• 日本の古代史を考える—⑫舊唐書東夷伝倭国条・日本國条

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    」の後は「」ということで、「」の歴史書での倭国、日本を見ていくわけですが、『唐書』と呼ばれる書物は二種類あります。ひとつは、五代十国時代に「後晋」で編纂された『唐書』です。西暦945年に完成しています。ただ、その翌年に「後晋」が滅んでしまっていることで察することができるように、国自体が安定しておらず、編纂責任者も途中で交代していたりいます。そのため錯誤や遺漏が多く、記事も初唐の頃に偏っており晩唐の頃の物がほとんどないなど、後世の評判は良くありませんでした。そこで、北宋(こちらは、平清盛日宋貿易を行った、あのです)の時代になってから、欧陽脩らによって新しい『唐書』が編まれ、西暦1060年に仁宗に献上されました。そこで古い方の『唐書』を『舊唐書』あるいは『旧唐書』、新しい『唐書』を『新唐書』あるいは単に『唐書』と呼びます。新しいものができているなら、古い『舊唐書』は無視して良いかというと、実は作りが雑だということは、生の資料がそのまま引き写しされているという利点があるということでもあり、決して資料価値が低いわけではありません。

    ということで、『舊唐書』を見ていくのですが、その東夷伝には、倭国の条と日本の条があります。さてさて、どういうことでしょうか。

    ■倭国条

    倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通

    倭國は、昔の倭奴國である。京師(長安)を離れること一万四千里の彼方にある。新羅の東南の大海の中にあり、山島によって国をなしている。東の端から西の端まで五ヶ月かかる。北の端から南の端まで三ヶ月かかる。代々中国に朝貢してきた。

    「漢倭委奴国王」の金印でお馴染みの「倭奴国」が、倭国の旧名であると述べられています。全く誤解しようがありません。歴史学者や考古学者は何を見てるんでしょうね?『魏志倭人伝』において「楽浪郡」から一万二千里でしたから、長安から楽浪郡までの距離、二千里を足して、一万四千里としたようです。そして『舊唐書』が撰進された頃には、朝鮮半島は「新羅」によって統一されていましたので、「新羅東南大海中」となっているわけです。「東西五月行南北三月行」とあるのは『隋書』から引用したかまたは『隋書』が参照したのと同じ資料によったのでしょう。倭国がかなり広大な領域に広がっていたことがわかります。

    其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉

    その国には城郭がなく、木を以て柵としている。草を使って家を作っている。四方に小島が五十国あまりある。皆、倭国の属国である。

    何度も出てきているので、目に馴染んだ表現かも知れませんが、中国の街は城郭都市といって、必ず長大な防壁で囲まれています。壁と言っても人がやすやすと乗り越えられるようなものではありません。上から大声で怒鳴っても下に居る人に聞こえないくらい高いものもありましたから、落ちたら大けがをするか下手をすると死にます。日本の街にはそういう防壁がないことを言っています。そりゃ海辺であったり山間であったりするところをそんな防壁で囲んでも労力の無駄だからやらなかっただけだと思いますが。平野部にあった街にはおそらく濠が掘られていたと思われます。「以草爲屋」とあるのに注意して下さい。この時代になっても庶民は竪穴式住居に住んでいたことを考えれば、確かに「草」を使って家を作っていたことが理解できます。また、ここでも重要な記述が出てきます。「四面小島五十餘國」に該当するところといえばどこでしょう。実は、四面が海に囲まれているのは北海道、四国、九州です。そのうち、四方に小島が五十あまりという条件を満たすのは、九州だけなのです。

    其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯婦人衣純色長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅

    その王の姓は阿毎(あま)氏である。一大率を置き、諸国を検察している。皆これを畏怖している。官位があり十二の位階に別れている。訴えがある者は、這いつくばって前に進む。その地は男が少なく、女が多い。漢字がかなり通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

    「其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地」は『隋書』の要約か、『隋書』が参照した資料と同じ資料を見てそれを要約して書いたかいずれかでしょう。そしてまたしても「多女少男」です。もう本当にそうだったんじゃないかと思えてくるくらいしつこく書かれています。『隋書』では「佛經始有文字」であったのですが、あっと言う間に広まったのでしょうか。現代的な感覚で「頗有文字」を理解するととんだ誤解になりそうです。官吏でもないのに文字を解するものが多いという意味に取らなくてはならないでしょう。「俗敬佛法」とあるからには、仏教が瞬く間に広がった様子がわかります。「貴人戴錦帽」とありますが、ただ冠というと唐制の冠になってしまうので、違いを際立たせるために敢えて「帽」と述べているのだと思われます。

    貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史髙表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還

    貞観五年(西暦631年)、倭国は使いを遣わして来て、様々な産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、朝命を伝えずに帰国した。

    さて、『隋書』において「多利思北孤」は礼儀を知らずと謙遜していましたが、この頃には王子が礼について揉め事を起こせるくらいには、理解が深まっていたようです。「高表仁」は融通の利かない人だったのでしょう。蛮夷の無礼などある程度は大目に見るべきなのに朝命を果たさず帰るとは何事か。と叱っているかのような文章です。

    至二十二年又附新羅奉表以通起居

    貞観二十二年(西暦648年)になって再び、倭国王は新羅の遣唐使に上表文をことづけて皇帝へ安否を伺うあいさつをしてきた。

    東夷伝倭国条ではここで終わりですが、高宗本紀に倭の記事があります。

    永徽五年十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙

    永徽五年(西暦654年)十二月癸丑の日に、倭国が琥珀と瑪瑙を献上した。

    白雉五年(西暦654年)に派出された第三次遣唐使が対応していますが、「倭国」とあるのに注意が必要です。「日本」の遣使ではなかったのです。おそらく唐の情勢を把握するために送られたのでしょう。

    国際情勢は徐々に緊迫の度を増しています。新羅に上表文を託しただけで朝貢しなかったのは、貞観十八年(西暦644年)に高句麗討伐が行われたことを受け、倭の対外政策が揺れ動いていたからでしょう。高句麗という重しがなくなれば、朝鮮半島の情勢はどう動くかわかりません。また、結果的に失敗に終わったとは言え、唐がそれで諦めるとも思えません。その懸念は、西暦660年に百済の滅亡という形で現実化します。そして西暦663年、倭は百済遺民と連合し、白村江新羅連合軍と戦い、これに大敗北を喫します。倭はこの痛手から立ち直れず、以後、中国の歴史から、もちろん日本の歴史からも姿を消します。

    ■日本國条

    日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地

    日本国は倭国の別の種族である。その国が日の上る方にあるため、日本という名前にした。あるいは、倭国がその名前が雅やかではないことを嫌って、日本と改めたとも伝える。あるいは、日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合したとも伝える。

    のっけからいきなり「日本國者倭國之別種也」と倭と日本は別の国だと述べています。そして、「日本」という名称の由来について他に二説あげています。ひとつは「倭が卑語なので、日本に改名した」という改名説。もうひとつが「日本国が倭国を併呑した」という併呑説。さて、どれが正しいでしょうか。『舊唐書』の編纂者は、もちろん、別種の国だという認識でした。正解は、「全部正しい」です。なぜなら、これはすべて「日本」の使者に尋ねて得られた回答だからです。

    其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉

    その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、質問に誠実に答えない。それで中国ではこれを疑った。

    明らかに「倭」の使者とは態度が違います。それは「倭」を併呑して大国になったという気宇が滲み出たのか、あるいは別に理由があるのか。自分たちは「倭国」に属するが「倭奴国」とは別の国の者だと言ってみたり、「倭国」のものだが、名前がよくないから「日本」改称したのだと主張してみたり、あるいは「日本」は「倭」を併呑したのだと言ってみたり、その主張が首尾一貫せず、「倭奴国」の者とも見なせないが、かといって「倭」と無関係でもなさそうだという不審の目を向けられていたのがよくわかります。あるいは不当な簒奪者と見られていたのかも知れません。それが『日本書紀』編纂の動機のひとつとなったのではないでしょうか。

    又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國

    また、彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言った。

    「又云」は前の文を受けて述べているわけだから、もちろんこの発言も疑われています。ところで、東の境にあるという大山は、「富士山」かなとも思いますが、北の境の大山とはどの山でしょうか。七世紀頃の毛人(蝦夷)は宮城県中部から山形県以北に住んでいたとされています。あるいは古墳の分布を王権の証とする現代考古学の思い込みがそう見せているだけで、毛人(蝦夷)はもっと南や西までいたのではないでしょうか。

    長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史觧屬文容止温雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國

    長安三年(西暦703年)、日本の大臣、粟田朝臣真人が来朝して様々な産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶっており、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。真人経書や史書を読むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

    粟田朝臣真人」が大使となったのは、第八次遣唐使。進徳冠とは、唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついているもので、昭陵博物館のホームページに出土品の写真が掲載されています。これを見ると、俀国の冠が「帽」とされていたのに対し、随分と異なることがわかります。確かにこれは「冠」です。この頃、「大宝律令」が施行されましたから、粟田真人が「紫袍」を着ているのは不思議ではありませんが、唐の朝廷に対する配慮に欠けていたと言わざるを得ません。唐では紫は天子にだけ許された色だったからです。おそらく、蛮夷のことだから大目に見ようという空気と、その挙措が温雅で文章を解したから見逃されたのでしょう。そして多分、ハンサムだったはずです。則天武后が宴に招いて(名誉職とはいえ)官位を授けたのはよほど気に入ったからです。

    さて、『舊唐書』ではこの年の遣使が初めてですが、貞観五年(西暦631年)の遣唐使はともかく、第二次の遣唐使(白雉四年=西暦653年派出)の様子が『新唐書』に「獻虎魄大如斗碼碯若五升器」と記載されています。その次は、また『新唐書』に天智天皇が即位した次の年に遣唐使があったと記されていますが、『日本書紀』では斉明天皇の五年(西暦659年)となっています。これが第四次の遣唐使ですが、その翌年に百済が滅ぼされているのに、同盟国の危機を放って何をしに行ったのでしょうね?『新唐書』にはさらに、咸亨元年(西暦670年)に高句麗を滅ぼしたことを祝賀する使者が来たと書かれているのですが、これが『日本書紀』では「天智八年(西暦669年)」に派遣した第七次の遣唐使となっています。『日本書紀』によると、第五次(天智四年=西暦665年)と第六次(天智六年=西暦667年)の遣唐使があったことになっていますが、『舊唐書』にも『新唐書』にもその記載がありません。この二回の遣唐使は、送唐客使でもあり、唐から来日した使者を送り届ける役目を持っていました。使者が来るくらいですから、重要な政治課題があったはずです。第五次の遣唐使は「白村江の戦い」の余塵消えやらぬ時期であり、第六次もさらにその二年後でしかありません。この使者の往来を伴う二回の遣唐使が、「白村江の戦い」の戦後処理のためであることは明らかです。しかし別段、天智天皇がそれで何か叱責されたとか、責任を追及されたというような雰囲気ではありません。怪しげな政治取引の臭いがするのですが、いかがでしょうか。近畿天皇王朝=大和朝廷は百済と同盟しておらず、倭が「白村江の戦い」で大打撃を受けるのを横目で見ていたのではないでしょうか。この時期の『日本書紀』には明らかに粉飾やごまかしがあります。何かあったのは確かなようです。

    開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助敎趙玄黙就鴻臚寺敎之乃遣玄黙闊幅布以爲束修之禮

    開元の初め頃、また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。

    養老元年(西暦717年)に派出された第九次遣唐使のことだと思われます。儒学を教授されたのは「吉備真備」ではないかと推測しています。あるいは「阿倍仲麻呂」や「井真成」も一緒に学んだかも知れません。

    題云白龜元年調布人亦疑其僞

    その布には「白龜元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

    また疑われています。確かに「白龜」という元号は存在しません。『日本書紀』は天皇の万世一系を無理矢理説明するために、かなりのでっち上げをやった上に、不都合な情報を改削した疑いがありますから、倭の弱体化につけこんで、私年号を使っていたのかも知れません。

    此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去

    この貢ぎ物(白龜元年の調布)で得た下賜品を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。その副使の阿倍朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡と改めて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第十二王子)の学友となった。朝衡京師(長安)に 50 年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

    「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」で有名な阿倍仲麻呂(中国名朝衡)の逸話です。実は第十二次遣唐使が来朝した時(大使は、藤原清河)、一度は帰国を試みたのですが(王維が別離の詩を送っていますから事実でしょう)、仲麻呂や清河らが乗った第一船はあえなく難破。安南驩州に流れ着きました。結局、仲麻呂一行は天平勝宝七年(西暦755年)に長安へ帰着しています。ところが、この年に安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来したのですが、唐朝は行路が危険である事を理由に仲麻呂清河らの帰国を認めなかったのです。仲麻呂はその後もで昇進を続け、潞州大都督(従二品)を贈られています。

    天寶十二年又遣使貢

    天寶十二年(西暦753年)にまた使いを遣わし朝貢してきた。

    天平勝宝四年(西暦752年)派出の第十二次遣唐使です。大使は、藤原清河。副使は、吉備真備大伴古麻呂です。この時に高僧鑑真を日本に連れ帰ったことは有名です。

    上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護

    上元年間(西暦760年~西暦762年)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

    阿倍仲麻呂の出世の様子が語られています。『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡の二人のみ」と故郷では賞賛されています。

    貞元二十年遣使來朝留学學生橘免勢學問僧空海

    貞元二十年(西暦804年)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)、学問僧の空海が留まった。

    延暦二十三年(西暦804年)派出の第十八次遣唐使です。三筆のうち二人がこの時学生として渡唐しています。空海は真言密教の伝統を継いで帰国することになります。

    元和元年日本國使判官髙階眞人上言前件學生藝業稍成願本國歸便請與臣同歸從之

    元和元年(西暦806年)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。

    橘逸勢空海を併せ、第十八次遣唐使一行は帰国します。情勢が不安でこれを逃すと次はいつ帰れるかわからなかったからでしょう。事実、次の遣使は三十三年後になります。それでも多くの学生が残ったものと思われます。

    開成四年又遣使朝貢

    開成四年(西暦839年)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。

    承和五年(西暦838年)の第十九次にして最後の遣唐使です。

    こうして見ると、唐朝は当初、日本国からの使者に不審の目を向けていたことがわかります。たった数行の文章に「疑」と二度まで出てくるのは、その不審の表れです。その疑いも無理ありません。明らかに「倭」の使者と異なることを言うのです。これを別種と判断するのは当然ですし、私も別種だと理解しています。つまり「倭」は九州王朝であり、白村江の戦いで弱体化してしまった。その倭を近畿天皇王朝が併呑あるいは、簒奪した結果生まれた国が「日本」という構図です。簒奪したので正直に話すこともできません。使いは近畿天皇王朝から出ていますから、「倭」のことを聞かれてもちんぷんかんぷんです。でも自分たちも「倭」だと言い張るのですから、何者だと思われても当然です。

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