• 日本の古代史を考える—④魏志倭人伝諸問題

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    魏志倭人伝』に登場する「」國が日本のことであるのは周知であるが、古来その仮定を前提にすると、種々の問題が生じることが明らかになっている。

    Ⅰ. 「狗邪韓國」はどこか?

    帯方郡から狗邪韓國まで海を渡っていないことは、その直後に「始度一海」とあるので明らかである。故に狗邪韓國は朝鮮半島にあると推定するのが本来であるが、距離が七千余里あるのが問題だ。知られている限りでは「」の頃の里は、433.8 m なので、七千里というと、3,000 ㎞ を越える大距離になる。直線距離ならカムチャッカ半島の先っちょか、ベトナムかというくらいの距離だ。近畿か九州か以前に、日本を素通りしてしまう。日本の大名行列を参考に、一日当たり 35 ㎞ 進んだとしても、87 日かかる。かかりすぎだ。つまり、従来説は初っぱなから破綻しているのである。無論、私にもわからない。

    Ⅱ. 「狗邪韓國」と「末盧國」の間は定期便とも呼ぶべき航路が開かれていたのではないか。

    これは「③魏志倭人伝」の 6月3日付けの追記でも書いたが、対馬國と一大國の人たちは、食料を自給できないので「乖船南北市糴」とある。少し脇道にそれるが、これを物々交換だと思っている人が多いが、「」から冊封を受けた国に貨幣が存在しないと想定することがむしろ滑稽である。大体「市」へ行って何と交換に食料を得るのだ。陳寿が「市」とだけ書いて少しも怪しまないのだから、中華における「市」と同じものと考えるのが当たり前である。閑話休題。「市」は常設か、もしくは定期的に立つものであるから、食料が足りなくなりそうだ→それ市へ行くから船を出せ!という話があるわけもない。使者や通訳が「倭」と「帯方郡」、「倭」と「諸韓國」の間を往来するのであるから、交通路が整備されていたと見なすのが当然ではないか? 逆に交通路が整備されていたから、狗邪韓國まで、難破の恐れのない=下賜品をなくすことがない陸路、河川行を取ったのではないか。同様に「狗邪韓國」⇔「対馬國」⇔「一大國」⇔「末盧國」で交通路ができていた=定期便が出ていたから、既述のようなルートをたどったと考える方がよほど自然である。強盗の類の難を避けるため海路のはずと主張する人もいるが、それなら「帯方郡」から直接「対馬國」あるいは「末盧國」へ行けば良いので、「狗邪韓國」を経る理由がない。そもそも「」皇帝の勅使には護衛がつくわけで、それは常識だ。恐れ多くも皇帝の下賜品を海の藻屑にしましたなんて事態が起きれば、勅使本人は一緒に海に沈んだかも知れないが、下手すると九族まで誅殺されるわけだから、誰がそんな危険を冒すのだ。当然「倭」の遣使も護衛を引き連れていただろうし、どこの誰が護衛付きの皇帝勅使を狙うというのか。反乱軍が跋扈していたわけでもあるまいし。護衛が付くのはあまりにも当然すぎて陳寿もわざわざ書いてないだけだ。

    Ⅲ. 伊都國はなぜあんなに人口が少ないのか。

    「世有王」の地であり、「郡使往來常所駐」であるのに、家が千戸あまりしかない=人口が、五千〜六千人くらいというのは、少なすぎないか? 古田武彦氏は、今代の伊都国王=卑弥呼であるとして、「奴國」をあわせて実質の領土とされているが、國名が別ということは、王も別なのが普通ではないか? 伊都國王=卑弥呼でも構わない。というより、女王國について、「伊都國」だけ「世有王」と書かれているのは、それが「」の冊封した王だからだと考えるのが自然なので、伊都國王=卑弥呼と言い切ってしまってもよいように思えるが、そうするとますます人口の少なさが気になる。「不彌國」「投馬國」など官名だけ書かれて、王の名前が書かれていない=単なる領域名でいわゆる「国」ではないと主張する人もいるが、それだと卑弥呼即位前に「倭國」が乱れて相攻伐した際の王たち、あるいはその子孫はどこへ行ったのだ? 故にその説は取れない。しかしそうすると「南至邪馬壹國、女王之所都」が全く意味不明となってしまう。解せない。

    Ⅳ. 「伊都國」以降は、「伊都國」を起点に所在が説明されているのではないか。

    この説を採る方は少なくない。私にもそう読める。すると、

    • 「伊都國」から東南へ百里のところに「奴國」がある。戸数は、二万戸あまり。
    • 「伊都國」から東へ百里のところに「不彌國」がある。戸数は、千戸あまり。
    • 「伊都國」から南へ水行二十日のところに「投馬國」がある。戸数は、五万戸くらいか?
    • 「伊都國」の南に接して「邪馬壹國」がある。戸数は、七万戸あまり。

    ということになる。

    Ⅴ.「不可得詳」以降に書かれている国々は、単なる列挙ではないか。

    これも採る方が少なくない説である。「次」を列挙に使うのは日本語と同じだと思う。

    Ⅵ.「狗奴國」は「邪馬壹國」と境を接しているのでは?

    Ⅴ. から自然に導き出される結論である。「其南有狗奴國」の「其」は「邪馬壹國」のことだ。

    Ⅶ.「投馬國」はどこにあるのか?

    この国だけ「水行二十日」と所要日数で書かれている。いくら古代でも二十日もあれば、琉球くらいは充分たどり着く。九州内でこれを説明するのは不可能である。陳寿は当然「」の公式記録を参照して倭人条を書いたのだから、その記録に「水行二十日」とあったのでそう既述したに違いない。「到」ではなく「至」なのは郡使が実際には行かなかったからだという説に私も同意する。倭人の説明で距離のわかるところは距離で、所要日数しかわからないところは所要日数で書いたのだと思う。とすると次の問題が出てくる。

    中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従うと、「投馬國に二十日かかって至った」ではなく「投馬國へは河川を船で航行し(土地土地の調査を含めて)二十日をかけた」となる。それならば、日数は問題でなくなる。(2013年7月20日削除、追記)

    Ⅷ.「里」は実際にはどれくらいの長さだったのか?

    いわゆる「長里」vs「短里」問題である。「」の里が、433.8 m であるのは既に書いた。これが「長里」である。これに対して古田武彦氏は、代に起源を持つ 77 m 相当の短い「里」があったと説く。これが「短里」である。だが、これらの論争の前に、倭人の説明によって距離を記したのなら、当時の倭人が「里」をどれくらいだと考えていたのかが問題になるのではないか。大変残念なことにそれを証明する考古学的な史料は存在しない。古田氏は短里が存在した証拠として「周髀算経」の計算結果を出しておられるが、仮に、代の里が 77 m ほどだったとしたら、それが日本に伝わり、代々使用されてきたと考えてもよい根拠がある。「①漢書地理志」で書いた通り、縄文時代から倭人は西周に朝貢して冊封を受けていたと見なすべきだと書いた。つまり、の時代の倭人が説明に「短里」を用い、それがの朝廷の公式記録に残り、陳寿がそれを引用して書いたのだとしたら、何の矛盾も生じないのである。さすがに陳寿には「倭」の地の距離感など持ってなかっただろうし、史料を校合してもそのように書いてあったのなら、所要日数との差が不審だったではあろうが、やむなくそう記したのだと考える。王朝の公式記録を作成する歴代王朝の史官の、記録に懸ける情熱は日本人には理解しがたいほどである。その正当なることに文字通り命を懸けていたので、これを疑うなどという発想は陳寿にはなかっただろう。これに対して近畿朝廷は、遣唐使で初めて冊封を受けた。なので「記紀」以降には当然「長里」が採用される道理である。この説の肝は、当然代が「短里」であったこと、である。その証明が尽くされないと決着はつかない。

    Ⅸ.「倭」と「日本=ヤマト」はあまり関係がないのではないか?

    それは「男子無大小、皆黥面文身」とある、入れ墨の風習が伝わっている痕跡が、大和朝廷にはないからである。もちろん、最初はあったが、中国からの教化を受けて、それが野蛮な風習と見なされてだんだん廃れていったのだ、という説明も可能だが、それにしては何の記録も残っていないというのが不思議である。むしろ、元々なかったから記録がないというのが本来ではないか。逆に『魏志倭人伝』にその頃大和王権にあったはずの「抜歯」が何も記録されていないことも問題だ。これだけ長々と倭人伝を書いたからには、特徴的な風俗の違いが他に存在すれば、必ず陳寿は書いただろう。それがない、ということ自体が、「倭」と「ヤマト」が関係のない証拠となるのである。

    Ⅹ.結局、「邪馬壹國」はどこにあったのか?

    親魏倭王」の金印が出てこない限り決着はつかないのでは?

    上記以外の問題点については、「③魏志倭人伝」で本文中に書いた。改めて目を通して頂きたい。

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