• 日本の古代史を考える—補足7『論衡』

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    後漢時代に王充が著した『論衡』は、当時流行していた讖緯説・陰陽五行説に基づく迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理を徹底的に批判した書物です。ですので、以下の記述を虚妄であると片付けることはできません。

    之時 天下太平 倭人來獻暢草 (第五卷 異虚第十八)
    時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 (第八卷 儒增第二十六)
    成王之時 越常獻雉 倭人貢暢 (第十九卷 恢國第五十八)

    ところがこの記述は認めても、ここで言う「倭人」は日本人のことではなく、江南の人々を指したものだとする解釈を見かけました。というより、まるで既定の事実であるかのような扱いです。馬鹿も極まると妄言が激しくなるものだと思いました。日本の学者は駄目すぎます。

    この「倭人」が「江南人」であるという根拠は、「暢」「鬯」と書かれているものに求められています。そこでまず「暢」を漢字辞書で調べてみます。「まつりに使う酒。鬯と同じ」とありますので、次に「鬯」を調べます。「香草の名前。鬱金草のこと」とあります。では鬱金草を調べてみましょう。「鬱金草(うこんそう)のこと。みょうが科の多年草。冬に地下茎から黄色の染料を取る。また、むかしこれを酒にひたして鬱鬯を作った。鬱金香をひたすという説は誤り」とあります。どうやらウコンのことのようです。ちなみに「鬱鬯」は、「鬱金草の地下茎をついて、煮て、まぜた黒きびの酒。まつりに用いた」とあります。ところが、ウコンは西暦659年の唐本草(新修本草)という本に見えるのが初出で、その頃、つまり初唐の頃中国にもたらされたと考えられているのです。ということは、鬯はウコンではないことになります。

    他に鬯について書かれた本はないかと探したところ、『山海経箋疏』という『山海経』の注釈に鬯とは霊芝のことであると載っているのが見つかりました。やったね、これで解決だと馬鹿な学者は躍り上がって喜んだのですが、これは(西暦1644年〜1912年)の郝懿行(かくいこう)が付けた註です。郝懿行はその情報をどうやって入手したのでしょう。しかも、霊芝は爾雅にも「芝」として記載されているのですから、王充がわざわざ別名で書いたことにしなくてはなりません。ところでその『山海経箋疏』はどれくらい信憑性があるのでしょう。千五百年も前の王充が示した言葉の意味が伝わっていたとは考えられません。それならそもそも議論になったり、注釈を付けたりする必要がないからです。郝懿行がいかに優れた学者であったとしても、それだけで「鬯」=「霊芝」説が正しいとはできません。おそらく、郝懿行もウコンが周代にないのは知っていたので献上品に相応しい植物として霊芝を挙げたのでしょう。つまり、この「鬯」=「霊芝」説も実は根拠となると非常に怪しいのです。

    なのになぜ、「鬯」=「霊芝」説が定説のように語られ、それに基づいて『論衡』に現れる「倭人」が江南の人々であると断定されるのでしょうか。それは、縄文時代に朝貢できるような文化が日本にあったはずはないという思い込みです。学者には縄文土器に見られる美意識など感じ取ることもできないのでしょう。実に下らないお遊びで税金を空費してくれるものです。

    ところで面白いことに、中国の方がそのような「倭人」=「江南人説」(実際は広く、「中国、朝鮮居住説」と言うべきですが)に真っ向から反駁しておられます。北京大学歴史学部に勤めておられた沈仁安教授です。沈教授は、越常は中国南方の種族の一つで、倭人も南方というのでは四夷来朝という思想に合わない。故にこの倭人は東方=日本の倭人を指すものと見なすべきであり、王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であると断定されています。私もそう思います。後漢時代は儒教の時代でした。その勢いに乗って様々に怪しい論説が横行したのです。王充はそれを徹底的に批判しているのです。その本人が出所のあやふやな、あるいは「倭」と言って他の地方の人間を指すようないい加減な言説を自著に取り込むなどあるはずもありません。王充が単に「倭人」と言ったということは、日本列島に居住する人々を指して述べたのです。(なお、参考として、古代史に遊ぼう—倭と倭人(中国の文献から見た)—第13回をご覧になって下さい)

    事実をありのまま見て、それが何を意味するかを考えるのが学者あるいは知識人の本来の役割です。その役割を予断に基づいて放棄して遊んでいるような輩はすぐに馘首すべきだと思うのですが、皆さんはどうお考えですか。

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  • 日本の古代史を考える—補足6『魏略』

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    魏略』は魚豢によって編まれた書物で、元々は『三国志』「魏書」と同じ資料を参照して書かれたものだと思われます。現在は写本も伝わっておらず、後の書物に引用された部分が残されている程度です。書かれた年代も末から初ということしかわかっておらず、具体的な編年については定まっていません。ところがその後世に引用された部分に、倭のことが比較的多く出てくるので、日本では早くから注目された書物でもあります。以下、倭に関する引用部分の原文、訓読、現代語訳をあげます。

    原文(『漢書』地理志燕地条・顔師古注より)

    倭在帯方東南大海中依山島爲國度海千里復有國皆倭種

    訓読文

    倭は帯方たいほう東南大海の中にあり、山島にりて國をす。度海とかい千里にしてた國有り。みな倭種。

    現代語訳

    倭は帯方郡から東南の大海の中にあって、山や島ばかりの地で国を建てている。(そこから)海を渡って千里行くとまた国がある。みな、倭人の国である。

    どっちに千里行くのか書いておいてくれよと現代人なら思いますよね。『魏志倭人伝』に従うなら東へ海を千里渡るとなるのですが。それはともかく、決まり文句のように「依山島」という言葉が出てくることに注意して下さい。山はともかく「島」が多いところが「倭」だったのです。当然、奈良県などではないですよね。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國七十里始度一海千余里至対馬國其大官曰卑狗副曰卑奴無良田南北市糴南度海至一支國置官与対同地方三百里

    訓読文

    帯方たいほうより倭に至るには海岸にしたがふ。水行して韓國を拘邪韓國くやかんこくに至る。七十里。はじめて一海をわたる千余里。対馬國に至る。其の大官を卑狗ひくひ、副を卑奴ひぬふ。良田無く南北に市糴してきす。南に海を渡り一支いき國に至る。官を置くこと対に同じ。地の方三百里。

    現代語訳

    帯方郡から倭に行くには、まず海岸沿いに南下し、船で川を航行して韓国を経て拘邪韓國に行く。(ここまで)七十里。そこで初めて海を渡って千里ほど行くと対馬國に着く。そこの長官は「ヒク(或いはヒコ)」といい、副官を「ヒヌ」という。良い田がなく、南北の市に出かけて売買をして食料を得ている。(そこから)南に海を渡ると一支國へ着く。長官、副官など対馬國と同じように置かれている。その地は三百里四方である。

    帯方郡からの旅程の一部を表した部分です。帯方郡から拘邪韓國まで七十里とあります。魏の一里は、443.8 m ですから、約 30 ㎞となり、こちらはこちらで距離があいません。『翰苑』に引用される際に、間違った距離が引用されたのか、もともと間違っていたのか、間に既に失われた別の語句があったのか、今となってはわかりません。なぜ丁度いい七百里を記したものがないのかそれはそれで不思議です。

    なお、ここで「一支國」と出てくるんだから、『魏志倭人伝』の「一大國」はやっぱり「一支國」の間違いじゃないの、と考えがちですが、『翰苑』自体は、代に書かれた本なので、引用の際に修正されている可能性があるのです。悩ましいですね。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    又度海千余里至末廬國人善捕魚能浮没水取之東南五百里到伊都國戸万余置官曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属女王也

    訓読文

    また海をわたること千余里。末廬まつろ國に至る。人く魚を捕へ、く水に浮没して之を取る。東南五百里にして伊都いと國に到る。戸は万余。官を置くに爾支いきといい、副を洩渓觚せもこ柄渠觚へここ?という。その國王、みな女王に属する也。

    現代語訳

    また海を千里あまり渡ると、末廬國に着く。ここの人は魚を捕るのが上手で、巧みに水に浮かんでは潜りして魚を捕る。東南に五百里行くと、伊都國へ到着する。戸数は一万あまり。長官が置かれていて「イキ」といい、副官を「セモコ(或いははシモコ、ヒモコ)」「ヘココ(或いはヘケコ)」という。その国王は代々女王国に服属している。

    「其國王皆属女王也」ですが、『魏志倭人伝』では「丗有王皆統屬女王國」とあるので、それに準じて訳してみました。それにしても官の名称が意味不明です。これは『魏志倭人伝』でも同じで、中には「洩渓觚柄渠觚」でひとつの単語=官職名だと主張する人もいます。それでも意味不明なのは不明なのですが。

    魏志倭人伝』では「有千餘戸」ですが、こちらは「戸万余」です。他の国と比べてあまりに戸数が少ないので、ここは陳寿の書き間違いと思いたいところですが、『後漢書』東夷伝の例がある通り、魚豢が値を改竄した可能性もゼロではありません。あるいは『翰苑』に引用される際の改竄ということも。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    女王之南又有狗奴國以男子爲王其官曰拘右智卑狗不属女王也

    訓読文

    女王の南、また狗奴くぬり。男子を以て王とす。の官を拘右智卑狗くゆじひくふ。女王に属さぬなり

    現代語訳

    女王国の南にはまた狗奴國がある。男性を立てて王としている。行政の長を「クユジヒク」という。女王に服属していない。

    魏志倭人伝』に「其南有狗奴國」とあるのは、女王國の南であることが、この記述からもわかります。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    自帯方至女國万二千余里其俗男子皆黥而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后小康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人亦文身以厭水害也

    訓読文

    帯方より女國へ至るには万二千余里。の俗、男子はみなげいし、しかうして文す。の旧語を聞くにみずか太伯たいはくすゑふ。昔、夏后かかう小康の子、会稽かいけいに封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍かうりうの害をけせしむ。今倭人また文身し、以て水害をいとはすなり

    現代語訳

    帯方郡から女王国までは一万二千里余りある。その風俗は、成年男性は皆顔に入れ墨をしてさらに体にも入れ墨をする。その祖先のことを聞いてみると、自分たちは呉の太伯の末裔であると言っている。昔夏王朝の少康王の王子が会稽に領土を貰って移り、髪を切って体に入れ墨することで、大魚水禽の害が避けられると住民に教えた。今倭人もまた体に入れ墨をして、大魚水禽の害を避けている。

    「鯨而文」は「鯨面文(身)」の誤りかも知れません。「聞其旧語自謂太伯之後」の一文は、『魏志倭人伝』にはない記述です。明らかに呉越の人々が倭の地に戦乱を避けてやってきたことを示します。

    原文(『北戸録』卷二・鶏卵卜より)

    倭國大事輒灼骨以卜先如中州令亀視坼占吉凶也

    訓読文

    倭國、大事はすなはちち骨をしゃくし以てぼくとす。せんの中州の令亀れいきの如く、たくて吉凶を占ふなり

    現代語訳

    大事なことがあると、都度骨を焼いて占いをする。昔の中国の亀卜のように、ひび割れを見て吉凶を占う。

    三国志の時代、亀卜は既に廃れていました。なので、「先如中州」とあるわけです。倭にはその亀卜よりさらに古い獣卜が残っていたことを示しています。

    原文(『三国志』「魏書」東夷伝倭人条・裴松之注より)

    其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀

    訓読文

    その俗正歳せいさい四節を知らず、ただ、春耕秋収を計り年紀となす。

    現代語訳

    その風俗には正しい暦がない。ただ、春に耕して、秋に収穫するのを計って一年としている。

    ここの解釈は大きく二つに分かれています。ひとつは「春と秋それぞれで一年と数える、すなわち今の半年がこの頃の倭の一年であった」とする説(古代二倍年歴と呼ばれています)と、もうひとつは、「春に耕して秋に収穫するサイクルをおおざっぱに一年と数えていた。つまり今もこの頃の倭も一年の長さは同じ」とする説です。悩ましいのは「不知正歳四節」とある点で、正歳で正しい年期、四節の節は節句の節で、季節の区切りを意味していると思われる点です。つまり、暦がないとしか言ってないので、春耕秋収もそれ全体で一年を表すと取ることも、春と秋それぞれで一年と取ることもできるのです。悩ましいですね。

    原文(『法苑珠林』魏略輯本より)

    倭南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千余里

    訓読文

    倭の南に侏儒しゅじゅ國有り。其の人のたけ、三四尺。女王國を去ること四千余里。

    現代語訳

    倭の南に侏儒國がある。そこの人は身長が三、四尺しかない。女王国から四千里あまり離れたところにある。

    元の『魏略』には、多分、裸國、黒歯國についても記述があったのでしょうが、引用されていません。

    やけに『翰苑』卷三十からの引用が多いな、そういう本なのか、と思ったあなた。それは間違いです。実はこの本、日本の太宰府天満宮に卷三十だけが現存しているという超貴重本なのです。なので引用も卷三十からしかしようがないんですね。むしろ、倭のことが比較的多く言及されているので、現代まで保存されてきたのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—補足4『漢書』地理志燕地条を正しく引用する

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    漢書』地理志燕地条をちゃんと引用したことがないのに気がついたので、内容の正確な理解を助けるために、改めて必要個所を抜き出し、訳文を付ける。

    玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義田蠶織作樂浪朝鮮民犯禁八條相殺以當時償殺相傷以穀償相盜者男沒入爲其家奴女子爲婢欲自贖者人五十萬雖免爲民俗猶羞之嫁取無所讎是以其民終不相盜無門戸之閉婦人貞信不淫辟其田民飲食以籩豆都邑頗放效吏及内郡賈人往往以杯器食郡初取吏於遼東吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條可貴哉仁賢之化也然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云自危四度至斗六度謂之柝木之次燕之分也

    訓読文

    玄菟げんと樂浪らくろう武帝(ぶていの時に置き、皆、朝鮮、濊貉わいばく句驪くり蠻夷ばんいなり。いんの道衰へ、箕子きしが朝鮮に去りき、の民に、禮義れいぎを以て田蠶でんさん、織作をさとす。樂浪らくろう、朝鮮の民、禁八條犯すに、相殺すは當時とうじを以て殺してつぐなひ、相傷つけるは穀を以てつぐなふ。相盜む者、男は沒入しの家のし、女子はす。自らあがなひを欲する者は、人五十萬。免れて民とすといへども、俗、なほこれはじとす。嫁を取るにむくいる所なし。これを以ての民、つひには相盜むことなく、門戸はこれを閉じることなし。婦人は貞信、淫辟いんじならず。田民でんみん籩豆へんとうを以て飲食し、都邑とゆうすこぶる吏及び内郡の賈人こじん放效ならひ、往往、杯器を以て食す。郡、初め吏を遼東りょうとうに取る。吏、民の閉臧へいかんなきを見る。賈人こじんの往く者、夜にすなはち盜をすにおよんで、俗はやうやく益薄く、今は犯に於いて禁ますます多く、六十餘條に至る。とうとかな仁賢じんけんの化なりしかるに東夷とういの天性柔順、三方の外に異なる。ゆえに孔子道の行われざるをいたみ、はしけを海に設け、九夷きゅういに居らんと欲す。ゆえあるそれ樂浪らくろう海中に倭人わじん分有り、百國をす。歳時を以てきたりて獻見けんげんすとふ。危の四度り、斗の六度に至り、これ柝木たくぼくやどりふ。燕の分なり

    現代語訳

    玄菟郡楽浪郡は、武帝の御代に置かれた。みな、朝鮮、濊貉、句驪の蛮夷である。が滅んだ時、箕子が朝鮮にやってきて、朝鮮の民に礼儀に則った稲作、養蚕、機織りを教えたのである。楽浪郡や朝鮮の人民が禁止されている罪八つを犯した場合、人を殺した場合は、すぐに犯人を殺した。人を傷つけた場合は、穀物で贖わせた。盗みの場合、その身分を落として男は盗みに入った家の奴(やっこ)に、女は婢(はしため)にした。自首して贖罪を望むものは、ひとりにつき五十万鐘(の穀物、一鐘は五十㍑)とした。罪を免れ、民としての地位を保ったとしても、これを恥じるように風俗が変わった。嫁を取る場合も代価が不要となり、ここに至って遂に、その人民は盗みを働かず、門戸を閉じることもなくなり、女性は貞淑で、浮気をすることもなくなった。農民は、籩豆(籩は竹で編んだ高坏、豆は木製で塩などを盛る)を使って食事をし、都市には官僚や中国本土の商人をよく見習い、しばしば食器を使って食事を取るようになった。玄菟郡楽浪郡でははじめ、遼東から官僚を選抜していたが、官僚が摘発したのは、人民が門を閉じて交通を閉ざしたりしないので、官僚が見たところ、人民は町の門を夜も閉ざさない。それで、商人で行商する者が夜になると、盗みを働くことであったくようになっていた。その風俗の益化もようやく少しずつ薄れてて、今は、禁止しなくてはならないことがだんだん悪い行いについて禁令がますます多くなり、今は六十条あまりになっている。仁者賢人の教化というのは誠に貴いものである。こういう次第でそうではあるけども東夷の天性は柔順となった。なのであり、そこが北狄西戎南蛮との違いである。だからこそ、孔先生は道が行われないのを悲しみ、小舟を海に浮かべて九夷(九はすべての意、転じて代表の意。この場合は東夷の中心)の地に行きたいと仰った。それには理由があったのだろうか。(もちろんあったのである。)楽浪郡の先の海に倭人の地のいる分度があり、百あまりの国に分かれているがある。礼に則り毎年朝見していたと伝える。(その分度とは天文上の星分度であり)危の四度から斗の六度までの星分度である。これを「柝木の次」と言う。燕の分度である。

    「吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條」の箇所の誤訳を訂正。倭人条は、「夫」が後の句と対になることを示す助字であること、「倭人分」でひとつの熟語であることなど、Blog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんで紹介されていた解釈に基づいて訳し直した。また欠けていた下の句を追加した。(2013年7月20日)

    こうして見渡せば一目瞭然、ここは、中国の聖人賢人の教化が遠い東の果てにまで及んでいたことを自賛賞賛する記事なのである。遠い昔、箕子が朝鮮の人民を教化・巡撫した成果が、時間を隔てた武帝の時代にまで及んでいたと語り、それが海を渡り、空間を隔てた「倭」の地にまで及んでいたと語っている。倭人はその証拠として駆り出されているのである。『漢書』が編纂された後漢において儒教は国家の規範であり、政治の基本でもあった。従ってその祖であり聖人と見なされている孔子に筆が及ぶと言うことは単なる風聞ではなく、歴とした証拠があったと見なくてはならない。その孔子が、礼が行われていると見なした根拠として挙げられている朝見だが、当然それは周礼に基づいたものであることは言うまでもない。後世、『魏志倭人伝』で「其使詣中國皆自稱大夫」「中国にやってくる遣使は、皆大夫を自称した」とあるところから、大夫による朝見であったことが推測される。大夫による朝見は、年一回と決まっていた。ゆえにこの歳時とは一年であることもわかるのである。また、歳時を四時=四季に対応した言葉であると考えるなら、やはり一年を意味することとなる。ところで孔子が生きた春秋時代はもとより、その後の戦国時代も混沌として天下を統べる王が不在の時期であった。だから、倭人が朝見していた天子というのは、西周の天子であることもまたわかるのである。

    この最後の一文「以歳時來獻見云」を前漢武帝以降、つまり楽浪郡が置かれてから倭の遣使が朝貢してきたのだと誤解している人が余りに多いことに驚く。前漢の時代に実際に朝貢があったのなら、班固は「云」とわざわざ伝聞で書いたりしない。然るべき記録を参照し、本紀はともかく、少なくとも朝鮮伝のついでくらいにはその事実を書くはずである。そうしなかったのは、前漢に倭の遣使が朝貢した事実がなかったことを物語る。前漢楽浪郡を置いたことからもわかるようにとの通商は衛氏朝鮮と対立しておりが独占しており、そこを遣使が通過して前漢に朝貢することはできなかった。また、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を含む四郡を設置しても、短期間で楽浪郡以外を放棄せざるを得なかったように、その支配も安定していたとは言い難い。つまり、前漢を通して倭が遣使を出して朝貢する機会はなかったのである。渤海を抜けて遼河から中国に入るルートがあるとお考えの方もおられるだろうが、そこは匈奴の支配下であり、やはり前漢と対立していたので、遣使は不可能であった。では前漢以前はと言うと、は天下を支配した期間があまりに短く(だからとひとまとめにされることが多いのだが)、朝貢を受けた天子は、の天子以外にありえない。なら東周の天子かというと、中華は春秋時代であり、戦乱に明け暮れた時代である。洛陽(東周の都)まで遣使の無事が保証されなかった。そんな時代に遣使することは考えられず、従って倭が「以歳時來獻見」した天子は西周の天子に外ならないという結論に至るのである。縄文時代の人々がなぜに朝貢しようなどと考えたか、それは殷周革命と呼ばれる戦乱に原因がある。は九夷=東夷の助けを得て王朝を建てたと伝えられており、末の三公(西伯昌、九候、郭候)のうちの「九候」も九夷の首長と考えられる。従ってが滅びた影響で、の族や遼東山東の族が周の追撃を逃れて朝鮮や日本に逃げ込んだことは充分に考えられるのである。一方でその自体、高宗武丁王の頃に江南を支配下に置いており、後のの族の一部が西南諸島を経由して日本や朝鮮に逃げ込んだこともまた確実である。中華に燦然たる王朝があることはこうして日本に伝わり、その冊封を受けて族や国の安全を図ろうとすることは何の不思議もないのである。(この項、2013年6月29日に追記)

    コメントでご指摘頂いた分とBlog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんの記事に従い訳文を修正した。最期に「燕之分也」で終わる句だが、これはあるいは倭人が「燕」にも朝貢していたのかも知れないと思い始めた。燕地条自体にも書いてあるが、戦国時代に「燕」は王を称しており、「燕」までなら戦乱に巻き込まれることもなくたどりつけるからである。あるいは、『山海經』第十二「海内北經」に「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」とあるのを引いたのか、別の資料を引いたのか出典は定かでないものの、無視できる内容ではない。(この項、2013年7月20日に追記)

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  • 日本の古代史を考える—補足「倭人」について

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    あちこちウェブで古代日本の資料を渉猟していると、『論衡』に見られる「倭人」は江南人のことで、日本にいた倭人ではないとする主張をよく見かける。というか、皆そういう主張をしていることに驚いた。してみると『論衡』を書いた王充はそれを知らずに引用したのだろうか。王充が生きた後漢時代では「倭」といえば日本のことだったから、知っていれば一言追記したであろうから、知らなかったのだという意見に一応肯けないこともない。しかし、

    この人たちは、江南系の倭人が、呉越の戦争や越の滅亡によって江南から南西諸島沿いに稲作を伴って日本にやってきて「弥生人」となったと、判で押したように書いている。戦乱によって避難するのが当然であれば、「商(殷)」の高宗武丁王が江南を侵略して版図に収めた時も、当然避難民が発生したとなぜ考えないのであろうか。なぜ江南人の渡来は「弥生人」に限るのか、意味が分からないよ。「商(殷)」は、20世紀初頭に甲骨文字が発見されるまで、架空の王朝とされていたため、昔は上限を弥生時代に置いていただけなのです。そうです。そのカビの生えた先人の教えを後生大事に守っているわけですな。先生の言う通りってか? 死ねば良いのに。

    つまりは、「江南人は農耕とセット」で、「農耕弥生時代とセット」という固定観念があるからに過ぎないのです。放射性炭素年代測定が適用できる資料が出土した古い水田跡がないため、この固定観念がなかなか崩れません。しかし、岡山県児島郡灘崎町の縄文時代前期(約6000年前)の地層からは大量のプラントオパールが見つかっており、少なくとも約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたとする学説が数多く発表されています。また、水稲である温帯ジャポニカについても縄文時代晩期には導入されていたという説も無視できないものであるにも関わらず、江南人は「弥生人」の定説だけは崩さないのです。本気で頭脳を疑います。

    こんな想像力の欠片もない学者様方に多額の税金を費やしているのが日本ですが、果たして歴史はそれを是とするでしょうか。(反語表現)

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  • 日本の古代史を考える—⑬漢書地理志再考

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    漢書』地理志について、考証、説明が不足していたので改めて取り上げます。

    然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

    かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

    前漢武帝以来、儒教は漢の国是でした。孔子は聖人であり、単なる憶測や伝聞でその人となりを揶揄するようなまねは厳に慎まなければならないことでした。畢竟、孔子に筆が及ぶということは、相当の確信があってのことだということになります。そのような時代背景で記述された『漢書』においてもそれは同様です。

    では『漢書』において、なぜ孔子は「以歳時來獻見云」とある東夷が住まう地に行きたいと愚痴を零したと記されたのでしょう。もちろん孔子本人がそう言っていたからですが、それには理由があったと『漢書』の編纂者(=班固)は述べています。単なる憶測や伝聞でそんなことを述べたわけではないことは、既に書きまたし、改めてご理解頂けると思います。

    ではなぜ「以歳時來獻見云」「定期的に朝貢してきていたと言う」事実が、孔子が零した愚痴の根拠となるのでしょう? それを理解するには『歳時』が何かを理解する必要があります。

    孔子は「周礼」を重視しました。孔子が礼という時、それは「周礼」のことです(ここで言う「周礼」は「」で行われていた礼という意味で、現在に伝わる書物の「周礼」ではありません)。その「周礼」では諸侯が天子に見える時期について以下のように定めています。

    諸侯朝見天子有三種形式。每年派大夫朝見天子稱為小聘、每隔三年派卿朝見天子為大聘、每隔五年親自朝見天子為朝。

    諸侯が天子に朝見する場合、三種類の形式がある。
    毎年大夫を派遣して天子に朝見することを「小聘」と称する。
    三年ごとに卿(大臣)を派遣して天子に朝見することを「大聘」と称する。
    五年ごとに諸侯自身が天子に朝見することを「朝」と称する。

    後に倭から朝貢してきた者は皆「大夫」を自称したとあります。

    『後漢書』東夷伝「使人自稱大夫」
    『魏志倭人伝』「皆自稱大夫」
    『晋書』東夷伝「皆自稱大夫」
    『隋書』東夷伝「漢光武時遣使入朝自稱大夫」

    つまり、周礼に言う「小聘」を実行していたのであり、だからこそ「以歳時」と書かれているのです。

    そのような礼はもちろん、渡来人/帰化人が持ち込んだことは言うまでもありません。しかし、それを受け入れる土壌が縄文時代晩期の日本には既にあったことがわかります。朝見は一集落の人間がその気になったからと言って気軽にできることではありません。表を用意し、献上品を選定し、身なりを整えと、少なくともある程度の規模の集団でないと準備もおぼつきません。まして毎年行うのですから、一氏族、一部族でこれを行うことなどできません。周囲の氏族、部族が合同して送り出さねば、成周にたどり着くことすらおぼつかないでしょう。

    さて、一般に縄文時代はそのようなことができる文化的背景があったと理解されているでしょうか。試みに「縄文時代 画像」で検索してみて下さい。牧歌的で小集団に別れて狩猟や採集をしている姿ばかりです。なぜ、今から 3000 年前の人々が半分裸で、呑気に暮らしていたなどと言えるのでしょう。「分爲百餘國」とあるのですから、少なくとも家族単位で孤立して暮らしていたなどということはありえない妄想です。もちろん国家などというものではなかったに違いありません。そのような権力の集中と思われる遺品は弥生時代以降に出土するからです。いえ、ということになっています。しかし、大規模な宗族といった単位で氏族、部族が統率されていたことは充分にうかがい知れる表現です。もちろんその情報をもたらしたのは朝見に来た「倭人」です。

    さて、我々が抱いている根拠のない、3000 年前といえばこの程度だろうという言われなき蔑視観と、『漢書』地理志に書かれた立派な倭人。どちらが私たちの先祖の本当の姿でしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑥宋書夷蠻伝倭國条

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    晋書』は、三国鼎立時代を終わらせた「」の正史で、西暦265年から420年までの出来事が収められている。ただし、倭人条は、泰始元年(西暦265年)の記事で終わっており、次に倭の名前が見えるのは安帝の義煕九年(西暦413年)であるため、四世紀の日本については何も情報がない。本稿で取り上げる『宋書』は、南北朝時代の「」(平清盛日宋貿易を行った「」とは時代が異なる国)の正史で、南斉武帝の命令で、沈約によって編まれた。西暦420年から479年までの出来事が記されている。かの有名な「倭の五王」が登場するのであるが、当然記録が五世紀に入ってからなので、四世紀がまるまる空白として残る結果となった。いわゆる「空白の四世紀」である。

    倭國在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

    倭國は高麗の東南の海中にあり、代々朝貢してきていた。高祖永初二年(西暦421年)、詔して曰く「倭の讚は万里を越えて朝貢してきた。遠来の忠誠をよろしくはかり、官職、答礼の品を賜うべし」太祖元嘉二年(西暦425年)、讚はまた司馬の曹達を遣わし、表を奉じて、様々なものを献上した。

    倭王讚が朝貢してきたことを示す記事です。讚は中華風名称であり、本名はまた別にあったはずですが、伝わっていません。司馬曹達は人名かも知れませんが、委細不明です。

    讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。

    讚が死に、弟の珍が倭王になって、使いを遣わし朝貢してきた。自ら、使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王と称していた。上表して正式な任官を求め、詔して安東將軍・倭國王に任命した。珍はまた、倭隋等十三人に号して平西・征虜・冠軍・輔國將軍とする正式な任命を求めた。詔してすべて聞き届けた。元嘉二十年(西暦443年)、倭國王濟が使いを遣わし、朝献してきた。また安東將軍・倭國王とした。元嘉二十八年(西暦451年)、もと願っていたように、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍を加えた。併せて都に上ってきていた二十三人を将軍や軍太守に任命した。

    讚が死んで、弟の珍が倭王になって朝貢してきた記事です。冊封を受けていますが、いつのことかわかりません。そして、元嘉二十年(西暦443年)になって倭王濟が朝貢してきたと続きます。珍が死んで後を継いだと書いていないところが意味深です。簒奪があったのかも知れません。当然上表文があったのでしょうが、内容が伝わっていないので何があったか不明のままです。ウィキペディアで検索するとわかりますが、「使持節」や「安東將軍」はいっぱいいます。倭の珍も濟もその中の一人でしかありません。割と安直に任命された名誉号のようです。日本において平安時代、地方の豪族に外従五位下を授けたようなものかも知れません。ただ、元嘉二十八年(西暦451年)に珍が自称し、任命を希望していた「使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王」とよくよく見るとちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」に濟は任命されています。何もないのにそんな任命が行われるはずがないので、軍事的に高句麗を圧倒した可能性があります。

    濟死、世子興遣使貢獻。世祖大明六年、詔曰「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王」

    濟が死に、世子の興が使いを遣わし朝貢してきた。世祖大明六年(西暦462年)、詔して曰く「倭王の世子、興、累代忠を捧げ、外界に藩国を構え、王化を受けてその国境を安寧にし、うやうやしく貢職を勤めてきた。新たな嗣子がその勤めを継ぐに当たり、よろしく爵号を授け、安東將軍・倭國王とすべし」

    さて、その濟も死に、息子の興が朝貢してきます。ひょっとして興も「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」を申請したのかも知れません。

    興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 。

    興が死に、弟の武が倭王に立った。自ら使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王を称した。

    興が死んで、弟の武が倭王になりました。当然朝貢したので、記事になっているわけで、その上表文の中で、珍が授けられた「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」とちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓國諸軍事・安東將軍」を自称しています。書かれていませんが、当然上表文の中で任命を求めたでしょう。もちろんこの時、その希望が叶えれなかったことは続く段落でわかります。

    ところで、ここまででいわゆる「倭の五王」が出尽くしたわけですが、讚と珍が兄弟であることは明らかです。濟と興が親子で、興と武が兄弟なのも明らかです。この続柄は当然上表文に記載されていたものを写したものですから、倭王が嘘を書かない限り、これを事実としない訳にはいきません。この「倭の五王」をどの天皇に比定するかで歴史学者は喧々囂々議論をしてるわけですが、はっきり言って、全員眉唾ものです。そもそも武を雄略天皇に比定するのは共通するみたいですが、それも雄略天皇の名前に「ワカタケル」と入っているから、「武」っぽいじゃん? というだけのことで、全然歴史的事実でも何でもないのです。そもそも雄略が西暦の何年頃に帝位を履んだかも明らかになっていません。即位と西暦が対応するのは、推古天皇からとされていますが、それは推古15年に遣隋使を送ったと『日本書紀』にある記事と、『隋書』俀国伝の「大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢」の記事が一致すると考えられているからです。しかしそもそもその比定が全く根拠がなく、思い込みに等しいものでしかありません。それ故、推古天皇を基準としたそれより過去の天皇の在位期間など全くあてにならないのです。何より「記紀」の雄略紀には、朝貢したとか、何某の官職に任命されたとかそんな話が出てきません。それがどれほどありえないか、続きの段落にある上表文を読んで頂ければ明白です。歴史学といってもそんなレベルなんですよ、皆さん。私どもはそういった方々に税金だの学費だのを投入して養っているわけです。知的レベルが江戸時代の国士から進化してないんじゃないでしょうか。

    雄略の実在を担保する物証として、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣があります。これには銘文が象嵌してあり、その裏の銘文「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」の「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と呼んで、雄略の本名にある「ワカタケル」と同じだとして、これは雄略のことに間違いなしとなっているのですが、これを五世紀の音で読むと、「獲」は「カク、カ、カイ」、「加」は「カ」、「多」は「タ、ダ」、「支」は「シ」、「鹵」は、「ル、ロ」…全然ワカタケルになりません。あるいは国内産ですので、古文的な読み方があるんでしょうか。「支」をキと読む例があるのを知っていますが、「獲」を「ワ」と読む例は寡聞にして知りません。どなたかご教示頂ければ幸いです。

    順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見吞、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

    順帝の昇明二年(西暦478年)、遣使が至り、上表文に曰く「封国(倭国)は、帝都から遠く離れており、藩外に国を構えております。父祖代々自ら鎧兜に身に着け、山川を跋渉し、戦いの毎日で気の休まることはありませんでした。そうして、東に毛人を制圧すること五十五国、西は衆夷を服従させること六十六国、海を渡って海北を平定すること九十五国となりました。王道は寛大で平和であり、首邑から遠く離れたところまで国土を広げました。累代、朝廷を尊び、歳を違えることもありませんでした。私は愚か者ではありますが、かたじけなくも亡き父兄がやり残したことを継ぎ、治めているところで軍を鍛え、崇め帰すこと天を極め、道を百済に通して、船舶も整えました。ところが、高句麗は無道にも領土を併合しようと企て、百済の国境に侵入してきては略奪し、殺戮を行って已みません。朝貢も毎回滞り、良風を得て船出することもできなくなり、では陸路を進もうとしても、ある時はたどり着けますが、ある時はたどり着けないのです。私の亡父濟は、仇敵が帝都に通じる道を塞いだのを大変怒りました。弓兵百万が正義の声に感激してまさに大挙しようとしましたが、俄に父と兄は死んでしまいました。成就間近であった武勲も今ひと息のところで失敗に終わってしまったのです。憎しみを抱いても諒闇であり、兵が動きません。そのために休息を余儀なくされ、いまだに勝つことができておりません。今に至り、兵を鍛え閲兵の儀式を行い、亡き父兄の志を申し上げようと思います。義士や勇士、文武の手柄を立てるには、たとえ目前で白刃が交わされようとも後ろへ退きません。もし、帝徳によって天地を覆い、この強敵を滅ぼし、国難をよく鎮めることができましたら、代々続けた忠功を替えることはありません。ひそかに開府儀同三司を自ら請い、我が祖先の威光にも授けて頂くことを請願いたし、以て忠勤に勤めます」詔して、武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

    原文は四六駢儷体で格調高い名文です。装飾過剰なんですが、まあそういう形式だということでご納得頂くしかないかと。要は代々貢職を怠らず、周辺諸国を平らげ、中国の威光を広めてきたのに、高句麗が邪な意図で百済を攻めている。これを滅ぼしたいので、ついては官職を頂きたい。ってことです。それに対して「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王」が授けられています。確かに望んだ官職とは異なりますが、先祖も授けられた名誉ある官職ですし、正式に冊封されたのだから、「記紀」にそれが記されていないのは、おかしな話なのです。

    ここで『日本書紀』の編纂目的を思い起こして下さい。同書は歴とした漢文で書かれ、日本が、皇統一系古来より続く有力国であることを内外に示すために編纂されました。当然、唐の朝廷にも献上されています。自分たちが古来より続く名族であることを示すのに、自分の国の中のことだけを綿々と書くより、いついつの朝廷に遣使して冊封された。上表文は然々である。と他でもない中華の国を引き合いに出す方が相手にもわかりやすく、かつ訴求力があるというものです。なのに書かれていない。つまり、「倭の五王」は近畿天皇王朝と関係がなく、もそれを知っていたため、『日本書紀』にも記しようがなかったと考えるのが論理的な判断というものです。うがった見方をすれば、古来より続く「倭」または「俀」という王朝が滅んでしまい(あるいは滅ぼしたので)、代わって近畿天皇王朝が日本の支配者となったことをに納得させるために、自分たちが「倭」(「俀」)に匹敵する古くから続く王朝であることを示す目的があったとも言えます。つまり、それだからこそ、「倭」(「俀」)の冊封のことなどうかつに書き入れることができなかったと。

    さらに感のよい方なら「遣唐使」が国書を持参しない慣例であったことを思い起こすと思います。つまり、日本は上表文を呈しない習慣をに認めさせていたのです。これは、倭(俀)と日本が連続していると考えると大変奇妙な点で、それまで累代形式通り朝貢しては表を奉じていたのに、遣唐使にあたってはそれをしなくなる。が表を呈しなくてもよいと自ら言い出すはずはないので、日本がごり押ししたと考えるのが妥当です。なぜそんなの面目を失するような波風を立たせるごり押しをしたのか、できたのか。これに対して誰も論理的な回答を出していません。そして、この不連続性もまた、倭(俀)と日本が別の王朝であることを示しています。

    それにしても、倭王武は祖先の功績として「東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」を誇っています。南がありませんね? そう、南がないのです。東征の毛人が「蝦夷」であることは言うまでもありません。ただし、これを関東、東北ととるのは即断というものです。ここは慎重にいきましょう。西の衆夷は置いておくとして、海北とあるのは明らかに朝鮮半島へ侵攻したことを意味しています。それを妨げたのが高句麗なわけですね。さて、これを近畿天皇王朝の立場で考えると、東征は納得できます。西の衆夷もまあ関西以西ですからよしとしましょう。北も朝鮮半島ならありえる話です。あれ、南は? 和歌山は放置ですか、そうですか。となるのです。それに、ここにある国ですが、平安時代に置かれた国のような広い範囲を指すのではなく、宗族と解釈するのが一般的です。でないとそんなにたくさん国はない、としか言えなくなるからです。では出雲王朝はどうでしょう。東、北とも問題ありません。西もそれくらいは服属させられそうです。ところが今度はまた、南に触れていないのが問題になります。出雲の南はもとより、四国無視かよ…となってしまうのです。では真打ち、九州王朝だったとしたらどうでしょう。東と北は問題ありません。南がないのは、自分たちが押さえているからですが、西は…? そう。九州の西は海なのです。いえいえ、九州王朝を筑前、筑後、肥後の連合王朝だとしたら、西は肥前で東は豊前、豊後となります。南に鹿児島がありますが、有力な豪族はいなかったと考えられています。あれ、いける…? あるいはこの部分、白髪三千丈式の誇張表現で、実際は大したことなかったという見方もできないではありません。ところがここに同時代資料として『好太王碑』が頑として存在し、「渡平海北九十五國」が誇張でも何でもないことがわかってしまうのです。

    一体、「倭の五王」の王朝はどこにあったのでしょうか。少なくともその王朝が、近畿天皇王朝とは関係がないことだけは明らかです。悩ましいですね。

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  • 日本の古代史を考える—⑤晋書四夷伝倭人条

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    晋書』は『三国志』に続く正史であるが、書かれたのは「」になってからである。「」は司馬懿の一族が曹操の「」を簒奪して誕生した王朝で、西暦245年から420年まで続いた。三国に分裂していた中国を統一したのが「」である。しかしその統一は束の間で、西暦317年に匈奴前趙)の侵略を受け、南遷を余儀なくされた。それまでのを「西晋」、南遷後のを「東晋」と呼んで区別するのが習わしである。

    この書にも倭のことが書かれているが、明らかに『後漢書』の引き写しである。従って全文を紹介する意味はあまりないのであるが、いくつか指摘すべき点があるので、念のために触れておく。

    倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。

    倭人は帯方郡の東南の海中にあり、山島に拠って国を建てている。その土地は山林が多く、良田がないので、海のものを食べる。百あまりの国が相接して存在していたが、魏の時代には、三十国が魏へ通好していた。戸数は七万である。

    山林が多く、良田がないのは『魏志倭人伝』によると、「対馬國」「一大國」のことであるが、ここでは倭全体がそうであるかのように書かれている。東夷のことだから、対馬國や一大國といった一部のことではあるまい、という臆断が見え隠れする。「有三十國通好」は『魏志倭人伝』において「今使譯所通三十國」が、『後漢書』で「使驛通於漢者三十許國」と誤読された結果である。三十もの国が朝貢していたら『魏志倭人伝』はことさら麗々しくそう書いたであろう。『後漢書』を書いた「范曄」が「譯」と「驛」を間違えた結果である。『後漢書』の倭人条は全体に投げやりな書き方が多く、「范曄」自身が書いたとは思えない。部下に適当に書かせたものをそのまま収録したのではないか、という人までいる始末である。それを受けて書かれたと思われる『晋書』も推して知るべしだ。

    男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。

    成人男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。自分たちを太伯の末裔であると称している。また、大昔から遣使をしており中国に朝貢していたと伝えられている。遣使はみな大夫を自称した。

    倭人が太伯の末裔を自称するということは、『魏略』にも「聞其旧語自謂太伯之後」と見える。『後漢書』にはこの既述はない。「上古」は中国では前漢後漢までのことを言い、西周の頃から倭が朝貢していたことは既に述べた通り。ただし、後漢から禅譲を受けたをすぐに簒奪して立てられた国であるので、ここで言う上古は、春秋戦国時代より前だと思われる。この部分が『漢書』地理志や『論衡』(あるいはその同時代史料)などにも拠っていることは明白である。

    昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。

    昔、王朝の少康王の子が会稽に封じられた。髪を短く切り、体に入れ墨をすることで大魚や水禽の害が避けられると民に教えた。今、倭人はよく水に潜って魚を捕る。また体に入れ墨をして水禽が近寄ってこないようにしている。その位置を勘案すると、会稽郡東冶県の東に当たる。

    「會稽東冶之東」は『後漢書』の誤記である。それがそのまま引き継がれている。というか、「道里」は「道理」なのだが、ここでは「道筋、里程」の意味で使われている。この条を書いた人はあまり教養のある人ではなかったようだ。

    其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。

    男子の衣服は横広の布を結んだだけの物で、縫っていない。女性は重ね着をしておらず、中央に穴が穿たれた貫頭衣で、全員髪を覆って裸足で歩いてる。倭地は温暖、稲作を行い、麻を紡ぎ、養蚕・織り物をする。牛馬がしない。刀・盾・弓・矢が有って、鉄の矢尻を使っている。ちゃんとした家があって、父母と兄弟は別々に寝る。飲食に俎豆を用いる。

    父母兄弟の兄弟はもちろん成人のことを指す。庶民は竪穴式住居が一般的だったのだから、「異處」は建物自体が異なる、つまりは妻問婚で男は妻方を訪れるので、自然、「異處」になることは既に記した。「有屋宇」は、『魏志倭人伝』では「有屋室」、『後漢書』では「有城柵屋室」であり、『後漢書』がやや詳しい。

    嫁娶不持錢帛、以衣迎之。

    嫁を娶る場合、幣物は不要である。衣を用意して迎えるのである。

    中国では婚姻の際、媒人を立て、幣帛を用意して納采の儀を執り行うのが、結婚において重要なこととされていた。さもないと野合と非難されたのである。ところが日本はそんなことをしないというので、新たに書き込んだのであろう。さて「以衣迎之」の「之」は通常「嫁」のこととされるが、それはそれは変わった風俗である。ところが、その前の文は、男が嫁を取る場合のことについて書いてある。その文意を受けて「之」と書いたのなら「男」を意味すると解することができる。つまり、「着物を用意して夫を迎える」が、正しく伝わらなくて、もしくは倭人条を書いた人の「結婚は即ち嫁取りである」という臆断で(こっちの方がありそうだが)、妙な形に歪んでしまったと思われる。元々の意味は妻問婚で妻が夫を迎える習俗を言っていたのであろう。後々の婿取婚でも婿の衣服の世話は妻の実家の役割となっていた。その萌芽があったのだろう。

    死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。

    死ぬと棺(かんおけ)はあるが、椁(かく)はない。土を盛って塚を作る。葬儀が始まると哭泣して肉を食べない。葬儀を終えると、家中で水に入り、水を浴び体を洗い清らかにする。これで禍を除くのである。重要なことをする時は、骨を焼いて吉凶を占う。

    不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。

    一年が四季よりなることを知らず、ただ秋の収穫の時をはかって年としている。

    これを春秋年紀=一年二歳と勘違いしている人が多いが、『魏略』に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」とあるのを混同したものと思われる。ただし、この項目が「但計春耕秋収之時以爲年紀」とすべきところを、書き手が一年=一歳が当然だろうと勝手に臆断して「春耕」を削って書いた疑いがないでもない。

    人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

    百歳まで生きる人が多く、あるいは八十、九十になる人も多い。国には女性が多く、貞節で嫉妬しない。罪を犯した者は、その罪が軽いものであれば、妻子を没して奴隷にし、重い者はその家族と一族を殺す。

    ここの「國多婦女」は、『後漢書』が「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」(国には女性が多いため、身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、それ以外の者も二人や三人の妻を持つ)と書いているのを受けている。『魏志倭人伝』で「國大人皆四五婦下戸或二三婦」(身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、身分の低い者にも二、三人の妻を持つものがいる)を誤解して書いたものと思われる。『魏志倭人伝』では全員が多妻であるとは言ってないのに、『後漢書』でこれを全員多妻と誤解し、全員が多妻なのだから、女性が多いのだろうと結論したと考えられる。お粗末にもほどがある。あるいは本当に女性が多かったのなら、戦乱で消耗された男の多さが窺える文章でもあるのだが、それなら『魏志倭人伝』が男が多数戦乱で死んで女性がすごく多いという点に何も触れてないのが異常となる。

    舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。

    もとは男性を王としていた。後漢の終わり頃、倭で内乱があり、攻伐しあって国が安定しなかった。そのため、女性を王として建てた。名前を卑弥呼という。

    「漢末」とあるのは、『後漢書』に「桓靈閒倭國大亂(桓帝=後漢の第十一代皇帝、西暦146年-167年。靈帝=後漢の第十二代皇帝、西暦168年-189年)」とあるのを受けている。が、その『後漢書』の既述自体が、『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」を誤読したもので、まったく信用がおけない。

    宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

    宣帝(司馬懿)が公孫氏を滅亡させた時、女王が帯方郡に遣使を送り朝貢に来た。その後暫く朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭)が宰相になった時、また何度か朝貢に来た。泰始元年(武帝司馬炎)に、使いを遣わせて通訳を二重に重ねて入貢した。

    晋書』でありながら、実質的に書かれているのは「」の時代のことである。は安定しなかったので、朝貢が途絶えたのだろうか。それより「重譯入貢」が不明である。倭には直接中国語を話せる人がおらず、別の言語を通じて会話したということなのか。しかしそんなことは他の正史には書かれていないし、その状態で朝貢を続けるというのも不自然である。あるいは、倭でも別のグループが朝貢に来たのだろうか。その場合方言間の翻訳が必要なので、確かに重訳となるが…あるいは別の意味があるのか。

    倭人条はこれで終わりだが、倭の記事はもうひとつある。安帝本紀の義煕九年(西暦413年)に倭が朝貢していたことが載っているのである。

    是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物

    この年、高句麗や、倭國、西南夷銅頭大師が並んで様々な物を朝献してきた。

    この記事に関しては、倭の王が冊封を受けた節がないので、ニセモノの遣使だと主張する人もいて、様々な議論があるようです。しかし、の朝廷が衰えていたとはいえ、史官も馬鹿揃いではないのでニセモノ説はさすがに成り立ちにくいと考えます。冊封を受けた様子がないのは、別の説明が必要でしょう。

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  • 日本の古代史を考える—①漢書地理志

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    日本は『古事記』『日本書紀』以前に歴史書があったことは明らかにされているが、その内容については、『古事記』『日本書紀』に盛り込まれたもの(どれがそうであるかは不明である)のほかに現代に伝わっているものはごくわずかでしかない。そこで古来より中国の歴史書を引くことが当然とされてきた。しかしその内容については充分に吟味され、教育されているとは言い難い。日本が始めて登場する中国の歴史書は『漢書』であるが、高校の授業でも、百あまりの国に別れていたという程度のことしか教えられない。しかしこの条の本質はそんなところにはない。その前こそが重要なのである。以下に地理志燕地倭人条を示す。

    然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

    以下読み下し文

    然して東夷の天性柔順、三方のほかに異なる。故に孔子、道の行われざるをしみ、いかだを海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆゑ)有るかな。楽浪らくろう海中に倭人あり、 分かれて百余国と為し、 歳時を以つて来たりて献見すとふ。

    訳文

    かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

    この条の前段には、楽浪郡が置かれる前の朝鮮について、が滅んだ後、箕子が赴いてを建て、人民を教化したとある。その仁を賞賛し、その教化が東夷全体に及んだ証拠として、倭人条が続けて記されているのである。ここで重要なのは、孔子がその生きた時代、即ち春秋時代に道が行われないと嘆き、海を渡って東夷の地へ行きたいと(九夷は、中国語で「九州=全世界」とあるのと同じで、すべての東夷、あるいは東夷を代表するものという意味)こぼしたことに対して、それには理由があったのだと続いている点である。有名な「楽浪海中に倭人あり…」の文はその後に続くのである。末尾の「云」は単に「と言う」と簡単に訳してしまっている場合が多いが、漢書は、個人が酔狂で書いた適当な感想文ではない。後漢王朝により、前漢の正式な国史と認められた書物なのである。従ってこの伝聞は、噂に聞いたなどという意味ではなく、そのように正式な記録が伝えられている。あるいは、信憑すべき歴史上のできごととして伝えられている。ということなのである。孔子がまさに「道が行われている」と信じたからには、野蛮人が物珍しげに都へやってきた程度のことであろうはずがない。威儀を正し、礼儀を守り、道理にかなった正式な遣使が定期的にやってきたからこそである。孔子はうろんなことを口にする人ではなかったから、孔子の言葉の根拠として挙げられた倭人の伝聞もまた充分に根拠があって書かれているのだ。

    なお、ここまでくれば、ではその天子とは誰か? は改めて述べるまでもないだろう。それは、天子である。孔子がいかに周礼を重視したかは今でも伝わっている。つまり、この条は、西周時代に倭人が朝貢していたことを示す重要な文章なのである。日本はその頃、縄文時代晩期(ウィキペディア日本史時代区分表に基づく)である。

    しかも、朝貢である限り、倭人は臣下ということになるが、臣下であればお目見えの際に表を呈するのが礼儀である。つまり、その頃の倭人には(もちろん渡来人/帰化人であろうが)、文字を読み書きできる者がいた=文字が伝わっていたという事実を見落としてはならない。現時点で、歴史的/考古学的に確認できる最古の文字は、志賀島の金印である。「漢委奴國王」という例の金印だが、これは拝受する方が文字を解さないと、光武帝がの使節に下げ渡す意味がない。もちろん現代のように誰でも読み書きできたわけではなく、上流階級の一部が読み書きできただけだろうが、とにもかくにもその頃には日本にも文字があったと言いうる証拠である。文字をもたらしたのは渡来人/帰化人であるのは間違いないが、別に前漢滅亡から後漢建国の頃に限らずそれまでも渡来人/帰化人は日本に来ていたのであり、とすれば、文字もそれだけ古くから伝わっていたと考えるのが常識である。倭人条はそれを裏書きしていると言えよう。惜しむらくは縄文時代晩期あるいは弥生時代初期の遺物でさえ文字の記されているものがないことである。今後の発見が待たれる。

    縄文人というと文字も知らず、記録も口伝だけで部族単位で小集落を作り、それぞれで牧歌的に狩猟採集していただけかのようなイメージがあるが、いかにそれが空想的で誤ったイメージであるかがわかる。漢書地理志の一文は、本来、そのように読み解くべき内容なのである。

    同日追記。なお、後漢時代に王充が著した『論衡』には、以下の文が含まれている。

    之時 天下太平 倭人來獻暢草 (第五卷 異虚第十八)
    時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 (第八卷 儒增第二十六)
    成王之時 越常獻雉 倭人貢暢 (第十九卷 恢國第五十八)

    王充は当時流行していた讖緯説・陰陽五行説に基づく迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理をこの書で徹底的に批判しているので、さすがに倭の朝貢が虚妄であると片付けることはできない。これも西周時代に倭が朝貢していたことを示す、貴重な証拠である。

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