• 専業主婦を否定しても子育ての問題は解決しない

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    産経新聞が『仙谷氏「専業主婦は病気」と問題発言か 本人は「記憶にない」と釈明』という見出しの記事を掲載し、それを池田信夫さんが『保守の劣化』というブログ記事で批判しておられます。

    漢字の読み間違いを国会で質問するような馬鹿なまねよりはまっとうな指摘だと思いますが、それはさておき。

    産経も大概ですが、私幼ヘッドラインの元記事を読む限り、仙石氏の歴史認識も大概です。専業主婦そのものは江戸時代から既に存在し、専ら家政にあたっていました。ただし、戦後の一時期のように結婚すれば誰もが専業主婦であったわけではなく、上級武士、都市部の富裕層に限られた現象であっただけにすぎません。また都市部における専業主婦は大正時代には既によく見られたものであり、別段戦後の特権ではありません。ただ国民の大部分が農業に従事しており、相対的に数が少なかったというだけの問題です。女性の社会進出が取りざたされた時代に専業主婦が増えるという現象には面白いものがあるのですが、ここでは置いておきます。

    さて、専業主婦を戦後社会の病理とするのは百歩譲って構わないとしても、「働く女性が結婚し、働きながら子供を産み、働きながら家庭を運営し、子育てをするという普通に行われてきた女性の環境」とはどこの国のどの時代のことを言ってるのか、彼自身わかっていないようです。まるでそんな環境がかつてはあったかのようなものいいですが、それこそサヨクに特徴的な「解放女性」に対する幻想であり、農家に嫁いだ私の祖母(もう亡くなって久しいですが)に言わせれば「貧乏だっただけだ」と笑い飛ばされてしまう言辞です。磯野さんちのフネさんだって、まさしくその戦後、東京に移ってからは内職をしながらカツオやワカメを育てていたわけで(そういえば最後は朝日新聞に連載されていましたね)、およそ専業主婦だったから働いていなかったというのも、これまたただの幻想です。定職についていなかったら働いていないとみなすとは、なんと貧困な労働観であることか。

    誰だってあくせく労働しながら子育てするより優雅にお茶しながら子供の面倒を見たいに決まっています。磯野さんちのフネさんだって東京に引っ越してくる前はそんな生活でした。既婚女性の憧れがそこにあるのは、VERYLEE, GISELe などの雑誌が売れていることからも理解できます。一時期流行ったシロガネーゼなどというのもそうですね。現実に専業主婦が雑誌に掲載されているような優雅でおしゃれな存在であったことは、一部の富裕層を除いてなかったわけですが、まさにその幻想をあおるようなことを仙石氏は言ってるわけで、そんな貧困な婚姻観、労働観しかない人間の言説に喜んで耳を傾けるなど私としては正気の沙汰とも思えません。子供を取り巻く環境も都市化の進展と共同体の解体とともに捉えればむしろ必然ともいえる変化を専業主婦問題という存在しない問題に還元し、豊かさの実現とともに現れた子供の学力の低下を保育の問題に矮小化するに至っては、彼が結局は社会運動家であり、政治家ではないのだという事実を裏付けするだけのことに見えます。

    このような婚姻観、労働観が工業社会の発展と共に擡頭してきたのは改めて述べるまでもありませんが、日本において工業化がもたらした現状を何も変えずに「主婦」の「子育て」だけ取り上げて問題化するというところに仙石氏や菅氏の本質的な危うさがあります。それは存在したことがなかった工業化以前の「主婦」のありようや「子育て」に対する幻想への回帰に端的に表れていると言えるでしょう。工業化の進展とともに都市部へ人口が集中し、伝統的な村落共同体が解体されるとともに、表面上は「会社」がその共同体を補完するかのように従業員を組織したことが問題の出発点です。日本の「会社」は利害を共にするという意味では村落共同体に通じるところがありましたが、婚姻女性や子供を本来的に包摂できないという点でカタワの共同体でもあります。そのため、男は「会社」という共同体モドキに属することで仕事に邁進し、子供は「学校」という会社モドキに属することで家から自由になってしまい、社会の基本単位である家庭が「会社」「学校」と「居住地」に分裂してしまいました。これが、今日に続く、家庭の機能不全(婚姻や子育て、教育の問題)の元凶です。それが一部都市民の問題に留まっているうちは社会全体にとって大きな問題とはなりえなかったのですが、戦後高度経済成長を経てバブルを迎え、経済的に成熟してしまった今、都市民が国家の多数を占めることによって、その破綻がクローズアップされるようになったのだと言えます。戦前は、家父長制がその矛盾をある程度押さえ込んでいたと言えないこともないのですが、大した資産があるわけでもない都市民にとって家父長制とは笑止といった程度の問題で、だからこそ大正時代、それまでにない女性の社会進出が行われたのです。もちろんそこにあるはずの「共同体」への参加欲求がその原動力にあったのは言うまでもありません。しかし家庭が「会社」「学校」と「居住地」に分断されたままという問題はそのまま残り続け、今に至ります。一時期もてはやされたキャリアウーマンというものもその本質的な部分は女性の社会進出を謳った戦前の女性解放運動と何ら変わることはなく、また同じ失望感とともに同様に挫折してしまったのも当然のことなのです。しかしだからといって、家庭を解体してしまえばよいかというと、そんな暴論はサヨクには通じても、社会を運営するという観点からは絶対に認められません。家庭という婚姻過程は工業化以前から存在する社会の重大要素であり、単なるイデオロギーで解体することは不可能であり、強制的にそれを行っても社会、集団自体が不健全化するということは、多くのカルト、あるいはヤマギシ会の実践を見ても明らかです。一夫一婦制に取って代わり、会社における生産過程を包摂し、実現が可能な家庭像が提示できない限りは、現実の家庭と折り合いをつけていかざるをえないでしょう。その意味では分断された家庭の分裂度合いを最小限に押さえ込むという、今現在他国が当たり前に行っている施策は一考の価値があります。というよりむしろそうするより外に今のところ手だてはありません。ところが政府は財界に首根っこを押さえられていてそれを言い出せません。労働組合ですらこの点では権益集団化して財界に同調していますから、民主党にはもっと不可能です。他国では当たり前の、一日八時間労働の実質施行がなぜ一部の企業だけの特権になっているのでしょうか。本当はそこに搾取があるのになぜマスコミはそう指摘しないのでしょうか。それはこの搾取が一部の労働者による大多数の労働者からの搾取でもあるからです。そしてその基盤にはもはや無意味となりはてた共同体としての「会社」の権益を守ろうとする労働者自身の手による働きがあります。問題の根は非常に深いところにあるのです。

    子育てが専業主婦や保育の矮小な問題ではないことは、国家の行く末を見据える上では当然すぎるほど当然のことですが、女性をよいしょするだけでそれが解決するはずはありません。「子ども家庭省」を作るというのは全く何もしないよりも遙かにましですが、確固たる政治観のないままに行政機関だけ作ったところで何ほどのことができるでしょう。単に役人の数を増やして厚生労働省や文科省と似たようなことをやるだけになってしまいかねません。記事の発端になった幼稚園情報センター 私幼ヘッドラインも仙石氏に批判的なのは当然すぎるほど当然です。

    ところで産経の見出しですが、扇情的であることは確かであるにしてもその手法は自民時代と何ら変わりありません。マスコミの代わり映えしない手法を今更問題視しても仕方ありません。日本の新聞をクオリティペーパーだと見なすから憤慨するのであって、単なるイエローペーパーの煽り記事だと思えばそんなものかという程度のことです。実際、日本にはイエローペーパー、イエローメディアしかありませんしね。池田氏が指摘する通り、産経だけの問題ではありません。また、記事の内容については仙石氏の女性観、労働観が端的に表れていてむしろよろしいのではないでしょうか。結局、仙石氏に現状を打開する政策が期待できないという点は変わりませんし、三歳になったら子供同士で育ち合っていく環境を作れば子供は健全に育つような主張も、その根拠が語られず、具体的な施策が「こども園」しかないのでは現実性がありません。大体、三歳というものオムツが取れる年齢だという事実以上のものはありません。この点を鑑みれば民主党が「こども園」案を強行するようなことがあれば、むしろ国民は物理的に敵対すべきでしょう。

    以上のような点を議論せずにただイデオロギーでひとまとめにしてあれこれ言うのは、仙石氏や現政権の問題点や危うさを覆い隠すことにしかならないと私は考えます。

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