• 日本の古代史を考える—⑯九州王朝について補足

      0 comments

    九州王朝について補足しておきます。

    1. 北九州は大陸、朝鮮半島に対する表玄関である。

      これは地図を見れば明らかですね。縄文時代より大陸、朝鮮半島から渡来人/帰化人がやってきて住み着いたとすれば、

      のいずれかのルートで到来したことは明白です。常に先進文明を真っ先に受容する地に日本最初の王権が登場したとして何の不思議があるでしょう。奈良の田舎に誕生したとする現在の学説の方がよほど奇異です。

    2. 古事記』『日本書紀』に九州の地名が頻出する。

      • ニニギノ命が天下った先は、「竺紫日向之高千穗」です。筑紫なんですね。しかもその地を愛でて、
        「於是詔之、此地者、向韓國、眞來通笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也」
        と言うわけです。筑紫は韓国に面しているのだから当然ですが、朝日も夕日も照り映えるとあるところから、海岸に近いところだったことがわかります。で、そこに宮を建てて住んだわけです。
      • 次に神武天皇が東征に当たり、最初に移動したのは、豊後宇佐です。次に筑前の岡田の宮に一年います。何をしていたのでしょうね。
      • 仲哀天皇は「穴門之豐浦宮」と「筑紫訶志比宮」と二つの宮を営んでいます。なぜ大和ではなくそんなところで宮を営んだのでしょう。熊襲の国を討とうとしたということですが、天皇自ら?
      • 應神天皇は日向の髪長姫を娶っています。なぜ大和の天皇がそんな遠いところの姫を娶ったんでしょう。
      • 以上は『古事記』からですが、『日本書紀』にはもっと九州のことが出てきます。神代が特徴的ですが、他にも景行天皇の九州巡幸がありますね。これも熊襲を討とうとしたとありますが、天皇自ら?
      • 結論:近畿天皇王朝の祖が九州に住み、その孫である神武天皇も九州から出発して東征している。九州に強大な権力があったことが前提として予想される。
      • 歴史上、重要な神託は宇佐八幡宮よりもたらされている。

        道鏡事件』に限らず、古代において宇佐八幡宮が重視されていた。天照大神が祭られている伊勢神宮には明治に入るまで参拝どころか勅使が送られた形跡もない。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑮磐井の乱

      0 comments

    重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。

    古事記継体天皇の条に、

    此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。

    筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。

    と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、

    廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲往任那、爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前、遂戰而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滯。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。

    二十一年(西暦527年)夏六月壬辰朔甲午の日、近江の毛野臣が六万人の軍を率いて任那に渡ろうとした。新羅が滅ぼした南加羅・喙己呑を任那にあわせて再興しようとしたのである。ここにおいて筑紫國造磐井は叛逆を密かに計画したが、なお数年はためらっていた。反乱の成功が期し難いことを考え、いつも隙を覗っていた。新羅がこれを知り、密かに磐井のところへ賄賂を送り、毛野臣軍を防がせようとした。ここに至り、磐井火國豐國の二国を襲って根城とし、職を修めさせず、外は海路で待ち受けて、高麗百濟新羅任那等の国の貢職船を誘致し、内は毛野臣軍が帰国しようとするのを妨げ、乱語揚言して曰く「今は使者とされているが、昔は自分と伴にして肩を撫でさすり肘を触れあわせ、同じ食器で同じものを食べたのだ。どうして突然使者などというものにして、はしためのように御前にぬかづかせるのだ。戦ってでも受けはしない。そちらが私を軽んじるなら、自分で尊くなるだけだ」ここにおいて毛野臣は、磐井の軍と対峙して踏みとどまらざるを得なかった。天皇は詔して大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人らに曰く「筑紫の磐井が反乱を起こし、西戎の地にいる。討伐の大将には誰を任命すればよかろう」大伴大連らは一致して「軍事において正直で仁勇を備えている者で、麁鹿火の右に立つものはいません」天皇は「よろしい」と許可した。

    と伝えています。この内乱を時の朝廷がいかに重視したかは、続いて述べられる継体天皇の詔にも現れています。曰く

    大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。

    大将を民の司に命ず。社稷の存亡はここにあるのだ。勉めよ。恭しく天罰を行え。天皇は親しく斧鉞をとり、大連に授けて曰く「長門の東は朕がこれ支配する。筑紫の西は汝がこれ支配せよ。賞罰は専断せよ。いちいち奏上する必要はない。

    さて、天皇が「社稷の存亡これにあり」と言った戦いは、かつてありませんでしたし、この後もありません。かつて吉備氏が反乱を起こした時も、そのような大げさな詔が出された形跡がありません。ましてや、遠く九州の片田舎にある反乱を鎮圧するには、過剰なくらい大げさな表現です。この乱が単に大規模であったというだけでなく、ただ事ならぬ意味合いを持っていることは間違いありません。

    日本書紀』によると、継体天皇は大和入りに二十年をかけており、前年に「磐余玉穗」に宮を構えたばかりです。政権が安定していなかったと言うこともでき、ここで反乱の鎮定に失敗すれば、政権が土台からひっくり返される恐れがあったのかも知れません。しかし、継体王朝は、それまで続いていた崇神王朝が武烈天皇で断絶したため、遠縁の継体天皇を大和の豪族が迎えて興した新王朝であることが、今では定説となっています。大方の豪族の支持を得ることができたからこそ、大和入りもできたのでしょうし、だからこそ、反乱の鎮定に大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人といった大豪族を派遣できたのでしょう。それを考えると、政権を脅かしたという定説は素直に肯んじることができません。「社稷の存亡」ということそのものがありえないのです。さらに異様なのは、麁鹿火に「九州はお前が支配しろ」と命じた言葉です。当時、大和政権が全国支配していたとしても(関東以北は蝦夷の支配圏)、政権が支配する領土の半分をくれてやるに等しい言葉を、単なる内乱の鎮圧にあたって述べることができるでしょうか。しかも二十年かかってやっと大和入りした継体が、です。継体の大和入りが二十年かかったのは、豪族間で意見の不一致があったからだとする説が有力なようですが、それならなおさらその豪族の勢力を強化するようなことを継体が敢えて行うなど、常識的に考えてありえません。逆に、それだけの報償をぶら下げないと豪族を動かせなかったのだとも言えますが、大陸との交渉の要である筑紫を押さえられると困るのは、他の豪族も同じであって、敢えて巨大なエサをぶら下げる必要がどこにあったのでしょう。

    ところで、「磐井の乱」に触れているのは『記紀』だけではありません。『釈日本紀』に引用された『筑紫風土記』に次の一文があります。

    古老伝えて云う、雄大迩おほどの天皇の世に当り、筑志の君磐井。豪強暴虐、皇風にしたがわず。生平の時、あらかじめ、此の墓を造る。にわかにして官軍動発し、襲わんと欲するの間、いきおいの勝たざるを知り、ひとみずからら豊前の国、上膳かみつけあがたのがれて、南山峻嶺のくまに終る。ここおいて官軍追尋してあとを失い、士、怒り未だまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ちとしき。

    生前に墓を作ったのが無礼だったのでしょうか。「俄かにして」とあるので、突然官軍が襲ってきたことになります。『日本書紀』とは書きぶりが異なり、同情的でもあります。王権に抵抗したことが後に同情を生んだのだという論者もいますが、それは主客転倒というもので、もともと磐井の君に同情的だったからこそ、このような内容が語り継がれたというものです。あれあれ、何か怪しいですね。内乱があったことは確かでしょうが、これは『日本書紀』の記述を鵜呑みにはできないようです。

    ところで、九州には「キミ」を持つ豪族が多くいたことがわかっています。それらの豪族を束ねる存在がいたとしたら、何と呼ぶのが相応しいでしょう。そうですね。「オオキミ」と普通は呼びますね。「キミ」は天皇の皇子たちに与えられたです。なぜ九州にそのを持つ豪族がたくさんいたのでしょう。答えは自ずから明らかです。九州に「オオキミ」がいて、その子孫が九州内の各所に豪族として定着したからですね。九州に王朝があったことは、中国正史の倭人、倭国に関する記録から明らかになっています。ところで、継体天皇の二十一年は西暦527年に比定されています。ということは、即位が西暦507年になるのですが、そのあたりに何かありませんでしたか? はい。倭王武が「」に朝貢して「征東大将軍」の官位を授けて貰ったのが、西暦502年で、そのすぐ前です。ところがその一回きりで朝貢が途絶えています。あれほど官位を授けられることに熱心だった王朝にしては何か変です。「」は西暦557年まで続きますから、物理的に朝貢できないという事態ではありません。間違いなく何かそれどころではないことが起きたことを示しています。そう言う目で「磐井の乱」を見てみると、九州王朝の主を乾坤一擲、一か八かの大勝負で継体軍が強襲したと解することができます。つまり、これは継体による九州王朝の「簒奪」なのです。だからこそ「社稷の存亡これにあり」と継体が檄を飛ばし、「筑紫の西は汝が支配せよ」と剛毅なことを言ったのも、天下を取るにあたり、人心を収攬する必要があったからでしょう。そんな大軍で攻め寄せられれば、長年の征戦に疲れていた九州「オオキミ」王朝はひとたまりもなかったと思われます。ところが、簒奪があったにしては、後の『隋書』にも明らかなとおり、九州王朝はその後も存続し、に朝貢し、答礼使である裴世清を受け入れ、オオキミ自ら会っています。これはどう理解したらよいのでしょう。

    これは『古事記』の原文にあたればすぐわかります。現代語訳は、枕詞のように宮のあった地名に「大和の」とつけていますが、原文にはそんな言葉はありません。つまり、『古事記』には大和に朝廷があったことなど書かれていないのです。書かれていないことを書かれているかのように説明することを「改竄」と言います。歴史学者はこれを何と説明するのでしょうね。例によって江戸時代からの伝統とか持ち出すんでしょうか。というか、従来の学説の拠ってきたるところは、まさにその「江戸時代」から学者がそのように唱えてきたからでしかなく、何か科学的な根拠があってのことではないのです。ということで、説明が済んでしまいましたね。あるいは『古事記』に従うと、継体天皇は西暦527年に没したことになりますから、国内の鎮定を終えて宮を定めると、すぐに死んだことになります。「磐井の乱」の始末が片付かない間に死んだのかも知れません。そうなると、九州王朝ゆかりの王族が立つのは自然な話です。簒奪を目論んだ大和朝廷の王は死に、再び正当な九州王朝のオオキミが立てられたでしょう。加えて『日本書紀』では今は伝わっていない「百済本記」による説として「天皇と皇太子が同時に亡くなった」という風聞が百済にあったことを述べています。しかし、継体天皇の子供は三人とも皇位を履んでおり、これが継体天皇とその皇子を指すとは考えられません。あり得るのは筑紫の君磐井とその嫡子を指して述べた文であることです。

    継体王朝が正当なる九州王朝を簒奪したのであれば、それ故、朝貢を続けられなかったことが肯けます。また、いくら磐井の君を追ったからといって、九州内の豪族がすぐに服属したとは思えません。簒奪した王権を安定させるには、もちろん様々な懐柔や重ねての討伐もあったでしょう。それが継体の「二十年間」だったのではないでしょうか。それを馬鹿正直に書くわけにはいかなかったので、哀れ継体は「二十年間」も磐余の宮へ落ち着くことができずに、放浪の天子にされてしまったというわけです。そもそも中国の正史や朝鮮の『三国史記』を信用すれば、五世紀から六世紀の初頭まで外征や国内の征討に王権は忙殺されており、大変な時期であったわけですが、『記紀』にはそのことが全く触れられていません。むしろ頭に頂くべき天皇が二十年も宮が定まらずうろうろしている有様ですから、そんなことができようはずもありません。となれば、反乱があったという話もひどくうろんな話になります。『古事記』が簡略に「殺石井也」と片付けているのも、無視するには重大すぎる簒奪の失敗を糊塗するためであったかも知れません。むしろ、『日本書紀』の方が文飾を試みようとして却って真実の一端を表しているようにも思えます。「外邀海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」とあるのは、これらの国を従えていたのは九州王朝ですから、筑紫に船が入るのは当たり前のことです。「內遮遣任那毛野臣軍」とあるのは、突然軍が攻めてきたらこれに対して防衛するのも当然のことです。今まで手厚く遇してきた臣下あるいは分家が突然牙を向いて自分にひれ伏せと言ってくれば、激怒して当たり前です。まさしく飼い犬に手を噛まれたと思ったでしょう。

    いずれにせよ、継体天皇の死を以て簒奪の試みは頓挫したと言えるでしょう。しかし、九州王朝にも少なからぬダメージを与えたはずです。昨日手厚くもてなした者も今日は叛逆する。後継者はその無情をかみしめたことでしょう。『隋書』では倭に仏教が伝来したことが書かれていますが、「多利思北孤」も篤く帰依していたことが「聞海西菩薩天子重興佛法」という言葉や仏僧五十人を遣隋使に随行させたことでもわかります。

    それにしても、なぜ継体天皇は、九州王朝の簒奪という暴挙に出たのでしょう。継体天皇応神天皇五世の孫ということになっていますが、実はこの辺り『日本書紀』でも系図が失われていて、はっきりしたことはわかっていません。大和朝廷の豪族が推戴したのですから、どこの誰ともわからないような係累ではないでしょうが、遠い血であったことは確かでしょう。従って王権も制限され、思うように統治ができなかったものと推察されます。ここで王権を強化するには、と考えを巡らし、本家本元の王朝、九州王朝を奪うことで王権を強化しようと考えたのではないでしょうか。おそらく勇名轟く倭王武は既に崩じていて九州王朝も動揺していたのでしょう。その隙を突いたと考えられます。ところが豈図らんや。抵抗が強固で鎮撫することがなかなかできず、そのうちに没してしまったものと考えられます。

    さてそうすると、いつ頃日本の王権が大和朝廷に移ったのかという疑問が生じます。この疑問には『舊唐書』がヒントを出してくれています。その高宗本紀に、西暦654年に倭国が朝貢した記事があり、それ以降、倭は朝貢していません。その頃あった日本の大変というと、「大化の改新」とそれに続く「壬申の乱」です。なぜ新興豪族蘇我氏を滅ぼしただけの政変が「大化の改新」などと仰々しく言われるのか。なぜ皇太弟であった大海人皇子が乱を起こさなくてはならなかったのか。ひとつ歴史学者に明快な説明を願いたいところです。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑥宋書夷蠻伝倭國条

      0 comments

    晋書』は、三国鼎立時代を終わらせた「」の正史で、西暦265年から420年までの出来事が収められている。ただし、倭人条は、泰始元年(西暦265年)の記事で終わっており、次に倭の名前が見えるのは安帝の義煕九年(西暦413年)であるため、四世紀の日本については何も情報がない。本稿で取り上げる『宋書』は、南北朝時代の「」(平清盛日宋貿易を行った「」とは時代が異なる国)の正史で、南斉武帝の命令で、沈約によって編まれた。西暦420年から479年までの出来事が記されている。かの有名な「倭の五王」が登場するのであるが、当然記録が五世紀に入ってからなので、四世紀がまるまる空白として残る結果となった。いわゆる「空白の四世紀」である。

    倭國在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

    倭國は高麗の東南の海中にあり、代々朝貢してきていた。高祖永初二年(西暦421年)、詔して曰く「倭の讚は万里を越えて朝貢してきた。遠来の忠誠をよろしくはかり、官職、答礼の品を賜うべし」太祖元嘉二年(西暦425年)、讚はまた司馬の曹達を遣わし、表を奉じて、様々なものを献上した。

    倭王讚が朝貢してきたことを示す記事です。讚は中華風名称であり、本名はまた別にあったはずですが、伝わっていません。司馬曹達は人名かも知れませんが、委細不明です。

    讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。

    讚が死に、弟の珍が倭王になって、使いを遣わし朝貢してきた。自ら、使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王と称していた。上表して正式な任官を求め、詔して安東將軍・倭國王に任命した。珍はまた、倭隋等十三人に号して平西・征虜・冠軍・輔國將軍とする正式な任命を求めた。詔してすべて聞き届けた。元嘉二十年(西暦443年)、倭國王濟が使いを遣わし、朝献してきた。また安東將軍・倭國王とした。元嘉二十八年(西暦451年)、もと願っていたように、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍を加えた。併せて都に上ってきていた二十三人を将軍や軍太守に任命した。

    讚が死んで、弟の珍が倭王になって朝貢してきた記事です。冊封を受けていますが、いつのことかわかりません。そして、元嘉二十年(西暦443年)になって倭王濟が朝貢してきたと続きます。珍が死んで後を継いだと書いていないところが意味深です。簒奪があったのかも知れません。当然上表文があったのでしょうが、内容が伝わっていないので何があったか不明のままです。ウィキペディアで検索するとわかりますが、「使持節」や「安東將軍」はいっぱいいます。倭の珍も濟もその中の一人でしかありません。割と安直に任命された名誉号のようです。日本において平安時代、地方の豪族に外従五位下を授けたようなものかも知れません。ただ、元嘉二十八年(西暦451年)に珍が自称し、任命を希望していた「使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王」とよくよく見るとちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」に濟は任命されています。何もないのにそんな任命が行われるはずがないので、軍事的に高句麗を圧倒した可能性があります。

    濟死、世子興遣使貢獻。世祖大明六年、詔曰「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王」

    濟が死に、世子の興が使いを遣わし朝貢してきた。世祖大明六年(西暦462年)、詔して曰く「倭王の世子、興、累代忠を捧げ、外界に藩国を構え、王化を受けてその国境を安寧にし、うやうやしく貢職を勤めてきた。新たな嗣子がその勤めを継ぐに当たり、よろしく爵号を授け、安東將軍・倭國王とすべし」

    さて、その濟も死に、息子の興が朝貢してきます。ひょっとして興も「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」を申請したのかも知れません。

    興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 。

    興が死に、弟の武が倭王に立った。自ら使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王を称した。

    興が死んで、弟の武が倭王になりました。当然朝貢したので、記事になっているわけで、その上表文の中で、珍が授けられた「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」とちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓國諸軍事・安東將軍」を自称しています。書かれていませんが、当然上表文の中で任命を求めたでしょう。もちろんこの時、その希望が叶えれなかったことは続く段落でわかります。

    ところで、ここまででいわゆる「倭の五王」が出尽くしたわけですが、讚と珍が兄弟であることは明らかです。濟と興が親子で、興と武が兄弟なのも明らかです。この続柄は当然上表文に記載されていたものを写したものですから、倭王が嘘を書かない限り、これを事実としない訳にはいきません。この「倭の五王」をどの天皇に比定するかで歴史学者は喧々囂々議論をしてるわけですが、はっきり言って、全員眉唾ものです。そもそも武を雄略天皇に比定するのは共通するみたいですが、それも雄略天皇の名前に「ワカタケル」と入っているから、「武」っぽいじゃん? というだけのことで、全然歴史的事実でも何でもないのです。そもそも雄略が西暦の何年頃に帝位を履んだかも明らかになっていません。即位と西暦が対応するのは、推古天皇からとされていますが、それは推古15年に遣隋使を送ったと『日本書紀』にある記事と、『隋書』俀国伝の「大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢」の記事が一致すると考えられているからです。しかしそもそもその比定が全く根拠がなく、思い込みに等しいものでしかありません。それ故、推古天皇を基準としたそれより過去の天皇の在位期間など全くあてにならないのです。何より「記紀」の雄略紀には、朝貢したとか、何某の官職に任命されたとかそんな話が出てきません。それがどれほどありえないか、続きの段落にある上表文を読んで頂ければ明白です。歴史学といってもそんなレベルなんですよ、皆さん。私どもはそういった方々に税金だの学費だのを投入して養っているわけです。知的レベルが江戸時代の国士から進化してないんじゃないでしょうか。

    雄略の実在を担保する物証として、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣があります。これには銘文が象嵌してあり、その裏の銘文「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」の「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と呼んで、雄略の本名にある「ワカタケル」と同じだとして、これは雄略のことに間違いなしとなっているのですが、これを五世紀の音で読むと、「獲」は「カク、カ、カイ」、「加」は「カ」、「多」は「タ、ダ」、「支」は「シ」、「鹵」は、「ル、ロ」…全然ワカタケルになりません。あるいは国内産ですので、古文的な読み方があるんでしょうか。「支」をキと読む例があるのを知っていますが、「獲」を「ワ」と読む例は寡聞にして知りません。どなたかご教示頂ければ幸いです。

    順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見吞、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

    順帝の昇明二年(西暦478年)、遣使が至り、上表文に曰く「封国(倭国)は、帝都から遠く離れており、藩外に国を構えております。父祖代々自ら鎧兜に身に着け、山川を跋渉し、戦いの毎日で気の休まることはありませんでした。そうして、東に毛人を制圧すること五十五国、西は衆夷を服従させること六十六国、海を渡って海北を平定すること九十五国となりました。王道は寛大で平和であり、首邑から遠く離れたところまで国土を広げました。累代、朝廷を尊び、歳を違えることもありませんでした。私は愚か者ではありますが、かたじけなくも亡き父兄がやり残したことを継ぎ、治めているところで軍を鍛え、崇め帰すこと天を極め、道を百済に通して、船舶も整えました。ところが、高句麗は無道にも領土を併合しようと企て、百済の国境に侵入してきては略奪し、殺戮を行って已みません。朝貢も毎回滞り、良風を得て船出することもできなくなり、では陸路を進もうとしても、ある時はたどり着けますが、ある時はたどり着けないのです。私の亡父濟は、仇敵が帝都に通じる道を塞いだのを大変怒りました。弓兵百万が正義の声に感激してまさに大挙しようとしましたが、俄に父と兄は死んでしまいました。成就間近であった武勲も今ひと息のところで失敗に終わってしまったのです。憎しみを抱いても諒闇であり、兵が動きません。そのために休息を余儀なくされ、いまだに勝つことができておりません。今に至り、兵を鍛え閲兵の儀式を行い、亡き父兄の志を申し上げようと思います。義士や勇士、文武の手柄を立てるには、たとえ目前で白刃が交わされようとも後ろへ退きません。もし、帝徳によって天地を覆い、この強敵を滅ぼし、国難をよく鎮めることができましたら、代々続けた忠功を替えることはありません。ひそかに開府儀同三司を自ら請い、我が祖先の威光にも授けて頂くことを請願いたし、以て忠勤に勤めます」詔して、武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

    原文は四六駢儷体で格調高い名文です。装飾過剰なんですが、まあそういう形式だということでご納得頂くしかないかと。要は代々貢職を怠らず、周辺諸国を平らげ、中国の威光を広めてきたのに、高句麗が邪な意図で百済を攻めている。これを滅ぼしたいので、ついては官職を頂きたい。ってことです。それに対して「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王」が授けられています。確かに望んだ官職とは異なりますが、先祖も授けられた名誉ある官職ですし、正式に冊封されたのだから、「記紀」にそれが記されていないのは、おかしな話なのです。

    ここで『日本書紀』の編纂目的を思い起こして下さい。同書は歴とした漢文で書かれ、日本が、皇統一系古来より続く有力国であることを内外に示すために編纂されました。当然、唐の朝廷にも献上されています。自分たちが古来より続く名族であることを示すのに、自分の国の中のことだけを綿々と書くより、いついつの朝廷に遣使して冊封された。上表文は然々である。と他でもない中華の国を引き合いに出す方が相手にもわかりやすく、かつ訴求力があるというものです。なのに書かれていない。つまり、「倭の五王」は近畿天皇王朝と関係がなく、もそれを知っていたため、『日本書紀』にも記しようがなかったと考えるのが論理的な判断というものです。うがった見方をすれば、古来より続く「倭」または「俀」という王朝が滅んでしまい(あるいは滅ぼしたので)、代わって近畿天皇王朝が日本の支配者となったことをに納得させるために、自分たちが「倭」(「俀」)に匹敵する古くから続く王朝であることを示す目的があったとも言えます。つまり、それだからこそ、「倭」(「俀」)の冊封のことなどうかつに書き入れることができなかったと。

    さらに感のよい方なら「遣唐使」が国書を持参しない慣例であったことを思い起こすと思います。つまり、日本は上表文を呈しない習慣をに認めさせていたのです。これは、倭(俀)と日本が連続していると考えると大変奇妙な点で、それまで累代形式通り朝貢しては表を奉じていたのに、遣唐使にあたってはそれをしなくなる。が表を呈しなくてもよいと自ら言い出すはずはないので、日本がごり押ししたと考えるのが妥当です。なぜそんなの面目を失するような波風を立たせるごり押しをしたのか、できたのか。これに対して誰も論理的な回答を出していません。そして、この不連続性もまた、倭(俀)と日本が別の王朝であることを示しています。

    それにしても、倭王武は祖先の功績として「東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」を誇っています。南がありませんね? そう、南がないのです。東征の毛人が「蝦夷」であることは言うまでもありません。ただし、これを関東、東北ととるのは即断というものです。ここは慎重にいきましょう。西の衆夷は置いておくとして、海北とあるのは明らかに朝鮮半島へ侵攻したことを意味しています。それを妨げたのが高句麗なわけですね。さて、これを近畿天皇王朝の立場で考えると、東征は納得できます。西の衆夷もまあ関西以西ですからよしとしましょう。北も朝鮮半島ならありえる話です。あれ、南は? 和歌山は放置ですか、そうですか。となるのです。それに、ここにある国ですが、平安時代に置かれた国のような広い範囲を指すのではなく、宗族と解釈するのが一般的です。でないとそんなにたくさん国はない、としか言えなくなるからです。では出雲王朝はどうでしょう。東、北とも問題ありません。西もそれくらいは服属させられそうです。ところが今度はまた、南に触れていないのが問題になります。出雲の南はもとより、四国無視かよ…となってしまうのです。では真打ち、九州王朝だったとしたらどうでしょう。東と北は問題ありません。南がないのは、自分たちが押さえているからですが、西は…? そう。九州の西は海なのです。いえいえ、九州王朝を筑前、筑後、肥後の連合王朝だとしたら、西は肥前で東は豊前、豊後となります。南に鹿児島がありますが、有力な豪族はいなかったと考えられています。あれ、いける…? あるいはこの部分、白髪三千丈式の誇張表現で、実際は大したことなかったという見方もできないではありません。ところがここに同時代資料として『好太王碑』が頑として存在し、「渡平海北九十五國」が誇張でも何でもないことがわかってしまうのです。

    一体、「倭の五王」の王朝はどこにあったのでしょうか。少なくともその王朝が、近畿天皇王朝とは関係がないことだけは明らかです。悩ましいですね。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 邪馬壹国・九州王朝・関東王朝

      4 comments

    邪馬台国」論争は昔から有名で、九州にあったか近畿にあったか、はたまた海外だったか様々な仮説が出ては消え出ては消えして今に至っている。「婚姻の歴史を考える」を書いた際、魏志倭人伝についても簡単に調べたのだが、古田武彦氏の論によって、積年の疑問が解決したのでここにまとめておきたい。

    魏志倭人伝における従来の解釈に関する疑問は次の通り。

    • 版本では「邪馬壹國(=邪馬一国)」とあるものを何故「邪馬臺國(=邪馬台国)」の誤字だとするのか?
    • 版本では「一大國」とあるものが、何故「一支國」の誤字だとするのか?
    • 何故「水行十日、陸行一月」を全行程に要する日数だと解釈しないのか?
    • 版本では「壹与」とある女王の名前を何故「臺与」の誤りだとするのか?

    大学生の頃も「そりゃ君決まってるよ」とは言うものの、何故を説明できた先生はいなかった。歴史学とは随分胡散臭い学問だと思ったものである。それが今回、古田氏の論文を読んで氷解したのである。つまり、

    • 「邪馬壹國(=邪馬一国)」が正しい。
    • 「一大國」が正しい。
    • 「水行十日、陸行一月」は全行程に要する日数だった
    • 「壹与」が正しい。

    古田氏は、他にも様々な論証を加え、邪馬壹國が博多湾岸にあったことを結論づけている。加えて氏は、この王朝が「漢書」地理志に現れる「倭人」と繋がっており、「隋書」東夷伝の記事、『大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云』で有名な「多利思比孤」も九州王朝の王であったとしている。そして、「旧唐書」で「倭国」条と「日本」条が別になっているのは、「倭国」が九州王朝、「日本」が近畿天皇王朝であるとする。誠に慧眼であり、我意を得た思いである。

    畢竟、従来すべての議論は「王といえば近畿天皇家しかありえない」という臆断から出発していたため、不必要な議論が重なってきたのが事実なのだ。何も近畿天皇家だけが王であったとする意味も必要もない。九州に繁栄した正当な王朝があっていけない理由はなく、また存在しなければおかしい遺跡が存在するのであるから、素直にそう考えればよいのである。後世九州にあって天皇政権に属さない部族を「熊襲」や「隼人」と言ったが、彼らが衰微したその九州王朝の末裔であり、だからこそ近畿天皇家に下ることをよしとせず頑固に抵抗し続けたと考えて何の不思議があろう。逆に「蝦夷」とよばれてやはり近畿天皇家にしつこくしつこく抵抗した部族が関東から東北にかけてあったことを考えれば、関東王朝があってもよいとすら考える。(古田氏稲荷山古墳出土の鉄剣銘を関東王朝存在の証であると主張している。私も同感である)

    邪馬台国論争は江戸時代から続く非常に「歴史的」な問題であるが、たったひとつの理由のない臆断によって、これほどの長時間と多大な労力が無駄に費やされてきたことを考えると、学者の言う「科学的」とか「実証的」とかいう論がいかに怪しいものであるかをこの問題は示している、まさに好例と言えるであろう。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

Top