• 日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

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    蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされていますが、百済系の渡来人とする説もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうが、たった四代で成り上がった新興豪族なのは間違いありません。

    蘇我稲目大臣になったのは、宣化天皇の元年です。宣化天皇継体天皇の皇子です。このことから、継体の大和入りを支援した畿外豪族だったという人もいます。それはともかく、この稲目という人は崇仏派で、物部氏中臣氏らの排仏派と衝突したと伝えられています。古代の人々の宗教に懸ける情熱は現代人の想像を超えたところにあります。同時にそれは国家をどうまとめていくのかという統治論でもあったのです。

    しかし統治論は所詮という言い方では語弊があるかも知れませんが、方法論にすぎません。それで一触即発の事態に陥るでしょうか。継体天皇による九州王朝の簒奪の失敗からまだ時間は経っていません。むしろ、継体に従い大和に入った蘇我氏の長である稲目継体以来の倭國との対立=冷戦路線を主張する一方で、物部氏中臣氏はかつてあった友邦国として交流を復活させる宥和路線を主張したのではないかと考えます。これは国の存亡に関わる政治問題です。倭國の出方次第では、対立を続ければ攻め込まれる恐れがあり、一方で宥和路線を敷けば下手を打つと倭國の属国になってしまうという、極めてシビアな判断が求められる場面であり、国家の安危が関わるのですから、激論になったでしょう。しかしここで宥和路線を取るなら、継体天皇の業績が全くの無駄になってしまいます。継体によって引き立てられたと思しき蘇我氏にとって、それは氏族の否定に等しい暴論でした。国家の安危に加え、自分たちの氏族の安危がかかっているのですから、相手を謀殺してでも方針を固めたいと考えたのではないでしょうか。

    しかし、この時は欽明天皇の取りなしもあっていったんは収まります。おそらく、表向きは対立=冷戦路線を続けながら、裏で交渉の糸口を探るよう裁定が下ったのでしょう。

    次の代になり、蘇我馬子稲目の跡を継いで、対立=冷戦路線を続けます。物部守屋宥和路線です。この対立は妥協点を見いだすことができず、これに皇位継承問題がからんで、遂に戦争になってしてしまいました。おそらく、物部氏中臣氏の交渉が実り、宥和路線に手応えを感じていたのでしょう。物部守屋は一歩も引きませんでした。対する馬子も引けません。その結果は蘇我氏の勝ち。つまり、対立=冷戦路線が改めて規定方針となったのです。

    さて、蘇我氏が勝ったことで、蘇我氏側についた泊瀬部皇子は即位して崇峻天皇となります。ところが、本音は宥和派だったのか、あるいは蘇我氏の勢力が強大で恣に政治ができないことを密かに憎んで宥和派を取り立てたのかわかりませんが、馬子の逆鱗に触れることをやらかします。『日本書紀』崇峻紀によると、崇峻天皇四年に、「冬十一月己卯朔壬午、差紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴囓連、葛城烏奈良臣、爲大將軍。率氏々臣連、爲裨將部隊、領二萬餘軍、出居筑紫。遣吉士金於新羅、遣吉士木蓮子於任那、問任那事」「(崇峻天皇の四年(西暦591年))冬十一月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍に任命した。臣、連それぞれは氏族を率いて副将や部隊とし、全部で二万人余りの軍となり、出陣して筑紫に下った。吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わして、任那のことを問うた」とあります。皆まで言う必要はありません。いきなり「倭國」と手を組んで軍を出してしまったのです。まさかの宥和派大勝利。馬子の面子丸つぶれです。激怒しない方がおかしいでしょう。しかしことは国の安全保障です。物部守屋らの打った手が正しかったわけですから、ぐっとこらえたでしょう。ところがその翌年冬十月、猪を狩って献上した人がいたのですが、その頭を落とされた猪を指さして「何時如斷此猪之頸、斷朕所嫌之人」「何時になったら、この猪の頭のように朕の嫌いな奴の頭を落とせるものやら」と暗に馬子を始末してやると宣う始末。まさか大王に手出しはできまいという油断があったのか、馬子を舐めていたのかわかりませんが、ここまで虚仮にされて黙っている馬子ではありません。また、放置すれば、自分ばかりでなく、蘇我氏という氏族そのものが族滅させられることは火を見るより明らかです。同じ年の十一月、馬子の配下、東漢直駒崇峻天皇は殺されてしまいます。こうして史上唯一、臣下に弑された天皇が生まれたわけです。(この項、2013年6月17日に追記)

    馬子の嫡男、蝦夷も父の敷いた対立=冷戦路線を守りました。だから、甘樫岡に天皇の宮を中心とした防衛施設を建設したのです。それは継体天皇の怨念と言ってもよいかもしれません。しかしそれではいつか、強大な「倭國」に蹂躙されることになるのではないか。ことにいったん手を取りながらまたその手を振り払ったのですから、その懸念は一層深まります。蘇我氏を憚り、表だった動きは見せませんでしたが、宥和派は、裏で連絡をとりあい対応を協議したでしょう。「倭國」も宥和派が主流になってくれた方が、いつ叛くか分からない対立=冷戦派よりましでしょうから、敢えて旧悪に囚われず、謀略の手を伸ばしたと思われます。

    蘇我氏は強大です。これに戦争をしかけるのは無謀というものです。したがって、現職の大臣であり、蘇我氏宗家の嫡男である蘇我入鹿を暗殺し、クーデターを起こすことを計画したのです。だから、中臣鎌足がここで登場するわけです。中臣氏物部氏と並んで宥和派でした。しかし、臣下で争っていても頭に頂く皇族がいなければ大義名分が立ちません。最初は軽皇子に目を付けましたが、その器なしとして見放し、次に中大兄皇子に目を付けました。『日本書紀』では二人で計画を練ったとありますが、暗殺によるクーデターとはいえ、その後豪族たちの支持がなければ、ただの殺人事件で終わってしまいます。宥和派による支持が既にあったと見てよいでしょう。

    そして「乙巳の変」が起きます。皇極天皇の四年(西暦645年)朝鮮三国の親善使節を受け入れる儀式があり、これに大臣である入鹿は出御しないわけにはいきません。そこを狙われ、非命に倒れました。入鹿は「私に何の罪があったというのだ。(この者たちを)お裁き下さい」と天皇に直訴したと言われています。しかしそれも虚しく、入鹿は殺されてしまったのです。これを聞いた蝦夷は、国のためと推進してきた倭國との対立=冷戦路線蘇我氏を太らせてきたとともに、諸豪族の不満をここまで募らせてきたのだと思い、その反発のすさまじさを感じて従容として死についたものと思われます。

    この入鹿の悲痛な叫びは決して専横をこととし、上宮王家を私怨で討ち滅ぼした人物の口から出てくる類のものではありません。

    しかし、変は成りました。中大兄皇子はこの時19歳。平安の頃ならともかく、当時は即位に難のある年でした。そこで軽皇子を立てたのです。

    その孝徳天皇は難波に出て、難波宮を営みました。奈良の山のから開けた海辺に出てきたのです。その理由は、これから倭國と宥和路線で接していくその第一段階の表明でありました。聖徳太子の前例にちなんで、皇太子が摂政をする体制を取り、実際の政務は皇太子に立てられた中大兄皇子が見ました。彼は倭國との関係改善に熱心に取り組んだでしょう。またこの路線に不満があると見られた皇族、有間皇子をためらうことなく謀殺しました。

    ここで中大兄皇子に天佑が下ります。西暦660年の百済の滅亡です。危機を憶えた倭國は旧悪などふっとんでしまい、日本國との関係を改善し、できれば同盟を結ぶことを考慮したでしょう。いや、同盟したと言ってよいと思います。なぜなら、倭が発出する軍に日本國からも軍を出したと見られるからです。宥和路線が完全に成功したのです。

    ところが、そうして軍を送り出してはみたものの、結果は大惨敗で、倭國は王(『日本書紀』で筑紫君薩夜麻と記されている人物)が連れ去られ、亡国となります。中大兄皇子にとっても驚天動地のできごとだったでしょう。「白村江の戦い」は、よく言われるように倭・百済連合軍が衆において負けていたわけではなく、むしろ新羅軍より大軍を繰り出したことがわかっています。それで大敗北を喫しているのですから、群臣の受けた衝撃もひとかたならぬものがあったはずです。中大兄皇子らが進めてきた宥和路線が意外な形で「日本國」に悪影響を及ぼすことになったわけのです。これは中大兄皇子の求心力を大きく低下させたでしょう。

    一方、いち早く敗報を耳にし、王が捕虜となったことを知った倭國は、ただちに皇子たちに伴をつけて避難させたと思われます。もちろん他にも避難した人は大勢居たでしょう。四国、吉備などに留まった人もいたでしょうが、身分のある人は同盟国「日本國」を頼ったと思われます。その避難した皇子の一人こそ、大海人皇子ではなかったでしょうか。大海人皇子の海人は「阿海」=「」で、それに「大」が付された名前です。九州王朝の正統後継者であることを示す、立派な名前であることがわかります。中大兄皇子も「大皇弟」という尊称を奉り、迎え入れることに何ら異議はなかったと思われます。そしてまさにこの後から大海人皇子が「大皇弟」として『日本書紀』に姿を見せるのです。

    大海人皇子、天武天皇は、生年が『日本書紀』に記されていません。他に記されていないのは、崇峻天皇だけです。崇峻天皇はともかく、「壬申の乱」を経て「皇親政治」で強権を発揮し、日本の律令制の土台を造った人で、なおかつ崩御してから『日本書紀』編纂までそれほど時間が経っていない人物の生年を書き忘れることなどありえるでしょうか。『日本書紀』は天武天皇に特別に二巻を費やしているにも関わらず。そういう不審の目で見ると、この人は『日本書紀』において、『天武天皇』紀以外で名前が出てこないことに気付きます。これだけ偉大な帝王の若年の際の事績が不明というのがいかに奇異なことであるかおわかり頂けるでしょうか。しかも一説には天智天皇より年長だったとあり、まさに謎の人物なのです。

    天武天皇らしき人は、『天智天皇』巻において、前振りもなく突然、大皇弟、東宮大皇弟として登場します。が、最期まで名前は書かれません。あるいは大海人皇子とは後に自称した名前でこの頃は別の名前だったのかも知れません。また、いつ立太子したのかも書かれていません。出自が「倭國」の皇子なら、「日本國」である大和朝廷の皇室関係の記録に生年月日が記されていなくても当たり前です。「倭國」から避難してきたのなら、大和朝廷で立太子の儀式などするはずもありません。

    つまり、それもこれも「倭國」の亡命皇子であったためです。中大兄皇子は当然、これを歓迎したと思われます。期せずして正統王朝の跡継ぎが転がり込んできたのです。中大兄皇子はこの皇子に非常に気を遣い、「大皇弟」という尊称を奉っただけでなく、娘を四人も娶せています。同母の弟であれば歳が離れていたとしてもこんな気の遣い方はしません。他人であるからこそ婚姻でその紐帯を緊密にする必要があったのです。しかも、いずれ子が産まれれば、名実共に正統王朝の血が大和朝廷に入ることになるのであり、それも歓迎すべきことです。一方大海人皇子も、身一つで逃げてきたのではないであろうにしろ、そこまで厚遇してくれる中大兄皇子に感謝したことでしょう。加えて、皇子やその取り巻きは「倭國」の先進的な政治形態や軍備の知識がありました。「白村江の戦い」で惨敗を喫した日本には課題が山積していました。倭國は滅亡していないものの、王が不在では滅んだも同然です。これまで対外交渉は「倭國」が中心となっていましたが、今後は独立してやらねばなりません。

    その布石としてただちに遣唐使を派遣しています。もちろんこれは「日本國」にやってきた唐使を送り返す便だったのですが、唐使に対して弁解これ勉めたでしょう。おそらくその甲斐あって、「日本國」にはさしたる咎もありませんでした。

    とはいえ、「乙巳の変」を起こしてまで推進した宥和路線で、とんでもない国難が降ってきたわけで、中大兄皇子の即位は当分群臣の支持を得られない情勢だったと思います。実際、斉明天皇亡き後、相当の期間を称制でしのいだのですから、抵抗が極めて強かったのでしょう。かといってこの国難に当たって他に皇位に就くべき皇子は他におらず、称制を続けるしかなかったのです。そこで、大海人皇子は厚遇に応えるため、離反しがちな豪族たち、特に地方の豪族に思い止まるよう説得に勉めたものと思われます。「大倭國」皇子の看板が効いたことは疑いありません。

    さらに、大海人皇子とその取り巻きの意見は、さすが先進国「倭國」と唸らせる施策も多かったのでしょう。そしてもはや海沿いに都するのは却って危険であり、内陸に下がるべきだと言ったのではないでしょうか。ところがここに障害が発生します。孝徳天皇その人が宮を移すことに反対したのです。なぜでしょうか。それは天皇と言っても名ばかりで中大兄皇子が諸事専断していたことに対する不満が爆発したのでしょうか。あるいは存在感を増す「倭國」皇子大海人皇子に危機感を抱いたのでしょうか。今となってはわかりません。中大兄皇子はそんな天皇を放置して、皇后、皇子たち、大皇弟や群臣を引き連れて西暦653年、近江宮へ移ってしまいました。

    中大兄皇子は、大海人皇子らの建言を受け入れ、飛鳥を中心に西国へ防衛網を構築していきます。「倭國」にも改めて防衛施設の建設が提起されたことでしょう。水城の造築はこの頃のこととされています。こうした大建築事業は従来の豪族任せのやり方では実現不可能です。各地から直接税を収拾し、その莫大な支出に当てなければとても間に合うものではありません。実際、税の徴収を示すものと思われる木簡はこの頃から出土し始めます。

    西暦668年、長年の称制に終止符を打ち、中大兄皇子は即位して、天智天皇となります。なぜこの年なのでしょうか。この年、第六次の遣唐使がありました。実際にはへ行っていないとも言われていますが、その前の遣唐使で来日したの使者、法聡がこれで帰国しています。この遣使は、送唐客使だったのです。つまり、「白村江の戦い」の事後処理について、漸く決着がつき、安堵することができたからだと思われます。そして周囲もそれを認めたので即位となったのでしょう。

    つまり、世に言う「大化の改新」はなかったにしても、継体天皇以来対立=冷戦路線を取っていた「日本國」が宥和路線に転換した画期、という意味では「改新」であったのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑰大化改新(前編)

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    古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。

    ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祭るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。

    乙巳の変」は、『日本書紀』によると、蘇我氏の専横を憎んだ中臣鎌足中大兄皇子が計画し、実行したことになっています。

    一般に蘇我氏の専横とされるのは、

    1. 蘇我馬子が崇峻天皇を弑したこと
      崇峻天皇は歴史上臣下に弑された唯一の天皇です。(この項、2013年6月17日に追加)
    2. 蘇我蝦夷が上宮王家(聖徳太子の一族)が勢力を持つことを嫌い、舒明天皇を擁立したこと。
      蝦夷山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてまで、田村皇子を即位させることを強行したと言われています。
    3. 舒明天皇が崩御した時も、皇后であった宝皇女=皇極天皇を即位させたこと。
      これも上と同じ動機とされています。
    4. 甘樫岡の上に豪邸を並べ、蝦夷の邸宅を「上の宮門」(うえのみかど)、入鹿の屋敷を「谷の宮門」(はざまのみかど)と人々の呼ばせたこと。
      宮門とは皇宮の門を指しますから僭上の沙汰とされています。
    5. 蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員したこと。
      聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議したと言われています。
    6. 蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部大臣となしたこと。
      次男を物部大臣としたのは、彼の母(入鹿らにすれば祖母)が物部守屋の妹であるという理由によります。
    7. 専横の究極として、上宮王家を滅ぼしたこと。

    が挙げられます。ところが、これらの問題は客観的に見ると以下のように解釈するのが自然となります。

    1. 後編で詳しく見ていきますが、これは政治問題での対立が根にあり、誅殺されそうになった馬子が先に手を打ったものと考えられます。自ら立てた天皇を弑逆するのは余程のことであり、その対立が族滅を引き起こしかねないと危惧したからこそ敢えて踏み切ったのが真相でしょう。(この項、2013年6月17日に追加)
    2. 舒明天皇敏達天皇の息子であり、皇位の継承に無理がありません。いくら聖徳太子が摂政皇太子であったとはいえ、山背大兄王が継ぐ方がよほど問題であったでしょう。蘇我蝦夷にとってはその同母の妹が山背大兄王の母であったのであり、むしろ蘇我氏に不利な皇子を推したことはその裁定が公平であったことを示しています。
    3. 皇后が天皇に即位するのは推古女帝の前例があり、舒明天皇の子供が年少であったこともあり、むしろ自然であったでしょう。この場合、皇子たちが成長するのを待って譲位する、中継ぎの天皇であったと思われます。天皇になる条件は天皇の血に近しいことですから、舒明天皇の皇子らと山背大兄王では勝負がはっきりしていました。
    4. これは、2005年に甘樫岡の発掘調査が行われた結果、「谷の宮門」で兵舎と武器庫の存在が確認されています。また蘇我蝦夷の邸宅(「上の宮門」)の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置いたのだとする説が出ています。
    5. これについては、この土木工事が本当は何であったのかが問題になります。本当に陵墓を造ったのなら、それらしい遺跡が残っていてもよさそうなものですが、そんなものがあったという記録は残っていません。逆に上で挙げられた説の通り、飛鳥板葺宮の防御力を高めるための工事であった可能性が高いのです。
    6. 蘇我氏はそもそも「冠位十二階」の外にあって冠を授ける側であり、実はこの行為には何も問題がないのです。蝦夷の母は物部氏の出身であり、蝦夷自身物部氏の母の実家で育ったのですから、次男に物部を継がせても当然と言えます。

    おやおや、蘇我氏の専横と言われていたことに実は実態がない様子が見られますね。これは『日本書紀』が後からこじつけた理由である疑いが極めて濃厚です。では、最後の上宮王家を滅ぼしたという点についてはどうでしょうか。

    日本書紀』には、皇極天皇の二年(西暦645年)、冬十一月、蘇我入鹿の軍勢が斑鳩の宮を急襲したと伝えています。少し長いのですが、この事変の様子を引用します。

    十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮。灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰。其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。有人遙見上宮王等於山中。還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼。速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。

    十一月丙子の朝、蘇我臣入鹿小徳の巨勢德太大仁の土師娑婆を遣わせて、斑鳩山背大兄王らを襲った。ある本では巨勢德太と倭馬飼首を將軍としたという。ここにおいて、奴三成と舎人が數十人出てきて戦いを挑んだ。土師娑婆は矢に当たって死んだ。軍衆はこれを恐れて退いた。軍の中では、一人当千とは三成のことを言うのだと言い合った。山背大兄王は、しきりに馬の骨を取って奥座敷に投げ置いていたが、遂にその妃や子供らを率いて逃げ出すことに成功し、膽駒山に隠れた。三輪文屋君、舍人の田目連及其女、菟田諸石、伊勢阿部堅經らが従うばかりだったとか。巨勢の臣らは斑鳩の宮を焼いた。灰の中に骨を見つけ、誤って王が死んだと言い、軍を解散して退去した。このおかげで山背大兄王らは四、五日ほど山に留まることができたが、その間飲まず食わずであった。三輪文屋君は御前に伺候して「深草屯倉に移り、馬をかって東国へ赴き乳部を本拠として軍を興し、それから帰ってきて戦いましょう。必勝は間違いありません」と強く勧めた。山背大兄王らは「卿の言う通りにすれば必勝は疑いないだろう。ただ私は十年間百姓を軍務で煩わせないと誓願したのだ。この身のために万民を煩わせられるだろうか。また後世において私のために父母を失ったと民に言わせたくないのだ。この戦いに勝ったとて人より優れていると言えるだろうか。身を損なっても国を固めてこそ、人より優れた者と言えないだろうか。
    山中に遠くから上宮王からを見た人がいた。蘇我臣入鹿のもとに戻って報告した。入鹿はこれを聞いて大変懼れた。軍を速やかに発し、高向臣國押に王の所在を伝え、ただちに山へ向かい山背大兄王らを捉えるように言った。國押は「天皇の宮をしっかり守り、決して外へは出ますまい」と言って断った。そこで入鹿は将として自ら出向くことにした。この時、古人大兄皇子が息せき切ってやってきて「どこへ向かうのか」と問うた。入鹿は詳しく説明した。古人皇子は「ネズミは穴にこもって生きている。穴を失えば死ぬしかない」入鹿はこれを聞いて自ら行くのを止めた。軍将らを遣わし、膽駒で山背大兄王らを探させたが、探し出せなかった。ここにおいて山背大兄王らは自ら山を下り斑鳩寺に入った。軍将らはすぐさま兵で寺を囲んだ。ここで山背大兄王三輪文屋君を使者にして軍将らに「私が兵を興して入鹿を討てば必ず勝つことは間違いない。しかし一身のために百姓を傷つけようとは思わない。そのため、私の身は入鹿にくれてやろう」と伝えさせた。ここで子弟や妃妾らと皆首をくくって共に死んだ。この時五色の幡蓋が現れ、様々な伎樂が鳴り、空を照らし灼いて、寺に臨垂した。人々はこれを仰ぎ見て驚き、遂には入鹿に指示を請うた。その幡蓋などは変じて黒雲となった。これより入鹿は目が見えなくなってしまった。蘇我大臣蝦夷は山背大兄王らがみな入鹿によって死に至らしめられたことを聞いて、口を極めて罵った「ああ、入鹿め。極めて愚かで疑り深く、専行暴悪であり、お前の命も長くはないぞ」

    日本書紀』が「聖徳太子」を神格化しようとしていることは改めて述べるまでもありません。当然その筆は子供たちにも及びます。先に述べたとおり、山背大兄王の母親は蘇我蝦夷の同母妹です。従って、上宮王家は蘇我宗家の後見がありました。つまり、蝦夷入鹿には身内に近く、山背大兄王らが大人しくしている分には敢えて命を付け狙う理由がありません。ところが逆に、山背大兄王蘇我氏を付け狙う理由ならあるのです。

    • 自分を後見していた蘇我氏内の有力者、境部摩理勢が殺され、舒明天皇が即位したこと。
      死んでいなければ当然父は皇位を履んでいたはずである。従って自分の即位が当然のところを邪魔されたと山背大兄王が恨んでも無理はありません。
    • 入鹿古人大兄皇子の擁立をはかり、その中継ぎの天皇として皇極天皇を立てたこと。
      わざわざ女帝を立てなくても自分がいるではないかと思ったとしても当然でしょう。

    ここで、最初の戦いを見てみると、入鹿側の将、土師娑婆は矢に当たって死んでいます。「土師娑婆連中箭而死軍衆恐退軍中之人相謂之曰一人當千謂三成歟」あまり攻める側の雰囲気ではありません。どちらかと言うと守る側の状況を説明しているようでもあります。しかも戦況不利と見るや山背大兄王は馬の骨を宮の建物に放り込んで、死を偽装しようとしています。急襲されてやむなく防衛し、隙を突いて脱出する…人の行動にしては冷静が過ぎると思うのですが。

    しかも再起を期せば必ず勝てると臣下が強く勧めるにも関わらず、百姓を傷つけたくないという理由で逃亡するかと思いきや、斑鳩寺へ入るという自殺行為を行います。まさしく自殺するのですが、この行動は全く意味不明です。むしろ、事を挙げておきながら、意外にも同調するものが少なくて事態を諦めてしまった人のようです。あるいは斑鳩寺を本陣として最後の抵抗を試みたとも見て取れます。

    つまり、山背大兄王が謀反を起こし、天皇位に就こうとしたのを入鹿が阻止したのだと考えることは充分可能ですし、彼らが族滅させられたのもそのためだったと考えれば充分納得できるのです。しかしだからと言って、山背大兄王らに同情する豪族が全くいなかったかと言えばそんなことはなかったのでしょう。それでも、生かして捉えておけば事態の処理のしようもあったのに、追い詰めて死なせてしまってはどうしようもありません。そういった豪族の目にはまさしく蘇我氏の横暴と移ったでしょうし、その不満は鬱屈していつか爆発します。蝦夷は、入鹿が政治的に悪手を打った点を責めたのです。

    ここで改めて考えてみて下さい。山背大兄王はあの「聖徳太子」の嫡男です。その嫡男が悲劇的な死を遂げたなら、丁重に葬り、あるいは少なくともその死処となった斑鳩寺で菩提を弔うことくらいはするでしょう。ですが、山背大兄王の墓所がどこかは全く記録がないのです。死に場所となった斑鳩寺にも伝えられていません。しかも斑鳩寺が菩提を弔っているのは「聖徳太子」だけです。

    さらに、山背大兄王を襲撃したとされる巨勢徳太ですが、大化五年(西暦650年)四月、なんと左大臣に任命されています。大逆甚だしと言われた入鹿の命令に従って、罪もない山背大兄王らを殺した人が何故に? 「聖徳太子の孫・弓削王」を殺害したとされる斑鳩寺の狛大法師は、大化元年八月、「十師」(とたりののりのし、仏教界の最高指導層)の筆頭に任じられています。びっくりです。襲撃後すぐに入鹿によって賞されたというならまだわかりますが、その入鹿を天下の大逆として暗殺した「乙巳の変」の後にこれが行われているのです。逆に、山背大兄王に最期まで付き従った忠臣、三輪文屋という人物について、この事変の記事以外には、どの文献にも記録が残されていないのです。これを以てしても、山背大兄王事変が『日本書紀』の言う通りに入鹿の専横を表すものなどではなく、むしろ、山背大兄王側が暴発した結果であることがよくわかる叙任ではありませんか。

    しかし『日本書紀』にとって「聖徳太子」はスーパースターでなくてなりません。その子供が謀反を起こしたなど以ての外です。ゆえに攻守が逆転されて、入鹿が襲って殺してしまったことにしたのです。しかし本当は叛徒ですから、墓所など当然なく、ないものは書きようがないので、書かれていないのです。また逆賊ですから斑鳩寺も菩提を弔うなどということをしていないのです。

    これは重大です。蘇我氏が強大であったことは事実でしょうが、「乙巳の変」を正当化する専横という事実はなかったのです。ではなぜ、にも関わらず中臣鎌足中大兄皇子は「乙巳の変」を敢行したのでしょうか。それはこの頃の国内や国外の情勢を考える必要があります。

    蘇我氏の邸宅や氏寺の飛鳥寺は、皇宮を外敵から守るように配置されていました。この外敵とは、建国間もない「」を意識したものであるとされていますが、いかに日本が大陸に比べて小さいとはいえ、「」に備えるにしては少々迂遠な設備です。大陸からの侵攻を防ぐのであればまず九州を固めねばならないでしょう。ところが、『日本書紀』には—天皇のおわす宮の周囲を固めるのはよいとしても—日本の玄関口である九州の防備を固めたとは書かれていないのです。むしろ、宮の周囲の防備は国内に敵がいてその急襲を懼れたためではないでしょうか。当時、日本には二つの国がありました。「倭國」と「日本國」です。大和朝廷はもちろん「日本國」です。「倭國」と「日本國」は継体天皇による簒奪、「磐井の乱」以来、対立していたと見なすのが自然です。するとこの防備も「倭國」に備えてものと考えるべきでしょう。九州の防備について書かれていないのは、もちろんそれが「倭國」に属する問題だったからです。暗殺という非常手段に訴えてでも主導権を握る必要がある重要な課題とは、この「倭國」を巡る問題だったのではないでしょうか。

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