• 日本の古代史を考える—補足7『論衡』

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    後漢時代に王充が著した『論衡』は、当時流行していた讖緯説・陰陽五行説に基づく迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理を徹底的に批判した書物です。ですので、以下の記述を虚妄であると片付けることはできません。

    之時 天下太平 倭人來獻暢草 (第五卷 異虚第十八)
    時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 (第八卷 儒增第二十六)
    成王之時 越常獻雉 倭人貢暢 (第十九卷 恢國第五十八)

    ところがこの記述は認めても、ここで言う「倭人」は日本人のことではなく、江南の人々を指したものだとする解釈を見かけました。というより、まるで既定の事実であるかのような扱いです。馬鹿も極まると妄言が激しくなるものだと思いました。日本の学者は駄目すぎます。

    この「倭人」が「江南人」であるという根拠は、「暢」「鬯」と書かれているものに求められています。そこでまず「暢」を漢字辞書で調べてみます。「まつりに使う酒。鬯と同じ」とありますので、次に「鬯」を調べます。「香草の名前。鬱金草のこと」とあります。では鬱金草を調べてみましょう。「鬱金草(うこんそう)のこと。みょうが科の多年草。冬に地下茎から黄色の染料を取る。また、むかしこれを酒にひたして鬱鬯を作った。鬱金香をひたすという説は誤り」とあります。どうやらウコンのことのようです。ちなみに「鬱鬯」は、「鬱金草の地下茎をついて、煮て、まぜた黒きびの酒。まつりに用いた」とあります。ところが、ウコンは西暦659年の唐本草(新修本草)という本に見えるのが初出で、その頃、つまり初唐の頃中国にもたらされたと考えられているのです。ということは、鬯はウコンではないことになります。

    他に鬯について書かれた本はないかと探したところ、『山海経箋疏』という『山海経』の注釈に鬯とは霊芝のことであると載っているのが見つかりました。やったね、これで解決だと馬鹿な学者は躍り上がって喜んだのですが、これは(西暦1644年〜1912年)の郝懿行(かくいこう)が付けた註です。郝懿行はその情報をどうやって入手したのでしょう。しかも、霊芝は爾雅にも「芝」として記載されているのですから、王充がわざわざ別名で書いたことにしなくてはなりません。ところでその『山海経箋疏』はどれくらい信憑性があるのでしょう。千五百年も前の王充が示した言葉の意味が伝わっていたとは考えられません。それならそもそも議論になったり、注釈を付けたりする必要がないからです。郝懿行がいかに優れた学者であったとしても、それだけで「鬯」=「霊芝」説が正しいとはできません。おそらく、郝懿行もウコンが周代にないのは知っていたので献上品に相応しい植物として霊芝を挙げたのでしょう。つまり、この「鬯」=「霊芝」説も実は根拠となると非常に怪しいのです。

    なのになぜ、「鬯」=「霊芝」説が定説のように語られ、それに基づいて『論衡』に現れる「倭人」が江南の人々であると断定されるのでしょうか。それは、縄文時代に朝貢できるような文化が日本にあったはずはないという思い込みです。学者には縄文土器に見られる美意識など感じ取ることもできないのでしょう。実に下らないお遊びで税金を空費してくれるものです。

    ところで面白いことに、中国の方がそのような「倭人」=「江南人説」(実際は広く、「中国、朝鮮居住説」と言うべきですが)に真っ向から反駁しておられます。北京大学歴史学部に勤めておられた沈仁安教授です。沈教授は、越常は中国南方の種族の一つで、倭人も南方というのでは四夷来朝という思想に合わない。故にこの倭人は東方=日本の倭人を指すものと見なすべきであり、王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であると断定されています。私もそう思います。後漢時代は儒教の時代でした。その勢いに乗って様々に怪しい論説が横行したのです。王充はそれを徹底的に批判しているのです。その本人が出所のあやふやな、あるいは「倭」と言って他の地方の人間を指すようないい加減な言説を自著に取り込むなどあるはずもありません。王充が単に「倭人」と言ったということは、日本列島に居住する人々を指して述べたのです。(なお、参考として、古代史に遊ぼう—倭と倭人(中国の文献から見た)—第13回をご覧になって下さい)

    事実をありのまま見て、それが何を意味するかを考えるのが学者あるいは知識人の本来の役割です。その役割を予断に基づいて放棄して遊んでいるような輩はすぐに馘首すべきだと思うのですが、皆さんはどうお考えですか。

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    •  コメント、ありがとうございます。それと、先の内容を載せないでいただきましてありがとうございます。
       先の内容は、こんな意見もあるとしてコメントしたのですが、少し舌足らずもありますね。でも、疑問が出て当然ですよね。
      1、ですが、まず、王充が周時代の事績を新たに探せたかですが、まず、当時の情報力の拙さと交通インフラの悪さ、そして、史蹟の少なさなどから、自ら探すのは、ほとんど無理でしょう。
       それと、確かに、四夷からの王朝への献上は、当時では常識だと思います。しかし、当時の四夷の概念、特に周時代の東夷の概念はせいぜい、現在の河北省や山東省、江蘇省くらいですので、ましてや周初期では倭人という言葉はそぐわない。
       先にて論じていませんが、彼は「山海経」は当時では有名で倭の記述は読んでいた可能性があります。おそらく、この倭に「人」を加えていた。
       それと、先の二つを総合して、先の文を作ったのではと思っています。
      2、については、あなたの言う通りで、政権の誇示が目的で、東夷から朝見があったのかははなはだ疑問です。王莽の創作の可能性が大。
      3、ですが、王充の立場を考えると、蒙昧とかの論議ではなくて、彼は、あくまでも説法家であり、現在でいえばジャーナリストのような人です。史書家ではありませんので史実の正鵠などに、捉われて論を述べているとは私は考えていません 。
       彼は成王の故事は、あくまで、儒学が駄目だという内容を引き出す前座であると思っており、成王の故事が史書家に事実なのかなどはを問われても、一向に構わないと思っていたと推察しています。
      4ですが、言葉足らずでしたが、周時代初期には漢字の発展過程で「倭」という字が存在していた形跡ないのです。委はあるのですがね。
       それで、先のようなコメントになった。
      5ですが、当時の文字の使用は、当時の意味や概念で使われています。
       『説文解字』は一世紀、後半から二世紀にかけて編纂されているのはほぼ証明されており、これ以前の倭の意味や概念は「従う、従順」しかないとみるのが、妥当です。倭に日本列島の意味が加わるのは後代で、隋以降の唐であると、唐代の辞書に初めて現れます。
       現代では、倭は日本列島という無意識の概念がありますが、そのような現代の視点などからの倭の用法を見てしまう傾向がある。
       古代漢文の解釈ではここが怖い。例えば、『史記』の朝鮮ということばですが、これを固有名詞と読むか、当時は、違っていたかもしれないのですよ。固有名詞でなく、「王朝の鮮(及ばない)地域」という意味かもしれない。
      6ですが、倭を日本列島という意味で使っているなら、私も、そんな感じを持っています。いずれにしても、あなた様の倭という意味や概念は、後代の倭の意味や概念でしょうから、ここは、論点は以上です。
      7、ですが、その通りだと思います。周時代の東夷は、せいぜい、先に述べた、河北省などですから。戦国時代紀元前5世紀頃」から東夷の概念は朝鮮半島などや海の向こうの蓬莱山などになりまづ。
      8、その通りで、秦の時代でも海の向こうの東方の知識は無いにひとしかったのですから、この時代の倭が日本列島などの解釈は注意が必要。
       (万一もありますがね。)
      7、ですが、論語の説話で、多くの方は、重要な文句をスポイルしています。孔子の言った文句は「海に浮かべて」ではありません。「于海(うかい)に浮かべて」です。
       この意味は当時の「九夷」の一つである「于夷(うい)の海」「という意味です。場所は山東省から江蘇省の海岸付近です。
       漢書はこの于の文字を省いてしまっています。意図的なのかどうかです。(私は、于を入れると、朝鮮半島ではなくなるので編纂者は省いたのではないかと推察しています。)

      *そうですか。古田氏の「邪馬一国の証明」は呼んでいなかったのですか。もうしわけないコメントをしたようです。
       いずれにしても、今、私は、当時の視点で「倭とか朝鮮」とか倭人とかの意味を検証しています。古代漢文は、句読点もなく、本当に難しいですね。
      ですが、原点に返るために通説は常においています。
       あなたのコメントで、少し、私の頭も、実はより整理がされます。感謝しています。討論は対せ宇ですね。
       

      • 1. 王充自身が倭の事績を新たに集めることが難しかったであろうことは仰る通りですが、王充はそんなことをしなくても、例えば班固に聞けばすんだ話です。後漢の王室には歴代の王朝の記録が(完全ではないにしろ)残っていたはずで、実際前漢の司馬遷は、大史令として帝室の記録を参照することができる立場にありました。そこに、夏(紀元前17世紀?に滅亡)、殷(紀元前11世紀に滅亡)、周(紀元前256年滅亡)の記録も残っていたため、史記に夏本紀、殷本紀、周本紀を記すことができたのです。史記が空想の産物などではないことは既にご承知のことかと。班固は後漢皇帝の命で漢書を撰していました。当然、帝室の記録を参照したでしょう。今は伝わっていないそれらの記録を集大成して漢書は完成しています。王充も班固と同じか、あるいは別の資料を参照して論衡を書いたでしょう。別に新たに探す必要は無いのです。
        3. いや、説法のために捏造も辞さずでは、現代の朝日新聞やイエロージャーナルレベルのモラルであったということになってしまいます。さすがに王充も怒るのではないでしょうか。(笑) 王充は実証的に議論を進めていますので(とはいえ私は全部読んだわけではないのですが。^^;)、とうぜん引き合いに出す出来事にも典拠があったと考えられます。事実として白雉や鬯草が献上されたけれども、周はあえなく滅びてしまった。瑞兆とか霊験あらたかな薬とか一体何の役に立ったというのか。という調子です。当然結論を断定するには、その前提が事実出ないと説得力に欠けます。王充ほどすぐれた論戦家が想像で片付けたとは逆に思えないのです。
        4. 周代初期に「倭」という文字が存在している必要はありません。後漢の光武帝に謁見した使節を見てその話を聞いて、後漢の史官が彼らの国名(「ゐ」に近い発音だったと思われます)に相応しい文字として、まず「委」を撰び(金印に刻まれた字ですからこれ以上正式な扱いはないでしょう)、次いでその人々を表すのに「倭」という文字を当てたのだと思います。だから、後漢より前に、「委」「倭」という国があったという認識はないでしょうし、そんな呼び方もしていないでしょう。しかし、元の資料に何と書いてあったかはわかりませんが、班固がそれを見て「これは話に聞く「倭人」のことに違いない」と判断したものはあったと思うのです。でなければ、勅命の史書に記したりしないでしょう。王充もしかりです。
        5. ということで、説文に字義がなくても当然ということになります。
        6. 日本列島に住まう人々と言い換えてもいいですよ。楽浪郡を置いたのは武帝の治世後半ですが、朝鮮経営が難航していたのは同時に設置した三郡がほどなく廃止されていることからもわかります。そんなゴタゴタ続きのルートを使って前漢に朝貢できるはずもありません。朝鮮はもともと対立していたのですから入貢するはずがありません。燕の地は匈奴が押さえていましたから、やはり入貢は無理です。それ以外の東夷の地は漢が併呑してしまいましたから、入貢する可能性があった東夷は日本列島の国だけです。まあ無理だったんですが。
        7. というより中原の外側東は全部東夷でひとくくりでしたから、地理認識とかあまり関係ないのではないかと思います。ただ、一般はともかく高級官僚クラスになると、東夷の先に海があり海中の島に人が住んでいるという認識は持っていたと思われます。殷の高宗武丁王の頃、山東はもとより江南まで侵略の上支配下に置いていますから、知っていないとおかしいくらいです。
        8. 一般的な認識としてはむしろ、東夷の先の海の向こうに君子国があるというやつではありませんか。蓬莱伝説は意外と新しいですよ。古来より根強く信じられていたなら、四書五経はともかくとして諸氏の書に記されていて当然だと思うのですが、痕跡がありません。君子国の方は「礼記」に記載されています。まあ君子国があるというだけの文ですが。
        9. 漢書地理志の文は、公冶長「子曰道不行乘桴浮于海從我者其由也與子路聞之喜子曰由也好勇過我無所取材」と、子罕篇「子欲居九夷或曰陋如之何子曰君子居之何陋之有」を合体させた文ですね。この于は、於などと同じ場所を示す助字だとするのが一般的な解釈ですが…確かに九夷には于夷という族が含まれていますが、その居場所を于海というのは寡聞にして知りません。何か典拠があるんでしょうか。

        >古代漢文は、句読点もなく、本当に難しい
        訓読文がある古典を見てありがたやありがたやと引用して見たら間違いだらけだったという経験があったりします。(笑) 私の訓読や現代語訳にもおかしな点があればびしばし指摘して下さい。
        あ、そうそう。お勧め頂いた本がやっと届きました。やはりアマゾンでないと遅い…(^^;)。現在拝読中です。

    • 今回は、本を取り寄せていただいたとか、申し訳ない。
      贈呈できればよかったのですが、出版社からの配本が少なく、
      手持ちに無くて。
       本は誤植が多く、残念ですが出版社も手数がかけられなかったようで。
       この本の次回作が、8か9月には出ますので、その時は贈呈できるか?
       まー、出版社の配本しだいですが。

       論衡を見直してみますと『山海経」の引用が多いのに、改めて感じました。
      まー、王充は『山海経」をよく読んでいたということでしょう。
       成王の時代の件は、史実か創作かの論議はやめますが、于海の件ですが、于を助詞というのは後代ということで、于は氏族の名前とすることは正しいとして、私が訳したもので、新乴かな。笑い。
        但し、于夷は河北省や山東省にいたというのは『史記』などから正しいようですので、「于(夷)の海」と訳せるならば、正しいと思っています。

       では、また

       

      • いえいえ。新しい知見が得られるのですから、お金を出して当然です。続刊も楽しみにしています。まあ頂けるものなら有り難いのもまた事実ですがw
        魏志倭人伝の旅程についてはすとんと腑に落ちました。いや確かにそう考えなくてはならないと思います。
        ただ、鯨面文身の下りはやはり通説が正しいかなとも思っています。ご存じのように身分秩序については、後の方で「尊卑各有差序足相臣服」と出てくるので、鯨面文身の下りで陳寿がわざわざ出したということは、やはり入れ墨が身分によっても異なっていたという点を言いたかったのではないかと。その淵源が「会稽東治」にあるという事実(?)こそ力説したかった点であるというのは言わずもがなですけど。
        論衡は、批判するだけ有って中身をよく知らないわけにはいかなかったでしょうねー。ぶつぶつ文句を言いながら竹簡を手に持つ姿が浮かびそうですw
        于夷の件は続刊に書かれているんでしょうか。期待大です。

    • はやばやと、お読みくださり、ありがとうございます。
      エジプトの情勢が気になりで、寝不足ですよ。
       軍が政治に関与するのも問題だが、政教分離も
       民主主義の根幹ですからね。
       二十世紀の良さ、英知は政教分離でもあった。

       それは、そうと、鯨面文身の下りは最も自信のある箇所なのですよ。笑い。
       文法的にも、前後の内容的にも正しいと、あれを書くのが本題でも、
        それで一言、
       *一部の高校の漢文の先生などには、過去のは間違っていたと
      褒められた。 文法を考えたら、確かにそうだと。
       でも、大学の歴史家などに知られないと駄目で。笑い。

       1、文法ですが、「尊卑有差」は主語+動詞+熟語で、上の或左或右、或大或小、とは、まったく文の構成がことなる。
       それゆえ、尊卑有差は、ここで文節すべき。
       2.刺青の事であれば、「其有尊卑」というような文、又は「或尊或卑」のような漢文になることが正しい文脈になる。
       3、前後の文章ですが、先に「刺青は、すでに、飾りになっている」という文章章が、最も重要です。先に、「刺青は飾りになっているので、刺青には尊卑(上下の関係)の差はない」と言外で述べている。
        ですから、次の意訳ですが、「(でも、君子国があると言われているように)尊卑の礼はしっかりしていますよ。 それは周の兎の影響があったのですよ」
        というようなものですかね。
      4、陳寿が、倭人の鯨面文身に興味があったのではなく、鯨面文身の例を持ち出して、周時代の兎による仁成を導きだした。
        私には、陳寿が鯨面文身に興味があり、倭人を卑下しているなどという
      人物ではないと思っています。孔子などの故事から君子国のイメージを
       ここで述べたと確信しています。
      5、後段の団の「其道里測」ですが、測るという文字の意味などを考えると道里は単純な「距離」ではないと。

       以上。『魏志倭人伝」邪馬台国の場所論議だけでしたので、他の内容の本位もあるということで、ここは、私の本題ですので。説明を。

       これは、あくまでも、今は、まだ私論ですので強要するものではないです。

       そうだ、次の作品は大和乴を潰すための日本の古代歴史学の糾弾の本で、論衡は出てきません次の次ですかね。
       
       

       

      • エジプトももちろん、後中国がブータンに侵攻したという情報もあって、ニュースから目が離せませんね。

        1. うう、やはりそうですよね。文法の違いは確かに違和感があったので…
        2. 同上
        3. 君子国までは考えが及んでいませんでした。確かに仰る通り。早速修正しないと…(^^;)
        4. 夏后少康の子が会稽の民に教えたのが始まりで、よい政治の見本という意識で文身を出しているので、仰る通り卑しめる意図は全くないと私も思います。
        5. これは同感ですね。道里は道理でしょうね。

        >そうだ、次の作品は大和乴を潰すための日本の古代歴史学の糾弾の本で
        お、論衡はお預けですか…(T^T)。しかし、楽しみです。願わくば人気が出ても、nakajima学会とか作られないことを…

    • おはようございます。
      まったく、会を作るなどとは考えていません。笑い。
      徒党を組むのが、一番、嫌いでして。
       それに、本来、幕末の歴史などが好きでして、
       
       歴史学への義憤から書いているだけ。

       しかし、今の古代歴史学の通念を破るのは、
      少しでも、作品が知られていけば,駄目で。
       悔しさはありますよ。
       作品を残しておけば、後世には誰か
      後を継いでくれると。
       何せ、名が知られていないのは、厳しい。

       ということで、がんばっている次第。

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