m、幅は二尺二寸=約 50 ㎝)となる。あまり豪華とは言えない。これに対して下賜品として金印と夥しい絹織物、銅鏡百枚その他が卑弥呼に授けられている。絳とは「赤い」の意味です。金八両って魏の頃は、113g くらいですから、微妙な量です。:) もちろん遣使二人で持って帰ることができる量ではないので、まず目録を遣使に授けたわけである。絹の量が莫大だが、これは献上品が絹であったので、「本場物」を褒美として授けたものと思われる。ということは、弥生時代の遺跡があり、絹が数多く出るところかつ、製の銅鏡が出るところ、が邪馬壹国のあったところになる。一時期、三角縁神獣鏡がこの銅鏡ではないかと言われていたが、後に日本製であることが指摘され、今のところ卑弥呼が下賜されたものであることが間違いないと判断できる銅鏡は出てきていない。

    正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。

    正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。同四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗ら一同は率善中郎将の印綬を拝受した。同六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して授けさせた。同八年(247年)、帯方郡太守の王頎が、洛陽の官府に到着した。倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元から不和だった。倭は載斯、烏越らを派遣して、帯方郡に詣でて戦争の状況を説明した。帯方郡は。長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらして、難升米に授けさせ、檄を作って(戦いを止めるように)告諭した。

    正治元年になってから、景初三年の遣使の折に目録を渡した下賜品を携えて、帯方郡から使者が倭にやってきたことを示している段。卑彌弓呼はヒミヒコと読むのだろうか。ヒミコといいヒミヒコといい、名前と言うより何かの称号のように思える。檄は檄文の檄。お触れのことだ。

    卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

    卑彌呼が死ぬと、大きな墓を作った。直径は百歩あまりで、殉葬した奴婢は百人あまり。改めて男の王を立てたが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人が殺された。元のように(卑弥呼を立てた時のように)卑彌呼の宗女「壹與」を立てた。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄を以てして壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けた。遣使は臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠(白くて球形の璧のことか?)五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。

    卑弥呼死後のことになる。男王を立てると国が乱れ、女王を頂くと国が治まるというのは、女系制の感じがしないのでもないのだが、どうだろう。壹與が卑弥呼の宗族であったから倭の国々の有力者も納得したとすると、そうかなと思い、しかし中には男もいただろうがなぜそれは対象にならなかったのか、あるいは立てられた男王というのがそうだったのか、想念は尽きない。いずれにせよ、卑弥呼が王に立てられた際も卑弥呼の死後も戦争が起きたということは、弥生時代は戦争の時代であったと言いうるところであろう。卑弥呼在位中にも戦争があったと書かれていることから、その平和も極めて緊張したものであったに違いない。

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