• 日本の古代史を考える—⑩三国史記(新羅本紀)

      0 comments

    次に『三国史記』の「新羅本紀」を見てみます。え? 高句麗は? というと、「高句麗本紀」には「倭」のことが一言も出てきません。「好太王碑」が現にあり、倭と戦ったことを記しているのですから、現れないということ自体が不自然かつ胡散臭さ満点です。という目で「新羅本紀」を見てみると、卑弥呼が二世紀に新羅に遣使したとか書いてあって、中国の史書と比較検証できない三世紀以前の記事は、まず信用できないと言ってよいでしょう(卑弥呼が生きたのは三世紀。物理的にありえません)。ということで、三世紀以降の記録から倭に関する部分を抜き出してみます。

    (奈解尼師今)十三年夏四月倭人犯境遣伊伐飡利音將兵拒之

    奈解尼師今十三年(西暦210年)夏四月。倭人が国境を侵犯した。伊伐飡利音を遣わし、將兵に防がせた。

    倭の侵略からスタートです。以降読んで頂くとわかりますが、新羅は一貫して倭の侵略を受ける立場として書かれており、新羅が自ら出撃して倭を討ったという話はありません。三世紀、四世紀といえば、『魏志倭人伝』に出てくる「狗邪韓國」が朝鮮半島南岸にありましたし、後には「任那」と呼ばれる倭の領土もありました。当然侵攻したでしょうが、そんなことは「仁慈」の王たる新羅王がしてはならないことなので、書かなかったのです。それは高句麗百済に対しても同じで、『三国史記』が「新羅寄り」と言われる所以でもあります。念頭に置いて頂きたいのは、「倭」が「百済」とは同盟し、ほとんどその運命を共にするくらいに固く結びついていたのに対して、「新羅」とは長い間相攻伐する仇敵であったという事実です。そのうち、新羅が倭を侵攻した場合は書かれず、倭が新羅を攻めた場合だけが、「新羅本紀」に記載されていると見なしてよいでしょう。

    (助賁尼師今)三年夏四月倭人猝至圍金城王親出戰賊潰走遣輕騎追撃之殺獲一千餘級

    助賁尼師今三年(西暦232年)夏四月、倭人が突然金城を包囲した。王が親戦し、倭の賊軍は敗れて逃げた。輕騎を遣わしてこれを追撃させ、一千あまりを殺して首級を得た。

    ここもそうですが、倭は攻めてきても何も得るところなく虚しく帰るか、散々に打ち負かされて逃げ帰ることがほとんどなのです。偶に捕虜を連れ帰りますが。そういう場合もあったということならともかく、ほとんどそう書かれているのは文飾があることを示しています。というか、そこまで負け続けたら、いかに剽悍な倭でも半島進出を諦めるというものです。百済とは同盟してますし。実際は何世紀も戦い続けたのですから、事実は一進一退だったのでしょう。

    (沾解尼師今)三年夏四月倭人殺舒弗邯于老

    沾解尼師今三年(西暦249年)夏四月、倭人が舒弗邯、于老を殺す

    この于老に関する説話は後世の作り話のようですが、軍の将軍が敵に殺されたとは即ち敗北したということです。それを認めたくない人が話をこじつけたのでしょう。

    (儒禮尼師今)四年夏四月倭人襲一禮部縱火燒之虜人一千而去

    儒禮尼師今四年(西暦250年)夏四月、倭人が一禮部を襲い、火を放ってこれを焼いた。捕虜を千人連れ去られた。

    (儒禮尼師今)六年 夏五月聞倭兵至理舟楫繕甲兵

    儒禮尼師今 六年(西暦252年)、倭兵が攻めてくるという情報が入り、船を修理し、鎧と武器の修理をした。

    これを見ると、新羅も余裕綽々で倭の相手をしていたわけではないことがわかります。実際はかなりの脅威だったのではないでしょうか。

    (儒禮尼師今)九年夏六月倭兵攻陷沙道城命一吉大谷領兵救完之

    儒禮尼師今九年(西暦255年)夏六月、倭の軍が沙道城を攻め落とした。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。

    何が倭を新羅に駆り立てたのでしょう。単に屈服しないという理由でしょうか。あるいは何か渡来人/帰化人が絡むのでしょうか。

    (儒禮尼師今)十一年夏倭兵來攻長峯城不克

    儒禮尼師今十一年(西暦256年)年、倭の軍隊が来て長峯城を攻めたが勝てなかった。

    前年と違い、おそらくは守りを固めていたのでしょう。今度の城は落ちませんでした。勝てなくてどうしたかが書いてありません。ただ単に退却したのでしょうか。それこそあり得ないと思うのですが。

    (儒禮尼師今)十二年春王謂臣下曰倭人屢犯我城邑百姓不得安居吾欲與百濟謀一時浮海入撃其國如何舒弗邯弘權對曰吾人不習水戰冒險遠征恐有不測之危況百濟多詐常有呑我國之心亦恐難與同謀王曰善

    儒禮尼師今十二年(西暦257年)春、王が臣下に申して曰く「倭人がしばしば我が国の城邑を侵犯して百姓は安心して暮らすことができない。百済と謀り海を渡って倭国へ反撃を行いたい。どうだろうか」舒弗邯、弘權答えて曰く「われわれは水戦に長けておりません。遠征してもおそらく不測の危難が予想されます。まして百済は詐りが多く、その心は常に我が国を併呑しようとするところにあります。共に謀ることは難しいと思います」王曰く「わかった」

    思いとどまったから書いてあるのでしょう。思いとどまらなかった場合もあったはずですが、委細不明です。

    (基臨尼師今)三年春正月與倭國交聘

    基臨尼師今三年(西暦300年)春正月、倭国と使者を派遣しあった。

    和平交渉でしょうか。この後に出てくる倭との交渉が婚儀に関することなので、おそらく和平が結ばれたのだと思われます。

    (訖解尼師今)三年春三月倭國王遣使爲子求婚以阿急飡利女送之

    訖解尼師今三年(西暦312年)春三月、倭国の国王が使いを遣わして、息子のために求婚してきたので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。

    婚儀を結ぶことは、同族に擬制することを意味し、同盟が成立したか、もしくは相互不可侵の約束ができたことを示します。しかし六等官の娘って…日本で言えば、受領の娘を中華皇帝の皇子に嫁がせるようなもので、よく倭が承知したなと思います。あるいは詐りがあったのかも知れません。

    (訖解尼師今)三十五年春二月倭國遣使請婚辭以女既出嫁

    訖解尼師今三十五年(西暦344年)春二月、倭国が使いを遣わし結婚を申し出たが、娘は既に嫁いだと言って断った。

    ところが時間が経つと、情勢も変わります。「女既出嫁」とは全く理由になっていません。30年前の婚儀では、阿飡(六等官)の娘を出しているのです。要するに新羅は、同盟もしくは相互不可侵の約束を反故にすることを宣言したのです。

    (訖解尼師今三十六年)二月倭王移書絶交

    訖解尼師今三十六年(西暦345年)二月、倭王が文書を送ってきて断交した。

    律儀にも、倭は文書でもって断交を通告しています。実質的には前年の婚儀拒否をもって互いの通交は止まっていたでしょう。

    (訖解尼師今)三十七年倭兵猝至風島抄掠邊戸又進圍金城急攻王欲出兵相戰伊伐康世曰賊遠至其鋒不可當不若緩之待其師老王然之閉門不出賊食盡將退命康世率勁騎追撃走之

    訖解尼師今三十七年(西暦346年)、倭の軍が突然風島に侵攻し、その住民を掠奪し、そこから進軍して金城を囲んで急激に攻めた。王は出兵して戦おうとしたが、伊伐康世曰く「倭の賊軍は遠方から来たり、その勢いに当たるべきではありません。その勢いが余話なり軍が疲れるのを待つべきです」王は尤もだと思い、城門を閉じて出撃しなかった。倭の賊軍は食糧が尽き、そのため撤退した。康世に命じて、勁騎を率いさせ、倭の賊軍を追撃し敗走させた。

    突然も何も、断交したら戦争になるのは洋の東西を問わず、古今当たり前のことです。この「わざとらしさ」が「儒教主義」という奴です。孔子が聞いたら嘆くでしょう。退却する軍を叩くのは兵法ですが、首都を囲まれて出撃できないというのは、倭が大軍を繰り出したからでしょう。大軍と言っても後世のように何十万、何百万とはいきませんから、城を包囲しても落とせなかったのだと思われます。しかし倭軍を追撃して敗走させたのではなく、倭軍が勝手に退却していったのを見送っただけと思うのは私だけでしょうか。退却する大軍を追撃して勝ちを拾ったのは、高祖劉邦くらいなものだと思うのですが。

    (奈勿尼師今)九年夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵列立吐含山下伏勇士一千於斧東原倭人恃衆直進伏發撃其不意倭人大敗走追撃殺之幾盡

    奈勿尼師今九年(西暦364年)夏四月、倭の大軍が押し寄せてきた。王はこれを聞き、とても敵わないと恐れた。草で人形を数千作らせ、衣を着せて兵に持たせ、吐含山の麓に並べ立てさせた。勇士一千を斧東原に伏せた。倭人は衆を恃んでまっすぐ進んできた。伏兵を発しその不意を突いて攻撃した。倭人は大敗北を喫し逃走したが追撃してこれを殺し全滅近くまで追い込んだ。

    えー?衆を恃むほどの大軍を千人で待ち伏せて殺し尽くしたー?論理矛盾があるんですけどー(笑)。

    (奈勿尼師今)十一年 春三月 百濟人來聘

    奈勿尼師今十一年(西暦366年)春三月、百済人が聘問にやってきた。

    倭と直接は関係ありませんが、この時、第一次羅済同盟が結ばれ、四世紀末まで継続します。そのため、百済新羅の間の交戦はなくなります。

    (奈勿尼師今)三十八年夏五月倭人來圍金城五日不解將士皆請出戰王曰今賊棄舟深入在於死地鋒不可當乃閉城門賊無功而退王先遣勇騎二百遮其歸路又遣歩卒一千追於獨山夾撃大敗之殺獲甚衆

    奈勿尼師今三十八年(西暦393年)夏五月、倭人が攻めてきて金城を囲み、五日も包囲を解かなかった。将士はみな出撃して戦うことを願ったが、王曰く「今倭の賊軍は船を棄て深く我が地に入り込んでいて、死地にいる。鉾先も当たらないだろう」城門を閉じて守った。倭の賊軍は得るところなく退却した。王は勇猛な騎兵を二百先遣し、その退却路を遮り、また歩兵一千を遣わして獨山に追い込み、挟撃してこれを大敗させた。殺して首を取った数が非常に多かった。

    また首都を包囲されています。これに対して出撃は不可とみて籠城したのはよいのですが、そんな大軍を騎兵二百、歩兵千で大敗させたとか、理屈にあいません。「儒教主義」(笑) まあそれはともかく、「好太王碑」によると、この三年後の西暦396年、高句麗百済を下します。この時点で、第一次羅済同盟は解消となったようです。或いは解消は、西暦400年のことかも知れません。

    (實聖尼師今)元年三月與倭國通好以奈勿王子未斯欣爲質

    實聖尼師今元年(西暦402年)三月、倭国と通好し、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。

    ここに至り、再び倭と修好しています。実は、西暦393年と西暦402年の間にあった重大な事件が新羅本紀には記載されていません。それは「好太王碑」に書かれています。「十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵」つまり、「永楽十年(西暦400年)庚子、歩騎五万を派遣して新羅を救わせた。男居城から新羅城に至るまで倭軍が充満している中を官兵で攻撃し、倭の賊軍を退けた。倭軍の背後を急追し、任那加羅の從拔城へ至った。城はすぐさま降伏し、新羅人の国境守備兵を保護した」とある部分です。新羅高句麗に頭を下げて助けて貰っているので書きたくなかったんでしょうね。石碑が残されているなんて思いもよらなかったんでしょう。高句麗は当然、新羅を救援すると引き上げてしまいます。すると、また倭の脅威に直面せざるを得ないので、和平を結ぶことにしたのではないでしょうか。新羅にとって、対等ではなく、屈辱的な和平であったのでしょう。

    (實聖尼師今)四年夏四月倭兵來攻明活城不克而歸王率騎兵要之獨山之南再戰破之殺獲三百餘級

    實聖尼師今四年(西暦405年)夏四月、倭の軍隊が来襲し、明活城を攻めたが、勝てないまま退却した。王は騎兵を率いて獨山の南で待ち伏せし、再戦して倭軍を破った。殺して首を取った数は三百あまりだった。

    はて、和平を結んだはずの倭がまた攻めてきて、しかも迎え撃っています。人質の王子はどうなったー!?

    (實聖尼師今)六年春三月倭人侵東邊夏六月又侵南邊奪掠一百人

    實聖尼師今六年(西暦407年)春三月、倭人が東の海岸から侵入してきた。夏六月にまた南の国境地帯も侵犯して百人を捕らえて連れ去った。

    二年続けて侵攻があったようです。和平どころではありません。

    (實聖尼師今)七年春二月王聞倭人於對馬島置營貯以兵革資粮以謀襲我我欲先其未發揀精兵撃破兵儲舒弗邯未斯品曰臣聞兵凶器戰危事況渉巨浸以伐人萬一失利則悔不可追不若依嶮設關來則禦之使不得侵猾便則出而禽之此所謂致人而不致於人策之上也王從之

    實聖尼師今七年(西暦408年)春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、武器、鎧甲、軍資、食料を貯蔵して、我が国を襲撃する計画を進めているという情報を入手した。兵が出発する前に先んじて、精兵を選んで兵を破りその蓄えを奪いたいと思った。舒弗邯の未斯品曰く「私は、兵は不吉な道具であり、戦は危険な事だと聞いております。況んや大海を渡って他国を征伐しようというのです。万一勝てなければ、後悔しても追いつきません。要害堅固なところを守り、関所を設けることに及びません。来たれば即ちこれを防ぎ、なかなか攻め込めないようにして、機会があれば出撃してこれを虜にする。これが所謂人に致し而して人をして致らせぬところというものでありまして、上策であります」王はこれに従った。

    さてここで、三国時代の朝鮮半島地図をウィキペディアでご覧下さい。五世紀終わり頃で高句麗が最も盛んであった時代です。新羅の領土は百済の半分ほどしかありません。つまり三国の中で最も弱小だったわけです。逆に倭はまさにそれを行っているわけで、力関係でいえば、倭の国力の方が上であったことが分かります。小国が大国の隙を突くようなマネをしても必ず痛い目に遭う。それより防御を固めるのが先だと王に諭しているわけです。

    (實聖尼師今)十四年八月與倭人戰於風島克之

    實聖尼師今十四年(西暦415年)八月、倭人と風島で戦い、勝った。

    またまた懲りずに倭が出兵してきます。多分新羅が勝った戦いだけ書いてるんでしょうね。だからそう見える。戦争とはそういうものではありません。

    (訥祇麻立干)二年春正月親謁始祖廟王弟卜好自高句麗與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還

    訥祇麻立干二年(西暦418年)春正月祖廟で親閲を始める。王の弟、卜好が高句麗より堤上奈麻と帰り来る。秋、王の弟、未斯欣、倭国より逃げ帰る。

    實聖尼師今元年(西暦402年)に人質として倭に渡った未斯欣が逃げて帰ってきました。というか、實聖尼師今四年(西暦405年)には逃げ出していてどこぞに隠れていたのではないでしょうか。高句麗とか。人質が勝手に逃げたから「倭」が實聖尼師今四年(西暦405年)に攻めてきたと考えると符合します。

    (訥祇麻立干)十五年夏四月倭兵來侵東邊圍明活城無功而退

    訥祇麻立干十五年(西暦431年)夏四月。倭の兵が東の海岸地帯を侵犯し、明活城を囲んだ。何も得られず退却した。

    倭は何をしたかったのでしょうか。城を囲んではただ退却する。あるいは、それは次の百済の行動を応援するためだったのかも知れません。

    (訥祇麻立干)十七年秋七月百濟遣使請和從之
    (訥祇麻立干)十八年春二月百濟王送良馬二匹秋九月又送白鷹冬十月王以黄金明珠報聘百濟

    訥祇麻立干十七年(西暦433年)秋七月、百済が使いを遣わせて、和平を求めてきた。これに従った。
    訥祇麻立干十八年(西暦434年)春二月、百済王が良馬二頭を送ってきた。秋九月、また百済王が白鷹を送ってきた。冬十月王は、黄金・明珠を百済の聘物のお返しにした。

    この時成、第二次羅済同盟が成立しています。この同盟は、西暦553年に新羅が漢江流域を奪うまで続きました。大国、高句麗に対抗するために手を組んだのです。従って以降の倭の軍事行動は、倭と百済の同盟に基づく行動ではないことがわかります。

    (訥祇麻立干)二十四年倭人侵南邊掠取生口而去夏六月又侵東邊

    訥祇麻立干二十四年(西暦440年)、倭人が南の国境地帯を侵犯した。奴隷を奪い取って去った。夏六月、倭人がまた東の海岸地帯を侵犯した。

    相変わらず倭は新羅にちょっかいをかけていますが…示し合わせた訳ではないでしょうが、これ以降、倭と高句麗が交互に新羅を攻めるようになります(高句麗百済も攻めましたが)。

    (訥祇麻立干)二十八年夏四月倭兵圍金城十日糧盡乃歸王欲出兵追之左右曰兵家之説曰窮寇勿追王其舍之不聽率數千餘騎追及於獨山之東合戰爲賊所敗將士死者過半王蒼黄棄馬上山賊圍之數重忽昏霧不辨咫尺賊謂有陰助收兵退歸

    訥祇麻立干二十八年(西暦444年)、倭の軍が金城を十日間囲んだ。食料が尽きて帰った。王は兵を出してこれを追撃しようとした。左右の者曰く「軍事の専門家の説に拠れば、追い詰められた賊を追っ手はならない」と。王はこれを捨て置いて聞き入れなかった。数千の騎兵を率いて追撃して獨山の東に及び、合戦して賊に敗れた。将兵は過半数が死んだ。王は慌てふためいて馬を棄て山に登った。賊がこれを幾重にも囲んだ。忽ち霧が出てあたりが暗くなり、一寸先も見分けが付かなくなった。賊は「これぞ陰助だ」と言って、兵を収めて撤退した。

    「新羅本紀」の中で唯一ではないでしょうか、王が倭軍に追い詰められた話とは。

    (慈悲麻立干)二年夏四月倭人以兵船百餘艘襲東邊進圍月城四面矢石如雨王城守賊將退出兵撃敗之追北至海口賊溺死者過半

    慈悲麻立干二年(西暦459年)夏四月、倭人が兵船百艘あまりで東の海岸を襲撃して進軍し、月城を囲んで、四方八方から矢や石を雨あられと打ち込んだ。王城守は賊将を退け、出兵してこれは撃破し、北に追撃して海口まで行った。賊軍で溺死する者が過半数に達した。

    帰化人/渡来人の祖先の多くは朝鮮系だという学者がいますが、百済と同盟する一方でこれほど執拗に倭が新羅に出兵するのは、帰化人/渡来人の影響がないからではないでしょうか。影響力が大きかったらあたら祖国の地を蹂躙するようなことは止めるでしょう。百済新羅を結んだのならなおさらです。

    (慈悲麻立干)五年夏五月倭人襲破活開城虜人一千而去

    慈悲麻立干五年(西暦462年)夏五月、倭人が活開城を撃破し、捕虜を千人連れ去った。

    (慈悲麻立干)六年春二月倭人侵歃良城不克而去王命伐智德智領兵伏候於路要撃大敗之王以倭人屢侵疆埸縁邊築二城

    慈悲麻立干六年(西暦463年)春二月、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。王は伐智・德智に討伐を命じた。領兵が路に隠れて待ち伏せし、倭軍を要撃して大敗させた。王は以後、倭人が頻繁に国境、海岸を侵犯するので、国境、海岸に城を二つ築いた。

    (慈悲麻立干)十九年夏六月倭人侵東邊王命將軍德智撃敗之殺虜二百餘人

    慈悲麻立干十九年(西暦476年)夏六月、倭人が東部の海岸から侵入してきた。王は将軍德智に命じてこれを撃敗させた。殺したり捕虜にした者が二百人あまりいた。

    (慈悲麻立干)二十年夏五月倭人擧兵五道來侵竟無功而還

    慈悲麻立干二十年(西暦477年)夏五月、倭人が兵を挙げ、五道に侵入したが、何も得るところがなく退却した。

    勝つこともあり負けることもあるから執拗に出兵してくるのだと普通は思いつくのですが、「儒教主義」者には通用しないようです。執拗に倭の負け戦だけを書き連ねます。

    (炤知麻立干)四年五月倭人侵邊
    (炤知麻立干)七年五月百濟來聘
    (炤知麻立干)八年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干四年(西暦482年)五月、倭人が国境を侵犯した。
    炤知麻立干七年(西暦485年)五月、百済が聘問に来た。
    炤知麻立干八年(西暦486年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    百済が別に面従腹背しているわけではないことが聘問の事実によって裏書きされます。しかしその前後で倭は出兵しているわけですから、特に斡旋もしなかったようです。

    (炤知麻立干)十九年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干十九年(西暦497年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    (炤知麻立干)二十二年 春三月 倭人攻陷長峰鎭

    炤知麻立干二十二年(西暦500年)春三月、倭人が長峰鎭を攻め落とした。

    この記載を最後に、有名な「白村江の戦い」まで、倭のことは出てこなくなります。何があったのでしょう。西暦527年に「磐井の乱」があって外征どころではなかったのかも知れません。西暦589年にはが建国されます。『隋書』東夷伝俀國条には、「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」「新羅百済はみな倭が大国であり、珍物が多いとして、これを敬仰し、常に通使が往来している」とあります。つまり、遂に新羅は倭の出兵に対抗することに困難を覚え、修好したと考えられます。だから倭が攻めてこなくなったのでしょう。もちろん、新羅はそんなことをしたくなかったのかも知れません。代になってから新羅に接近し、は、高句麗を滅ぼした後、退廃していた百済に目を付けました。これが百済滅亡とそれに続く白村江の戦いを引き起こしたのです。朝鮮半島は新羅によって統一され、倭は半島での足がかりを失いました。隠忍自重、臥薪嘗胆の年月であったのでしょう。

    さてみなさん、『宋書』に記載された倭王武の上表文を憶えておられるでしょうか。そう「渡平海北九十五國」です。「好太王碑」だけではなく、朝鮮の歴史書によっても、それが誇張ではなく、四世紀から五世紀にかけて、頻々と出兵を繰り返した事実があったことが裏書きされました。「東征毛人五十國西服衆夷六十六國」も当然その実があって書かれたのでしょう。その結果が授けられた「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という称号です。倭および朝鮮半島を配下に治める覇者に相応しいものではないでしょうか。ところで、この出兵を支えたのはどういった人々であったか。遙々近畿地方から軍勢を集めて送り込んだのでしょうか。それこそまさかです。北九州から肥後にかけて兵を集め、軍勢を東西北へ繰り出したのです。そんなことが一地方豪族に可能でしょうか。遠い大和の地にある朝廷の命令がいかほどの影響力があるでしょう。まぎれもなく、そこに王朝があり、国の中心だったからこそ兵を集めることができ、頻繁に出兵することができたのです。九州に古墳が登場するのは、大和・河内より随分遅くなってからですが、これだけ頻繁に出兵していれば、古墳なんぞ作る余裕があるはずもありません。

    それに、最終的に大和朝廷が全国で唯一の王朝となるのですが、頑張って律令を施行したものの、年を追う毎に地方が管理できなくなり、平安時代には全くといってよいほど国司に任せきりになってしまいます。「良二千石」という良吏を表す言葉があるのですが、そんな言葉を使って賞賛しなければならないほど綱紀がゆるんでいたこともわかっています。つまり、大和朝廷には全国をまとめ上げ、末端まで管理する実力など初めからなかったのです。空白の四世紀と言われる時代を含めその前後の頃など、なおさらそれがありえないことだということは、歴史書を丹念に見ればわかる類のことです。なぜ歴史学者という生き物は頑迷に王朝は唯一近畿地方だけと主張するのでしょうか。新井白石が何と言おうが、本居宣長が何を言おうが、科学者は事実を探求すべき職務であるのに、先生の仰る通りとしか言えないのであれば、廃業してしまえばよろしい。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

    Write a comment

    コメントを投稿するにはログインしてください。
Top