• 日本人の原点に農耕はない

      0 comments

    次のブログ記事が、Tumblr でリブログされているのを見かけました。
    http://shinjihi.hatenablog.com/entry/2013/08/13/165545

    このブログの著者の言わんとしていることはわかるし、それは大いに肯定したいところなんだけど、いかんせん論拠が正しくなくては全面的に賛成とは言えなくなってしまいます。なぜなら、日本人の気質の淵源として「農耕」が挙げられていますが、それが全て間違いなので仕方がありません。以下、各論にて示します。

    1)【上司が来ているのに遅く出るのは非常にまずい】【上司が残っている間は帰りにくい】→これ農耕文化です。

    違います。農耕は耕作者が自分の決めた予定で作業をする産業です。田舎へ行って実際の作業を見てみて下さい。無論、機械化されているので、個別度が極端に上がっていますが、機械が入る前も、田植えと稲刈り以外は各自ばらばらでやってました。田植えや稲刈りは結を組んで集団でやったのですが、それは期間が限られている上に自力で労働力を調達する方法が他になかったからです。田植えの時期は五月女と言って若い女性が集団で田植えを賃作業として請けて村々を回っていましたが、上司なんぞおりません。ムラの庄屋さんが見張ってるわけでなし、村長が監督に来るわけでもなし。およそ上司の目を気にする気質とは無縁でした。

    村の人「明日から全員田植えだ。」

    A君「俺、俺の分の田植えは明日やるから今日は寝てます。」

    そんなことは言えないと主張されていますが、田植えだって一瞬で終わる作業ではありません。当然順番です。どこからどんな順番でやるかはムラの寄り合いで決めていました。ですので、「明日から全員田植えだ」→これ自体がありえません。農業をもっと勉強された方がよいと思います。

    じゃあ、上司の目を気にするってどこから来たのよ? というと、こういう気質を今でも濃厚に持っているのは、狩猟採集民族です。狩猟こそ集団で行わなければ獲物が狩れません。またボスの指示に逆らったり手前勝手なことをする奴がいると、段取りが狂い、やはり獲物が狩れません。全体を采配するのはリーダーやボスです。その指示通りに動かないと成果が手に入らないとなれば、自然、リーダーやボスの動向を気にかけるようになります。

    日本は、縄文時代という、とてつもなく長い、だいたい一万年という期間を狩猟採集で過ごしました。それで定住までしてたんですから、非常に生産性の高い国土だったのです。それが、たかだか二千年ちょいしか歴史のない農耕気質に取って代われる? 馬鹿も休み休み言うものです。日本人の原点は縄文時代にあるのです。

    2)【あいつがサボリ癖あるんで、頭に来る】→ これ農耕文化です。

    これも農業に対する誤解があります。農業は、例えば稲作でも田んぼごとに用水や日射、土壌で条件が違いますから、一斉作業というのは本当に稀です。労働集約の極致、田植えですら、村を挙げて一斉にとはなりません。それに農業は稲作がすべてではありません。畑作、麦作り、養蚕、果樹園、全部耕作者がどんなものを植えるかどこへ売るかを決めてました。また、自作にせよ小作にせよ、耕作者が生産物の責任を負います。荘園制度の昔から惣村制の近世、地租改正以後の近代、皆耕作者が自らの責任で収穫を上げなくてはなりません。平安時代なんか予定の年貢を納められなかった者を武士がリンチにかけている話があちこちに残っています。その武士自身、都に上れば年貢の未納で同じように貴族からリンチされているのですから、それはもう。他人がさぼってようが根を詰めていようが、自分が規定の年貢を納められるかどうかが重要になってきます。そりゃ秀吉の太閤検地までは年貢といえば村に請け負わせるものでしたが、年貢さえ納めれば文句が出なかったので、何をしていても文句は出ません。逆に年貢を納められなかったら普段働き者であっても、村中からリンチされるか村八分になるか、いずれにせよ生きてはいけません。なにせ村が肩代わりしなくちゃならないので。農業こそは成果主義であって、過程を問わないのです。

    「自分の分の田植えをサボって、俺たちにその分を押し付けて楽をしている感じがする」→これ、ないんです。自分の分の田植えをサボったら、自分の田は稲が育たないだけです。無論村八分です。年貢を肩代わりするのは村でしたから。江戸時代なんかは耕作者を直接藩なり幕府なりが代官を通じて把握していましたから、完全に個人の責任です。他人は口を出しません。公儀から仕置きを受けるのも耕作者自身です。もちろんかつての時代も日本人は狩猟採集的でしたから、基本的に真面目に勤め上げるものでした。周りの目も気にしてましたし、サボってばかりだと悪口を言われました。でもそれは農耕の本質とは関係ないのです。

    サボる奴がいると切実に困るのは、やはり狩猟です。決められたことをちゃんとやらない奴がいると、獲物の追い込みにも穴があくわけで、そこから逃げられてしまいます。その結果、全員が食料を調達できなくなります。自然、各自真面目にやってるかどうか互いにチェックするようになります。

    3)【年長の人に反対されると通せない】【全員一致の意見が尊重される】 → これ農耕文化です。

    残念ですが間違っています。本当に年長者の意見が何よりも尊重されるなら、周期的に襲ってくる不作、飢饉に対応できなくてはなりません。が、いつもその場限りの対応で、村は本当に無力です。これはそんな古老の知恵など何の意味もないことをよく表しています。旱が続いたりしたら、古老の知恵より暴力闘争です。水争いが死人の出るほど激烈になる場合もある緊張したものであったことをご存じないのでしょうか。農業の知恵は「暦」に集約されており、それ以上の対応はもっと広域の藩とか幕府といったレベルでないと対応不可能です(ひどい飢饉の場合は藩レベルでも対応不可能で、幕府が藩を救済しなくてはなりませんでした)。ゆえに年長者の意見はほどほどにしか扱われなかったのです。「隠居」というのが何を意味していたのかよくお調べになった方がよろしいかと思います。

    「狩猟社会では、狩りは毎回違います。同じところに同じ獲物が同じ数だけ待っている可能性は限りなくゼロに近い」そうです。だからこそ、古老の意見というものが重要になってくるのです。狩りにせよ災害にせよ様々なケースに対応してきた知識が応用できる場面が無数にあるのです。万年同じ事を繰り返す農耕のどこに古老の意見の出番があるでしょう。しかも既に述べた通り、切実に困った時には役に立たないのです。

    「従い、狩猟社会のリーダーはその能力が衰えれば次のリーダーにその役割を渡す事が集団全体(その衰えてきたリーダーにとってさえも)の利益をもたらします」違います。能力を何だと思ってらっしゃるのでしょうか。ボケたら役に立たないのは狩猟に限りません。ゆえに除外されます。ここで言われているのは体力でしょう。加えて狩りの実際をご存じないため、まるで見当違いのことを仰ってます。狩りのリーダーは体力勝負ではありません。確かに老人にはキツいでしょうが、農耕だって七十,八十になればできることは極端に限られてきます。狩りのリーダーは判断することが仕事です。その判断力を維持する体力がなくなった時点で引退するだけで、過去の豊富な事例知識は臨機応変に対応を迫られる狩猟においてこそ重要なのです。春に判断して結果が出るのは秋とかのロングスパンでは判断もへったくれもありません。結果の見当がつく段階になった時には手遅れです。

    もちろん狩りが終われば、次の狩りまでお休みです。体力を回復する余裕は充分にあるのです。これに対して農耕は年中働き通しです。縄文人に比べて弥生人は骨が太いという研究結果がありますが、農耕により労働が強化されたためであるとされています。体力リタイアは農耕の方が早いのです。

    「一番の年長者は尊敬はするものの、その年長者の意見で狩りが左右されることはなかなか無いはずです」→狩猟採集民族について調べたことがありませんね? 何より一番の年長者の意見をリーダーやボスは尊重します。自分にはない豊富な経験に裏打ちされた忠告は、狩りを成功させるのに重要な要素なのですよ。何せその年長者ですら判じかねて神にお伺いを立てることがままあったのですから。

    なお、全員一致の意見が尊重されるのは、狩猟採集、農耕に限らず、集団運営の基本です。これが尊重されなければ、そもそも多数決原理が破綻してしまいます。

    「イスラエルでは【10人の会議で9人の意見が一致したら、10人目は違う意見を言う事が義務付けられている。これを10人目の男という。】そうです」本当かなぁ。でもこれって多様性の原理を主張しているだけで、全員一致が悪いとは言ってないと思うけど。

    4)現代日本社会は農耕文化だけで良いでしょうか?

    非常に残念ですが、出発点を間違えているために、ことごとく的を外しています。欧米は狩猟民族ではありません。欧米こそ極めて農耕的なのです。だからこそ個人主義が根付くのも早かったし、組織分担というものにシビアなのです。逆に日本は極めて狩猟採集的です。【上司が来ているのに遅く出るのは非常にまずい】【上司が残っている間は帰りにくい】 【あいつがサボリ癖あるんで、頭に来る】 【年長の人に反対されると通せない】【全員一致の意見が尊重される】最後を除いてすべて狩猟採集民族が濃厚に持っている気質です。全員一致は狩猟採集民族、農耕民族、掠奪民族みなに共通する属性です。

    5)農耕は非常に重要です。

    確かに重要です。農耕民族が起こした工業という産業に狩猟採集民族的気質で適応してしまったがために、社会の各所で歪みが出ています。農耕民族的規範に従わないと社会が病んでしまうのです。その意味で、日本人は農耕民族的規範を身につけるべきで、特に政治家や官僚、経営者はそのような規範を自らに課し、進んで社会を引っ張らなくてはなりません。ブラック企業を放置していると労働市場が不健全化し、産業そのものが成り立ち行かなくなっていきます。

    ですが、私は日本人の狩猟採集民族的気質、つまり、空気を読んで交際を考える。集団内の視線に敏感で、周囲にきちんと配慮ができる。年長者を敬う。外来の者にも親切に接する。宗教に寛容である。そんな点が大好きです。それは美徳でもあります。どんな規範にも良い面悪い面が必ずあります。狩猟採集民族規範の良い面と農耕民族的規範の良い面のいいとこ取りができれば理想なのですが、さすがにそれは望みすぎでしょう。でもできるだけそういう良い面も残しつつ、しかしビジネスはドライに現実的に対応していきたいし、してもらいたいと思います。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 専業主婦を否定しても子育ての問題は解決しない

      18 comments

    産経新聞が『仙谷氏「専業主婦は病気」と問題発言か 本人は「記憶にない」と釈明』という見出しの記事を掲載し、それを池田信夫さんが『保守の劣化』というブログ記事で批判しておられます。

    漢字の読み間違いを国会で質問するような馬鹿なまねよりはまっとうな指摘だと思いますが、それはさておき。

    産経も大概ですが、私幼ヘッドラインの元記事を読む限り、仙石氏の歴史認識も大概です。専業主婦そのものは江戸時代から既に存在し、専ら家政にあたっていました。ただし、戦後の一時期のように結婚すれば誰もが専業主婦であったわけではなく、上級武士、都市部の富裕層に限られた現象であっただけにすぎません。また都市部における専業主婦は大正時代には既によく見られたものであり、別段戦後の特権ではありません。ただ国民の大部分が農業に従事しており、相対的に数が少なかったというだけの問題です。女性の社会進出が取りざたされた時代に専業主婦が増えるという現象には面白いものがあるのですが、ここでは置いておきます。

    さて、専業主婦を戦後社会の病理とするのは百歩譲って構わないとしても、「働く女性が結婚し、働きながら子供を産み、働きながら家庭を運営し、子育てをするという普通に行われてきた女性の環境」とはどこの国のどの時代のことを言ってるのか、彼自身わかっていないようです。まるでそんな環境がかつてはあったかのようなものいいですが、それこそサヨクに特徴的な「解放女性」に対する幻想であり、農家に嫁いだ私の祖母(もう亡くなって久しいですが)に言わせれば「貧乏だっただけだ」と笑い飛ばされてしまう言辞です。磯野さんちのフネさんだって、まさしくその戦後、東京に移ってからは内職をしながらカツオやワカメを育てていたわけで(そういえば最後は朝日新聞に連載されていましたね)、およそ専業主婦だったから働いていなかったというのも、これまたただの幻想です。定職についていなかったら働いていないとみなすとは、なんと貧困な労働観であることか。

    誰だってあくせく労働しながら子育てするより優雅にお茶しながら子供の面倒を見たいに決まっています。磯野さんちのフネさんだって東京に引っ越してくる前はそんな生活でした。既婚女性の憧れがそこにあるのは、VERYLEE, GISELe などの雑誌が売れていることからも理解できます。一時期流行ったシロガネーゼなどというのもそうですね。現実に専業主婦が雑誌に掲載されているような優雅でおしゃれな存在であったことは、一部の富裕層を除いてなかったわけですが、まさにその幻想をあおるようなことを仙石氏は言ってるわけで、そんな貧困な婚姻観、労働観しかない人間の言説に喜んで耳を傾けるなど私としては正気の沙汰とも思えません。子供を取り巻く環境も都市化の進展と共同体の解体とともに捉えればむしろ必然ともいえる変化を専業主婦問題という存在しない問題に還元し、豊かさの実現とともに現れた子供の学力の低下を保育の問題に矮小化するに至っては、彼が結局は社会運動家であり、政治家ではないのだという事実を裏付けするだけのことに見えます。

    このような婚姻観、労働観が工業社会の発展と共に擡頭してきたのは改めて述べるまでもありませんが、日本において工業化がもたらした現状を何も変えずに「主婦」の「子育て」だけ取り上げて問題化するというところに仙石氏や菅氏の本質的な危うさがあります。それは存在したことがなかった工業化以前の「主婦」のありようや「子育て」に対する幻想への回帰に端的に表れていると言えるでしょう。工業化の進展とともに都市部へ人口が集中し、伝統的な村落共同体が解体されるとともに、表面上は「会社」がその共同体を補完するかのように従業員を組織したことが問題の出発点です。日本の「会社」は利害を共にするという意味では村落共同体に通じるところがありましたが、婚姻女性や子供を本来的に包摂できないという点でカタワの共同体でもあります。そのため、男は「会社」という共同体モドキに属することで仕事に邁進し、子供は「学校」という会社モドキに属することで家から自由になってしまい、社会の基本単位である家庭が「会社」「学校」と「居住地」に分裂してしまいました。これが、今日に続く、家庭の機能不全(婚姻や子育て、教育の問題)の元凶です。それが一部都市民の問題に留まっているうちは社会全体にとって大きな問題とはなりえなかったのですが、戦後高度経済成長を経てバブルを迎え、経済的に成熟してしまった今、都市民が国家の多数を占めることによって、その破綻がクローズアップされるようになったのだと言えます。戦前は、家父長制がその矛盾をある程度押さえ込んでいたと言えないこともないのですが、大した資産があるわけでもない都市民にとって家父長制とは笑止といった程度の問題で、だからこそ大正時代、それまでにない女性の社会進出が行われたのです。もちろんそこにあるはずの「共同体」への参加欲求がその原動力にあったのは言うまでもありません。しかし家庭が「会社」「学校」と「居住地」に分断されたままという問題はそのまま残り続け、今に至ります。一時期もてはやされたキャリアウーマンというものもその本質的な部分は女性の社会進出を謳った戦前の女性解放運動と何ら変わることはなく、また同じ失望感とともに同様に挫折してしまったのも当然のことなのです。しかしだからといって、家庭を解体してしまえばよいかというと、そんな暴論はサヨクには通じても、社会を運営するという観点からは絶対に認められません。家庭という婚姻過程は工業化以前から存在する社会の重大要素であり、単なるイデオロギーで解体することは不可能であり、強制的にそれを行っても社会、集団自体が不健全化するということは、多くのカルト、あるいはヤマギシ会の実践を見ても明らかです。一夫一婦制に取って代わり、会社における生産過程を包摂し、実現が可能な家庭像が提示できない限りは、現実の家庭と折り合いをつけていかざるをえないでしょう。その意味では分断された家庭の分裂度合いを最小限に押さえ込むという、今現在他国が当たり前に行っている施策は一考の価値があります。というよりむしろそうするより外に今のところ手だてはありません。ところが政府は財界に首根っこを押さえられていてそれを言い出せません。労働組合ですらこの点では権益集団化して財界に同調していますから、民主党にはもっと不可能です。他国では当たり前の、一日八時間労働の実質施行がなぜ一部の企業だけの特権になっているのでしょうか。本当はそこに搾取があるのになぜマスコミはそう指摘しないのでしょうか。それはこの搾取が一部の労働者による大多数の労働者からの搾取でもあるからです。そしてその基盤にはもはや無意味となりはてた共同体としての「会社」の権益を守ろうとする労働者自身の手による働きがあります。問題の根は非常に深いところにあるのです。

    子育てが専業主婦や保育の矮小な問題ではないことは、国家の行く末を見据える上では当然すぎるほど当然のことですが、女性をよいしょするだけでそれが解決するはずはありません。「子ども家庭省」を作るというのは全く何もしないよりも遙かにましですが、確固たる政治観のないままに行政機関だけ作ったところで何ほどのことができるでしょう。単に役人の数を増やして厚生労働省や文科省と似たようなことをやるだけになってしまいかねません。記事の発端になった幼稚園情報センター 私幼ヘッドラインも仙石氏に批判的なのは当然すぎるほど当然です。

    ところで産経の見出しですが、扇情的であることは確かであるにしてもその手法は自民時代と何ら変わりありません。マスコミの代わり映えしない手法を今更問題視しても仕方ありません。日本の新聞をクオリティペーパーだと見なすから憤慨するのであって、単なるイエローペーパーの煽り記事だと思えばそんなものかという程度のことです。実際、日本にはイエローペーパー、イエローメディアしかありませんしね。池田氏が指摘する通り、産経だけの問題ではありません。また、記事の内容については仙石氏の女性観、労働観が端的に表れていてむしろよろしいのではないでしょうか。結局、仙石氏に現状を打開する政策が期待できないという点は変わりませんし、三歳になったら子供同士で育ち合っていく環境を作れば子供は健全に育つような主張も、その根拠が語られず、具体的な施策が「こども園」しかないのでは現実性がありません。大体、三歳というものオムツが取れる年齢だという事実以上のものはありません。この点を鑑みれば民主党が「こども園」案を強行するようなことがあれば、むしろ国民は物理的に敵対すべきでしょう。

    以上のような点を議論せずにただイデオロギーでひとまとめにしてあれこれ言うのは、仙石氏や現政権の問題点や危うさを覆い隠すことにしかならないと私は考えます。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

Top