• 日本の古代史を考える—補足5『後漢書』東夷伝倭人条全文

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    全文を引かずに揶揄してばかりだと不公平なので、以下に全文と訓読文をあげます。

    原文

    倭在韓東南大海中依山爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓竹矢或以骨爲鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆橫幅結束相連女人被髮屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹坋身如中國之用粉也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞爲恭敬人性嗜酒多壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盜竊少爭訟犯法者沒其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞爲樂灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以爲持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衞法俗嚴峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒東南行船一年至裸國黑齒國使驛所傳極於此矣

    訓読文

    倭は韓東南の大海中にり。山にりて居をす。およそ百國。武帝、朝鮮を滅してより使驛しえき漢に通じるところ三十國ばかり。くにみな王あり。世世よよ統をつたふ。の大倭王は邪馬臺國やまたいこくに居す。樂浪らくろうきょうの國を去ること萬二千里。其の西北界、拘邪韓國くやかんこくを去ること七千里。の地、大較おおむね會稽かいけい東冶とうやの東に在り。朱崖しゅがい儋耳たんじと相ちかし。ゆゑの法俗、多くは同じ。土は、禾稻くゎたう麻紵まちょ蠶桑さんそうよろしく、織績しょくせきを知り、縑布けんぷす。白珠、青玉を出し、の山にはたんあり。土温腝おんどんにして、冬夏菜茹さいじょしょうず。牛、馬、虎、豹、羊、しゃく無し。の兵、矛、楯、木弓、竹矢あり。或いは骨を以てやじりす。男子は皆黥面げいめん文身ぶんしんす。其の文の左右大小を以て尊卑の差をわかつ。の男衣はみな橫幅、結束して相連ね、女人は被髮ひはつ屈紒くっけいし、衣は單被たんぴごとく頭を貫きしかうして之をあらわし、ならび丹朱たんしゅを以て身をふんすること、中國の粉を用ゐるが如きなり城柵じゃうさく屋室おくしつを有し、父母兄弟はところことにす。ただ會同かいどうに男女の別無し。飲食は手を以てし、しかうして籩豆へんとうを用ゐる。ぞくみな徒跣とせん蹲踞そんきょを以て恭敬とす。人性酒をこのむ。壽考じゅこう多く、百餘歳に至る者はなはおほし。國、女子多く、大人には皆、四五妻有り。、或いはりょう或いは三。女人いんせず、せず。又俗は盜竊とうせつせず、爭訟少なし。法を犯す者はの妻子を沒し、重い者はの門族を滅す。の死、喪にとどまること十日。家人は哭泣こくきゅうし、酒食を進めず。しかうして等類は歌舞にきて樂をす。骨をいて以てぼくとし、吉凶を決するに用ゐる。行來、度海には一人をして櫛沐せつもくさせず、肉を食させず、婦人を近づけさせず。名を持衰じすゐと言ふ。し、みちりて吉利なれば、すなはち財物を以て雇ひ、病疾へいしつごとき害に遭へば、以て持衰がつつしまずとし、便すなはち共にこれを殺す。建武中元二年、倭奴ゐぬ國、みつぎものを奉り朝賀す。使人みずからを大夫たいふしょうす。倭國の極南界なり光武、印綬を以て賜ふ。安帝永初元年、倭國王帥升すいしょう生口せいこう百六十人をけんじ、まみゆるを願ひ請ふ。桓靈かんれいあひだ、倭國大いにみだれ、更に相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名は卑彌呼ひみこ。年長ずるも嫁さず。鬼神の道を事とし、く妖を以て衆を惑わす。これにおいて共に立て王とす。侍婢じひ千人。まみゆる者有るが少なし。ただ男子一人有りて、飲食を給し、辭語じごつたふ。居處きょしょ、宮室、樓觀ろうかん城柵じゃうさく、皆兵を持して守衛す。法俗は嚴峻げんしゅんなり。女王國より東へ海をわたること千餘里で、拘奴くぬ國へ至る。皆倭種といへどしかうして女王にぞくさず。女王國より南へ四千餘里で、朱儒しゅじゅ國へ至る。人長、三四尺なり。朱儒しゅじゅより東南へ行船一年で國、黑齒こくし國へ至る。使驛しえきつたふる所、これにおいてきわまる。

    現代語訳

    倭は朝鮮の東南の大海の中にあり、山野の中に住んでいて、だいたい百余りの国がある。前漢武帝が朝鮮を滅ぼして(楽浪郡を置いて)から交通が開けた国が三十国あまりある。それらの国にはすべて王がいて、代々血筋を残してきている。大倭王が邪馬臺國(やまたいこく)にいる。楽浪郡の境界より、邪馬臺國まで一万二千里ある。倭の西北の端にある拘邪韓國までは七千里である。その地はおおよそ、会稽郡の東冶県の東に位置している。朱崖、儋耳(共に、現在の海南島にあった地名)に近い。そのため、その法や風俗の多くが同じものである。土壌は、稲、紵麻、養蚕のための桑の育成に適しており、糸を紡ぎ布を織る術を心得ており、絹布を生産している。白珠(真珠のこと)、青玉を産出し、山からが取れる。気候は温暖で、冬でも夏でも野菜が採れる。牛や馬、虎、豹、羊、カササギはいない。矛や楯、木の弓、竹の弓で武装しており、動物の骨を遣って鏃にしている。大人の男は、皆顔や体に入れ墨をしている。入れ墨の左右上下の位置や大きさで身分の違いを表している。男性は皆横に長い布を巻いて結んでいる(具体的なスタイルは、風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。女性は、髪を伸ばしてまげを結い、単衣に作った布に頭を通して着ている(これも風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。また、中国で白粉を使うように、丹朱(赤い粉)を使って体を飾る。城柵があり、屋敷もあって、父母と兄弟は別々に住んでいる。会同でも男女で区別はしない。飲食は手を使い、籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る鉢)を用いている。風俗としてみな裸足である。身分の高い人の前では蹲踞して敬意を表す。そこの人の性質は酒を好む。年寄りが多く、百歳以上になるものがとても沢山いる。国には女性が多く、身分の高い人は夫人を四、五人持ち、それ以外でも、二人、あるいは三人の夫人を持つ。女性は浮気をせず、嫉妬もしない。また、盗みをする者はなく、訴訟で争うことも少ない。法を犯した者はその妻子を没収して奴隷とし、罪が重い者は、一族を滅ぼす。死人が出ると、十日余り喪に服する。家族は悲しんで泣き叫び、酒を飲んだり食事を取ったりしない。友人は歌い踊り音楽を奏でる。骨を焼いて卜筮を行い、吉凶を決める。旅に出たりあるいは旅から帰る時や、海を渡る時は、髪に櫛を入れず体も洗わず、肉を食べたり婦人を近づけたりしない者を一人供にする。これを持衰という。もし旅が順調だった場合は、財物を与えて賞し、疾病のような害があれば、持衰が謹まなかったせいだとして、すぐに全員でこれを殺す。建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が貢ぎ物を持って朝貢してきた。使者は自分のことを大夫だと言った。倭奴國は倭國の最南端にある。光武帝は印綬を授けた。安帝永初元年(西暦107年)、倭國の王たち、帥升らが奴隷を百六十人献上して、皇帝にお目見えしたいと願ってきた。桓帝(西暦146年〜167年在位)と靈帝(西暦168年〜189年在位)が在位の間、倭國は大変な内乱状態で、互いに攻め合い、長い間倭國全体を統治する王がいなかった。卑彌呼という女性がいて、年長になっても結婚しないでいた。鬼道の道に詳しく、あやしげな術で民衆をうまく導いていた。この女性を諸国がこぞって王に立てた。侍女やはしためが千人いて、直接顔を合わせた者はごく少なかった。男性がただ一人で飲食の世話や、奏上や指示の取り次ぎをしていた。日常の住居や、宮殿、楼観、城柵には兵がいて守備していた。法は極めて厳しい。女王国より東へ海を千里余り渡ると、拘奴國へ着く。みな倭人であるが、女王国には属していない。女王国より南へ四千里余り行くと侏儒国に着く。そこの人は身長が三、四尺くらいしかない。侏儒国より船で東南に一年の距離に裸國、黑齒國がある。交通のあるところはここまでである。

    さて、この条が『魏志倭人伝』を参照して書かれたことは確かであるとされています。そして、東夷伝を書いた者が(范曄の部下?)、その内容をよくわからないまま改変して引用したことも確かだとされています。中国人でも古典を読むにはちゃんと勉強してかなりの教養を身につけていなければならないことがよくわかる下りでもありますね。

    まずは「使「使。単純な誤字ですが、意味が全く変わってしまいます。漢字テストに出そうな違いですね。

    魏志倭人伝』では「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」つまり「古くは百国余り」と『漢書』地理志燕地条の記述を押さえた上で「漢の時代に朝見する者があって、今は使者や通訳が行き来する国が三十ある」だったのに、「凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國」=「(今でも)百国余りある。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてから漢との間に三十国ばかり交通が開けた」と、オイオイと言いたくなるような話に変わっています。

    魏志倭人伝』で陳寿がせっかく丁寧に会稽の故事を引いて中国の教化を賛美していた「當在會稽東之東」が「其地大較在會稽東之東」とただの地名にされてしまっています。そこに「與朱崖儋耳相近」と、元は「衣裳や農産物、動物や武器について、朱崖や儋耳と共通の点がある」という意味だったのに、日本がとんでもなく南にあることに改変されています。ここを書いた人は地理を知らなかったことがわかりますね。陳寿も報われません。

    魏志倭人伝』では「父母兄弟臥息異處」とちゃんと「寝る時は」と断っているのに、ここでは「父母兄弟異處」と完全別居として書かれています。困ったものです。

    元は「其人壽考或百年或八九十年」と単に長命の人が多く、中には百歳の人や八十、九十歳の人がいるというだけのことだったのが、「多壽考至百餘歳者甚衆」とすごい長寿国にされています。蓬莱伝説とか考慮して敢えて変更したんでしょうか。それとも単なる無知…?

    その次が前にも取り上げた「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」です。陳寿は「國大人皆四五婦下戸或二三婦」と平民でも複数妻を持つ者がいるよとしか書いてないのに、国に女性が多く(笑)、そのため皆が多妻であったと解釈したようです。まあ男の浪漫であることは認めますが。(笑)

    極めつけはやはりこれでしょう。元々「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」と、陳寿が書いた文を「桓靈閒倭國大亂」と改変しています。「その国は元々男性を王にして、七、八十年それが続いていた。倭國が乱れ…」という文なのですが、これが読めなかったようです。つまり「七、八十年倭國が乱れた」と理解してしまったのですね。そりゃ確かに大乱です(笑)。卑弥呼の遣使が魏の景初三年(西暦239年)ですから、そこから逆算して桓帝靈帝の在位中、乱れっばなしにしてしまったんですな。

    と今の我々は、古典の研究が進んでその読み方もほぼわかってるから偉そうに言えますが、きっとこれを書いた人はぽんと魏志とか渡されて、これ読んで引用してねとか言われて必死になって書いたんじゃないでしょうか。それはないか。とまれ、元は句読点も文の区切りもない白文ですから、ちゃんと習ってないと中国人の官僚=知識人でも間違えまくるという例でした。

    ところで最後に「使驛所傳極於此矣」とあるのもすごいミスです。「船行一年可至」とそういう話も(魏の官僚が)聞いてたよというだけの情報から実際に交流があるように変えてしまうのですから、間違う人は最後まで間違ったままという実例そのものになってました。わからない所は人に尋ねて勉強しましょう。(笑)

    それだけではナニなので、誤りではなく『魏志倭人伝』と情報が異なっている点についても触れておきます。

    まずは国名。「邪馬國」から「邪馬國」に変わっています。これは「倭(ゐ)」から五世紀頃には「大倭(たゐ、或いは、たいゐ)」と国名に「大」を付けて尊称するようになったからと私は考えています。それに国土が「山」がちなので、それを頭に付けて「山倭」→「山大倭」としたものが反映されたのでしょう。

    次に「以蹲踞爲恭敬」です。元々は「但搏手以當跪拜」と拍手していたとか、「下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬」と道で身分の高い人に会ったら後ずさりして草むらに入り、受け答えは地に這いつくばったり、両手を地面に付けて行うことで相手を敬うとあったのですが、ここでは単に蹲踞となっています。これは風習が変わったというより、尋ねた方が違ったからではないかと思っています。つまり、貴族同士で身分に高低がある場合は蹲踞して控え、貴族と平民の場合は這いつくばって控えるという恭敬を示す主体の違いではないかと。

    通常は以上を倭人条とするのですが、実は続きがあります。直接「倭」に言及する箇所はないのですが、興味深い内容が書かれているので、続けて掲載します。

    原文

    會稽海外有東鯷人分爲二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來論曰昔箕子違衰殷之運避地朝鮮始其國俗未有聞也及施八條之約使人知禁遂乃邑無淫盜門不夜扃回頑薄之俗就寬略之法行數百千年故東夷通以柔謹爲風異乎三方者也苟政之所暢則道義存焉仲尼懷憤以爲九夷可居或疑其陋子曰君子居之何陋之有亦徒有以焉爾其後遂通接商賈漸交上國而燕人衞滿擾雜其風於是從而澆異焉老子曰法令滋章盜賊多有若箕子之省簡文條而用信義其得聖賢作法之原矣贊曰宅是嵎夷曰乃暘谷巣山潛海厥區九族嬴末紛亂燕人違難雜華澆本遂通有漢眇眇偏譯或從或畔

    訓読文

    會稽かいけいの海外に東鯷とうてい人あり。分かれて二十國をす。また夷洲いしゅう及び澶洲せんしゅうあり。でん言ふ、しん始皇しかう方士徐福じょふくを遣わし、童男女數千人をひきゐて海に入り蓬萊ほうらいの神仙を求むれども得ず。徐福じょふくちゅうおそれてへて還らず。つひこの洲にとどまる。丗丗よよ相いけ、數萬家あり。人民、時に會稽かいけいに至り市す。會稽かいけい東冶とうやけん人、海に入りて行くに風に遭い、流移して澶洲せんしゅうに至る者あり。所在絶遠にして往來すべからず。論曰く、昔、箕子きしは衰えしいんの運をり、地を朝鮮にく。始めその國の俗は未だぶん有らず。八條の約を施すに及び、人をして禁を知らしむ。つひすなはゆう淫盜いんとう無く、門は夜にとざさず。頑薄がんはくの俗をめぐらし、寬略かんりゃくの法にけ、行うこと數百千年。ゆゑ東夷とういは通じ柔謹を以て風とし、三方に異る者なり。いやしくもまつりごとぶる所、すなわち道義存す。仲尼ちゅうじいきどおりいだき、以爲おもえらく九夷に居るし。あるいはそのいやしきを疑う。子曰く、君子これに居らば、何ぞいやしきこれ有らん。またただゆゑ有るのみ。その後、つひ商賈しょうこに通接し、ようやく上國に交わり、しかうしてえんじん衞滿えいまんはその風を擾雜じょうざつし、これに於いて從いて澆異ぎょういす。老子曰く、法令滋章じしょうにして盜賊多く有り。箕子きしの文條を省簡にして信義を用うるがごときは、それ聖賢の作法のみなもとを得たり。さんふ。この嵎夷ぐういに宅し、すなわち暘谷ようこくふ。山にすごもりし、海にひそみ、は九族。えいの末の紛亂ふんらんに、人は難をり、華をまじえ本をうすくし、遂に有漢に通ず。眇眇びょうびょうたる偏譯へんえき、或いは從い或いはそむく。

    現代語訳

    会稽郡の東の海上にある地に東鯷人がいて、二十国余りに分かれている。また夷洲(台湾のことだとされている)及び澶洲がある。伝によると、始皇帝が方士の徐福を派遣して子供の男女男女數千人を引き連れて海に出て蓬莱の神仙を求めさせたが、失敗した。徐福は失敗により誅殺されることを畏れて、とうとうこの地に留まることとした。以降、代々住み続けて戸数が数万戸にまでなった。その人々は会稽郡に来て商売をすることがある。会稽郡東冶県の人で、海に出て強風に吹かれて流されて、澶洲に流れ着く者がいる。その場所はあまりにも遠く、行き来は不可能である。論(昔の人物批評)によると、昔、箕子が滅びたので、朝鮮に去った。始めはそこの風俗もあまり褒められたものではなかった。八条の法を敷いて、その人々にしてはならないことを教えた。すると終いには、町では男女の不純な交わりや盗みがなくなり、門を夜に閉ざすこともなくなった。頑なで浅はかな風俗を少しずつ変えていき、寛容で簡単な法を守らせて、これを数百、あるいは千年行った。だから東夷とは交通があり、柔順で謹直であることを風俗とし、北狄、西戎、南蛮とは異なるようになったのだ。いやしくも、政が行き渡る所には道義があるのだ。孔子は憤りを感じて九夷(九はすべての意、転じて代表、中心の意)の地に行こうと考えた。ある者が九夷は卑しい者ではないかと疑った。すると孔子は、君子がいるのであれば、どうして卑しいことがあるだろうか、と言った。また、理由があるのだとも。その後、とうとう商人と接し、やっと中国と通交したところ、燕國の人衞滿衛氏朝鮮の祖)は、これを乱して低俗なものにしてしまい、それに従って人情が薄く謀反を考えるようになってしまった。老子は、法令が増えると、盗賊も数が多くなる。箕子が法律を省き簡単にして、信義を守らせたのは、聖人賢人のやり方の基本を押さえたのだ。と言った。編纂者の意見だが、この居所とした嵎夷(太古、日が上ってくる場所とされた東方の山)を、暘谷(太古、日が上るとされた場所)と言う。山に住み、海に潜り、その種族は九族(九夷=東夷のこと)である。が滅びる間際にの人たちが難を避け、中華の風俗を伝えて交え、その本性を薄くして、ついにはと通交した。遙か彼方の遠方であり、中国に従った時もあり、叛いた時もあった。

    冒頭は、『漢書』地理志呉地条の末尾にある「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」=「會稽の海外に東鯷人あり。分かれて二十餘國を為す。歳時を以て来たりて獻見すと云ふ」によります。會稽の海の向こうというと、沖縄あたりになるんですが、これらの諸島を二十あまりの部族が争って領有していたと言われると納得してしまいます。それとは別に夷洲、澶洲があるということなのですが、澶洲の位置が不明です。往来不可能と記されているのですから、かなり遠方、小笠原諸島とか、北マリアナ諸島、グアムでしょうか。しかし、たどり着いた者がいることをどうやって編纂者は知ったのでしょう。その情報源の方が不思議です。(この項、2013年6月24日に追記)

    「傳言」の傳とは、経書の注解を言うのですが、それが何という書かはわかりません。普通、単に傳と言えば「春秋左氏伝」を指すのですが、始皇帝徐福を派遣したのは、春秋時代どころか戦国時代も終わった後なので、この場合は違うことがわかります。ご存じの方がいらしたらご教示下さい。(この項、2013年6月24日に追記)

    「論曰」つまり、「過去の人物批評によれば」以降で語られている内容は、『漢書』地理志燕地条で、箕子が東夷を教化したことを詳しく述べ、その遺風が代々伝えられたことを指しています。また、孔子が言った言葉は、『論語』子罕第九にあります。ちなみに、『漢書』に言う、「海に浮を浮かべて…」の句は『論語』公治長第五が出典です。

    「贊曰」は編纂者、この場合は范曄もしくは倭人条を書いた人の意見であることを示します。「嬴末紛亂」の「嬴」は春秋戦国時代の王家の姓です。これは、戦国時代末、太子丹秦王政(後の始皇帝)を暗殺するために刺客として荊軻を送り込んだのですが、からくも失敗に終わり、これに激怒した秦王がを苛烈に攻め滅ぼしたことを指すと思われます。

    ちなみに、ここでもミスをやらかしています。倭人条の最初で、倭は会稽郡東冶県の東にある。と言っておきながら、ここでは、会稽海外には東鯷人がいて、その他に夷洲や澶洲があると言ってます。日本って東冶県と同じくらいの小さい国だと思ってたんでしょうか。なんだか、やっつけ仕事っぽいですよね。

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  • 事実に基づく歴史を伝えよう

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    婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

    とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

    人類の歴史は500万年とも600万年とも言われますが、そのほとんどをそうして暮らしてきたのです。氷河期の最中にたくましく生きて子孫を残してきた先祖に、私たちは敬意を持たねばなりません。

    ここで目を日本に向けます。縄文時代は、今から約14,000年前から紀元前六世紀に当たります。温暖で植生が豊か、海産物や川で取れる食料も豊富、危険な肉食獣がほとんどいない、という原初人類にとっては、パラダイスのような地でした。日本の地にたどり着いたリーダーは心底安堵して肩の力を抜いたでしょう。もはやリーダー一人が懊悩を繰り返して元来不可能な課題に対する決断を下さなくてもよくなったのです。となると、性も解放されてしまうのですが、放置すると集団はバラバラになってしまいます。そのままでは、性欲が非常に強化されていますから、各自勝手に乱交となって集団を統率できなくなります。リーダーはやはりどうすればよいか考えなくてはならなかったでしょう。そして、性を神に捧げる神事とすることで、野合を禁じ、集団で定期的に婚姻を営む形を考え出したのでしょう。これが「群婚」です。近親相姦の問題? あんなの学者が現行のタブーを正当化するためにひねり出した世迷い言です。近親相姦を繰り返すと本当に遺伝的障害が現れるかどうかは実験で確かめることも、観察で確認することもできません。早い話がわからないのですよ。でも、現在の日本人に全体として遺伝的に大きな問題があるように見えませんから、そういう問題などないんじゃないですかね?

    この「群婚」の遺風は後々まで、戦後の昭和まで残っていたことは既に述べました。ですが、日本中が全部そうだったとは限らないのです。ここで、『漢書』地理志の倭人について書かれた記述を思い出して下さい。あれは、西周時代に「倭」が朝貢していたことを表しているのだと述べましたが、それは即ち、「倭」—朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部一帯—に中国の風習が移入されたことも意味しているのです。西周時代といえば、今から三千年前に始まる古代の王朝です。少なくとも九州北部の縄文人は、「」の感化を受けていたと考えられます。縄文人には半分裸の未開人なんてイメージがありますが、縄文土器ひとつ取っても見ても、その美意識が現在の我々と変わらないか、あるいは上回っていることを示しています。そういう人たちがどうして未開でありえましょう。まして中国に朝貢していたということは文字すら知っていたことになるのです。縄文人の交易ルートが日本中に広く広がっていたことも併せて考えると、そこに、高度に組織化され、統率された人々の姿を見ないでいることは不可能です。そしてそれがあるからこそ、次の段階の婚姻「妻問婚」も可能になったのです。

    高群逸枝氏は、「群婚」に「族内婚」と「族外婚」の二段階あったと主張されていますが、それにしては後世に残った「群婚」風習がすべて「族内婚」的なものばかりなのが腑に落ちません。これは氏の勇み足で、私は日本には「族外婚」などなかったのだと考えています。そのような過程を経たのなら、それを示す遺風が必ず見つかるはずです。にも関わらず、その前段階の「族内婚」遺風ばかり見つかるのは、「族外婚」がなかった証でもあります。「群婚」から「妻問婚」に到るには、人々が氏族として統率されていないと不可能でした。いかに縄文時代弥生時代が豊かな時代であったとしても、現代とは比較になりません。個人で生きていくなどまず不可能でした。集団の協力があってこそ、族外の男を受け入れ、生まれた子を養うことができたのです。それは小さな数家族が集まっただけの小集団では保障できようはずがありません。もっと大きな氏族という枠組みがあってこそ互いの生活を保障し合えたのです。また、その枠組みに乗っかる形でしか、妻を集団外に求めることはできなかったのです。妻を他所に求めるということは、「群婚」が不利になる事態が既にないとできません。人口密度が高まり、集団と集団が接するように居住するようになると、そのこと自体がストレスとなって集団にかかってきます(とはいえ、現代の超過密社会を想像しないで下さい。狩猟採集を維持するにはとても広い領域が必要だったのです)。そのストレスを緩和し、集団間の対立を回避する方法としてやはり性が使われました。それが「妻問婚」です。そのような事態は、早ければ縄文時代中期に、遅くても弥生時代が始まる頃には生じていたでしょう。「群婚」で集団を閉鎖しているとそのストレスが緩和されず、ことによると暴発してしまいます。実際そうして争いになった集団もあったのでしょう。ここに至って集団保障(という概念があったかどうかは別にして)のために血を分けた一族をすべて統率し、氏族として全体の生存を保障すると同時に、性によって氏族間の緊張を緩和するに到ったと思われます。それが「妻問い」の形を取ったのは、氏族の政治過程を男が担っていたためです。言葉を変えると、外へ出て交渉事などを片付けるのは男の仕事であったため、男が女の元を訪れるという形になったにすぎません。従って子供も母の里で育てられる母系制が成立したと言えます。

    では「群婚」はなくなったのかというと、そういう訳ではありません。神事としての「群婚」は、弥生時代を経て、古墳時代に入り、飛鳥時代になってもまだ庶民の祭りの場に残されていました。それが戦後まで残っていたということは、すべての地域で行われていたわけではないにしろ、延々と余命を保っていたことがわかります。日本人が性に大らかなのは、性を特別視することなく、ムラの大人総出で楽しむ行事が根底にあったからです。ムラの性的行事と言えば「夜這い」が有名ですが、もちろん「夜這い」は柳田民俗学が言うようなお上品なものではありません。夜に男が女の元へ忍んで通うというのはセックスのためであって、馬鹿じゃなかろうかと思います。赤松啓介氏の著作を読めば、みなさんお盛んであったことがよくわかります。そういう意味では「夜這い」とは「婿取婚」や「嫁取婚」で性が封鎖されてしまうことへの「群婚」的反逆だったのかもしれません。「夜這い」の風習がほぼ全国にあったことはよく知られていますが、これをただの乱交だの強姦だのと同列視している人が結構居ることに驚きます。当然、「夜這い」もムラの規律に従って営まれた行事だったのです。ムラごとに掟が異なるので一概には言えないものの、基本的に男女で同意があったからこそ長く続いた風習であったことを忘れてはいけません。(この項2013年6月17日に追記)

    中国では「東周」になってから戦乱の世となり、朝貢どころではなくなってしまいます。この春秋戦国時代は、紀元前221年に「」によって統一されるまで、500年も続きます。ところがその「」もあっという間に滅んで、紀元前202年、王朝が開かれるまで、また戦乱です。その王朝が武帝の頃最盛となり、中国の正史の中でも特に有名な歴史書「史記」が司馬遷によって書かれます。「史記」には倭のことが出てきません。他に書くことが一杯あったのですから仕方ありませんね。その「史記」の「太伯世家」に「於是太佰、仲雍二人乃奔荊蠻、文身斷發、示不可用、以避季歷」とあります。中国では髪を切ることは文明人のすることではなかったので、太伯と仲雍がそれを以てして「」の跡を継がない決意を表したのですが、ここで「文身」と出てくることに注意して下さい。体に入れ墨をしたという意味ですが、後々重要になります。

    さて、そんな戦乱が続いたのなら、当然戦乱を避け、平穏な地を求めた人々がいたことは論を俟ちません。特に春秋時代の終わりには、の戦争が激しくなり、ついにに滅ぼされてしまい、そのに滅ぼされてしまいます。の人々が南西諸島を経由して日本へ逃れてきたこともまた、論を俟ちません。その人々が稲作をもたらしたことは確実とされています。そして「前漢」末から「」を経て「後漢」が建国されるまでもまた戦乱の中にありました。ここでも大量の避難民が日本を訪れ、定住したことでしょう。既に日本は弥生時代に入っていました。平和的に移住できた時代は終わりを告げており、ここ日本でも戦争が頻々と起きていました。外来の人たちと戦争になったこともあるでしょう。その戦争の結果、様々な部族を統合して「国」を建てる一族が次々と現れたと思われます。『後漢書』東夷伝を見れば、建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が朝貢してきています。既に国家が形作られていたのです。この時下賜された金印志賀島から出土したものであることは既に書きました。

    後漢書』東夷伝の倭人条は『魏志倭人伝』を参照して書かれたことが明らかなのですが、「使」を「使」と間違っていたり、「會稽東之東」を「會稽東之東」と勝手に書き直したり、「國大人皆四五婦、下戸或二三婦(その国で身分の高い人は妻を四、五人持ち、平民でも二、三人の妻を持つ者がいる)」を誤読して「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三(その国には女性が多いので、身分の高い者は妻を四、五人持ち、そうでない者も二、三人の妻を持っている)」と爆笑ものの説明をしていたりと、まあ当てにならないこと夥しいのですが、さすがに「後漢」の公式記録から引用された部分は信用してよいでしょう。

    さて、日本のことが詳しく紹介された史上初の書物が『魏志倭人伝』です。景初三年(西暦239年)卑弥呼に朝貢してきた時の記事を含め、その旅程や風俗まで説明されています。この旅程が、所要日数を距離に換算したものであることが、後の『隋書』で明らかになります。当時はレストランなんて気の利いたものはありませんから、食料を調達=狩りをしたり木の実、山菜を採集しながら旅をしたわけで、しかも保存技術も怪しいですから、一度に大量に狩りや採集をして食料を集めておき、旅程を急ぐ、などということも無理だったと思われ、平均すれば、一日に数㎞進むことがやっとだったのではないでしょうか。実際、狩りをしたり、木の実、山菜を集めてなおかつ料理して、そのついでに移動するような状態だったと思います。そしてその『魏志倭人伝』で紹介された「邪馬國」=「山倭(やまゐ)國」が、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、九州北部にまたがる国であったことは間違いなさそうです。九州中部、今の熊本県あたりから南は「狗奴國」だったのでしょう。なぜなら、『隋書』東夷傳俀国条では触れられている阿蘇山について書かれていないからです。

    さてその『魏志倭人伝』では「男子無大小皆黥面文身」で男性は全員入れ墨をする文化があったことを示しています。倭人が入れ墨をするのは、中華の教化が東の果てに及んだためである。と特に注記しているのです。「史記」の「太伯世家」に「断髪文身」が出ていたでしょう。の風俗として入れ墨は非常に昔から有名だったのです。その上、『魏志倭人伝』と同じ資料を参照して書かれたと思しき『魏略』には「聞其旧語自謂太伯之後」と書かれています。「その昔話を聞くと、自分たちは太伯の末裔であると言う」倭の人々は太伯の末裔だと言っていたのです。から渡来した人々がいたことは確実です。その人たちが入れ墨の風習を持ち込んだのでしょう。そして実際、中国江南から、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が発見されているのです。「男子皆露紒」とあるのでまだ冠を被る習慣がないこともわかります。「有屋室、父母兄弟臥息異處」とあるのは、「妻問婚」で男たちは妻方の実家で寝るからだと説明しました。「以朱丹塗其身體」と中国で白粉を使うように朱丹(赤い顔料)を使うとあれば、『古事記』や『日本書紀』で紹介されている風俗と随分異なることがわかります。また、神社で拍手を打って拝礼するのは、元々身分の高い人に対する礼であったことも書いてありました。一方で、この頃ヤマト近辺では「抜歯」の風があったのにそれには全く触れていません。このことからも、「邪馬國」がヤマト王権とは関係ないことが見て取れます。

    現代人の感覚からすると、入れ墨などヤのつく職業の人たちの特徴みたいに考えがちですが、元々は極めて実用的なものであったのです。それが装飾や身分を表す証に変遷していく過程にあったことも記されています。なぜ歴史学者は「記紀」には記述のないこの風習を重視しないのでしょうね。

    そして、空白の四世紀をはさんで、『宋書』に有名な倭王武の上表文が現れます。その「」の時代に編纂されたのが『後漢書』ですが、この時、国名が「邪馬國」=「山大倭(やまだいゐ)國」に変わっています。既に国名に「大」を冠して恥じない実力を倭が備えていたことを示します。当時の倭の風俗についてはわかりませんが、倭王武の上表文から、先祖代々文字通り東奔西走して戦争していたことがわかります。おそらく東は美濃尾張まで、西は肥前天草を征し、北では新羅高句麗と激闘していたのでしょう。南が書かれていないことを考えると、『魏志倭人伝』に言う「狗奴國」は既に征していたか、あるいは「狗奴國」自体が膨張して倭の国々を従えていたのかも知れません。「記紀」にある「神武東征」もこの頃のことではないかと筆者は考えています。「記紀」には神武天皇淡路島から大阪湾に出る際、明石海峡側ではなく、鳴門海峡側をルートとして選んだことが覗える記述があります。明石海峡側は「五色塚古墳」に象徴される強力な豪族が根を張っていて、これと正面から事を構えることを避けたのでしょう。このことは「神武東征」の頃、「倭國」はまだ吉備国(今の岡山県に広島県東部の一部と兵庫県西部の一部をあわせた領域)あたりまでしか支配もしくは同盟していなかったことを示します。それを考慮すると、むしろヤマト政権は、元々倭の東部前線基地と東部総督を兼ねていたのかも知れません。その由緒がヤマトと他の地方政権との違いとなったこともありえない話ではありません。

    宋書』が倭の風俗を伝えていないことは残念です。海外から見た倭の風俗は、『隋書』まで、即ち六世紀末から七世紀初頭まで空白のままです。しかし『隋書』によると、複式統治が行われていたので、卑弥呼以来の制度が続いていたことが覗えます。冠位十二階があったことはかなり早い段階から位階を設けて豪族を組織化していたことを覗わせます。それが倭王武やその前後の王によって創始されたと考えてもおかしくはないでしょう。そして「」の時代までは冠を被るという風習はなかったのですが、その頃定めたとあります。『隋書』には「男女多黥臂點面文身没水捕魚」とあります。『魏志倭人伝』では男子のみが実用から入れ墨をしていたのが、男女共通の習俗に変化しています。身分を表し、装飾を兼ねていたのは言うまでもありません。当たるも八卦当たらぬも八卦の卜筮は「知卜筮尤信巫覡」とあるのでこの頃には既に一般化していたこともわかります。嫁入りの風習を取り入れていたようですが、「男女相悦者即爲婚」ということで、後の嫁取婚とは全く異なるものだったことがわかります。「貴人三年殯於外」三年間の殯は、中国の儒教の影響がよく現れています。儒教では父母が死ぬと三年間喪に服するのが正式です。尤も、本家中国ではそのような礼は既に孔子の時代でも廃れていたことがわかっています。やはり春秋時代ですが、晏嬰という人が父の喪に本当に三年間服したことが天下の話題になっています。それくらい稀なことだったのです。孔子の死から千年以上経っているのにその教えた礼が形を変えていたとはいえ日本に保存されていたのが面白いところです。文化は中央で生まれ外部へと波及していくのですが、中央でそれが廃れた後も周辺ではよく保たれることが明らかになっています。方言の変遷を説明するのによく援用される理論なのですが、もちろん文化全般に言えることです。四世紀から五世紀の間に様々な風習が中国から影響を受けて生まれていたことがわかりますね。

    日本が中国から影響を受けた風習というと、殯と関連して土葬があげられます。日本は仏教が入った後も長い間土葬が併せて行われていましたが、それは死者の肉体を神聖視し、様々な儀式を儒教が行ったことに由来します。また仏壇というと位牌がつきもののように日本人は考えますが、この位牌というのも由来は儒教です。年功序列=「先輩が上、後輩は下」も儒教です。ブルーカラーよりホワイトカラーを何となく上に見るのも儒教思想に由来します。和を以て貴しとなすという思想も儒教由来です。教育を重視し、子供を愛育すべしという考え方も儒教が根源です。年寄りを労り親を大切にするのも儒教の教えです。今時の宴会は無礼講が当たり前ですが、それでも敢えて無礼講を宣言する場合があるのも、儒教にその根っ子があります。掘り出せばもっと出てくると思います。間違いなく日本人の原風景には中国の影響があるのです。儒教ではありませんが、帽子を被るというのも中国の風習が元です。今や帽子を被る人を滅多に見なくなりましたが、ほんの四、五十年前までは正式な場で無帽は失礼だとされていたのです。閑話休題。

    さて、この頃のヤマト王権の影響範囲はどこからどこまでだったのでしょう。「記紀」にあるオケ王・ヲケ王の物語から、播磨は王権の及ばない地と考えられていたことがわかります。すると、西は摂津の国までだったのでしょう。東については美濃尾張あたりではないでしょうか。天武天皇の挙兵に応じた東国の兵とはそれらの国の兵団でした。とても全国政権とは言えませんね。

    では全国…とはいかなくても南は薩摩大隅屋久島種子島から東は美濃尾張までを配下に治め、号令をかける存在がなかったかというと、それが倭のオオキミだったことが、『宋書』倭王武の上表文から見て取れます。『隋書』においても九州の多利思北孤が倭のオオキミであり、倭を代表していたことがわかります。この多利思北孤の姓が「阿毎」であることは、天つ神を信仰しており、自分たちがその子孫であることを表していると考えられます。太宰府には天満宮がありますが、ここに祭られているのは菅原道真なのに、どうして「天神」さんというか不思議に思ったことはありませんか? 元々倭の神々の筆頭「天神」が祭られていたのが、倭の王族がヤマトへ移住した後放置されていたところに、菅原道真が合祀されたのです。「記紀」に記された天つ神も元々は倭の国の神様だったのです。

    隋書』には王の妻は「キミ」と呼ばれていたとあります。「キサキ」ではないのです。倭は複式統治を取っており、政治を見る王を「オオキミ」、祭祀を司る王を「キサキ」と呼んでいたのでしょう。この「キサキ」に女性が任じられたことは『魏志倭人伝』に見られます。『隋書』では兄弟統治になっていましたから、必ずしも女性に限るものではなくなっていたのでしょう。後代、大和朝廷ではこれが混交され、「キサキ」が「オオキミ」の夫人を意味するようになっていくのですが、元々は「キサキ」を夫人が代行する慣例があったのだと思われます。

    さて、六世紀の大乱といえば、「磐井の乱」があり、これは継体天皇が倭王朝を簒奪しようとした事変であると説明しました。実際、いったんは簒奪に成功したものの、各地の反乱を鎮撫するのに二十年かかり、しかもその後すぐに継体天皇は死んでしまった可能性があるのです。大和朝廷の勢力は駆逐され、再び倭が力を取り戻したのは言うまでもありません。こうして倭とヤマトの一世紀に及ぶ対立が始まるのですが、「記紀」はこれをなかったことにしています。まあ強盗に失敗しましたと書くわけにもいかなかったでしょうし、仕方ないですね。その外交方針を巡ってヤマト蘇我氏物部氏の対立があり、山背大兄王の謀反があり、乙巳の変があったことは既述しました。その宥和路線に転換した大和朝廷を待っていたのは、「白村江の戦い」での大敗北で、これを受けて大海人皇子大和朝廷へ避難し、天智天皇を支えて国をまとめていったのです。最終的に大海人皇子が「壬申の乱」を経て大和朝廷のオオキミの座を勝ち取り、倭の一族を呼び寄せて「皇親政治」を開始しました。敗戦で立て直しもままならなかった倭の国は以降、地方政権へ転落し、代わって大和朝廷が倭を代表する国になったのです。しかし、倭の人々は偉大なる倭王多利思北孤を忘れられなかったのでしょう。由緒のある建物をヤマトへ移築したくらいですから、英明な王であったことは間違いありません。

    代、つまり縄文時代晩期から続き、卑弥呼が総覧し、倭王武が勢威を張った倭國の歴史はここで終わりました。しかしそれは完全に忘れ去られたのでしょうか。私は「記紀」にその名残があると思います。天つ神の系譜に始まり、天孫降臨に至る物語は、元々倭國で伝えられたものでしょう。天武天皇は『古事記』や『日本書紀』の巻頭に敢えて神代を挿入することで自分たちの祖先を顕彰することを忘れませんでした。史書の編纂が中華の伝統を受けたものでしかないなら、神話を冒頭に配置することなどありえません。つまりその編纂に強い意志が働いたことを意味しているのです。偉大なる倭王多利思北孤の事績は、厩戸皇子と結びつけられ、スーパーヒーロー聖徳太子として『日本書紀』に綴られました。おそらく他にも倭國伝来の由緒のある人が仮託されている人物や天皇があるとは思いますが、今の私にはそれを解き明かす材料がありません。いつの日か、歴史学が江戸時代の蒙昧な国学者の影響を脱し、真の科学として発展して真相が解明されることを切に願ってやみません。

    さて、長々と振り返りましたが、これは歴史に対するひとつの説でしかありません。しかし、中華の文献を参照し、また日本の書物を読んでいくと、日本の歴史はこのような形でないとおかしいと思われるのです。もっと過激な説を唱える人がいることも知っていますが、中華文献絶対で、日本文献は完全に恣意の産物というのもありえない話です。私たちの祖先は、そこまで蒙昧だったのでしょうか。そんなことはありません。確かに、政治的な意図からある人物を貶めたり、逆に持ち上げたりすることはあったでしょう。それは中華の正史でも見られることです。あるいは、「倭」の歴史事実を「日本」の歴史に混入もしているでしょう。しかし、事件の年代を入れ替えたり、存在しない事件をでっち上げたりするでしょうか。私はそこまではしなかったと考えます。もちろん「記紀」が編纂されるまでは豪族ごとに自分たちに都合の良い修飾が入った私史が作られていたのでしょう。それを集大成して矛盾のないように整理したのが「記紀」の姿だと思います。歴史を恣意的に改編することはなによりも祖先に対する冒涜です。「記紀」の編纂者がそこまで傲慢であったとはどうしても思えません。

    最後に。あなたは子供たちに、自分たちの祖国、日本の歴史を語るとき何を基準に言って聞かせますか。教科書通りの薄っぺらい中身のない独りよがりな日本史ですか。それとも、連綿と続く誇り高い先祖の事績が詰まった日本史ですか。

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  • 日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子

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    法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。

    法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
    前太后崩明年正月廿二日上宮法
    皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並
    著於床時王后王子等及與諸臣深
    懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
    像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
    住世間若是定業以背世者往登浄
    土早昇妙果
    二月廿一日癸酉王后
    即世翌日法皇登遐癸未年三月中
    如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
    具竟乗斯微福信道知識現在安隠
    出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
    彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
    同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

    法興元三十一年歳次は辛巳(西暦621年)の十二月。キサキの太后が崩御された。明くる年正月の二十二日、上宮法皇は病に伏し、具合が悪く食事も喉を通らない。さらに王后も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。そこで王后や王子たちは、は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。「三宝の仰せに従い、上宮法皇と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」二月二十一日癸酉、王后がお隠れになった。翌日法皇も登遐された。癸未年(西暦623年)三月中、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背と台座)を造りおえた。この小さな善行により、道を信じる知識(造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、太后・上宮法皇・王后に従い、仏教に帰依して、ともに悟りに至り、六道を輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。この像は、司馬鞍首止利(しば くらつくりのおぶと とり)仏師に造らせた。

    法隆寺は九州太宰府から移築された建物であるとする説があります。山背大兄王が立てこもった斑鳩寺が壊され(その時の遺構が若草伽藍ではないかと思います)、新たに据えられたのが現在の法隆寺ではないでしょうか。立て替えられた跡があるというと、法起寺も該当します。それらを前提に考えると、この上宮法皇が聖徳太子でないことは一目瞭然となります。では誰でしょう。

    法興元三十一年が辛巳の歳と記していることから、これを西暦621年と見る説が定説です。法皇とあるのですから、仏法に帰依したオオキミを指していることは明白です。この頃、仏法を篤く信仰し、天下に号令した王といえば、倭の多利思北孤(あるいは多利思比孤)しかいません。

    「鬼前太后」を従来「后の太后」と解して、上宮法皇=聖徳太子との思い込みから(聖徳太子は、上宮王とは呼ばれましたが、上宮法皇と称された例はありません)、これを穴穂部間人皇女とする解釈が一般的なのですが、穴穂部間人皇女が太后と称された記録はありません。古代、皇太后は前の天皇の后が自動的になるものではなく、ちゃんと叙任の手続きがいります。穴穂部間人皇女が太后に叙せられたという記録はありませんので、これを穴穂部間人皇女とすると、僭称したことになります。そんなものを長く残る銘に記したとはとても考えられることではありません。これは、『魏志倭人伝』や『隋書』俀國伝に見られる「複式統治」の「キサキ」です。とすると、オオキミに並び立つ人ですから、太后という尊称も当然になります。

    干食王后を従来は膳大郎女としてきましたが、これは牽強付会もいいところで、全く根拠がありません。さらに上宮法皇と制作者以外の名前がこんなところにだけ出てくるのも変です。あるいはほかの王后と区別するために、固有名詞を出したのかも知れませんが、14文字×14文字でぴたりと収まるよう苦心された文章にそんな配慮がありえるでしょうか。これは臨終間際の上宮法皇の病が癒えて欲しいという発願に基づく像の銘なのです。ここは「干食」と「王后」を区切って読むべきでしょう。だいたい「ものを食べないお后様」って名前としても変じゃないですか。これは中国が日本を東夷と見下して書いた文章じゃないんですよ。

    私は多利思北孤が倭の王の中でも群を抜いた英傑であり、その後も長く尊崇されたのだと思っています。天武天皇が即位して一族を呼び寄せ、大和朝廷が日本を代表する王権となりましたが、倭の一族は偉大なる王、多利思北孤を忘れられなかったでしょう。遠く太宰府から所縁のある様々な建築物を移築し、故地を偲ぶ気持ちを慰めるとともに、偉大な王を追慕したのではないでしょうか。そのため、『日本書紀』において、本来は関係のない厩戸皇子に同じ崇仏の人であるゆえんを結びつけ、多利思北孤の事績を移して、長く人々に忘れられないようにしたのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑲壬申の乱

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    さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも大海人皇子と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。

    一方の大海人皇子は複雑であったかも知れません。自分の祖国は「白村江の戦い」でぼろぼろになってしまいました。オオキミすら捕虜になったのです。オオキミが死んでいれば、皇太子—あるいはそれは大海人皇子自身だっかかも知れません—が跡を継いで国を復興すべく一丸となって努力することもできたでしょう。しかし、オオキミは生きて唐に連れ去られたままです。賠償も過酷なものが課されたでしょう。自らは避難してきた身です。身を寄せた国に貢献するのは当然として、祖国とは異なり、たちまち国力は充実し、今や彼我の差は逆転しているかも知れません。

    そんな日々を過ごす大海人皇子の元へ「倭國」のオオキミが帰還したという知らせが入ります。同時に朝廷にも知らせが行ったでしょう。帰国することを考えなかったはずはありません。しかし、今更帰ってどうするのか、オオキミが受難の間、難を避けるためとはいえ、逃げていた自分はどんな顔をして帰ることができるでしょう。そして「大皇弟」という尊称はあっても平和になり、落ち着いた大和朝廷では逆に浮いてしまったのではないでしょうか。帰るに帰れず、しかし今いるところも終の棲家とならざる様子にひとり懊悩したものと推察されます。

    両者沈思黙考の日々が続いたのでしょう。しかし周りは放っておいてはくれません。大友皇子の近臣は皇太子とはいえ、多大な実績のある大海人皇子を警戒しています。当然天智天皇大海人皇子を遠ざけるように進言したでしょう。一方の大海人皇子周辺も「日本國」が立ち直れたのは自分たちの貢献を大としていますから、そのような朝廷の空気に拒否感を持つものもいたと思われます。当然、実力で地位をもぎ取るべしと進言する者もいたでしょう。そうしているうちに、大友皇子派の豪族に押されたのか、天智天皇は、大友皇子を太政大臣に任命します。あるいは大友皇子が皇太子であればこの叙任はなかったかも知れません。いずれにせよ、大友皇子が執政権を一手に握ることを天智天皇が許したことになります。それは、婉曲に大海人皇子に手を引くことを求めたことになるのです。

    むろん、天智天皇が生きている間は、大過なく過ごすことができました。大友皇子にあっては父天皇ですし、大海人皇子にあっては避難してきた自分を受け入れてくれた恩人です。両者ともその顔を潰すことなどできませんでした。

    しかし、天智天皇10年(西暦672年)、天智天皇は崩御します。そして、当然大友皇子は即位したでしょう。

    日本書紀』は、天智天皇の死の間際、大海人皇子は出家して吉野に隠遁することを願って許されたと書いています。ただちに吉野へ赴き、出家入道して修行を重ねていたところ、近江の朝廷が大海人皇子を謀殺するという情報を掴んで挙兵したことになっていますが…ここが一番怪しいのです。大友皇子大海人皇子を謀殺する理由がありません。大人しく出家していてくれれば、自然に影響力も衰え、放っておいても脅威ではなくなるのです。

    もう当然だと思いますが、大海人皇子が自ら立って実力で大和朝廷を奪うことを決意したと私は考えます。大友皇子は余裕綽々ですが、大海人皇子の方は時間が経てば立つほど功績を忘れ去られ、異邦人として拠って立つ地もなく消えゆく運命です。大海人皇子は赤い旗を掲げたとされていますが、これは高祖劉邦に自らをなぞらえたのだとする説があります。高祖劉邦は、赤帝の子を自称し、赤い旗印を使い、一介の布衣から身を起こし、秦帝国を倒して、項羽との天下分け目の戦いに勝って、新たに王朝をひらき、漢帝国を建てました。その劉邦に自らをなぞらえたということは、大海人皇子大和朝廷とは関係のない人であったことを示します。そして、即位の際には新たに王朝を開くことを宣言したと言いますから、天智天皇と同母の兄弟であったというのは、後世の粉飾であることがわかります。これには傍証があり、『新唐書』東夷伝日本条に永徽初めのこととして、「天智死子天武立」「天智死して子の天武立つ」とあります。唐に献上されていた史書では、そのように書かれていたのでしょう。続柄が変わると言うことは、粉飾であることの証左です(この一文、2013年6月22日に追記)。閑話休題。

    白村江の戦い」で大敗してもなお「大倭國」の残照は余命を保っていました。美濃やほかの東国諸国から援軍を得ることができたのはそのおかげでしょう。大和の地で大伴吹負が挙兵したり、河内国守来目塩籠が近江朝廷に背いたのは、大海人皇子の器量を見込んだところが大でしょう。近江羽田矢国が寝返ったのも、大海人皇子の挙兵に狼狽える近江王朝を見限ったからだと思います。こうして、大海人皇子の挙兵は成功し、近江朝廷は滅びました。大海人皇子はしばらく美濃で戦後処理にあたっていましたが、それを終えると飛鳥の地に入り、即位しました。しかし天武天皇は、天智天皇の恩を忘れたわけではありませんでした。弘文天皇は死んでも、他にも天智天皇の皇子は生きていたのです。彼らとともに「吉野の盟約」を結び、今後は一致団結することを子供らに誓わせています。

    さて、世に言う「壬申の乱」が終結した後、私は天武天皇が一族を「倭國」から呼び寄せたと考えています。それは、

    • 天武天皇の政治は「皇親政治」と呼ばれていますが、それは大和朝廷の皇族だけでなく、自分の一族を使ったと思われること。
      地着きの豪族は無理ですが、王子や王都の官僚たちなら移動が不可能ではありません。また大和朝廷の皇族は豪族の合議による政治に慣れていましたから、「皇親政治」の即戦力になったとは思えません。
    • 「倭國」で重要だったと思われる施設が、大和の地へ移築されていること。
      移住に当たって貴重品を持参するのは当然ですが、持ち運べない建物のようなものでも、移築が可能なら、その方が手間がありませんし、目に馴染んだものの方が喜ばれたでしょう。その代表が法隆寺だと言う人がいます。え? じゃあ山背大兄王が立てこもったのはどこになるのよ? と言う人もいるでしょうが、それが若草伽藍として残っているんじゃないでしょうか。『日本書紀』は天智天皇の9年(西暦670年)に「夏四月癸卯朔壬申夜半之後災法隆寺一屋無餘」と一切合切が焼失したと伝えていますが、釈迦三尊像とか薬師如来像は明らかに火災の影響を受けていません。どうやって火事の中運び出したんでしょう。謎ですね。それはともかく、逆に「日本國」が「」と手を組んで、掠奪したのだという人がいますが、持ち運びのできる金銀財宝はともかく、建物などを移してどうしようというのでしょう。むしろ、移住にあたり、故地を偲ぶ気持ちを慰めるため、自分たちで運んでいったという方がよほど筋が通ります。
    • 「倭國」が『舊唐書』より後の中国の正史に全く現れなくなり、国としては滅びたと思われること。

    によります。言葉を変えると、「倭國」による「日本國」乗っ取りです。別の言い方をすれば、「日本國」が「倭國」を併呑させられたことになります。もっと別の言い方をすれば、「倭國」による「日本國」の簒奪という言葉も使えます。天網恢々疎にして漏らさず。継体天皇はあの世で歯がみして悔しがったでしょう。

    ところで、天武天皇は非常に不思議な天皇で、

    • それまで当然であった豪族たちによる政治を排除して、「皇親政治」という皇族だけで執り行う政治を実施した。
      専制的とまではいかないにしても、権力をトップに集中させて、官僚を手足のように使う政治に慣れていた様子が覗えます。それは「倭國」で行われていた政治形態をそのまま持ってきたものでしょう。
    • 律令制を指向している。
      以前から中国では律令が施行されていたのですが、天武天皇まで大和朝廷がそれを取り入れようとした気配がありません。
    • 冠を被ることを強制している。
      それまでの髪型は角髪といって冠を被るのに適していませんでした。これを改めさせています。冠を被るのは元々中国の風習でした。それを取り入れた「倭國」の習俗に慣れていた大海人皇子には、官人や貴族が冠を被らないことに違和感を感じていたのでしょう。
    • 官人に武装させている。
      中国では官人であっても普通に武装していました。皇帝の御前など特別な場では武装を解除されましたが。なので、中国の制度を導入した「倭國」出身の大海人皇子にとって官人が武装していることは当然だったのです。天武天皇までは大和朝廷の官人が武装することはありませんでした。実は天武天皇以降も官人に武装させることはなかったのです。律令が制定され、軍団制が施行されたからだと言う人もいますが。
    • 恒久的な都を建設することを考えていた。
      「倭國」の首都「太宰府」は長安をモデルとした恒久都市でした。自分の代で「日本國」が「倭國」を併せた以上、当然恒久的な都を築くべきだと考えたのです。
    • 複都制を指向した。
      難波宮の跡地に難波京を置いています。これも中国周代からある複都制を模倣したものです。
    • 史書の編纂を発起した。
      古事記』『日本書紀』は共に天武天皇の発起によるとされています。中国では、前の王朝の歴史を、跡を継いだ王朝が書く伝統ができていました。しかしそれ以前の大和朝廷ではそんな建議すらありませんでした。
    • 五節の舞新嘗祭大嘗祭など主要な宮廷儀式を集大成した。
      おそらく、それまで「倭國」で行われていた儀式を移したのでしょう。
    • 国家神道を形成した。
      天照大神を祖神とする神々の系譜は、「倭國」で伝えられていたものが「日本國」へ移されたものと考えられます。伊勢神宮天照大神が祭られたのもおそらく、天武天皇の頃からでしょう。「倭國」は天つ神を信仰していたと考えられ、太宰府天満宮で「天神」そのものを祭っていたと思われます。天照大神は元男神だったのが大和へ移されるとき、大和朝廷がそれまで信仰していた祖神が女神だったため、性別を変更されたと考えられます。
    • 仏教を手厚く保護した。
      「倭國」はまた「多利思北孤」以来仏教を熱心に信仰し、保護していました。大海人皇子ももちろんそれに感化されていたでしょう。天武天皇以前に仏教を積極的に保護した天皇はいません。
    • 新羅と手を結んだ
      天武天皇は、遣唐使を一回も派遣していません。祖国を滅ぼされたのですから当然ですが。しかし、敵の敵は味方の俗諺通り、新羅とは通交し、遣新羅使も頻繁に送っています。この方針は文武天皇が即位するまで堅持されます。

    とこれだけ独特なことをしています。それまでの天皇観を破壊するがごときです。しかし、見方を変えれば、「倭國」で実際に行われていたことを移しただけであり、天武天皇自身は、特別なことをしているとは思ってもいなかったでしょう。

    「倭國」は消え去りましたが、なくなってしまったわけではありません。日本の中に溶け込んで今もその血を伝えているのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

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    蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされていますが、百済系の渡来人とする説もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうが、たった四代で成り上がった新興豪族なのは間違いありません。

    蘇我稲目大臣になったのは、宣化天皇の元年です。宣化天皇継体天皇の皇子です。このことから、継体の大和入りを支援した畿外豪族だったという人もいます。それはともかく、この稲目という人は崇仏派で、物部氏中臣氏らの排仏派と衝突したと伝えられています。古代の人々の宗教に懸ける情熱は現代人の想像を超えたところにあります。同時にそれは国家をどうまとめていくのかという統治論でもあったのです。

    しかし統治論は所詮という言い方では語弊があるかも知れませんが、方法論にすぎません。それで一触即発の事態に陥るでしょうか。継体天皇による九州王朝の簒奪の失敗からまだ時間は経っていません。むしろ、継体に従い大和に入った蘇我氏の長である稲目継体以来の倭國との対立=冷戦路線を主張する一方で、物部氏中臣氏はかつてあった友邦国として交流を復活させる宥和路線を主張したのではないかと考えます。これは国の存亡に関わる政治問題です。倭國の出方次第では、対立を続ければ攻め込まれる恐れがあり、一方で宥和路線を敷けば下手を打つと倭國の属国になってしまうという、極めてシビアな判断が求められる場面であり、国家の安危が関わるのですから、激論になったでしょう。しかしここで宥和路線を取るなら、継体天皇の業績が全くの無駄になってしまいます。継体によって引き立てられたと思しき蘇我氏にとって、それは氏族の否定に等しい暴論でした。国家の安危に加え、自分たちの氏族の安危がかかっているのですから、相手を謀殺してでも方針を固めたいと考えたのではないでしょうか。

    しかし、この時は欽明天皇の取りなしもあっていったんは収まります。おそらく、表向きは対立=冷戦路線を続けながら、裏で交渉の糸口を探るよう裁定が下ったのでしょう。

    次の代になり、蘇我馬子稲目の跡を継いで、対立=冷戦路線を続けます。物部守屋宥和路線です。この対立は妥協点を見いだすことができず、これに皇位継承問題がからんで、遂に戦争になってしてしまいました。おそらく、物部氏中臣氏の交渉が実り、宥和路線に手応えを感じていたのでしょう。物部守屋は一歩も引きませんでした。対する馬子も引けません。その結果は蘇我氏の勝ち。つまり、対立=冷戦路線が改めて規定方針となったのです。

    さて、蘇我氏が勝ったことで、蘇我氏側についた泊瀬部皇子は即位して崇峻天皇となります。ところが、本音は宥和派だったのか、あるいは蘇我氏の勢力が強大で恣に政治ができないことを密かに憎んで宥和派を取り立てたのかわかりませんが、馬子の逆鱗に触れることをやらかします。『日本書紀』崇峻紀によると、崇峻天皇四年に、「冬十一月己卯朔壬午、差紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴囓連、葛城烏奈良臣、爲大將軍。率氏々臣連、爲裨將部隊、領二萬餘軍、出居筑紫。遣吉士金於新羅、遣吉士木蓮子於任那、問任那事」「(崇峻天皇の四年(西暦591年))冬十一月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍に任命した。臣、連それぞれは氏族を率いて副将や部隊とし、全部で二万人余りの軍となり、出陣して筑紫に下った。吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わして、任那のことを問うた」とあります。皆まで言う必要はありません。いきなり「倭國」と手を組んで軍を出してしまったのです。まさかの宥和派大勝利。馬子の面子丸つぶれです。激怒しない方がおかしいでしょう。しかしことは国の安全保障です。物部守屋らの打った手が正しかったわけですから、ぐっとこらえたでしょう。ところがその翌年冬十月、猪を狩って献上した人がいたのですが、その頭を落とされた猪を指さして「何時如斷此猪之頸、斷朕所嫌之人」「何時になったら、この猪の頭のように朕の嫌いな奴の頭を落とせるものやら」と暗に馬子を始末してやると宣う始末。まさか大王に手出しはできまいという油断があったのか、馬子を舐めていたのかわかりませんが、ここまで虚仮にされて黙っている馬子ではありません。また、放置すれば、自分ばかりでなく、蘇我氏という氏族そのものが族滅させられることは火を見るより明らかです。同じ年の十一月、馬子の配下、東漢直駒崇峻天皇は殺されてしまいます。こうして史上唯一、臣下に弑された天皇が生まれたわけです。(この項、2013年6月17日に追記)

    馬子の嫡男、蝦夷も父の敷いた対立=冷戦路線を守りました。だから、甘樫岡に天皇の宮を中心とした防衛施設を建設したのです。それは継体天皇の怨念と言ってもよいかもしれません。しかしそれではいつか、強大な「倭國」に蹂躙されることになるのではないか。ことにいったん手を取りながらまたその手を振り払ったのですから、その懸念は一層深まります。蘇我氏を憚り、表だった動きは見せませんでしたが、宥和派は、裏で連絡をとりあい対応を協議したでしょう。「倭國」も宥和派が主流になってくれた方が、いつ叛くか分からない対立=冷戦派よりましでしょうから、敢えて旧悪に囚われず、謀略の手を伸ばしたと思われます。

    蘇我氏は強大です。これに戦争をしかけるのは無謀というものです。したがって、現職の大臣であり、蘇我氏宗家の嫡男である蘇我入鹿を暗殺し、クーデターを起こすことを計画したのです。だから、中臣鎌足がここで登場するわけです。中臣氏物部氏と並んで宥和派でした。しかし、臣下で争っていても頭に頂く皇族がいなければ大義名分が立ちません。最初は軽皇子に目を付けましたが、その器なしとして見放し、次に中大兄皇子に目を付けました。『日本書紀』では二人で計画を練ったとありますが、暗殺によるクーデターとはいえ、その後豪族たちの支持がなければ、ただの殺人事件で終わってしまいます。宥和派による支持が既にあったと見てよいでしょう。

    そして「乙巳の変」が起きます。皇極天皇の四年(西暦645年)朝鮮三国の親善使節を受け入れる儀式があり、これに大臣である入鹿は出御しないわけにはいきません。そこを狙われ、非命に倒れました。入鹿は「私に何の罪があったというのだ。(この者たちを)お裁き下さい」と天皇に直訴したと言われています。しかしそれも虚しく、入鹿は殺されてしまったのです。これを聞いた蝦夷は、国のためと推進してきた倭國との対立=冷戦路線蘇我氏を太らせてきたとともに、諸豪族の不満をここまで募らせてきたのだと思い、その反発のすさまじさを感じて従容として死についたものと思われます。

    この入鹿の悲痛な叫びは決して専横をこととし、上宮王家を私怨で討ち滅ぼした人物の口から出てくる類のものではありません。

    しかし、変は成りました。中大兄皇子はこの時19歳。平安の頃ならともかく、当時は即位に難のある年でした。そこで軽皇子を立てたのです。

    その孝徳天皇は難波に出て、難波宮を営みました。奈良の山のから開けた海辺に出てきたのです。その理由は、これから倭國と宥和路線で接していくその第一段階の表明でありました。聖徳太子の前例にちなんで、皇太子が摂政をする体制を取り、実際の政務は皇太子に立てられた中大兄皇子が見ました。彼は倭國との関係改善に熱心に取り組んだでしょう。またこの路線に不満があると見られた皇族、有間皇子をためらうことなく謀殺しました。

    ここで中大兄皇子に天佑が下ります。西暦660年の百済の滅亡です。危機を憶えた倭國は旧悪などふっとんでしまい、日本國との関係を改善し、できれば同盟を結ぶことを考慮したでしょう。いや、同盟したと言ってよいと思います。なぜなら、倭が発出する軍に日本國からも軍を出したと見られるからです。宥和路線が完全に成功したのです。

    ところが、そうして軍を送り出してはみたものの、結果は大惨敗で、倭國は王(『日本書紀』で筑紫君薩夜麻と記されている人物)が連れ去られ、亡国となります。中大兄皇子にとっても驚天動地のできごとだったでしょう。「白村江の戦い」は、よく言われるように倭・百済連合軍が衆において負けていたわけではなく、むしろ新羅軍より大軍を繰り出したことがわかっています。それで大敗北を喫しているのですから、群臣の受けた衝撃もひとかたならぬものがあったはずです。中大兄皇子らが進めてきた宥和路線が意外な形で「日本國」に悪影響を及ぼすことになったわけのです。これは中大兄皇子の求心力を大きく低下させたでしょう。

    一方、いち早く敗報を耳にし、王が捕虜となったことを知った倭國は、ただちに皇子たちに伴をつけて避難させたと思われます。もちろん他にも避難した人は大勢居たでしょう。四国、吉備などに留まった人もいたでしょうが、身分のある人は同盟国「日本國」を頼ったと思われます。その避難した皇子の一人こそ、大海人皇子ではなかったでしょうか。大海人皇子の海人は「阿海」=「」で、それに「大」が付された名前です。九州王朝の正統後継者であることを示す、立派な名前であることがわかります。中大兄皇子も「大皇弟」という尊称を奉り、迎え入れることに何ら異議はなかったと思われます。そしてまさにこの後から大海人皇子が「大皇弟」として『日本書紀』に姿を見せるのです。

    大海人皇子、天武天皇は、生年が『日本書紀』に記されていません。他に記されていないのは、崇峻天皇だけです。崇峻天皇はともかく、「壬申の乱」を経て「皇親政治」で強権を発揮し、日本の律令制の土台を造った人で、なおかつ崩御してから『日本書紀』編纂までそれほど時間が経っていない人物の生年を書き忘れることなどありえるでしょうか。『日本書紀』は天武天皇に特別に二巻を費やしているにも関わらず。そういう不審の目で見ると、この人は『日本書紀』において、『天武天皇』紀以外で名前が出てこないことに気付きます。これだけ偉大な帝王の若年の際の事績が不明というのがいかに奇異なことであるかおわかり頂けるでしょうか。しかも一説には天智天皇より年長だったとあり、まさに謎の人物なのです。

    天武天皇らしき人は、『天智天皇』巻において、前振りもなく突然、大皇弟、東宮大皇弟として登場します。が、最期まで名前は書かれません。あるいは大海人皇子とは後に自称した名前でこの頃は別の名前だったのかも知れません。また、いつ立太子したのかも書かれていません。出自が「倭國」の皇子なら、「日本國」である大和朝廷の皇室関係の記録に生年月日が記されていなくても当たり前です。「倭國」から避難してきたのなら、大和朝廷で立太子の儀式などするはずもありません。

    つまり、それもこれも「倭國」の亡命皇子であったためです。中大兄皇子は当然、これを歓迎したと思われます。期せずして正統王朝の跡継ぎが転がり込んできたのです。中大兄皇子はこの皇子に非常に気を遣い、「大皇弟」という尊称を奉っただけでなく、娘を四人も娶せています。同母の弟であれば歳が離れていたとしてもこんな気の遣い方はしません。他人であるからこそ婚姻でその紐帯を緊密にする必要があったのです。しかも、いずれ子が産まれれば、名実共に正統王朝の血が大和朝廷に入ることになるのであり、それも歓迎すべきことです。一方大海人皇子も、身一つで逃げてきたのではないであろうにしろ、そこまで厚遇してくれる中大兄皇子に感謝したことでしょう。加えて、皇子やその取り巻きは「倭國」の先進的な政治形態や軍備の知識がありました。「白村江の戦い」で惨敗を喫した日本には課題が山積していました。倭國は滅亡していないものの、王が不在では滅んだも同然です。これまで対外交渉は「倭國」が中心となっていましたが、今後は独立してやらねばなりません。

    その布石としてただちに遣唐使を派遣しています。もちろんこれは「日本國」にやってきた唐使を送り返す便だったのですが、唐使に対して弁解これ勉めたでしょう。おそらくその甲斐あって、「日本國」にはさしたる咎もありませんでした。

    とはいえ、「乙巳の変」を起こしてまで推進した宥和路線で、とんでもない国難が降ってきたわけで、中大兄皇子の即位は当分群臣の支持を得られない情勢だったと思います。実際、斉明天皇亡き後、相当の期間を称制でしのいだのですから、抵抗が極めて強かったのでしょう。かといってこの国難に当たって他に皇位に就くべき皇子は他におらず、称制を続けるしかなかったのです。そこで、大海人皇子は厚遇に応えるため、離反しがちな豪族たち、特に地方の豪族に思い止まるよう説得に勉めたものと思われます。「大倭國」皇子の看板が効いたことは疑いありません。

    さらに、大海人皇子とその取り巻きの意見は、さすが先進国「倭國」と唸らせる施策も多かったのでしょう。そしてもはや海沿いに都するのは却って危険であり、内陸に下がるべきだと言ったのではないでしょうか。ところがここに障害が発生します。孝徳天皇その人が宮を移すことに反対したのです。なぜでしょうか。それは天皇と言っても名ばかりで中大兄皇子が諸事専断していたことに対する不満が爆発したのでしょうか。あるいは存在感を増す「倭國」皇子大海人皇子に危機感を抱いたのでしょうか。今となってはわかりません。中大兄皇子はそんな天皇を放置して、皇后、皇子たち、大皇弟や群臣を引き連れて西暦653年、近江宮へ移ってしまいました。

    中大兄皇子は、大海人皇子らの建言を受け入れ、飛鳥を中心に西国へ防衛網を構築していきます。「倭國」にも改めて防衛施設の建設が提起されたことでしょう。水城の造築はこの頃のこととされています。こうした大建築事業は従来の豪族任せのやり方では実現不可能です。各地から直接税を収拾し、その莫大な支出に当てなければとても間に合うものではありません。実際、税の徴収を示すものと思われる木簡はこの頃から出土し始めます。

    西暦668年、長年の称制に終止符を打ち、中大兄皇子は即位して、天智天皇となります。なぜこの年なのでしょうか。この年、第六次の遣唐使がありました。実際にはへ行っていないとも言われていますが、その前の遣唐使で来日したの使者、法聡がこれで帰国しています。この遣使は、送唐客使だったのです。つまり、「白村江の戦い」の事後処理について、漸く決着がつき、安堵することができたからだと思われます。そして周囲もそれを認めたので即位となったのでしょう。

    つまり、世に言う「大化の改新」はなかったにしても、継体天皇以来対立=冷戦路線を取っていた「日本國」が宥和路線に転換した画期、という意味では「改新」であったのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑪隋書東夷傳俀国条

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    やっとたどり着いた感があります。『隋書』東夷傳俀国条です。『隋書』は、「」の太宗の勅により魏徴長孫無忌らが撰進しました。書かれているのは「」の時代です。西暦581年から西暦618年に当たります。かの有名な「日出ずる処の天子」という表現はおなじみではないでしょうか。『隋書』からは、七世紀初頭の日本がどのような様子であったのかが覗えます。

    俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王

    俀国は百済新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。

    あれ、「倭」国じゃないね? と思いますよね。私もそう思います。以前も書いたと思いますが、この頃、倭は百済新羅を従え、これらと平和な関係にあり、国内も平穏でした。ですので、それまでの倭という称号に大をつけて「大倭」(「たいゐ」、または「たゐ」)と自称していたのでしょう。ところが、中華からすると、国の名前に「大」を冠してよいのは、中華帝国だけですから、蛮夷の分際で生意気な!ということで読みが同じ漢字の「俀」にしたのだと思われます。それにこの頃には「倭」は「わ」と読むようになっていたので、遣使が自称する国名に一致しなくなっていたのだということも併せて言いうると思います。ところで、『後漢書』の凡ミスがここにも引き継がれています。「使」を「使」と間違うから諸国一斉に朝貢していたことがあるかのような話に…范曄の馬鹿!:D

    夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

    夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國なり。

    ここで重要な指摘が出てきます。「夷人不知里數」ということは、例の『魏志倭人伝』の旅程も倭人からの聞き取りですから、「日数」であったものを後から「里数」に換算したものであることがわかります。なにしろ「山島」に拠ると言われた国ですから、同じ距離を行くのでも平野が続く中華と違って、何倍もかかったことでしょう。次に「都於邪靡堆」とある部分です。「邪」は「や、じゃ」、「靡」は「みぇ、みゃ」が一番近い発音でしょうか。「堆」は「とぅぁい」となります。これに対して「馬」は「ま」、「臺」は「だい」です。つまり今は「やみゃとぅぁい」と言うがこれは『魏志倭人伝』に出てくる「やまたい」と同じだよと言ってます。しかし少々発音が異なるとは言え、まあ少しなまったかなという程度です。本来は「邪馬壹」=「やまゐ」と書かれていたのですから、昔の「やまゐ」が今の「やみゃとぅぁい」だと言っていることになります。『魏志倭人伝』に現れた「邪馬壹國」と「俀國」は同じ国であることがここで保証されたわけです。さてその地勢は「東高西下」ですから、東が山がちで西が平野というところを探せば俀國の場所が比定できそうな感じです。でも実はこれを真剣に検討すると、奈良盆地すなわち大和は比定の対象から外れてしまうのです。大阪平野が東にありますから、「東高西下」になりません。はてさて困ったものですね(笑)。南北三ヶ月、西に五ヶ月で海に出るというのも謎です。その南北や西の果てがどこを指すのかわかるように書いていてくれれば…と詮無いことを考えたりします。

    古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國

    古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。

    ここは従来の正史を受け継いで書かれています。ここでも『後漢書』が「会稽東の東」などという凡ミスを犯すから、延々引き継がれています。何と罪深い…

    桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通

    後漢の)桓帝靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。からに至るまで代々通交してきた。

    ここも『後漢書』が「桓靈閒倭國大亂」なんて阿呆なことを書いたから、それがまた引き継がれています。こうして単なる錯誤が定説になっていくわけですね。

    「法甚嚴」とありますが、「魏志倭人伝」では「其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族」とあるので、今ことさら厳しくなったというわけでもなさそうです。また、「自至于代」とあるので、少なくとも「」の時代から「」「」を経て「」の時代まで朝貢してきた国はずっと同じである。ということがここでもわかります。

    開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗

    開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ)、使いを遣わせて宮城に詣でた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。

    最初の遣隋使です。さて、いよいよ問題の核心に迫ってきました。従来「多利思比孤」は「聖徳太子」に比定されてきたのですが、「聖徳太子」は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいます。後からまた出てきますが、答礼使の裴世清が実際にこの王に会っていますから、この「多利思比孤」は実際に王であったと考えられるので、聖徳太子説は皇国史観患者の妄説であったことが明らかになります。それより重要なのは、姓があることです。「阿毎」は「天」のことではないかと思うのですが、天皇および皇族には古来姓がありません。無論、聖徳太子にも姓はありません。この点で、この王を天皇や皇族に擬するのは不可能だとなります。しかし号するところは「阿輩雞彌」で、これは「大王=オオキミ」ではないかと考えられています。私もこの点は賛成です。とすると、この王は誰だという問いに帰ります。

    使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之

    使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。

    高祖とは文帝楊堅を指します。有名な煬帝のお父さんですね。ここで語られている内容は明らかに「複式統治」を表しています。『魏志倭人伝』で「有男弟佐治國」とあったのと同様の統治形態ではないでしょうか。しかし「記紀」を読めば明らかなように、近畿天皇王朝が複式統治を行ったという記録はありません。

    王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利

    王の妻は雞彌(けいみ、きえいみえ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふっり、りかみえたふぃぁっり)と呼ぶ。

    王の妻は「キミ」と呼ばれたのでしょう。太子は「リカミタフリ」なんでしょうが、どういう意味なのかちょっとわからないですね。ここで、俀王「多利思比孤」には妻がいたこと、さらに後宮には女性が六百から七百人もいたことがわかります。ということは、「多利思比孤」が「推古女帝」でないことも明らかです。あるいはその夫の「敏達天皇」でしょうか。しかしそうなると、「推古天皇」を基準とした年代比定が全部誤りになってしまい、日本史の辻褄があわなくなってしまいます。痛し痒しですね。大胆な方は「多利思比孤」を「蘇我馬子」だと主張しています。が、いかな馬子といえど、オオキミを僭称して許されるとは考えられません。実は馬子がこの時天皇だったのだ。という主張の方がよほどすっきりします。

    内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼

    内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。

    はて、この十二の等級と称号はどこかで見たような…という方は日本史に詳しい方ですね。「聖徳太子」が制定したと言われている「冠位十二階」と同じです。ただし、一部位階の順番が異なります。この「冠位十二階」は、実際は「蘇我馬子」が大きく関与していたことがわかっています。しかしながら、これが「冠位十二階」を表していると解釈することはできません。なぜなら「冠位十二階」なら位階に応じて冠を授けられるのですが、ここにはそのような記述がないからです。

    其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上

    その国の服飾について、男性は裙襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。

    至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾

    隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。

    これが「冠位十二階」制定のことだとされています。しかしここには、冠の制度を定めたとだけあり、官位に対応していたかどうかはわかりません。冠と言いながら絹で作製されているところを見ると「冠」というより「帽」ですね。注意して頂きたいのは、ここは俀國の使者がの役人に語った内容が綴られている点です。『日本書紀』では「冠位十二階」の制定は西暦604年のこととされていますから、話が合いません。後世の話を編纂者が間違えてここに挿入したのでしょうか。それこそまさかです。使者の話で聞いたから、まさにここに挿入されているのです。むしろ粉飾は『日本書紀』の方でしょう。裙襦は、中国の服そのままではなく、女性の襦裙に似ていたのでそのように書いたのでしょう。

    婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有襈攕竹爲梳

    女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。

    高松塚古墳」の壁画をご覧になった方は多いでしょう。裳とはあの裾を引きずるようなスカート風の衣裳のことです。襈攕とは何でしょう。調べたのですが、わかりませんでした。ご存じの方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いです。

    編草爲薦雜皮爲表縁以文皮

    草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。

    畳も椅子もありませんから、敷物は必須でした。

    有弓矢刀矟弩【矛扁に旁賛】斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦

    弓矢、刀、矟(矛の一種か?)、弩、【矛扁に旁賛】(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。

    この件を読むと私は『宋書』に掲げられた倭王武の上表文を思い起こします。「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」。四世紀から五世紀は、戦争に次ぐ戦争の時代でした。しかし、それも今は昔。百済新羅との仲は良好。国内も大きな乱はなく、平穏無事。このような情勢であるからこそ、「大」の尊称を付けて「大倭」(たいゐ、たゐ)を自称していたと思うのです。

    其王朝會必陳設儀杖奏其國樂

    その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。

    なんとなく、大和朝廷の朝会にはイメージがあわない気がします。異国の風を感じますね。

    戸可十萬

    戸数は十万ばかりある。

    魏志倭人伝』では十七万戸余りだったはずですから、随分減ってます。四世紀から五世紀まで続いた外征のためでしょうか。「磐井の乱」という内乱もありましたし。

    其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛 或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣

    その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。道理の正しくない者は手が爛れるという。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。邪な者はまた手を噛まれるという。

    さて、隋の役人に「法甚嚴」と書かれたその実際が述べられています。穏やかな刑罰がひとつもありません。確かに厳しいです。は開皇の治と呼ばれる時代で、文帝は開皇律令を定め、残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかり易く改めました。それを知るの役人には「前時代的な」厳しい法と思えたのでしょう。木で膝を圧迫するというのは、重い木材を膝の上に積み重ねる拷問で、強弓の弦で首筋を打たれたら気絶くらいはしたでしょう。沸騰した湯の中に素手を入れさせるというのは、実は「盟神探湯」と言って、上古中国にもあって伝えられた由緒正しい正邪判定法だったのです。これは祖霊や神々の前で執り行う神聖な儀式で、湯を前に対決すると邪な心を持つ者は祖霊や神々の威に服して、湯に手を入れる前に自ずから罪を自白するとされたのです。本当に手を入れたらどっちも大火傷ですから祖霊や神々を信仰していない者には無意味な判定法でもあります。の時代にはとっくに廃れていたので、奇妙な風習として取り上げられたのでしょう。

    人頗恬静罕争訟少盗賊

    人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。

    この辺りは『魏志倭人伝』の頃から変わっていませんね。ほっとします。

    樂有五弦琴笛

    楽器には、五弦、琴、笛がある。

    五弦のとあるのはどんな形でしょう。或いは和琴のことでしょうか。現代の我々がと言ってイメージする楽器は、正しくは「」といって本来琴とは別の楽器でした。

    男女多黥臂點面文身没水捕魚

    男女の多くは肩から手首までと顔、体に入れ墨をし、水に潜って魚を捕らえている。

    そして、しっかり入れ墨の風習に触れられています。この「記紀」には書かれていない風習の存在していた地が俀国(倭國)なのです。

    無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字

    文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手し、はじめて文字を有した。

    文字がなければ、代々朝貢していた時の上表文はどうやって書かれたのだ? ということになりますが、これは民間の風俗を記した段落であることに注意して下さい。つまり、それまで民間では、木を刻んだり縄目で意図を伝えていたのが、仏教と共に文字が入ってきて、これが民間に広がったことを教えているのです。

    知卜筮尤信巫覡

    卜筮が知られているのに、巫覡を信じている。

    卜とは亀卜(亀の甲羅を焼いて水を掛けできたひび割れ「兆といいます」で占う)や獣卜(獣骨を使用する以外は、亀卜と同じ)ですが、この頃の中国では廃れていたので、卜筮といえば、もっぱら筮竹を使った占いでした。そういう「合理的な」予知法を知っているにもかかわらず、神下ろしをし、神託を下すという「怪しげで前時代的なまじない師」のことを信じていると不思議がっているのです。

    毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同

    毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。

    好棊博握槊樗蒲之戲

    囲碁、すごろく、さいころの遊戯を好む。

    日本人のばくち好きはこの頃からなんでしょうか。もはや民族性ですね。

    氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少

    気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。

    「氣候温暖」はともかく「草木冬青」は近畿地方では考えられません。これも、「倭」が大和ではないという傍証になります。

    以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭

    小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る

    鵜飼いってもっと最近始まった漁だと思ってました。江戸時代とか。実は、1400年以上も歴史のある漁法だったんですね。

    俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之

    食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。

    高坏などを使って食事をするのは高貴な方々だけのようで、庶民はかしわの葉を食器代わりにしていたようです。箸はまだ入ってきていませんので、手づかみです。

    性質直有雅風女多男少

    性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。

    これも『後漢書』の頓珍漢な誤解が引き継がれているだけだと思いたいのですが、万一事実を表しているとすれば、戦争がない平和な時代ですので、世界でも極端に珍しい男児の間引きが行われていた可能性があります。どちらが事実でしょう。

    婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬

    同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。

    同姓不婚は、中国の風習が移入されたのでしょうか。「婦入夫家」とあるのは嫁入り=嫁取りということですから、嫁取り婚と同姓不婚の風習が導入されていたということになります。「記紀」には一切そういった事実は見えません。逆に妻問婚ばかりの上に、同姓で結婚した事例が豊富に出てきます。謎です。「記紀」の既述を根拠にして「この部分は隋の役人の創作であると主張する人もいます。それはさすがに、記録人種中国人を舐めているとしか言いようがありません。史官は、事実を記録するために命を懸ける人たちです。『後漢書』のような雑な例があるとはいえ、根拠があって書かれたと考えるのが自然です。しかし、とはいえ導入されたとしても、表面上の形式だけだったようです。「男女相悦者即爲婚」=「男女がセックスしたらそれが結婚となる」ですから、中国や室町時代以降の嫁取り婚を考えると、事実を捉え損ねます。「先跨」は「先跨」の誤りだとされていますが、「火跨がり」の風習を現代にも残しているところがあることから、何となくそうであって欲しいという願望に基づいた通説のようにも思えます。

    死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝

    死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。

    昔の喪服は白かったことがわかります。世界共通で喪服というのは白で、黒の日本が特殊なんですけどね。殯とは死者をすぐに埋葬せず、一定期間安置しておいてその前で歌や舞を捧げたり、誄を述べて死者の霊を慰めることです。葬送の儀礼で船を使うという点にも要注意です。「記紀」には見えない例なのです。

    有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭

    阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。

    そして、唐突に阿蘇山が出てきます。なぜでしょう。仮に王朝が近畿天皇王朝であれば、他にも書く山が沢山あるはずです。それに阿蘇富士山とは違い、遠くからでもよく見える山ではありません。あの一帯山並みが続き、むしろ埋もれています。もちろん中国には火山がありませんので、珍しい不可思議なこととして取り上げられたのでしょうが、この頃は富士山だって活火山だったのですから、歴史家の言う通り、近畿天皇王朝が全国を支配していたのなら、使者は富士山のことを述べたでしょうし、隋の役人もそう書くはずです。そうではなく阿蘇山なのは、これが倭王朝と縁の深い、馴染みのある火山だったからとしか説明できません。

    有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也

    如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。

    実際にそういう宝石があったから、俀の使者は隋の役人に語ったのでしょうが、不思議な石があったものです。見てみたいですね。どこかに埋もれていないでしょうか。

    新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來

    新羅百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。

    新羅百済を従え、平和を謳歌している様子が覗えます。「大倭」と自称するのも故なきことではなかったのです。

    大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

    大業三年(西暦607年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があった。今後はこういう書を取り次ぐな」と仰った。

    有名な「日出ずる処の天子」の件です。でもここはその前の「海西菩薩天子」に注目して下さい。「多利思北孤」は仏教を熱心に敬う人だったことが偲ばれます。隋は煬帝の時代に入っています。中華の価値観からすると世に天子は唯一人、皇帝だけです。「不悦」とは激怒したのだと解釈する人もいますが、そこまで怒ったのなら、裴世清を答礼に送ったりしません。煬帝という人は蛮夷に隋の強勢な様を誇示したがった人ですから、これも「東夷」の言うことだとしてむしろ穏便に済ませたのでしょう。あるいは、こんな愚かなことを言う者には王者として諭してやらねばならないとさえ思ったかも知れません。鴻臚卿=外交担当大臣に「取り次ぐな」と命じたのは、二度と国書を受け取るなという意味ではなく、使節を応接する役目の鴻臚卿であるお前が教えて次からは改めさせろということだったのだと思います。

    明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹㠀南望【身扁に旁冉】羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀

    翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴世清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に【身扁に旁冉】羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。

    そのため、翌年答礼使として文林郎の裴世清を俀に派遣します。この記事は裴世清の旅程を表しています。百済の竹島(現在の竹島ではありません)から望めるという【身扁に旁冉】羅國済州島です。この頃は百済の属国でした。「都斯麻國」は対馬、「一支國」は壱岐です。「竹斯國」は現在の筑紫のどのあたりだったのでしょう。博多湾岸にあったのは間違いないようですが。「竹斯國」の東に「秦王國」があったと言います。の遺民が国を建てていたのでしょうか。「疑不能明也」とありますから、裴世清一行にも判断がつかなかったようです。そこから十国余りを経るとまた海岸に出ます。そこがどこか書いておいてくれてもいいのに…ともかく、国名が記されていないということは、ここが既に俀國であることがわかります。

    俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞

    俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。

    俀王が「小德」の阿輩臺を遣わしたのは、どこでしょう。普通に考えると「竹斯國」です。未知の国を案内を付けずに陸行することは考えられません。ましてや相手は国賓です。すると十日後には都の郊外に出迎えをよこしているのですから、俀國は「竹斯國」からそんなに遠いところではないことがわかります。高官(大徳のようなトップは滅多に下されない名誉官だったので実質トップ官僚だと私は考えています)を派遣して歓迎し、郊外にも上から七番目という格の低い人ではありますが、迎えを出しています。礼に則っているようですが、裴世清からすると、皇帝の名代として来たのだから、王自ら郊外に出迎えないのは無礼と取ったかも知れません。

    既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭

    裴世清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴世清答えて曰く「皇帝の徳はあわせて二徳、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て教化します。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」

    王自ら出迎えに赴かなかったことを言い訳しています。「不聞禮義」とあるのは、前年の国書が皇帝の不興を招いたことの言い訳でしょう。だから裴世清は「あなたたちが野蛮で礼儀を知らないのはわかっている。それ故にこそ私が派遣され、ここで教え諭すのだ」と答えています。それにしても、言い訳するということはわかっているということであり、わかっていながら、答礼使一行を郊外で出迎えなかったのですから、多利思比孤もよくよく自尊の人です。さすが、あの国書を書いた人でもあります。

    既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗

    裴世清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」

    さて、用は済んだとばかりに早々に裴世清は帰国の途に就こうとします。実際はあれやこれや言ったのでしょうが、些末なこととしてカットされたのでしょう。

    於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶

    ここにおいて宴会を催し、裴世清を送り出した。また使者を裴世清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。

    別れにおいて宴会を設けるのも礼です。随行の人間も出したのですが、その後間もなくが滅んでしまったこともあって、朝貢はこれきりになったのでした…と書いておきながら、実はまだこの後も遣使があったことが帝紀の方に記されています。

    (大業四年)三月辛酉(中略)壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物

    大業四年(西暦608年)三月辛酉の日に、(中略)壬戌、百濟、、赤土、迦羅舍國が相次いで使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    これは、裴世清に随行した使いの人たちのことでしょう。

    大業六年春正月(中略)己丑倭國遣使貢方物

    大業六年(西暦610年)春正月、(中略)己丑の日に倭國が使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    この西暦610年の遣隋使は、『日本書紀』に見えません。一方、この後の西暦614年から615年にかけて遣隋使を派遣したことが『日本書紀』には記されています。が、『隋書』には記載がありません。さて、この不一致はどう見ればよいでしょう。

    さて、側の記録によると遣隋使は都合四回行われたことになっています。ところが、『日本書紀』には最初の遣隋使の記録がないのです。しかも『隋書』には記載されていない五回目があったことになっています。怪しいと思いませんか? なぜ記録しなかったのでしょう。なぜ側に記録のない遣隋使が存在するのでしょう。普通に考えると、『日本書紀』に記録のない遣使には近畿天皇王朝が関与していなかったからだということになります。そうすると、誰が派遣したのかということにになり、卑弥呼以来、延々と中華の国に朝貢し続けていた(これも「記紀」には記録がありません)倭の国が別にあり、そこから遣使されていたのだという結論に至ります。また九州王朝説かと思われるでしょうが、裴世清の旅程を見て下さい。九州内のことしか書かれていません。加えて阿蘇山です。これを見て、まだ倭=俀の国は九州にない、近畿だという人がいるでしょうか。いい加減、皇国史観からはおさらばして欲しいものです。なお、『隋書』にない最後の遣隋使ですが、これは『記紀』の年代比定に誤りがあるからではないでしょうか。

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