• 日本の古代史を考える—⑪隋書東夷傳俀国条

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    やっとたどり着いた感があります。『隋書』東夷傳俀国条です。『隋書』は、「」の太宗の勅により魏徴長孫無忌らが撰進しました。書かれているのは「」の時代です。西暦581年から西暦618年に当たります。かの有名な「日出ずる処の天子」という表現はおなじみではないでしょうか。『隋書』からは、七世紀初頭の日本がどのような様子であったのかが覗えます。

    俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王

    俀国は百済新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。

    あれ、「倭」国じゃないね? と思いますよね。私もそう思います。以前も書いたと思いますが、この頃、倭は百済新羅を従え、これらと平和な関係にあり、国内も平穏でした。ですので、それまでの倭という称号に大をつけて「大倭」(「たいゐ」、または「たゐ」)と自称していたのでしょう。ところが、中華からすると、国の名前に「大」を冠してよいのは、中華帝国だけですから、蛮夷の分際で生意気な!ということで読みが同じ漢字の「俀」にしたのだと思われます。それにこの頃には「倭」は「わ」と読むようになっていたので、遣使が自称する国名に一致しなくなっていたのだということも併せて言いうると思います。ところで、『後漢書』の凡ミスがここにも引き継がれています。「使」を「使」と間違うから諸国一斉に朝貢していたことがあるかのような話に…范曄の馬鹿!:D

    夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

    夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國なり。

    ここで重要な指摘が出てきます。「夷人不知里數」ということは、例の『魏志倭人伝』の旅程も倭人からの聞き取りですから、「日数」であったものを後から「里数」に換算したものであることがわかります。なにしろ「山島」に拠ると言われた国ですから、同じ距離を行くのでも平野が続く中華と違って、何倍もかかったことでしょう。次に「都於邪靡堆」とある部分です。「邪」は「や、じゃ」、「靡」は「みぇ、みゃ」が一番近い発音でしょうか。「堆」は「とぅぁい」となります。これに対して「馬」は「ま」、「臺」は「だい」です。つまり今は「やみゃとぅぁい」と言うがこれは『魏志倭人伝』に出てくる「やまたい」と同じだよと言ってます。しかし少々発音が異なるとは言え、まあ少しなまったかなという程度です。本来は「邪馬壹」=「やまゐ」と書かれていたのですから、昔の「やまゐ」が今の「やみゃとぅぁい」だと言っていることになります。『魏志倭人伝』に現れた「邪馬壹國」と「俀國」は同じ国であることがここで保証されたわけです。さてその地勢は「東高西下」ですから、東が山がちで西が平野というところを探せば俀國の場所が比定できそうな感じです。でも実はこれを真剣に検討すると、奈良盆地すなわち大和は比定の対象から外れてしまうのです。大阪平野が東にありますから、「東高西下」になりません。はてさて困ったものですね(笑)。南北三ヶ月、西に五ヶ月で海に出るというのも謎です。その南北や西の果てがどこを指すのかわかるように書いていてくれれば…と詮無いことを考えたりします。

    古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國

    古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。

    ここは従来の正史を受け継いで書かれています。ここでも『後漢書』が「会稽東の東」などという凡ミスを犯すから、延々引き継がれています。何と罪深い…

    桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通

    後漢の)桓帝靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。からに至るまで代々通交してきた。

    ここも『後漢書』が「桓靈閒倭國大亂」なんて阿呆なことを書いたから、それがまた引き継がれています。こうして単なる錯誤が定説になっていくわけですね。

    「法甚嚴」とありますが、「魏志倭人伝」では「其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族」とあるので、今ことさら厳しくなったというわけでもなさそうです。また、「自至于代」とあるので、少なくとも「」の時代から「」「」を経て「」の時代まで朝貢してきた国はずっと同じである。ということがここでもわかります。

    開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗

    開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ)、使いを遣わせて宮城に詣でた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。

    最初の遣隋使です。さて、いよいよ問題の核心に迫ってきました。従来「多利思比孤」は「聖徳太子」に比定されてきたのですが、「聖徳太子」は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいます。後からまた出てきますが、答礼使の裴世清が実際にこの王に会っていますから、この「多利思比孤」は実際に王であったと考えられるので、聖徳太子説は皇国史観患者の妄説であったことが明らかになります。それより重要なのは、姓があることです。「阿毎」は「天」のことではないかと思うのですが、天皇および皇族には古来姓がありません。無論、聖徳太子にも姓はありません。この点で、この王を天皇や皇族に擬するのは不可能だとなります。しかし号するところは「阿輩雞彌」で、これは「大王=オオキミ」ではないかと考えられています。私もこの点は賛成です。とすると、この王は誰だという問いに帰ります。

    使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之

    使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。

    高祖とは文帝楊堅を指します。有名な煬帝のお父さんですね。ここで語られている内容は明らかに「複式統治」を表しています。『魏志倭人伝』で「有男弟佐治國」とあったのと同様の統治形態ではないでしょうか。しかし「記紀」を読めば明らかなように、近畿天皇王朝が複式統治を行ったという記録はありません。

    王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利

    王の妻は雞彌(けいみ、きえいみえ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふっり、りかみえたふぃぁっり)と呼ぶ。

    王の妻は「キミ」と呼ばれたのでしょう。太子は「リカミタフリ」なんでしょうが、どういう意味なのかちょっとわからないですね。ここで、俀王「多利思比孤」には妻がいたこと、さらに後宮には女性が六百から七百人もいたことがわかります。ということは、「多利思比孤」が「推古女帝」でないことも明らかです。あるいはその夫の「敏達天皇」でしょうか。しかしそうなると、「推古天皇」を基準とした年代比定が全部誤りになってしまい、日本史の辻褄があわなくなってしまいます。痛し痒しですね。大胆な方は「多利思比孤」を「蘇我馬子」だと主張しています。が、いかな馬子といえど、オオキミを僭称して許されるとは考えられません。実は馬子がこの時天皇だったのだ。という主張の方がよほどすっきりします。

    内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼

    内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。

    はて、この十二の等級と称号はどこかで見たような…という方は日本史に詳しい方ですね。「聖徳太子」が制定したと言われている「冠位十二階」と同じです。ただし、一部位階の順番が異なります。この「冠位十二階」は、実際は「蘇我馬子」が大きく関与していたことがわかっています。しかしながら、これが「冠位十二階」を表していると解釈することはできません。なぜなら「冠位十二階」なら位階に応じて冠を授けられるのですが、ここにはそのような記述がないからです。

    其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上

    その国の服飾について、男性は裙襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。

    至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾

    隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。

    これが「冠位十二階」制定のことだとされています。しかしここには、冠の制度を定めたとだけあり、官位に対応していたかどうかはわかりません。冠と言いながら絹で作製されているところを見ると「冠」というより「帽」ですね。注意して頂きたいのは、ここは俀國の使者がの役人に語った内容が綴られている点です。『日本書紀』では「冠位十二階」の制定は西暦604年のこととされていますから、話が合いません。後世の話を編纂者が間違えてここに挿入したのでしょうか。それこそまさかです。使者の話で聞いたから、まさにここに挿入されているのです。むしろ粉飾は『日本書紀』の方でしょう。裙襦は、中国の服そのままではなく、女性の襦裙に似ていたのでそのように書いたのでしょう。

    婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有襈攕竹爲梳

    女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。

    高松塚古墳」の壁画をご覧になった方は多いでしょう。裳とはあの裾を引きずるようなスカート風の衣裳のことです。襈攕とは何でしょう。調べたのですが、わかりませんでした。ご存じの方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いです。

    編草爲薦雜皮爲表縁以文皮

    草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。

    畳も椅子もありませんから、敷物は必須でした。

    有弓矢刀矟弩【矛扁に旁賛】斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦

    弓矢、刀、矟(矛の一種か?)、弩、【矛扁に旁賛】(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。

    この件を読むと私は『宋書』に掲げられた倭王武の上表文を思い起こします。「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」。四世紀から五世紀は、戦争に次ぐ戦争の時代でした。しかし、それも今は昔。百済新羅との仲は良好。国内も大きな乱はなく、平穏無事。このような情勢であるからこそ、「大」の尊称を付けて「大倭」(たいゐ、たゐ)を自称していたと思うのです。

    其王朝會必陳設儀杖奏其國樂

    その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。

    なんとなく、大和朝廷の朝会にはイメージがあわない気がします。異国の風を感じますね。

    戸可十萬

    戸数は十万ばかりある。

    魏志倭人伝』では十七万戸余りだったはずですから、随分減ってます。四世紀から五世紀まで続いた外征のためでしょうか。「磐井の乱」という内乱もありましたし。

    其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛 或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣

    その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。道理の正しくない者は手が爛れるという。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。邪な者はまた手を噛まれるという。

    さて、隋の役人に「法甚嚴」と書かれたその実際が述べられています。穏やかな刑罰がひとつもありません。確かに厳しいです。は開皇の治と呼ばれる時代で、文帝は開皇律令を定め、残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかり易く改めました。それを知るの役人には「前時代的な」厳しい法と思えたのでしょう。木で膝を圧迫するというのは、重い木材を膝の上に積み重ねる拷問で、強弓の弦で首筋を打たれたら気絶くらいはしたでしょう。沸騰した湯の中に素手を入れさせるというのは、実は「盟神探湯」と言って、上古中国にもあって伝えられた由緒正しい正邪判定法だったのです。これは祖霊や神々の前で執り行う神聖な儀式で、湯を前に対決すると邪な心を持つ者は祖霊や神々の威に服して、湯に手を入れる前に自ずから罪を自白するとされたのです。本当に手を入れたらどっちも大火傷ですから祖霊や神々を信仰していない者には無意味な判定法でもあります。の時代にはとっくに廃れていたので、奇妙な風習として取り上げられたのでしょう。

    人頗恬静罕争訟少盗賊

    人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。

    この辺りは『魏志倭人伝』の頃から変わっていませんね。ほっとします。

    樂有五弦琴笛

    楽器には、五弦、琴、笛がある。

    五弦のとあるのはどんな形でしょう。或いは和琴のことでしょうか。現代の我々がと言ってイメージする楽器は、正しくは「」といって本来琴とは別の楽器でした。

    男女多黥臂點面文身没水捕魚

    男女の多くは肩から手首までと顔、体に入れ墨をし、水に潜って魚を捕らえている。

    そして、しっかり入れ墨の風習に触れられています。この「記紀」には書かれていない風習の存在していた地が俀国(倭國)なのです。

    無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字

    文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手し、はじめて文字を有した。

    文字がなければ、代々朝貢していた時の上表文はどうやって書かれたのだ? ということになりますが、これは民間の風俗を記した段落であることに注意して下さい。つまり、それまで民間では、木を刻んだり縄目で意図を伝えていたのが、仏教と共に文字が入ってきて、これが民間に広がったことを教えているのです。

    知卜筮尤信巫覡

    卜筮が知られているのに、巫覡を信じている。

    卜とは亀卜(亀の甲羅を焼いて水を掛けできたひび割れ「兆といいます」で占う)や獣卜(獣骨を使用する以外は、亀卜と同じ)ですが、この頃の中国では廃れていたので、卜筮といえば、もっぱら筮竹を使った占いでした。そういう「合理的な」予知法を知っているにもかかわらず、神下ろしをし、神託を下すという「怪しげで前時代的なまじない師」のことを信じていると不思議がっているのです。

    毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同

    毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。

    好棊博握槊樗蒲之戲

    囲碁、すごろく、さいころの遊戯を好む。

    日本人のばくち好きはこの頃からなんでしょうか。もはや民族性ですね。

    氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少

    気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。

    「氣候温暖」はともかく「草木冬青」は近畿地方では考えられません。これも、「倭」が大和ではないという傍証になります。

    以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭

    小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る

    鵜飼いってもっと最近始まった漁だと思ってました。江戸時代とか。実は、1400年以上も歴史のある漁法だったんですね。

    俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之

    食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。

    高坏などを使って食事をするのは高貴な方々だけのようで、庶民はかしわの葉を食器代わりにしていたようです。箸はまだ入ってきていませんので、手づかみです。

    性質直有雅風女多男少

    性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。

    これも『後漢書』の頓珍漢な誤解が引き継がれているだけだと思いたいのですが、万一事実を表しているとすれば、戦争がない平和な時代ですので、世界でも極端に珍しい男児の間引きが行われていた可能性があります。どちらが事実でしょう。

    婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬

    同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。

    同姓不婚は、中国の風習が移入されたのでしょうか。「婦入夫家」とあるのは嫁入り=嫁取りということですから、嫁取り婚と同姓不婚の風習が導入されていたということになります。「記紀」には一切そういった事実は見えません。逆に妻問婚ばかりの上に、同姓で結婚した事例が豊富に出てきます。謎です。「記紀」の既述を根拠にして「この部分は隋の役人の創作であると主張する人もいます。それはさすがに、記録人種中国人を舐めているとしか言いようがありません。史官は、事実を記録するために命を懸ける人たちです。『後漢書』のような雑な例があるとはいえ、根拠があって書かれたと考えるのが自然です。しかし、とはいえ導入されたとしても、表面上の形式だけだったようです。「男女相悦者即爲婚」=「男女がセックスしたらそれが結婚となる」ですから、中国や室町時代以降の嫁取り婚を考えると、事実を捉え損ねます。「先跨」は「先跨」の誤りだとされていますが、「火跨がり」の風習を現代にも残しているところがあることから、何となくそうであって欲しいという願望に基づいた通説のようにも思えます。

    死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝

    死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。

    昔の喪服は白かったことがわかります。世界共通で喪服というのは白で、黒の日本が特殊なんですけどね。殯とは死者をすぐに埋葬せず、一定期間安置しておいてその前で歌や舞を捧げたり、誄を述べて死者の霊を慰めることです。葬送の儀礼で船を使うという点にも要注意です。「記紀」には見えない例なのです。

    有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭

    阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。

    そして、唐突に阿蘇山が出てきます。なぜでしょう。仮に王朝が近畿天皇王朝であれば、他にも書く山が沢山あるはずです。それに阿蘇富士山とは違い、遠くからでもよく見える山ではありません。あの一帯山並みが続き、むしろ埋もれています。もちろん中国には火山がありませんので、珍しい不可思議なこととして取り上げられたのでしょうが、この頃は富士山だって活火山だったのですから、歴史家の言う通り、近畿天皇王朝が全国を支配していたのなら、使者は富士山のことを述べたでしょうし、隋の役人もそう書くはずです。そうではなく阿蘇山なのは、これが倭王朝と縁の深い、馴染みのある火山だったからとしか説明できません。

    有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也

    如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。

    実際にそういう宝石があったから、俀の使者は隋の役人に語ったのでしょうが、不思議な石があったものです。見てみたいですね。どこかに埋もれていないでしょうか。

    新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來

    新羅百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。

    新羅百済を従え、平和を謳歌している様子が覗えます。「大倭」と自称するのも故なきことではなかったのです。

    大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

    大業三年(西暦607年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があった。今後はこういう書を取り次ぐな」と仰った。

    有名な「日出ずる処の天子」の件です。でもここはその前の「海西菩薩天子」に注目して下さい。「多利思北孤」は仏教を熱心に敬う人だったことが偲ばれます。隋は煬帝の時代に入っています。中華の価値観からすると世に天子は唯一人、皇帝だけです。「不悦」とは激怒したのだと解釈する人もいますが、そこまで怒ったのなら、裴世清を答礼に送ったりしません。煬帝という人は蛮夷に隋の強勢な様を誇示したがった人ですから、これも「東夷」の言うことだとしてむしろ穏便に済ませたのでしょう。あるいは、こんな愚かなことを言う者には王者として諭してやらねばならないとさえ思ったかも知れません。鴻臚卿=外交担当大臣に「取り次ぐな」と命じたのは、二度と国書を受け取るなという意味ではなく、使節を応接する役目の鴻臚卿であるお前が教えて次からは改めさせろということだったのだと思います。

    明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹㠀南望【身扁に旁冉】羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀

    翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴世清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に【身扁に旁冉】羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。

    そのため、翌年答礼使として文林郎の裴世清を俀に派遣します。この記事は裴世清の旅程を表しています。百済の竹島(現在の竹島ではありません)から望めるという【身扁に旁冉】羅國済州島です。この頃は百済の属国でした。「都斯麻國」は対馬、「一支國」は壱岐です。「竹斯國」は現在の筑紫のどのあたりだったのでしょう。博多湾岸にあったのは間違いないようですが。「竹斯國」の東に「秦王國」があったと言います。の遺民が国を建てていたのでしょうか。「疑不能明也」とありますから、裴世清一行にも判断がつかなかったようです。そこから十国余りを経るとまた海岸に出ます。そこがどこか書いておいてくれてもいいのに…ともかく、国名が記されていないということは、ここが既に俀國であることがわかります。

    俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞

    俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。

    俀王が「小德」の阿輩臺を遣わしたのは、どこでしょう。普通に考えると「竹斯國」です。未知の国を案内を付けずに陸行することは考えられません。ましてや相手は国賓です。すると十日後には都の郊外に出迎えをよこしているのですから、俀國は「竹斯國」からそんなに遠いところではないことがわかります。高官(大徳のようなトップは滅多に下されない名誉官だったので実質トップ官僚だと私は考えています)を派遣して歓迎し、郊外にも上から七番目という格の低い人ではありますが、迎えを出しています。礼に則っているようですが、裴世清からすると、皇帝の名代として来たのだから、王自ら郊外に出迎えないのは無礼と取ったかも知れません。

    既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭

    裴世清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴世清答えて曰く「皇帝の徳はあわせて二徳、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て教化します。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」

    王自ら出迎えに赴かなかったことを言い訳しています。「不聞禮義」とあるのは、前年の国書が皇帝の不興を招いたことの言い訳でしょう。だから裴世清は「あなたたちが野蛮で礼儀を知らないのはわかっている。それ故にこそ私が派遣され、ここで教え諭すのだ」と答えています。それにしても、言い訳するということはわかっているということであり、わかっていながら、答礼使一行を郊外で出迎えなかったのですから、多利思比孤もよくよく自尊の人です。さすが、あの国書を書いた人でもあります。

    既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗

    裴世清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」

    さて、用は済んだとばかりに早々に裴世清は帰国の途に就こうとします。実際はあれやこれや言ったのでしょうが、些末なこととしてカットされたのでしょう。

    於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶

    ここにおいて宴会を催し、裴世清を送り出した。また使者を裴世清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。

    別れにおいて宴会を設けるのも礼です。随行の人間も出したのですが、その後間もなくが滅んでしまったこともあって、朝貢はこれきりになったのでした…と書いておきながら、実はまだこの後も遣使があったことが帝紀の方に記されています。

    (大業四年)三月辛酉(中略)壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物

    大業四年(西暦608年)三月辛酉の日に、(中略)壬戌、百濟、、赤土、迦羅舍國が相次いで使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    これは、裴世清に随行した使いの人たちのことでしょう。

    大業六年春正月(中略)己丑倭國遣使貢方物

    大業六年(西暦610年)春正月、(中略)己丑の日に倭國が使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    この西暦610年の遣隋使は、『日本書紀』に見えません。一方、この後の西暦614年から615年にかけて遣隋使を派遣したことが『日本書紀』には記されています。が、『隋書』には記載がありません。さて、この不一致はどう見ればよいでしょう。

    さて、側の記録によると遣隋使は都合四回行われたことになっています。ところが、『日本書紀』には最初の遣隋使の記録がないのです。しかも『隋書』には記載されていない五回目があったことになっています。怪しいと思いませんか? なぜ記録しなかったのでしょう。なぜ側に記録のない遣隋使が存在するのでしょう。普通に考えると、『日本書紀』に記録のない遣使には近畿天皇王朝が関与していなかったからだということになります。そうすると、誰が派遣したのかということにになり、卑弥呼以来、延々と中華の国に朝貢し続けていた(これも「記紀」には記録がありません)倭の国が別にあり、そこから遣使されていたのだという結論に至ります。また九州王朝説かと思われるでしょうが、裴世清の旅程を見て下さい。九州内のことしか書かれていません。加えて阿蘇山です。これを見て、まだ倭=俀の国は九州にない、近畿だという人がいるでしょうか。いい加減、皇国史観からはおさらばして欲しいものです。なお、『隋書』にない最後の遣隋使ですが、これは『記紀』の年代比定に誤りがあるからではないでしょうか。

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