• 日本の古代史を考える—⑰大化改新(前編)

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    古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。

    ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祭るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。

    乙巳の変」は、『日本書紀』によると、蘇我氏の専横を憎んだ中臣鎌足中大兄皇子が計画し、実行したことになっています。

    一般に蘇我氏の専横とされるのは、

    1. 蘇我馬子が崇峻天皇を弑したこと
      崇峻天皇は歴史上臣下に弑された唯一の天皇です。(この項、2013年6月17日に追加)
    2. 蘇我蝦夷が上宮王家(聖徳太子の一族)が勢力を持つことを嫌い、舒明天皇を擁立したこと。
      蝦夷山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてまで、田村皇子を即位させることを強行したと言われています。
    3. 舒明天皇が崩御した時も、皇后であった宝皇女=皇極天皇を即位させたこと。
      これも上と同じ動機とされています。
    4. 甘樫岡の上に豪邸を並べ、蝦夷の邸宅を「上の宮門」(うえのみかど)、入鹿の屋敷を「谷の宮門」(はざまのみかど)と人々の呼ばせたこと。
      宮門とは皇宮の門を指しますから僭上の沙汰とされています。
    5. 蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員したこと。
      聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議したと言われています。
    6. 蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部大臣となしたこと。
      次男を物部大臣としたのは、彼の母(入鹿らにすれば祖母)が物部守屋の妹であるという理由によります。
    7. 専横の究極として、上宮王家を滅ぼしたこと。

    が挙げられます。ところが、これらの問題は客観的に見ると以下のように解釈するのが自然となります。

    1. 後編で詳しく見ていきますが、これは政治問題での対立が根にあり、誅殺されそうになった馬子が先に手を打ったものと考えられます。自ら立てた天皇を弑逆するのは余程のことであり、その対立が族滅を引き起こしかねないと危惧したからこそ敢えて踏み切ったのが真相でしょう。(この項、2013年6月17日に追加)
    2. 舒明天皇敏達天皇の息子であり、皇位の継承に無理がありません。いくら聖徳太子が摂政皇太子であったとはいえ、山背大兄王が継ぐ方がよほど問題であったでしょう。蘇我蝦夷にとってはその同母の妹が山背大兄王の母であったのであり、むしろ蘇我氏に不利な皇子を推したことはその裁定が公平であったことを示しています。
    3. 皇后が天皇に即位するのは推古女帝の前例があり、舒明天皇の子供が年少であったこともあり、むしろ自然であったでしょう。この場合、皇子たちが成長するのを待って譲位する、中継ぎの天皇であったと思われます。天皇になる条件は天皇の血に近しいことですから、舒明天皇の皇子らと山背大兄王では勝負がはっきりしていました。
    4. これは、2005年に甘樫岡の発掘調査が行われた結果、「谷の宮門」で兵舎と武器庫の存在が確認されています。また蘇我蝦夷の邸宅(「上の宮門」)の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置いたのだとする説が出ています。
    5. これについては、この土木工事が本当は何であったのかが問題になります。本当に陵墓を造ったのなら、それらしい遺跡が残っていてもよさそうなものですが、そんなものがあったという記録は残っていません。逆に上で挙げられた説の通り、飛鳥板葺宮の防御力を高めるための工事であった可能性が高いのです。
    6. 蘇我氏はそもそも「冠位十二階」の外にあって冠を授ける側であり、実はこの行為には何も問題がないのです。蝦夷の母は物部氏の出身であり、蝦夷自身物部氏の母の実家で育ったのですから、次男に物部を継がせても当然と言えます。

    おやおや、蘇我氏の専横と言われていたことに実は実態がない様子が見られますね。これは『日本書紀』が後からこじつけた理由である疑いが極めて濃厚です。では、最後の上宮王家を滅ぼしたという点についてはどうでしょうか。

    日本書紀』には、皇極天皇の二年(西暦645年)、冬十一月、蘇我入鹿の軍勢が斑鳩の宮を急襲したと伝えています。少し長いのですが、この事変の様子を引用します。

    十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮。灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰。其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。有人遙見上宮王等於山中。還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼。速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。

    十一月丙子の朝、蘇我臣入鹿小徳の巨勢德太大仁の土師娑婆を遣わせて、斑鳩山背大兄王らを襲った。ある本では巨勢德太と倭馬飼首を將軍としたという。ここにおいて、奴三成と舎人が數十人出てきて戦いを挑んだ。土師娑婆は矢に当たって死んだ。軍衆はこれを恐れて退いた。軍の中では、一人当千とは三成のことを言うのだと言い合った。山背大兄王は、しきりに馬の骨を取って奥座敷に投げ置いていたが、遂にその妃や子供らを率いて逃げ出すことに成功し、膽駒山に隠れた。三輪文屋君、舍人の田目連及其女、菟田諸石、伊勢阿部堅經らが従うばかりだったとか。巨勢の臣らは斑鳩の宮を焼いた。灰の中に骨を見つけ、誤って王が死んだと言い、軍を解散して退去した。このおかげで山背大兄王らは四、五日ほど山に留まることができたが、その間飲まず食わずであった。三輪文屋君は御前に伺候して「深草屯倉に移り、馬をかって東国へ赴き乳部を本拠として軍を興し、それから帰ってきて戦いましょう。必勝は間違いありません」と強く勧めた。山背大兄王らは「卿の言う通りにすれば必勝は疑いないだろう。ただ私は十年間百姓を軍務で煩わせないと誓願したのだ。この身のために万民を煩わせられるだろうか。また後世において私のために父母を失ったと民に言わせたくないのだ。この戦いに勝ったとて人より優れていると言えるだろうか。身を損なっても国を固めてこそ、人より優れた者と言えないだろうか。
    山中に遠くから上宮王からを見た人がいた。蘇我臣入鹿のもとに戻って報告した。入鹿はこれを聞いて大変懼れた。軍を速やかに発し、高向臣國押に王の所在を伝え、ただちに山へ向かい山背大兄王らを捉えるように言った。國押は「天皇の宮をしっかり守り、決して外へは出ますまい」と言って断った。そこで入鹿は将として自ら出向くことにした。この時、古人大兄皇子が息せき切ってやってきて「どこへ向かうのか」と問うた。入鹿は詳しく説明した。古人皇子は「ネズミは穴にこもって生きている。穴を失えば死ぬしかない」入鹿はこれを聞いて自ら行くのを止めた。軍将らを遣わし、膽駒で山背大兄王らを探させたが、探し出せなかった。ここにおいて山背大兄王らは自ら山を下り斑鳩寺に入った。軍将らはすぐさま兵で寺を囲んだ。ここで山背大兄王三輪文屋君を使者にして軍将らに「私が兵を興して入鹿を討てば必ず勝つことは間違いない。しかし一身のために百姓を傷つけようとは思わない。そのため、私の身は入鹿にくれてやろう」と伝えさせた。ここで子弟や妃妾らと皆首をくくって共に死んだ。この時五色の幡蓋が現れ、様々な伎樂が鳴り、空を照らし灼いて、寺に臨垂した。人々はこれを仰ぎ見て驚き、遂には入鹿に指示を請うた。その幡蓋などは変じて黒雲となった。これより入鹿は目が見えなくなってしまった。蘇我大臣蝦夷は山背大兄王らがみな入鹿によって死に至らしめられたことを聞いて、口を極めて罵った「ああ、入鹿め。極めて愚かで疑り深く、専行暴悪であり、お前の命も長くはないぞ」

    日本書紀』が「聖徳太子」を神格化しようとしていることは改めて述べるまでもありません。当然その筆は子供たちにも及びます。先に述べたとおり、山背大兄王の母親は蘇我蝦夷の同母妹です。従って、上宮王家は蘇我宗家の後見がありました。つまり、蝦夷入鹿には身内に近く、山背大兄王らが大人しくしている分には敢えて命を付け狙う理由がありません。ところが逆に、山背大兄王蘇我氏を付け狙う理由ならあるのです。

    • 自分を後見していた蘇我氏内の有力者、境部摩理勢が殺され、舒明天皇が即位したこと。
      死んでいなければ当然父は皇位を履んでいたはずである。従って自分の即位が当然のところを邪魔されたと山背大兄王が恨んでも無理はありません。
    • 入鹿古人大兄皇子の擁立をはかり、その中継ぎの天皇として皇極天皇を立てたこと。
      わざわざ女帝を立てなくても自分がいるではないかと思ったとしても当然でしょう。

    ここで、最初の戦いを見てみると、入鹿側の将、土師娑婆は矢に当たって死んでいます。「土師娑婆連中箭而死軍衆恐退軍中之人相謂之曰一人當千謂三成歟」あまり攻める側の雰囲気ではありません。どちらかと言うと守る側の状況を説明しているようでもあります。しかも戦況不利と見るや山背大兄王は馬の骨を宮の建物に放り込んで、死を偽装しようとしています。急襲されてやむなく防衛し、隙を突いて脱出する…人の行動にしては冷静が過ぎると思うのですが。

    しかも再起を期せば必ず勝てると臣下が強く勧めるにも関わらず、百姓を傷つけたくないという理由で逃亡するかと思いきや、斑鳩寺へ入るという自殺行為を行います。まさしく自殺するのですが、この行動は全く意味不明です。むしろ、事を挙げておきながら、意外にも同調するものが少なくて事態を諦めてしまった人のようです。あるいは斑鳩寺を本陣として最後の抵抗を試みたとも見て取れます。

    つまり、山背大兄王が謀反を起こし、天皇位に就こうとしたのを入鹿が阻止したのだと考えることは充分可能ですし、彼らが族滅させられたのもそのためだったと考えれば充分納得できるのです。しかしだからと言って、山背大兄王らに同情する豪族が全くいなかったかと言えばそんなことはなかったのでしょう。それでも、生かして捉えておけば事態の処理のしようもあったのに、追い詰めて死なせてしまってはどうしようもありません。そういった豪族の目にはまさしく蘇我氏の横暴と移ったでしょうし、その不満は鬱屈していつか爆発します。蝦夷は、入鹿が政治的に悪手を打った点を責めたのです。

    ここで改めて考えてみて下さい。山背大兄王はあの「聖徳太子」の嫡男です。その嫡男が悲劇的な死を遂げたなら、丁重に葬り、あるいは少なくともその死処となった斑鳩寺で菩提を弔うことくらいはするでしょう。ですが、山背大兄王の墓所がどこかは全く記録がないのです。死に場所となった斑鳩寺にも伝えられていません。しかも斑鳩寺が菩提を弔っているのは「聖徳太子」だけです。

    さらに、山背大兄王を襲撃したとされる巨勢徳太ですが、大化五年(西暦650年)四月、なんと左大臣に任命されています。大逆甚だしと言われた入鹿の命令に従って、罪もない山背大兄王らを殺した人が何故に? 「聖徳太子の孫・弓削王」を殺害したとされる斑鳩寺の狛大法師は、大化元年八月、「十師」(とたりののりのし、仏教界の最高指導層)の筆頭に任じられています。びっくりです。襲撃後すぐに入鹿によって賞されたというならまだわかりますが、その入鹿を天下の大逆として暗殺した「乙巳の変」の後にこれが行われているのです。逆に、山背大兄王に最期まで付き従った忠臣、三輪文屋という人物について、この事変の記事以外には、どの文献にも記録が残されていないのです。これを以てしても、山背大兄王事変が『日本書紀』の言う通りに入鹿の専横を表すものなどではなく、むしろ、山背大兄王側が暴発した結果であることがよくわかる叙任ではありませんか。

    しかし『日本書紀』にとって「聖徳太子」はスーパースターでなくてなりません。その子供が謀反を起こしたなど以ての外です。ゆえに攻守が逆転されて、入鹿が襲って殺してしまったことにしたのです。しかし本当は叛徒ですから、墓所など当然なく、ないものは書きようがないので、書かれていないのです。また逆賊ですから斑鳩寺も菩提を弔うなどということをしていないのです。

    これは重大です。蘇我氏が強大であったことは事実でしょうが、「乙巳の変」を正当化する専横という事実はなかったのです。ではなぜ、にも関わらず中臣鎌足中大兄皇子は「乙巳の変」を敢行したのでしょうか。それはこの頃の国内や国外の情勢を考える必要があります。

    蘇我氏の邸宅や氏寺の飛鳥寺は、皇宮を外敵から守るように配置されていました。この外敵とは、建国間もない「」を意識したものであるとされていますが、いかに日本が大陸に比べて小さいとはいえ、「」に備えるにしては少々迂遠な設備です。大陸からの侵攻を防ぐのであればまず九州を固めねばならないでしょう。ところが、『日本書紀』には—天皇のおわす宮の周囲を固めるのはよいとしても—日本の玄関口である九州の防備を固めたとは書かれていないのです。むしろ、宮の周囲の防備は国内に敵がいてその急襲を懼れたためではないでしょうか。当時、日本には二つの国がありました。「倭國」と「日本國」です。大和朝廷はもちろん「日本國」です。「倭國」と「日本國」は継体天皇による簒奪、「磐井の乱」以来、対立していたと見なすのが自然です。するとこの防備も「倭國」に備えてものと考えるべきでしょう。九州の防備について書かれていないのは、もちろんそれが「倭國」に属する問題だったからです。暗殺という非常手段に訴えてでも主導権を握る必要がある重要な課題とは、この「倭國」を巡る問題だったのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑯九州王朝について補足

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    九州王朝について補足しておきます。

    1. 北九州は大陸、朝鮮半島に対する表玄関である。

      これは地図を見れば明らかですね。縄文時代より大陸、朝鮮半島から渡来人/帰化人がやってきて住み着いたとすれば、

      のいずれかのルートで到来したことは明白です。常に先進文明を真っ先に受容する地に日本最初の王権が登場したとして何の不思議があるでしょう。奈良の田舎に誕生したとする現在の学説の方がよほど奇異です。

    2. 古事記』『日本書紀』に九州の地名が頻出する。

      • ニニギノ命が天下った先は、「竺紫日向之高千穗」です。筑紫なんですね。しかもその地を愛でて、
        「於是詔之、此地者、向韓國、眞來通笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也」
        と言うわけです。筑紫は韓国に面しているのだから当然ですが、朝日も夕日も照り映えるとあるところから、海岸に近いところだったことがわかります。で、そこに宮を建てて住んだわけです。
      • 次に神武天皇が東征に当たり、最初に移動したのは、豊後宇佐です。次に筑前の岡田の宮に一年います。何をしていたのでしょうね。
      • 仲哀天皇は「穴門之豐浦宮」と「筑紫訶志比宮」と二つの宮を営んでいます。なぜ大和ではなくそんなところで宮を営んだのでしょう。熊襲の国を討とうとしたということですが、天皇自ら?
      • 應神天皇は日向の髪長姫を娶っています。なぜ大和の天皇がそんな遠いところの姫を娶ったんでしょう。
      • 以上は『古事記』からですが、『日本書紀』にはもっと九州のことが出てきます。神代が特徴的ですが、他にも景行天皇の九州巡幸がありますね。これも熊襲を討とうとしたとありますが、天皇自ら?
      • 結論:近畿天皇王朝の祖が九州に住み、その孫である神武天皇も九州から出発して東征している。九州に強大な権力があったことが前提として予想される。
      • 歴史上、重要な神託は宇佐八幡宮よりもたらされている。

        道鏡事件』に限らず、古代において宇佐八幡宮が重視されていた。天照大神が祭られている伊勢神宮には明治に入るまで参拝どころか勅使が送られた形跡もない。

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  • 日本の古代史を考える—⑮磐井の乱

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    重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。

    古事記継体天皇の条に、

    此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。

    筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。

    と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、

    廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲往任那、爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前、遂戰而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滯。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。

    二十一年(西暦527年)夏六月壬辰朔甲午の日、近江の毛野臣が六万人の軍を率いて任那に渡ろうとした。新羅が滅ぼした南加羅・喙己呑を任那にあわせて再興しようとしたのである。ここにおいて筑紫國造磐井は叛逆を密かに計画したが、なお数年はためらっていた。反乱の成功が期し難いことを考え、いつも隙を覗っていた。新羅がこれを知り、密かに磐井のところへ賄賂を送り、毛野臣軍を防がせようとした。ここに至り、磐井火國豐國の二国を襲って根城とし、職を修めさせず、外は海路で待ち受けて、高麗百濟新羅任那等の国の貢職船を誘致し、内は毛野臣軍が帰国しようとするのを妨げ、乱語揚言して曰く「今は使者とされているが、昔は自分と伴にして肩を撫でさすり肘を触れあわせ、同じ食器で同じものを食べたのだ。どうして突然使者などというものにして、はしためのように御前にぬかづかせるのだ。戦ってでも受けはしない。そちらが私を軽んじるなら、自分で尊くなるだけだ」ここにおいて毛野臣は、磐井の軍と対峙して踏みとどまらざるを得なかった。天皇は詔して大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人らに曰く「筑紫の磐井が反乱を起こし、西戎の地にいる。討伐の大将には誰を任命すればよかろう」大伴大連らは一致して「軍事において正直で仁勇を備えている者で、麁鹿火の右に立つものはいません」天皇は「よろしい」と許可した。

    と伝えています。この内乱を時の朝廷がいかに重視したかは、続いて述べられる継体天皇の詔にも現れています。曰く

    大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。

    大将を民の司に命ず。社稷の存亡はここにあるのだ。勉めよ。恭しく天罰を行え。天皇は親しく斧鉞をとり、大連に授けて曰く「長門の東は朕がこれ支配する。筑紫の西は汝がこれ支配せよ。賞罰は専断せよ。いちいち奏上する必要はない。

    さて、天皇が「社稷の存亡これにあり」と言った戦いは、かつてありませんでしたし、この後もありません。かつて吉備氏が反乱を起こした時も、そのような大げさな詔が出された形跡がありません。ましてや、遠く九州の片田舎にある反乱を鎮圧するには、過剰なくらい大げさな表現です。この乱が単に大規模であったというだけでなく、ただ事ならぬ意味合いを持っていることは間違いありません。

    日本書紀』によると、継体天皇は大和入りに二十年をかけており、前年に「磐余玉穗」に宮を構えたばかりです。政権が安定していなかったと言うこともでき、ここで反乱の鎮定に失敗すれば、政権が土台からひっくり返される恐れがあったのかも知れません。しかし、継体王朝は、それまで続いていた崇神王朝が武烈天皇で断絶したため、遠縁の継体天皇を大和の豪族が迎えて興した新王朝であることが、今では定説となっています。大方の豪族の支持を得ることができたからこそ、大和入りもできたのでしょうし、だからこそ、反乱の鎮定に大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人といった大豪族を派遣できたのでしょう。それを考えると、政権を脅かしたという定説は素直に肯んじることができません。「社稷の存亡」ということそのものがありえないのです。さらに異様なのは、麁鹿火に「九州はお前が支配しろ」と命じた言葉です。当時、大和政権が全国支配していたとしても(関東以北は蝦夷の支配圏)、政権が支配する領土の半分をくれてやるに等しい言葉を、単なる内乱の鎮圧にあたって述べることができるでしょうか。しかも二十年かかってやっと大和入りした継体が、です。継体の大和入りが二十年かかったのは、豪族間で意見の不一致があったからだとする説が有力なようですが、それならなおさらその豪族の勢力を強化するようなことを継体が敢えて行うなど、常識的に考えてありえません。逆に、それだけの報償をぶら下げないと豪族を動かせなかったのだとも言えますが、大陸との交渉の要である筑紫を押さえられると困るのは、他の豪族も同じであって、敢えて巨大なエサをぶら下げる必要がどこにあったのでしょう。

    ところで、「磐井の乱」に触れているのは『記紀』だけではありません。『釈日本紀』に引用された『筑紫風土記』に次の一文があります。

    古老伝えて云う、雄大迩おほどの天皇の世に当り、筑志の君磐井。豪強暴虐、皇風にしたがわず。生平の時、あらかじめ、此の墓を造る。にわかにして官軍動発し、襲わんと欲するの間、いきおいの勝たざるを知り、ひとみずからら豊前の国、上膳かみつけあがたのがれて、南山峻嶺のくまに終る。ここおいて官軍追尋してあとを失い、士、怒り未だまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ちとしき。

    生前に墓を作ったのが無礼だったのでしょうか。「俄かにして」とあるので、突然官軍が襲ってきたことになります。『日本書紀』とは書きぶりが異なり、同情的でもあります。王権に抵抗したことが後に同情を生んだのだという論者もいますが、それは主客転倒というもので、もともと磐井の君に同情的だったからこそ、このような内容が語り継がれたというものです。あれあれ、何か怪しいですね。内乱があったことは確かでしょうが、これは『日本書紀』の記述を鵜呑みにはできないようです。

    ところで、九州には「キミ」を持つ豪族が多くいたことがわかっています。それらの豪族を束ねる存在がいたとしたら、何と呼ぶのが相応しいでしょう。そうですね。「オオキミ」と普通は呼びますね。「キミ」は天皇の皇子たちに与えられたです。なぜ九州にそのを持つ豪族がたくさんいたのでしょう。答えは自ずから明らかです。九州に「オオキミ」がいて、その子孫が九州内の各所に豪族として定着したからですね。九州に王朝があったことは、中国正史の倭人、倭国に関する記録から明らかになっています。ところで、継体天皇の二十一年は西暦527年に比定されています。ということは、即位が西暦507年になるのですが、そのあたりに何かありませんでしたか? はい。倭王武が「」に朝貢して「征東大将軍」の官位を授けて貰ったのが、西暦502年で、そのすぐ前です。ところがその一回きりで朝貢が途絶えています。あれほど官位を授けられることに熱心だった王朝にしては何か変です。「」は西暦557年まで続きますから、物理的に朝貢できないという事態ではありません。間違いなく何かそれどころではないことが起きたことを示しています。そう言う目で「磐井の乱」を見てみると、九州王朝の主を乾坤一擲、一か八かの大勝負で継体軍が強襲したと解することができます。つまり、これは継体による九州王朝の「簒奪」なのです。だからこそ「社稷の存亡これにあり」と継体が檄を飛ばし、「筑紫の西は汝が支配せよ」と剛毅なことを言ったのも、天下を取るにあたり、人心を収攬する必要があったからでしょう。そんな大軍で攻め寄せられれば、長年の征戦に疲れていた九州「オオキミ」王朝はひとたまりもなかったと思われます。ところが、簒奪があったにしては、後の『隋書』にも明らかなとおり、九州王朝はその後も存続し、に朝貢し、答礼使である裴世清を受け入れ、オオキミ自ら会っています。これはどう理解したらよいのでしょう。

    これは『古事記』の原文にあたればすぐわかります。現代語訳は、枕詞のように宮のあった地名に「大和の」とつけていますが、原文にはそんな言葉はありません。つまり、『古事記』には大和に朝廷があったことなど書かれていないのです。書かれていないことを書かれているかのように説明することを「改竄」と言います。歴史学者はこれを何と説明するのでしょうね。例によって江戸時代からの伝統とか持ち出すんでしょうか。というか、従来の学説の拠ってきたるところは、まさにその「江戸時代」から学者がそのように唱えてきたからでしかなく、何か科学的な根拠があってのことではないのです。ということで、説明が済んでしまいましたね。あるいは『古事記』に従うと、継体天皇は西暦527年に没したことになりますから、国内の鎮定を終えて宮を定めると、すぐに死んだことになります。「磐井の乱」の始末が片付かない間に死んだのかも知れません。そうなると、九州王朝ゆかりの王族が立つのは自然な話です。簒奪を目論んだ大和朝廷の王は死に、再び正当な九州王朝のオオキミが立てられたでしょう。加えて『日本書紀』では今は伝わっていない「百済本記」による説として「天皇と皇太子が同時に亡くなった」という風聞が百済にあったことを述べています。しかし、継体天皇の子供は三人とも皇位を履んでおり、これが継体天皇とその皇子を指すとは考えられません。あり得るのは筑紫の君磐井とその嫡子を指して述べた文であることです。

    継体王朝が正当なる九州王朝を簒奪したのであれば、それ故、朝貢を続けられなかったことが肯けます。また、いくら磐井の君を追ったからといって、九州内の豪族がすぐに服属したとは思えません。簒奪した王権を安定させるには、もちろん様々な懐柔や重ねての討伐もあったでしょう。それが継体の「二十年間」だったのではないでしょうか。それを馬鹿正直に書くわけにはいかなかったので、哀れ継体は「二十年間」も磐余の宮へ落ち着くことができずに、放浪の天子にされてしまったというわけです。そもそも中国の正史や朝鮮の『三国史記』を信用すれば、五世紀から六世紀の初頭まで外征や国内の征討に王権は忙殺されており、大変な時期であったわけですが、『記紀』にはそのことが全く触れられていません。むしろ頭に頂くべき天皇が二十年も宮が定まらずうろうろしている有様ですから、そんなことができようはずもありません。となれば、反乱があったという話もひどくうろんな話になります。『古事記』が簡略に「殺石井也」と片付けているのも、無視するには重大すぎる簒奪の失敗を糊塗するためであったかも知れません。むしろ、『日本書紀』の方が文飾を試みようとして却って真実の一端を表しているようにも思えます。「外邀海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」とあるのは、これらの国を従えていたのは九州王朝ですから、筑紫に船が入るのは当たり前のことです。「內遮遣任那毛野臣軍」とあるのは、突然軍が攻めてきたらこれに対して防衛するのも当然のことです。今まで手厚く遇してきた臣下あるいは分家が突然牙を向いて自分にひれ伏せと言ってくれば、激怒して当たり前です。まさしく飼い犬に手を噛まれたと思ったでしょう。

    いずれにせよ、継体天皇の死を以て簒奪の試みは頓挫したと言えるでしょう。しかし、九州王朝にも少なからぬダメージを与えたはずです。昨日手厚くもてなした者も今日は叛逆する。後継者はその無情をかみしめたことでしょう。『隋書』では倭に仏教が伝来したことが書かれていますが、「多利思北孤」も篤く帰依していたことが「聞海西菩薩天子重興佛法」という言葉や仏僧五十人を遣隋使に随行させたことでもわかります。

    それにしても、なぜ継体天皇は、九州王朝の簒奪という暴挙に出たのでしょう。継体天皇応神天皇五世の孫ということになっていますが、実はこの辺り『日本書紀』でも系図が失われていて、はっきりしたことはわかっていません。大和朝廷の豪族が推戴したのですから、どこの誰ともわからないような係累ではないでしょうが、遠い血であったことは確かでしょう。従って王権も制限され、思うように統治ができなかったものと推察されます。ここで王権を強化するには、と考えを巡らし、本家本元の王朝、九州王朝を奪うことで王権を強化しようと考えたのではないでしょうか。おそらく勇名轟く倭王武は既に崩じていて九州王朝も動揺していたのでしょう。その隙を突いたと考えられます。ところが豈図らんや。抵抗が強固で鎮撫することがなかなかできず、そのうちに没してしまったものと考えられます。

    さてそうすると、いつ頃日本の王権が大和朝廷に移ったのかという疑問が生じます。この疑問には『舊唐書』がヒントを出してくれています。その高宗本紀に、西暦654年に倭国が朝貢した記事があり、それ以降、倭は朝貢していません。その頃あった日本の大変というと、「大化の改新」とそれに続く「壬申の乱」です。なぜ新興豪族蘇我氏を滅ぼしただけの政変が「大化の改新」などと仰々しく言われるのか。なぜ皇太弟であった大海人皇子が乱を起こさなくてはならなかったのか。ひとつ歴史学者に明快な説明を願いたいところです。

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  • 日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

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    漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

    1. 縄文時代晩期には、既に宗族=國といってよい規模の集団が複数存在していたのではないか。

      根拠は、『漢書』地理志である。今更くだくだしい説明は不要であろう。

    2. の使節は朝鮮半島内で陸路を取ったのではないか。

      魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
    3. 倭國(倭奴國)は九州にあったのではないか。

      • 後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
      • 魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
      • 魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
      • 隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
      • やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
      • 舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。
    4. 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。

      • 魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
      • 隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
      • 舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
      • 魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である。
    5. 宋書』夷蠻伝倭國条に名前が出る「倭王武」を雄略天皇に比定する根拠は何か。

      「武」と「ワカタケル」の語感が似ているからなどというのは論外だが、根拠は何だろうか。

      • 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘には「獲□□□鹵大王世」と欠字があって何と言う大王だったか不明である。
      • 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘には「獲加多支鹵大王」とあるが、これを「ワカタケル」と読むのは何故か。
      • 仮に両者とも「ワカタケル大王」だとしてこれが雄略天皇であるという科学的な根拠は何か。
    6. 隋書』東夷伝俀国条で名前が出るオオキミ「多利思比孤」を聖徳太子に比定する根拠は何か。

      聖徳太子の逸話はすべて『日本書紀』から出ており、これほど重要な人物であるにも関わらず『古事記』では触れられていない。

      • 「多利思比孤」はオオキミを号していたとあるが、聖徳太子は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいる。
      • 裴世清は「多利思比孤」に実際に会っており、遣隋使の使者のごまかしでないことは明らかである。
      • 聖徳太子には「多利思比孤」に類似する別名がない。
    7. 太宰府」はいつ誰の指示によって造営されたのか。

      「遠の朝廷」と呼ばれ、殷賑を極めた都会であったことがわかっているのに、それがいつ誰の指示で造営されたか記録がない。

      • Ⅰ期の遺構は、白村江の戦いの後、天智天皇が「那津官家」を移したものとされているが、天智天皇が「那津官家」を移したという記録を基にⅠ期遺構の造営時期を決定しているだけで、まるで科学的根拠がない。『記紀』にも大規模な造営があったとは記録されていない。造営時期の比定が無茶苦茶である。
      • Ⅱ期の造営時期については、歴史学者の単なる妄想を述べているに過ぎない。律令制度上の要請があり、大改築を行ったのなら、正史に記録が残って当然であるのに、その事実を無視している。
      • Ⅱ期の遺構により、条坊制を採用していたことが明らかであり、あるいは長安が直接的なモデルになったことは明らかである。
      • 太宰府天満宮は非常に大規模な大社だが、菅原道真を祭る前は何の神を祭っていたか記録がない。
      • 鴻臚館が置かれ、古くから外交の根拠地となっていたが、それならなぜもっと便のよい海岸よりに造営しなかったのか。元は海岸沿いにあったという人もいるが、それならなぜ「白村江の戦い」で大敗した後に移転したのか。現に二年後にはから使者を迎え、遣唐使を派遣している。とてもそんな緊張があったとは考えられない。

    まだ他にも細かく詮索したいところはあるのだが、少なくともこれらの疑問は、日本の古代史を勉強する上で、放置しておいて良い問題ではないと考える。

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  • 日本の古代史を考える—⑬漢書地理志再考

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    漢書』地理志について、考証、説明が不足していたので改めて取り上げます。

    然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

    かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

    前漢武帝以来、儒教は漢の国是でした。孔子は聖人であり、単なる憶測や伝聞でその人となりを揶揄するようなまねは厳に慎まなければならないことでした。畢竟、孔子に筆が及ぶということは、相当の確信があってのことだということになります。そのような時代背景で記述された『漢書』においてもそれは同様です。

    では『漢書』において、なぜ孔子は「以歳時來獻見云」とある東夷が住まう地に行きたいと愚痴を零したと記されたのでしょう。もちろん孔子本人がそう言っていたからですが、それには理由があったと『漢書』の編纂者(=班固)は述べています。単なる憶測や伝聞でそんなことを述べたわけではないことは、既に書きまたし、改めてご理解頂けると思います。

    ではなぜ「以歳時來獻見云」「定期的に朝貢してきていたと言う」事実が、孔子が零した愚痴の根拠となるのでしょう? それを理解するには『歳時』が何かを理解する必要があります。

    孔子は「周礼」を重視しました。孔子が礼という時、それは「周礼」のことです(ここで言う「周礼」は「」で行われていた礼という意味で、現在に伝わる書物の「周礼」ではありません)。その「周礼」では諸侯が天子に見える時期について以下のように定めています。

    諸侯朝見天子有三種形式。每年派大夫朝見天子稱為小聘、每隔三年派卿朝見天子為大聘、每隔五年親自朝見天子為朝。

    諸侯が天子に朝見する場合、三種類の形式がある。
    毎年大夫を派遣して天子に朝見することを「小聘」と称する。
    三年ごとに卿(大臣)を派遣して天子に朝見することを「大聘」と称する。
    五年ごとに諸侯自身が天子に朝見することを「朝」と称する。

    後に倭から朝貢してきた者は皆「大夫」を自称したとあります。

    『後漢書』東夷伝「使人自稱大夫」
    『魏志倭人伝』「皆自稱大夫」
    『晋書』東夷伝「皆自稱大夫」
    『隋書』東夷伝「漢光武時遣使入朝自稱大夫」

    つまり、周礼に言う「小聘」を実行していたのであり、だからこそ「以歳時」と書かれているのです。

    そのような礼はもちろん、渡来人/帰化人が持ち込んだことは言うまでもありません。しかし、それを受け入れる土壌が縄文時代晩期の日本には既にあったことがわかります。朝見は一集落の人間がその気になったからと言って気軽にできることではありません。表を用意し、献上品を選定し、身なりを整えと、少なくともある程度の規模の集団でないと準備もおぼつきません。まして毎年行うのですから、一氏族、一部族でこれを行うことなどできません。周囲の氏族、部族が合同して送り出さねば、成周にたどり着くことすらおぼつかないでしょう。

    さて、一般に縄文時代はそのようなことができる文化的背景があったと理解されているでしょうか。試みに「縄文時代 画像」で検索してみて下さい。牧歌的で小集団に別れて狩猟や採集をしている姿ばかりです。なぜ、今から 3000 年前の人々が半分裸で、呑気に暮らしていたなどと言えるのでしょう。「分爲百餘國」とあるのですから、少なくとも家族単位で孤立して暮らしていたなどということはありえない妄想です。もちろん国家などというものではなかったに違いありません。そのような権力の集中と思われる遺品は弥生時代以降に出土するからです。いえ、ということになっています。しかし、大規模な宗族といった単位で氏族、部族が統率されていたことは充分にうかがい知れる表現です。もちろんその情報をもたらしたのは朝見に来た「倭人」です。

    さて、我々が抱いている根拠のない、3000 年前といえばこの程度だろうという言われなき蔑視観と、『漢書』地理志に書かれた立派な倭人。どちらが私たちの先祖の本当の姿でしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑫舊唐書東夷伝倭国条・日本國条

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    」の後は「」ということで、「」の歴史書での倭国、日本を見ていくわけですが、『唐書』と呼ばれる書物は二種類あります。ひとつは、五代十国時代に「後晋」で編纂された『唐書』です。西暦945年に完成しています。ただ、その翌年に「後晋」が滅んでしまっていることで察することができるように、国自体が安定しておらず、編纂責任者も途中で交代していたりいます。そのため錯誤や遺漏が多く、記事も初唐の頃に偏っており晩唐の頃の物がほとんどないなど、後世の評判は良くありませんでした。そこで、北宋(こちらは、平清盛日宋貿易を行った、あのです)の時代になってから、欧陽脩らによって新しい『唐書』が編まれ、西暦1060年に仁宗に献上されました。そこで古い方の『唐書』を『舊唐書』あるいは『旧唐書』、新しい『唐書』を『新唐書』あるいは単に『唐書』と呼びます。新しいものができているなら、古い『舊唐書』は無視して良いかというと、実は作りが雑だということは、生の資料がそのまま引き写しされているという利点があるということでもあり、決して資料価値が低いわけではありません。

    ということで、『舊唐書』を見ていくのですが、その東夷伝には、倭国の条と日本の条があります。さてさて、どういうことでしょうか。

    ■倭国条

    倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通

    倭國は、昔の倭奴國である。京師(長安)を離れること一万四千里の彼方にある。新羅の東南の大海の中にあり、山島によって国をなしている。東の端から西の端まで五ヶ月かかる。北の端から南の端まで三ヶ月かかる。代々中国に朝貢してきた。

    「漢倭委奴国王」の金印でお馴染みの「倭奴国」が、倭国の旧名であると述べられています。全く誤解しようがありません。歴史学者や考古学者は何を見てるんでしょうね?『魏志倭人伝』において「楽浪郡」から一万二千里でしたから、長安から楽浪郡までの距離、二千里を足して、一万四千里としたようです。そして『舊唐書』が撰進された頃には、朝鮮半島は「新羅」によって統一されていましたので、「新羅東南大海中」となっているわけです。「東西五月行南北三月行」とあるのは『隋書』から引用したかまたは『隋書』が参照したのと同じ資料によったのでしょう。倭国がかなり広大な領域に広がっていたことがわかります。

    其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉

    その国には城郭がなく、木を以て柵としている。草を使って家を作っている。四方に小島が五十国あまりある。皆、倭国の属国である。

    何度も出てきているので、目に馴染んだ表現かも知れませんが、中国の街は城郭都市といって、必ず長大な防壁で囲まれています。壁と言っても人がやすやすと乗り越えられるようなものではありません。上から大声で怒鳴っても下に居る人に聞こえないくらい高いものもありましたから、落ちたら大けがをするか下手をすると死にます。日本の街にはそういう防壁がないことを言っています。そりゃ海辺であったり山間であったりするところをそんな防壁で囲んでも労力の無駄だからやらなかっただけだと思いますが。平野部にあった街にはおそらく濠が掘られていたと思われます。「以草爲屋」とあるのに注意して下さい。この時代になっても庶民は竪穴式住居に住んでいたことを考えれば、確かに「草」を使って家を作っていたことが理解できます。また、ここでも重要な記述が出てきます。「四面小島五十餘國」に該当するところといえばどこでしょう。実は、四面が海に囲まれているのは北海道、四国、九州です。そのうち、四方に小島が五十あまりという条件を満たすのは、九州だけなのです。

    其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯婦人衣純色長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅

    その王の姓は阿毎(あま)氏である。一大率を置き、諸国を検察している。皆これを畏怖している。官位があり十二の位階に別れている。訴えがある者は、這いつくばって前に進む。その地は男が少なく、女が多い。漢字がかなり通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

    「其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地」は『隋書』の要約か、『隋書』が参照した資料と同じ資料を見てそれを要約して書いたかいずれかでしょう。そしてまたしても「多女少男」です。もう本当にそうだったんじゃないかと思えてくるくらいしつこく書かれています。『隋書』では「佛經始有文字」であったのですが、あっと言う間に広まったのでしょうか。現代的な感覚で「頗有文字」を理解するととんだ誤解になりそうです。官吏でもないのに文字を解するものが多いという意味に取らなくてはならないでしょう。「俗敬佛法」とあるからには、仏教が瞬く間に広がった様子がわかります。「貴人戴錦帽」とありますが、ただ冠というと唐制の冠になってしまうので、違いを際立たせるために敢えて「帽」と述べているのだと思われます。

    貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史髙表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還

    貞観五年(西暦631年)、倭国は使いを遣わして来て、様々な産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、朝命を伝えずに帰国した。

    さて、『隋書』において「多利思北孤」は礼儀を知らずと謙遜していましたが、この頃には王子が礼について揉め事を起こせるくらいには、理解が深まっていたようです。「高表仁」は融通の利かない人だったのでしょう。蛮夷の無礼などある程度は大目に見るべきなのに朝命を果たさず帰るとは何事か。と叱っているかのような文章です。

    至二十二年又附新羅奉表以通起居

    貞観二十二年(西暦648年)になって再び、倭国王は新羅の遣唐使に上表文をことづけて皇帝へ安否を伺うあいさつをしてきた。

    東夷伝倭国条ではここで終わりですが、高宗本紀に倭の記事があります。

    永徽五年十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙

    永徽五年(西暦654年)十二月癸丑の日に、倭国が琥珀と瑪瑙を献上した。

    白雉五年(西暦654年)に派出された第三次遣唐使が対応していますが、「倭国」とあるのに注意が必要です。「日本」の遣使ではなかったのです。おそらく唐の情勢を把握するために送られたのでしょう。

    国際情勢は徐々に緊迫の度を増しています。新羅に上表文を託しただけで朝貢しなかったのは、貞観十八年(西暦644年)に高句麗討伐が行われたことを受け、倭の対外政策が揺れ動いていたからでしょう。高句麗という重しがなくなれば、朝鮮半島の情勢はどう動くかわかりません。また、結果的に失敗に終わったとは言え、唐がそれで諦めるとも思えません。その懸念は、西暦660年に百済の滅亡という形で現実化します。そして西暦663年、倭は百済遺民と連合し、白村江新羅連合軍と戦い、これに大敗北を喫します。倭はこの痛手から立ち直れず、以後、中国の歴史から、もちろん日本の歴史からも姿を消します。

    ■日本國条

    日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地

    日本国は倭国の別の種族である。その国が日の上る方にあるため、日本という名前にした。あるいは、倭国がその名前が雅やかではないことを嫌って、日本と改めたとも伝える。あるいは、日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合したとも伝える。

    のっけからいきなり「日本國者倭國之別種也」と倭と日本は別の国だと述べています。そして、「日本」という名称の由来について他に二説あげています。ひとつは「倭が卑語なので、日本に改名した」という改名説。もうひとつが「日本国が倭国を併呑した」という併呑説。さて、どれが正しいでしょうか。『舊唐書』の編纂者は、もちろん、別種の国だという認識でした。正解は、「全部正しい」です。なぜなら、これはすべて「日本」の使者に尋ねて得られた回答だからです。

    其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉

    その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、質問に誠実に答えない。それで中国ではこれを疑った。

    明らかに「倭」の使者とは態度が違います。それは「倭」を併呑して大国になったという気宇が滲み出たのか、あるいは別に理由があるのか。自分たちは「倭国」に属するが「倭奴国」とは別の国の者だと言ってみたり、「倭国」のものだが、名前がよくないから「日本」改称したのだと主張してみたり、あるいは「日本」は「倭」を併呑したのだと言ってみたり、その主張が首尾一貫せず、「倭奴国」の者とも見なせないが、かといって「倭」と無関係でもなさそうだという不審の目を向けられていたのがよくわかります。あるいは不当な簒奪者と見られていたのかも知れません。それが『日本書紀』編纂の動機のひとつとなったのではないでしょうか。

    又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國

    また、彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言った。

    「又云」は前の文を受けて述べているわけだから、もちろんこの発言も疑われています。ところで、東の境にあるという大山は、「富士山」かなとも思いますが、北の境の大山とはどの山でしょうか。七世紀頃の毛人(蝦夷)は宮城県中部から山形県以北に住んでいたとされています。あるいは古墳の分布を王権の証とする現代考古学の思い込みがそう見せているだけで、毛人(蝦夷)はもっと南や西までいたのではないでしょうか。

    長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史觧屬文容止温雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國

    長安三年(西暦703年)、日本の大臣、粟田朝臣真人が来朝して様々な産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶっており、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。真人経書や史書を読むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

    粟田朝臣真人」が大使となったのは、第八次遣唐使。進徳冠とは、唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついているもので、昭陵博物館のホームページに出土品の写真が掲載されています。これを見ると、俀国の冠が「帽」とされていたのに対し、随分と異なることがわかります。確かにこれは「冠」です。この頃、「大宝律令」が施行されましたから、粟田真人が「紫袍」を着ているのは不思議ではありませんが、唐の朝廷に対する配慮に欠けていたと言わざるを得ません。唐では紫は天子にだけ許された色だったからです。おそらく、蛮夷のことだから大目に見ようという空気と、その挙措が温雅で文章を解したから見逃されたのでしょう。そして多分、ハンサムだったはずです。則天武后が宴に招いて(名誉職とはいえ)官位を授けたのはよほど気に入ったからです。

    さて、『舊唐書』ではこの年の遣使が初めてですが、貞観五年(西暦631年)の遣唐使はともかく、第二次の遣唐使(白雉四年=西暦653年派出)の様子が『新唐書』に「獻虎魄大如斗碼碯若五升器」と記載されています。その次は、また『新唐書』に天智天皇が即位した次の年に遣唐使があったと記されていますが、『日本書紀』では斉明天皇の五年(西暦659年)となっています。これが第四次の遣唐使ですが、その翌年に百済が滅ぼされているのに、同盟国の危機を放って何をしに行ったのでしょうね?『新唐書』にはさらに、咸亨元年(西暦670年)に高句麗を滅ぼしたことを祝賀する使者が来たと書かれているのですが、これが『日本書紀』では「天智八年(西暦669年)」に派遣した第七次の遣唐使となっています。『日本書紀』によると、第五次(天智四年=西暦665年)と第六次(天智六年=西暦667年)の遣唐使があったことになっていますが、『舊唐書』にも『新唐書』にもその記載がありません。この二回の遣唐使は、送唐客使でもあり、唐から来日した使者を送り届ける役目を持っていました。使者が来るくらいですから、重要な政治課題があったはずです。第五次の遣唐使は「白村江の戦い」の余塵消えやらぬ時期であり、第六次もさらにその二年後でしかありません。この使者の往来を伴う二回の遣唐使が、「白村江の戦い」の戦後処理のためであることは明らかです。しかし別段、天智天皇がそれで何か叱責されたとか、責任を追及されたというような雰囲気ではありません。怪しげな政治取引の臭いがするのですが、いかがでしょうか。近畿天皇王朝=大和朝廷は百済と同盟しておらず、倭が「白村江の戦い」で大打撃を受けるのを横目で見ていたのではないでしょうか。この時期の『日本書紀』には明らかに粉飾やごまかしがあります。何かあったのは確かなようです。

    開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助敎趙玄黙就鴻臚寺敎之乃遣玄黙闊幅布以爲束修之禮

    開元の初め頃、また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。

    養老元年(西暦717年)に派出された第九次遣唐使のことだと思われます。儒学を教授されたのは「吉備真備」ではないかと推測しています。あるいは「阿倍仲麻呂」や「井真成」も一緒に学んだかも知れません。

    題云白龜元年調布人亦疑其僞

    その布には「白龜元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

    また疑われています。確かに「白龜」という元号は存在しません。『日本書紀』は天皇の万世一系を無理矢理説明するために、かなりのでっち上げをやった上に、不都合な情報を改削した疑いがありますから、倭の弱体化につけこんで、私年号を使っていたのかも知れません。

    此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去

    この貢ぎ物(白龜元年の調布)で得た下賜品を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。その副使の阿倍朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡と改めて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第十二王子)の学友となった。朝衡京師(長安)に 50 年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

    「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」で有名な阿倍仲麻呂(中国名朝衡)の逸話です。実は第十二次遣唐使が来朝した時(大使は、藤原清河)、一度は帰国を試みたのですが(王維が別離の詩を送っていますから事実でしょう)、仲麻呂や清河らが乗った第一船はあえなく難破。安南驩州に流れ着きました。結局、仲麻呂一行は天平勝宝七年(西暦755年)に長安へ帰着しています。ところが、この年に安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来したのですが、唐朝は行路が危険である事を理由に仲麻呂清河らの帰国を認めなかったのです。仲麻呂はその後もで昇進を続け、潞州大都督(従二品)を贈られています。

    天寶十二年又遣使貢

    天寶十二年(西暦753年)にまた使いを遣わし朝貢してきた。

    天平勝宝四年(西暦752年)派出の第十二次遣唐使です。大使は、藤原清河。副使は、吉備真備大伴古麻呂です。この時に高僧鑑真を日本に連れ帰ったことは有名です。

    上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護

    上元年間(西暦760年~西暦762年)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

    阿倍仲麻呂の出世の様子が語られています。『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡の二人のみ」と故郷では賞賛されています。

    貞元二十年遣使來朝留学學生橘免勢學問僧空海

    貞元二十年(西暦804年)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)、学問僧の空海が留まった。

    延暦二十三年(西暦804年)派出の第十八次遣唐使です。三筆のうち二人がこの時学生として渡唐しています。空海は真言密教の伝統を継いで帰国することになります。

    元和元年日本國使判官髙階眞人上言前件學生藝業稍成願本國歸便請與臣同歸從之

    元和元年(西暦806年)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。

    橘逸勢空海を併せ、第十八次遣唐使一行は帰国します。情勢が不安でこれを逃すと次はいつ帰れるかわからなかったからでしょう。事実、次の遣使は三十三年後になります。それでも多くの学生が残ったものと思われます。

    開成四年又遣使朝貢

    開成四年(西暦839年)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。

    承和五年(西暦838年)の第十九次にして最後の遣唐使です。

    こうして見ると、唐朝は当初、日本国からの使者に不審の目を向けていたことがわかります。たった数行の文章に「疑」と二度まで出てくるのは、その不審の表れです。その疑いも無理ありません。明らかに「倭」の使者と異なることを言うのです。これを別種と判断するのは当然ですし、私も別種だと理解しています。つまり「倭」は九州王朝であり、白村江の戦いで弱体化してしまった。その倭を近畿天皇王朝が併呑あるいは、簒奪した結果生まれた国が「日本」という構図です。簒奪したので正直に話すこともできません。使いは近畿天皇王朝から出ていますから、「倭」のことを聞かれてもちんぷんかんぷんです。でも自分たちも「倭」だと言い張るのですから、何者だと思われても当然です。

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  • 日本の古代史を考える—⑪隋書東夷傳俀国条

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    やっとたどり着いた感があります。『隋書』東夷傳俀国条です。『隋書』は、「」の太宗の勅により魏徴長孫無忌らが撰進しました。書かれているのは「」の時代です。西暦581年から西暦618年に当たります。かの有名な「日出ずる処の天子」という表現はおなじみではないでしょうか。『隋書』からは、七世紀初頭の日本がどのような様子であったのかが覗えます。

    俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王

    俀国は百済新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。

    あれ、「倭」国じゃないね? と思いますよね。私もそう思います。以前も書いたと思いますが、この頃、倭は百済新羅を従え、これらと平和な関係にあり、国内も平穏でした。ですので、それまでの倭という称号に大をつけて「大倭」(「たいゐ」、または「たゐ」)と自称していたのでしょう。ところが、中華からすると、国の名前に「大」を冠してよいのは、中華帝国だけですから、蛮夷の分際で生意気な!ということで読みが同じ漢字の「俀」にしたのだと思われます。それにこの頃には「倭」は「わ」と読むようになっていたので、遣使が自称する国名に一致しなくなっていたのだということも併せて言いうると思います。ところで、『後漢書』の凡ミスがここにも引き継がれています。「使」を「使」と間違うから諸国一斉に朝貢していたことがあるかのような話に…范曄の馬鹿!:D

    夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

    夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國なり。

    ここで重要な指摘が出てきます。「夷人不知里數」ということは、例の『魏志倭人伝』の旅程も倭人からの聞き取りですから、「日数」であったものを後から「里数」に換算したものであることがわかります。なにしろ「山島」に拠ると言われた国ですから、同じ距離を行くのでも平野が続く中華と違って、何倍もかかったことでしょう。次に「都於邪靡堆」とある部分です。「邪」は「や、じゃ」、「靡」は「みぇ、みゃ」が一番近い発音でしょうか。「堆」は「とぅぁい」となります。これに対して「馬」は「ま」、「臺」は「だい」です。つまり今は「やみゃとぅぁい」と言うがこれは『魏志倭人伝』に出てくる「やまたい」と同じだよと言ってます。しかし少々発音が異なるとは言え、まあ少しなまったかなという程度です。本来は「邪馬壹」=「やまゐ」と書かれていたのですから、昔の「やまゐ」が今の「やみゃとぅぁい」だと言っていることになります。『魏志倭人伝』に現れた「邪馬壹國」と「俀國」は同じ国であることがここで保証されたわけです。さてその地勢は「東高西下」ですから、東が山がちで西が平野というところを探せば俀國の場所が比定できそうな感じです。でも実はこれを真剣に検討すると、奈良盆地すなわち大和は比定の対象から外れてしまうのです。大阪平野が東にありますから、「東高西下」になりません。はてさて困ったものですね(笑)。南北三ヶ月、西に五ヶ月で海に出るというのも謎です。その南北や西の果てがどこを指すのかわかるように書いていてくれれば…と詮無いことを考えたりします。

    古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國

    古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。

    ここは従来の正史を受け継いで書かれています。ここでも『後漢書』が「会稽東の東」などという凡ミスを犯すから、延々引き継がれています。何と罪深い…

    桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通

    後漢の)桓帝靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。からに至るまで代々通交してきた。

    ここも『後漢書』が「桓靈閒倭國大亂」なんて阿呆なことを書いたから、それがまた引き継がれています。こうして単なる錯誤が定説になっていくわけですね。

    「法甚嚴」とありますが、「魏志倭人伝」では「其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族」とあるので、今ことさら厳しくなったというわけでもなさそうです。また、「自至于代」とあるので、少なくとも「」の時代から「」「」を経て「」の時代まで朝貢してきた国はずっと同じである。ということがここでもわかります。

    開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗

    開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ)、使いを遣わせて宮城に詣でた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。

    最初の遣隋使です。さて、いよいよ問題の核心に迫ってきました。従来「多利思比孤」は「聖徳太子」に比定されてきたのですが、「聖徳太子」は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいます。後からまた出てきますが、答礼使の裴世清が実際にこの王に会っていますから、この「多利思比孤」は実際に王であったと考えられるので、聖徳太子説は皇国史観患者の妄説であったことが明らかになります。それより重要なのは、姓があることです。「阿毎」は「天」のことではないかと思うのですが、天皇および皇族には古来姓がありません。無論、聖徳太子にも姓はありません。この点で、この王を天皇や皇族に擬するのは不可能だとなります。しかし号するところは「阿輩雞彌」で、これは「大王=オオキミ」ではないかと考えられています。私もこの点は賛成です。とすると、この王は誰だという問いに帰ります。

    使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之

    使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。

    高祖とは文帝楊堅を指します。有名な煬帝のお父さんですね。ここで語られている内容は明らかに「複式統治」を表しています。『魏志倭人伝』で「有男弟佐治國」とあったのと同様の統治形態ではないでしょうか。しかし「記紀」を読めば明らかなように、近畿天皇王朝が複式統治を行ったという記録はありません。

    王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利

    王の妻は雞彌(けいみ、きえいみえ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふっり、りかみえたふぃぁっり)と呼ぶ。

    王の妻は「キミ」と呼ばれたのでしょう。太子は「リカミタフリ」なんでしょうが、どういう意味なのかちょっとわからないですね。ここで、俀王「多利思比孤」には妻がいたこと、さらに後宮には女性が六百から七百人もいたことがわかります。ということは、「多利思比孤」が「推古女帝」でないことも明らかです。あるいはその夫の「敏達天皇」でしょうか。しかしそうなると、「推古天皇」を基準とした年代比定が全部誤りになってしまい、日本史の辻褄があわなくなってしまいます。痛し痒しですね。大胆な方は「多利思比孤」を「蘇我馬子」だと主張しています。が、いかな馬子といえど、オオキミを僭称して許されるとは考えられません。実は馬子がこの時天皇だったのだ。という主張の方がよほどすっきりします。

    内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼

    内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。

    はて、この十二の等級と称号はどこかで見たような…という方は日本史に詳しい方ですね。「聖徳太子」が制定したと言われている「冠位十二階」と同じです。ただし、一部位階の順番が異なります。この「冠位十二階」は、実際は「蘇我馬子」が大きく関与していたことがわかっています。しかしながら、これが「冠位十二階」を表していると解釈することはできません。なぜなら「冠位十二階」なら位階に応じて冠を授けられるのですが、ここにはそのような記述がないからです。

    其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上

    その国の服飾について、男性は裙襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。

    至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾

    隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。

    これが「冠位十二階」制定のことだとされています。しかしここには、冠の制度を定めたとだけあり、官位に対応していたかどうかはわかりません。冠と言いながら絹で作製されているところを見ると「冠」というより「帽」ですね。注意して頂きたいのは、ここは俀國の使者がの役人に語った内容が綴られている点です。『日本書紀』では「冠位十二階」の制定は西暦604年のこととされていますから、話が合いません。後世の話を編纂者が間違えてここに挿入したのでしょうか。それこそまさかです。使者の話で聞いたから、まさにここに挿入されているのです。むしろ粉飾は『日本書紀』の方でしょう。裙襦は、中国の服そのままではなく、女性の襦裙に似ていたのでそのように書いたのでしょう。

    婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有襈攕竹爲梳

    女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。

    高松塚古墳」の壁画をご覧になった方は多いでしょう。裳とはあの裾を引きずるようなスカート風の衣裳のことです。襈攕とは何でしょう。調べたのですが、わかりませんでした。ご存じの方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いです。

    編草爲薦雜皮爲表縁以文皮

    草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。

    畳も椅子もありませんから、敷物は必須でした。

    有弓矢刀矟弩【矛扁に旁賛】斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦

    弓矢、刀、矟(矛の一種か?)、弩、【矛扁に旁賛】(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。

    この件を読むと私は『宋書』に掲げられた倭王武の上表文を思い起こします。「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」。四世紀から五世紀は、戦争に次ぐ戦争の時代でした。しかし、それも今は昔。百済新羅との仲は良好。国内も大きな乱はなく、平穏無事。このような情勢であるからこそ、「大」の尊称を付けて「大倭」(たいゐ、たゐ)を自称していたと思うのです。

    其王朝會必陳設儀杖奏其國樂

    その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。

    なんとなく、大和朝廷の朝会にはイメージがあわない気がします。異国の風を感じますね。

    戸可十萬

    戸数は十万ばかりある。

    魏志倭人伝』では十七万戸余りだったはずですから、随分減ってます。四世紀から五世紀まで続いた外征のためでしょうか。「磐井の乱」という内乱もありましたし。

    其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛 或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣

    その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。道理の正しくない者は手が爛れるという。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。邪な者はまた手を噛まれるという。

    さて、隋の役人に「法甚嚴」と書かれたその実際が述べられています。穏やかな刑罰がひとつもありません。確かに厳しいです。は開皇の治と呼ばれる時代で、文帝は開皇律令を定め、残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかり易く改めました。それを知るの役人には「前時代的な」厳しい法と思えたのでしょう。木で膝を圧迫するというのは、重い木材を膝の上に積み重ねる拷問で、強弓の弦で首筋を打たれたら気絶くらいはしたでしょう。沸騰した湯の中に素手を入れさせるというのは、実は「盟神探湯」と言って、上古中国にもあって伝えられた由緒正しい正邪判定法だったのです。これは祖霊や神々の前で執り行う神聖な儀式で、湯を前に対決すると邪な心を持つ者は祖霊や神々の威に服して、湯に手を入れる前に自ずから罪を自白するとされたのです。本当に手を入れたらどっちも大火傷ですから祖霊や神々を信仰していない者には無意味な判定法でもあります。の時代にはとっくに廃れていたので、奇妙な風習として取り上げられたのでしょう。

    人頗恬静罕争訟少盗賊

    人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。

    この辺りは『魏志倭人伝』の頃から変わっていませんね。ほっとします。

    樂有五弦琴笛

    楽器には、五弦、琴、笛がある。

    五弦のとあるのはどんな形でしょう。或いは和琴のことでしょうか。現代の我々がと言ってイメージする楽器は、正しくは「」といって本来琴とは別の楽器でした。

    男女多黥臂點面文身没水捕魚

    男女の多くは肩から手首までと顔、体に入れ墨をし、水に潜って魚を捕らえている。

    そして、しっかり入れ墨の風習に触れられています。この「記紀」には書かれていない風習の存在していた地が俀国(倭國)なのです。

    無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字

    文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手し、はじめて文字を有した。

    文字がなければ、代々朝貢していた時の上表文はどうやって書かれたのだ? ということになりますが、これは民間の風俗を記した段落であることに注意して下さい。つまり、それまで民間では、木を刻んだり縄目で意図を伝えていたのが、仏教と共に文字が入ってきて、これが民間に広がったことを教えているのです。

    知卜筮尤信巫覡

    卜筮が知られているのに、巫覡を信じている。

    卜とは亀卜(亀の甲羅を焼いて水を掛けできたひび割れ「兆といいます」で占う)や獣卜(獣骨を使用する以外は、亀卜と同じ)ですが、この頃の中国では廃れていたので、卜筮といえば、もっぱら筮竹を使った占いでした。そういう「合理的な」予知法を知っているにもかかわらず、神下ろしをし、神託を下すという「怪しげで前時代的なまじない師」のことを信じていると不思議がっているのです。

    毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同

    毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。

    好棊博握槊樗蒲之戲

    囲碁、すごろく、さいころの遊戯を好む。

    日本人のばくち好きはこの頃からなんでしょうか。もはや民族性ですね。

    氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少

    気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。

    「氣候温暖」はともかく「草木冬青」は近畿地方では考えられません。これも、「倭」が大和ではないという傍証になります。

    以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭

    小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る

    鵜飼いってもっと最近始まった漁だと思ってました。江戸時代とか。実は、1400年以上も歴史のある漁法だったんですね。

    俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之

    食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。

    高坏などを使って食事をするのは高貴な方々だけのようで、庶民はかしわの葉を食器代わりにしていたようです。箸はまだ入ってきていませんので、手づかみです。

    性質直有雅風女多男少

    性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。

    これも『後漢書』の頓珍漢な誤解が引き継がれているだけだと思いたいのですが、万一事実を表しているとすれば、戦争がない平和な時代ですので、世界でも極端に珍しい男児の間引きが行われていた可能性があります。どちらが事実でしょう。

    婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬

    同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。

    同姓不婚は、中国の風習が移入されたのでしょうか。「婦入夫家」とあるのは嫁入り=嫁取りということですから、嫁取り婚と同姓不婚の風習が導入されていたということになります。「記紀」には一切そういった事実は見えません。逆に妻問婚ばかりの上に、同姓で結婚した事例が豊富に出てきます。謎です。「記紀」の既述を根拠にして「この部分は隋の役人の創作であると主張する人もいます。それはさすがに、記録人種中国人を舐めているとしか言いようがありません。史官は、事実を記録するために命を懸ける人たちです。『後漢書』のような雑な例があるとはいえ、根拠があって書かれたと考えるのが自然です。しかし、とはいえ導入されたとしても、表面上の形式だけだったようです。「男女相悦者即爲婚」=「男女がセックスしたらそれが結婚となる」ですから、中国や室町時代以降の嫁取り婚を考えると、事実を捉え損ねます。「先跨」は「先跨」の誤りだとされていますが、「火跨がり」の風習を現代にも残しているところがあることから、何となくそうであって欲しいという願望に基づいた通説のようにも思えます。

    死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝

    死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。

    昔の喪服は白かったことがわかります。世界共通で喪服というのは白で、黒の日本が特殊なんですけどね。殯とは死者をすぐに埋葬せず、一定期間安置しておいてその前で歌や舞を捧げたり、誄を述べて死者の霊を慰めることです。葬送の儀礼で船を使うという点にも要注意です。「記紀」には見えない例なのです。

    有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭

    阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。

    そして、唐突に阿蘇山が出てきます。なぜでしょう。仮に王朝が近畿天皇王朝であれば、他にも書く山が沢山あるはずです。それに阿蘇富士山とは違い、遠くからでもよく見える山ではありません。あの一帯山並みが続き、むしろ埋もれています。もちろん中国には火山がありませんので、珍しい不可思議なこととして取り上げられたのでしょうが、この頃は富士山だって活火山だったのですから、歴史家の言う通り、近畿天皇王朝が全国を支配していたのなら、使者は富士山のことを述べたでしょうし、隋の役人もそう書くはずです。そうではなく阿蘇山なのは、これが倭王朝と縁の深い、馴染みのある火山だったからとしか説明できません。

    有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也

    如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。

    実際にそういう宝石があったから、俀の使者は隋の役人に語ったのでしょうが、不思議な石があったものです。見てみたいですね。どこかに埋もれていないでしょうか。

    新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來

    新羅百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。

    新羅百済を従え、平和を謳歌している様子が覗えます。「大倭」と自称するのも故なきことではなかったのです。

    大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

    大業三年(西暦607年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があった。今後はこういう書を取り次ぐな」と仰った。

    有名な「日出ずる処の天子」の件です。でもここはその前の「海西菩薩天子」に注目して下さい。「多利思北孤」は仏教を熱心に敬う人だったことが偲ばれます。隋は煬帝の時代に入っています。中華の価値観からすると世に天子は唯一人、皇帝だけです。「不悦」とは激怒したのだと解釈する人もいますが、そこまで怒ったのなら、裴世清を答礼に送ったりしません。煬帝という人は蛮夷に隋の強勢な様を誇示したがった人ですから、これも「東夷」の言うことだとしてむしろ穏便に済ませたのでしょう。あるいは、こんな愚かなことを言う者には王者として諭してやらねばならないとさえ思ったかも知れません。鴻臚卿=外交担当大臣に「取り次ぐな」と命じたのは、二度と国書を受け取るなという意味ではなく、使節を応接する役目の鴻臚卿であるお前が教えて次からは改めさせろということだったのだと思います。

    明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹㠀南望【身扁に旁冉】羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀

    翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴世清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に【身扁に旁冉】羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。

    そのため、翌年答礼使として文林郎の裴世清を俀に派遣します。この記事は裴世清の旅程を表しています。百済の竹島(現在の竹島ではありません)から望めるという【身扁に旁冉】羅國済州島です。この頃は百済の属国でした。「都斯麻國」は対馬、「一支國」は壱岐です。「竹斯國」は現在の筑紫のどのあたりだったのでしょう。博多湾岸にあったのは間違いないようですが。「竹斯國」の東に「秦王國」があったと言います。の遺民が国を建てていたのでしょうか。「疑不能明也」とありますから、裴世清一行にも判断がつかなかったようです。そこから十国余りを経るとまた海岸に出ます。そこがどこか書いておいてくれてもいいのに…ともかく、国名が記されていないということは、ここが既に俀國であることがわかります。

    俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞

    俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。

    俀王が「小德」の阿輩臺を遣わしたのは、どこでしょう。普通に考えると「竹斯國」です。未知の国を案内を付けずに陸行することは考えられません。ましてや相手は国賓です。すると十日後には都の郊外に出迎えをよこしているのですから、俀國は「竹斯國」からそんなに遠いところではないことがわかります。高官(大徳のようなトップは滅多に下されない名誉官だったので実質トップ官僚だと私は考えています)を派遣して歓迎し、郊外にも上から七番目という格の低い人ではありますが、迎えを出しています。礼に則っているようですが、裴世清からすると、皇帝の名代として来たのだから、王自ら郊外に出迎えないのは無礼と取ったかも知れません。

    既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭

    裴世清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴世清答えて曰く「皇帝の徳はあわせて二徳、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て教化します。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」

    王自ら出迎えに赴かなかったことを言い訳しています。「不聞禮義」とあるのは、前年の国書が皇帝の不興を招いたことの言い訳でしょう。だから裴世清は「あなたたちが野蛮で礼儀を知らないのはわかっている。それ故にこそ私が派遣され、ここで教え諭すのだ」と答えています。それにしても、言い訳するということはわかっているということであり、わかっていながら、答礼使一行を郊外で出迎えなかったのですから、多利思比孤もよくよく自尊の人です。さすが、あの国書を書いた人でもあります。

    既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗

    裴世清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」

    さて、用は済んだとばかりに早々に裴世清は帰国の途に就こうとします。実際はあれやこれや言ったのでしょうが、些末なこととしてカットされたのでしょう。

    於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶

    ここにおいて宴会を催し、裴世清を送り出した。また使者を裴世清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。

    別れにおいて宴会を設けるのも礼です。随行の人間も出したのですが、その後間もなくが滅んでしまったこともあって、朝貢はこれきりになったのでした…と書いておきながら、実はまだこの後も遣使があったことが帝紀の方に記されています。

    (大業四年)三月辛酉(中略)壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物

    大業四年(西暦608年)三月辛酉の日に、(中略)壬戌、百濟、、赤土、迦羅舍國が相次いで使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    これは、裴世清に随行した使いの人たちのことでしょう。

    大業六年春正月(中略)己丑倭國遣使貢方物

    大業六年(西暦610年)春正月、(中略)己丑の日に倭國が使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    この西暦610年の遣隋使は、『日本書紀』に見えません。一方、この後の西暦614年から615年にかけて遣隋使を派遣したことが『日本書紀』には記されています。が、『隋書』には記載がありません。さて、この不一致はどう見ればよいでしょう。

    さて、側の記録によると遣隋使は都合四回行われたことになっています。ところが、『日本書紀』には最初の遣隋使の記録がないのです。しかも『隋書』には記載されていない五回目があったことになっています。怪しいと思いませんか? なぜ記録しなかったのでしょう。なぜ側に記録のない遣隋使が存在するのでしょう。普通に考えると、『日本書紀』に記録のない遣使には近畿天皇王朝が関与していなかったからだということになります。そうすると、誰が派遣したのかということにになり、卑弥呼以来、延々と中華の国に朝貢し続けていた(これも「記紀」には記録がありません)倭の国が別にあり、そこから遣使されていたのだという結論に至ります。また九州王朝説かと思われるでしょうが、裴世清の旅程を見て下さい。九州内のことしか書かれていません。加えて阿蘇山です。これを見て、まだ倭=俀の国は九州にない、近畿だという人がいるでしょうか。いい加減、皇国史観からはおさらばして欲しいものです。なお、『隋書』にない最後の遣隋使ですが、これは『記紀』の年代比定に誤りがあるからではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑩三国史記(新羅本紀)

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    次に『三国史記』の「新羅本紀」を見てみます。え? 高句麗は? というと、「高句麗本紀」には「倭」のことが一言も出てきません。「好太王碑」が現にあり、倭と戦ったことを記しているのですから、現れないということ自体が不自然かつ胡散臭さ満点です。という目で「新羅本紀」を見てみると、卑弥呼が二世紀に新羅に遣使したとか書いてあって、中国の史書と比較検証できない三世紀以前の記事は、まず信用できないと言ってよいでしょう(卑弥呼が生きたのは三世紀。物理的にありえません)。ということで、三世紀以降の記録から倭に関する部分を抜き出してみます。

    (奈解尼師今)十三年夏四月倭人犯境遣伊伐飡利音將兵拒之

    奈解尼師今十三年(西暦210年)夏四月。倭人が国境を侵犯した。伊伐飡利音を遣わし、將兵に防がせた。

    倭の侵略からスタートです。以降読んで頂くとわかりますが、新羅は一貫して倭の侵略を受ける立場として書かれており、新羅が自ら出撃して倭を討ったという話はありません。三世紀、四世紀といえば、『魏志倭人伝』に出てくる「狗邪韓國」が朝鮮半島南岸にありましたし、後には「任那」と呼ばれる倭の領土もありました。当然侵攻したでしょうが、そんなことは「仁慈」の王たる新羅王がしてはならないことなので、書かなかったのです。それは高句麗百済に対しても同じで、『三国史記』が「新羅寄り」と言われる所以でもあります。念頭に置いて頂きたいのは、「倭」が「百済」とは同盟し、ほとんどその運命を共にするくらいに固く結びついていたのに対して、「新羅」とは長い間相攻伐する仇敵であったという事実です。そのうち、新羅が倭を侵攻した場合は書かれず、倭が新羅を攻めた場合だけが、「新羅本紀」に記載されていると見なしてよいでしょう。

    (助賁尼師今)三年夏四月倭人猝至圍金城王親出戰賊潰走遣輕騎追撃之殺獲一千餘級

    助賁尼師今三年(西暦232年)夏四月、倭人が突然金城を包囲した。王が親戦し、倭の賊軍は敗れて逃げた。輕騎を遣わしてこれを追撃させ、一千あまりを殺して首級を得た。

    ここもそうですが、倭は攻めてきても何も得るところなく虚しく帰るか、散々に打ち負かされて逃げ帰ることがほとんどなのです。偶に捕虜を連れ帰りますが。そういう場合もあったということならともかく、ほとんどそう書かれているのは文飾があることを示しています。というか、そこまで負け続けたら、いかに剽悍な倭でも半島進出を諦めるというものです。百済とは同盟してますし。実際は何世紀も戦い続けたのですから、事実は一進一退だったのでしょう。

    (沾解尼師今)三年夏四月倭人殺舒弗邯于老

    沾解尼師今三年(西暦249年)夏四月、倭人が舒弗邯、于老を殺す

    この于老に関する説話は後世の作り話のようですが、軍の将軍が敵に殺されたとは即ち敗北したということです。それを認めたくない人が話をこじつけたのでしょう。

    (儒禮尼師今)四年夏四月倭人襲一禮部縱火燒之虜人一千而去

    儒禮尼師今四年(西暦250年)夏四月、倭人が一禮部を襲い、火を放ってこれを焼いた。捕虜を千人連れ去られた。

    (儒禮尼師今)六年 夏五月聞倭兵至理舟楫繕甲兵

    儒禮尼師今 六年(西暦252年)、倭兵が攻めてくるという情報が入り、船を修理し、鎧と武器の修理をした。

    これを見ると、新羅も余裕綽々で倭の相手をしていたわけではないことがわかります。実際はかなりの脅威だったのではないでしょうか。

    (儒禮尼師今)九年夏六月倭兵攻陷沙道城命一吉大谷領兵救完之

    儒禮尼師今九年(西暦255年)夏六月、倭の軍が沙道城を攻め落とした。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。

    何が倭を新羅に駆り立てたのでしょう。単に屈服しないという理由でしょうか。あるいは何か渡来人/帰化人が絡むのでしょうか。

    (儒禮尼師今)十一年夏倭兵來攻長峯城不克

    儒禮尼師今十一年(西暦256年)年、倭の軍隊が来て長峯城を攻めたが勝てなかった。

    前年と違い、おそらくは守りを固めていたのでしょう。今度の城は落ちませんでした。勝てなくてどうしたかが書いてありません。ただ単に退却したのでしょうか。それこそあり得ないと思うのですが。

    (儒禮尼師今)十二年春王謂臣下曰倭人屢犯我城邑百姓不得安居吾欲與百濟謀一時浮海入撃其國如何舒弗邯弘權對曰吾人不習水戰冒險遠征恐有不測之危況百濟多詐常有呑我國之心亦恐難與同謀王曰善

    儒禮尼師今十二年(西暦257年)春、王が臣下に申して曰く「倭人がしばしば我が国の城邑を侵犯して百姓は安心して暮らすことができない。百済と謀り海を渡って倭国へ反撃を行いたい。どうだろうか」舒弗邯、弘權答えて曰く「われわれは水戦に長けておりません。遠征してもおそらく不測の危難が予想されます。まして百済は詐りが多く、その心は常に我が国を併呑しようとするところにあります。共に謀ることは難しいと思います」王曰く「わかった」

    思いとどまったから書いてあるのでしょう。思いとどまらなかった場合もあったはずですが、委細不明です。

    (基臨尼師今)三年春正月與倭國交聘

    基臨尼師今三年(西暦300年)春正月、倭国と使者を派遣しあった。

    和平交渉でしょうか。この後に出てくる倭との交渉が婚儀に関することなので、おそらく和平が結ばれたのだと思われます。

    (訖解尼師今)三年春三月倭國王遣使爲子求婚以阿急飡利女送之

    訖解尼師今三年(西暦312年)春三月、倭国の国王が使いを遣わして、息子のために求婚してきたので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。

    婚儀を結ぶことは、同族に擬制することを意味し、同盟が成立したか、もしくは相互不可侵の約束ができたことを示します。しかし六等官の娘って…日本で言えば、受領の娘を中華皇帝の皇子に嫁がせるようなもので、よく倭が承知したなと思います。あるいは詐りがあったのかも知れません。

    (訖解尼師今)三十五年春二月倭國遣使請婚辭以女既出嫁

    訖解尼師今三十五年(西暦344年)春二月、倭国が使いを遣わし結婚を申し出たが、娘は既に嫁いだと言って断った。

    ところが時間が経つと、情勢も変わります。「女既出嫁」とは全く理由になっていません。30年前の婚儀では、阿飡(六等官)の娘を出しているのです。要するに新羅は、同盟もしくは相互不可侵の約束を反故にすることを宣言したのです。

    (訖解尼師今三十六年)二月倭王移書絶交

    訖解尼師今三十六年(西暦345年)二月、倭王が文書を送ってきて断交した。

    律儀にも、倭は文書でもって断交を通告しています。実質的には前年の婚儀拒否をもって互いの通交は止まっていたでしょう。

    (訖解尼師今)三十七年倭兵猝至風島抄掠邊戸又進圍金城急攻王欲出兵相戰伊伐康世曰賊遠至其鋒不可當不若緩之待其師老王然之閉門不出賊食盡將退命康世率勁騎追撃走之

    訖解尼師今三十七年(西暦346年)、倭の軍が突然風島に侵攻し、その住民を掠奪し、そこから進軍して金城を囲んで急激に攻めた。王は出兵して戦おうとしたが、伊伐康世曰く「倭の賊軍は遠方から来たり、その勢いに当たるべきではありません。その勢いが余話なり軍が疲れるのを待つべきです」王は尤もだと思い、城門を閉じて出撃しなかった。倭の賊軍は食糧が尽き、そのため撤退した。康世に命じて、勁騎を率いさせ、倭の賊軍を追撃し敗走させた。

    突然も何も、断交したら戦争になるのは洋の東西を問わず、古今当たり前のことです。この「わざとらしさ」が「儒教主義」という奴です。孔子が聞いたら嘆くでしょう。退却する軍を叩くのは兵法ですが、首都を囲まれて出撃できないというのは、倭が大軍を繰り出したからでしょう。大軍と言っても後世のように何十万、何百万とはいきませんから、城を包囲しても落とせなかったのだと思われます。しかし倭軍を追撃して敗走させたのではなく、倭軍が勝手に退却していったのを見送っただけと思うのは私だけでしょうか。退却する大軍を追撃して勝ちを拾ったのは、高祖劉邦くらいなものだと思うのですが。

    (奈勿尼師今)九年夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵列立吐含山下伏勇士一千於斧東原倭人恃衆直進伏發撃其不意倭人大敗走追撃殺之幾盡

    奈勿尼師今九年(西暦364年)夏四月、倭の大軍が押し寄せてきた。王はこれを聞き、とても敵わないと恐れた。草で人形を数千作らせ、衣を着せて兵に持たせ、吐含山の麓に並べ立てさせた。勇士一千を斧東原に伏せた。倭人は衆を恃んでまっすぐ進んできた。伏兵を発しその不意を突いて攻撃した。倭人は大敗北を喫し逃走したが追撃してこれを殺し全滅近くまで追い込んだ。

    えー?衆を恃むほどの大軍を千人で待ち伏せて殺し尽くしたー?論理矛盾があるんですけどー(笑)。

    (奈勿尼師今)十一年 春三月 百濟人來聘

    奈勿尼師今十一年(西暦366年)春三月、百済人が聘問にやってきた。

    倭と直接は関係ありませんが、この時、第一次羅済同盟が結ばれ、四世紀末まで継続します。そのため、百済新羅の間の交戦はなくなります。

    (奈勿尼師今)三十八年夏五月倭人來圍金城五日不解將士皆請出戰王曰今賊棄舟深入在於死地鋒不可當乃閉城門賊無功而退王先遣勇騎二百遮其歸路又遣歩卒一千追於獨山夾撃大敗之殺獲甚衆

    奈勿尼師今三十八年(西暦393年)夏五月、倭人が攻めてきて金城を囲み、五日も包囲を解かなかった。将士はみな出撃して戦うことを願ったが、王曰く「今倭の賊軍は船を棄て深く我が地に入り込んでいて、死地にいる。鉾先も当たらないだろう」城門を閉じて守った。倭の賊軍は得るところなく退却した。王は勇猛な騎兵を二百先遣し、その退却路を遮り、また歩兵一千を遣わして獨山に追い込み、挟撃してこれを大敗させた。殺して首を取った数が非常に多かった。

    また首都を包囲されています。これに対して出撃は不可とみて籠城したのはよいのですが、そんな大軍を騎兵二百、歩兵千で大敗させたとか、理屈にあいません。「儒教主義」(笑) まあそれはともかく、「好太王碑」によると、この三年後の西暦396年、高句麗百済を下します。この時点で、第一次羅済同盟は解消となったようです。或いは解消は、西暦400年のことかも知れません。

    (實聖尼師今)元年三月與倭國通好以奈勿王子未斯欣爲質

    實聖尼師今元年(西暦402年)三月、倭国と通好し、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。

    ここに至り、再び倭と修好しています。実は、西暦393年と西暦402年の間にあった重大な事件が新羅本紀には記載されていません。それは「好太王碑」に書かれています。「十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵」つまり、「永楽十年(西暦400年)庚子、歩騎五万を派遣して新羅を救わせた。男居城から新羅城に至るまで倭軍が充満している中を官兵で攻撃し、倭の賊軍を退けた。倭軍の背後を急追し、任那加羅の從拔城へ至った。城はすぐさま降伏し、新羅人の国境守備兵を保護した」とある部分です。新羅高句麗に頭を下げて助けて貰っているので書きたくなかったんでしょうね。石碑が残されているなんて思いもよらなかったんでしょう。高句麗は当然、新羅を救援すると引き上げてしまいます。すると、また倭の脅威に直面せざるを得ないので、和平を結ぶことにしたのではないでしょうか。新羅にとって、対等ではなく、屈辱的な和平であったのでしょう。

    (實聖尼師今)四年夏四月倭兵來攻明活城不克而歸王率騎兵要之獨山之南再戰破之殺獲三百餘級

    實聖尼師今四年(西暦405年)夏四月、倭の軍隊が来襲し、明活城を攻めたが、勝てないまま退却した。王は騎兵を率いて獨山の南で待ち伏せし、再戦して倭軍を破った。殺して首を取った数は三百あまりだった。

    はて、和平を結んだはずの倭がまた攻めてきて、しかも迎え撃っています。人質の王子はどうなったー!?

    (實聖尼師今)六年春三月倭人侵東邊夏六月又侵南邊奪掠一百人

    實聖尼師今六年(西暦407年)春三月、倭人が東の海岸から侵入してきた。夏六月にまた南の国境地帯も侵犯して百人を捕らえて連れ去った。

    二年続けて侵攻があったようです。和平どころではありません。

    (實聖尼師今)七年春二月王聞倭人於對馬島置營貯以兵革資粮以謀襲我我欲先其未發揀精兵撃破兵儲舒弗邯未斯品曰臣聞兵凶器戰危事況渉巨浸以伐人萬一失利則悔不可追不若依嶮設關來則禦之使不得侵猾便則出而禽之此所謂致人而不致於人策之上也王從之

    實聖尼師今七年(西暦408年)春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、武器、鎧甲、軍資、食料を貯蔵して、我が国を襲撃する計画を進めているという情報を入手した。兵が出発する前に先んじて、精兵を選んで兵を破りその蓄えを奪いたいと思った。舒弗邯の未斯品曰く「私は、兵は不吉な道具であり、戦は危険な事だと聞いております。況んや大海を渡って他国を征伐しようというのです。万一勝てなければ、後悔しても追いつきません。要害堅固なところを守り、関所を設けることに及びません。来たれば即ちこれを防ぎ、なかなか攻め込めないようにして、機会があれば出撃してこれを虜にする。これが所謂人に致し而して人をして致らせぬところというものでありまして、上策であります」王はこれに従った。

    さてここで、三国時代の朝鮮半島地図をウィキペディアでご覧下さい。五世紀終わり頃で高句麗が最も盛んであった時代です。新羅の領土は百済の半分ほどしかありません。つまり三国の中で最も弱小だったわけです。逆に倭はまさにそれを行っているわけで、力関係でいえば、倭の国力の方が上であったことが分かります。小国が大国の隙を突くようなマネをしても必ず痛い目に遭う。それより防御を固めるのが先だと王に諭しているわけです。

    (實聖尼師今)十四年八月與倭人戰於風島克之

    實聖尼師今十四年(西暦415年)八月、倭人と風島で戦い、勝った。

    またまた懲りずに倭が出兵してきます。多分新羅が勝った戦いだけ書いてるんでしょうね。だからそう見える。戦争とはそういうものではありません。

    (訥祇麻立干)二年春正月親謁始祖廟王弟卜好自高句麗與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還

    訥祇麻立干二年(西暦418年)春正月祖廟で親閲を始める。王の弟、卜好が高句麗より堤上奈麻と帰り来る。秋、王の弟、未斯欣、倭国より逃げ帰る。

    實聖尼師今元年(西暦402年)に人質として倭に渡った未斯欣が逃げて帰ってきました。というか、實聖尼師今四年(西暦405年)には逃げ出していてどこぞに隠れていたのではないでしょうか。高句麗とか。人質が勝手に逃げたから「倭」が實聖尼師今四年(西暦405年)に攻めてきたと考えると符合します。

    (訥祇麻立干)十五年夏四月倭兵來侵東邊圍明活城無功而退

    訥祇麻立干十五年(西暦431年)夏四月。倭の兵が東の海岸地帯を侵犯し、明活城を囲んだ。何も得られず退却した。

    倭は何をしたかったのでしょうか。城を囲んではただ退却する。あるいは、それは次の百済の行動を応援するためだったのかも知れません。

    (訥祇麻立干)十七年秋七月百濟遣使請和從之
    (訥祇麻立干)十八年春二月百濟王送良馬二匹秋九月又送白鷹冬十月王以黄金明珠報聘百濟

    訥祇麻立干十七年(西暦433年)秋七月、百済が使いを遣わせて、和平を求めてきた。これに従った。
    訥祇麻立干十八年(西暦434年)春二月、百済王が良馬二頭を送ってきた。秋九月、また百済王が白鷹を送ってきた。冬十月王は、黄金・明珠を百済の聘物のお返しにした。

    この時成、第二次羅済同盟が成立しています。この同盟は、西暦553年に新羅が漢江流域を奪うまで続きました。大国、高句麗に対抗するために手を組んだのです。従って以降の倭の軍事行動は、倭と百済の同盟に基づく行動ではないことがわかります。

    (訥祇麻立干)二十四年倭人侵南邊掠取生口而去夏六月又侵東邊

    訥祇麻立干二十四年(西暦440年)、倭人が南の国境地帯を侵犯した。奴隷を奪い取って去った。夏六月、倭人がまた東の海岸地帯を侵犯した。

    相変わらず倭は新羅にちょっかいをかけていますが…示し合わせた訳ではないでしょうが、これ以降、倭と高句麗が交互に新羅を攻めるようになります(高句麗百済も攻めましたが)。

    (訥祇麻立干)二十八年夏四月倭兵圍金城十日糧盡乃歸王欲出兵追之左右曰兵家之説曰窮寇勿追王其舍之不聽率數千餘騎追及於獨山之東合戰爲賊所敗將士死者過半王蒼黄棄馬上山賊圍之數重忽昏霧不辨咫尺賊謂有陰助收兵退歸

    訥祇麻立干二十八年(西暦444年)、倭の軍が金城を十日間囲んだ。食料が尽きて帰った。王は兵を出してこれを追撃しようとした。左右の者曰く「軍事の専門家の説に拠れば、追い詰められた賊を追っ手はならない」と。王はこれを捨て置いて聞き入れなかった。数千の騎兵を率いて追撃して獨山の東に及び、合戦して賊に敗れた。将兵は過半数が死んだ。王は慌てふためいて馬を棄て山に登った。賊がこれを幾重にも囲んだ。忽ち霧が出てあたりが暗くなり、一寸先も見分けが付かなくなった。賊は「これぞ陰助だ」と言って、兵を収めて撤退した。

    「新羅本紀」の中で唯一ではないでしょうか、王が倭軍に追い詰められた話とは。

    (慈悲麻立干)二年夏四月倭人以兵船百餘艘襲東邊進圍月城四面矢石如雨王城守賊將退出兵撃敗之追北至海口賊溺死者過半

    慈悲麻立干二年(西暦459年)夏四月、倭人が兵船百艘あまりで東の海岸を襲撃して進軍し、月城を囲んで、四方八方から矢や石を雨あられと打ち込んだ。王城守は賊将を退け、出兵してこれは撃破し、北に追撃して海口まで行った。賊軍で溺死する者が過半数に達した。

    帰化人/渡来人の祖先の多くは朝鮮系だという学者がいますが、百済と同盟する一方でこれほど執拗に倭が新羅に出兵するのは、帰化人/渡来人の影響がないからではないでしょうか。影響力が大きかったらあたら祖国の地を蹂躙するようなことは止めるでしょう。百済新羅を結んだのならなおさらです。

    (慈悲麻立干)五年夏五月倭人襲破活開城虜人一千而去

    慈悲麻立干五年(西暦462年)夏五月、倭人が活開城を撃破し、捕虜を千人連れ去った。

    (慈悲麻立干)六年春二月倭人侵歃良城不克而去王命伐智德智領兵伏候於路要撃大敗之王以倭人屢侵疆埸縁邊築二城

    慈悲麻立干六年(西暦463年)春二月、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。王は伐智・德智に討伐を命じた。領兵が路に隠れて待ち伏せし、倭軍を要撃して大敗させた。王は以後、倭人が頻繁に国境、海岸を侵犯するので、国境、海岸に城を二つ築いた。

    (慈悲麻立干)十九年夏六月倭人侵東邊王命將軍德智撃敗之殺虜二百餘人

    慈悲麻立干十九年(西暦476年)夏六月、倭人が東部の海岸から侵入してきた。王は将軍德智に命じてこれを撃敗させた。殺したり捕虜にした者が二百人あまりいた。

    (慈悲麻立干)二十年夏五月倭人擧兵五道來侵竟無功而還

    慈悲麻立干二十年(西暦477年)夏五月、倭人が兵を挙げ、五道に侵入したが、何も得るところがなく退却した。

    勝つこともあり負けることもあるから執拗に出兵してくるのだと普通は思いつくのですが、「儒教主義」者には通用しないようです。執拗に倭の負け戦だけを書き連ねます。

    (炤知麻立干)四年五月倭人侵邊
    (炤知麻立干)七年五月百濟來聘
    (炤知麻立干)八年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干四年(西暦482年)五月、倭人が国境を侵犯した。
    炤知麻立干七年(西暦485年)五月、百済が聘問に来た。
    炤知麻立干八年(西暦486年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    百済が別に面従腹背しているわけではないことが聘問の事実によって裏書きされます。しかしその前後で倭は出兵しているわけですから、特に斡旋もしなかったようです。

    (炤知麻立干)十九年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干十九年(西暦497年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    (炤知麻立干)二十二年 春三月 倭人攻陷長峰鎭

    炤知麻立干二十二年(西暦500年)春三月、倭人が長峰鎭を攻め落とした。

    この記載を最後に、有名な「白村江の戦い」まで、倭のことは出てこなくなります。何があったのでしょう。西暦527年に「磐井の乱」があって外征どころではなかったのかも知れません。西暦589年にはが建国されます。『隋書』東夷伝俀國条には、「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」「新羅百済はみな倭が大国であり、珍物が多いとして、これを敬仰し、常に通使が往来している」とあります。つまり、遂に新羅は倭の出兵に対抗することに困難を覚え、修好したと考えられます。だから倭が攻めてこなくなったのでしょう。もちろん、新羅はそんなことをしたくなかったのかも知れません。代になってから新羅に接近し、は、高句麗を滅ぼした後、退廃していた百済に目を付けました。これが百済滅亡とそれに続く白村江の戦いを引き起こしたのです。朝鮮半島は新羅によって統一され、倭は半島での足がかりを失いました。隠忍自重、臥薪嘗胆の年月であったのでしょう。

    さてみなさん、『宋書』に記載された倭王武の上表文を憶えておられるでしょうか。そう「渡平海北九十五國」です。「好太王碑」だけではなく、朝鮮の歴史書によっても、それが誇張ではなく、四世紀から五世紀にかけて、頻々と出兵を繰り返した事実があったことが裏書きされました。「東征毛人五十國西服衆夷六十六國」も当然その実があって書かれたのでしょう。その結果が授けられた「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という称号です。倭および朝鮮半島を配下に治める覇者に相応しいものではないでしょうか。ところで、この出兵を支えたのはどういった人々であったか。遙々近畿地方から軍勢を集めて送り込んだのでしょうか。それこそまさかです。北九州から肥後にかけて兵を集め、軍勢を東西北へ繰り出したのです。そんなことが一地方豪族に可能でしょうか。遠い大和の地にある朝廷の命令がいかほどの影響力があるでしょう。まぎれもなく、そこに王朝があり、国の中心だったからこそ兵を集めることができ、頻繁に出兵することができたのです。九州に古墳が登場するのは、大和・河内より随分遅くなってからですが、これだけ頻繁に出兵していれば、古墳なんぞ作る余裕があるはずもありません。

    それに、最終的に大和朝廷が全国で唯一の王朝となるのですが、頑張って律令を施行したものの、年を追う毎に地方が管理できなくなり、平安時代には全くといってよいほど国司に任せきりになってしまいます。「良二千石」という良吏を表す言葉があるのですが、そんな言葉を使って賞賛しなければならないほど綱紀がゆるんでいたこともわかっています。つまり、大和朝廷には全国をまとめ上げ、末端まで管理する実力など初めからなかったのです。空白の四世紀と言われる時代を含めその前後の頃など、なおさらそれがありえないことだということは、歴史書を丹念に見ればわかる類のことです。なぜ歴史学者という生き物は頑迷に王朝は唯一近畿地方だけと主張するのでしょうか。新井白石が何と言おうが、本居宣長が何を言おうが、科学者は事実を探求すべき職務であるのに、先生の仰る通りとしか言えないのであれば、廃業してしまえばよろしい。

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  • 日本の古代史を考える—⑨三国史記(百済本紀)

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    ここで朝鮮に目を転じます。三世紀〜七世紀にかけて、朝鮮半島では「高句麗」「百済」「新羅」が鼎立し、覇を争っていました。最終的に「白村江の戦い」で倭・百済(この時既に百済は滅亡していたので正確には百済遺民)連合軍に、新羅連合軍が大打撃を与え、倭はこの敗北から立ち直れないまま、新羅が朝鮮を統一します。この三国の歴史を著したのが『三国史記』です。高麗十七代仁宗の命を受けて金富軾らが編纂しました。この書は高麗新羅の後継を自任していた上に、編纂者が新羅王室の血を引いていたため、新羅偏重かつ新羅寄りの既述が目立ちます。そのため、その内容を充分に批判することなしに引用することは不用意の誹りを免れ得ません。とはいえ、倭と新羅の激闘の歴史は見て取れますので、倭に関する部分を抜粋して、その様子をうかがうことにしましょう。

    なお、「ひのもとの史記」さんの「三国史記の倭関連記事」が一覧表になっていてとても見やすいので、概略を掴むのにはもってこいです。是非ご覧になって下さい。トップページから「ひのもとの史記・参」をクリックして、左サイドバー内「CONTENTS」の「三.三国史記」をクリックすれば見ることができます。

    まずは「百済本紀」から。

    六年夏五月王與倭國結好 以太子腆支爲質

    阿莘王の六年(西暦397年)、王は倭國と誼を通じた。太子腆支を人質とした。

    倭と百済の同盟が成立した、ある意味画期的な事件です。以降、白村江の戦いで大敗を喫するまで、倭と百済は同盟を続けたのです。

    (阿莘王十一年)五月遣使倭國求大珠

    阿莘王の十一年(西暦402年)、倭國に使いを遣わして大珠を求めさせた。

    十二年春二月倭國使者至王迎勞之特厚

    阿莘王の十二年(西暦403年)、 倭國が使者を派遣してきた。王はこれを迎えて労い、特に厚く遇した。

    倭と百済の紐帯が固いことを示す記事が続きます。

    十四年王薨王仲弟訓解攝政以待太子還國季弟禮殺訓解自立爲王腆支在倭聞訃哭泣請歸倭王以兵士百人衛送既至國界漢城人解忠來告曰大王棄世王弟禮殺兄自王願太子無輕入腆支留倭人自衛依海島以待之國人殺禮迎支即位妃八須夫人生子久尒辛

    阿莘王の十四年(西暦405年)、王が薨じた。王の次弟、訓解が摂政し、太子が国に帰るのを待った。末弟、禮が訓解を殺して、自立して王となった。腆支は倭にあって訃報を聞き、哭泣して帰国を願った。倭王は兵士百人を護衛に付けて送らせた。国境に至ろうとした時、漢城人の解忠が来てこう言った「大王が世をお棄てになり、王弟の禮が兄を殺して自ら王になりました。太子が軽々に入国されないことを願います」腆支は倭人を留め自らを護衛させた。海島により知らせを待った。国人が禮を殺して、腆支を迎え即位した。妃の八須夫人が王子久尒辛を産んだ。

    簒奪を計った王の末弟を諸豪族が殺して、倭から太子を迎え、王とする話です。倭は太子に護衛を付けて送り届けています。

    五年倭國遣使送夜明珠

    腆支王の五年(西暦410年)、倭國に使いを遣わし、夜明珠を送った。

    十四年夏遣使倭國送白綿十匹

    腆支王の十四年(西暦419年)、十四年夏、倭國に使いを遣わし、白絹十匹を送った。

    なので、倭に恩義を感じたのか、腆支王は贈り物をしています。倭・百済同盟は順調です。

    二年春二月王巡撫四部賜貧乏穀有差倭國使至從者五十人

    毗有王二年春二月(西暦427年)、王は四方を巡撫し、貧乏な者にはその程度に応じて穀物を授けた。倭国の使者が従者を五十人引き連れてやって来た。

    代が変わっても倭との同盟が継続している様子が窺えます。

    (武王)九年春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路

    武王の九年(西暦608年)春三月、使いを遣わして隋に朝貢した。隋の文林郞、裴淸が倭國へ使いを奉り、我が国の南路を通った。

    ここで記事は七世紀に飛びます。隋の裴世清が遣隋使の答礼に倭へ赴く際、百済を通ったことがわかります。つまり、倭・百済同盟は続いているのです。

    (義慈王)十三年春大旱民饑秋八月王與倭國通好

    義慈王の十三年春(西暦653年)、旱がひどく、民が飢えた。秋八月、王は倭國と通好した。

    百済最後の王、義慈王です。国際関係は緊張を増していました。隋が滅び、が建国されたのですが、新羅はそのと同盟を結び、高句麗百済を脅かしていました。高句麗にはかつての栄光はなく、両国とも押され続けています。義慈王は、倭との盟いを新たにする必要を覚えたのでしょう。しかし、その盟いも虚しく、西暦660年、百済新羅に滅ぼされてしまいます。

    龍朔二年七月(前略)時福信既專權、與扶餘豊相猜忌。福信稱疾、臥於窟室、欲俟豊問疾執殺之。豊知之、帥親信、掩殺福信。遣使高句麗倭國乞師、以拒唐兵。孫仁師中路迎撃破之、遂與仁願之衆相合、士氣大振、於是諸將議所向。或曰、加林城水陸之衝、合先撃之。仁軌曰、兵法避實撃虚、加林嶮而固、攻則傷士。守則曠日、周留城百濟巣穴、羣聚焉。若克之、諸城自下。於是、仁師仁願及羅王金法敏帥陸軍進、劉仁軌及別帥杜爽扶餘隆帥水軍及粮船、自熊津江往白江、以會陸軍、同周留城。遇倭人白江口、四戰皆克。焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水爲丹。王扶餘豊脱身而走、不知所在。或云奔高句麗。獲其寶劒。王子扶餘忠勝忠志等帥其衆、與倭人並降。獨遲受信據任存城未下。

    龍朔二年(西暦662年)七月、(前略)時に福信が権力を専横し、扶餘豊とは互いに猜疑し嫌い合っていた。福信は病と称して窟室に伏して、豊が見舞いに来ることを期待し、その時に捉えて殺してしまおうと考えていた。豊がこれを知り、信頼の置ける者たちを率いて福信の不意を突いて殺した。高句麗と倭国に使いを遣わして軍の出動を願い、唐の軍を攻めた。(唐・新羅軍の)孫仁師は中路で迎撃しこれを破り、遂に仁願の軍衆と見え、士気がすこぶる高まった。ここにおいて(唐・新羅軍の)諸将は会議で結論したところへ向かった。或いは曰く、加林城は水陸の要衝なのでまずこれを攻撃して下すべきだと。仁軌は「兵法は実を避け虚を撃つものだ。加林城はなおも守備が固く、攻めても兵を消耗するだけだ」と言った。守則曠は「周留城は百済の巣穴だ。ただ群がり集まっているだけではないか。もしこれに勝つことができれば、他の城は自ずから下ってくるだろう」ここにおいて仁師仁願と新羅王、金法敏は陸路を取り軍を進めた。劉仁軌と別働隊の杜爽、扶餘隆は水軍と軍資を積んだ船を率いた。熊津江より白江に至り、陸で軍を併せ、周留城を下した。(唐・新羅軍は)倭人と白江の港で会戦し、四戦して四勝した。倭の船四百艘を焼き、その煙と炎は天を焦がし、海水を赤い色に変えた。百済王の扶餘豊は脱出して逃走し、所在がわらなくなった。或いは高句麗に逃げたとも伝える。百済の宝剣を奪い取り、百済王子の扶餘忠勝と忠志らはその軍衆を率いて、倭とともに並んで(唐・新羅軍に)降伏した。遲受信は単独で任存城に拠っておりまだ下っていなかった。

    そして、西暦663年、ついに白村江で、倭・百済遺民連合軍と新羅連合軍が雌雄を決しますが、倭は大敗を喫します。倭はこの痛手からついに立ち直れませんでした。

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  • 日本の古代史を考える—⑧南齊書・梁書

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    南齊書』は、南北朝時代の「」について書かれた歴史書です。「」の蕭子顕が編纂し、正史に数えられています。原名は『齊書』でしたが、李百薬の『北斉書』を鑑みて、「北宋」の時代に手直しされました。その列伝に、東夷伝があり、倭のことが一行出てきます。

    倭國在帶方東南大海島中漢末以來立女王土俗已見前史建元元年進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大將軍倭王武號爲鎮東大將軍

    倭国は帯方の東南にある大海島の中にある。後漢末以来、女王を立てていた。その風俗はこれまでの正史に記載されている。建元元年(西暦479年)、
    使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事・安東大將軍・倭王武を改めて叙任し、号して鎮東大將軍とした。

    前年、「」に冊封を受けたのに、そのすぐ後に「」は「」に禅譲してしまい、新王朝に代わってしまいました。そこですかさず、あの倭王武が朝貢し、によって授けられた称号に加え、鎮東大將軍も頂きました。外交に機敏な王の姿が見えるようです。

    その「」も西暦502年に「」に禅譲してしまいます。『梁書』はの正史で、代になって、貞観三年(西暦629年)に、の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が編纂した私撰の史書です。その諸夷傳にも倭のことが見えます。ほとんどが前代の正史の引き写しなので、注目すべき所だけ抜き出します。

    倭者、自云太伯之後。

    倭の人は、太伯の末裔であると自称している。

    呉の太伯の末裔と自称しているということがここでも出てきます。中華との関係で外せないのでしょうね。しかし、全く無関係であることが明らかな場合は妄説として取り上げないでしょうから、その風俗に類似があって根拠がありそうだから、「自称す」となっているのでしょう。

    高祖即位進武號征東(大)將軍

    高祖が即位された際(西暦502年)、倭王武を進めて征東(大)將軍を号した

    またしても倭王武です。次から次へと外交の手を打つその素早さは、単に武威をひけらかすような愚鈍ではなく、非常に機敏な人であったことが偲ばれます。誰もが倭王武に比定する雄略天皇は、吉備や播磨、伊勢を討伐した記録は「日本書紀」にあるものの、海外へ遠征したことは載っていません。国内をまとめるのに忙しかった雄略天皇に、繰り返し外征する余裕などあったでしょうか。また、中華の王朝が交代するたびに、朝貢して官職の任命を請うような外交手腕があったとは思えません。事実、「日本書紀」にそのような既述はないのです。

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