• 日本の古代史を考える—補足3「神武東征」

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    神武東征」と言っても今時の若い人どころか、年寄りでも、あああれか、と分かる人は少ないのではないでしょうか。初代天皇、神武天皇が九州を出発して大和へ向かい、天下を治めたという、『古事記』『日本書紀』に収められている話です。ところで「神武東征」どころか第十代の崇神天皇より前は、全部架空の人物に架空の出来事を当てはめた起源説明神話に過ぎないという説が未だ根強いのですが、そんな戯けたことを言う人は、シュリーマントロイヤを発掘した故事をよくよく噛みしめるべきです。

    神武東征」否定説は、

    1. 近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなどの点から、九州から近畿へ東征があったとは思えない。
    2. 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は考え難い
    3. 4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、この段階での九州勢力の東征は考えにくい
    4. 大和朝廷の南九州支配が、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年のの琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権を主張する為に説話が形成された

    というようなものがありますが、皆さんが皆さん、皇国史観を前提に考えておられるので、そりゃ間違うだろうという点を間違えています。『古事記』では神武天皇は兄の五瀬命と二人(もちろん配下を連れてですが)で出発します。九州の部族が移住したという雰囲気ではありません。『日本書紀』では「天皇親帥諸皇子舟師東征」とありますが、後で述べるように大軍で出発したとは考えられません。従って、集団移住のように文化様式が伝播したりすることなどはまずありえません。また、四世紀以降の九州、つまり「倭國」は外征に国力を投入していたため、大規模な古墳を作る余力があるはずもありません。それは、『宋書』に掲載された倭王武の上表文でも明らかです。つまり、古墳が「ない」ことが即ち存在証明なのです。尤も、大和地域に投入されたような莫大な資材が投入されれば状況は変わるかも知れませんね。何せ「ない」と断定されていた弥生時代大規模集落・墳墓が「吉野ヶ里」で発見されたりしてますし(嫌み)。

    1. 軍団の移動で文化が漸進するとは奇態な発想である。脳の検査をオススメする。
    2. 軍団の移動で文化が漸進するとは奇態な発想である。脳の検査をオススメする。
    3. 大規模集落遺跡なら「吉野ヶ里遺跡」がある。まさに弥生時代を代表する大規模遺跡であり、墳墓もある。
    4. 領有権を主張するなら、実力で。それが当時のルールです。

    古事記』によれば、神武天皇=カムヤマトイハレ彦の命は、日向(ひなた、またはひゅうが、ひむこう)→筑紫→宇佐→筑紫の岡田宮→阿岐(安芸)國の多祁理(タケリ)宮→吉備の高嶋宮と少しずつ移動しています。筑紫の岡田宮には一年、阿岐國の多祁理宮に七年、吉備の高嶋宮に八年も滞在しています。一部の説にある古代二倍年歴(今の半年が一年になる)だったとしても結構な長期滞在です。これは兵を募りながら移動していたことを表し、滞在期間の長さは兵備に手間取ったと考えるべきです。それはそうとして、ここまでに戦闘描写がないことは、吉備までは既に倭國の支配下にあったか、倭國と同盟していた、つまり倭國の勢力圏であったことを示します。次に出てくる地名は「速吸の門」です。常識で考えると鳴門のことになります。吉備、つまり岡山から奈良方面へ向かうには、淡路島の北か南を抜けなければならないのですが、淡路と神戸の間は、五色塚古墳に代表されるような強大な豪族がいて、これと対峙するのを避けたので、潮流渦を巻く鳴門を水先案内人を探して渡ったと考えられます。

    とここまでは順調(?)でしたが、青雲の白肩津で、登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)と戦いになり、負けてしまいます。しかも神武天皇の兄、五瀬命が戦死してしまいます。激戦だったのでしょう。その後、和泉国(大阪南西部)から熊野(和歌山県南部と三重県南部)へ入り、吉野(奈良県南部)を抜けて、宇陀(うだ、奈良県東部)に至りますが、そこで國つ神の奸計を見破って殺します。「宇陀の血原」という表現が出てくるくらいですから、急襲して配下もろとも惨殺したのでしょう。そこから忍坂の大室へ移動したところで、土雲(つちぐも)の族がいたので、これも謀を以てして殺してしまいます。さらに登美毘古(トミヒコ)を討ちます。重ねて兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)を討った時は軍が疲れ果ててしまう状態でした。この後、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)が後を追ってきて臣従しました。それから、畝火(うねび)の白檮原宮に落ち着き、そこで即位します。

    以上は『古事記』ですが、『日本書紀』の方はルートが少し違っていたり、安藝國に一年ほどしか滞在しなかったり、吉備國に三年しかいなかったことになっています。そこで「脩舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也」とあって軍備を整えていたのですから、ここから先が純粋な軍事行動であることは明らかです。また、ここで軍備を整えているのですから、出立時はさしたる勢力ではなかったことがわかります。何より、日向国から国を挙げて東進して、しかも何年も準備に掛けてあっさり那賀須泥毘古(ながすねひこ)に敗北する、しかも重要な幹部が戦死するほどのぼろ負けってどうやればそうなるのか、否定論者の方にお伺いしたい。そして何より、この行軍の様子からどうやって文化の伝播などということが考えられるでしょう。歴史学者や考古学者はもっと常識を学ぶべきです。アメリカは第二次世界大戦中、日本本土に空襲という形で軍事行動を行いましたが、その時一緒に何か文化が伝播しましたか? 日本は日中戦争で中国に攻め入りましたが、後世明らかな痕跡が残るほど何か文化を伝達しましたか?

    それに、三世紀以前に存在した銅鐸文化が急速に廃れたという事実があります。後世に発掘されたものの用途が全くわからなくなっている様子が、『扶桑略記』や『続日本紀』の記事に見えるところから、大和朝廷の先祖が銅鐸を使った祭祀を執り行っていたとは考えられません。また、何らかの理由があって作らなくなったとしても、それを用いて祭祀を行っていた氏族が残っていたのなら、正体が不明のままということは考えにくいのです。なぜ銅鐸文化を広げた「国」が残らなかったのか。そこに「神武東征」がぴたりと当てはまるのです。大和の中心に位置し、銅鐸文化を広げていた国が神武天皇欠史八代と呼ばれているその子孫によって滅ぼされてしまったのなら、埋蔵された銅鐸は以後祭祀に使われることもなく、埋められたまま時が経ったのではないでしょうか。(この項、2013年6月26日に追記)

    さて、想像力の欠片もない否定論者を構うのはこれくらいにして、ではそもそも神武天皇はどこから出発したのでしょう。日向→筑紫宇佐筑紫というルートを考えると、日向を日向国と考えるのは実は困難です。筑紫宇佐筑紫とあるのは、宇佐の豪族を抱き込んで船を作らせたのでしょう。その準備に一年かかるので、一度筑紫に戻ったと考えるべきです。日向国から筑紫へ行くには、陸路でも海路でも途中に宇佐があります。というか船で出発したなら、そもそも筑紫で一年も過ごす理由がありません。古代人は愚かだったのでしょうか。そんなことはありません。日向がどこであるにしろ、いったん筑紫に出て、そこから宇佐へ行くのが合理的なルートだったはずです。すると出発点は現在の福岡県西部もしくは佐賀県、(あまり可能性はないでしょうが)長崎県くらいに絞られます。古田武彦氏は『古事記』に記された歌に「久米能古良」と呼びかける形で「久米」が繰り返し出てきていることから、福島県糸島市の日向だと断定されています。私も概ね同意です。ちなみに糸島市を少し東南に下ると吉野ヶ里遺跡があったりします。おや、偶然ですねぇ。

    糸島市には、三雲・井原遺跡とか、平原遺跡のように重要な遺跡が既にあるんだから、さっさと疑わしいところを掘れば良いのに。と思います。

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  • 日本の古代史を考える—補足2「新唐書」

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    新唐書』は、明らかに『日本書紀』を参照しているし、『新唐書』が書かれた頃には「倭」は「日本」に併呑されて随分経っているから、もういいやと思っていたのですが、一応目だけは通しておくかと思って東夷伝日本条を眺めていたら、意外な表現に出会いました。

    次用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始與中國通

    次は用明である。また多利思比孤の属官であったとも伝える。開皇の末に初めて中国と直接通交した。

    元々「日本」は「倭」の属国で、「開皇の末」ということはまさに六世紀末葉に「初めて」中国に使いを遣わせたとあります。『新唐書』の編纂者はもちろん「倭」が遠く三国志の「」の頃から「」に至るまで延々と中国に朝貢してきたことは知っていたので、「日本」=大和朝廷が「倭」ではないことをはっきり示しているのです。びっくりだ。

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  • 日本の古代史を考える—補足「倭人」について

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    あちこちウェブで古代日本の資料を渉猟していると、『論衡』に見られる「倭人」は江南人のことで、日本にいた倭人ではないとする主張をよく見かける。というか、皆そういう主張をしていることに驚いた。してみると『論衡』を書いた王充はそれを知らずに引用したのだろうか。王充が生きた後漢時代では「倭」といえば日本のことだったから、知っていれば一言追記したであろうから、知らなかったのだという意見に一応肯けないこともない。しかし、

    この人たちは、江南系の倭人が、呉越の戦争や越の滅亡によって江南から南西諸島沿いに稲作を伴って日本にやってきて「弥生人」となったと、判で押したように書いている。戦乱によって避難するのが当然であれば、「商(殷)」の高宗武丁王が江南を侵略して版図に収めた時も、当然避難民が発生したとなぜ考えないのであろうか。なぜ江南人の渡来は「弥生人」に限るのか、意味が分からないよ。「商(殷)」は、20世紀初頭に甲骨文字が発見されるまで、架空の王朝とされていたため、昔は上限を弥生時代に置いていただけなのです。そうです。そのカビの生えた先人の教えを後生大事に守っているわけですな。先生の言う通りってか? 死ねば良いのに。

    つまりは、「江南人は農耕とセット」で、「農耕弥生時代とセット」という固定観念があるからに過ぎないのです。放射性炭素年代測定が適用できる資料が出土した古い水田跡がないため、この固定観念がなかなか崩れません。しかし、岡山県児島郡灘崎町の縄文時代前期(約6000年前)の地層からは大量のプラントオパールが見つかっており、少なくとも約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表されています。また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文時代晩期には導入されていたという説も無視できないものであるにも関わらず、江南人は「弥生人」の定説だけは崩さないのです。本気で頭脳を疑います。

    こんな想像力の欠片もない学者様方に多額の税金を費やしているのが日本ですが、果たして歴史はそれを是とするでしょうか。(反語表現)

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  • 事実に基づく歴史を伝えよう

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    婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

    とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

    人類の歴史は500万年とも600万年とも言われますが、そのほとんどをそうして暮らしてきたのです。氷河期の最中にたくましく生きて子孫を残してきた先祖に、私たちは敬意を持たねばなりません。

    ここで目を日本に向けます。縄文時代は、今から約14,000年前から紀元前六世紀に当たります。温暖で植生が豊か、海産物や川で取れる食料も豊富、危険な肉食獣がほとんどいない、という原初人類にとっては、パラダイスのような地でした。日本の地にたどり着いたリーダーは心底安堵して肩の力を抜いたでしょう。もはやリーダー一人が懊悩を繰り返して元来不可能な課題に対する決断を下さなくてもよくなったのです。となると、性も解放されてしまうのですが、放置すると集団はバラバラになってしまいます。そのままでは、性欲が非常に強化されていますから、各自勝手に乱交となって集団を統率できなくなります。リーダーはやはりどうすればよいか考えなくてはならなかったでしょう。そして、性を神に捧げる神事とすることで、野合を禁じ、集団で定期的に婚姻を営む形を考え出したのでしょう。これが「群婚」です。近親相姦の問題? あんなの学者が現行のタブーを正当化するためにひねり出した世迷い言です。近親相姦を繰り返すと本当に遺伝的障害が現れるかどうかは実験で確かめることも、観察で確認することもできません。早い話がわからないのですよ。でも、現在の日本人に全体として遺伝的に大きな問題があるように見えませんから、そういう問題などないんじゃないですかね?

    この「群婚」の遺風は後々まで、戦後の昭和まで残っていたことは既に述べました。ですが、日本中が全部そうだったとは限らないのです。ここで、『漢書』地理志の倭人について書かれた記述を思い出して下さい。あれは、西周時代に「倭」が朝貢していたことを表しているのだと述べましたが、それは即ち、「倭」—朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部一帯—に中国の風習が移入されたことも意味しているのです。西周時代といえば、今から三千年前に始まる古代の王朝です。少なくとも九州北部の縄文人は、「」の感化を受けていたと考えられます。縄文人には半分裸の未開人なんてイメージがありますが、縄文土器ひとつ取っても見ても、その美意識が現在の我々と変わらないか、あるいは上回っていることを示しています。そういう人たちがどうして未開でありえましょう。まして中国に朝貢していたということは文字すら知っていたことになるのです。縄文人の交易ルートが日本中に広く広がっていたことも併せて考えると、そこに、高度に組織化され、統率された人々の姿を見ないでいることは不可能です。そしてそれがあるからこそ、次の段階の婚姻「妻問婚」も可能になったのです。

    高群逸枝氏は、「群婚」に「族内婚」と「族外婚」の二段階あったと主張されていますが、それにしては後世に残った「群婚」風習がすべて「族内婚」的なものばかりなのが腑に落ちません。これは氏の勇み足で、私は日本には「族外婚」などなかったのだと考えています。そのような過程を経たのなら、それを示す遺風が必ず見つかるはずです。にも関わらず、その前段階の「族内婚」遺風ばかり見つかるのは、「族外婚」がなかった証でもあります。「群婚」から「妻問婚」に到るには、人々が氏族として統率されていないと不可能でした。いかに縄文時代弥生時代が豊かな時代であったとしても、現代とは比較になりません。個人で生きていくなどまず不可能でした。集団の協力があってこそ、族外の男を受け入れ、生まれた子を養うことができたのです。それは小さな数家族が集まっただけの小集団では保障できようはずがありません。もっと大きな氏族という枠組みがあってこそ互いの生活を保障し合えたのです。また、その枠組みに乗っかる形でしか、妻を集団外に求めることはできなかったのです。妻を他所に求めるということは、「群婚」が不利になる事態が既にないとできません。人口密度が高まり、集団と集団が接するように居住するようになると、そのこと自体がストレスとなって集団にかかってきます(とはいえ、現代の超過密社会を想像しないで下さい。狩猟採集を維持するにはとても広い領域が必要だったのです)。そのストレスを緩和し、集団間の対立を回避する方法としてやはり性が使われました。それが「妻問婚」です。そのような事態は、早ければ縄文時代中期に、遅くても弥生時代が始まる頃には生じていたでしょう。「群婚」で集団を閉鎖しているとそのストレスが緩和されず、ことによると暴発してしまいます。実際そうして争いになった集団もあったのでしょう。ここに至って集団保障(という概念があったかどうかは別にして)のために血を分けた一族をすべて統率し、氏族として全体の生存を保障すると同時に、性によって氏族間の緊張を緩和するに到ったと思われます。それが「妻問い」の形を取ったのは、氏族の政治過程を男が担っていたためです。言葉を変えると、外へ出て交渉事などを片付けるのは男の仕事であったため、男が女の元を訪れるという形になったにすぎません。従って子供も母の里で育てられる母系制が成立したと言えます。

    では「群婚」はなくなったのかというと、そういう訳ではありません。神事としての「群婚」は、弥生時代を経て、古墳時代に入り、飛鳥時代になってもまだ庶民の祭りの場に残されていました。それが戦後まで残っていたということは、すべての地域で行われていたわけではないにしろ、延々と余命を保っていたことがわかります。日本人が性に大らかなのは、性を特別視することなく、ムラの大人総出で楽しむ行事が根底にあったからです。ムラの性的行事と言えば「夜這い」が有名ですが、もちろん「夜這い」は柳田民俗学が言うようなお上品なものではありません。夜に男が女の元へ忍んで通うというのはセックスのためであって、馬鹿じゃなかろうかと思います。赤松啓介氏の著作を読めば、みなさんお盛んであったことがよくわかります。そういう意味では「夜這い」とは「婿取婚」や「嫁取婚」で性が封鎖されてしまうことへの「群婚」的反逆だったのかもしれません。「夜這い」の風習がほぼ全国にあったことはよく知られていますが、これをただの乱交だの強姦だのと同列視している人が結構居ることに驚きます。当然、「夜這い」もムラの規律に従って営まれた行事だったのです。ムラごとに掟が異なるので一概には言えないものの、基本的に男女で同意があったからこそ長く続いた風習であったことを忘れてはいけません。(この項2013年6月17日に追記)

    中国では「東周」になってから戦乱の世となり、朝貢どころではなくなってしまいます。この春秋戦国時代は、紀元前221年に「」によって統一されるまで、500年も続きます。ところがその「」もあっという間に滅んで、紀元前202年、王朝が開かれるまで、また戦乱です。その王朝が武帝の頃最盛となり、中国の正史の中でも特に有名な歴史書「史記」が司馬遷によって書かれます。「史記」には倭のことが出てきません。他に書くことが一杯あったのですから仕方ありませんね。その「史記」の「太伯世家」に「於是太佰、仲雍二人乃奔荊蠻、文身斷發、示不可用、以避季歷」とあります。中国では髪を切ることは文明人のすることではなかったので、太伯と仲雍がそれを以てして「」の跡を継がない決意を表したのですが、ここで「文身」と出てくることに注意して下さい。体に入れ墨をしたという意味ですが、後々重要になります。

    さて、そんな戦乱が続いたのなら、当然戦乱を避け、平穏な地を求めた人々がいたことは論を俟ちません。特に春秋時代の終わりには、の戦争が激しくなり、ついにに滅ぼされてしまい、そのに滅ぼされてしまいます。の人々が南西諸島を経由して日本へ逃れてきたこともまた、論を俟ちません。その人々が稲作をもたらしたことは確実とされています。そして「前漢」末から「」を経て「後漢」が建国されるまでもまた戦乱の中にありました。ここでも大量の避難民が日本を訪れ、定住したことでしょう。既に日本は弥生時代に入っていました。平和的に移住できた時代は終わりを告げており、ここ日本でも戦争が頻々と起きていました。外来の人たちと戦争になったこともあるでしょう。その戦争の結果、様々な部族を統合して「国」を建てる一族が次々と現れたと思われます。『後漢書』東夷伝を見れば、建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が朝貢してきています。既に国家が形作られていたのです。この時下賜された金印志賀島から出土したものであることは既に書きました。

    後漢書』東夷伝の倭人条は『魏志倭人伝』を参照して書かれたことが明らかなのですが、「使」を「使」と間違っていたり、「會稽東之東」を「會稽東之東」と勝手に書き直したり、「國大人皆四五婦、下戸或二三婦(その国で身分の高い人は妻を四、五人持ち、平民でも二、三人の妻を持つ者がいる)」を誤読して「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三(その国には女性が多いので、身分の高い者は妻を四、五人持ち、そうでない者も二、三人の妻を持っている)」と爆笑ものの説明をしていたりと、まあ当てにならないこと夥しいのですが、さすがに「後漢」の公式記録から引用された部分は信用してよいでしょう。

    さて、日本のことが詳しく紹介された史上初の書物が『魏志倭人伝』です。景初三年(西暦239年)卑弥呼に朝貢してきた時の記事を含め、その旅程や風俗まで説明されています。この旅程が、所要日数を距離に換算したものであることが、後の『隋書』で明らかになります。当時はレストランなんて気の利いたものはありませんから、食料を調達=狩りをしたり木の実、山菜を採集しながら旅をしたわけで、しかも保存技術も怪しいですから、一度に大量に狩りや採集をして食料を集めておき、旅程を急ぐ、などということも無理だったと思われ、平均すれば、一日に数㎞進むことがやっとだったのではないでしょうか。実際、狩りをしたり、木の実、山菜を集めてなおかつ料理して、そのついでに移動するような状態だったと思います。そしてその『魏志倭人伝』で紹介された「邪馬國」=「山倭(やまゐ)國」が、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、九州北部にまたがる国であったことは間違いなさそうです。九州中部、今の熊本県あたりから南は「狗奴國」だったのでしょう。なぜなら、『隋書』東夷傳俀国条では触れられている阿蘇山について書かれていないからです。

    さてその『魏志倭人伝』では「男子無大小皆黥面文身」で男性は全員入れ墨をする文化があったことを示しています。倭人が入れ墨をするのは、中華の教化が東の果てに及んだためである。と特に注記しているのです。「史記」の「太伯世家」に「断髪文身」が出ていたでしょう。の風俗として入れ墨は非常に昔から有名だったのです。その上、『魏志倭人伝』と同じ資料を参照して書かれたと思しき『魏略』には「聞其旧語自謂太伯之後」と書かれています。「その昔話を聞くと、自分たちは太伯の末裔であると言う」倭の人々は太伯の末裔だと言っていたのです。から渡来した人々がいたことは確実です。その人たちが入れ墨の風習を持ち込んだのでしょう。そして実際、中国江南から、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が発見されているのです。「男子皆露紒」とあるのでまだ冠を被る習慣がないこともわかります。「有屋室、父母兄弟臥息異處」とあるのは、「妻問婚」で男たちは妻方の実家で寝るからだと説明しました。「以朱丹塗其身體」と中国で白粉を使うように朱丹(赤い顔料)を使うとあれば、『古事記』や『日本書紀』で紹介されている風俗と随分異なることがわかります。また、神社で拍手を打って拝礼するのは、元々身分の高い人に対する礼であったことも書いてありました。一方で、この頃ヤマト近辺では「抜歯」の風があったのにそれには全く触れていません。このことからも、「邪馬國」がヤマト王権とは関係ないことが見て取れます。

    現代人の感覚からすると、入れ墨などヤのつく職業の人たちの特徴みたいに考えがちですが、元々は極めて実用的なものであったのです。それが装飾や身分を表す証に変遷していく過程にあったことも記されています。なぜ歴史学者は「記紀」には記述のないこの風習を重視しないのでしょうね。

    そして、空白の四世紀をはさんで、『宋書』に有名な倭王武の上表文が現れます。その「」の時代に編纂されたのが『後漢書』ですが、この時、国名が「邪馬國」=「山大倭(やまだいゐ)國」に変わっています。既に国名に「大」を冠して恥じない実力を倭が備えていたことを示します。当時の倭の風俗についてはわかりませんが、倭王武の上表文から、先祖代々文字通り東奔西走して戦争していたことがわかります。おそらく東は美濃尾張まで、西は肥前天草を征し、北では新羅高句麗と激闘していたのでしょう。南が書かれていないことを考えると、『魏志倭人伝』に言う「狗奴國」は既に征していたか、あるいは「狗奴國」自体が膨張して倭の国々を従えていたのかも知れません。「記紀」にある「神武東征」もこの頃のことではないかと筆者は考えています。「記紀」には神武天皇淡路島から大阪湾に出る際、明石海峡側ではなく、鳴門海峡側をルートとして選んだことが覗える記述があります。明石海峡側は「五色塚古墳」に象徴される強力な豪族が根を張っていて、これと正面から事を構えることを避けたのでしょう。このことは「神武東征」の頃、「倭國」はまだ吉備国(今の岡山県に広島県東部の一部と兵庫県西部の一部をあわせた領域)あたりまでしか支配もしくは同盟していなかったことを示します。それを考慮すると、むしろヤマト政権は、元々倭の東部前線基地と東部総督を兼ねていたのかも知れません。その由緒がヤマトと他の地方政権との違いとなったこともありえない話ではありません。

    宋書』が倭の風俗を伝えていないことは残念です。海外から見た倭の風俗は、『隋書』まで、即ち六世紀末から七世紀初頭まで空白のままです。しかし『隋書』によると、複式統治が行われていたので、卑弥呼以来の制度が続いていたことが覗えます。冠位十二階があったことはかなり早い段階から位階を設けて豪族を組織化していたことを覗わせます。それが倭王武やその前後の王によって創始されたと考えてもおかしくはないでしょう。そして「」の時代までは冠を被るという風習はなかったのですが、その頃定めたとあります。『隋書』には「男女多黥臂點面文身没水捕魚」とあります。『魏志倭人伝』では男子のみが実用から入れ墨をしていたのが、男女共通の習俗に変化しています。身分を表し、装飾を兼ねていたのは言うまでもありません。当たるも八卦当たらぬも八卦の卜筮は「知卜筮尤信巫覡」とあるのでこの頃には既に一般化していたこともわかります。嫁入りの風習を取り入れていたようですが、「男女相悦者即爲婚」ということで、後の嫁取婚とは全く異なるものだったことがわかります。「貴人三年殯於外」三年間の殯は、中国の儒教の影響がよく現れています。儒教では父母が死ぬと三年間喪に服するのが正式です。尤も、本家中国ではそのような礼は既に孔子の時代でも廃れていたことがわかっています。やはり春秋時代ですが、晏嬰という人が父の喪に本当に三年間服したことが天下の話題になっています。それくらい稀なことだったのです。孔子の死から千年以上経っているのにその教えた礼が形を変えていたとはいえ日本に保存されていたのが面白いところです。文化は中央で生まれ外部へと波及していくのですが、中央でそれが廃れた後も周辺ではよく保たれることが明らかになっています。方言の変遷を説明するのによく援用される理論なのですが、もちろん文化全般に言えることです。四世紀から五世紀の間に様々な風習が中国から影響を受けて生まれていたことがわかりますね。

    日本が中国から影響を受けた風習というと、殯と関連して土葬があげられます。日本は仏教が入った後も長い間土葬が併せて行われていましたが、それは死者の肉体を神聖視し、様々な儀式を儒教が行ったことに由来します。また仏壇というと位牌がつきもののように日本人は考えますが、この位牌というのも由来は儒教です。年功序列=「先輩が上、後輩は下」も儒教です。ブルーカラーよりホワイトカラーを何となく上に見るのも儒教思想に由来します。和を以て貴しとなすという思想も儒教由来です。教育を重視し、子供を愛育すべしという考え方も儒教が根源です。年寄りを労り親を大切にするのも儒教の教えです。今時の宴会は無礼講が当たり前ですが、それでも敢えて無礼講を宣言する場合があるのも、儒教にその根っ子があります。掘り出せばもっと出てくると思います。間違いなく日本人の原風景には中国の影響があるのです。儒教ではありませんが、帽子を被るというのも中国の風習が元です。今や帽子を被る人を滅多に見なくなりましたが、ほんの四、五十年前までは正式な場で無帽は失礼だとされていたのです。閑話休題。

    さて、この頃のヤマト王権の影響範囲はどこからどこまでだったのでしょう。「記紀」にあるオケ王・ヲケ王の物語から、播磨は王権の及ばない地と考えられていたことがわかります。すると、西は摂津の国までだったのでしょう。東については美濃尾張あたりではないでしょうか。天武天皇の挙兵に応じた東国の兵とはそれらの国の兵団でした。とても全国政権とは言えませんね。

    では全国…とはいかなくても南は薩摩大隅屋久島種子島から東は美濃尾張までを配下に治め、号令をかける存在がなかったかというと、それが倭のオオキミだったことが、『宋書』倭王武の上表文から見て取れます。『隋書』においても九州の多利思北孤が倭のオオキミであり、倭を代表していたことがわかります。この多利思北孤の姓が「阿毎」であることは、天つ神を信仰しており、自分たちがその子孫であることを表していると考えられます。太宰府には天満宮がありますが、ここに祭られているのは菅原道真なのに、どうして「天神」さんというか不思議に思ったことはありませんか? 元々倭の神々の筆頭「天神」が祭られていたのが、倭の王族がヤマトへ移住した後放置されていたところに、菅原道真が合祀されたのです。「記紀」に記された天つ神も元々は倭の国の神様だったのです。

    隋書』には王の妻は「キミ」と呼ばれていたとあります。「キサキ」ではないのです。倭は複式統治を取っており、政治を見る王を「オオキミ」、祭祀を司る王を「キサキ」と呼んでいたのでしょう。この「キサキ」に女性が任じられたことは『魏志倭人伝』に見られます。『隋書』では兄弟統治になっていましたから、必ずしも女性に限るものではなくなっていたのでしょう。後代、大和朝廷ではこれが混交され、「キサキ」が「オオキミ」の夫人を意味するようになっていくのですが、元々は「キサキ」を夫人が代行する慣例があったのだと思われます。

    さて、六世紀の大乱といえば、「磐井の乱」があり、これは継体天皇が倭王朝を簒奪しようとした事変であると説明しました。実際、いったんは簒奪に成功したものの、各地の反乱を鎮撫するのに二十年かかり、しかもその後すぐに継体天皇は死んでしまった可能性があるのです。大和朝廷の勢力は駆逐され、再び倭が力を取り戻したのは言うまでもありません。こうして倭とヤマトの一世紀に及ぶ対立が始まるのですが、「記紀」はこれをなかったことにしています。まあ強盗に失敗しましたと書くわけにもいかなかったでしょうし、仕方ないですね。その外交方針を巡ってヤマト蘇我氏物部氏の対立があり、山背大兄王の謀反があり、乙巳の変があったことは既述しました。その宥和路線に転換した大和朝廷を待っていたのは、「白村江の戦い」での大敗北で、これを受けて大海人皇子大和朝廷へ避難し、天智天皇を支えて国をまとめていったのです。最終的に大海人皇子が「壬申の乱」を経て大和朝廷のオオキミの座を勝ち取り、倭の一族を呼び寄せて「皇親政治」を開始しました。敗戦で立て直しもままならなかった倭の国は以降、地方政権へ転落し、代わって大和朝廷が倭を代表する国になったのです。しかし、倭の人々は偉大なる倭王多利思北孤を忘れられなかったのでしょう。由緒のある建物をヤマトへ移築したくらいですから、英明な王であったことは間違いありません。

    代、つまり縄文時代晩期から続き、卑弥呼が総覧し、倭王武が勢威を張った倭國の歴史はここで終わりました。しかしそれは完全に忘れ去られたのでしょうか。私は「記紀」にその名残があると思います。天つ神の系譜に始まり、天孫降臨に至る物語は、元々倭國で伝えられたものでしょう。天武天皇は『古事記』や『日本書紀』の巻頭に敢えて神代を挿入することで自分たちの祖先を顕彰することを忘れませんでした。史書の編纂が中華の伝統を受けたものでしかないなら、神話を冒頭に配置することなどありえません。つまりその編纂に強い意志が働いたことを意味しているのです。偉大なる倭王多利思北孤の事績は、厩戸皇子と結びつけられ、スーパーヒーロー聖徳太子として『日本書紀』に綴られました。おそらく他にも倭國伝来の由緒のある人が仮託されている人物や天皇があるとは思いますが、今の私にはそれを解き明かす材料がありません。いつの日か、歴史学が江戸時代の蒙昧な国学者の影響を脱し、真の科学として発展して真相が解明されることを切に願ってやみません。

    さて、長々と振り返りましたが、これは歴史に対するひとつの説でしかありません。しかし、中華の文献を参照し、また日本の書物を読んでいくと、日本の歴史はこのような形でないとおかしいと思われるのです。もっと過激な説を唱える人がいることも知っていますが、中華文献絶対で、日本文献は完全に恣意の産物というのもありえない話です。私たちの祖先は、そこまで蒙昧だったのでしょうか。そんなことはありません。確かに、政治的な意図からある人物を貶めたり、逆に持ち上げたりすることはあったでしょう。それは中華の正史でも見られることです。あるいは、「倭」の歴史事実を「日本」の歴史に混入もしているでしょう。しかし、事件の年代を入れ替えたり、存在しない事件をでっち上げたりするでしょうか。私はそこまではしなかったと考えます。もちろん「記紀」が編纂されるまでは豪族ごとに自分たちに都合の良い修飾が入った私史が作られていたのでしょう。それを集大成して矛盾のないように整理したのが「記紀」の姿だと思います。歴史を恣意的に改編することはなによりも祖先に対する冒涜です。「記紀」の編纂者がそこまで傲慢であったとはどうしても思えません。

    最後に。あなたは子供たちに、自分たちの祖国、日本の歴史を語るとき何を基準に言って聞かせますか。教科書通りの薄っぺらい中身のない独りよがりな日本史ですか。それとも、連綿と続く誇り高い先祖の事績が詰まった日本史ですか。

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  • 日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子

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    法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。

    法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
    前太后崩明年正月廿二日上宮法
    皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並
    著於床時王后王子等及與諸臣深
    懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
    像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
    住世間若是定業以背世者往登浄
    土早昇妙果
    二月廿一日癸酉王后
    即世翌日法皇登遐癸未年三月中
    如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
    具竟乗斯微福信道知識現在安隠
    出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
    彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
    同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

    法興元三十一年歳次は辛巳(西暦621年)の十二月。キサキの太后が崩御された。明くる年正月の二十二日、上宮法皇は病に伏し、具合が悪く食事も喉を通らない。さらに王后も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。そこで王后や王子たちは、は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。「三宝の仰せに従い、上宮法皇と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」二月二十一日癸酉、王后がお隠れになった。翌日法皇も登遐された。癸未年(西暦623年)三月中、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背と台座)を造りおえた。この小さな善行により、道を信じる知識(造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、太后・上宮法皇・王后に従い、仏教に帰依して、ともに悟りに至り、六道を輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。この像は、司馬鞍首止利(しば くらつくりのおぶと とり)仏師に造らせた。

    法隆寺は九州太宰府から移築された建物であるとする説があります。山背大兄王が立てこもった斑鳩寺が壊され(その時の遺構が若草伽藍ではないかと思います)、新たに据えられたのが現在の法隆寺ではないでしょうか。立て替えられた跡があるというと、法起寺も該当します。それらを前提に考えると、この上宮法皇が聖徳太子でないことは一目瞭然となります。では誰でしょう。

    法興元三十一年が辛巳の歳と記していることから、これを西暦621年と見る説が定説です。法皇とあるのですから、仏法に帰依したオオキミを指していることは明白です。この頃、仏法を篤く信仰し、天下に号令した王といえば、倭の多利思北孤(あるいは多利思比孤)しかいません。

    「鬼前太后」を従来「后の太后」と解して、上宮法皇=聖徳太子との思い込みから(聖徳太子は、上宮王とは呼ばれましたが、上宮法皇と称された例はありません)、これを穴穂部間人皇女とする解釈が一般的なのですが、穴穂部間人皇女が太后と称された記録はありません。古代、皇太后は前の天皇の后が自動的になるものではなく、ちゃんと叙任の手続きがいります。穴穂部間人皇女が太后に叙せられたという記録はありませんので、これを穴穂部間人皇女とすると、僭称したことになります。そんなものを長く残る銘に記したとはとても考えられることではありません。これは、『魏志倭人伝』や『隋書』俀國伝に見られる「複式統治」の「キサキ」です。とすると、オオキミに並び立つ人ですから、太后という尊称も当然になります。

    干食王后を従来は膳大郎女としてきましたが、これは牽強付会もいいところで、全く根拠がありません。さらに上宮法皇と制作者以外の名前がこんなところにだけ出てくるのも変です。あるいはほかの王后と区別するために、固有名詞を出したのかも知れませんが、14文字×14文字でぴたりと収まるよう苦心された文章にそんな配慮がありえるでしょうか。これは臨終間際の上宮法皇の病が癒えて欲しいという発願に基づく像の銘なのです。ここは「干食」と「王后」を区切って読むべきでしょう。だいたい「ものを食べないお后様」って名前としても変じゃないですか。これは中国が日本を東夷と見下して書いた文章じゃないんですよ。

    私は多利思北孤が倭の王の中でも群を抜いた英傑であり、その後も長く尊崇されたのだと思っています。天武天皇が即位して一族を呼び寄せ、大和朝廷が日本を代表する王権となりましたが、倭の一族は偉大なる王、多利思北孤を忘れられなかったでしょう。遠く太宰府から所縁のある様々な建築物を移築し、故地を偲ぶ気持ちを慰めるとともに、偉大な王を追慕したのではないでしょうか。そのため、『日本書紀』において、本来は関係のない厩戸皇子に同じ崇仏の人であるゆえんを結びつけ、多利思北孤の事績を移して、長く人々に忘れられないようにしたのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑲壬申の乱

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    さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも大海人皇子と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。

    一方の大海人皇子は複雑であったかも知れません。自分の祖国は「白村江の戦い」でぼろぼろになってしまいました。オオキミすら捕虜になったのです。オオキミが死んでいれば、皇太子—あるいはそれは大海人皇子自身だっかかも知れません—が跡を継いで国を復興すべく一丸となって努力することもできたでしょう。しかし、オオキミは生きて唐に連れ去られたままです。賠償も過酷なものが課されたでしょう。自らは避難してきた身です。身を寄せた国に貢献するのは当然として、祖国とは異なり、たちまち国力は充実し、今や彼我の差は逆転しているかも知れません。

    そんな日々を過ごす大海人皇子の元へ「倭國」のオオキミが帰還したという知らせが入ります。同時に朝廷にも知らせが行ったでしょう。帰国することを考えなかったはずはありません。しかし、今更帰ってどうするのか、オオキミが受難の間、難を避けるためとはいえ、逃げていた自分はどんな顔をして帰ることができるでしょう。そして「大皇弟」という尊称はあっても平和になり、落ち着いた大和朝廷では逆に浮いてしまったのではないでしょうか。帰るに帰れず、しかし今いるところも終の棲家とならざる様子にひとり懊悩したものと推察されます。

    両者沈思黙考の日々が続いたのでしょう。しかし周りは放っておいてはくれません。大友皇子の近臣は皇太子とはいえ、多大な実績のある大海人皇子を警戒しています。当然天智天皇大海人皇子を遠ざけるように進言したでしょう。一方の大海人皇子周辺も「日本國」が立ち直れたのは自分たちの貢献を大としていますから、そのような朝廷の空気に拒否感を持つものもいたと思われます。当然、実力で地位をもぎ取るべしと進言する者もいたでしょう。そうしているうちに、大友皇子派の豪族に押されたのか、天智天皇は、大友皇子を太政大臣に任命します。あるいは大友皇子が皇太子であればこの叙任はなかったかも知れません。いずれにせよ、大友皇子が執政権を一手に握ることを天智天皇が許したことになります。それは、婉曲に大海人皇子に手を引くことを求めたことになるのです。

    むろん、天智天皇が生きている間は、大過なく過ごすことができました。大友皇子にあっては父天皇ですし、大海人皇子にあっては避難してきた自分を受け入れてくれた恩人です。両者ともその顔を潰すことなどできませんでした。

    しかし、天智天皇10年(西暦672年)、天智天皇は崩御します。そして、当然大友皇子は即位したでしょう。

    日本書紀』は、天智天皇の死の間際、大海人皇子は出家して吉野に隠遁することを願って許されたと書いています。ただちに吉野へ赴き、出家入道して修行を重ねていたところ、近江の朝廷が大海人皇子を謀殺するという情報を掴んで挙兵したことになっていますが…ここが一番怪しいのです。大友皇子大海人皇子を謀殺する理由がありません。大人しく出家していてくれれば、自然に影響力も衰え、放っておいても脅威ではなくなるのです。

    もう当然だと思いますが、大海人皇子が自ら立って実力で大和朝廷を奪うことを決意したと私は考えます。大友皇子は余裕綽々ですが、大海人皇子の方は時間が経てば立つほど功績を忘れ去られ、異邦人として拠って立つ地もなく消えゆく運命です。大海人皇子は赤い旗を掲げたとされていますが、これは高祖劉邦に自らをなぞらえたのだとする説があります。高祖劉邦は、赤帝の子を自称し、赤い旗印を使い、一介の布衣から身を起こし、秦帝国を倒して、項羽との天下分け目の戦いに勝って、新たに王朝をひらき、漢帝国を建てました。その劉邦に自らをなぞらえたということは、大海人皇子大和朝廷とは関係のない人であったことを示します。そして、即位の際には新たに王朝を開くことを宣言したと言いますから、天智天皇と同母の兄弟であったというのは、後世の粉飾であることがわかります。これには傍証があり、『新唐書』東夷伝日本条に永徽初めのこととして、「天智死子天武立」「天智死して子の天武立つ」とあります。唐に献上されていた史書では、そのように書かれていたのでしょう。続柄が変わると言うことは、粉飾であることの証左です(この一文、2013年6月22日に追記)。閑話休題。

    白村江の戦い」で大敗してもなお「大倭國」の残照は余命を保っていました。美濃やほかの東国諸国から援軍を得ることができたのはそのおかげでしょう。大和の地で大伴吹負が挙兵したり、河内国守来目塩籠が近江朝廷に背いたのは、大海人皇子の器量を見込んだところが大でしょう。近江羽田矢国が寝返ったのも、大海人皇子の挙兵に狼狽える近江王朝を見限ったからだと思います。こうして、大海人皇子の挙兵は成功し、近江朝廷は滅びました。大海人皇子はしばらく美濃で戦後処理にあたっていましたが、それを終えると飛鳥の地に入り、即位しました。しかし天武天皇は、天智天皇の恩を忘れたわけではありませんでした。弘文天皇は死んでも、他にも天智天皇の皇子は生きていたのです。彼らとともに「吉野の盟約」を結び、今後は一致団結することを子供らに誓わせています。

    さて、世に言う「壬申の乱」が終結した後、私は天武天皇が一族を「倭國」から呼び寄せたと考えています。それは、

    • 天武天皇の政治は「皇親政治」と呼ばれていますが、それは大和朝廷の皇族だけでなく、自分の一族を使ったと思われること。
      地着きの豪族は無理ですが、王子や王都の官僚たちなら移動が不可能ではありません。また大和朝廷の皇族は豪族の合議による政治に慣れていましたから、「皇親政治」の即戦力になったとは思えません。
    • 「倭國」で重要だったと思われる施設が、大和の地へ移築されていること。
      移住に当たって貴重品を持参するのは当然ですが、持ち運べない建物のようなものでも、移築が可能なら、その方が手間がありませんし、目に馴染んだものの方が喜ばれたでしょう。その代表が法隆寺だと言う人がいます。え? じゃあ山背大兄王が立てこもったのはどこになるのよ? と言う人もいるでしょうが、それが若草伽藍として残っているんじゃないでしょうか。『日本書紀』は天智天皇の9年(西暦670年)に「夏四月癸卯朔壬申夜半之後災法隆寺一屋無餘」と一切合切が焼失したと伝えていますが、釈迦三尊像とか薬師如来像は明らかに火災の影響を受けていません。どうやって火事の中運び出したんでしょう。謎ですね。それはともかく、逆に「日本國」が「」と手を組んで、掠奪したのだという人がいますが、持ち運びのできる金銀財宝はともかく、建物などを移してどうしようというのでしょう。むしろ、移住にあたり、故地を偲ぶ気持ちを慰めるため、自分たちで運んでいったという方がよほど筋が通ります。
    • 「倭國」が『舊唐書』より後の中国の正史に全く現れなくなり、国としては滅びたと思われること。

    によります。言葉を変えると、「倭國」による「日本國」乗っ取りです。別の言い方をすれば、「日本國」が「倭國」を併呑させられたことになります。もっと別の言い方をすれば、「倭國」による「日本國」の簒奪という言葉も使えます。天網恢々疎にして漏らさず。継体天皇はあの世で歯がみして悔しがったでしょう。

    ところで、天武天皇は非常に不思議な天皇で、

    • それまで当然であった豪族たちによる政治を排除して、「皇親政治」という皇族だけで執り行う政治を実施した。
      専制的とまではいかないにしても、権力をトップに集中させて、官僚を手足のように使う政治に慣れていた様子が覗えます。それは「倭國」で行われていた政治形態をそのまま持ってきたものでしょう。
    • 律令制を指向している。
      以前から中国では律令が施行されていたのですが、天武天皇まで大和朝廷がそれを取り入れようとした気配がありません。
    • 冠を被ることを強制している。
      それまでの髪型は角髪といって冠を被るのに適していませんでした。これを改めさせています。冠を被るのは元々中国の風習でした。それを取り入れた「倭國」の習俗に慣れていた大海人皇子には、官人や貴族が冠を被らないことに違和感を感じていたのでしょう。
    • 官人に武装させている。
      中国では官人であっても普通に武装していました。皇帝の御前など特別な場では武装を解除されましたが。なので、中国の制度を導入した「倭國」出身の大海人皇子にとって官人が武装していることは当然だったのです。天武天皇までは大和朝廷の官人が武装することはありませんでした。実は天武天皇以降も官人に武装させることはなかったのです。律令が制定され、軍団制が施行されたからだと言う人もいますが。
    • 恒久的な都を建設することを考えていた。
      「倭國」の首都「太宰府」は長安をモデルとした恒久都市でした。自分の代で「日本國」が「倭國」を併せた以上、当然恒久的な都を築くべきだと考えたのです。
    • 複都制を指向した。
      難波宮の跡地に難波京を置いています。これも中国周代からある複都制を模倣したものです。
    • 史書の編纂を発起した。
      古事記』『日本書紀』は共に天武天皇の発起によるとされています。中国では、前の王朝の歴史を、跡を継いだ王朝が書く伝統ができていました。しかしそれ以前の大和朝廷ではそんな建議すらありませんでした。
    • 五節の舞新嘗祭大嘗祭など主要な宮廷儀式を集大成した。
      おそらく、それまで「倭國」で行われていた儀式を移したのでしょう。
    • 国家神道を形成した。
      天照大神を祖神とする神々の系譜は、「倭國」で伝えられていたものが「日本國」へ移されたものと考えられます。伊勢神宮天照大神が祭られたのもおそらく、天武天皇の頃からでしょう。「倭國」は天つ神を信仰していたと考えられ、太宰府天満宮で「天神」そのものを祭っていたと思われます。天照大神は元男神だったのが大和へ移されるとき、大和朝廷がそれまで信仰していた祖神が女神だったため、性別を変更されたと考えられます。
    • 仏教を手厚く保護した。
      「倭國」はまた「多利思北孤」以来仏教を熱心に信仰し、保護していました。大海人皇子ももちろんそれに感化されていたでしょう。天武天皇以前に仏教を積極的に保護した天皇はいません。
    • 新羅と手を結んだ
      天武天皇は、遣唐使を一回も派遣していません。祖国を滅ぼされたのですから当然ですが。しかし、敵の敵は味方の俗諺通り、新羅とは通交し、遣新羅使も頻繁に送っています。この方針は文武天皇が即位するまで堅持されます。

    とこれだけ独特なことをしています。それまでの天皇観を破壊するがごときです。しかし、見方を変えれば、「倭國」で実際に行われていたことを移しただけであり、天武天皇自身は、特別なことをしているとは思ってもいなかったでしょう。

    「倭國」は消え去りましたが、なくなってしまったわけではありません。日本の中に溶け込んで今もその血を伝えているのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

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    蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされていますが、百済系の渡来人とする説もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうが、たった四代で成り上がった新興豪族なのは間違いありません。

    蘇我稲目大臣になったのは、宣化天皇の元年です。宣化天皇継体天皇の皇子です。このことから、継体の大和入りを支援した畿外豪族だったという人もいます。それはともかく、この稲目という人は崇仏派で、物部氏中臣氏らの排仏派と衝突したと伝えられています。古代の人々の宗教に懸ける情熱は現代人の想像を超えたところにあります。同時にそれは国家をどうまとめていくのかという統治論でもあったのです。

    しかし統治論は所詮という言い方では語弊があるかも知れませんが、方法論にすぎません。それで一触即発の事態に陥るでしょうか。継体天皇による九州王朝の簒奪の失敗からまだ時間は経っていません。むしろ、継体に従い大和に入った蘇我氏の長である稲目継体以来の倭國との対立=冷戦路線を主張する一方で、物部氏中臣氏はかつてあった友邦国として交流を復活させる宥和路線を主張したのではないかと考えます。これは国の存亡に関わる政治問題です。倭國の出方次第では、対立を続ければ攻め込まれる恐れがあり、一方で宥和路線を敷けば下手を打つと倭國の属国になってしまうという、極めてシビアな判断が求められる場面であり、国家の安危が関わるのですから、激論になったでしょう。しかしここで宥和路線を取るなら、継体天皇の業績が全くの無駄になってしまいます。継体によって引き立てられたと思しき蘇我氏にとって、それは氏族の否定に等しい暴論でした。国家の安危に加え、自分たちの氏族の安危がかかっているのですから、相手を謀殺してでも方針を固めたいと考えたのではないでしょうか。

    しかし、この時は欽明天皇の取りなしもあっていったんは収まります。おそらく、表向きは対立=冷戦路線を続けながら、裏で交渉の糸口を探るよう裁定が下ったのでしょう。

    次の代になり、蘇我馬子稲目の跡を継いで、対立=冷戦路線を続けます。物部守屋宥和路線です。この対立は妥協点を見いだすことができず、これに皇位継承問題がからんで、遂に戦争になってしてしまいました。おそらく、物部氏中臣氏の交渉が実り、宥和路線に手応えを感じていたのでしょう。物部守屋は一歩も引きませんでした。対する馬子も引けません。その結果は蘇我氏の勝ち。つまり、対立=冷戦路線が改めて規定方針となったのです。

    さて、蘇我氏が勝ったことで、蘇我氏側についた泊瀬部皇子は即位して崇峻天皇となります。ところが、本音は宥和派だったのか、あるいは蘇我氏の勢力が強大で恣に政治ができないことを密かに憎んで宥和派を取り立てたのかわかりませんが、馬子の逆鱗に触れることをやらかします。『日本書紀』崇峻紀によると、崇峻天皇四年に、「冬十一月己卯朔壬午、差紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴囓連、葛城烏奈良臣、爲大將軍。率氏々臣連、爲裨將部隊、領二萬餘軍、出居筑紫。遣吉士金於新羅、遣吉士木蓮子於任那、問任那事」「(崇峻天皇の四年(西暦591年))冬十一月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍に任命した。臣、連それぞれは氏族を率いて副将や部隊とし、全部で二万人余りの軍となり、出陣して筑紫に下った。吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わして、任那のことを問うた」とあります。皆まで言う必要はありません。いきなり「倭國」と手を組んで軍を出してしまったのです。まさかの宥和派大勝利。馬子の面子丸つぶれです。激怒しない方がおかしいでしょう。しかしことは国の安全保障です。物部守屋らの打った手が正しかったわけですから、ぐっとこらえたでしょう。ところがその翌年冬十月、猪を狩って献上した人がいたのですが、その頭を落とされた猪を指さして「何時如斷此猪之頸、斷朕所嫌之人」「何時になったら、この猪の頭のように朕の嫌いな奴の頭を落とせるものやら」と暗に馬子を始末してやると宣う始末。まさか大王に手出しはできまいという油断があったのか、馬子を舐めていたのかわかりませんが、ここまで虚仮にされて黙っている馬子ではありません。また、放置すれば、自分ばかりでなく、蘇我氏という氏族そのものが族滅させられることは火を見るより明らかです。同じ年の十一月、馬子の配下、東漢直駒崇峻天皇は殺されてしまいます。こうして史上唯一、臣下に弑された天皇が生まれたわけです。(この項、2013年6月17日に追記)

    馬子の嫡男、蝦夷も父の敷いた対立=冷戦路線を守りました。だから、甘樫岡に天皇の宮を中心とした防衛施設を建設したのです。それは継体天皇の怨念と言ってもよいかもしれません。しかしそれではいつか、強大な「倭國」に蹂躙されることになるのではないか。ことにいったん手を取りながらまたその手を振り払ったのですから、その懸念は一層深まります。蘇我氏を憚り、表だった動きは見せませんでしたが、宥和派は、裏で連絡をとりあい対応を協議したでしょう。「倭國」も宥和派が主流になってくれた方が、いつ叛くか分からない対立=冷戦派よりましでしょうから、敢えて旧悪に囚われず、謀略の手を伸ばしたと思われます。

    蘇我氏は強大です。これに戦争をしかけるのは無謀というものです。したがって、現職の大臣であり、蘇我氏宗家の嫡男である蘇我入鹿を暗殺し、クーデターを起こすことを計画したのです。だから、中臣鎌足がここで登場するわけです。中臣氏物部氏と並んで宥和派でした。しかし、臣下で争っていても頭に頂く皇族がいなければ大義名分が立ちません。最初は軽皇子に目を付けましたが、その器なしとして見放し、次に中大兄皇子に目を付けました。『日本書紀』では二人で計画を練ったとありますが、暗殺によるクーデターとはいえ、その後豪族たちの支持がなければ、ただの殺人事件で終わってしまいます。宥和派による支持が既にあったと見てよいでしょう。

    そして「乙巳の変」が起きます。皇極天皇の四年(西暦645年)朝鮮三国の親善使節を受け入れる儀式があり、これに大臣である入鹿は出御しないわけにはいきません。そこを狙われ、非命に倒れました。入鹿は「私に何の罪があったというのだ。(この者たちを)お裁き下さい」と天皇に直訴したと言われています。しかしそれも虚しく、入鹿は殺されてしまったのです。これを聞いた蝦夷は、国のためと推進してきた倭國との対立=冷戦路線蘇我氏を太らせてきたとともに、諸豪族の不満をここまで募らせてきたのだと思い、その反発のすさまじさを感じて従容として死についたものと思われます。

    この入鹿の悲痛な叫びは決して専横をこととし、上宮王家を私怨で討ち滅ぼした人物の口から出てくる類のものではありません。

    しかし、変は成りました。中大兄皇子はこの時19歳。平安の頃ならともかく、当時は即位に難のある年でした。そこで軽皇子を立てたのです。

    その孝徳天皇は難波に出て、難波宮を営みました。奈良の山のから開けた海辺に出てきたのです。その理由は、これから倭國と宥和路線で接していくその第一段階の表明でありました。聖徳太子の前例にちなんで、皇太子が摂政をする体制を取り、実際の政務は皇太子に立てられた中大兄皇子が見ました。彼は倭國との関係改善に熱心に取り組んだでしょう。またこの路線に不満があると見られた皇族、有間皇子をためらうことなく謀殺しました。

    ここで中大兄皇子に天佑が下ります。西暦660年の百済の滅亡です。危機を憶えた倭國は旧悪などふっとんでしまい、日本國との関係を改善し、できれば同盟を結ぶことを考慮したでしょう。いや、同盟したと言ってよいと思います。なぜなら、倭が発出する軍に日本國からも軍を出したと見られるからです。宥和路線が完全に成功したのです。

    ところが、そうして軍を送り出してはみたものの、結果は大惨敗で、倭國は王(『日本書紀』で筑紫君薩夜麻と記されている人物)が連れ去られ、亡国となります。中大兄皇子にとっても驚天動地のできごとだったでしょう。「白村江の戦い」は、よく言われるように倭・百済連合軍が衆において負けていたわけではなく、むしろ新羅軍より大軍を繰り出したことがわかっています。それで大敗北を喫しているのですから、群臣の受けた衝撃もひとかたならぬものがあったはずです。中大兄皇子らが進めてきた宥和路線が意外な形で「日本國」に悪影響を及ぼすことになったわけのです。これは中大兄皇子の求心力を大きく低下させたでしょう。

    一方、いち早く敗報を耳にし、王が捕虜となったことを知った倭國は、ただちに皇子たちに伴をつけて避難させたと思われます。もちろん他にも避難した人は大勢居たでしょう。四国、吉備などに留まった人もいたでしょうが、身分のある人は同盟国「日本國」を頼ったと思われます。その避難した皇子の一人こそ、大海人皇子ではなかったでしょうか。大海人皇子の海人は「阿海」=「」で、それに「大」が付された名前です。九州王朝の正統後継者であることを示す、立派な名前であることがわかります。中大兄皇子も「大皇弟」という尊称を奉り、迎え入れることに何ら異議はなかったと思われます。そしてまさにこの後から大海人皇子が「大皇弟」として『日本書紀』に姿を見せるのです。

    大海人皇子、天武天皇は、生年が『日本書紀』に記されていません。他に記されていないのは、崇峻天皇だけです。崇峻天皇はともかく、「壬申の乱」を経て「皇親政治」で強権を発揮し、日本の律令制の土台を造った人で、なおかつ崩御してから『日本書紀』編纂までそれほど時間が経っていない人物の生年を書き忘れることなどありえるでしょうか。『日本書紀』は天武天皇に特別に二巻を費やしているにも関わらず。そういう不審の目で見ると、この人は『日本書紀』において、『天武天皇』紀以外で名前が出てこないことに気付きます。これだけ偉大な帝王の若年の際の事績が不明というのがいかに奇異なことであるかおわかり頂けるでしょうか。しかも一説には天智天皇より年長だったとあり、まさに謎の人物なのです。

    天武天皇らしき人は、『天智天皇』巻において、前振りもなく突然、大皇弟、東宮大皇弟として登場します。が、最期まで名前は書かれません。あるいは大海人皇子とは後に自称した名前でこの頃は別の名前だったのかも知れません。また、いつ立太子したのかも書かれていません。出自が「倭國」の皇子なら、「日本國」である大和朝廷の皇室関係の記録に生年月日が記されていなくても当たり前です。「倭國」から避難してきたのなら、大和朝廷で立太子の儀式などするはずもありません。

    つまり、それもこれも「倭國」の亡命皇子であったためです。中大兄皇子は当然、これを歓迎したと思われます。期せずして正統王朝の跡継ぎが転がり込んできたのです。中大兄皇子はこの皇子に非常に気を遣い、「大皇弟」という尊称を奉っただけでなく、娘を四人も娶せています。同母の弟であれば歳が離れていたとしてもこんな気の遣い方はしません。他人であるからこそ婚姻でその紐帯を緊密にする必要があったのです。しかも、いずれ子が産まれれば、名実共に正統王朝の血が大和朝廷に入ることになるのであり、それも歓迎すべきことです。一方大海人皇子も、身一つで逃げてきたのではないであろうにしろ、そこまで厚遇してくれる中大兄皇子に感謝したことでしょう。加えて、皇子やその取り巻きは「倭國」の先進的な政治形態や軍備の知識がありました。「白村江の戦い」で惨敗を喫した日本には課題が山積していました。倭國は滅亡していないものの、王が不在では滅んだも同然です。これまで対外交渉は「倭國」が中心となっていましたが、今後は独立してやらねばなりません。

    その布石としてただちに遣唐使を派遣しています。もちろんこれは「日本國」にやってきた唐使を送り返す便だったのですが、唐使に対して弁解これ勉めたでしょう。おそらくその甲斐あって、「日本國」にはさしたる咎もありませんでした。

    とはいえ、「乙巳の変」を起こしてまで推進した宥和路線で、とんでもない国難が降ってきたわけで、中大兄皇子の即位は当分群臣の支持を得られない情勢だったと思います。実際、斉明天皇亡き後、相当の期間を称制でしのいだのですから、抵抗が極めて強かったのでしょう。かといってこの国難に当たって他に皇位に就くべき皇子は他におらず、称制を続けるしかなかったのです。そこで、大海人皇子は厚遇に応えるため、離反しがちな豪族たち、特に地方の豪族に思い止まるよう説得に勉めたものと思われます。「大倭國」皇子の看板が効いたことは疑いありません。

    さらに、大海人皇子とその取り巻きの意見は、さすが先進国「倭國」と唸らせる施策も多かったのでしょう。そしてもはや海沿いに都するのは却って危険であり、内陸に下がるべきだと言ったのではないでしょうか。ところがここに障害が発生します。孝徳天皇その人が宮を移すことに反対したのです。なぜでしょうか。それは天皇と言っても名ばかりで中大兄皇子が諸事専断していたことに対する不満が爆発したのでしょうか。あるいは存在感を増す「倭國」皇子大海人皇子に危機感を抱いたのでしょうか。今となってはわかりません。中大兄皇子はそんな天皇を放置して、皇后、皇子たち、大皇弟や群臣を引き連れて西暦653年、近江宮へ移ってしまいました。

    中大兄皇子は、大海人皇子らの建言を受け入れ、飛鳥を中心に西国へ防衛網を構築していきます。「倭國」にも改めて防衛施設の建設が提起されたことでしょう。水城の造築はこの頃のこととされています。こうした大建築事業は従来の豪族任せのやり方では実現不可能です。各地から直接税を収拾し、その莫大な支出に当てなければとても間に合うものではありません。実際、税の徴収を示すものと思われる木簡はこの頃から出土し始めます。

    西暦668年、長年の称制に終止符を打ち、中大兄皇子は即位して、天智天皇となります。なぜこの年なのでしょうか。この年、第六次の遣唐使がありました。実際にはへ行っていないとも言われていますが、その前の遣唐使で来日したの使者、法聡がこれで帰国しています。この遣使は、送唐客使だったのです。つまり、「白村江の戦い」の事後処理について、漸く決着がつき、安堵することができたからだと思われます。そして周囲もそれを認めたので即位となったのでしょう。

    つまり、世に言う「大化の改新」はなかったにしても、継体天皇以来対立=冷戦路線を取っていた「日本國」が宥和路線に転換した画期、という意味では「改新」であったのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑰大化改新(前編)

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    古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。

    ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祭るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。

    乙巳の変」は、『日本書紀』によると、蘇我氏の専横を憎んだ中臣鎌足中大兄皇子が計画し、実行したことになっています。

    一般に蘇我氏の専横とされるのは、

    1. 蘇我馬子が崇峻天皇を弑したこと
      崇峻天皇は歴史上臣下に弑された唯一の天皇です。(この項、2013年6月17日に追加)
    2. 蘇我蝦夷が上宮王家(聖徳太子の一族)が勢力を持つことを嫌い、舒明天皇を擁立したこと。
      蝦夷山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてまで、田村皇子を即位させることを強行したと言われています。
    3. 舒明天皇が崩御した時も、皇后であった宝皇女=皇極天皇を即位させたこと。
      これも上と同じ動機とされています。
    4. 甘樫岡の上に豪邸を並べ、蝦夷の邸宅を「上の宮門」(うえのみかど)、入鹿の屋敷を「谷の宮門」(はざまのみかど)と人々の呼ばせたこと。
      宮門とは皇宮の門を指しますから僭上の沙汰とされています。
    5. 蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員したこと。
      聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議したと言われています。
    6. 蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部大臣となしたこと。
      次男を物部大臣としたのは、彼の母(入鹿らにすれば祖母)が物部守屋の妹であるという理由によります。
    7. 専横の究極として、上宮王家を滅ぼしたこと。

    が挙げられます。ところが、これらの問題は客観的に見ると以下のように解釈するのが自然となります。

    1. 後編で詳しく見ていきますが、これは政治問題での対立が根にあり、誅殺されそうになった馬子が先に手を打ったものと考えられます。自ら立てた天皇を弑逆するのは余程のことであり、その対立が族滅を引き起こしかねないと危惧したからこそ敢えて踏み切ったのが真相でしょう。(この項、2013年6月17日に追加)
    2. 舒明天皇敏達天皇の息子であり、皇位の継承に無理がありません。いくら聖徳太子が摂政皇太子であったとはいえ、山背大兄王が継ぐ方がよほど問題であったでしょう。蘇我蝦夷にとってはその同母の妹が山背大兄王の母であったのであり、むしろ蘇我氏に不利な皇子を推したことはその裁定が公平であったことを示しています。
    3. 皇后が天皇に即位するのは推古女帝の前例があり、舒明天皇の子供が年少であったこともあり、むしろ自然であったでしょう。この場合、皇子たちが成長するのを待って譲位する、中継ぎの天皇であったと思われます。天皇になる条件は天皇の血に近しいことですから、舒明天皇の皇子らと山背大兄王では勝負がはっきりしていました。
    4. これは、2005年に甘樫岡の発掘調査が行われた結果、「谷の宮門」で兵舎と武器庫の存在が確認されています。また蘇我蝦夷の邸宅(「上の宮門」)の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置いたのだとする説が出ています。
    5. これについては、この土木工事が本当は何であったのかが問題になります。本当に陵墓を造ったのなら、それらしい遺跡が残っていてもよさそうなものですが、そんなものがあったという記録は残っていません。逆に上で挙げられた説の通り、飛鳥板葺宮の防御力を高めるための工事であった可能性が高いのです。
    6. 蘇我氏はそもそも「冠位十二階」の外にあって冠を授ける側であり、実はこの行為には何も問題がないのです。蝦夷の母は物部氏の出身であり、蝦夷自身物部氏の母の実家で育ったのですから、次男に物部を継がせても当然と言えます。

    おやおや、蘇我氏の専横と言われていたことに実は実態がない様子が見られますね。これは『日本書紀』が後からこじつけた理由である疑いが極めて濃厚です。では、最後の上宮王家を滅ぼしたという点についてはどうでしょうか。

    日本書紀』には、皇極天皇の二年(西暦645年)、冬十一月、蘇我入鹿の軍勢が斑鳩の宮を急襲したと伝えています。少し長いのですが、この事変の様子を引用します。

    十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮。灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰。其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。有人遙見上宮王等於山中。還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼。速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。

    十一月丙子の朝、蘇我臣入鹿小徳の巨勢德太大仁の土師娑婆を遣わせて、斑鳩山背大兄王らを襲った。ある本では巨勢德太と倭馬飼首を將軍としたという。ここにおいて、奴三成と舎人が數十人出てきて戦いを挑んだ。土師娑婆は矢に当たって死んだ。軍衆はこれを恐れて退いた。軍の中では、一人当千とは三成のことを言うのだと言い合った。山背大兄王は、しきりに馬の骨を取って奥座敷に投げ置いていたが、遂にその妃や子供らを率いて逃げ出すことに成功し、膽駒山に隠れた。三輪文屋君、舍人の田目連及其女、菟田諸石、伊勢阿部堅經らが従うばかりだったとか。巨勢の臣らは斑鳩の宮を焼いた。灰の中に骨を見つけ、誤って王が死んだと言い、軍を解散して退去した。このおかげで山背大兄王らは四、五日ほど山に留まることができたが、その間飲まず食わずであった。三輪文屋君は御前に伺候して「深草屯倉に移り、馬をかって東国へ赴き乳部を本拠として軍を興し、それから帰ってきて戦いましょう。必勝は間違いありません」と強く勧めた。山背大兄王らは「卿の言う通りにすれば必勝は疑いないだろう。ただ私は十年間百姓を軍務で煩わせないと誓願したのだ。この身のために万民を煩わせられるだろうか。また後世において私のために父母を失ったと民に言わせたくないのだ。この戦いに勝ったとて人より優れていると言えるだろうか。身を損なっても国を固めてこそ、人より優れた者と言えないだろうか。
    山中に遠くから上宮王からを見た人がいた。蘇我臣入鹿のもとに戻って報告した。入鹿はこれを聞いて大変懼れた。軍を速やかに発し、高向臣國押に王の所在を伝え、ただちに山へ向かい山背大兄王らを捉えるように言った。國押は「天皇の宮をしっかり守り、決して外へは出ますまい」と言って断った。そこで入鹿は将として自ら出向くことにした。この時、古人大兄皇子が息せき切ってやってきて「どこへ向かうのか」と問うた。入鹿は詳しく説明した。古人皇子は「ネズミは穴にこもって生きている。穴を失えば死ぬしかない」入鹿はこれを聞いて自ら行くのを止めた。軍将らを遣わし、膽駒で山背大兄王らを探させたが、探し出せなかった。ここにおいて山背大兄王らは自ら山を下り斑鳩寺に入った。軍将らはすぐさま兵で寺を囲んだ。ここで山背大兄王三輪文屋君を使者にして軍将らに「私が兵を興して入鹿を討てば必ず勝つことは間違いない。しかし一身のために百姓を傷つけようとは思わない。そのため、私の身は入鹿にくれてやろう」と伝えさせた。ここで子弟や妃妾らと皆首をくくって共に死んだ。この時五色の幡蓋が現れ、様々な伎樂が鳴り、空を照らし灼いて、寺に臨垂した。人々はこれを仰ぎ見て驚き、遂には入鹿に指示を請うた。その幡蓋などは変じて黒雲となった。これより入鹿は目が見えなくなってしまった。蘇我大臣蝦夷は山背大兄王らがみな入鹿によって死に至らしめられたことを聞いて、口を極めて罵った「ああ、入鹿め。極めて愚かで疑り深く、専行暴悪であり、お前の命も長くはないぞ」

    日本書紀』が「聖徳太子」を神格化しようとしていることは改めて述べるまでもありません。当然その筆は子供たちにも及びます。先に述べたとおり、山背大兄王の母親は蘇我蝦夷の同母妹です。従って、上宮王家は蘇我宗家の後見がありました。つまり、蝦夷入鹿には身内に近く、山背大兄王らが大人しくしている分には敢えて命を付け狙う理由がありません。ところが逆に、山背大兄王蘇我氏を付け狙う理由ならあるのです。

    • 自分を後見していた蘇我氏内の有力者、境部摩理勢が殺され、舒明天皇が即位したこと。
      死んでいなければ当然父は皇位を履んでいたはずである。従って自分の即位が当然のところを邪魔されたと山背大兄王が恨んでも無理はありません。
    • 入鹿古人大兄皇子の擁立をはかり、その中継ぎの天皇として皇極天皇を立てたこと。
      わざわざ女帝を立てなくても自分がいるではないかと思ったとしても当然でしょう。

    ここで、最初の戦いを見てみると、入鹿側の将、土師娑婆は矢に当たって死んでいます。「土師娑婆連中箭而死軍衆恐退軍中之人相謂之曰一人當千謂三成歟」あまり攻める側の雰囲気ではありません。どちらかと言うと守る側の状況を説明しているようでもあります。しかも戦況不利と見るや山背大兄王は馬の骨を宮の建物に放り込んで、死を偽装しようとしています。急襲されてやむなく防衛し、隙を突いて脱出する…人の行動にしては冷静が過ぎると思うのですが。

    しかも再起を期せば必ず勝てると臣下が強く勧めるにも関わらず、百姓を傷つけたくないという理由で逃亡するかと思いきや、斑鳩寺へ入るという自殺行為を行います。まさしく自殺するのですが、この行動は全く意味不明です。むしろ、事を挙げておきながら、意外にも同調するものが少なくて事態を諦めてしまった人のようです。あるいは斑鳩寺を本陣として最後の抵抗を試みたとも見て取れます。

    つまり、山背大兄王が謀反を起こし、天皇位に就こうとしたのを入鹿が阻止したのだと考えることは充分可能ですし、彼らが族滅させられたのもそのためだったと考えれば充分納得できるのです。しかしだからと言って、山背大兄王らに同情する豪族が全くいなかったかと言えばそんなことはなかったのでしょう。それでも、生かして捉えておけば事態の処理のしようもあったのに、追い詰めて死なせてしまってはどうしようもありません。そういった豪族の目にはまさしく蘇我氏の横暴と移ったでしょうし、その不満は鬱屈していつか爆発します。蝦夷は、入鹿が政治的に悪手を打った点を責めたのです。

    ここで改めて考えてみて下さい。山背大兄王はあの「聖徳太子」の嫡男です。その嫡男が悲劇的な死を遂げたなら、丁重に葬り、あるいは少なくともその死処となった斑鳩寺で菩提を弔うことくらいはするでしょう。ですが、山背大兄王の墓所がどこかは全く記録がないのです。死に場所となった斑鳩寺にも伝えられていません。しかも斑鳩寺が菩提を弔っているのは「聖徳太子」だけです。

    さらに、山背大兄王を襲撃したとされる巨勢徳太ですが、大化五年(西暦650年)四月、なんと左大臣に任命されています。大逆甚だしと言われた入鹿の命令に従って、罪もない山背大兄王らを殺した人が何故に? 「聖徳太子の孫・弓削王」を殺害したとされる斑鳩寺の狛大法師は、大化元年八月、「十師」(とたりののりのし、仏教界の最高指導層)の筆頭に任じられています。びっくりです。襲撃後すぐに入鹿によって賞されたというならまだわかりますが、その入鹿を天下の大逆として暗殺した「乙巳の変」の後にこれが行われているのです。逆に、山背大兄王に最期まで付き従った忠臣、三輪文屋という人物について、この事変の記事以外には、どの文献にも記録が残されていないのです。これを以てしても、山背大兄王事変が『日本書紀』の言う通りに入鹿の専横を表すものなどではなく、むしろ、山背大兄王側が暴発した結果であることがよくわかる叙任ではありませんか。

    しかし『日本書紀』にとって「聖徳太子」はスーパースターでなくてなりません。その子供が謀反を起こしたなど以ての外です。ゆえに攻守が逆転されて、入鹿が襲って殺してしまったことにしたのです。しかし本当は叛徒ですから、墓所など当然なく、ないものは書きようがないので、書かれていないのです。また逆賊ですから斑鳩寺も菩提を弔うなどということをしていないのです。

    これは重大です。蘇我氏が強大であったことは事実でしょうが、「乙巳の変」を正当化する専横という事実はなかったのです。ではなぜ、にも関わらず中臣鎌足中大兄皇子は「乙巳の変」を敢行したのでしょうか。それはこの頃の国内や国外の情勢を考える必要があります。

    蘇我氏の邸宅や氏寺の飛鳥寺は、皇宮を外敵から守るように配置されていました。この外敵とは、建国間もない「」を意識したものであるとされていますが、いかに日本が大陸に比べて小さいとはいえ、「」に備えるにしては少々迂遠な設備です。大陸からの侵攻を防ぐのであればまず九州を固めねばならないでしょう。ところが、『日本書紀』には—天皇のおわす宮の周囲を固めるのはよいとしても—日本の玄関口である九州の防備を固めたとは書かれていないのです。むしろ、宮の周囲の防備は国内に敵がいてその急襲を懼れたためではないでしょうか。当時、日本には二つの国がありました。「倭國」と「日本國」です。大和朝廷はもちろん「日本國」です。「倭國」と「日本國」は継体天皇による簒奪、「磐井の乱」以来、対立していたと見なすのが自然です。するとこの防備も「倭國」に備えてものと考えるべきでしょう。九州の防備について書かれていないのは、もちろんそれが「倭國」に属する問題だったからです。暗殺という非常手段に訴えてでも主導権を握る必要がある重要な課題とは、この「倭國」を巡る問題だったのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑯九州王朝について補足

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    九州王朝について補足しておきます。

    1. 北九州は大陸、朝鮮半島に対する表玄関である。

      これは地図を見れば明らかですね。縄文時代より大陸、朝鮮半島から渡来人/帰化人がやってきて住み着いたとすれば、

      のいずれかのルートで到来したことは明白です。常に先進文明を真っ先に受容する地に日本最初の王権が登場したとして何の不思議があるでしょう。奈良の田舎に誕生したとする現在の学説の方がよほど奇異です。

    2. 古事記』『日本書紀』に九州の地名が頻出する。

      • ニニギノ命が天下った先は、「竺紫日向之高千穗」です。筑紫なんですね。しかもその地を愛でて、
        「於是詔之、此地者、向韓國、眞來通笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也」
        と言うわけです。筑紫は韓国に面しているのだから当然ですが、朝日も夕日も照り映えるとあるところから、海岸に近いところだったことがわかります。で、そこに宮を建てて住んだわけです。
      • 次に神武天皇が東征に当たり、最初に移動したのは、豊後宇佐です。次に筑前の岡田の宮に一年います。何をしていたのでしょうね。
      • 仲哀天皇は「穴門之豐浦宮」と「筑紫訶志比宮」と二つの宮を営んでいます。なぜ大和ではなくそんなところで宮を営んだのでしょう。熊襲の国を討とうとしたということですが、天皇自ら?
      • 應神天皇は日向の髪長姫を娶っています。なぜ大和の天皇がそんな遠いところの姫を娶ったんでしょう。
      • 以上は『古事記』からですが、『日本書紀』にはもっと九州のことが出てきます。神代が特徴的ですが、他にも景行天皇の九州巡幸がありますね。これも熊襲を討とうとしたとありますが、天皇自ら?
      • 結論:近畿天皇王朝の祖が九州に住み、その孫である神武天皇も九州から出発して東征している。九州に強大な権力があったことが前提として予想される。
      • 歴史上、重要な神託は宇佐八幡宮よりもたらされている。

        道鏡事件』に限らず、古代において宇佐八幡宮が重視されていた。天照大神が祭られている伊勢神宮には明治に入るまで参拝どころか勅使が送られた形跡もない。

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  • 日本の古代史を考える—⑮磐井の乱

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    重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。

    古事記継体天皇の条に、

    此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。

    筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。

    と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、

    廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲往任那、爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前、遂戰而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滯。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。

    二十一年(西暦527年)夏六月壬辰朔甲午の日、近江の毛野臣が六万人の軍を率いて任那に渡ろうとした。新羅が滅ぼした南加羅・喙己呑を任那にあわせて再興しようとしたのである。ここにおいて筑紫國造磐井は叛逆を密かに計画したが、なお数年はためらっていた。反乱の成功が期し難いことを考え、いつも隙を覗っていた。新羅がこれを知り、密かに磐井のところへ賄賂を送り、毛野臣軍を防がせようとした。ここに至り、磐井火國豐國の二国を襲って根城とし、職を修めさせず、外は海路で待ち受けて、高麗百濟新羅任那等の国の貢職船を誘致し、内は毛野臣軍が帰国しようとするのを妨げ、乱語揚言して曰く「今は使者とされているが、昔は自分と伴にして肩を撫でさすり肘を触れあわせ、同じ食器で同じものを食べたのだ。どうして突然使者などというものにして、はしためのように御前にぬかづかせるのだ。戦ってでも受けはしない。そちらが私を軽んじるなら、自分で尊くなるだけだ」ここにおいて毛野臣は、磐井の軍と対峙して踏みとどまらざるを得なかった。天皇は詔して大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人らに曰く「筑紫の磐井が反乱を起こし、西戎の地にいる。討伐の大将には誰を任命すればよかろう」大伴大連らは一致して「軍事において正直で仁勇を備えている者で、麁鹿火の右に立つものはいません」天皇は「よろしい」と許可した。

    と伝えています。この内乱を時の朝廷がいかに重視したかは、続いて述べられる継体天皇の詔にも現れています。曰く

    大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。

    大将を民の司に命ず。社稷の存亡はここにあるのだ。勉めよ。恭しく天罰を行え。天皇は親しく斧鉞をとり、大連に授けて曰く「長門の東は朕がこれ支配する。筑紫の西は汝がこれ支配せよ。賞罰は専断せよ。いちいち奏上する必要はない。

    さて、天皇が「社稷の存亡これにあり」と言った戦いは、かつてありませんでしたし、この後もありません。かつて吉備氏が反乱を起こした時も、そのような大げさな詔が出された形跡がありません。ましてや、遠く九州の片田舎にある反乱を鎮圧するには、過剰なくらい大げさな表現です。この乱が単に大規模であったというだけでなく、ただ事ならぬ意味合いを持っていることは間違いありません。

    日本書紀』によると、継体天皇は大和入りに二十年をかけており、前年に「磐余玉穗」に宮を構えたばかりです。政権が安定していなかったと言うこともでき、ここで反乱の鎮定に失敗すれば、政権が土台からひっくり返される恐れがあったのかも知れません。しかし、継体王朝は、それまで続いていた崇神王朝が武烈天皇で断絶したため、遠縁の継体天皇を大和の豪族が迎えて興した新王朝であることが、今では定説となっています。大方の豪族の支持を得ることができたからこそ、大和入りもできたのでしょうし、だからこそ、反乱の鎮定に大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人といった大豪族を派遣できたのでしょう。それを考えると、政権を脅かしたという定説は素直に肯んじることができません。「社稷の存亡」ということそのものがありえないのです。さらに異様なのは、麁鹿火に「九州はお前が支配しろ」と命じた言葉です。当時、大和政権が全国支配していたとしても(関東以北は蝦夷の支配圏)、政権が支配する領土の半分をくれてやるに等しい言葉を、単なる内乱の鎮圧にあたって述べることができるでしょうか。しかも二十年かかってやっと大和入りした継体が、です。継体の大和入りが二十年かかったのは、豪族間で意見の不一致があったからだとする説が有力なようですが、それならなおさらその豪族の勢力を強化するようなことを継体が敢えて行うなど、常識的に考えてありえません。逆に、それだけの報償をぶら下げないと豪族を動かせなかったのだとも言えますが、大陸との交渉の要である筑紫を押さえられると困るのは、他の豪族も同じであって、敢えて巨大なエサをぶら下げる必要がどこにあったのでしょう。

    ところで、「磐井の乱」に触れているのは『記紀』だけではありません。『釈日本紀』に引用された『筑紫風土記』に次の一文があります。

    古老伝えて云う、雄大迩おほどの天皇の世に当り、筑志の君磐井。豪強暴虐、皇風にしたがわず。生平の時、あらかじめ、此の墓を造る。にわかにして官軍動発し、襲わんと欲するの間、いきおいの勝たざるを知り、ひとみずからら豊前の国、上膳かみつけあがたのがれて、南山峻嶺のくまに終る。ここおいて官軍追尋してあとを失い、士、怒り未だまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ちとしき。

    生前に墓を作ったのが無礼だったのでしょうか。「俄かにして」とあるので、突然官軍が襲ってきたことになります。『日本書紀』とは書きぶりが異なり、同情的でもあります。王権に抵抗したことが後に同情を生んだのだという論者もいますが、それは主客転倒というもので、もともと磐井の君に同情的だったからこそ、このような内容が語り継がれたというものです。あれあれ、何か怪しいですね。内乱があったことは確かでしょうが、これは『日本書紀』の記述を鵜呑みにはできないようです。

    ところで、九州には「キミ」を持つ豪族が多くいたことがわかっています。それらの豪族を束ねる存在がいたとしたら、何と呼ぶのが相応しいでしょう。そうですね。「オオキミ」と普通は呼びますね。「キミ」は天皇の皇子たちに与えられたです。なぜ九州にそのを持つ豪族がたくさんいたのでしょう。答えは自ずから明らかです。九州に「オオキミ」がいて、その子孫が九州内の各所に豪族として定着したからですね。九州に王朝があったことは、中国正史の倭人、倭国に関する記録から明らかになっています。ところで、継体天皇の二十一年は西暦527年に比定されています。ということは、即位が西暦507年になるのですが、そのあたりに何かありませんでしたか? はい。倭王武が「」に朝貢して「征東大将軍」の官位を授けて貰ったのが、西暦502年で、そのすぐ前です。ところがその一回きりで朝貢が途絶えています。あれほど官位を授けられることに熱心だった王朝にしては何か変です。「」は西暦557年まで続きますから、物理的に朝貢できないという事態ではありません。間違いなく何かそれどころではないことが起きたことを示しています。そう言う目で「磐井の乱」を見てみると、九州王朝の主を乾坤一擲、一か八かの大勝負で継体軍が強襲したと解することができます。つまり、これは継体による九州王朝の「簒奪」なのです。だからこそ「社稷の存亡これにあり」と継体が檄を飛ばし、「筑紫の西は汝が支配せよ」と剛毅なことを言ったのも、天下を取るにあたり、人心を収攬する必要があったからでしょう。そんな大軍で攻め寄せられれば、長年の征戦に疲れていた九州「オオキミ」王朝はひとたまりもなかったと思われます。ところが、簒奪があったにしては、後の『隋書』にも明らかなとおり、九州王朝はその後も存続し、に朝貢し、答礼使である裴世清を受け入れ、オオキミ自ら会っています。これはどう理解したらよいのでしょう。

    これは『古事記』の原文にあたればすぐわかります。現代語訳は、枕詞のように宮のあった地名に「大和の」とつけていますが、原文にはそんな言葉はありません。つまり、『古事記』には大和に朝廷があったことなど書かれていないのです。書かれていないことを書かれているかのように説明することを「改竄」と言います。歴史学者はこれを何と説明するのでしょうね。例によって江戸時代からの伝統とか持ち出すんでしょうか。というか、従来の学説の拠ってきたるところは、まさにその「江戸時代」から学者がそのように唱えてきたからでしかなく、何か科学的な根拠があってのことではないのです。ということで、説明が済んでしまいましたね。あるいは『古事記』に従うと、継体天皇は西暦527年に没したことになりますから、国内の鎮定を終えて宮を定めると、すぐに死んだことになります。「磐井の乱」の始末が片付かない間に死んだのかも知れません。そうなると、九州王朝ゆかりの王族が立つのは自然な話です。簒奪を目論んだ大和朝廷の王は死に、再び正当な九州王朝のオオキミが立てられたでしょう。加えて『日本書紀』では今は伝わっていない「百済本記」による説として「天皇と皇太子が同時に亡くなった」という風聞が百済にあったことを述べています。しかし、継体天皇の子供は三人とも皇位を履んでおり、これが継体天皇とその皇子を指すとは考えられません。あり得るのは筑紫の君磐井とその嫡子を指して述べた文であることです。

    継体王朝が正当なる九州王朝を簒奪したのであれば、それ故、朝貢を続けられなかったことが肯けます。また、いくら磐井の君を追ったからといって、九州内の豪族がすぐに服属したとは思えません。簒奪した王権を安定させるには、もちろん様々な懐柔や重ねての討伐もあったでしょう。それが継体の「二十年間」だったのではないでしょうか。それを馬鹿正直に書くわけにはいかなかったので、哀れ継体は「二十年間」も磐余の宮へ落ち着くことができずに、放浪の天子にされてしまったというわけです。そもそも中国の正史や朝鮮の『三国史記』を信用すれば、五世紀から六世紀の初頭まで外征や国内の征討に王権は忙殺されており、大変な時期であったわけですが、『記紀』にはそのことが全く触れられていません。むしろ頭に頂くべき天皇が二十年も宮が定まらずうろうろしている有様ですから、そんなことができようはずもありません。となれば、反乱があったという話もひどくうろんな話になります。『古事記』が簡略に「殺石井也」と片付けているのも、無視するには重大すぎる簒奪の失敗を糊塗するためであったかも知れません。むしろ、『日本書紀』の方が文飾を試みようとして却って真実の一端を表しているようにも思えます。「外邀海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」とあるのは、これらの国を従えていたのは九州王朝ですから、筑紫に船が入るのは当たり前のことです。「內遮遣任那毛野臣軍」とあるのは、突然軍が攻めてきたらこれに対して防衛するのも当然のことです。今まで手厚く遇してきた臣下あるいは分家が突然牙を向いて自分にひれ伏せと言ってくれば、激怒して当たり前です。まさしく飼い犬に手を噛まれたと思ったでしょう。

    いずれにせよ、継体天皇の死を以て簒奪の試みは頓挫したと言えるでしょう。しかし、九州王朝にも少なからぬダメージを与えたはずです。昨日手厚くもてなした者も今日は叛逆する。後継者はその無情をかみしめたことでしょう。『隋書』では倭に仏教が伝来したことが書かれていますが、「多利思北孤」も篤く帰依していたことが「聞海西菩薩天子重興佛法」という言葉や仏僧五十人を遣隋使に随行させたことでもわかります。

    それにしても、なぜ継体天皇は、九州王朝の簒奪という暴挙に出たのでしょう。継体天皇応神天皇五世の孫ということになっていますが、実はこの辺り『日本書紀』でも系図が失われていて、はっきりしたことはわかっていません。大和朝廷の豪族が推戴したのですから、どこの誰ともわからないような係累ではないでしょうが、遠い血であったことは確かでしょう。従って王権も制限され、思うように統治ができなかったものと推察されます。ここで王権を強化するには、と考えを巡らし、本家本元の王朝、九州王朝を奪うことで王権を強化しようと考えたのではないでしょうか。おそらく勇名轟く倭王武は既に崩じていて九州王朝も動揺していたのでしょう。その隙を突いたと考えられます。ところが豈図らんや。抵抗が強固で鎮撫することがなかなかできず、そのうちに没してしまったものと考えられます。

    さてそうすると、いつ頃日本の王権が大和朝廷に移ったのかという疑問が生じます。この疑問には『舊唐書』がヒントを出してくれています。その高宗本紀に、西暦654年に倭国が朝貢した記事があり、それ以降、倭は朝貢していません。その頃あった日本の大変というと、「大化の改新」とそれに続く「壬申の乱」です。なぜ新興豪族蘇我氏を滅ぼしただけの政変が「大化の改新」などと仰々しく言われるのか。なぜ皇太弟であった大海人皇子が乱を起こさなくてはならなかったのか。ひとつ歴史学者に明快な説明を願いたいところです。

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