• 婚姻制度の歴史を考える—⑦禁婚

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    婚姻を考察する上で、必ず考慮しなくてはならない要素に「禁婚」がある。文字通り、結婚してはいけない相手を定めることである。

    現在の日本においては、

    • 民法734条「直系血族又は3親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない。」と禁婚の範囲が定められている。これには附則があり「2 第817条の9の規定により親族関係が終了した後も、前項と同様とする。」
    • 同735条「直系姻族の間では、婚姻をすることができない。第728条又は第817条の9の規定により姻族関係が終了した後も、同様とする。」と姻族でも直系は不可とする規定がある。
    • 同736条「養子若しくはその配偶者又は養子の直系卑属若しくはその配偶者と養親又はその直系尊属との間では、第729条の規定により親族関係が終了した後でも、婚姻をすることができない。」で、一度養子を取ったら縁組みを解消しても結婚できないよと定めている。

    小難しい言葉が出てくるが、簡単に言うと「直系の血縁(親子孫祖父母など)+三親等以内の血縁(兄弟姉妹オジオバ甥姪)と、結婚した相手の親および連れ子とは離婚しても結婚できないよ。一度養子しちゃったらそれも同じ」ということだ。今の日本では当たり前すぎて誰も疑問を抱かないだろうが、これ、近代国家の禁婚規定としてはかなり甘い制度であると述べたら読者は驚かれるであろうか。

    例えば、儒教の影響が大きい中国では、同姓とは結婚できないという社会通念がある。これは、古代中国のさらに古代に存在した族外婚(群婚)から引き継がれた禁婚規定であると考えられる。族外婚(群婚)は、ある集団の男性は必ず別の決まった集団の女性(ただし相手は不特定)と婚姻関係を結ばなくてはならない。女性も同様である。従って「同集団=同じ氏族=同姓」の者との「性交=婚姻」は禁止される。この禁婚は有史以前から存在し、もちろん中国が歴史時代に入ってからも墨守され、儒教によって補強された上で、現代に至るまで根強い禁婚観念を形作っている。中国が夫婦別姓なのは、このタブーに抵触していないことを明らかにするためであり、別段進んだ夫婦関係があるからではない。朝鮮も儒教の影響下でこの禁婚観念を受け入れたため、長らく同姓同本貫は禁婚であった。今は法律上少し緩められているが、避けられるものなら避けるのではないだろうか。

    そこまで極端ではなくても、血族との結婚を避ける国は多い。通常、いとこは余裕で禁婚範囲である。逆に、いとこと結婚できる国は日本を除けば、イスラム諸国くらいなものではなかろうか。もっとも法律を論えば、存外規制がゆるやかな国も多いだろう。同性婚でも許される時代である。例えばスウェーデンでは、異父、異母の兄弟姉妹とは法律上は結婚できる。しかし、この項で論じたいのは、法律がどうなっているかより、社会通念がどのような禁婚観念に従っているかである。可能であるということと、それが一般的であるということは違うのだ。

    さて、日本は元より、イスラム圏を含む世界各国に近親の婚姻を禁止する法律があるのは、私有財産制度の要請に基づく。現代の私有財産制度一夫一婦もしくは一夫多妻私有婚に依存しており、父と母から子へまたその子へと地位や財産が継承されていくことが保証されなくてはならない。近親婚は、この継承を混乱させるので、禁止されているのである。もちろん、歴史的な経緯が国毎に違うので、どこまでを禁婚範囲とするかは、宗教や国ごとに異なる。基本、直系は不可。祖父母まで遡ると同じ系になる近親も不可。というところではないだろうか。

    高群逸枝氏の『日本婚姻史』によると、日本が嫁取婚=現代に続く所有婚に移ったのは、室町時代以降である。むろん、鎌倉時代以前、院政期から召上婚、進上婚といった形で、嫁取りは存在していた。これが一般化したのが室町期に見て取れるのである。召上、進上といった言葉でもわかるように、この頃から嫁は所有されるものであり、血筋は男が保証するものに変わっていた。戦乱とそれに対抗する暴力支配とその正当化の必要から、男系が何よりも重視され、地位、財産の継承に男系が要求されるようになっていた。従って、他の男の種による子供が生まれることは忌避されるべきことであり、女性の浮気は姦通と見なされ、禁止対象となり、上層の武家では奥と表が分離され、男がみだりに奥へ入ることは忌避されるようになっていく。その上で、近親との婚姻も禁止されたことは想像に難くない。おそらく、禁婚観念は現在とさほど変わらないものであったと思われる。この嫁取婚を取り入れたのは、地方の武士階級だと言われている。俗に言う土豪である。

    では、それ以前の日本はどうだったのだろうか。嫁取婚の前は、婿入婚であり、その前は妻問婚である。

    婿入婚と妻問婚は、婿が妻のもとに通うか、妻の家に住み込むかが大きな違いである。もちろん、婚主が妻の父母か、氏族のオヤであるかなど歴史的に見ればこの転換には議論すべき点が多々あるものの、禁婚観念という観点からは大きな違いは無い。

    この時期の禁婚観を取り上げる上で無視できないのは「記紀」に記された允恭天皇の皇子軽太子かるのみこのみことと皇女軽大郎女かるのおおいらつめの説話である。『古事記』では、二人は同母の兄妹でありながら密通したので、軽太子かるのみこのみことは臣下は元より天下の人に背かれ、兵を起こすも弟の穴穗命あなほのみことに敗北し、伊予に流されてしまう。軽大郎女かるのおおいらつめは後を追い、二人寄り添って死んでいる。『日本書紀』では夏の盛りに「御膳おもの羹汁しる」が凍り付いてしまい、これを怪しんだ天皇が占わせたところ、二人の密通が露見したとある。軽大郎女かるのおおいらつめが罪を負い、伊予に流されることでいったんは落着する。ところがその18年後、軽太子かるのみこのみことは淫虐暴嗜で国人に誹られ、群臣に背かれる。ここで弟の穴穗命あなほのみことが兵を起こし、軽太子かるのみこのみことを殺して一件は落着する。

    これを見て明らかなのは、同母の兄弟姉妹は(もちろん、直系親族も)禁婚の対象になっていることである。このタブーに触れることは、皇太子といえども流罪にされる程であり、また、弑逆の正当な理由となるほどのことなのである。妻問婚にしても、婿入婚にしても、子が妻の実家で育てられるのは変わらず、従って同母の兄妹は同族になる。この期間、母系であるとされるのは、子が母方で育てられ、財産が母系により継承されたためである。その意味では財産が母系に保存されるので、問題ないように見えるが、男は他所に婿へ行くのが通念であり、氏族の外交上もそれが求められるため、実家に留まり子をなすのは奇異なこととなる。また、女子も立場が逆なだけで同じである。一方で、氏姓制度律令制官位に見られるように、子は父の地位を受け継ぐ、または父の地位により優遇される制度がある。ゆえにその間で近親婚があると、その継承に混乱を来す。以上の理由で、直系親族および同母の兄弟姉妹間での婚姻が禁じられたと考えられる。逆に、兄弟姉妹の場合、異母である場合は父が同じでも族が異なるので、婚姻に全く差し支えなく、事実、異母兄弟姉妹の結婚事例は山ほどある。敏達天皇推古天皇が代表例である。また、おじと姪の結婚も珍しくない。天武天皇持統天皇が該当する(尤も天武天皇天智天皇が同母の兄妹ということ自体が怪しいのだが)。

    ここで明らかなのは、私有財産発生以前でも、妻問婚における同母の兄弟姉妹との禁婚に見られるように、氏族の社会的要請に背く婚姻は禁婚とされたこと、私有財産あるいは地位の継承に問題がある婚姻が歴史的に禁婚とされてきたことである。では、その前、つまり妻問婚に先立つ、群婚の場合はどうだったのだろうか。日本の場合、群婚は遺風として記録されているか、あるいは祭りなどのハレの場の儀式として群婚が営まれていただけであり、それが主たる婚姻の風俗であった時代の記録はない。しかし、そこから推測することは可能である。

    日本の場合、群婚は族内婚であったことは既に述べた。性が共有されていたことは、すなわち、財産も共有されていたと推定できる。これは、妻問婚の場合も同じで、財産は母系で継承されたといっても、後世現れるような自立した「家」という単位は未だ存在していない。従って、その財産も氏族で管理されていたわけであり、これが氏族外に出ない限りはその継承者が男であろうと女であろうと問題が無かった。これが婿入婚に移行するのは、墾田の開発が活発になる頃からであり、他所から通ってくる婿も労働力として組織化する要求が豪族層にあり、これに対応して通いから同居、すなわち婿取りに進んだものと考えられる。婿入婚では露顕(ところあらはし)と三日餅(みかのもちひ)が重要な儀式であるが、露顕は文字通り男が通ってきていることを妻方の親族が実見し、婚姻を了承することであり、三日餅は通ってきて三日目頃に餅を婿に食べさせて同族に擬制する儀式である。後世このふたつの儀式はともに最初の通いから三日後くらいに実施されるようになった。同じ釜の飯を食うということが特別な友人関係を表すことが現在でも言われるが、これは神話のヘグヒから来ている古来からの風習である。同族なればこそ首長の指揮下に入るのは当然とされ、これを以て婿入りの実となしたのである。婿取られた男が財産を作ったとしても、それは「同族」たる妻方の資産となるので、やはり母系の継承に破綻はなかった。従って禁婚も妻問婚から引き継ぎ、直系親族と同母の兄弟姉妹を禁婚とする以上のタブーはなかったのである。

    群婚の場合も財産を継承するのは氏族である。しかし性が共有されているということは、生物学的な母は特定可能だとしても、社会的には意味を持たなかった。それは血筋を特定することが困難だからである。妻問婚の場合、離婚が簡単かつ曖昧であったとは言え、ある特定の期間に通う男は基本的に一人(もちろん例外もある)なので、誰との子であるか特定が可能である。これによって氏姓制度律令制官位—つまり、男系での地位の継承が初めて可能になった。この血の連鎖が「血筋」として尊ばれるようになり、奈良時代になると、氏族の中にはじめて「家」というものが登場してくる。それは氏族に包み込まれていることが前提であるとはいえ、ある特定の血筋に固有の財産なり地位なりを継承させることが求められた結果である。これには少なからず中国の影響があることを意識しなくてはならない。しかし、原則は氏族側にあり、同父であっても異母の場合、氏族が異なるわけだから、これを禁婚とする社会的要請がない。氏姓制度律令制もどの父の子かは問題としても、誰の子孫かまでは問わない。そう捉えれば、藤原氏の同族内での骨肉相食むがごとき政争も理解できるのではないだろうか。

    さて、群婚に話を戻すと、相手を特定することは不可能である。あるいは例外として一夫一婦のようなものを契るカップルはあったかも知れない。しかし、それが制度として存在しない以上、血筋など氏族というくくりでしか存在し得ない。そして人々がその氏族の中で生活している以上、「系」は男女いずれであっても問題にしようがなかったのである。また社会的にもそれを要請する原因となるものがない。とすると答えはひとつである。禁婚という観念自体がなかった、あるいは百歩譲って直系の母子ならば禁婚とされたかも知れない。多くの学者は母子は禁婚だったとしているが、私はそうは思わない。なぜなら、母子を禁婚しても意味がないからである。群婚においては「血筋」は問題にならない。メンバー全員等しい。そこに現代の倫理観を持ち込むから意味不明な理由付けが必要になってくるわけで、仮に母子で番となって子ができても、氏族で育て、氏族で生きるのだから何の支障もない。実際、後世の群婚遺制を見ても、そこに禁婚という野暮な概念は持ち込まれていない。性の相手は神が決めるのであり、渺々たる人の身でそれに抗ったと考える方が愚かなのである。遺伝的な問題が云々とか、近親相姦を避ける本能が云々とか下らない戯れ言を真顔で言う似非学者が数多いが、それが科学的に厳密に証明されたことなどただの一度も無い。つまり「ない」のである。

    では、さらにその前段階である「族長婚」ではどうだろうか。これはもう考えるまでもない。性が解放されていたのは「族長」のみ、つまり婚姻可能なのも「族長」のみであり、禁じるとか何とか議論すら無駄である。では近親相姦があったのかと言うと、族を構成しているのは、先代の長の子や先々代の長の子、つまり全員親族であり、近親である。早い話が 100% 近親相姦だったと言える。これは、族内婚に移行しても同じである。族を移動する者が皆無であったとは言わないが、全員がよその群から移ってきたハグレモノでは、族の統一性が保たれない。ヒトの認識は生まれ育った環境に大きく左右されるから、部族が異なるということは、宗教も風俗も習慣も異なり、さらには当初、言語すら通じなかった可能性もある。他の族と接して交渉が本格的に始まる段階—妻問婚まではそうではなかったか。そんなところにポンと身一つで入っていけると考えるのは極めて現代的発想である。祖霊に祝福されない他集団に我から望んで加わっていくのは、それこそ狂気の沙汰であろう。とすると、族の人間は皆身内なのであり、やはり近親婚であったと見なすべきである。

    現代日本に取り分け近親相姦が多いなどという言説が児童虐待と絡めてまことしやかに言われるが、昔から変態は一定比率で存在したのであり、現代になって急に増えたとする理由はない。生まれ落ちたときから近親でセックスはしないもの(だから親のセックスも基本的に隠そうとする。貧乏人には無理だが)という刷り込みが行われている以上、禁婚観念は立派に機能していると言える。だから、昔は近親相姦全開だったからと言って、別段現代を否定されるような心境になる必要はない。現代で近親相姦を試みる者がいるからと言っても、アウトローはいつだって存在するものなのである。しかしだからと言って、現代的観点—つまり、現在の認識から過去を判断しようとすると過ちを犯す。それは歴史を考究する以上、当然のことではないだろうか。しかしながら、婚姻の歴史といった際どい命題になると、途端に馬脚を現す者の多いこと多いこと。以て自らの戒めとすべきであると愚考する。

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  • 日本の古代史を考える—補足5『後漢書』東夷伝倭人条全文

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    全文を引かずに揶揄してばかりだと不公平なので、以下に全文と訓読文をあげます。

    原文

    倭在韓東南大海中依山爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓竹矢或以骨爲鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆橫幅結束相連女人被髮屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹坋身如中國之用粉也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞爲恭敬人性嗜酒多壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盜竊少爭訟犯法者沒其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞爲樂灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以爲持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衞法俗嚴峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒東南行船一年至裸國黑齒國使驛所傳極於此矣

    訓読文

    倭は韓東南の大海中にり。山にりて居をす。およそ百國。武帝、朝鮮を滅してより使驛しえき漢に通じるところ三十國ばかり。くにみな王あり。世世よよ統をつたふ。の大倭王は邪馬臺國やまたいこくに居す。樂浪らくろうきょうの國を去ること萬二千里。其の西北界、拘邪韓國くやかんこくを去ること七千里。の地、大較おおむね會稽かいけい東冶とうやの東に在り。朱崖しゅがい儋耳たんじと相ちかし。ゆゑの法俗、多くは同じ。土は、禾稻くゎたう麻紵まちょ蠶桑さんそうよろしく、織績しょくせきを知り、縑布けんぷす。白珠、青玉を出し、の山にはたんあり。土温腝おんどんにして、冬夏菜茹さいじょしょうず。牛、馬、虎、豹、羊、しゃく無し。の兵、矛、楯、木弓、竹矢あり。或いは骨を以てやじりす。男子は皆黥面げいめん文身ぶんしんす。其の文の左右大小を以て尊卑の差をわかつ。の男衣はみな橫幅、結束して相連ね、女人は被髮ひはつ屈紒くっけいし、衣は單被たんぴごとく頭を貫きしかうして之をあらわし、ならび丹朱たんしゅを以て身をふんすること、中國の粉を用ゐるが如きなり城柵じゃうさく屋室おくしつを有し、父母兄弟はところことにす。ただ會同かいどうに男女の別無し。飲食は手を以てし、しかうして籩豆へんとうを用ゐる。ぞくみな徒跣とせん蹲踞そんきょを以て恭敬とす。人性酒をこのむ。壽考じゅこう多く、百餘歳に至る者はなはおほし。國、女子多く、大人には皆、四五妻有り。、或いはりょう或いは三。女人いんせず、せず。又俗は盜竊とうせつせず、爭訟少なし。法を犯す者はの妻子を沒し、重い者はの門族を滅す。の死、喪にとどまること十日。家人は哭泣こくきゅうし、酒食を進めず。しかうして等類は歌舞にきて樂をす。骨をいて以てぼくとし、吉凶を決するに用ゐる。行來、度海には一人をして櫛沐せつもくさせず、肉を食させず、婦人を近づけさせず。名を持衰じすゐと言ふ。し、みちりて吉利なれば、すなはち財物を以て雇ひ、病疾へいしつごとき害に遭へば、以て持衰がつつしまずとし、便すなはち共にこれを殺す。建武中元二年、倭奴ゐぬ國、みつぎものを奉り朝賀す。使人みずからを大夫たいふしょうす。倭國の極南界なり光武、印綬を以て賜ふ。安帝永初元年、倭國王帥升すいしょう生口せいこう百六十人をけんじ、まみゆるを願ひ請ふ。桓靈かんれいあひだ、倭國大いにみだれ、更に相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名は卑彌呼ひみこ。年長ずるも嫁さず。鬼神の道を事とし、く妖を以て衆を惑わす。これにおいて共に立て王とす。侍婢じひ千人。まみゆる者有るが少なし。ただ男子一人有りて、飲食を給し、辭語じごつたふ。居處きょしょ、宮室、樓觀ろうかん城柵じゃうさく、皆兵を持して守衛す。法俗は嚴峻げんしゅんなり。女王國より東へ海をわたること千餘里で、拘奴くぬ國へ至る。皆倭種といへどしかうして女王にぞくさず。女王國より南へ四千餘里で、朱儒しゅじゅ國へ至る。人長、三四尺なり。朱儒しゅじゅより東南へ行船一年で國、黑齒こくし國へ至る。使驛しえきつたふる所、これにおいてきわまる。

    現代語訳

    倭は朝鮮の東南の大海の中にあり、山野の中に住んでいて、だいたい百余りの国がある。前漢武帝が朝鮮を滅ぼして(楽浪郡を置いて)から交通が開けた国が三十国あまりある。それらの国にはすべて王がいて、代々血筋を残してきている。大倭王が邪馬臺國(やまたいこく)にいる。楽浪郡の境界より、邪馬臺國まで一万二千里ある。倭の西北の端にある拘邪韓國までは七千里である。その地はおおよそ、会稽郡の東冶県の東に位置している。朱崖、儋耳(共に、現在の海南島にあった地名)に近い。そのため、その法や風俗の多くが同じものである。土壌は、稲、紵麻、養蚕のための桑の育成に適しており、糸を紡ぎ布を織る術を心得ており、絹布を生産している。白珠(真珠のこと)、青玉を産出し、山からが取れる。気候は温暖で、冬でも夏でも野菜が採れる。牛や馬、虎、豹、羊、カササギはいない。矛や楯、木の弓、竹の弓で武装しており、動物の骨を遣って鏃にしている。大人の男は、皆顔や体に入れ墨をしている。入れ墨の左右上下の位置や大きさで身分の違いを表している。男性は皆横に長い布を巻いて結んでいる(具体的なスタイルは、風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。女性は、髪を伸ばしてまげを結い、単衣に作った布に頭を通して着ている(これも風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。また、中国で白粉を使うように、丹朱(赤い粉)を使って体を飾る。城柵があり、屋敷もあって、父母と兄弟は別々に住んでいる。会同でも男女で区別はしない。飲食は手を使い、籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る鉢)を用いている。風俗としてみな裸足である。身分の高い人の前では蹲踞して敬意を表す。そこの人の性質は酒を好む。年寄りが多く、百歳以上になるものがとても沢山いる。国には女性が多く、身分の高い人は夫人を四、五人持ち、それ以外でも、二人、あるいは三人の夫人を持つ。女性は浮気をせず、嫉妬もしない。また、盗みをする者はなく、訴訟で争うことも少ない。法を犯した者はその妻子を没収して奴隷とし、罪が重い者は、一族を滅ぼす。死人が出ると、十日余り喪に服する。家族は悲しんで泣き叫び、酒を飲んだり食事を取ったりしない。友人は歌い踊り音楽を奏でる。骨を焼いて卜筮を行い、吉凶を決める。旅に出たりあるいは旅から帰る時や、海を渡る時は、髪に櫛を入れず体も洗わず、肉を食べたり婦人を近づけたりしない者を一人供にする。これを持衰という。もし旅が順調だった場合は、財物を与えて賞し、疾病のような害があれば、持衰が謹まなかったせいだとして、すぐに全員でこれを殺す。建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が貢ぎ物を持って朝貢してきた。使者は自分のことを大夫だと言った。倭奴國は倭國の最南端にある。光武帝は印綬を授けた。安帝永初元年(西暦107年)、倭國の王たち、帥升らが奴隷を百六十人献上して、皇帝にお目見えしたいと願ってきた。桓帝(西暦146年〜167年在位)と靈帝(西暦168年〜189年在位)が在位の間、倭國は大変な内乱状態で、互いに攻め合い、長い間倭國全体を統治する王がいなかった。卑彌呼という女性がいて、年長になっても結婚しないでいた。鬼道の道に詳しく、あやしげな術で民衆をうまく導いていた。この女性を諸国がこぞって王に立てた。侍女やはしためが千人いて、直接顔を合わせた者はごく少なかった。男性がただ一人で飲食の世話や、奏上や指示の取り次ぎをしていた。日常の住居や、宮殿、楼観、城柵には兵がいて守備していた。法は極めて厳しい。女王国より東へ海を千里余り渡ると、拘奴國へ着く。みな倭人であるが、女王国には属していない。女王国より南へ四千里余り行くと侏儒国に着く。そこの人は身長が三、四尺くらいしかない。侏儒国より船で東南に一年の距離に裸國、黑齒國がある。交通のあるところはここまでである。

    さて、この条が『魏志倭人伝』を参照して書かれたことは確かであるとされています。そして、東夷伝を書いた者が(范曄の部下?)、その内容をよくわからないまま改変して引用したことも確かだとされています。中国人でも古典を読むにはちゃんと勉強してかなりの教養を身につけていなければならないことがよくわかる下りでもありますね。

    まずは「使「使。単純な誤字ですが、意味が全く変わってしまいます。漢字テストに出そうな違いですね。

    魏志倭人伝』では「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」つまり「古くは百国余り」と『漢書』地理志燕地条の記述を押さえた上で「漢の時代に朝見する者があって、今は使者や通訳が行き来する国が三十ある」だったのに、「凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國」=「(今でも)百国余りある。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてから漢との間に三十国ばかり交通が開けた」と、オイオイと言いたくなるような話に変わっています。

    魏志倭人伝』で陳寿がせっかく丁寧に会稽の故事を引いて中国の教化を賛美していた「當在會稽東之東」が「其地大較在會稽東之東」とただの地名にされてしまっています。そこに「與朱崖儋耳相近」と、元は「衣裳や農産物、動物や武器について、朱崖や儋耳と共通の点がある」という意味だったのに、日本がとんでもなく南にあることに改変されています。ここを書いた人は地理を知らなかったことがわかりますね。陳寿も報われません。

    魏志倭人伝』では「父母兄弟臥息異處」とちゃんと「寝る時は」と断っているのに、ここでは「父母兄弟異處」と完全別居として書かれています。困ったものです。

    元は「其人壽考或百年或八九十年」と単に長命の人が多く、中には百歳の人や八十、九十歳の人がいるというだけのことだったのが、「多壽考至百餘歳者甚衆」とすごい長寿国にされています。蓬莱伝説とか考慮して敢えて変更したんでしょうか。それとも単なる無知…?

    その次が前にも取り上げた「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」です。陳寿は「國大人皆四五婦下戸或二三婦」と平民でも複数妻を持つ者がいるよとしか書いてないのに、国に女性が多く(笑)、そのため皆が多妻であったと解釈したようです。まあ男の浪漫であることは認めますが。(笑)

    極めつけはやはりこれでしょう。元々「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」と、陳寿が書いた文を「桓靈閒倭國大亂」と改変しています。「その国は元々男性を王にして、七、八十年それが続いていた。倭國が乱れ…」という文なのですが、これが読めなかったようです。つまり「七、八十年倭國が乱れた」と理解してしまったのですね。そりゃ確かに大乱です(笑)。卑弥呼の遣使が魏の景初三年(西暦239年)ですから、そこから逆算して桓帝靈帝の在位中、乱れっばなしにしてしまったんですな。

    と今の我々は、古典の研究が進んでその読み方もほぼわかってるから偉そうに言えますが、きっとこれを書いた人はぽんと魏志とか渡されて、これ読んで引用してねとか言われて必死になって書いたんじゃないでしょうか。それはないか。とまれ、元は句読点も文の区切りもない白文ですから、ちゃんと習ってないと中国人の官僚=知識人でも間違えまくるという例でした。

    ところで最後に「使驛所傳極於此矣」とあるのもすごいミスです。「船行一年可至」とそういう話も(魏の官僚が)聞いてたよというだけの情報から実際に交流があるように変えてしまうのですから、間違う人は最後まで間違ったままという実例そのものになってました。わからない所は人に尋ねて勉強しましょう。(笑)

    それだけではナニなので、誤りではなく『魏志倭人伝』と情報が異なっている点についても触れておきます。

    まずは国名。「邪馬國」から「邪馬國」に変わっています。これは「倭(ゐ)」から五世紀頃には「大倭(たゐ、或いは、たいゐ)」と国名に「大」を付けて尊称するようになったからと私は考えています。それに国土が「山」がちなので、それを頭に付けて「山倭」→「山大倭」としたものが反映されたのでしょう。

    次に「以蹲踞爲恭敬」です。元々は「但搏手以當跪拜」と拍手していたとか、「下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬」と道で身分の高い人に会ったら後ずさりして草むらに入り、受け答えは地に這いつくばったり、両手を地面に付けて行うことで相手を敬うとあったのですが、ここでは単に蹲踞となっています。これは風習が変わったというより、尋ねた方が違ったからではないかと思っています。つまり、貴族同士で身分に高低がある場合は蹲踞して控え、貴族と平民の場合は這いつくばって控えるという恭敬を示す主体の違いではないかと。

    通常は以上を倭人条とするのですが、実は続きがあります。直接「倭」に言及する箇所はないのですが、興味深い内容が書かれているので、続けて掲載します。

    原文

    會稽海外有東鯷人分爲二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來論曰昔箕子違衰殷之運避地朝鮮始其國俗未有聞也及施八條之約使人知禁遂乃邑無淫盜門不夜扃回頑薄之俗就寬略之法行數百千年故東夷通以柔謹爲風異乎三方者也苟政之所暢則道義存焉仲尼懷憤以爲九夷可居或疑其陋子曰君子居之何陋之有亦徒有以焉爾其後遂通接商賈漸交上國而燕人衞滿擾雜其風於是從而澆異焉老子曰法令滋章盜賊多有若箕子之省簡文條而用信義其得聖賢作法之原矣贊曰宅是嵎夷曰乃暘谷巣山潛海厥區九族嬴末紛亂燕人違難雜華澆本遂通有漢眇眇偏譯或從或畔

    訓読文

    會稽かいけいの海外に東鯷とうてい人あり。分かれて二十國をす。また夷洲いしゅう及び澶洲せんしゅうあり。でん言ふ、しん始皇しかう方士徐福じょふくを遣わし、童男女數千人をひきゐて海に入り蓬萊ほうらいの神仙を求むれども得ず。徐福じょふくちゅうおそれてへて還らず。つひこの洲にとどまる。丗丗よよ相いけ、數萬家あり。人民、時に會稽かいけいに至り市す。會稽かいけい東冶とうやけん人、海に入りて行くに風に遭い、流移して澶洲せんしゅうに至る者あり。所在絶遠にして往來すべからず。論曰く、昔、箕子きしは衰えしいんの運をり、地を朝鮮にく。始めその國の俗は未だぶん有らず。八條の約を施すに及び、人をして禁を知らしむ。つひすなはゆう淫盜いんとう無く、門は夜にとざさず。頑薄がんはくの俗をめぐらし、寬略かんりゃくの法にけ、行うこと數百千年。ゆゑ東夷とういは通じ柔謹を以て風とし、三方に異る者なり。いやしくもまつりごとぶる所、すなわち道義存す。仲尼ちゅうじいきどおりいだき、以爲おもえらく九夷に居るし。あるいはそのいやしきを疑う。子曰く、君子これに居らば、何ぞいやしきこれ有らん。またただゆゑ有るのみ。その後、つひ商賈しょうこに通接し、ようやく上國に交わり、しかうしてえんじん衞滿えいまんはその風を擾雜じょうざつし、これに於いて從いて澆異ぎょういす。老子曰く、法令滋章じしょうにして盜賊多く有り。箕子きしの文條を省簡にして信義を用うるがごときは、それ聖賢の作法のみなもとを得たり。さんふ。この嵎夷ぐういに宅し、すなわち暘谷ようこくふ。山にすごもりし、海にひそみ、は九族。えいの末の紛亂ふんらんに、人は難をり、華をまじえ本をうすくし、遂に有漢に通ず。眇眇びょうびょうたる偏譯へんえき、或いは從い或いはそむく。

    現代語訳

    会稽郡の東の海上にある地に東鯷人がいて、二十国余りに分かれている。また夷洲(台湾のことだとされている)及び澶洲がある。伝によると、始皇帝が方士の徐福を派遣して子供の男女男女數千人を引き連れて海に出て蓬莱の神仙を求めさせたが、失敗した。徐福は失敗により誅殺されることを畏れて、とうとうこの地に留まることとした。以降、代々住み続けて戸数が数万戸にまでなった。その人々は会稽郡に来て商売をすることがある。会稽郡東冶県の人で、海に出て強風に吹かれて流されて、澶洲に流れ着く者がいる。その場所はあまりにも遠く、行き来は不可能である。論(昔の人物批評)によると、昔、箕子が滅びたので、朝鮮に去った。始めはそこの風俗もあまり褒められたものではなかった。八条の法を敷いて、その人々にしてはならないことを教えた。すると終いには、町では男女の不純な交わりや盗みがなくなり、門を夜に閉ざすこともなくなった。頑なで浅はかな風俗を少しずつ変えていき、寛容で簡単な法を守らせて、これを数百、あるいは千年行った。だから東夷とは交通があり、柔順で謹直であることを風俗とし、北狄、西戎、南蛮とは異なるようになったのだ。いやしくも、政が行き渡る所には道義があるのだ。孔子は憤りを感じて九夷(九はすべての意、転じて代表、中心の意)の地に行こうと考えた。ある者が九夷は卑しい者ではないかと疑った。すると孔子は、君子がいるのであれば、どうして卑しいことがあるだろうか、と言った。また、理由があるのだとも。その後、とうとう商人と接し、やっと中国と通交したところ、燕國の人衞滿衛氏朝鮮の祖)は、これを乱して低俗なものにしてしまい、それに従って人情が薄く謀反を考えるようになってしまった。老子は、法令が増えると、盗賊も数が多くなる。箕子が法律を省き簡単にして、信義を守らせたのは、聖人賢人のやり方の基本を押さえたのだ。と言った。編纂者の意見だが、この居所とした嵎夷(太古、日が上ってくる場所とされた東方の山)を、暘谷(太古、日が上るとされた場所)と言う。山に住み、海に潜り、その種族は九族(九夷=東夷のこと)である。が滅びる間際にの人たちが難を避け、中華の風俗を伝えて交え、その本性を薄くして、ついにはと通交した。遙か彼方の遠方であり、中国に従った時もあり、叛いた時もあった。

    冒頭は、『漢書』地理志呉地条の末尾にある「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」=「會稽の海外に東鯷人あり。分かれて二十餘國を為す。歳時を以て来たりて獻見すと云ふ」によります。會稽の海の向こうというと、沖縄あたりになるんですが、これらの諸島を二十あまりの部族が争って領有していたと言われると納得してしまいます。それとは別に夷洲、澶洲があるということなのですが、澶洲の位置が不明です。往来不可能と記されているのですから、かなり遠方、小笠原諸島とか、北マリアナ諸島、グアムでしょうか。しかし、たどり着いた者がいることをどうやって編纂者は知ったのでしょう。その情報源の方が不思議です。(この項、2013年6月24日に追記)

    「傳言」の傳とは、経書の注解を言うのですが、それが何という書かはわかりません。普通、単に傳と言えば「春秋左氏伝」を指すのですが、始皇帝徐福を派遣したのは、春秋時代どころか戦国時代も終わった後なので、この場合は違うことがわかります。ご存じの方がいらしたらご教示下さい。(この項、2013年6月24日に追記)

    「論曰」つまり、「過去の人物批評によれば」以降で語られている内容は、『漢書』地理志燕地条で、箕子が東夷を教化したことを詳しく述べ、その遺風が代々伝えられたことを指しています。また、孔子が言った言葉は、『論語』子罕第九にあります。ちなみに、『漢書』に言う、「海に浮を浮かべて…」の句は『論語』公治長第五が出典です。

    「贊曰」は編纂者、この場合は范曄もしくは倭人条を書いた人の意見であることを示します。「嬴末紛亂」の「嬴」は春秋戦国時代の王家の姓です。これは、戦国時代末、太子丹秦王政(後の始皇帝)を暗殺するために刺客として荊軻を送り込んだのですが、からくも失敗に終わり、これに激怒した秦王がを苛烈に攻め滅ぼしたことを指すと思われます。

    ちなみに、ここでもミスをやらかしています。倭人条の最初で、倭は会稽郡東冶県の東にある。と言っておきながら、ここでは、会稽海外には東鯷人がいて、その他に夷洲や澶洲があると言ってます。日本って東冶県と同じくらいの小さい国だと思ってたんでしょうか。なんだか、やっつけ仕事っぽいですよね。

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  • 日本の古代史を考える—補足4『漢書』地理志燕地条を正しく引用する

      2 comments

    漢書』地理志燕地条をちゃんと引用したことがないのに気がついたので、内容の正確な理解を助けるために、改めて必要個所を抜き出し、訳文を付ける。

    玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義田蠶織作樂浪朝鮮民犯禁八條相殺以當時償殺相傷以穀償相盜者男沒入爲其家奴女子爲婢欲自贖者人五十萬雖免爲民俗猶羞之嫁取無所讎是以其民終不相盜無門戸之閉婦人貞信不淫辟其田民飲食以籩豆都邑頗放效吏及内郡賈人往往以杯器食郡初取吏於遼東吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條可貴哉仁賢之化也然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云自危四度至斗六度謂之柝木之次燕之分也

    訓読文

    玄菟げんと樂浪らくろう武帝(ぶていの時に置き、皆、朝鮮、濊貉わいばく句驪くり蠻夷ばんいなり。いんの道衰へ、箕子きしが朝鮮に去りき、の民に、禮義れいぎを以て田蠶でんさん、織作をさとす。樂浪らくろう、朝鮮の民、禁八條犯すに、相殺すは當時とうじを以て殺してつぐなひ、相傷つけるは穀を以てつぐなふ。相盜む者、男は沒入しの家のし、女子はす。自らあがなひを欲する者は、人五十萬。免れて民とすといへども、俗、なほこれはじとす。嫁を取るにむくいる所なし。これを以ての民、つひには相盜むことなく、門戸はこれを閉じることなし。婦人は貞信、淫辟いんじならず。田民でんみん籩豆へんとうを以て飲食し、都邑とゆうすこぶる吏及び内郡の賈人こじん放效ならひ、往往、杯器を以て食す。郡、初め吏を遼東りょうとうに取る。吏、民の閉臧へいかんなきを見る。賈人こじんの往く者、夜にすなはち盜をすにおよんで、俗はやうやく益薄く、今は犯に於いて禁ますます多く、六十餘條に至る。とうとかな仁賢じんけんの化なりしかるに東夷とういの天性柔順、三方の外に異なる。ゆえに孔子道の行われざるをいたみ、はしけを海に設け、九夷きゅういに居らんと欲す。ゆえあるそれ樂浪らくろう海中に倭人わじん分有り、百國をす。歳時を以てきたりて獻見けんげんすとふ。危の四度り、斗の六度に至り、これ柝木たくぼくやどりふ。燕の分なり

    現代語訳

    玄菟郡楽浪郡は、武帝の御代に置かれた。みな、朝鮮、濊貉、句驪の蛮夷である。が滅んだ時、箕子が朝鮮にやってきて、朝鮮の民に礼儀に則った稲作、養蚕、機織りを教えたのである。楽浪郡や朝鮮の人民が禁止されている罪八つを犯した場合、人を殺した場合は、すぐに犯人を殺した。人を傷つけた場合は、穀物で贖わせた。盗みの場合、その身分を落として男は盗みに入った家の奴(やっこ)に、女は婢(はしため)にした。自首して贖罪を望むものは、ひとりにつき五十万鐘(の穀物、一鐘は五十㍑)とした。罪を免れ、民としての地位を保ったとしても、これを恥じるように風俗が変わった。嫁を取る場合も代価が不要となり、ここに至って遂に、その人民は盗みを働かず、門戸を閉じることもなくなり、女性は貞淑で、浮気をすることもなくなった。農民は、籩豆(籩は竹で編んだ高坏、豆は木製で塩などを盛る)を使って食事をし、都市には官僚や中国本土の商人をよく見習い、しばしば食器を使って食事を取るようになった。玄菟郡楽浪郡でははじめ、遼東から官僚を選抜していたが、官僚が摘発したのは、人民が門を閉じて交通を閉ざしたりしないので、官僚が見たところ、人民は町の門を夜も閉ざさない。それで、商人で行商する者が夜になると、盗みを働くことであったくようになっていた。その風俗の益化もようやく少しずつ薄れてて、今は、禁止しなくてはならないことがだんだん悪い行いについて禁令がますます多くなり、今は六十条あまりになっている。仁者賢人の教化というのは誠に貴いものである。こういう次第でそうではあるけども東夷の天性は柔順となった。なのであり、そこが北狄西戎南蛮との違いである。だからこそ、孔先生は道が行われないのを悲しみ、小舟を海に浮かべて九夷(九はすべての意、転じて代表の意。この場合は東夷の中心)の地に行きたいと仰った。それには理由があったのだろうか。(もちろんあったのである。)楽浪郡の先の海に倭人の地のいる分度があり、百あまりの国に分かれているがある。礼に則り毎年朝見していたと伝える。(その分度とは天文上の星分度であり)危の四度から斗の六度までの星分度である。これを「柝木の次」と言う。燕の分度である。

    「吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條」の箇所の誤訳を訂正。倭人条は、「夫」が後の句と対になることを示す助字であること、「倭人分」でひとつの熟語であることなど、Blog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんで紹介されていた解釈に基づいて訳し直した。また欠けていた下の句を追加した。(2013年7月20日)

    こうして見渡せば一目瞭然、ここは、中国の聖人賢人の教化が遠い東の果てにまで及んでいたことを自賛賞賛する記事なのである。遠い昔、箕子が朝鮮の人民を教化・巡撫した成果が、時間を隔てた武帝の時代にまで及んでいたと語り、それが海を渡り、空間を隔てた「倭」の地にまで及んでいたと語っている。倭人はその証拠として駆り出されているのである。『漢書』が編纂された後漢において儒教は国家の規範であり、政治の基本でもあった。従ってその祖であり聖人と見なされている孔子に筆が及ぶと言うことは単なる風聞ではなく、歴とした証拠があったと見なくてはならない。その孔子が、礼が行われていると見なした根拠として挙げられている朝見だが、当然それは周礼に基づいたものであることは言うまでもない。後世、『魏志倭人伝』で「其使詣中國皆自稱大夫」「中国にやってくる遣使は、皆大夫を自称した」とあるところから、大夫による朝見であったことが推測される。大夫による朝見は、年一回と決まっていた。ゆえにこの歳時とは一年であることもわかるのである。また、歳時を四時=四季に対応した言葉であると考えるなら、やはり一年を意味することとなる。ところで孔子が生きた春秋時代はもとより、その後の戦国時代も混沌として天下を統べる王が不在の時期であった。だから、倭人が朝見していた天子というのは、西周の天子であることもまたわかるのである。

    この最後の一文「以歳時來獻見云」を前漢武帝以降、つまり楽浪郡が置かれてから倭の遣使が朝貢してきたのだと誤解している人が余りに多いことに驚く。前漢の時代に実際に朝貢があったのなら、班固は「云」とわざわざ伝聞で書いたりしない。然るべき記録を参照し、本紀はともかく、少なくとも朝鮮伝のついでくらいにはその事実を書くはずである。そうしなかったのは、前漢に倭の遣使が朝貢した事実がなかったことを物語る。前漢楽浪郡を置いたことからもわかるようにとの通商は衛氏朝鮮と対立しておりが独占しており、そこを遣使が通過して前漢に朝貢することはできなかった。また、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を含む四郡を設置しても、短期間で楽浪郡以外を放棄せざるを得なかったように、その支配も安定していたとは言い難い。つまり、前漢を通して倭が遣使を出して朝貢する機会はなかったのである。渤海を抜けて遼河から中国に入るルートがあるとお考えの方もおられるだろうが、そこは匈奴の支配下であり、やはり前漢と対立していたので、遣使は不可能であった。では前漢以前はと言うと、は天下を支配した期間があまりに短く(だからとひとまとめにされることが多いのだが)、朝貢を受けた天子は、の天子以外にありえない。なら東周の天子かというと、中華は春秋時代であり、戦乱に明け暮れた時代である。洛陽(東周の都)まで遣使の無事が保証されなかった。そんな時代に遣使することは考えられず、従って倭が「以歳時來獻見」した天子は西周の天子に外ならないという結論に至るのである。縄文時代の人々がなぜに朝貢しようなどと考えたか、それは殷周革命と呼ばれる戦乱に原因がある。は九夷=東夷の助けを得て王朝を建てたと伝えられており、末の三公(西伯昌、九候、郭候)のうちの「九候」も九夷の首長と考えられる。従ってが滅びた影響で、の族や遼東山東の族が周の追撃を逃れて朝鮮や日本に逃げ込んだことは充分に考えられるのである。一方でその自体、高宗武丁王の頃に江南を支配下に置いており、後のの族の一部が西南諸島を経由して日本や朝鮮に逃げ込んだこともまた確実である。中華に燦然たる王朝があることはこうして日本に伝わり、その冊封を受けて族や国の安全を図ろうとすることは何の不思議もないのである。(この項、2013年6月29日に追記)

    コメントでご指摘頂いた分とBlog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんの記事に従い訳文を修正した。最期に「燕之分也」で終わる句だが、これはあるいは倭人が「燕」にも朝貢していたのかも知れないと思い始めた。燕地条自体にも書いてあるが、戦国時代に「燕」は王を称しており、「燕」までなら戦乱に巻き込まれることもなくたどりつけるからである。あるいは、『山海經』第十二「海内北經」に「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」とあるのを引いたのか、別の資料を引いたのか出典は定かでないものの、無視できる内容ではない。(この項、2013年7月20日に追記)

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  • 日本の古代史を考える—補足3「神武東征」

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    神武東征」と言っても今時の若い人どころか、年寄りでも、あああれか、と分かる人は少ないのではないでしょうか。初代天皇、神武天皇が九州を出発して大和へ向かい、天下を治めたという、『古事記』『日本書紀』に収められている話です。ところで「神武東征」どころか第十代の崇神天皇より前は、全部架空の人物に架空の出来事を当てはめた起源説明神話に過ぎないという説が未だ根強いのですが、そんな戯けたことを言う人は、シュリーマントロイヤを発掘した故事をよくよく噛みしめるべきです。

    神武東征」否定説は、

    1. 近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなどの点から、九州から近畿へ東征があったとは思えない。
    2. 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は考え難い
    3. 4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、この段階での九州勢力の東征は考えにくい
    4. 大和朝廷の南九州支配が、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年のの琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権を主張する為に説話が形成された

    というようなものがありますが、皆さんが皆さん、皇国史観を前提に考えておられるので、そりゃ間違うだろうという点を間違えています。『古事記』では神武天皇は兄の五瀬命と二人(もちろん配下を連れてですが)で出発します。九州の部族が移住したという雰囲気ではありません。『日本書紀』では「天皇親帥諸皇子舟師東征」とありますが、後で述べるように大軍で出発したとは考えられません。従って、集団移住のように文化様式が伝播したりすることなどはまずありえません。また、四世紀以降の九州、つまり「倭國」は外征に国力を投入していたため、大規模な古墳を作る余力があるはずもありません。それは、『宋書』に掲載された倭王武の上表文でも明らかです。つまり、古墳が「ない」ことが即ち存在証明なのです。尤も、大和地域に投入されたような莫大な資材が投入されれば状況は変わるかも知れませんね。何せ「ない」と断定されていた弥生時代大規模集落・墳墓が「吉野ヶ里」で発見されたりしてますし(嫌み)。

    1. 軍団の移動で文化が漸進するとは奇態な発想である。脳の検査をオススメする。
    2. 軍団の移動で文化が漸進するとは奇態な発想である。脳の検査をオススメする。
    3. 大規模集落遺跡なら「吉野ヶ里遺跡」がある。まさに弥生時代を代表する大規模遺跡であり、墳墓もある。
    4. 領有権を主張するなら、実力で。それが当時のルールです。

    古事記』によれば、神武天皇=カムヤマトイハレ彦の命は、日向(ひなた、またはひゅうが、ひむこう)→筑紫→宇佐→筑紫の岡田宮→阿岐(安芸)國の多祁理(タケリ)宮→吉備の高嶋宮と少しずつ移動しています。筑紫の岡田宮には一年、阿岐國の多祁理宮に七年、吉備の高嶋宮に八年も滞在しています。一部の説にある古代二倍年歴(今の半年が一年になる)だったとしても結構な長期滞在です。これは兵を募りながら移動していたことを表し、滞在期間の長さは兵備に手間取ったと考えるべきです。それはそうとして、ここまでに戦闘描写がないことは、吉備までは既に倭國の支配下にあったか、倭國と同盟していた、つまり倭國の勢力圏であったことを示します。次に出てくる地名は「速吸の門」です。常識で考えると鳴門のことになります。吉備、つまり岡山から奈良方面へ向かうには、淡路島の北か南を抜けなければならないのですが、淡路と神戸の間は、五色塚古墳に代表されるような強大な豪族がいて、これと対峙するのを避けたので、潮流渦を巻く鳴門を水先案内人を探して渡ったと考えられます。

    とここまでは順調(?)でしたが、青雲の白肩津で、登美の那賀須泥毘古(ながすねひこ)と戦いになり、負けてしまいます。しかも神武天皇の兄、五瀬命が戦死してしまいます。激戦だったのでしょう。その後、和泉国(大阪南西部)から熊野(和歌山県南部と三重県南部)へ入り、吉野(奈良県南部)を抜けて、宇陀(うだ、奈良県東部)に至りますが、そこで國つ神の奸計を見破って殺します。「宇陀の血原」という表現が出てくるくらいですから、急襲して配下もろとも惨殺したのでしょう。そこから忍坂の大室へ移動したところで、土雲(つちぐも)の族がいたので、これも謀を以てして殺してしまいます。さらに登美毘古(トミヒコ)を討ちます。重ねて兄師木(えしき)、弟師木(おとしき)を討った時は軍が疲れ果ててしまう状態でした。この後、邇藝速日命(にぎはやひのみこと)が後を追ってきて臣従しました。それから、畝火(うねび)の白檮原宮に落ち着き、そこで即位します。

    以上は『古事記』ですが、『日本書紀』の方はルートが少し違っていたり、安藝國に一年ほどしか滞在しなかったり、吉備國に三年しかいなかったことになっています。そこで「脩舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也」とあって軍備を整えていたのですから、ここから先が純粋な軍事行動であることは明らかです。また、ここで軍備を整えているのですから、出立時はさしたる勢力ではなかったことがわかります。何より、日向国から国を挙げて東進して、しかも何年も準備に掛けてあっさり那賀須泥毘古(ながすねひこ)に敗北する、しかも重要な幹部が戦死するほどのぼろ負けってどうやればそうなるのか、否定論者の方にお伺いしたい。そして何より、この行軍の様子からどうやって文化の伝播などということが考えられるでしょう。歴史学者や考古学者はもっと常識を学ぶべきです。アメリカは第二次世界大戦中、日本本土に空襲という形で軍事行動を行いましたが、その時一緒に何か文化が伝播しましたか? 日本は日中戦争で中国に攻め入りましたが、後世明らかな痕跡が残るほど何か文化を伝達しましたか?

    それに、三世紀以前に存在した銅鐸文化が急速に廃れたという事実があります。後世に発掘されたものの用途が全くわからなくなっている様子が、『扶桑略記』や『続日本紀』の記事に見えるところから、大和朝廷の先祖が銅鐸を使った祭祀を執り行っていたとは考えられません。また、何らかの理由があって作らなくなったとしても、それを用いて祭祀を行っていた氏族が残っていたのなら、正体が不明のままということは考えにくいのです。なぜ銅鐸文化を広げた「国」が残らなかったのか。そこに「神武東征」がぴたりと当てはまるのです。大和の中心に位置し、銅鐸文化を広げていた国が神武天皇欠史八代と呼ばれているその子孫によって滅ぼされてしまったのなら、埋蔵された銅鐸は以後祭祀に使われることもなく、埋められたまま時が経ったのではないでしょうか。(この項、2013年6月26日に追記)

    さて、想像力の欠片もない否定論者を構うのはこれくらいにして、ではそもそも神武天皇はどこから出発したのでしょう。日向→筑紫宇佐筑紫というルートを考えると、日向を日向国と考えるのは実は困難です。筑紫宇佐筑紫とあるのは、宇佐の豪族を抱き込んで船を作らせたのでしょう。その準備に一年かかるので、一度筑紫に戻ったと考えるべきです。日向国から筑紫へ行くには、陸路でも海路でも途中に宇佐があります。というか船で出発したなら、そもそも筑紫で一年も過ごす理由がありません。古代人は愚かだったのでしょうか。そんなことはありません。日向がどこであるにしろ、いったん筑紫に出て、そこから宇佐へ行くのが合理的なルートだったはずです。すると出発点は現在の福岡県西部もしくは佐賀県、(あまり可能性はないでしょうが)長崎県くらいに絞られます。古田武彦氏は『古事記』に記された歌に「久米能古良」と呼びかける形で「久米」が繰り返し出てきていることから、福島県糸島市の日向だと断定されています。私も概ね同意です。ちなみに糸島市を少し東南に下ると吉野ヶ里遺跡があったりします。おや、偶然ですねぇ。

    糸島市には、三雲・井原遺跡とか、平原遺跡のように重要な遺跡が既にあるんだから、さっさと疑わしいところを掘れば良いのに。と思います。

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  • 日本の古代史を考える—補足2「新唐書」

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    新唐書』は、明らかに『日本書紀』を参照しているし、『新唐書』が書かれた頃には「倭」は「日本」に併呑されて随分経っているから、もういいやと思っていたのですが、一応目だけは通しておくかと思って東夷伝日本条を眺めていたら、意外な表現に出会いました。

    次用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始與中國通

    次は用明である。また多利思比孤の属官であったとも伝える。開皇の末に初めて中国と直接通交した。

    元々「日本」は「倭」の属国で、「開皇の末」ということはまさに六世紀末葉に「初めて」中国に使いを遣わせたとあります。『新唐書』の編纂者はもちろん「倭」が遠く三国志の「」の頃から「」に至るまで延々と中国に朝貢してきたことは知っていたので、「日本」=大和朝廷が「倭」ではないことをはっきり示しているのです。びっくりだ。

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  • 日本の古代史を考える—補足「倭人」について

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    あちこちウェブで古代日本の資料を渉猟していると、『論衡』に見られる「倭人」は江南人のことで、日本にいた倭人ではないとする主張をよく見かける。というか、皆そういう主張をしていることに驚いた。してみると『論衡』を書いた王充はそれを知らずに引用したのだろうか。王充が生きた後漢時代では「倭」といえば日本のことだったから、知っていれば一言追記したであろうから、知らなかったのだという意見に一応肯けないこともない。しかし、

    この人たちは、江南系の倭人が、呉越の戦争や越の滅亡によって江南から南西諸島沿いに稲作を伴って日本にやってきて「弥生人」となったと、判で押したように書いている。戦乱によって避難するのが当然であれば、「商(殷)」の高宗武丁王が江南を侵略して版図に収めた時も、当然避難民が発生したとなぜ考えないのであろうか。なぜ江南人の渡来は「弥生人」に限るのか、意味が分からないよ。「商(殷)」は、20世紀初頭に甲骨文字が発見されるまで、架空の王朝とされていたため、昔は上限を弥生時代に置いていただけなのです。そうです。そのカビの生えた先人の教えを後生大事に守っているわけですな。先生の言う通りってか? 死ねば良いのに。

    つまりは、「江南人は農耕とセット」で、「農耕弥生時代とセット」という固定観念があるからに過ぎないのです。放射性炭素年代測定が適用できる資料が出土した古い水田跡がないため、この固定観念がなかなか崩れません。しかし、岡山県児島郡灘崎町の縄文時代前期(約6000年前)の地層からは大量のプラントオパールが見つかっており、少なくとも約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表されています。また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文時代晩期には導入されていたという説も無視できないものであるにも関わらず、江南人は「弥生人」の定説だけは崩さないのです。本気で頭脳を疑います。

    こんな想像力の欠片もない学者様方に多額の税金を費やしているのが日本ですが、果たして歴史はそれを是とするでしょうか。(反語表現)

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  • 事実に基づく歴史を伝えよう

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    婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

    とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

    人類の歴史は500万年とも600万年とも言われますが、そのほとんどをそうして暮らしてきたのです。氷河期の最中にたくましく生きて子孫を残してきた先祖に、私たちは敬意を持たねばなりません。

    ここで目を日本に向けます。縄文時代は、今から約14,000年前から紀元前六世紀に当たります。温暖で植生が豊か、海産物や川で取れる食料も豊富、危険な肉食獣がほとんどいない、という原初人類にとっては、パラダイスのような地でした。日本の地にたどり着いたリーダーは心底安堵して肩の力を抜いたでしょう。もはやリーダー一人が懊悩を繰り返して元来不可能な課題に対する決断を下さなくてもよくなったのです。となると、性も解放されてしまうのですが、放置すると集団はバラバラになってしまいます。そのままでは、性欲が非常に強化されていますから、各自勝手に乱交となって集団を統率できなくなります。リーダーはやはりどうすればよいか考えなくてはならなかったでしょう。そして、性を神に捧げる神事とすることで、野合を禁じ、集団で定期的に婚姻を営む形を考え出したのでしょう。これが「群婚」です。近親相姦の問題? あんなの学者が現行のタブーを正当化するためにひねり出した世迷い言です。近親相姦を繰り返すと本当に遺伝的障害が現れるかどうかは実験で確かめることも、観察で確認することもできません。早い話がわからないのですよ。でも、現在の日本人に全体として遺伝的に大きな問題があるように見えませんから、そういう問題などないんじゃないですかね?

    この「群婚」の遺風は後々まで、戦後の昭和まで残っていたことは既に述べました。ですが、日本中が全部そうだったとは限らないのです。ここで、『漢書』地理志の倭人について書かれた記述を思い出して下さい。あれは、西周時代に「倭」が朝貢していたことを表しているのだと述べましたが、それは即ち、「倭」—朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部一帯—に中国の風習が移入されたことも意味しているのです。西周時代といえば、今から三千年前に始まる古代の王朝です。少なくとも九州北部の縄文人は、「」の感化を受けていたと考えられます。縄文人には半分裸の未開人なんてイメージがありますが、縄文土器ひとつ取っても見ても、その美意識が現在の我々と変わらないか、あるいは上回っていることを示しています。そういう人たちがどうして未開でありえましょう。まして中国に朝貢していたということは文字すら知っていたことになるのです。縄文人の交易ルートが日本中に広く広がっていたことも併せて考えると、そこに、高度に組織化され、統率された人々の姿を見ないでいることは不可能です。そしてそれがあるからこそ、次の段階の婚姻「妻問婚」も可能になったのです。

    高群逸枝氏は、「群婚」に「族内婚」と「族外婚」の二段階あったと主張されていますが、それにしては後世に残った「群婚」風習がすべて「族内婚」的なものばかりなのが腑に落ちません。これは氏の勇み足で、私は日本には「族外婚」などなかったのだと考えています。そのような過程を経たのなら、それを示す遺風が必ず見つかるはずです。にも関わらず、その前段階の「族内婚」遺風ばかり見つかるのは、「族外婚」がなかった証でもあります。「群婚」から「妻問婚」に到るには、人々が氏族として統率されていないと不可能でした。いかに縄文時代弥生時代が豊かな時代であったとしても、現代とは比較になりません。個人で生きていくなどまず不可能でした。集団の協力があってこそ、族外の男を受け入れ、生まれた子を養うことができたのです。それは小さな数家族が集まっただけの小集団では保障できようはずがありません。もっと大きな氏族という枠組みがあってこそ互いの生活を保障し合えたのです。また、その枠組みに乗っかる形でしか、妻を集団外に求めることはできなかったのです。妻を他所に求めるということは、「群婚」が不利になる事態が既にないとできません。人口密度が高まり、集団と集団が接するように居住するようになると、そのこと自体がストレスとなって集団にかかってきます(とはいえ、現代の超過密社会を想像しないで下さい。狩猟採集を維持するにはとても広い領域が必要だったのです)。そのストレスを緩和し、集団間の対立を回避する方法としてやはり性が使われました。それが「妻問婚」です。そのような事態は、早ければ縄文時代中期に、遅くても弥生時代が始まる頃には生じていたでしょう。「群婚」で集団を閉鎖しているとそのストレスが緩和されず、ことによると暴発してしまいます。実際そうして争いになった集団もあったのでしょう。ここに至って集団保障(という概念があったかどうかは別にして)のために血を分けた一族をすべて統率し、氏族として全体の生存を保障すると同時に、性によって氏族間の緊張を緩和するに到ったと思われます。それが「妻問い」の形を取ったのは、氏族の政治過程を男が担っていたためです。言葉を変えると、外へ出て交渉事などを片付けるのは男の仕事であったため、男が女の元を訪れるという形になったにすぎません。従って子供も母の里で育てられる母系制が成立したと言えます。

    では「群婚」はなくなったのかというと、そういう訳ではありません。神事としての「群婚」は、弥生時代を経て、古墳時代に入り、飛鳥時代になってもまだ庶民の祭りの場に残されていました。それが戦後まで残っていたということは、すべての地域で行われていたわけではないにしろ、延々と余命を保っていたことがわかります。日本人が性に大らかなのは、性を特別視することなく、ムラの大人総出で楽しむ行事が根底にあったからです。ムラの性的行事と言えば「夜這い」が有名ですが、もちろん「夜這い」は柳田民俗学が言うようなお上品なものではありません。夜に男が女の元へ忍んで通うというのはセックスのためであって、馬鹿じゃなかろうかと思います。赤松啓介氏の著作を読めば、みなさんお盛んであったことがよくわかります。そういう意味では「夜這い」とは「婿取婚」や「嫁取婚」で性が封鎖されてしまうことへの「群婚」的反逆だったのかもしれません。「夜這い」の風習がほぼ全国にあったことはよく知られていますが、これをただの乱交だの強姦だのと同列視している人が結構居ることに驚きます。当然、「夜這い」もムラの規律に従って営まれた行事だったのです。ムラごとに掟が異なるので一概には言えないものの、基本的に男女で同意があったからこそ長く続いた風習であったことを忘れてはいけません。(この項2013年6月17日に追記)

    中国では「東周」になってから戦乱の世となり、朝貢どころではなくなってしまいます。この春秋戦国時代は、紀元前221年に「」によって統一されるまで、500年も続きます。ところがその「」もあっという間に滅んで、紀元前202年、王朝が開かれるまで、また戦乱です。その王朝が武帝の頃最盛となり、中国の正史の中でも特に有名な歴史書「史記」が司馬遷によって書かれます。「史記」には倭のことが出てきません。他に書くことが一杯あったのですから仕方ありませんね。その「史記」の「太伯世家」に「於是太佰、仲雍二人乃奔荊蠻、文身斷發、示不可用、以避季歷」とあります。中国では髪を切ることは文明人のすることではなかったので、太伯と仲雍がそれを以てして「」の跡を継がない決意を表したのですが、ここで「文身」と出てくることに注意して下さい。体に入れ墨をしたという意味ですが、後々重要になります。

    さて、そんな戦乱が続いたのなら、当然戦乱を避け、平穏な地を求めた人々がいたことは論を俟ちません。特に春秋時代の終わりには、の戦争が激しくなり、ついにに滅ぼされてしまい、そのに滅ぼされてしまいます。の人々が南西諸島を経由して日本へ逃れてきたこともまた、論を俟ちません。その人々が稲作をもたらしたことは確実とされています。そして「前漢」末から「」を経て「後漢」が建国されるまでもまた戦乱の中にありました。ここでも大量の避難民が日本を訪れ、定住したことでしょう。既に日本は弥生時代に入っていました。平和的に移住できた時代は終わりを告げており、ここ日本でも戦争が頻々と起きていました。外来の人たちと戦争になったこともあるでしょう。その戦争の結果、様々な部族を統合して「国」を建てる一族が次々と現れたと思われます。『後漢書』東夷伝を見れば、建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が朝貢してきています。既に国家が形作られていたのです。この時下賜された金印志賀島から出土したものであることは既に書きました。

    後漢書』東夷伝の倭人条は『魏志倭人伝』を参照して書かれたことが明らかなのですが、「使」を「使」と間違っていたり、「會稽東之東」を「會稽東之東」と勝手に書き直したり、「國大人皆四五婦、下戸或二三婦(その国で身分の高い人は妻を四、五人持ち、平民でも二、三人の妻を持つ者がいる)」を誤読して「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三(その国には女性が多いので、身分の高い者は妻を四、五人持ち、そうでない者も二、三人の妻を持っている)」と爆笑ものの説明をしていたりと、まあ当てにならないこと夥しいのですが、さすがに「後漢」の公式記録から引用された部分は信用してよいでしょう。

    さて、日本のことが詳しく紹介された史上初の書物が『魏志倭人伝』です。景初三年(西暦239年)卑弥呼に朝貢してきた時の記事を含め、その旅程や風俗まで説明されています。この旅程が、所要日数を距離に換算したものであることが、後の『隋書』で明らかになります。当時はレストランなんて気の利いたものはありませんから、食料を調達=狩りをしたり木の実、山菜を採集しながら旅をしたわけで、しかも保存技術も怪しいですから、一度に大量に狩りや採集をして食料を集めておき、旅程を急ぐ、などということも無理だったと思われ、平均すれば、一日に数㎞進むことがやっとだったのではないでしょうか。実際、狩りをしたり、木の実、山菜を集めてなおかつ料理して、そのついでに移動するような状態だったと思います。そしてその『魏志倭人伝』で紹介された「邪馬國」=「山倭(やまゐ)國」が、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、九州北部にまたがる国であったことは間違いなさそうです。九州中部、今の熊本県あたりから南は「狗奴國」だったのでしょう。なぜなら、『隋書』東夷傳俀国条では触れられている阿蘇山について書かれていないからです。

    さてその『魏志倭人伝』では「男子無大小皆黥面文身」で男性は全員入れ墨をする文化があったことを示しています。倭人が入れ墨をするのは、中華の教化が東の果てに及んだためである。と特に注記しているのです。「史記」の「太伯世家」に「断髪文身」が出ていたでしょう。の風俗として入れ墨は非常に昔から有名だったのです。その上、『魏志倭人伝』と同じ資料を参照して書かれたと思しき『魏略』には「聞其旧語自謂太伯之後」と書かれています。「その昔話を聞くと、自分たちは太伯の末裔であると言う」倭の人々は太伯の末裔だと言っていたのです。から渡来した人々がいたことは確実です。その人たちが入れ墨の風習を持ち込んだのでしょう。そして実際、中国江南から、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が発見されているのです。「男子皆露紒」とあるのでまだ冠を被る習慣がないこともわかります。「有屋室、父母兄弟臥息異處」とあるのは、「妻問婚」で男たちは妻方の実家で寝るからだと説明しました。「以朱丹塗其身體」と中国で白粉を使うように朱丹(赤い顔料)を使うとあれば、『古事記』や『日本書紀』で紹介されている風俗と随分異なることがわかります。また、神社で拍手を打って拝礼するのは、元々身分の高い人に対する礼であったことも書いてありました。一方で、この頃ヤマト近辺では「抜歯」の風があったのにそれには全く触れていません。このことからも、「邪馬國」がヤマト王権とは関係ないことが見て取れます。

    現代人の感覚からすると、入れ墨などヤのつく職業の人たちの特徴みたいに考えがちですが、元々は極めて実用的なものであったのです。それが装飾や身分を表す証に変遷していく過程にあったことも記されています。なぜ歴史学者は「記紀」には記述のないこの風習を重視しないのでしょうね。

    そして、空白の四世紀をはさんで、『宋書』に有名な倭王武の上表文が現れます。その「」の時代に編纂されたのが『後漢書』ですが、この時、国名が「邪馬國」=「山大倭(やまだいゐ)國」に変わっています。既に国名に「大」を冠して恥じない実力を倭が備えていたことを示します。当時の倭の風俗についてはわかりませんが、倭王武の上表文から、先祖代々文字通り東奔西走して戦争していたことがわかります。おそらく東は美濃尾張まで、西は肥前天草を征し、北では新羅高句麗と激闘していたのでしょう。南が書かれていないことを考えると、『魏志倭人伝』に言う「狗奴國」は既に征していたか、あるいは「狗奴國」自体が膨張して倭の国々を従えていたのかも知れません。「記紀」にある「神武東征」もこの頃のことではないかと筆者は考えています。「記紀」には神武天皇淡路島から大阪湾に出る際、明石海峡側ではなく、鳴門海峡側をルートとして選んだことが覗える記述があります。明石海峡側は「五色塚古墳」に象徴される強力な豪族が根を張っていて、これと正面から事を構えることを避けたのでしょう。このことは「神武東征」の頃、「倭國」はまだ吉備国(今の岡山県に広島県東部の一部と兵庫県西部の一部をあわせた領域)あたりまでしか支配もしくは同盟していなかったことを示します。それを考慮すると、むしろヤマト政権は、元々倭の東部前線基地と東部総督を兼ねていたのかも知れません。その由緒がヤマトと他の地方政権との違いとなったこともありえない話ではありません。

    宋書』が倭の風俗を伝えていないことは残念です。海外から見た倭の風俗は、『隋書』まで、即ち六世紀末から七世紀初頭まで空白のままです。しかし『隋書』によると、複式統治が行われていたので、卑弥呼以来の制度が続いていたことが覗えます。冠位十二階があったことはかなり早い段階から位階を設けて豪族を組織化していたことを覗わせます。それが倭王武やその前後の王によって創始されたと考えてもおかしくはないでしょう。そして「」の時代までは冠を被るという風習はなかったのですが、その頃定めたとあります。『隋書』には「男女多黥臂點面文身没水捕魚」とあります。『魏志倭人伝』では男子のみが実用から入れ墨をしていたのが、男女共通の習俗に変化しています。身分を表し、装飾を兼ねていたのは言うまでもありません。当たるも八卦当たらぬも八卦の卜筮は「知卜筮尤信巫覡」とあるのでこの頃には既に一般化していたこともわかります。嫁入りの風習を取り入れていたようですが、「男女相悦者即爲婚」ということで、後の嫁取婚とは全く異なるものだったことがわかります。「貴人三年殯於外」三年間の殯は、中国の儒教の影響がよく現れています。儒教では父母が死ぬと三年間喪に服するのが正式です。尤も、本家中国ではそのような礼は既に孔子の時代でも廃れていたことがわかっています。やはり春秋時代ですが、晏嬰という人が父の喪に本当に三年間服したことが天下の話題になっています。それくらい稀なことだったのです。孔子の死から千年以上経っているのにその教えた礼が形を変えていたとはいえ日本に保存されていたのが面白いところです。文化は中央で生まれ外部へと波及していくのですが、中央でそれが廃れた後も周辺ではよく保たれることが明らかになっています。方言の変遷を説明するのによく援用される理論なのですが、もちろん文化全般に言えることです。四世紀から五世紀の間に様々な風習が中国から影響を受けて生まれていたことがわかりますね。

    日本が中国から影響を受けた風習というと、殯と関連して土葬があげられます。日本は仏教が入った後も長い間土葬が併せて行われていましたが、それは死者の肉体を神聖視し、様々な儀式を儒教が行ったことに由来します。また仏壇というと位牌がつきもののように日本人は考えますが、この位牌というのも由来は儒教です。年功序列=「先輩が上、後輩は下」も儒教です。ブルーカラーよりホワイトカラーを何となく上に見るのも儒教思想に由来します。和を以て貴しとなすという思想も儒教由来です。教育を重視し、子供を愛育すべしという考え方も儒教が根源です。年寄りを労り親を大切にするのも儒教の教えです。今時の宴会は無礼講が当たり前ですが、それでも敢えて無礼講を宣言する場合があるのも、儒教にその根っ子があります。掘り出せばもっと出てくると思います。間違いなく日本人の原風景には中国の影響があるのです。儒教ではありませんが、帽子を被るというのも中国の風習が元です。今や帽子を被る人を滅多に見なくなりましたが、ほんの四、五十年前までは正式な場で無帽は失礼だとされていたのです。閑話休題。

    さて、この頃のヤマト王権の影響範囲はどこからどこまでだったのでしょう。「記紀」にあるオケ王・ヲケ王の物語から、播磨は王権の及ばない地と考えられていたことがわかります。すると、西は摂津の国までだったのでしょう。東については美濃尾張あたりではないでしょうか。天武天皇の挙兵に応じた東国の兵とはそれらの国の兵団でした。とても全国政権とは言えませんね。

    では全国…とはいかなくても南は薩摩大隅屋久島種子島から東は美濃尾張までを配下に治め、号令をかける存在がなかったかというと、それが倭のオオキミだったことが、『宋書』倭王武の上表文から見て取れます。『隋書』においても九州の多利思北孤が倭のオオキミであり、倭を代表していたことがわかります。この多利思北孤の姓が「阿毎」であることは、天つ神を信仰しており、自分たちがその子孫であることを表していると考えられます。太宰府には天満宮がありますが、ここに祭られているのは菅原道真なのに、どうして「天神」さんというか不思議に思ったことはありませんか? 元々倭の神々の筆頭「天神」が祭られていたのが、倭の王族がヤマトへ移住した後放置されていたところに、菅原道真が合祀されたのです。「記紀」に記された天つ神も元々は倭の国の神様だったのです。

    隋書』には王の妻は「キミ」と呼ばれていたとあります。「キサキ」ではないのです。倭は複式統治を取っており、政治を見る王を「オオキミ」、祭祀を司る王を「キサキ」と呼んでいたのでしょう。この「キサキ」に女性が任じられたことは『魏志倭人伝』に見られます。『隋書』では兄弟統治になっていましたから、必ずしも女性に限るものではなくなっていたのでしょう。後代、大和朝廷ではこれが混交され、「キサキ」が「オオキミ」の夫人を意味するようになっていくのですが、元々は「キサキ」を夫人が代行する慣例があったのだと思われます。

    さて、六世紀の大乱といえば、「磐井の乱」があり、これは継体天皇が倭王朝を簒奪しようとした事変であると説明しました。実際、いったんは簒奪に成功したものの、各地の反乱を鎮撫するのに二十年かかり、しかもその後すぐに継体天皇は死んでしまった可能性があるのです。大和朝廷の勢力は駆逐され、再び倭が力を取り戻したのは言うまでもありません。こうして倭とヤマトの一世紀に及ぶ対立が始まるのですが、「記紀」はこれをなかったことにしています。まあ強盗に失敗しましたと書くわけにもいかなかったでしょうし、仕方ないですね。その外交方針を巡ってヤマト蘇我氏物部氏の対立があり、山背大兄王の謀反があり、乙巳の変があったことは既述しました。その宥和路線に転換した大和朝廷を待っていたのは、「白村江の戦い」での大敗北で、これを受けて大海人皇子大和朝廷へ避難し、天智天皇を支えて国をまとめていったのです。最終的に大海人皇子が「壬申の乱」を経て大和朝廷のオオキミの座を勝ち取り、倭の一族を呼び寄せて「皇親政治」を開始しました。敗戦で立て直しもままならなかった倭の国は以降、地方政権へ転落し、代わって大和朝廷が倭を代表する国になったのです。しかし、倭の人々は偉大なる倭王多利思北孤を忘れられなかったのでしょう。由緒のある建物をヤマトへ移築したくらいですから、英明な王であったことは間違いありません。

    代、つまり縄文時代晩期から続き、卑弥呼が総覧し、倭王武が勢威を張った倭國の歴史はここで終わりました。しかしそれは完全に忘れ去られたのでしょうか。私は「記紀」にその名残があると思います。天つ神の系譜に始まり、天孫降臨に至る物語は、元々倭國で伝えられたものでしょう。天武天皇は『古事記』や『日本書紀』の巻頭に敢えて神代を挿入することで自分たちの祖先を顕彰することを忘れませんでした。史書の編纂が中華の伝統を受けたものでしかないなら、神話を冒頭に配置することなどありえません。つまりその編纂に強い意志が働いたことを意味しているのです。偉大なる倭王多利思北孤の事績は、厩戸皇子と結びつけられ、スーパーヒーロー聖徳太子として『日本書紀』に綴られました。おそらく他にも倭國伝来の由緒のある人が仮託されている人物や天皇があるとは思いますが、今の私にはそれを解き明かす材料がありません。いつの日か、歴史学が江戸時代の蒙昧な国学者の影響を脱し、真の科学として発展して真相が解明されることを切に願ってやみません。

    さて、長々と振り返りましたが、これは歴史に対するひとつの説でしかありません。しかし、中華の文献を参照し、また日本の書物を読んでいくと、日本の歴史はこのような形でないとおかしいと思われるのです。もっと過激な説を唱える人がいることも知っていますが、中華文献絶対で、日本文献は完全に恣意の産物というのもありえない話です。私たちの祖先は、そこまで蒙昧だったのでしょうか。そんなことはありません。確かに、政治的な意図からある人物を貶めたり、逆に持ち上げたりすることはあったでしょう。それは中華の正史でも見られることです。あるいは、「倭」の歴史事実を「日本」の歴史に混入もしているでしょう。しかし、事件の年代を入れ替えたり、存在しない事件をでっち上げたりするでしょうか。私はそこまではしなかったと考えます。もちろん「記紀」が編纂されるまでは豪族ごとに自分たちに都合の良い修飾が入った私史が作られていたのでしょう。それを集大成して矛盾のないように整理したのが「記紀」の姿だと思います。歴史を恣意的に改編することはなによりも祖先に対する冒涜です。「記紀」の編纂者がそこまで傲慢であったとはどうしても思えません。

    最後に。あなたは子供たちに、自分たちの祖国、日本の歴史を語るとき何を基準に言って聞かせますか。教科書通りの薄っぺらい中身のない独りよがりな日本史ですか。それとも、連綿と続く誇り高い先祖の事績が詰まった日本史ですか。

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  • 日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子

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    法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。

    法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
    前太后崩明年正月廿二日上宮法
    皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並
    著於床時王后王子等及與諸臣深
    懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
    像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
    住世間若是定業以背世者往登浄
    土早昇妙果
    二月廿一日癸酉王后
    即世翌日法皇登遐癸未年三月中
    如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
    具竟乗斯微福信道知識現在安隠
    出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
    彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
    同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

    法興元三十一年歳次は辛巳(西暦621年)の十二月。キサキの太后が崩御された。明くる年正月の二十二日、上宮法皇は病に伏し、具合が悪く食事も喉を通らない。さらに王后も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。そこで王后や王子たちは、は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。「三宝の仰せに従い、上宮法皇と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」二月二十一日癸酉、王后がお隠れになった。翌日法皇も登遐された。癸未年(西暦623年)三月中、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背と台座)を造りおえた。この小さな善行により、道を信じる知識(造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、太后・上宮法皇・王后に従い、仏教に帰依して、ともに悟りに至り、六道を輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。この像は、司馬鞍首止利(しば くらつくりのおぶと とり)仏師に造らせた。

    法隆寺は九州太宰府から移築された建物であるとする説があります。山背大兄王が立てこもった斑鳩寺が壊され(その時の遺構が若草伽藍ではないかと思います)、新たに据えられたのが現在の法隆寺ではないでしょうか。立て替えられた跡があるというと、法起寺も該当します。それらを前提に考えると、この上宮法皇が聖徳太子でないことは一目瞭然となります。では誰でしょう。

    法興元三十一年が辛巳の歳と記していることから、これを西暦621年と見る説が定説です。法皇とあるのですから、仏法に帰依したオオキミを指していることは明白です。この頃、仏法を篤く信仰し、天下に号令した王といえば、倭の多利思北孤(あるいは多利思比孤)しかいません。

    「鬼前太后」を従来「后の太后」と解して、上宮法皇=聖徳太子との思い込みから(聖徳太子は、上宮王とは呼ばれましたが、上宮法皇と称された例はありません)、これを穴穂部間人皇女とする解釈が一般的なのですが、穴穂部間人皇女が太后と称された記録はありません。古代、皇太后は前の天皇の后が自動的になるものではなく、ちゃんと叙任の手続きがいります。穴穂部間人皇女が太后に叙せられたという記録はありませんので、これを穴穂部間人皇女とすると、僭称したことになります。そんなものを長く残る銘に記したとはとても考えられることではありません。これは、『魏志倭人伝』や『隋書』俀國伝に見られる「複式統治」の「キサキ」です。とすると、オオキミに並び立つ人ですから、太后という尊称も当然になります。

    干食王后を従来は膳大郎女としてきましたが、これは牽強付会もいいところで、全く根拠がありません。さらに上宮法皇と制作者以外の名前がこんなところにだけ出てくるのも変です。あるいはほかの王后と区別するために、固有名詞を出したのかも知れませんが、14文字×14文字でぴたりと収まるよう苦心された文章にそんな配慮がありえるでしょうか。これは臨終間際の上宮法皇の病が癒えて欲しいという発願に基づく像の銘なのです。ここは「干食」と「王后」を区切って読むべきでしょう。だいたい「ものを食べないお后様」って名前としても変じゃないですか。これは中国が日本を東夷と見下して書いた文章じゃないんですよ。

    私は多利思北孤が倭の王の中でも群を抜いた英傑であり、その後も長く尊崇されたのだと思っています。天武天皇が即位して一族を呼び寄せ、大和朝廷が日本を代表する王権となりましたが、倭の一族は偉大なる王、多利思北孤を忘れられなかったでしょう。遠く太宰府から所縁のある様々な建築物を移築し、故地を偲ぶ気持ちを慰めるとともに、偉大な王を追慕したのではないでしょうか。そのため、『日本書紀』において、本来は関係のない厩戸皇子に同じ崇仏の人であるゆえんを結びつけ、多利思北孤の事績を移して、長く人々に忘れられないようにしたのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑲壬申の乱

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    さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも大海人皇子と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。

    一方の大海人皇子は複雑であったかも知れません。自分の祖国は「白村江の戦い」でぼろぼろになってしまいました。オオキミすら捕虜になったのです。オオキミが死んでいれば、皇太子—あるいはそれは大海人皇子自身だっかかも知れません—が跡を継いで国を復興すべく一丸となって努力することもできたでしょう。しかし、オオキミは生きて唐に連れ去られたままです。賠償も過酷なものが課されたでしょう。自らは避難してきた身です。身を寄せた国に貢献するのは当然として、祖国とは異なり、たちまち国力は充実し、今や彼我の差は逆転しているかも知れません。

    そんな日々を過ごす大海人皇子の元へ「倭國」のオオキミが帰還したという知らせが入ります。同時に朝廷にも知らせが行ったでしょう。帰国することを考えなかったはずはありません。しかし、今更帰ってどうするのか、オオキミが受難の間、難を避けるためとはいえ、逃げていた自分はどんな顔をして帰ることができるでしょう。そして「大皇弟」という尊称はあっても平和になり、落ち着いた大和朝廷では逆に浮いてしまったのではないでしょうか。帰るに帰れず、しかし今いるところも終の棲家とならざる様子にひとり懊悩したものと推察されます。

    両者沈思黙考の日々が続いたのでしょう。しかし周りは放っておいてはくれません。大友皇子の近臣は皇太子とはいえ、多大な実績のある大海人皇子を警戒しています。当然天智天皇大海人皇子を遠ざけるように進言したでしょう。一方の大海人皇子周辺も「日本國」が立ち直れたのは自分たちの貢献を大としていますから、そのような朝廷の空気に拒否感を持つものもいたと思われます。当然、実力で地位をもぎ取るべしと進言する者もいたでしょう。そうしているうちに、大友皇子派の豪族に押されたのか、天智天皇は、大友皇子を太政大臣に任命します。あるいは大友皇子が皇太子であればこの叙任はなかったかも知れません。いずれにせよ、大友皇子が執政権を一手に握ることを天智天皇が許したことになります。それは、婉曲に大海人皇子に手を引くことを求めたことになるのです。

    むろん、天智天皇が生きている間は、大過なく過ごすことができました。大友皇子にあっては父天皇ですし、大海人皇子にあっては避難してきた自分を受け入れてくれた恩人です。両者ともその顔を潰すことなどできませんでした。

    しかし、天智天皇10年(西暦672年)、天智天皇は崩御します。そして、当然大友皇子は即位したでしょう。

    日本書紀』は、天智天皇の死の間際、大海人皇子は出家して吉野に隠遁することを願って許されたと書いています。ただちに吉野へ赴き、出家入道して修行を重ねていたところ、近江の朝廷が大海人皇子を謀殺するという情報を掴んで挙兵したことになっていますが…ここが一番怪しいのです。大友皇子大海人皇子を謀殺する理由がありません。大人しく出家していてくれれば、自然に影響力も衰え、放っておいても脅威ではなくなるのです。

    もう当然だと思いますが、大海人皇子が自ら立って実力で大和朝廷を奪うことを決意したと私は考えます。大友皇子は余裕綽々ですが、大海人皇子の方は時間が経てば立つほど功績を忘れ去られ、異邦人として拠って立つ地もなく消えゆく運命です。大海人皇子は赤い旗を掲げたとされていますが、これは高祖劉邦に自らをなぞらえたのだとする説があります。高祖劉邦は、赤帝の子を自称し、赤い旗印を使い、一介の布衣から身を起こし、秦帝国を倒して、項羽との天下分け目の戦いに勝って、新たに王朝をひらき、漢帝国を建てました。その劉邦に自らをなぞらえたということは、大海人皇子大和朝廷とは関係のない人であったことを示します。そして、即位の際には新たに王朝を開くことを宣言したと言いますから、天智天皇と同母の兄弟であったというのは、後世の粉飾であることがわかります。これには傍証があり、『新唐書』東夷伝日本条に永徽初めのこととして、「天智死子天武立」「天智死して子の天武立つ」とあります。唐に献上されていた史書では、そのように書かれていたのでしょう。続柄が変わると言うことは、粉飾であることの証左です(この一文、2013年6月22日に追記)。閑話休題。

    白村江の戦い」で大敗してもなお「大倭國」の残照は余命を保っていました。美濃やほかの東国諸国から援軍を得ることができたのはそのおかげでしょう。大和の地で大伴吹負が挙兵したり、河内国守来目塩籠が近江朝廷に背いたのは、大海人皇子の器量を見込んだところが大でしょう。近江羽田矢国が寝返ったのも、大海人皇子の挙兵に狼狽える近江王朝を見限ったからだと思います。こうして、大海人皇子の挙兵は成功し、近江朝廷は滅びました。大海人皇子はしばらく美濃で戦後処理にあたっていましたが、それを終えると飛鳥の地に入り、即位しました。しかし天武天皇は、天智天皇の恩を忘れたわけではありませんでした。弘文天皇は死んでも、他にも天智天皇の皇子は生きていたのです。彼らとともに「吉野の盟約」を結び、今後は一致団結することを子供らに誓わせています。

    さて、世に言う「壬申の乱」が終結した後、私は天武天皇が一族を「倭國」から呼び寄せたと考えています。それは、

    • 天武天皇の政治は「皇親政治」と呼ばれていますが、それは大和朝廷の皇族だけでなく、自分の一族を使ったと思われること。
      地着きの豪族は無理ですが、王子や王都の官僚たちなら移動が不可能ではありません。また大和朝廷の皇族は豪族の合議による政治に慣れていましたから、「皇親政治」の即戦力になったとは思えません。
    • 「倭國」で重要だったと思われる施設が、大和の地へ移築されていること。
      移住に当たって貴重品を持参するのは当然ですが、持ち運べない建物のようなものでも、移築が可能なら、その方が手間がありませんし、目に馴染んだものの方が喜ばれたでしょう。その代表が法隆寺だと言う人がいます。え? じゃあ山背大兄王が立てこもったのはどこになるのよ? と言う人もいるでしょうが、それが若草伽藍として残っているんじゃないでしょうか。『日本書紀』は天智天皇の9年(西暦670年)に「夏四月癸卯朔壬申夜半之後災法隆寺一屋無餘」と一切合切が焼失したと伝えていますが、釈迦三尊像とか薬師如来像は明らかに火災の影響を受けていません。どうやって火事の中運び出したんでしょう。謎ですね。それはともかく、逆に「日本國」が「」と手を組んで、掠奪したのだという人がいますが、持ち運びのできる金銀財宝はともかく、建物などを移してどうしようというのでしょう。むしろ、移住にあたり、故地を偲ぶ気持ちを慰めるため、自分たちで運んでいったという方がよほど筋が通ります。
    • 「倭國」が『舊唐書』より後の中国の正史に全く現れなくなり、国としては滅びたと思われること。

    によります。言葉を変えると、「倭國」による「日本國」乗っ取りです。別の言い方をすれば、「日本國」が「倭國」を併呑させられたことになります。もっと別の言い方をすれば、「倭國」による「日本國」の簒奪という言葉も使えます。天網恢々疎にして漏らさず。継体天皇はあの世で歯がみして悔しがったでしょう。

    ところで、天武天皇は非常に不思議な天皇で、

    • それまで当然であった豪族たちによる政治を排除して、「皇親政治」という皇族だけで執り行う政治を実施した。
      専制的とまではいかないにしても、権力をトップに集中させて、官僚を手足のように使う政治に慣れていた様子が覗えます。それは「倭國」で行われていた政治形態をそのまま持ってきたものでしょう。
    • 律令制を指向している。
      以前から中国では律令が施行されていたのですが、天武天皇まで大和朝廷がそれを取り入れようとした気配がありません。
    • 冠を被ることを強制している。
      それまでの髪型は角髪といって冠を被るのに適していませんでした。これを改めさせています。冠を被るのは元々中国の風習でした。それを取り入れた「倭國」の習俗に慣れていた大海人皇子には、官人や貴族が冠を被らないことに違和感を感じていたのでしょう。
    • 官人に武装させている。
      中国では官人であっても普通に武装していました。皇帝の御前など特別な場では武装を解除されましたが。なので、中国の制度を導入した「倭國」出身の大海人皇子にとって官人が武装していることは当然だったのです。天武天皇までは大和朝廷の官人が武装することはありませんでした。実は天武天皇以降も官人に武装させることはなかったのです。律令が制定され、軍団制が施行されたからだと言う人もいますが。
    • 恒久的な都を建設することを考えていた。
      「倭國」の首都「太宰府」は長安をモデルとした恒久都市でした。自分の代で「日本國」が「倭國」を併せた以上、当然恒久的な都を築くべきだと考えたのです。
    • 複都制を指向した。
      難波宮の跡地に難波京を置いています。これも中国周代からある複都制を模倣したものです。
    • 史書の編纂を発起した。
      古事記』『日本書紀』は共に天武天皇の発起によるとされています。中国では、前の王朝の歴史を、跡を継いだ王朝が書く伝統ができていました。しかしそれ以前の大和朝廷ではそんな建議すらありませんでした。
    • 五節の舞新嘗祭大嘗祭など主要な宮廷儀式を集大成した。
      おそらく、それまで「倭國」で行われていた儀式を移したのでしょう。
    • 国家神道を形成した。
      天照大神を祖神とする神々の系譜は、「倭國」で伝えられていたものが「日本國」へ移されたものと考えられます。伊勢神宮天照大神が祭られたのもおそらく、天武天皇の頃からでしょう。「倭國」は天つ神を信仰していたと考えられ、太宰府天満宮で「天神」そのものを祭っていたと思われます。天照大神は元男神だったのが大和へ移されるとき、大和朝廷がそれまで信仰していた祖神が女神だったため、性別を変更されたと考えられます。
    • 仏教を手厚く保護した。
      「倭國」はまた「多利思北孤」以来仏教を熱心に信仰し、保護していました。大海人皇子ももちろんそれに感化されていたでしょう。天武天皇以前に仏教を積極的に保護した天皇はいません。
    • 新羅と手を結んだ
      天武天皇は、遣唐使を一回も派遣していません。祖国を滅ぼされたのですから当然ですが。しかし、敵の敵は味方の俗諺通り、新羅とは通交し、遣新羅使も頻繁に送っています。この方針は文武天皇が即位するまで堅持されます。

    とこれだけ独特なことをしています。それまでの天皇観を破壊するがごときです。しかし、見方を変えれば、「倭國」で実際に行われていたことを移しただけであり、天武天皇自身は、特別なことをしているとは思ってもいなかったでしょう。

    「倭國」は消え去りましたが、なくなってしまったわけではありません。日本の中に溶け込んで今もその血を伝えているのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

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    蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされていますが、百済系の渡来人とする説もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうが、たった四代で成り上がった新興豪族なのは間違いありません。

    蘇我稲目大臣になったのは、宣化天皇の元年です。宣化天皇継体天皇の皇子です。このことから、継体の大和入りを支援した畿外豪族だったという人もいます。それはともかく、この稲目という人は崇仏派で、物部氏中臣氏らの排仏派と衝突したと伝えられています。古代の人々の宗教に懸ける情熱は現代人の想像を超えたところにあります。同時にそれは国家をどうまとめていくのかという統治論でもあったのです。

    しかし統治論は所詮という言い方では語弊があるかも知れませんが、方法論にすぎません。それで一触即発の事態に陥るでしょうか。継体天皇による九州王朝の簒奪の失敗からまだ時間は経っていません。むしろ、継体に従い大和に入った蘇我氏の長である稲目継体以来の倭國との対立=冷戦路線を主張する一方で、物部氏中臣氏はかつてあった友邦国として交流を復活させる宥和路線を主張したのではないかと考えます。これは国の存亡に関わる政治問題です。倭國の出方次第では、対立を続ければ攻め込まれる恐れがあり、一方で宥和路線を敷けば下手を打つと倭國の属国になってしまうという、極めてシビアな判断が求められる場面であり、国家の安危が関わるのですから、激論になったでしょう。しかしここで宥和路線を取るなら、継体天皇の業績が全くの無駄になってしまいます。継体によって引き立てられたと思しき蘇我氏にとって、それは氏族の否定に等しい暴論でした。国家の安危に加え、自分たちの氏族の安危がかかっているのですから、相手を謀殺してでも方針を固めたいと考えたのではないでしょうか。

    しかし、この時は欽明天皇の取りなしもあっていったんは収まります。おそらく、表向きは対立=冷戦路線を続けながら、裏で交渉の糸口を探るよう裁定が下ったのでしょう。

    次の代になり、蘇我馬子稲目の跡を継いで、対立=冷戦路線を続けます。物部守屋宥和路線です。この対立は妥協点を見いだすことができず、これに皇位継承問題がからんで、遂に戦争になってしてしまいました。おそらく、物部氏中臣氏の交渉が実り、宥和路線に手応えを感じていたのでしょう。物部守屋は一歩も引きませんでした。対する馬子も引けません。その結果は蘇我氏の勝ち。つまり、対立=冷戦路線が改めて規定方針となったのです。

    さて、蘇我氏が勝ったことで、蘇我氏側についた泊瀬部皇子は即位して崇峻天皇となります。ところが、本音は宥和派だったのか、あるいは蘇我氏の勢力が強大で恣に政治ができないことを密かに憎んで宥和派を取り立てたのかわかりませんが、馬子の逆鱗に触れることをやらかします。『日本書紀』崇峻紀によると、崇峻天皇四年に、「冬十一月己卯朔壬午、差紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴囓連、葛城烏奈良臣、爲大將軍。率氏々臣連、爲裨將部隊、領二萬餘軍、出居筑紫。遣吉士金於新羅、遣吉士木蓮子於任那、問任那事」「(崇峻天皇の四年(西暦591年))冬十一月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍に任命した。臣、連それぞれは氏族を率いて副将や部隊とし、全部で二万人余りの軍となり、出陣して筑紫に下った。吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わして、任那のことを問うた」とあります。皆まで言う必要はありません。いきなり「倭國」と手を組んで軍を出してしまったのです。まさかの宥和派大勝利。馬子の面子丸つぶれです。激怒しない方がおかしいでしょう。しかしことは国の安全保障です。物部守屋らの打った手が正しかったわけですから、ぐっとこらえたでしょう。ところがその翌年冬十月、猪を狩って献上した人がいたのですが、その頭を落とされた猪を指さして「何時如斷此猪之頸、斷朕所嫌之人」「何時になったら、この猪の頭のように朕の嫌いな奴の頭を落とせるものやら」と暗に馬子を始末してやると宣う始末。まさか大王に手出しはできまいという油断があったのか、馬子を舐めていたのかわかりませんが、ここまで虚仮にされて黙っている馬子ではありません。また、放置すれば、自分ばかりでなく、蘇我氏という氏族そのものが族滅させられることは火を見るより明らかです。同じ年の十一月、馬子の配下、東漢直駒崇峻天皇は殺されてしまいます。こうして史上唯一、臣下に弑された天皇が生まれたわけです。(この項、2013年6月17日に追記)

    馬子の嫡男、蝦夷も父の敷いた対立=冷戦路線を守りました。だから、甘樫岡に天皇の宮を中心とした防衛施設を建設したのです。それは継体天皇の怨念と言ってもよいかもしれません。しかしそれではいつか、強大な「倭國」に蹂躙されることになるのではないか。ことにいったん手を取りながらまたその手を振り払ったのですから、その懸念は一層深まります。蘇我氏を憚り、表だった動きは見せませんでしたが、宥和派は、裏で連絡をとりあい対応を協議したでしょう。「倭國」も宥和派が主流になってくれた方が、いつ叛くか分からない対立=冷戦派よりましでしょうから、敢えて旧悪に囚われず、謀略の手を伸ばしたと思われます。

    蘇我氏は強大です。これに戦争をしかけるのは無謀というものです。したがって、現職の大臣であり、蘇我氏宗家の嫡男である蘇我入鹿を暗殺し、クーデターを起こすことを計画したのです。だから、中臣鎌足がここで登場するわけです。中臣氏物部氏と並んで宥和派でした。しかし、臣下で争っていても頭に頂く皇族がいなければ大義名分が立ちません。最初は軽皇子に目を付けましたが、その器なしとして見放し、次に中大兄皇子に目を付けました。『日本書紀』では二人で計画を練ったとありますが、暗殺によるクーデターとはいえ、その後豪族たちの支持がなければ、ただの殺人事件で終わってしまいます。宥和派による支持が既にあったと見てよいでしょう。

    そして「乙巳の変」が起きます。皇極天皇の四年(西暦645年)朝鮮三国の親善使節を受け入れる儀式があり、これに大臣である入鹿は出御しないわけにはいきません。そこを狙われ、非命に倒れました。入鹿は「私に何の罪があったというのだ。(この者たちを)お裁き下さい」と天皇に直訴したと言われています。しかしそれも虚しく、入鹿は殺されてしまったのです。これを聞いた蝦夷は、国のためと推進してきた倭國との対立=冷戦路線蘇我氏を太らせてきたとともに、諸豪族の不満をここまで募らせてきたのだと思い、その反発のすさまじさを感じて従容として死についたものと思われます。

    この入鹿の悲痛な叫びは決して専横をこととし、上宮王家を私怨で討ち滅ぼした人物の口から出てくる類のものではありません。

    しかし、変は成りました。中大兄皇子はこの時19歳。平安の頃ならともかく、当時は即位に難のある年でした。そこで軽皇子を立てたのです。

    その孝徳天皇は難波に出て、難波宮を営みました。奈良の山のから開けた海辺に出てきたのです。その理由は、これから倭國と宥和路線で接していくその第一段階の表明でありました。聖徳太子の前例にちなんで、皇太子が摂政をする体制を取り、実際の政務は皇太子に立てられた中大兄皇子が見ました。彼は倭國との関係改善に熱心に取り組んだでしょう。またこの路線に不満があると見られた皇族、有間皇子をためらうことなく謀殺しました。

    ここで中大兄皇子に天佑が下ります。西暦660年の百済の滅亡です。危機を憶えた倭國は旧悪などふっとんでしまい、日本國との関係を改善し、できれば同盟を結ぶことを考慮したでしょう。いや、同盟したと言ってよいと思います。なぜなら、倭が発出する軍に日本國からも軍を出したと見られるからです。宥和路線が完全に成功したのです。

    ところが、そうして軍を送り出してはみたものの、結果は大惨敗で、倭國は王(『日本書紀』で筑紫君薩夜麻と記されている人物)が連れ去られ、亡国となります。中大兄皇子にとっても驚天動地のできごとだったでしょう。「白村江の戦い」は、よく言われるように倭・百済連合軍が衆において負けていたわけではなく、むしろ新羅軍より大軍を繰り出したことがわかっています。それで大敗北を喫しているのですから、群臣の受けた衝撃もひとかたならぬものがあったはずです。中大兄皇子らが進めてきた宥和路線が意外な形で「日本國」に悪影響を及ぼすことになったわけのです。これは中大兄皇子の求心力を大きく低下させたでしょう。

    一方、いち早く敗報を耳にし、王が捕虜となったことを知った倭國は、ただちに皇子たちに伴をつけて避難させたと思われます。もちろん他にも避難した人は大勢居たでしょう。四国、吉備などに留まった人もいたでしょうが、身分のある人は同盟国「日本國」を頼ったと思われます。その避難した皇子の一人こそ、大海人皇子ではなかったでしょうか。大海人皇子の海人は「阿海」=「」で、それに「大」が付された名前です。九州王朝の正統後継者であることを示す、立派な名前であることがわかります。中大兄皇子も「大皇弟」という尊称を奉り、迎え入れることに何ら異議はなかったと思われます。そしてまさにこの後から大海人皇子が「大皇弟」として『日本書紀』に姿を見せるのです。

    大海人皇子、天武天皇は、生年が『日本書紀』に記されていません。他に記されていないのは、崇峻天皇だけです。崇峻天皇はともかく、「壬申の乱」を経て「皇親政治」で強権を発揮し、日本の律令制の土台を造った人で、なおかつ崩御してから『日本書紀』編纂までそれほど時間が経っていない人物の生年を書き忘れることなどありえるでしょうか。『日本書紀』は天武天皇に特別に二巻を費やしているにも関わらず。そういう不審の目で見ると、この人は『日本書紀』において、『天武天皇』紀以外で名前が出てこないことに気付きます。これだけ偉大な帝王の若年の際の事績が不明というのがいかに奇異なことであるかおわかり頂けるでしょうか。しかも一説には天智天皇より年長だったとあり、まさに謎の人物なのです。

    天武天皇らしき人は、『天智天皇』巻において、前振りもなく突然、大皇弟、東宮大皇弟として登場します。が、最期まで名前は書かれません。あるいは大海人皇子とは後に自称した名前でこの頃は別の名前だったのかも知れません。また、いつ立太子したのかも書かれていません。出自が「倭國」の皇子なら、「日本國」である大和朝廷の皇室関係の記録に生年月日が記されていなくても当たり前です。「倭國」から避難してきたのなら、大和朝廷で立太子の儀式などするはずもありません。

    つまり、それもこれも「倭國」の亡命皇子であったためです。中大兄皇子は当然、これを歓迎したと思われます。期せずして正統王朝の跡継ぎが転がり込んできたのです。中大兄皇子はこの皇子に非常に気を遣い、「大皇弟」という尊称を奉っただけでなく、娘を四人も娶せています。同母の弟であれば歳が離れていたとしてもこんな気の遣い方はしません。他人であるからこそ婚姻でその紐帯を緊密にする必要があったのです。しかも、いずれ子が産まれれば、名実共に正統王朝の血が大和朝廷に入ることになるのであり、それも歓迎すべきことです。一方大海人皇子も、身一つで逃げてきたのではないであろうにしろ、そこまで厚遇してくれる中大兄皇子に感謝したことでしょう。加えて、皇子やその取り巻きは「倭國」の先進的な政治形態や軍備の知識がありました。「白村江の戦い」で惨敗を喫した日本には課題が山積していました。倭國は滅亡していないものの、王が不在では滅んだも同然です。これまで対外交渉は「倭國」が中心となっていましたが、今後は独立してやらねばなりません。

    その布石としてただちに遣唐使を派遣しています。もちろんこれは「日本國」にやってきた唐使を送り返す便だったのですが、唐使に対して弁解これ勉めたでしょう。おそらくその甲斐あって、「日本國」にはさしたる咎もありませんでした。

    とはいえ、「乙巳の変」を起こしてまで推進した宥和路線で、とんでもない国難が降ってきたわけで、中大兄皇子の即位は当分群臣の支持を得られない情勢だったと思います。実際、斉明天皇亡き後、相当の期間を称制でしのいだのですから、抵抗が極めて強かったのでしょう。かといってこの国難に当たって他に皇位に就くべき皇子は他におらず、称制を続けるしかなかったのです。そこで、大海人皇子は厚遇に応えるため、離反しがちな豪族たち、特に地方の豪族に思い止まるよう説得に勉めたものと思われます。「大倭國」皇子の看板が効いたことは疑いありません。

    さらに、大海人皇子とその取り巻きの意見は、さすが先進国「倭國」と唸らせる施策も多かったのでしょう。そしてもはや海沿いに都するのは却って危険であり、内陸に下がるべきだと言ったのではないでしょうか。ところがここに障害が発生します。孝徳天皇その人が宮を移すことに反対したのです。なぜでしょうか。それは天皇と言っても名ばかりで中大兄皇子が諸事専断していたことに対する不満が爆発したのでしょうか。あるいは存在感を増す「倭國」皇子大海人皇子に危機感を抱いたのでしょうか。今となってはわかりません。中大兄皇子はそんな天皇を放置して、皇后、皇子たち、大皇弟や群臣を引き連れて西暦653年、近江宮へ移ってしまいました。

    中大兄皇子は、大海人皇子らの建言を受け入れ、飛鳥を中心に西国へ防衛網を構築していきます。「倭國」にも改めて防衛施設の建設が提起されたことでしょう。水城の造築はこの頃のこととされています。こうした大建築事業は従来の豪族任せのやり方では実現不可能です。各地から直接税を収拾し、その莫大な支出に当てなければとても間に合うものではありません。実際、税の徴収を示すものと思われる木簡はこの頃から出土し始めます。

    西暦668年、長年の称制に終止符を打ち、中大兄皇子は即位して、天智天皇となります。なぜこの年なのでしょうか。この年、第六次の遣唐使がありました。実際にはへ行っていないとも言われていますが、その前の遣唐使で来日したの使者、法聡がこれで帰国しています。この遣使は、送唐客使だったのです。つまり、「白村江の戦い」の事後処理について、漸く決着がつき、安堵することができたからだと思われます。そして周囲もそれを認めたので即位となったのでしょう。

    つまり、世に言う「大化の改新」はなかったにしても、継体天皇以来対立=冷戦路線を取っていた「日本國」が宥和路線に転換した画期、という意味では「改新」であったのです。

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