• 『中国正史』に見える古代日本

      0 comments

    『中国正史』に見える古代日本」を作成しました。縦書き対応かつルビ対応のブラウザが必要ですが、是非ご覧になって下さい。『漢書』から『新唐書』までに記載されている倭人、倭國、日本に関する下りを抜粋し、原文、訓読文、現代語訳に註をつけています。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑤晋書四夷伝倭人条

      0 comments

    晋書』は『三国志』に続く正史であるが、書かれたのは「」になってからである。「」は司馬懿の一族が曹操の「」を簒奪して誕生した王朝で、西暦245年から420年まで続いた。三国に分裂していた中国を統一したのが「」である。しかしその統一は束の間で、西暦317年に匈奴前趙)の侵略を受け、南遷を余儀なくされた。それまでのを「西晋」、南遷後のを「東晋」と呼んで区別するのが習わしである。

    この書にも倭のことが書かれているが、明らかに『後漢書』の引き写しである。従って全文を紹介する意味はあまりないのであるが、いくつか指摘すべき点があるので、念のために触れておく。

    倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。

    倭人は帯方郡の東南の海中にあり、山島に拠って国を建てている。その土地は山林が多く、良田がないので、海のものを食べる。百あまりの国が相接して存在していたが、魏の時代には、三十国が魏へ通好していた。戸数は七万である。

    山林が多く、良田がないのは『魏志倭人伝』によると、「対馬國」「一大國」のことであるが、ここでは倭全体がそうであるかのように書かれている。東夷のことだから、対馬國や一大國といった一部のことではあるまい、という臆断が見え隠れする。「有三十國通好」は『魏志倭人伝』において「今使譯所通三十國」が、『後漢書』で「使驛通於漢者三十許國」と誤読された結果である。三十もの国が朝貢していたら『魏志倭人伝』はことさら麗々しくそう書いたであろう。『後漢書』を書いた「范曄」が「譯」と「驛」を間違えた結果である。『後漢書』の倭人条は全体に投げやりな書き方が多く、「范曄」自身が書いたとは思えない。部下に適当に書かせたものをそのまま収録したのではないか、という人までいる始末である。それを受けて書かれたと思われる『晋書』も推して知るべしだ。

    男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。

    成人男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。自分たちを太伯の末裔であると称している。また、大昔から遣使をしており中国に朝貢していたと伝えられている。遣使はみな大夫を自称した。

    倭人が太伯の末裔を自称するということは、『魏略』にも「聞其旧語自謂太伯之後」と見える。『後漢書』にはこの既述はない。「上古」は中国では前漢後漢までのことを言い、西周の頃から倭が朝貢していたことは既に述べた通り。ただし、後漢から禅譲を受けたをすぐに簒奪して立てられた国であるので、ここで言う上古は、春秋戦国時代より前だと思われる。この部分が『漢書』地理志や『論衡』(あるいはその同時代史料)などにも拠っていることは明白である。

    昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。

    昔、王朝の少康王の子が会稽に封じられた。髪を短く切り、体に入れ墨をすることで大魚や水禽の害が避けられると民に教えた。今、倭人はよく水に潜って魚を捕る。また体に入れ墨をして水禽が近寄ってこないようにしている。その位置を勘案すると、会稽郡東冶県の東に当たる。

    「會稽東冶之東」は『後漢書』の誤記である。それがそのまま引き継がれている。というか、「道里」は「道理」なのだが、ここでは「道筋、里程」の意味で使われている。この条を書いた人はあまり教養のある人ではなかったようだ。

    其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。

    男子の衣服は横広の布を結んだだけの物で、縫っていない。女性は重ね着をしておらず、中央に穴が穿たれた貫頭衣で、全員髪を覆って裸足で歩いてる。倭地は温暖、稲作を行い、麻を紡ぎ、養蚕・織り物をする。牛馬がしない。刀・盾・弓・矢が有って、鉄の矢尻を使っている。ちゃんとした家があって、父母と兄弟は別々に寝る。飲食に俎豆を用いる。

    父母兄弟の兄弟はもちろん成人のことを指す。庶民は竪穴式住居が一般的だったのだから、「異處」は建物自体が異なる、つまりは妻問婚で男は妻方を訪れるので、自然、「異處」になることは既に記した。「有屋宇」は、『魏志倭人伝』では「有屋室」、『後漢書』では「有城柵屋室」であり、『後漢書』がやや詳しい。

    嫁娶不持錢帛、以衣迎之。

    嫁を娶る場合、幣物は不要である。衣を用意して迎えるのである。

    中国では婚姻の際、媒人を立て、幣帛を用意して納采の儀を執り行うのが、結婚において重要なこととされていた。さもないと野合と非難されたのである。ところが日本はそんなことをしないというので、新たに書き込んだのであろう。さて「以衣迎之」の「之」は通常「嫁」のこととされるが、それはそれは変わった風俗である。ところが、その前の文は、男が嫁を取る場合のことについて書いてある。その文意を受けて「之」と書いたのなら「男」を意味すると解することができる。つまり、「着物を用意して夫を迎える」が、正しく伝わらなくて、もしくは倭人条を書いた人の「結婚は即ち嫁取りである」という臆断で(こっちの方がありそうだが)、妙な形に歪んでしまったと思われる。元々の意味は妻問婚で妻が夫を迎える習俗を言っていたのであろう。後々の婿取婚でも婿の衣服の世話は妻の実家の役割となっていた。その萌芽があったのだろう。

    死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。

    死ぬと棺(かんおけ)はあるが、椁(かく)はない。土を盛って塚を作る。葬儀が始まると哭泣して肉を食べない。葬儀を終えると、家中で水に入り、水を浴び体を洗い清らかにする。これで禍を除くのである。重要なことをする時は、骨を焼いて吉凶を占う。

    不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。

    一年が四季よりなることを知らず、ただ秋の収穫の時をはかって年としている。

    これを春秋年紀=一年二歳と勘違いしている人が多いが、『魏略』に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」とあるのを混同したものと思われる。ただし、この項目が「但計春耕秋収之時以爲年紀」とすべきところを、書き手が一年=一歳が当然だろうと勝手に臆断して「春耕」を削って書いた疑いがないでもない。

    人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

    百歳まで生きる人が多く、あるいは八十、九十になる人も多い。国には女性が多く、貞節で嫉妬しない。罪を犯した者は、その罪が軽いものであれば、妻子を没して奴隷にし、重い者はその家族と一族を殺す。

    ここの「國多婦女」は、『後漢書』が「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」(国には女性が多いため、身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、それ以外の者も二人や三人の妻を持つ)と書いているのを受けている。『魏志倭人伝』で「國大人皆四五婦下戸或二三婦」(身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、身分の低い者にも二、三人の妻を持つものがいる)を誤解して書いたものと思われる。『魏志倭人伝』では全員が多妻であるとは言ってないのに、『後漢書』でこれを全員多妻と誤解し、全員が多妻なのだから、女性が多いのだろうと結論したと考えられる。お粗末にもほどがある。あるいは本当に女性が多かったのなら、戦乱で消耗された男の多さが窺える文章でもあるのだが、それなら『魏志倭人伝』が男が多数戦乱で死んで女性がすごく多いという点に何も触れてないのが異常となる。

    舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。

    もとは男性を王としていた。後漢の終わり頃、倭で内乱があり、攻伐しあって国が安定しなかった。そのため、女性を王として建てた。名前を卑弥呼という。

    「漢末」とあるのは、『後漢書』に「桓靈閒倭國大亂(桓帝=後漢の第十一代皇帝、西暦146年-167年。靈帝=後漢の第十二代皇帝、西暦168年-189年)」とあるのを受けている。が、その『後漢書』の既述自体が、『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」を誤読したもので、まったく信用がおけない。

    宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

    宣帝(司馬懿)が公孫氏を滅亡させた時、女王が帯方郡に遣使を送り朝貢に来た。その後暫く朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭)が宰相になった時、また何度か朝貢に来た。泰始元年(武帝司馬炎)に、使いを遣わせて通訳を二重に重ねて入貢した。

    晋書』でありながら、実質的に書かれているのは「」の時代のことである。は安定しなかったので、朝貢が途絶えたのだろうか。それより「重譯入貢」が不明である。倭には直接中国語を話せる人がおらず、別の言語を通じて会話したということなのか。しかしそんなことは他の正史には書かれていないし、その状態で朝貢を続けるというのも不自然である。あるいは、倭でも別のグループが朝貢に来たのだろうか。その場合方言間の翻訳が必要なので、確かに重訳となるが…あるいは別の意味があるのか。

    倭人条はこれで終わりだが、倭の記事はもうひとつある。安帝本紀の義煕九年(西暦413年)に倭が朝貢していたことが載っているのである。

    是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物

    この年、高句麗や、倭國、西南夷銅頭大師が並んで様々な物を朝献してきた。

    この記事に関しては、倭の王が冊封を受けた節がないので、ニセモノの遣使だと主張する人もいて、様々な議論があるようです。しかし、の朝廷が衰えていたとはいえ、史官も馬鹿揃いではないのでニセモノ説はさすがに成り立ちにくいと考えます。冊封を受けた様子がないのは、別の説明が必要でしょう。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

Top