• 日本の古代史を考える—補足3「神武東征」

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    神武東征」と言っても今時の若い人どころか、年寄りでも、あああれか、と分かる人は少ないのではないでしょうか。初代天皇、神武天皇が九州を出発して大和へ向かい、天下を治めたという、『古事記』『日本書紀』に収められている話です。ところで「神武東征」どころか第十代の崇神天皇より前は、全部架空の人物に架空の出来事を当てはめた起源説明神話に過ぎないという説が未だ根強いのですが、そんな戯けたことを言う人は、シュリーマントロイヤを発掘した故事をよくよく噛みしめるべきです。

    神武東征」否定説は、

    1. 近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなどの点から、九州から近畿へ東征があったとは思えない。
    2. 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は考え難い
    3. 4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、この段階での九州勢力の東征は考えにくい
    4. 大和朝廷の南九州支配が、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年のの琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権を主張する為に説話が形成された

    というようなものがありますが、皆さんが皆さん、皇国史観を前提に考えておられるので、そりゃ間違うだろうという点を間違えています。『古事記』では神武天皇は兄の五瀬命と二人(もちろん配下を連れてですが)で出発します。九州の部族が移住したという雰囲気ではありません。『日本書紀』では「天皇親帥諸皇子舟師東征」とありますが、後で述べるように大軍で出発したとは考えられません。従って、集団移住のように文化様式が伝播したりすることなどはまずありえません。また、四世紀以降の九州、つまり「倭國」は外征に国力を投入していたため、大規模な古墳を作る余力があるはずもありません。それは、『宋書』に掲載された倭王武の上表文でも明らかです。つまり、古墳が「ない」ことが即ち存在証明なのです。尤も、大和地域に投入されたような莫大な資材が投入されれば状況は変わるかも知れませんね。何せ「ない」と断定されていた弥生時代大規模集落・墳墓が「吉野ヶ里」で発見されたりしてますし(嫌み)。

    1. 軍団の移動で文化が漸進するとは奇態な発想である。脳の検査をオススメする。
    2. 軍団の移動で文化が漸進するとは奇態な発想である。脳の検査をオススメする。
    3. 大規模集落遺跡なら「吉野ヶ里遺跡」がある。まさに弥生時代を代表する大規模遺跡であり、墳墓もある。
    4. 領有権を主張するなら、実力で。それが当時のルールです。

    古事記』によれば、神武天皇=カムヤマトイハレ彦の命は、日向(ひなた、またはひゅうが、ひむこう)→筑紫→宇佐→筑紫の岡田宮→阿岐(安芸)國の多祁理(タケリ)宮→吉備の高嶋宮と少しずつ移動しています。筑紫の岡田宮には一年、阿岐國の多祁理宮に七年、吉備の高嶋宮に八年も滞在しています。一部の説にある古代二倍年歴(今の半年が一年になる)だったとしても結構な長期滞在です。これは兵を募りながら移動していたことを表し、滞在期間の長さは兵備に手間取ったと考えるべきです。それはそうとして、ここまでに戦闘描写がないことは、吉備までは既に倭國の支配下にあったか、倭國と同盟していた、つまり倭國の勢力圏であったことを示します。次に出てくる地名は「速吸の門」です。常識で考えると鳴門のことになります。吉備、つまり岡山から奈良方面へ向かうには、淡路島の北か南を抜けなければならないのですが、淡路と神戸の間は、五色塚古墳に代表されるような強大な豪族がいて、これと対峙するのを避けたので、潮流渦を巻く鳴門を水先案内人を探して渡ったと考えられます。

    とここまでは順調(?)でしたが、青雲の白肩津で、登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)と戦いになり、負けてしまいます。しかも神武天皇の兄、五瀬命が戦死してしまいます。激戦だったのでしょう。その後、和泉国(大阪南西部)から熊野(和歌山県南部と三重県南部)へ入り、吉野(奈良県南部)を抜けて、宇陀(うだ、奈良県東部)に至りますが、そこで國つ神の奸計を見破って殺します。「宇陀の血原」という表現が出てくるくらいですから、急襲して配下もろとも惨殺したのでしょう。そこから忍坂の大室へ移動したところで、土雲(つちぐも)の族がいたので、これも謀を以てして殺してしまいます。さらに登美毘古(トミヒコ)を討ちます。重ねて兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)を討った時は軍が疲れ果ててしまう状態でした。この後、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)が後を追ってきて臣従しました。それから、畝火(うねび)の白檮原宮に落ち着き、そこで即位します。

    以上は『古事記』ですが、『日本書紀』の方はルートが少し違っていたり、安藝國に一年ほどしか滞在しなかったり、吉備國に三年しかいなかったことになっています。そこで「脩舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也」とあって軍備を整えていたのですから、ここから先が純粋な軍事行動であることは明らかです。また、ここで軍備を整えているのですから、出立時はさしたる勢力ではなかったことがわかります。何より、日向国から国を挙げて東進して、しかも何年も準備に掛けてあっさり那賀須泥毘古(ながすねひこ)に敗北する、しかも重要な幹部が戦死するほどのぼろ負けってどうやればそうなるのか、否定論者の方にお伺いしたい。そして何より、この行軍の様子からどうやって文化の伝播などということが考えられるでしょう。歴史学者や考古学者はもっと常識を学ぶべきです。アメリカは第二次世界大戦中、日本本土に空襲という形で軍事行動を行いましたが、その時一緒に何か文化が伝播しましたか? 日本は日中戦争で中国に攻め入りましたが、後世明らかな痕跡が残るほど何か文化を伝達しましたか?

    それに、三世紀以前に存在した銅鐸文化が急速に廃れたという事実があります。後世に発掘されたものの用途が全くわからなくなっている様子が、『扶桑略記』や『続日本紀』の記事に見えるところから、大和朝廷の先祖が銅鐸を使った祭祀を執り行っていたとは考えられません。また、何らかの理由があって作らなくなったとしても、それを用いて祭祀を行っていた氏族が残っていたのなら、正体が不明のままということは考えにくいのです。なぜ銅鐸文化を広げた「国」が残らなかったのか。そこに「神武東征」がぴたりと当てはまるのです。大和の中心に位置し、銅鐸文化を広げていた国が神武天皇欠史八代と呼ばれているその子孫によって滅ぼされてしまったのなら、埋蔵された銅鐸は以後祭祀に使われることもなく、埋められたまま時が経ったのではないでしょうか。(この項、2013年6月26日に追記)

    さて、想像力の欠片もない否定論者を構うのはこれくらいにして、ではそもそも神武天皇はどこから出発したのでしょう。日向→筑紫宇佐筑紫というルートを考えると、日向を日向国と考えるのは実は困難です。筑紫宇佐筑紫とあるのは、宇佐の豪族を抱き込んで船を作らせたのでしょう。その準備に一年かかるので、一度筑紫に戻ったと考えるべきです。日向国から筑紫へ行くには、陸路でも海路でも途中に宇佐があります。というか船で出発したなら、そもそも筑紫で一年も過ごす理由がありません。古代人は愚かだったのでしょうか。そんなことはありません。日向がどこであるにしろ、いったん筑紫に出て、そこから宇佐へ行くのが合理的なルートだったはずです。すると出発点は現在の福岡県西部もしくは佐賀県、(あまり可能性はないでしょうが)長崎県くらいに絞られます。古田武彦氏は『古事記』に記された歌に「久米能古良」と呼びかける形で「久米」が繰り返し出てきていることから、福島県糸島市の日向だと断定されています。私も概ね同意です。ちなみに糸島市を少し東南に下ると吉野ヶ里遺跡があったりします。おや、偶然ですねぇ。

    糸島市には、三雲・井原遺跡とか、平原遺跡のように重要な遺跡が既にあるんだから、さっさと疑わしいところを掘れば良いのに。と思います。

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