• 日本の古代史を考える—⑬漢書地理志再考

      0 comments

    漢書』地理志について、考証、説明が不足していたので改めて取り上げます。

    然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

    かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

    前漢武帝以来、儒教は漢の国是でした。孔子は聖人であり、単なる憶測や伝聞でその人となりを揶揄するようなまねは厳に慎まなければならないことでした。畢竟、孔子に筆が及ぶということは、相当の確信があってのことだということになります。そのような時代背景で記述された『漢書』においてもそれは同様です。

    では『漢書』において、なぜ孔子は「以歳時來獻見云」とある東夷が住まう地に行きたいと愚痴を零したと記されたのでしょう。もちろん孔子本人がそう言っていたからですが、それには理由があったと『漢書』の編纂者(=班固)は述べています。単なる憶測や伝聞でそんなことを述べたわけではないことは、既に書きまたし、改めてご理解頂けると思います。

    ではなぜ「以歳時來獻見云」「定期的に朝貢してきていたと言う」事実が、孔子が零した愚痴の根拠となるのでしょう? それを理解するには『歳時』が何かを理解する必要があります。

    孔子は「周礼」を重視しました。孔子が礼という時、それは「周礼」のことです(ここで言う「周礼」は「」で行われていた礼という意味で、現在に伝わる書物の「周礼」ではありません)。その「周礼」では諸侯が天子に見える時期について以下のように定めています。

    諸侯朝見天子有三種形式。每年派大夫朝見天子稱為小聘、每隔三年派卿朝見天子為大聘、每隔五年親自朝見天子為朝。

    諸侯が天子に朝見する場合、三種類の形式がある。
    毎年大夫を派遣して天子に朝見することを「小聘」と称する。
    三年ごとに卿(大臣)を派遣して天子に朝見することを「大聘」と称する。
    五年ごとに諸侯自身が天子に朝見することを「朝」と称する。

    後に倭から朝貢してきた者は皆「大夫」を自称したとあります。

    『後漢書』東夷伝「使人自稱大夫」
    『魏志倭人伝』「皆自稱大夫」
    『晋書』東夷伝「皆自稱大夫」
    『隋書』東夷伝「漢光武時遣使入朝自稱大夫」

    つまり、周礼に言う「小聘」を実行していたのであり、だからこそ「以歳時」と書かれているのです。

    そのような礼はもちろん、渡来人/帰化人が持ち込んだことは言うまでもありません。しかし、それを受け入れる土壌が縄文時代晩期の日本には既にあったことがわかります。朝見は一集落の人間がその気になったからと言って気軽にできることではありません。表を用意し、献上品を選定し、身なりを整えと、少なくともある程度の規模の集団でないと準備もおぼつきません。まして毎年行うのですから、一氏族、一部族でこれを行うことなどできません。周囲の氏族、部族が合同して送り出さねば、成周にたどり着くことすらおぼつかないでしょう。

    さて、一般に縄文時代はそのようなことができる文化的背景があったと理解されているでしょうか。試みに「縄文時代 画像」で検索してみて下さい。牧歌的で小集団に別れて狩猟や採集をしている姿ばかりです。なぜ、今から 3000 年前の人々が半分裸で、呑気に暮らしていたなどと言えるのでしょう。「分爲百餘國」とあるのですから、少なくとも家族単位で孤立して暮らしていたなどということはありえない妄想です。もちろん国家などというものではなかったに違いありません。そのような権力の集中と思われる遺品は弥生時代以降に出土するからです。いえ、ということになっています。しかし、大規模な宗族といった単位で氏族、部族が統率されていたことは充分にうかがい知れる表現です。もちろんその情報をもたらしたのは朝見に来た「倭人」です。

    さて、我々が抱いている根拠のない、3000 年前といえばこの程度だろうという言われなき蔑視観と、『漢書』地理志に書かれた立派な倭人。どちらが私たちの先祖の本当の姿でしょうか。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑫舊唐書東夷伝倭国条・日本國条

      0 comments

    」の後は「」ということで、「」の歴史書での倭国、日本を見ていくわけですが、『唐書』と呼ばれる書物は二種類あります。ひとつは、五代十国時代に「後晋」で編纂された『唐書』です。西暦945年に完成しています。ただ、その翌年に「後晋」が滅んでしまっていることで察することができるように、国自体が安定しておらず、編纂責任者も途中で交代していたりいます。そのため錯誤や遺漏が多く、記事も初唐の頃に偏っており晩唐の頃の物がほとんどないなど、後世の評判は良くありませんでした。そこで、北宋(こちらは、平清盛日宋貿易を行った、あのです)の時代になってから、欧陽脩らによって新しい『唐書』が編まれ、西暦1060年に仁宗に献上されました。そこで古い方の『唐書』を『舊唐書』あるいは『旧唐書』、新しい『唐書』を『新唐書』あるいは単に『唐書』と呼びます。新しいものができているなら、古い『舊唐書』は無視して良いかというと、実は作りが雑だということは、生の資料がそのまま引き写しされているという利点があるということでもあり、決して資料価値が低いわけではありません。

    ということで、『舊唐書』を見ていくのですが、その東夷伝には、倭国の条と日本の条があります。さてさて、どういうことでしょうか。

    ■倭国条

    倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通

    倭國は、昔の倭奴國である。京師(長安)を離れること一万四千里の彼方にある。新羅の東南の大海の中にあり、山島によって国をなしている。東の端から西の端まで五ヶ月かかる。北の端から南の端まで三ヶ月かかる。代々中国に朝貢してきた。

    「漢倭委奴国王」の金印でお馴染みの「倭奴国」が、倭国の旧名であると述べられています。全く誤解しようがありません。歴史学者や考古学者は何を見てるんでしょうね?『魏志倭人伝』において「楽浪郡」から一万二千里でしたから、長安から楽浪郡までの距離、二千里を足して、一万四千里としたようです。そして『舊唐書』が撰進された頃には、朝鮮半島は「新羅」によって統一されていましたので、「新羅東南大海中」となっているわけです。「東西五月行南北三月行」とあるのは『隋書』から引用したかまたは『隋書』が参照したのと同じ資料によったのでしょう。倭国がかなり広大な領域に広がっていたことがわかります。

    其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉

    その国には城郭がなく、木を以て柵としている。草を使って家を作っている。四方に小島が五十国あまりある。皆、倭国の属国である。

    何度も出てきているので、目に馴染んだ表現かも知れませんが、中国の街は城郭都市といって、必ず長大な防壁で囲まれています。壁と言っても人がやすやすと乗り越えられるようなものではありません。上から大声で怒鳴っても下に居る人に聞こえないくらい高いものもありましたから、落ちたら大けがをするか下手をすると死にます。日本の街にはそういう防壁がないことを言っています。そりゃ海辺であったり山間であったりするところをそんな防壁で囲んでも労力の無駄だからやらなかっただけだと思いますが。平野部にあった街にはおそらく濠が掘られていたと思われます。「以草爲屋」とあるのに注意して下さい。この時代になっても庶民は竪穴式住居に住んでいたことを考えれば、確かに「草」を使って家を作っていたことが理解できます。また、ここでも重要な記述が出てきます。「四面小島五十餘國」に該当するところといえばどこでしょう。実は、四面が海に囲まれているのは北海道、四国、九州です。そのうち、四方に小島が五十あまりという条件を満たすのは、九州だけなのです。

    其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯婦人衣純色長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅

    その王の姓は阿毎(あま)氏である。一大率を置き、諸国を検察している。皆これを畏怖している。官位があり十二の位階に別れている。訴えがある者は、這いつくばって前に進む。その地は男が少なく、女が多い。漢字がかなり通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

    「其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地」は『隋書』の要約か、『隋書』が参照した資料と同じ資料を見てそれを要約して書いたかいずれかでしょう。そしてまたしても「多女少男」です。もう本当にそうだったんじゃないかと思えてくるくらいしつこく書かれています。『隋書』では「佛經始有文字」であったのですが、あっと言う間に広まったのでしょうか。現代的な感覚で「頗有文字」を理解するととんだ誤解になりそうです。官吏でもないのに文字を解するものが多いという意味に取らなくてはならないでしょう。「俗敬佛法」とあるからには、仏教が瞬く間に広がった様子がわかります。「貴人戴錦帽」とありますが、ただ冠というと唐制の冠になってしまうので、違いを際立たせるために敢えて「帽」と述べているのだと思われます。

    貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史髙表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還

    貞観五年(西暦631年)、倭国は使いを遣わして来て、様々な産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、朝命を伝えずに帰国した。

    さて、『隋書』において「多利思北孤」は礼儀を知らずと謙遜していましたが、この頃には王子が礼について揉め事を起こせるくらいには、理解が深まっていたようです。「高表仁」は融通の利かない人だったのでしょう。蛮夷の無礼などある程度は大目に見るべきなのに朝命を果たさず帰るとは何事か。と叱っているかのような文章です。

    至二十二年又附新羅奉表以通起居

    貞観二十二年(西暦648年)になって再び、倭国王は新羅の遣唐使に上表文をことづけて皇帝へ安否を伺うあいさつをしてきた。

    東夷伝倭国条ではここで終わりですが、高宗本紀に倭の記事があります。

    永徽五年十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙

    永徽五年(西暦654年)十二月癸丑の日に、倭国が琥珀と瑪瑙を献上した。

    白雉五年(西暦654年)に派出された第三次遣唐使が対応していますが、「倭国」とあるのに注意が必要です。「日本」の遣使ではなかったのです。おそらく唐の情勢を把握するために送られたのでしょう。

    国際情勢は徐々に緊迫の度を増しています。新羅に上表文を託しただけで朝貢しなかったのは、貞観十八年(西暦644年)に高句麗討伐が行われたことを受け、倭の対外政策が揺れ動いていたからでしょう。高句麗という重しがなくなれば、朝鮮半島の情勢はどう動くかわかりません。また、結果的に失敗に終わったとは言え、唐がそれで諦めるとも思えません。その懸念は、西暦660年に百済の滅亡という形で現実化します。そして西暦663年、倭は百済遺民と連合し、白村江新羅連合軍と戦い、これに大敗北を喫します。倭はこの痛手から立ち直れず、以後、中国の歴史から、もちろん日本の歴史からも姿を消します。

    ■日本國条

    日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地

    日本国は倭国の別の種族である。その国が日の上る方にあるため、日本という名前にした。あるいは、倭国がその名前が雅やかではないことを嫌って、日本と改めたとも伝える。あるいは、日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合したとも伝える。

    のっけからいきなり「日本國者倭國之別種也」と倭と日本は別の国だと述べています。そして、「日本」という名称の由来について他に二説あげています。ひとつは「倭が卑語なので、日本に改名した」という改名説。もうひとつが「日本国が倭国を併呑した」という併呑説。さて、どれが正しいでしょうか。『舊唐書』の編纂者は、もちろん、別種の国だという認識でした。正解は、「全部正しい」です。なぜなら、これはすべて「日本」の使者に尋ねて得られた回答だからです。

    其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉

    その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、質問に誠実に答えない。それで中国ではこれを疑った。

    明らかに「倭」の使者とは態度が違います。それは「倭」を併呑して大国になったという気宇が滲み出たのか、あるいは別に理由があるのか。自分たちは「倭国」に属するが「倭奴国」とは別の国の者だと言ってみたり、「倭国」のものだが、名前がよくないから「日本」改称したのだと主張してみたり、あるいは「日本」は「倭」を併呑したのだと言ってみたり、その主張が首尾一貫せず、「倭奴国」の者とも見なせないが、かといって「倭」と無関係でもなさそうだという不審の目を向けられていたのがよくわかります。あるいは不当な簒奪者と見られていたのかも知れません。それが『日本書紀』編纂の動機のひとつとなったのではないでしょうか。

    又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國

    また、彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言った。

    「又云」は前の文を受けて述べているわけだから、もちろんこの発言も疑われています。ところで、東の境にあるという大山は、「富士山」かなとも思いますが、北の境の大山とはどの山でしょうか。七世紀頃の毛人(蝦夷)は宮城県中部から山形県以北に住んでいたとされています。あるいは古墳の分布を王権の証とする現代考古学の思い込みがそう見せているだけで、毛人(蝦夷)はもっと南や西までいたのではないでしょうか。

    長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史觧屬文容止温雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國

    長安三年(西暦703年)、日本の大臣、粟田朝臣真人が来朝して様々な産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶっており、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。真人経書や史書を読むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

    粟田朝臣真人」が大使となったのは、第八次遣唐使。進徳冠とは、唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついているもので、昭陵博物館のホームページに出土品の写真が掲載されています。これを見ると、俀国の冠が「帽」とされていたのに対し、随分と異なることがわかります。確かにこれは「冠」です。この頃、「大宝律令」が施行されましたから、粟田真人が「紫袍」を着ているのは不思議ではありませんが、唐の朝廷に対する配慮に欠けていたと言わざるを得ません。唐では紫は天子にだけ許された色だったからです。おそらく、蛮夷のことだから大目に見ようという空気と、その挙措が温雅で文章を解したから見逃されたのでしょう。そして多分、ハンサムだったはずです。則天武后が宴に招いて(名誉職とはいえ)官位を授けたのはよほど気に入ったからです。

    さて、『舊唐書』ではこの年の遣使が初めてですが、貞観五年(西暦631年)の遣唐使はともかく、第二次の遣唐使(白雉四年=西暦653年派出)の様子が『新唐書』に「獻虎魄大如斗碼碯若五升器」と記載されています。その次は、また『新唐書』に天智天皇が即位した次の年に遣唐使があったと記されていますが、『日本書紀』では斉明天皇の五年(西暦659年)となっています。これが第四次の遣唐使ですが、その翌年に百済が滅ぼされているのに、同盟国の危機を放って何をしに行ったのでしょうね?『新唐書』にはさらに、咸亨元年(西暦670年)に高句麗を滅ぼしたことを祝賀する使者が来たと書かれているのですが、これが『日本書紀』では「天智八年(西暦669年)」に派遣した第七次の遣唐使となっています。『日本書紀』によると、第五次(天智四年=西暦665年)と第六次(天智六年=西暦667年)の遣唐使があったことになっていますが、『舊唐書』にも『新唐書』にもその記載がありません。この二回の遣唐使は、送唐客使でもあり、唐から来日した使者を送り届ける役目を持っていました。使者が来るくらいですから、重要な政治課題があったはずです。第五次の遣唐使は「白村江の戦い」の余塵消えやらぬ時期であり、第六次もさらにその二年後でしかありません。この使者の往来を伴う二回の遣唐使が、「白村江の戦い」の戦後処理のためであることは明らかです。しかし別段、天智天皇がそれで何か叱責されたとか、責任を追及されたというような雰囲気ではありません。怪しげな政治取引の臭いがするのですが、いかがでしょうか。近畿天皇王朝=大和朝廷は百済と同盟しておらず、倭が「白村江の戦い」で大打撃を受けるのを横目で見ていたのではないでしょうか。この時期の『日本書紀』には明らかに粉飾やごまかしがあります。何かあったのは確かなようです。

    開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助敎趙玄黙就鴻臚寺敎之乃遣玄黙闊幅布以爲束修之禮

    開元の初め頃、また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。

    養老元年(西暦717年)に派出された第九次遣唐使のことだと思われます。儒学を教授されたのは「吉備真備」ではないかと推測しています。あるいは「阿倍仲麻呂」や「井真成」も一緒に学んだかも知れません。

    題云白龜元年調布人亦疑其僞

    その布には「白龜元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

    また疑われています。確かに「白龜」という元号は存在しません。『日本書紀』は天皇の万世一系を無理矢理説明するために、かなりのでっち上げをやった上に、不都合な情報を改削した疑いがありますから、倭の弱体化につけこんで、私年号を使っていたのかも知れません。

    此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去

    この貢ぎ物(白龜元年の調布)で得た下賜品を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。その副使の阿倍朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡と改めて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第十二王子)の学友となった。朝衡京師(長安)に 50 年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

    「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」で有名な阿倍仲麻呂(中国名朝衡)の逸話です。実は第十二次遣唐使が来朝した時(大使は、藤原清河)、一度は帰国を試みたのですが(王維が別離の詩を送っていますから事実でしょう)、仲麻呂や清河らが乗った第一船はあえなく難破。安南驩州に流れ着きました。結局、仲麻呂一行は天平勝宝七年(西暦755年)に長安へ帰着しています。ところが、この年に安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来したのですが、唐朝は行路が危険である事を理由に仲麻呂清河らの帰国を認めなかったのです。仲麻呂はその後もで昇進を続け、潞州大都督(従二品)を贈られています。

    天寶十二年又遣使貢

    天寶十二年(西暦753年)にまた使いを遣わし朝貢してきた。

    天平勝宝四年(西暦752年)派出の第十二次遣唐使です。大使は、藤原清河。副使は、吉備真備大伴古麻呂です。この時に高僧鑑真を日本に連れ帰ったことは有名です。

    上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護

    上元年間(西暦760年~西暦762年)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

    阿倍仲麻呂の出世の様子が語られています。『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡の二人のみ」と故郷では賞賛されています。

    貞元二十年遣使來朝留学學生橘免勢學問僧空海

    貞元二十年(西暦804年)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)、学問僧の空海が留まった。

    延暦二十三年(西暦804年)派出の第十八次遣唐使です。三筆のうち二人がこの時学生として渡唐しています。空海は真言密教の伝統を継いで帰国することになります。

    元和元年日本國使判官髙階眞人上言前件學生藝業稍成願本國歸便請與臣同歸從之

    元和元年(西暦806年)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。

    橘逸勢空海を併せ、第十八次遣唐使一行は帰国します。情勢が不安でこれを逃すと次はいつ帰れるかわからなかったからでしょう。事実、次の遣使は三十三年後になります。それでも多くの学生が残ったものと思われます。

    開成四年又遣使朝貢

    開成四年(西暦839年)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。

    承和五年(西暦838年)の第十九次にして最後の遣唐使です。

    こうして見ると、唐朝は当初、日本国からの使者に不審の目を向けていたことがわかります。たった数行の文章に「疑」と二度まで出てくるのは、その不審の表れです。その疑いも無理ありません。明らかに「倭」の使者と異なることを言うのです。これを別種と判断するのは当然ですし、私も別種だと理解しています。つまり「倭」は九州王朝であり、白村江の戦いで弱体化してしまった。その倭を近畿天皇王朝が併呑あるいは、簒奪した結果生まれた国が「日本」という構図です。簒奪したので正直に話すこともできません。使いは近畿天皇王朝から出ていますから、「倭」のことを聞かれてもちんぷんかんぷんです。でも自分たちも「倭」だと言い張るのですから、何者だと思われても当然です。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑪隋書東夷傳俀国条

      0 comments

    やっとたどり着いた感があります。『隋書』東夷傳俀国条です。『隋書』は、「」の太宗の勅により魏徴長孫無忌らが撰進しました。書かれているのは「」の時代です。西暦581年から西暦618年に当たります。かの有名な「日出ずる処の天子」という表現はおなじみではないでしょうか。『隋書』からは、七世紀初頭の日本がどのような様子であったのかが覗えます。

    俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王

    俀国は百済新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。

    あれ、「倭」国じゃないね? と思いますよね。私もそう思います。以前も書いたと思いますが、この頃、倭は百済新羅を従え、これらと平和な関係にあり、国内も平穏でした。ですので、それまでの倭という称号に大をつけて「大倭」(「たいゐ」、または「たゐ」)と自称していたのでしょう。ところが、中華からすると、国の名前に「大」を冠してよいのは、中華帝国だけですから、蛮夷の分際で生意気な!ということで読みが同じ漢字の「俀」にしたのだと思われます。それにこの頃には「倭」は「わ」と読むようになっていたので、遣使が自称する国名に一致しなくなっていたのだということも併せて言いうると思います。ところで、『後漢書』の凡ミスがここにも引き継がれています。「使」を「使」と間違うから諸国一斉に朝貢していたことがあるかのような話に…范曄の馬鹿!:D

    夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

    夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國なり。

    ここで重要な指摘が出てきます。「夷人不知里數」ということは、例の『魏志倭人伝』の旅程も倭人からの聞き取りですから、「日数」であったものを後から「里数」に換算したものであることがわかります。なにしろ「山島」に拠ると言われた国ですから、同じ距離を行くのでも平野が続く中華と違って、何倍もかかったことでしょう。次に「都於邪靡堆」とある部分です。「邪」は「や、じゃ」、「靡」は「みぇ、みゃ」が一番近い発音でしょうか。「堆」は「とぅぁい」となります。これに対して「馬」は「ま」、「臺」は「だい」です。つまり今は「やみゃとぅぁい」と言うがこれは『魏志倭人伝』に出てくる「やまたい」と同じだよと言ってます。しかし少々発音が異なるとは言え、まあ少しなまったかなという程度です。本来は「邪馬壹」=「やまゐ」と書かれていたのですから、昔の「やまゐ」が今の「やみゃとぅぁい」だと言っていることになります。『魏志倭人伝』に現れた「邪馬壹國」と「俀國」は同じ国であることがここで保証されたわけです。さてその地勢は「東高西下」ですから、東が山がちで西が平野というところを探せば俀國の場所が比定できそうな感じです。でも実はこれを真剣に検討すると、奈良盆地すなわち大和は比定の対象から外れてしまうのです。大阪平野が東にありますから、「東高西下」になりません。はてさて困ったものですね(笑)。南北三ヶ月、西に五ヶ月で海に出るというのも謎です。その南北や西の果てがどこを指すのかわかるように書いていてくれれば…と詮無いことを考えたりします。

    古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國

    古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。

    ここは従来の正史を受け継いで書かれています。ここでも『後漢書』が「会稽東の東」などという凡ミスを犯すから、延々引き継がれています。何と罪深い…

    桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通

    後漢の)桓帝靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。からに至るまで代々通交してきた。

    ここも『後漢書』が「桓靈閒倭國大亂」なんて阿呆なことを書いたから、それがまた引き継がれています。こうして単なる錯誤が定説になっていくわけですね。

    「法甚嚴」とありますが、「魏志倭人伝」では「其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族」とあるので、今ことさら厳しくなったというわけでもなさそうです。また、「自至于代」とあるので、少なくとも「」の時代から「」「」を経て「」の時代まで朝貢してきた国はずっと同じである。ということがここでもわかります。

    開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗

    開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ)、使いを遣わせて宮城に詣でた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。

    最初の遣隋使です。さて、いよいよ問題の核心に迫ってきました。従来「多利思比孤」は「聖徳太子」に比定されてきたのですが、「聖徳太子」は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいます。後からまた出てきますが、答礼使の裴世清が実際にこの王に会っていますから、この「多利思比孤」は実際に王であったと考えられるので、聖徳太子説は皇国史観患者の妄説であったことが明らかになります。それより重要なのは、姓があることです。「阿毎」は「天」のことではないかと思うのですが、天皇および皇族には古来姓がありません。無論、聖徳太子にも姓はありません。この点で、この王を天皇や皇族に擬するのは不可能だとなります。しかし号するところは「阿輩雞彌」で、これは「大王=オオキミ」ではないかと考えられています。私もこの点は賛成です。とすると、この王は誰だという問いに帰ります。

    使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之

    使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。

    高祖とは文帝楊堅を指します。有名な煬帝のお父さんですね。ここで語られている内容は明らかに「複式統治」を表しています。『魏志倭人伝』で「有男弟佐治國」とあったのと同様の統治形態ではないでしょうか。しかし「記紀」を読めば明らかなように、近畿天皇王朝が複式統治を行ったという記録はありません。

    王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利

    王の妻は雞彌(けいみ、きえいみえ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふっり、りかみえたふぃぁっり)と呼ぶ。

    王の妻は「キミ」と呼ばれたのでしょう。太子は「リカミタフリ」なんでしょうが、どういう意味なのかちょっとわからないですね。ここで、俀王「多利思比孤」には妻がいたこと、さらに後宮には女性が六百から七百人もいたことがわかります。ということは、「多利思比孤」が「推古女帝」でないことも明らかです。あるいはその夫の「敏達天皇」でしょうか。しかしそうなると、「推古天皇」を基準とした年代比定が全部誤りになってしまい、日本史の辻褄があわなくなってしまいます。痛し痒しですね。大胆な方は「多利思比孤」を「蘇我馬子」だと主張しています。が、いかな馬子といえど、オオキミを僭称して許されるとは考えられません。実は馬子がこの時天皇だったのだ。という主張の方がよほどすっきりします。

    内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼

    内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。

    はて、この十二の等級と称号はどこかで見たような…という方は日本史に詳しい方ですね。「聖徳太子」が制定したと言われている「冠位十二階」と同じです。ただし、一部位階の順番が異なります。この「冠位十二階」は、実際は「蘇我馬子」が大きく関与していたことがわかっています。しかしながら、これが「冠位十二階」を表していると解釈することはできません。なぜなら「冠位十二階」なら位階に応じて冠を授けられるのですが、ここにはそのような記述がないからです。

    其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上

    その国の服飾について、男性は裙襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。

    至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾

    隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。

    これが「冠位十二階」制定のことだとされています。しかしここには、冠の制度を定めたとだけあり、官位に対応していたかどうかはわかりません。冠と言いながら絹で作製されているところを見ると「冠」というより「帽」ですね。注意して頂きたいのは、ここは俀國の使者がの役人に語った内容が綴られている点です。『日本書紀』では「冠位十二階」の制定は西暦604年のこととされていますから、話が合いません。後世の話を編纂者が間違えてここに挿入したのでしょうか。それこそまさかです。使者の話で聞いたから、まさにここに挿入されているのです。むしろ粉飾は『日本書紀』の方でしょう。裙襦は、中国の服そのままではなく、女性の襦裙に似ていたのでそのように書いたのでしょう。

    婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有襈攕竹爲梳

    女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。

    高松塚古墳」の壁画をご覧になった方は多いでしょう。裳とはあの裾を引きずるようなスカート風の衣裳のことです。襈攕とは何でしょう。調べたのですが、わかりませんでした。ご存じの方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いです。

    編草爲薦雜皮爲表縁以文皮

    草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。

    畳も椅子もありませんから、敷物は必須でした。

    有弓矢刀矟弩【矛扁に旁賛】斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦

    弓矢、刀、矟(矛の一種か?)、弩、【矛扁に旁賛】(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。

    この件を読むと私は『宋書』に掲げられた倭王武の上表文を思い起こします。「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」。四世紀から五世紀は、戦争に次ぐ戦争の時代でした。しかし、それも今は昔。百済新羅との仲は良好。国内も大きな乱はなく、平穏無事。このような情勢であるからこそ、「大」の尊称を付けて「大倭」(たいゐ、たゐ)を自称していたと思うのです。

    其王朝會必陳設儀杖奏其國樂

    その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。

    なんとなく、大和朝廷の朝会にはイメージがあわない気がします。異国の風を感じますね。

    戸可十萬

    戸数は十万ばかりある。

    魏志倭人伝』では十七万戸余りだったはずですから、随分減ってます。四世紀から五世紀まで続いた外征のためでしょうか。「磐井の乱」という内乱もありましたし。

    其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛 或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣

    その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。道理の正しくない者は手が爛れるという。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。邪な者はまた手を噛まれるという。

    さて、隋の役人に「法甚嚴」と書かれたその実際が述べられています。穏やかな刑罰がひとつもありません。確かに厳しいです。は開皇の治と呼ばれる時代で、文帝は開皇律令を定め、残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかり易く改めました。それを知るの役人には「前時代的な」厳しい法と思えたのでしょう。木で膝を圧迫するというのは、重い木材を膝の上に積み重ねる拷問で、強弓の弦で首筋を打たれたら気絶くらいはしたでしょう。沸騰した湯の中に素手を入れさせるというのは、実は「盟神探湯」と言って、上古中国にもあって伝えられた由緒正しい正邪判定法だったのです。これは祖霊や神々の前で執り行う神聖な儀式で、湯を前に対決すると邪な心を持つ者は祖霊や神々の威に服して、湯に手を入れる前に自ずから罪を自白するとされたのです。本当に手を入れたらどっちも大火傷ですから祖霊や神々を信仰していない者には無意味な判定法でもあります。の時代にはとっくに廃れていたので、奇妙な風習として取り上げられたのでしょう。

    人頗恬静罕争訟少盗賊

    人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。

    この辺りは『魏志倭人伝』の頃から変わっていませんね。ほっとします。

    樂有五弦琴笛

    楽器には、五弦、琴、笛がある。

    五弦のとあるのはどんな形でしょう。或いは和琴のことでしょうか。現代の我々がと言ってイメージする楽器は、正しくは「」といって本来琴とは別の楽器でした。

    男女多黥臂點面文身没水捕魚

    男女の多くは肩から手首までと顔、体に入れ墨をし、水に潜って魚を捕らえている。

    そして、しっかり入れ墨の風習に触れられています。この「記紀」には書かれていない風習の存在していた地が俀国(倭國)なのです。

    無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字

    文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手し、はじめて文字を有した。

    文字がなければ、代々朝貢していた時の上表文はどうやって書かれたのだ? ということになりますが、これは民間の風俗を記した段落であることに注意して下さい。つまり、それまで民間では、木を刻んだり縄目で意図を伝えていたのが、仏教と共に文字が入ってきて、これが民間に広がったことを教えているのです。

    知卜筮尤信巫覡

    卜筮が知られているのに、巫覡を信じている。

    卜とは亀卜(亀の甲羅を焼いて水を掛けできたひび割れ「兆といいます」で占う)や獣卜(獣骨を使用する以外は、亀卜と同じ)ですが、この頃の中国では廃れていたので、卜筮といえば、もっぱら筮竹を使った占いでした。そういう「合理的な」予知法を知っているにもかかわらず、神下ろしをし、神託を下すという「怪しげで前時代的なまじない師」のことを信じていると不思議がっているのです。

    毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同

    毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。

    好棊博握槊樗蒲之戲

    囲碁、すごろく、さいころの遊戯を好む。

    日本人のばくち好きはこの頃からなんでしょうか。もはや民族性ですね。

    氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少

    気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。

    「氣候温暖」はともかく「草木冬青」は近畿地方では考えられません。これも、「倭」が大和ではないという傍証になります。

    以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭

    小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る

    鵜飼いってもっと最近始まった漁だと思ってました。江戸時代とか。実は、1400年以上も歴史のある漁法だったんですね。

    俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之

    食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。

    高坏などを使って食事をするのは高貴な方々だけのようで、庶民はかしわの葉を食器代わりにしていたようです。箸はまだ入ってきていませんので、手づかみです。

    性質直有雅風女多男少

    性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。

    これも『後漢書』の頓珍漢な誤解が引き継がれているだけだと思いたいのですが、万一事実を表しているとすれば、戦争がない平和な時代ですので、世界でも極端に珍しい男児の間引きが行われていた可能性があります。どちらが事実でしょう。

    婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬

    同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。

    同姓不婚は、中国の風習が移入されたのでしょうか。「婦入夫家」とあるのは嫁入り=嫁取りということですから、嫁取り婚と同姓不婚の風習が導入されていたということになります。「記紀」には一切そういった事実は見えません。逆に妻問婚ばかりの上に、同姓で結婚した事例が豊富に出てきます。謎です。「記紀」の既述を根拠にして「この部分は隋の役人の創作であると主張する人もいます。それはさすがに、記録人種中国人を舐めているとしか言いようがありません。史官は、事実を記録するために命を懸ける人たちです。『後漢書』のような雑な例があるとはいえ、根拠があって書かれたと考えるのが自然です。しかし、とはいえ導入されたとしても、表面上の形式だけだったようです。「男女相悦者即爲婚」=「男女がセックスしたらそれが結婚となる」ですから、中国や室町時代以降の嫁取り婚を考えると、事実を捉え損ねます。「先跨」は「先跨」の誤りだとされていますが、「火跨がり」の風習を現代にも残しているところがあることから、何となくそうであって欲しいという願望に基づいた通説のようにも思えます。

    死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝

    死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。

    昔の喪服は白かったことがわかります。世界共通で喪服というのは白で、黒の日本が特殊なんですけどね。殯とは死者をすぐに埋葬せず、一定期間安置しておいてその前で歌や舞を捧げたり、誄を述べて死者の霊を慰めることです。葬送の儀礼で船を使うという点にも要注意です。「記紀」には見えない例なのです。

    有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭

    阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。

    そして、唐突に阿蘇山が出てきます。なぜでしょう。仮に王朝が近畿天皇王朝であれば、他にも書く山が沢山あるはずです。それに阿蘇富士山とは違い、遠くからでもよく見える山ではありません。あの一帯山並みが続き、むしろ埋もれています。もちろん中国には火山がありませんので、珍しい不可思議なこととして取り上げられたのでしょうが、この頃は富士山だって活火山だったのですから、歴史家の言う通り、近畿天皇王朝が全国を支配していたのなら、使者は富士山のことを述べたでしょうし、隋の役人もそう書くはずです。そうではなく阿蘇山なのは、これが倭王朝と縁の深い、馴染みのある火山だったからとしか説明できません。

    有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也

    如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。

    実際にそういう宝石があったから、俀の使者は隋の役人に語ったのでしょうが、不思議な石があったものです。見てみたいですね。どこかに埋もれていないでしょうか。

    新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來

    新羅百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。

    新羅百済を従え、平和を謳歌している様子が覗えます。「大倭」と自称するのも故なきことではなかったのです。

    大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

    大業三年(西暦607年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があった。今後はこういう書を取り次ぐな」と仰った。

    有名な「日出ずる処の天子」の件です。でもここはその前の「海西菩薩天子」に注目して下さい。「多利思北孤」は仏教を熱心に敬う人だったことが偲ばれます。隋は煬帝の時代に入っています。中華の価値観からすると世に天子は唯一人、皇帝だけです。「不悦」とは激怒したのだと解釈する人もいますが、そこまで怒ったのなら、裴世清を答礼に送ったりしません。煬帝という人は蛮夷に隋の強勢な様を誇示したがった人ですから、これも「東夷」の言うことだとしてむしろ穏便に済ませたのでしょう。あるいは、こんな愚かなことを言う者には王者として諭してやらねばならないとさえ思ったかも知れません。鴻臚卿=外交担当大臣に「取り次ぐな」と命じたのは、二度と国書を受け取るなという意味ではなく、使節を応接する役目の鴻臚卿であるお前が教えて次からは改めさせろということだったのだと思います。

    明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹㠀南望【身扁に旁冉】羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀

    翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴世清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に【身扁に旁冉】羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。

    そのため、翌年答礼使として文林郎の裴世清を俀に派遣します。この記事は裴世清の旅程を表しています。百済の竹島(現在の竹島ではありません)から望めるという【身扁に旁冉】羅國済州島です。この頃は百済の属国でした。「都斯麻國」は対馬、「一支國」は壱岐です。「竹斯國」は現在の筑紫のどのあたりだったのでしょう。博多湾岸にあったのは間違いないようですが。「竹斯國」の東に「秦王國」があったと言います。の遺民が国を建てていたのでしょうか。「疑不能明也」とありますから、裴世清一行にも判断がつかなかったようです。そこから十国余りを経るとまた海岸に出ます。そこがどこか書いておいてくれてもいいのに…ともかく、国名が記されていないということは、ここが既に俀國であることがわかります。

    俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞

    俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。

    俀王が「小德」の阿輩臺を遣わしたのは、どこでしょう。普通に考えると「竹斯國」です。未知の国を案内を付けずに陸行することは考えられません。ましてや相手は国賓です。すると十日後には都の郊外に出迎えをよこしているのですから、俀國は「竹斯國」からそんなに遠いところではないことがわかります。高官(大徳のようなトップは滅多に下されない名誉官だったので実質トップ官僚だと私は考えています)を派遣して歓迎し、郊外にも上から七番目という格の低い人ではありますが、迎えを出しています。礼に則っているようですが、裴世清からすると、皇帝の名代として来たのだから、王自ら郊外に出迎えないのは無礼と取ったかも知れません。

    既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭

    裴世清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴世清答えて曰く「皇帝の徳はあわせて二徳、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て教化します。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」

    王自ら出迎えに赴かなかったことを言い訳しています。「不聞禮義」とあるのは、前年の国書が皇帝の不興を招いたことの言い訳でしょう。だから裴世清は「あなたたちが野蛮で礼儀を知らないのはわかっている。それ故にこそ私が派遣され、ここで教え諭すのだ」と答えています。それにしても、言い訳するということはわかっているということであり、わかっていながら、答礼使一行を郊外で出迎えなかったのですから、多利思比孤もよくよく自尊の人です。さすが、あの国書を書いた人でもあります。

    既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗

    裴世清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」

    さて、用は済んだとばかりに早々に裴世清は帰国の途に就こうとします。実際はあれやこれや言ったのでしょうが、些末なこととしてカットされたのでしょう。

    於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶

    ここにおいて宴会を催し、裴世清を送り出した。また使者を裴世清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。

    別れにおいて宴会を設けるのも礼です。随行の人間も出したのですが、その後間もなくが滅んでしまったこともあって、朝貢はこれきりになったのでした…と書いておきながら、実はまだこの後も遣使があったことが帝紀の方に記されています。

    (大業四年)三月辛酉(中略)壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物

    大業四年(西暦608年)三月辛酉の日に、(中略)壬戌、百濟、、赤土、迦羅舍國が相次いで使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    これは、裴世清に随行した使いの人たちのことでしょう。

    大業六年春正月(中略)己丑倭國遣使貢方物

    大業六年(西暦610年)春正月、(中略)己丑の日に倭國が使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    この西暦610年の遣隋使は、『日本書紀』に見えません。一方、この後の西暦614年から615年にかけて遣隋使を派遣したことが『日本書紀』には記されています。が、『隋書』には記載がありません。さて、この不一致はどう見ればよいでしょう。

    さて、側の記録によると遣隋使は都合四回行われたことになっています。ところが、『日本書紀』には最初の遣隋使の記録がないのです。しかも『隋書』には記載されていない五回目があったことになっています。怪しいと思いませんか? なぜ記録しなかったのでしょう。なぜ側に記録のない遣隋使が存在するのでしょう。普通に考えると、『日本書紀』に記録のない遣使には近畿天皇王朝が関与していなかったからだということになります。そうすると、誰が派遣したのかということにになり、卑弥呼以来、延々と中華の国に朝貢し続けていた(これも「記紀」には記録がありません)倭の国が別にあり、そこから遣使されていたのだという結論に至ります。また九州王朝説かと思われるでしょうが、裴世清の旅程を見て下さい。九州内のことしか書かれていません。加えて阿蘇山です。これを見て、まだ倭=俀の国は九州にない、近畿だという人がいるでしょうか。いい加減、皇国史観からはおさらばして欲しいものです。なお、『隋書』にない最後の遣隋使ですが、これは『記紀』の年代比定に誤りがあるからではないでしょうか。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑩三国史記(新羅本紀)

      0 comments

    次に『三国史記』の「新羅本紀」を見てみます。え? 高句麗は? というと、「高句麗本紀」には「倭」のことが一言も出てきません。「好太王碑」が現にあり、倭と戦ったことを記しているのですから、現れないということ自体が不自然かつ胡散臭さ満点です。という目で「新羅本紀」を見てみると、卑弥呼が二世紀に新羅に遣使したとか書いてあって、中国の史書と比較検証できない三世紀以前の記事は、まず信用できないと言ってよいでしょう(卑弥呼が生きたのは三世紀。物理的にありえません)。ということで、三世紀以降の記録から倭に関する部分を抜き出してみます。

    (奈解尼師今)十三年夏四月倭人犯境遣伊伐飡利音將兵拒之

    奈解尼師今十三年(西暦210年)夏四月。倭人が国境を侵犯した。伊伐飡利音を遣わし、將兵に防がせた。

    倭の侵略からスタートです。以降読んで頂くとわかりますが、新羅は一貫して倭の侵略を受ける立場として書かれており、新羅が自ら出撃して倭を討ったという話はありません。三世紀、四世紀といえば、『魏志倭人伝』に出てくる「狗邪韓國」が朝鮮半島南岸にありましたし、後には「任那」と呼ばれる倭の領土もありました。当然侵攻したでしょうが、そんなことは「仁慈」の王たる新羅王がしてはならないことなので、書かなかったのです。それは高句麗百済に対しても同じで、『三国史記』が「新羅寄り」と言われる所以でもあります。念頭に置いて頂きたいのは、「倭」が「百済」とは同盟し、ほとんどその運命を共にするくらいに固く結びついていたのに対して、「新羅」とは長い間相攻伐する仇敵であったという事実です。そのうち、新羅が倭を侵攻した場合は書かれず、倭が新羅を攻めた場合だけが、「新羅本紀」に記載されていると見なしてよいでしょう。

    (助賁尼師今)三年夏四月倭人猝至圍金城王親出戰賊潰走遣輕騎追撃之殺獲一千餘級

    助賁尼師今三年(西暦232年)夏四月、倭人が突然金城を包囲した。王が親戦し、倭の賊軍は敗れて逃げた。輕騎を遣わしてこれを追撃させ、一千あまりを殺して首級を得た。

    ここもそうですが、倭は攻めてきても何も得るところなく虚しく帰るか、散々に打ち負かされて逃げ帰ることがほとんどなのです。偶に捕虜を連れ帰りますが。そういう場合もあったということならともかく、ほとんどそう書かれているのは文飾があることを示しています。というか、そこまで負け続けたら、いかに剽悍な倭でも半島進出を諦めるというものです。百済とは同盟してますし。実際は何世紀も戦い続けたのですから、事実は一進一退だったのでしょう。

    (沾解尼師今)三年夏四月倭人殺舒弗邯于老

    沾解尼師今三年(西暦249年)夏四月、倭人が舒弗邯、于老を殺す

    この于老に関する説話は後世の作り話のようですが、軍の将軍が敵に殺されたとは即ち敗北したということです。それを認めたくない人が話をこじつけたのでしょう。

    (儒禮尼師今)四年夏四月倭人襲一禮部縱火燒之虜人一千而去

    儒禮尼師今四年(西暦250年)夏四月、倭人が一禮部を襲い、火を放ってこれを焼いた。捕虜を千人連れ去られた。

    (儒禮尼師今)六年 夏五月聞倭兵至理舟楫繕甲兵

    儒禮尼師今 六年(西暦252年)、倭兵が攻めてくるという情報が入り、船を修理し、鎧と武器の修理をした。

    これを見ると、新羅も余裕綽々で倭の相手をしていたわけではないことがわかります。実際はかなりの脅威だったのではないでしょうか。

    (儒禮尼師今)九年夏六月倭兵攻陷沙道城命一吉大谷領兵救完之

    儒禮尼師今九年(西暦255年)夏六月、倭の軍が沙道城を攻め落とした。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。

    何が倭を新羅に駆り立てたのでしょう。単に屈服しないという理由でしょうか。あるいは何か渡来人/帰化人が絡むのでしょうか。

    (儒禮尼師今)十一年夏倭兵來攻長峯城不克

    儒禮尼師今十一年(西暦256年)年、倭の軍隊が来て長峯城を攻めたが勝てなかった。

    前年と違い、おそらくは守りを固めていたのでしょう。今度の城は落ちませんでした。勝てなくてどうしたかが書いてありません。ただ単に退却したのでしょうか。それこそあり得ないと思うのですが。

    (儒禮尼師今)十二年春王謂臣下曰倭人屢犯我城邑百姓不得安居吾欲與百濟謀一時浮海入撃其國如何舒弗邯弘權對曰吾人不習水戰冒險遠征恐有不測之危況百濟多詐常有呑我國之心亦恐難與同謀王曰善

    儒禮尼師今十二年(西暦257年)春、王が臣下に申して曰く「倭人がしばしば我が国の城邑を侵犯して百姓は安心して暮らすことができない。百済と謀り海を渡って倭国へ反撃を行いたい。どうだろうか」舒弗邯、弘權答えて曰く「われわれは水戦に長けておりません。遠征してもおそらく不測の危難が予想されます。まして百済は詐りが多く、その心は常に我が国を併呑しようとするところにあります。共に謀ることは難しいと思います」王曰く「わかった」

    思いとどまったから書いてあるのでしょう。思いとどまらなかった場合もあったはずですが、委細不明です。

    (基臨尼師今)三年春正月與倭國交聘

    基臨尼師今三年(西暦300年)春正月、倭国と使者を派遣しあった。

    和平交渉でしょうか。この後に出てくる倭との交渉が婚儀に関することなので、おそらく和平が結ばれたのだと思われます。

    (訖解尼師今)三年春三月倭國王遣使爲子求婚以阿急飡利女送之

    訖解尼師今三年(西暦312年)春三月、倭国の国王が使いを遣わして、息子のために求婚してきたので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。

    婚儀を結ぶことは、同族に擬制することを意味し、同盟が成立したか、もしくは相互不可侵の約束ができたことを示します。しかし六等官の娘って…日本で言えば、受領の娘を中華皇帝の皇子に嫁がせるようなもので、よく倭が承知したなと思います。あるいは詐りがあったのかも知れません。

    (訖解尼師今)三十五年春二月倭國遣使請婚辭以女既出嫁

    訖解尼師今三十五年(西暦344年)春二月、倭国が使いを遣わし結婚を申し出たが、娘は既に嫁いだと言って断った。

    ところが時間が経つと、情勢も変わります。「女既出嫁」とは全く理由になっていません。30年前の婚儀では、阿飡(六等官)の娘を出しているのです。要するに新羅は、同盟もしくは相互不可侵の約束を反故にすることを宣言したのです。

    (訖解尼師今三十六年)二月倭王移書絶交

    訖解尼師今三十六年(西暦345年)二月、倭王が文書を送ってきて断交した。

    律儀にも、倭は文書でもって断交を通告しています。実質的には前年の婚儀拒否をもって互いの通交は止まっていたでしょう。

    (訖解尼師今)三十七年倭兵猝至風島抄掠邊戸又進圍金城急攻王欲出兵相戰伊伐康世曰賊遠至其鋒不可當不若緩之待其師老王然之閉門不出賊食盡將退命康世率勁騎追撃走之

    訖解尼師今三十七年(西暦346年)、倭の軍が突然風島に侵攻し、その住民を掠奪し、そこから進軍して金城を囲んで急激に攻めた。王は出兵して戦おうとしたが、伊伐康世曰く「倭の賊軍は遠方から来たり、その勢いに当たるべきではありません。その勢いが余話なり軍が疲れるのを待つべきです」王は尤もだと思い、城門を閉じて出撃しなかった。倭の賊軍は食糧が尽き、そのため撤退した。康世に命じて、勁騎を率いさせ、倭の賊軍を追撃し敗走させた。

    突然も何も、断交したら戦争になるのは洋の東西を問わず、古今当たり前のことです。この「わざとらしさ」が「儒教主義」という奴です。孔子が聞いたら嘆くでしょう。退却する軍を叩くのは兵法ですが、首都を囲まれて出撃できないというのは、倭が大軍を繰り出したからでしょう。大軍と言っても後世のように何十万、何百万とはいきませんから、城を包囲しても落とせなかったのだと思われます。しかし倭軍を追撃して敗走させたのではなく、倭軍が勝手に退却していったのを見送っただけと思うのは私だけでしょうか。退却する大軍を追撃して勝ちを拾ったのは、高祖劉邦くらいなものだと思うのですが。

    (奈勿尼師今)九年夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵列立吐含山下伏勇士一千於斧東原倭人恃衆直進伏發撃其不意倭人大敗走追撃殺之幾盡

    奈勿尼師今九年(西暦364年)夏四月、倭の大軍が押し寄せてきた。王はこれを聞き、とても敵わないと恐れた。草で人形を数千作らせ、衣を着せて兵に持たせ、吐含山の麓に並べ立てさせた。勇士一千を斧東原に伏せた。倭人は衆を恃んでまっすぐ進んできた。伏兵を発しその不意を突いて攻撃した。倭人は大敗北を喫し逃走したが追撃してこれを殺し全滅近くまで追い込んだ。

    えー?衆を恃むほどの大軍を千人で待ち伏せて殺し尽くしたー?論理矛盾があるんですけどー(笑)。

    (奈勿尼師今)十一年 春三月 百濟人來聘

    奈勿尼師今十一年(西暦366年)春三月、百済人が聘問にやってきた。

    倭と直接は関係ありませんが、この時、第一次羅済同盟が結ばれ、四世紀末まで継続します。そのため、百済新羅の間の交戦はなくなります。

    (奈勿尼師今)三十八年夏五月倭人來圍金城五日不解將士皆請出戰王曰今賊棄舟深入在於死地鋒不可當乃閉城門賊無功而退王先遣勇騎二百遮其歸路又遣歩卒一千追於獨山夾撃大敗之殺獲甚衆

    奈勿尼師今三十八年(西暦393年)夏五月、倭人が攻めてきて金城を囲み、五日も包囲を解かなかった。将士はみな出撃して戦うことを願ったが、王曰く「今倭の賊軍は船を棄て深く我が地に入り込んでいて、死地にいる。鉾先も当たらないだろう」城門を閉じて守った。倭の賊軍は得るところなく退却した。王は勇猛な騎兵を二百先遣し、その退却路を遮り、また歩兵一千を遣わして獨山に追い込み、挟撃してこれを大敗させた。殺して首を取った数が非常に多かった。

    また首都を包囲されています。これに対して出撃は不可とみて籠城したのはよいのですが、そんな大軍を騎兵二百、歩兵千で大敗させたとか、理屈にあいません。「儒教主義」(笑) まあそれはともかく、「好太王碑」によると、この三年後の西暦396年、高句麗百済を下します。この時点で、第一次羅済同盟は解消となったようです。或いは解消は、西暦400年のことかも知れません。

    (實聖尼師今)元年三月與倭國通好以奈勿王子未斯欣爲質

    實聖尼師今元年(西暦402年)三月、倭国と通好し、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。

    ここに至り、再び倭と修好しています。実は、西暦393年と西暦402年の間にあった重大な事件が新羅本紀には記載されていません。それは「好太王碑」に書かれています。「十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵」つまり、「永楽十年(西暦400年)庚子、歩騎五万を派遣して新羅を救わせた。男居城から新羅城に至るまで倭軍が充満している中を官兵で攻撃し、倭の賊軍を退けた。倭軍の背後を急追し、任那加羅の從拔城へ至った。城はすぐさま降伏し、新羅人の国境守備兵を保護した」とある部分です。新羅高句麗に頭を下げて助けて貰っているので書きたくなかったんでしょうね。石碑が残されているなんて思いもよらなかったんでしょう。高句麗は当然、新羅を救援すると引き上げてしまいます。すると、また倭の脅威に直面せざるを得ないので、和平を結ぶことにしたのではないでしょうか。新羅にとって、対等ではなく、屈辱的な和平であったのでしょう。

    (實聖尼師今)四年夏四月倭兵來攻明活城不克而歸王率騎兵要之獨山之南再戰破之殺獲三百餘級

    實聖尼師今四年(西暦405年)夏四月、倭の軍隊が来襲し、明活城を攻めたが、勝てないまま退却した。王は騎兵を率いて獨山の南で待ち伏せし、再戦して倭軍を破った。殺して首を取った数は三百あまりだった。

    はて、和平を結んだはずの倭がまた攻めてきて、しかも迎え撃っています。人質の王子はどうなったー!?

    (實聖尼師今)六年春三月倭人侵東邊夏六月又侵南邊奪掠一百人

    實聖尼師今六年(西暦407年)春三月、倭人が東の海岸から侵入してきた。夏六月にまた南の国境地帯も侵犯して百人を捕らえて連れ去った。

    二年続けて侵攻があったようです。和平どころではありません。

    (實聖尼師今)七年春二月王聞倭人於對馬島置營貯以兵革資粮以謀襲我我欲先其未發揀精兵撃破兵儲舒弗邯未斯品曰臣聞兵凶器戰危事況渉巨浸以伐人萬一失利則悔不可追不若依嶮設關來則禦之使不得侵猾便則出而禽之此所謂致人而不致於人策之上也王從之

    實聖尼師今七年(西暦408年)春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、武器、鎧甲、軍資、食料を貯蔵して、我が国を襲撃する計画を進めているという情報を入手した。兵が出発する前に先んじて、精兵を選んで兵を破りその蓄えを奪いたいと思った。舒弗邯の未斯品曰く「私は、兵は不吉な道具であり、戦は危険な事だと聞いております。況んや大海を渡って他国を征伐しようというのです。万一勝てなければ、後悔しても追いつきません。要害堅固なところを守り、関所を設けることに及びません。来たれば即ちこれを防ぎ、なかなか攻め込めないようにして、機会があれば出撃してこれを虜にする。これが所謂人に致し而して人をして致らせぬところというものでありまして、上策であります」王はこれに従った。

    さてここで、三国時代の朝鮮半島地図をウィキペディアでご覧下さい。五世紀終わり頃で高句麗が最も盛んであった時代です。新羅の領土は百済の半分ほどしかありません。つまり三国の中で最も弱小だったわけです。逆に倭はまさにそれを行っているわけで、力関係でいえば、倭の国力の方が上であったことが分かります。小国が大国の隙を突くようなマネをしても必ず痛い目に遭う。それより防御を固めるのが先だと王に諭しているわけです。

    (實聖尼師今)十四年八月與倭人戰於風島克之

    實聖尼師今十四年(西暦415年)八月、倭人と風島で戦い、勝った。

    またまた懲りずに倭が出兵してきます。多分新羅が勝った戦いだけ書いてるんでしょうね。だからそう見える。戦争とはそういうものではありません。

    (訥祇麻立干)二年春正月親謁始祖廟王弟卜好自高句麗與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還

    訥祇麻立干二年(西暦418年)春正月祖廟で親閲を始める。王の弟、卜好が高句麗より堤上奈麻と帰り来る。秋、王の弟、未斯欣、倭国より逃げ帰る。

    實聖尼師今元年(西暦402年)に人質として倭に渡った未斯欣が逃げて帰ってきました。というか、實聖尼師今四年(西暦405年)には逃げ出していてどこぞに隠れていたのではないでしょうか。高句麗とか。人質が勝手に逃げたから「倭」が實聖尼師今四年(西暦405年)に攻めてきたと考えると符合します。

    (訥祇麻立干)十五年夏四月倭兵來侵東邊圍明活城無功而退

    訥祇麻立干十五年(西暦431年)夏四月。倭の兵が東の海岸地帯を侵犯し、明活城を囲んだ。何も得られず退却した。

    倭は何をしたかったのでしょうか。城を囲んではただ退却する。あるいは、それは次の百済の行動を応援するためだったのかも知れません。

    (訥祇麻立干)十七年秋七月百濟遣使請和從之
    (訥祇麻立干)十八年春二月百濟王送良馬二匹秋九月又送白鷹冬十月王以黄金明珠報聘百濟

    訥祇麻立干十七年(西暦433年)秋七月、百済が使いを遣わせて、和平を求めてきた。これに従った。
    訥祇麻立干十八年(西暦434年)春二月、百済王が良馬二頭を送ってきた。秋九月、また百済王が白鷹を送ってきた。冬十月王は、黄金・明珠を百済の聘物のお返しにした。

    この時成、第二次羅済同盟が成立しています。この同盟は、西暦553年に新羅が漢江流域を奪うまで続きました。大国、高句麗に対抗するために手を組んだのです。従って以降の倭の軍事行動は、倭と百済の同盟に基づく行動ではないことがわかります。

    (訥祇麻立干)二十四年倭人侵南邊掠取生口而去夏六月又侵東邊

    訥祇麻立干二十四年(西暦440年)、倭人が南の国境地帯を侵犯した。奴隷を奪い取って去った。夏六月、倭人がまた東の海岸地帯を侵犯した。

    相変わらず倭は新羅にちょっかいをかけていますが…示し合わせた訳ではないでしょうが、これ以降、倭と高句麗が交互に新羅を攻めるようになります(高句麗百済も攻めましたが)。

    (訥祇麻立干)二十八年夏四月倭兵圍金城十日糧盡乃歸王欲出兵追之左右曰兵家之説曰窮寇勿追王其舍之不聽率數千餘騎追及於獨山之東合戰爲賊所敗將士死者過半王蒼黄棄馬上山賊圍之數重忽昏霧不辨咫尺賊謂有陰助收兵退歸

    訥祇麻立干二十八年(西暦444年)、倭の軍が金城を十日間囲んだ。食料が尽きて帰った。王は兵を出してこれを追撃しようとした。左右の者曰く「軍事の専門家の説に拠れば、追い詰められた賊を追っ手はならない」と。王はこれを捨て置いて聞き入れなかった。数千の騎兵を率いて追撃して獨山の東に及び、合戦して賊に敗れた。将兵は過半数が死んだ。王は慌てふためいて馬を棄て山に登った。賊がこれを幾重にも囲んだ。忽ち霧が出てあたりが暗くなり、一寸先も見分けが付かなくなった。賊は「これぞ陰助だ」と言って、兵を収めて撤退した。

    「新羅本紀」の中で唯一ではないでしょうか、王が倭軍に追い詰められた話とは。

    (慈悲麻立干)二年夏四月倭人以兵船百餘艘襲東邊進圍月城四面矢石如雨王城守賊將退出兵撃敗之追北至海口賊溺死者過半

    慈悲麻立干二年(西暦459年)夏四月、倭人が兵船百艘あまりで東の海岸を襲撃して進軍し、月城を囲んで、四方八方から矢や石を雨あられと打ち込んだ。王城守は賊将を退け、出兵してこれは撃破し、北に追撃して海口まで行った。賊軍で溺死する者が過半数に達した。

    帰化人/渡来人の祖先の多くは朝鮮系だという学者がいますが、百済と同盟する一方でこれほど執拗に倭が新羅に出兵するのは、帰化人/渡来人の影響がないからではないでしょうか。影響力が大きかったらあたら祖国の地を蹂躙するようなことは止めるでしょう。百済新羅を結んだのならなおさらです。

    (慈悲麻立干)五年夏五月倭人襲破活開城虜人一千而去

    慈悲麻立干五年(西暦462年)夏五月、倭人が活開城を撃破し、捕虜を千人連れ去った。

    (慈悲麻立干)六年春二月倭人侵歃良城不克而去王命伐智德智領兵伏候於路要撃大敗之王以倭人屢侵疆埸縁邊築二城

    慈悲麻立干六年(西暦463年)春二月、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。王は伐智・德智に討伐を命じた。領兵が路に隠れて待ち伏せし、倭軍を要撃して大敗させた。王は以後、倭人が頻繁に国境、海岸を侵犯するので、国境、海岸に城を二つ築いた。

    (慈悲麻立干)十九年夏六月倭人侵東邊王命將軍德智撃敗之殺虜二百餘人

    慈悲麻立干十九年(西暦476年)夏六月、倭人が東部の海岸から侵入してきた。王は将軍德智に命じてこれを撃敗させた。殺したり捕虜にした者が二百人あまりいた。

    (慈悲麻立干)二十年夏五月倭人擧兵五道來侵竟無功而還

    慈悲麻立干二十年(西暦477年)夏五月、倭人が兵を挙げ、五道に侵入したが、何も得るところがなく退却した。

    勝つこともあり負けることもあるから執拗に出兵してくるのだと普通は思いつくのですが、「儒教主義」者には通用しないようです。執拗に倭の負け戦だけを書き連ねます。

    (炤知麻立干)四年五月倭人侵邊
    (炤知麻立干)七年五月百濟來聘
    (炤知麻立干)八年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干四年(西暦482年)五月、倭人が国境を侵犯した。
    炤知麻立干七年(西暦485年)五月、百済が聘問に来た。
    炤知麻立干八年(西暦486年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    百済が別に面従腹背しているわけではないことが聘問の事実によって裏書きされます。しかしその前後で倭は出兵しているわけですから、特に斡旋もしなかったようです。

    (炤知麻立干)十九年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干十九年(西暦497年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    (炤知麻立干)二十二年 春三月 倭人攻陷長峰鎭

    炤知麻立干二十二年(西暦500年)春三月、倭人が長峰鎭を攻め落とした。

    この記載を最後に、有名な「白村江の戦い」まで、倭のことは出てこなくなります。何があったのでしょう。西暦527年に「磐井の乱」があって外征どころではなかったのかも知れません。西暦589年にはが建国されます。『隋書』東夷伝俀國条には、「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」「新羅百済はみな倭が大国であり、珍物が多いとして、これを敬仰し、常に通使が往来している」とあります。つまり、遂に新羅は倭の出兵に対抗することに困難を覚え、修好したと考えられます。だから倭が攻めてこなくなったのでしょう。もちろん、新羅はそんなことをしたくなかったのかも知れません。代になってから新羅に接近し、は、高句麗を滅ぼした後、退廃していた百済に目を付けました。これが百済滅亡とそれに続く白村江の戦いを引き起こしたのです。朝鮮半島は新羅によって統一され、倭は半島での足がかりを失いました。隠忍自重、臥薪嘗胆の年月であったのでしょう。

    さてみなさん、『宋書』に記載された倭王武の上表文を憶えておられるでしょうか。そう「渡平海北九十五國」です。「好太王碑」だけではなく、朝鮮の歴史書によっても、それが誇張ではなく、四世紀から五世紀にかけて、頻々と出兵を繰り返した事実があったことが裏書きされました。「東征毛人五十國西服衆夷六十六國」も当然その実があって書かれたのでしょう。その結果が授けられた「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という称号です。倭および朝鮮半島を配下に治める覇者に相応しいものではないでしょうか。ところで、この出兵を支えたのはどういった人々であったか。遙々近畿地方から軍勢を集めて送り込んだのでしょうか。それこそまさかです。北九州から肥後にかけて兵を集め、軍勢を東西北へ繰り出したのです。そんなことが一地方豪族に可能でしょうか。遠い大和の地にある朝廷の命令がいかほどの影響力があるでしょう。まぎれもなく、そこに王朝があり、国の中心だったからこそ兵を集めることができ、頻繁に出兵することができたのです。九州に古墳が登場するのは、大和・河内より随分遅くなってからですが、これだけ頻繁に出兵していれば、古墳なんぞ作る余裕があるはずもありません。

    それに、最終的に大和朝廷が全国で唯一の王朝となるのですが、頑張って律令を施行したものの、年を追う毎に地方が管理できなくなり、平安時代には全くといってよいほど国司に任せきりになってしまいます。「良二千石」という良吏を表す言葉があるのですが、そんな言葉を使って賞賛しなければならないほど綱紀がゆるんでいたこともわかっています。つまり、大和朝廷には全国をまとめ上げ、末端まで管理する実力など初めからなかったのです。空白の四世紀と言われる時代を含めその前後の頃など、なおさらそれがありえないことだということは、歴史書を丹念に見ればわかる類のことです。なぜ歴史学者という生き物は頑迷に王朝は唯一近畿地方だけと主張するのでしょうか。新井白石が何と言おうが、本居宣長が何を言おうが、科学者は事実を探求すべき職務であるのに、先生の仰る通りとしか言えないのであれば、廃業してしまえばよろしい。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑨三国史記(百済本紀)

      0 comments

    ここで朝鮮に目を転じます。三世紀〜七世紀にかけて、朝鮮半島では「高句麗」「百済」「新羅」が鼎立し、覇を争っていました。最終的に「白村江の戦い」で倭・百済(この時既に百済は滅亡していたので正確には百済遺民)連合軍に、新羅連合軍が大打撃を与え、倭はこの敗北から立ち直れないまま、新羅が朝鮮を統一します。この三国の歴史を著したのが『三国史記』です。高麗十七代仁宗の命を受けて金富軾らが編纂しました。この書は高麗新羅の後継を自任していた上に、編纂者が新羅王室の血を引いていたため、新羅偏重かつ新羅寄りの既述が目立ちます。そのため、その内容を充分に批判することなしに引用することは不用意の誹りを免れ得ません。とはいえ、倭と新羅の激闘の歴史は見て取れますので、倭に関する部分を抜粋して、その様子をうかがうことにしましょう。

    なお、「ひのもとの史記」さんの「三国史記の倭関連記事」が一覧表になっていてとても見やすいので、概略を掴むのにはもってこいです。是非ご覧になって下さい。トップページから「ひのもとの史記・参」をクリックして、左サイドバー内「CONTENTS」の「三.三国史記」をクリックすれば見ることができます。

    まずは「百済本紀」から。

    六年夏五月王與倭國結好 以太子腆支爲質

    阿莘王の六年(西暦397年)、王は倭國と誼を通じた。太子腆支を人質とした。

    倭と百済の同盟が成立した、ある意味画期的な事件です。以降、白村江の戦いで大敗を喫するまで、倭と百済は同盟を続けたのです。

    (阿莘王十一年)五月遣使倭國求大珠

    阿莘王の十一年(西暦402年)、倭國に使いを遣わして大珠を求めさせた。

    十二年春二月倭國使者至王迎勞之特厚

    阿莘王の十二年(西暦403年)、 倭國が使者を派遣してきた。王はこれを迎えて労い、特に厚く遇した。

    倭と百済の紐帯が固いことを示す記事が続きます。

    十四年王薨王仲弟訓解攝政以待太子還國季弟禮殺訓解自立爲王腆支在倭聞訃哭泣請歸倭王以兵士百人衛送既至國界漢城人解忠來告曰大王棄世王弟禮殺兄自王願太子無輕入腆支留倭人自衛依海島以待之國人殺禮迎支即位妃八須夫人生子久尒辛

    阿莘王の十四年(西暦405年)、王が薨じた。王の次弟、訓解が摂政し、太子が国に帰るのを待った。末弟、禮が訓解を殺して、自立して王となった。腆支は倭にあって訃報を聞き、哭泣して帰国を願った。倭王は兵士百人を護衛に付けて送らせた。国境に至ろうとした時、漢城人の解忠が来てこう言った「大王が世をお棄てになり、王弟の禮が兄を殺して自ら王になりました。太子が軽々に入国されないことを願います」腆支は倭人を留め自らを護衛させた。海島により知らせを待った。国人が禮を殺して、腆支を迎え即位した。妃の八須夫人が王子久尒辛を産んだ。

    簒奪を計った王の末弟を諸豪族が殺して、倭から太子を迎え、王とする話です。倭は太子に護衛を付けて送り届けています。

    五年倭國遣使送夜明珠

    腆支王の五年(西暦410年)、倭國に使いを遣わし、夜明珠を送った。

    十四年夏遣使倭國送白綿十匹

    腆支王の十四年(西暦419年)、十四年夏、倭國に使いを遣わし、白絹十匹を送った。

    なので、倭に恩義を感じたのか、腆支王は贈り物をしています。倭・百済同盟は順調です。

    二年春二月王巡撫四部賜貧乏穀有差倭國使至從者五十人

    毗有王二年春二月(西暦427年)、王は四方を巡撫し、貧乏な者にはその程度に応じて穀物を授けた。倭国の使者が従者を五十人引き連れてやって来た。

    代が変わっても倭との同盟が継続している様子が窺えます。

    (武王)九年春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路

    武王の九年(西暦608年)春三月、使いを遣わして隋に朝貢した。隋の文林郞、裴淸が倭國へ使いを奉り、我が国の南路を通った。

    ここで記事は七世紀に飛びます。隋の裴世清が遣隋使の答礼に倭へ赴く際、百済を通ったことがわかります。つまり、倭・百済同盟は続いているのです。

    (義慈王)十三年春大旱民饑秋八月王與倭國通好

    義慈王の十三年春(西暦653年)、旱がひどく、民が飢えた。秋八月、王は倭國と通好した。

    百済最後の王、義慈王です。国際関係は緊張を増していました。隋が滅び、が建国されたのですが、新羅はそのと同盟を結び、高句麗百済を脅かしていました。高句麗にはかつての栄光はなく、両国とも押され続けています。義慈王は、倭との盟いを新たにする必要を覚えたのでしょう。しかし、その盟いも虚しく、西暦660年、百済新羅に滅ぼされてしまいます。

    龍朔二年七月(前略)時福信既專權、與扶餘豊相猜忌。福信稱疾、臥於窟室、欲俟豊問疾執殺之。豊知之、帥親信、掩殺福信。遣使高句麗倭國乞師、以拒唐兵。孫仁師中路迎撃破之、遂與仁願之衆相合、士氣大振、於是諸將議所向。或曰、加林城水陸之衝、合先撃之。仁軌曰、兵法避實撃虚、加林嶮而固、攻則傷士。守則曠日、周留城百濟巣穴、羣聚焉。若克之、諸城自下。於是、仁師仁願及羅王金法敏帥陸軍進、劉仁軌及別帥杜爽扶餘隆帥水軍及粮船、自熊津江往白江、以會陸軍、同周留城。遇倭人白江口、四戰皆克。焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水爲丹。王扶餘豊脱身而走、不知所在。或云奔高句麗。獲其寶劒。王子扶餘忠勝忠志等帥其衆、與倭人並降。獨遲受信據任存城未下。

    龍朔二年(西暦662年)七月、(前略)時に福信が権力を専横し、扶餘豊とは互いに猜疑し嫌い合っていた。福信は病と称して窟室に伏して、豊が見舞いに来ることを期待し、その時に捉えて殺してしまおうと考えていた。豊がこれを知り、信頼の置ける者たちを率いて福信の不意を突いて殺した。高句麗と倭国に使いを遣わして軍の出動を願い、唐の軍を攻めた。(唐・新羅軍の)孫仁師は中路で迎撃しこれを破り、遂に仁願の軍衆と見え、士気がすこぶる高まった。ここにおいて(唐・新羅軍の)諸将は会議で結論したところへ向かった。或いは曰く、加林城は水陸の要衝なのでまずこれを攻撃して下すべきだと。仁軌は「兵法は実を避け虚を撃つものだ。加林城はなおも守備が固く、攻めても兵を消耗するだけだ」と言った。守則曠は「周留城は百済の巣穴だ。ただ群がり集まっているだけではないか。もしこれに勝つことができれば、他の城は自ずから下ってくるだろう」ここにおいて仁師仁願と新羅王、金法敏は陸路を取り軍を進めた。劉仁軌と別働隊の杜爽、扶餘隆は水軍と軍資を積んだ船を率いた。熊津江より白江に至り、陸で軍を併せ、周留城を下した。(唐・新羅軍は)倭人と白江の港で会戦し、四戦して四勝した。倭の船四百艘を焼き、その煙と炎は天を焦がし、海水を赤い色に変えた。百済王の扶餘豊は脱出して逃走し、所在がわらなくなった。或いは高句麗に逃げたとも伝える。百済の宝剣を奪い取り、百済王子の扶餘忠勝と忠志らはその軍衆を率いて、倭とともに並んで(唐・新羅軍に)降伏した。遲受信は単独で任存城に拠っておりまだ下っていなかった。

    そして、西暦663年、ついに白村江で、倭・百済遺民連合軍と新羅連合軍が雌雄を決しますが、倭は大敗を喫します。倭はこの痛手からついに立ち直れませんでした。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑧南齊書・梁書

      0 comments

    南齊書』は、南北朝時代の「」について書かれた歴史書です。「」の蕭子顕が編纂し、正史に数えられています。原名は『齊書』でしたが、李百薬の『北斉書』を鑑みて、「北宋」の時代に手直しされました。その列伝に、東夷伝があり、倭のことが一行出てきます。

    倭國在帶方東南大海島中漢末以來立女王土俗已見前史建元元年進新除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事安東大將軍倭王武號爲鎮東大將軍

    倭国は帯方の東南にある大海島の中にある。後漢末以来、女王を立てていた。その風俗はこれまでの正史に記載されている。建元元年(西暦479年)、
    使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事・安東大將軍・倭王武を改めて叙任し、号して鎮東大將軍とした。

    前年、「」に冊封を受けたのに、そのすぐ後に「」は「」に禅譲してしまい、新王朝に代わってしまいました。そこですかさず、あの倭王武が朝貢し、によって授けられた称号に加え、鎮東大將軍も頂きました。外交に機敏な王の姿が見えるようです。

    その「」も西暦502年に「」に禅譲してしまいます。『梁書』はの正史で、代になって、貞観三年(西暦629年)に、の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が編纂した私撰の史書です。その諸夷傳にも倭のことが見えます。ほとんどが前代の正史の引き写しなので、注目すべき所だけ抜き出します。

    倭者、自云太伯之後。

    倭の人は、太伯の末裔であると自称している。

    呉の太伯の末裔と自称しているということがここでも出てきます。中華との関係で外せないのでしょうね。しかし、全く無関係であることが明らかな場合は妄説として取り上げないでしょうから、その風俗に類似があって根拠がありそうだから、「自称す」となっているのでしょう。

    高祖即位進武號征東(大)將軍

    高祖が即位された際(西暦502年)、倭王武を進めて征東(大)將軍を号した

    またしても倭王武です。次から次へと外交の手を打つその素早さは、単に武威をひけらかすような愚鈍ではなく、非常に機敏な人であったことが偲ばれます。誰もが倭王武に比定する雄略天皇は、吉備や播磨、伊勢を討伐した記録は「日本書紀」にあるものの、海外へ遠征したことは載っていません。国内をまとめるのに忙しかった雄略天皇に、繰り返し外征する余裕などあったでしょうか。また、中華の王朝が交代するたびに、朝貢して官職の任命を請うような外交手腕があったとは思えません。事実、「日本書紀」にそのような既述はないのです。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑦広開土王碑

      0 comments

    時代は前後しますが、「⑥宋書夷蠻伝倭國条」でも触れた「好太王碑」、正式には「広開土王碑」に「倭」と「高句麗」の戦争の様子が書かれているので、関連部分を抜き出して、見てみたいと思います。

    百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民

    百済新羅はもともと高句麗の属国であり、昔から朝貢してきていた。ところが、倭は辛卯の年に海を渡って来襲し、百済、■■■羅(新羅?)を破り、自分たちの属国にしてしまった。

    碑の第一面、永楽五年(西暦395年)のところに出てくる文です。実は、高句麗百済新羅を属国にしたことはなく、また、倭が百済新羅を属国にしたこともありません。じゃあこの文は何を意味しているのだというと、好太王(広開土王)が「侵略してきた無道な倭を撃破して散々な目に遭わせる」という本文のための前振り部分なわけです。好太王(広開土王)の業績を讃える碑ですから、その敵である倭は極悪非道でなくてはなりません。まあそういうことは置いておいて、この碑が残っているおかげで、四世紀末から五世紀にかけて、倭と高句麗が激突を繰り返した事実がわかるのです。どちらが正義かは、暇なサヨクのみなさんのお喋りに任せておきましょう。なお、文中■とあるのは、字が欠けて読めなくなってしまっている部分です。ものすごく長い間野ざらしでしたからねえ。

    九年己亥百残違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命

    永楽九年(西暦399年)己亥、百済は誓いに違背して倭と手を組んだ。王は平壌に退いた。そこに新羅の遣使がやってきて王にこう申し上げた「倭人が国境に満ちて城池を破壊し、呼び寄せた奴隷を住民として定住させています。王の仰せに従いますのでご命令をお願いいたします」

    第二面にある、倭の侵攻の様子です。ここで、倭・百済連合対高句麗新羅連合で戦争となったことがわかります。倭が新羅の国境を越えて征服した土地に、よそ者を移住させているとあります。本当にわざわざ奴隷を呼び寄せたりはしないでしょう。侵略を受けた側からすると異民族が自分たちの領土に我が物顔で移ってきたわけですから、「奴」と罵りたくなる気持ちはわかりますが。

    十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵

    永楽十年(西暦400年)庚子、歩騎五万を派遣して新羅を救わせた。男居城から新羅城に至るまで倭軍が充満している中を官兵で攻撃し、倭の賊軍を退けた。倭軍の背後を急追し、任那加羅の從拔城へ至った。城はすぐさま降伏し、新羅人の国境守備兵を保護した。

    その続きです。高句麗軍大進撃の巻。倭・百済連合軍は散々に蹴散らされてしまいます。任那に侵攻を許したということは、倭の領土に攻め込まれたことを意味します。ひどい負け戦ですね。

    十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界

    永楽十四年(西暦404年)甲辰、しかるに倭は、無道にも帯方の境界から侵入してきた。

    第三面から。ところがそれで倭が大人しくしてるはずもありません。四年後また戦争をしかけてきます。今のソウルあたりからということは、またもや倭・百済連合軍です。

    倭寇潰敗斬殺無數

    倭の賊軍は潰敗し、無數の兵を斬殺した。

    この後、欠字が多く、倭軍惨殺の様子を克明に調べる目的もありませんのでカットしてます。いやもう余すところなく倭の兵を斬り殺したとか、はぎ取った鎧甲が一万を越えたとか、分捕った軍資は数え切れないほどだったとかあるのですが、売国サヨクの方が大喜びしそうな文章です。それはともかく、倭と高句麗の間に確執があり、こうして碑文に見えるだけでも二度戦争があったことがわかります。当然この二度だけということはありえないわけで、何度も激突を繰り返したのでしょう。高句麗は五世紀が全盛期で、碑文にあるよう自衛のための戦争しかしなかった…わけがありません。高句麗側からしかけた戦争であっても、倭の侵略というように粉飾している可能性は十分あります。しかし問題はそんな点になく、四世紀から五世紀にかけて、倭が積極的に朝鮮半島へ出撃し戦争を繰り返し行ったという事実です。『宋書』夷蠻伝倭國条に載せられている倭王武の上表文にあった「渡平海北九十五國」が誇張でも何でもなく、事実あったことだとおわかり頂ければ、この項の目的は達せられたことになります。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑥宋書夷蠻伝倭國条

      0 comments

    晋書』は、三国鼎立時代を終わらせた「」の正史で、西暦265年から420年までの出来事が収められている。ただし、倭人条は、泰始元年(西暦265年)の記事で終わっており、次に倭の名前が見えるのは安帝の義煕九年(西暦413年)であるため、四世紀の日本については何も情報がない。本稿で取り上げる『宋書』は、南北朝時代の「」(平清盛日宋貿易を行った「」とは時代が異なる国)の正史で、南斉武帝の命令で、沈約によって編まれた。西暦420年から479年までの出来事が記されている。かの有名な「倭の五王」が登場するのであるが、当然記録が五世紀に入ってからなので、四世紀がまるまる空白として残る結果となった。いわゆる「空白の四世紀」である。

    倭國在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

    倭國は高麗の東南の海中にあり、代々朝貢してきていた。高祖永初二年(西暦421年)、詔して曰く「倭の讚は万里を越えて朝貢してきた。遠来の忠誠をよろしくはかり、官職、答礼の品を賜うべし」太祖元嘉二年(西暦425年)、讚はまた司馬の曹達を遣わし、表を奉じて、様々なものを献上した。

    倭王讚が朝貢してきたことを示す記事です。讚は中華風名称であり、本名はまた別にあったはずですが、伝わっていません。司馬曹達は人名かも知れませんが、委細不明です。

    讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。

    讚が死に、弟の珍が倭王になって、使いを遣わし朝貢してきた。自ら、使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王と称していた。上表して正式な任官を求め、詔して安東將軍・倭國王に任命した。珍はまた、倭隋等十三人に号して平西・征虜・冠軍・輔國將軍とする正式な任命を求めた。詔してすべて聞き届けた。元嘉二十年(西暦443年)、倭國王濟が使いを遣わし、朝献してきた。また安東將軍・倭國王とした。元嘉二十八年(西暦451年)、もと願っていたように、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍を加えた。併せて都に上ってきていた二十三人を将軍や軍太守に任命した。

    讚が死んで、弟の珍が倭王になって朝貢してきた記事です。冊封を受けていますが、いつのことかわかりません。そして、元嘉二十年(西暦443年)になって倭王濟が朝貢してきたと続きます。珍が死んで後を継いだと書いていないところが意味深です。簒奪があったのかも知れません。当然上表文があったのでしょうが、内容が伝わっていないので何があったか不明のままです。ウィキペディアで検索するとわかりますが、「使持節」や「安東將軍」はいっぱいいます。倭の珍も濟もその中の一人でしかありません。割と安直に任命された名誉号のようです。日本において平安時代、地方の豪族に外従五位下を授けたようなものかも知れません。ただ、元嘉二十八年(西暦451年)に珍が自称し、任命を希望していた「使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王」とよくよく見るとちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」に濟は任命されています。何もないのにそんな任命が行われるはずがないので、軍事的に高句麗を圧倒した可能性があります。

    濟死、世子興遣使貢獻。世祖大明六年、詔曰「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王」

    濟が死に、世子の興が使いを遣わし朝貢してきた。世祖大明六年(西暦462年)、詔して曰く「倭王の世子、興、累代忠を捧げ、外界に藩国を構え、王化を受けてその国境を安寧にし、うやうやしく貢職を勤めてきた。新たな嗣子がその勤めを継ぐに当たり、よろしく爵号を授け、安東將軍・倭國王とすべし」

    さて、その濟も死に、息子の興が朝貢してきます。ひょっとして興も「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」を申請したのかも知れません。

    興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 。

    興が死に、弟の武が倭王に立った。自ら使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王を称した。

    興が死んで、弟の武が倭王になりました。当然朝貢したので、記事になっているわけで、その上表文の中で、珍が授けられた「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」とちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓國諸軍事・安東將軍」を自称しています。書かれていませんが、当然上表文の中で任命を求めたでしょう。もちろんこの時、その希望が叶えれなかったことは続く段落でわかります。

    ところで、ここまででいわゆる「倭の五王」が出尽くしたわけですが、讚と珍が兄弟であることは明らかです。濟と興が親子で、興と武が兄弟なのも明らかです。この続柄は当然上表文に記載されていたものを写したものですから、倭王が嘘を書かない限り、これを事実としない訳にはいきません。この「倭の五王」をどの天皇に比定するかで歴史学者は喧々囂々議論をしてるわけですが、はっきり言って、全員眉唾ものです。そもそも武を雄略天皇に比定するのは共通するみたいですが、それも雄略天皇の名前に「ワカタケル」と入っているから、「武」っぽいじゃん? というだけのことで、全然歴史的事実でも何でもないのです。そもそも雄略が西暦の何年頃に帝位を履んだかも明らかになっていません。即位と西暦が対応するのは、推古天皇からとされていますが、それは推古15年に遣隋使を送ったと『日本書紀』にある記事と、『隋書』俀国伝の「大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢」の記事が一致すると考えられているからです。しかしそもそもその比定が全く根拠がなく、思い込みに等しいものでしかありません。それ故、推古天皇を基準としたそれより過去の天皇の在位期間など全くあてにならないのです。何より「記紀」の雄略紀には、朝貢したとか、何某の官職に任命されたとかそんな話が出てきません。それがどれほどありえないか、続きの段落にある上表文を読んで頂ければ明白です。歴史学といってもそんなレベルなんですよ、皆さん。私どもはそういった方々に税金だの学費だのを投入して養っているわけです。知的レベルが江戸時代の国士から進化してないんじゃないでしょうか。

    雄略の実在を担保する物証として、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣があります。これには銘文が象嵌してあり、その裏の銘文「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」の「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と呼んで、雄略の本名にある「ワカタケル」と同じだとして、これは雄略のことに間違いなしとなっているのですが、これを五世紀の音で読むと、「獲」は「カク、カ、カイ」、「加」は「カ」、「多」は「タ、ダ」、「支」は「シ」、「鹵」は、「ル、ロ」…全然ワカタケルになりません。あるいは国内産ですので、古文的な読み方があるんでしょうか。「支」をキと読む例があるのを知っていますが、「獲」を「ワ」と読む例は寡聞にして知りません。どなたかご教示頂ければ幸いです。

    順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見吞、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

    順帝の昇明二年(西暦478年)、遣使が至り、上表文に曰く「封国(倭国)は、帝都から遠く離れており、藩外に国を構えております。父祖代々自ら鎧兜に身に着け、山川を跋渉し、戦いの毎日で気の休まることはありませんでした。そうして、東に毛人を制圧すること五十五国、西は衆夷を服従させること六十六国、海を渡って海北を平定すること九十五国となりました。王道は寛大で平和であり、首邑から遠く離れたところまで国土を広げました。累代、朝廷を尊び、歳を違えることもありませんでした。私は愚か者ではありますが、かたじけなくも亡き父兄がやり残したことを継ぎ、治めているところで軍を鍛え、崇め帰すこと天を極め、道を百済に通して、船舶も整えました。ところが、高句麗は無道にも領土を併合しようと企て、百済の国境に侵入してきては略奪し、殺戮を行って已みません。朝貢も毎回滞り、良風を得て船出することもできなくなり、では陸路を進もうとしても、ある時はたどり着けますが、ある時はたどり着けないのです。私の亡父濟は、仇敵が帝都に通じる道を塞いだのを大変怒りました。弓兵百万が正義の声に感激してまさに大挙しようとしましたが、俄に父と兄は死んでしまいました。成就間近であった武勲も今ひと息のところで失敗に終わってしまったのです。憎しみを抱いても諒闇であり、兵が動きません。そのために休息を余儀なくされ、いまだに勝つことができておりません。今に至り、兵を鍛え閲兵の儀式を行い、亡き父兄の志を申し上げようと思います。義士や勇士、文武の手柄を立てるには、たとえ目前で白刃が交わされようとも後ろへ退きません。もし、帝徳によって天地を覆い、この強敵を滅ぼし、国難をよく鎮めることができましたら、代々続けた忠功を替えることはありません。ひそかに開府儀同三司を自ら請い、我が祖先の威光にも授けて頂くことを請願いたし、以て忠勤に勤めます」詔して、武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

    原文は四六駢儷体で格調高い名文です。装飾過剰なんですが、まあそういう形式だということでご納得頂くしかないかと。要は代々貢職を怠らず、周辺諸国を平らげ、中国の威光を広めてきたのに、高句麗が邪な意図で百済を攻めている。これを滅ぼしたいので、ついては官職を頂きたい。ってことです。それに対して「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王」が授けられています。確かに望んだ官職とは異なりますが、先祖も授けられた名誉ある官職ですし、正式に冊封されたのだから、「記紀」にそれが記されていないのは、おかしな話なのです。

    ここで『日本書紀』の編纂目的を思い起こして下さい。同書は歴とした漢文で書かれ、日本が、皇統一系古来より続く有力国であることを内外に示すために編纂されました。当然、唐の朝廷にも献上されています。自分たちが古来より続く名族であることを示すのに、自分の国の中のことだけを綿々と書くより、いついつの朝廷に遣使して冊封された。上表文は然々である。と他でもない中華の国を引き合いに出す方が相手にもわかりやすく、かつ訴求力があるというものです。なのに書かれていない。つまり、「倭の五王」は近畿天皇王朝と関係がなく、もそれを知っていたため、『日本書紀』にも記しようがなかったと考えるのが論理的な判断というものです。うがった見方をすれば、古来より続く「倭」または「俀」という王朝が滅んでしまい(あるいは滅ぼしたので)、代わって近畿天皇王朝が日本の支配者となったことをに納得させるために、自分たちが「倭」(「俀」)に匹敵する古くから続く王朝であることを示す目的があったとも言えます。つまり、それだからこそ、「倭」(「俀」)の冊封のことなどうかつに書き入れることができなかったと。

    さらに感のよい方なら「遣唐使」が国書を持参しない慣例であったことを思い起こすと思います。つまり、日本は上表文を呈しない習慣をに認めさせていたのです。これは、倭(俀)と日本が連続していると考えると大変奇妙な点で、それまで累代形式通り朝貢しては表を奉じていたのに、遣唐使にあたってはそれをしなくなる。が表を呈しなくてもよいと自ら言い出すはずはないので、日本がごり押ししたと考えるのが妥当です。なぜそんなの面目を失するような波風を立たせるごり押しをしたのか、できたのか。これに対して誰も論理的な回答を出していません。そして、この不連続性もまた、倭(俀)と日本が別の王朝であることを示しています。

    それにしても、倭王武は祖先の功績として「東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」を誇っています。南がありませんね? そう、南がないのです。東征の毛人が「蝦夷」であることは言うまでもありません。ただし、これを関東、東北ととるのは即断というものです。ここは慎重にいきましょう。西の衆夷は置いておくとして、海北とあるのは明らかに朝鮮半島へ侵攻したことを意味しています。それを妨げたのが高句麗なわけですね。さて、これを近畿天皇王朝の立場で考えると、東征は納得できます。西の衆夷もまあ関西以西ですからよしとしましょう。北も朝鮮半島ならありえる話です。あれ、南は? 和歌山は放置ですか、そうですか。となるのです。それに、ここにある国ですが、平安時代に置かれた国のような広い範囲を指すのではなく、宗族と解釈するのが一般的です。でないとそんなにたくさん国はない、としか言えなくなるからです。では出雲王朝はどうでしょう。東、北とも問題ありません。西もそれくらいは服属させられそうです。ところが今度はまた、南に触れていないのが問題になります。出雲の南はもとより、四国無視かよ…となってしまうのです。では真打ち、九州王朝だったとしたらどうでしょう。東と北は問題ありません。南がないのは、自分たちが押さえているからですが、西は…? そう。九州の西は海なのです。いえいえ、九州王朝を筑前、筑後、肥後の連合王朝だとしたら、西は肥前で東は豊前、豊後となります。南に鹿児島がありますが、有力な豪族はいなかったと考えられています。あれ、いける…? あるいはこの部分、白髪三千丈式の誇張表現で、実際は大したことなかったという見方もできないではありません。ところがここに同時代資料として『好太王碑』が頑として存在し、「渡平海北九十五國」が誇張でも何でもないことがわかってしまうのです。

    一体、「倭の五王」の王朝はどこにあったのでしょうか。少なくともその王朝が、近畿天皇王朝とは関係がないことだけは明らかです。悩ましいですね。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—⑤晋書四夷伝倭人条

      0 comments

    晋書』は『三国志』に続く正史であるが、書かれたのは「」になってからである。「」は司馬懿の一族が曹操の「」を簒奪して誕生した王朝で、西暦245年から420年まで続いた。三国に分裂していた中国を統一したのが「」である。しかしその統一は束の間で、西暦317年に匈奴前趙)の侵略を受け、南遷を余儀なくされた。それまでのを「西晋」、南遷後のを「東晋」と呼んで区別するのが習わしである。

    この書にも倭のことが書かれているが、明らかに『後漢書』の引き写しである。従って全文を紹介する意味はあまりないのであるが、いくつか指摘すべき点があるので、念のために触れておく。

    倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。

    倭人は帯方郡の東南の海中にあり、山島に拠って国を建てている。その土地は山林が多く、良田がないので、海のものを食べる。百あまりの国が相接して存在していたが、魏の時代には、三十国が魏へ通好していた。戸数は七万である。

    山林が多く、良田がないのは『魏志倭人伝』によると、「対馬國」「一大國」のことであるが、ここでは倭全体がそうであるかのように書かれている。東夷のことだから、対馬國や一大國といった一部のことではあるまい、という臆断が見え隠れする。「有三十國通好」は『魏志倭人伝』において「今使譯所通三十國」が、『後漢書』で「使驛通於漢者三十許國」と誤読された結果である。三十もの国が朝貢していたら『魏志倭人伝』はことさら麗々しくそう書いたであろう。『後漢書』を書いた「范曄」が「譯」と「驛」を間違えた結果である。『後漢書』の倭人条は全体に投げやりな書き方が多く、「范曄」自身が書いたとは思えない。部下に適当に書かせたものをそのまま収録したのではないか、という人までいる始末である。それを受けて書かれたと思われる『晋書』も推して知るべしだ。

    男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。

    成人男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。自分たちを太伯の末裔であると称している。また、大昔から遣使をしており中国に朝貢していたと伝えられている。遣使はみな大夫を自称した。

    倭人が太伯の末裔を自称するということは、『魏略』にも「聞其旧語自謂太伯之後」と見える。『後漢書』にはこの既述はない。「上古」は中国では前漢後漢までのことを言い、西周の頃から倭が朝貢していたことは既に述べた通り。ただし、後漢から禅譲を受けたをすぐに簒奪して立てられた国であるので、ここで言う上古は、春秋戦国時代より前だと思われる。この部分が『漢書』地理志や『論衡』(あるいはその同時代史料)などにも拠っていることは明白である。

    昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。

    昔、王朝の少康王の子が会稽に封じられた。髪を短く切り、体に入れ墨をすることで大魚や水禽の害が避けられると民に教えた。今、倭人はよく水に潜って魚を捕る。また体に入れ墨をして水禽が近寄ってこないようにしている。その位置を勘案すると、会稽郡東冶県の東に当たる。

    「會稽東冶之東」は『後漢書』の誤記である。それがそのまま引き継がれている。というか、「道里」は「道理」なのだが、ここでは「道筋、里程」の意味で使われている。この条を書いた人はあまり教養のある人ではなかったようだ。

    其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。

    男子の衣服は横広の布を結んだだけの物で、縫っていない。女性は重ね着をしておらず、中央に穴が穿たれた貫頭衣で、全員髪を覆って裸足で歩いてる。倭地は温暖、稲作を行い、麻を紡ぎ、養蚕・織り物をする。牛馬がしない。刀・盾・弓・矢が有って、鉄の矢尻を使っている。ちゃんとした家があって、父母と兄弟は別々に寝る。飲食に俎豆を用いる。

    父母兄弟の兄弟はもちろん成人のことを指す。庶民は竪穴式住居が一般的だったのだから、「異處」は建物自体が異なる、つまりは妻問婚で男は妻方を訪れるので、自然、「異處」になることは既に記した。「有屋宇」は、『魏志倭人伝』では「有屋室」、『後漢書』では「有城柵屋室」であり、『後漢書』がやや詳しい。

    嫁娶不持錢帛、以衣迎之。

    嫁を娶る場合、幣物は不要である。衣を用意して迎えるのである。

    中国では婚姻の際、媒人を立て、幣帛を用意して納采の儀を執り行うのが、結婚において重要なこととされていた。さもないと野合と非難されたのである。ところが日本はそんなことをしないというので、新たに書き込んだのであろう。さて「以衣迎之」の「之」は通常「嫁」のこととされるが、それはそれは変わった風俗である。ところが、その前の文は、男が嫁を取る場合のことについて書いてある。その文意を受けて「之」と書いたのなら「男」を意味すると解することができる。つまり、「着物を用意して夫を迎える」が、正しく伝わらなくて、もしくは倭人条を書いた人の「結婚は即ち嫁取りである」という臆断で(こっちの方がありそうだが)、妙な形に歪んでしまったと思われる。元々の意味は妻問婚で妻が夫を迎える習俗を言っていたのであろう。後々の婿取婚でも婿の衣服の世話は妻の実家の役割となっていた。その萌芽があったのだろう。

    死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。

    死ぬと棺(かんおけ)はあるが、椁(かく)はない。土を盛って塚を作る。葬儀が始まると哭泣して肉を食べない。葬儀を終えると、家中で水に入り、水を浴び体を洗い清らかにする。これで禍を除くのである。重要なことをする時は、骨を焼いて吉凶を占う。

    不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。

    一年が四季よりなることを知らず、ただ秋の収穫の時をはかって年としている。

    これを春秋年紀=一年二歳と勘違いしている人が多いが、『魏略』に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」とあるのを混同したものと思われる。ただし、この項目が「但計春耕秋収之時以爲年紀」とすべきところを、書き手が一年=一歳が当然だろうと勝手に臆断して「春耕」を削って書いた疑いがないでもない。

    人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

    百歳まで生きる人が多く、あるいは八十、九十になる人も多い。国には女性が多く、貞節で嫉妬しない。罪を犯した者は、その罪が軽いものであれば、妻子を没して奴隷にし、重い者はその家族と一族を殺す。

    ここの「國多婦女」は、『後漢書』が「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」(国には女性が多いため、身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、それ以外の者も二人や三人の妻を持つ)と書いているのを受けている。『魏志倭人伝』で「國大人皆四五婦下戸或二三婦」(身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、身分の低い者にも二、三人の妻を持つものがいる)を誤解して書いたものと思われる。『魏志倭人伝』では全員が多妻であるとは言ってないのに、『後漢書』でこれを全員多妻と誤解し、全員が多妻なのだから、女性が多いのだろうと結論したと考えられる。お粗末にもほどがある。あるいは本当に女性が多かったのなら、戦乱で消耗された男の多さが窺える文章でもあるのだが、それなら『魏志倭人伝』が男が多数戦乱で死んで女性がすごく多いという点に何も触れてないのが異常となる。

    舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。

    もとは男性を王としていた。後漢の終わり頃、倭で内乱があり、攻伐しあって国が安定しなかった。そのため、女性を王として建てた。名前を卑弥呼という。

    「漢末」とあるのは、『後漢書』に「桓靈閒倭國大亂(桓帝=後漢の第十一代皇帝、西暦146年-167年。靈帝=後漢の第十二代皇帝、西暦168年-189年)」とあるのを受けている。が、その『後漢書』の既述自体が、『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」を誤読したもので、まったく信用がおけない。

    宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

    宣帝(司馬懿)が公孫氏を滅亡させた時、女王が帯方郡に遣使を送り朝貢に来た。その後暫く朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭)が宰相になった時、また何度か朝貢に来た。泰始元年(武帝司馬炎)に、使いを遣わせて通訳を二重に重ねて入貢した。

    晋書』でありながら、実質的に書かれているのは「」の時代のことである。は安定しなかったので、朝貢が途絶えたのだろうか。それより「重譯入貢」が不明である。倭には直接中国語を話せる人がおらず、別の言語を通じて会話したということなのか。しかしそんなことは他の正史には書かれていないし、その状態で朝貢を続けるというのも不自然である。あるいは、倭でも別のグループが朝貢に来たのだろうか。その場合方言間の翻訳が必要なので、確かに重訳となるが…あるいは別の意味があるのか。

    倭人条はこれで終わりだが、倭の記事はもうひとつある。安帝本紀の義煕九年(西暦413年)に倭が朝貢していたことが載っているのである。

    是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物

    この年、高句麗や、倭國、西南夷銅頭大師が並んで様々な物を朝献してきた。

    この記事に関しては、倭の王が冊封を受けた節がないので、ニセモノの遣使だと主張する人もいて、様々な議論があるようです。しかし、の朝廷が衰えていたとはいえ、史官も馬鹿揃いではないのでニセモノ説はさすがに成り立ちにくいと考えます。冊封を受けた様子がないのは、別の説明が必要でしょう。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

  • 日本の古代史を考える—④魏志倭人伝諸問題

      0 comments

    魏志倭人伝』に登場する「」國が日本のことであるのは周知であるが、古来その仮定を前提にすると、種々の問題が生じることが明らかになっている。

    Ⅰ. 「狗邪韓國」はどこか?

    帯方郡から狗邪韓國まで海を渡っていないことは、その直後に「始度一海」とあるので明らかである。故に狗邪韓國は朝鮮半島にあると推定するのが本来であるが、距離が七千余里あるのが問題だ。知られている限りでは「」の頃の里は、433.8 m なので、七千里というと、3,000 ㎞ を越える大距離になる。直線距離ならカムチャッカ半島の先っちょか、ベトナムかというくらいの距離だ。近畿か九州か以前に、日本を素通りしてしまう。日本の大名行列を参考に、一日当たり 35 ㎞ 進んだとしても、87 日かかる。かかりすぎだ。つまり、従来説は初っぱなから破綻しているのである。無論、私にもわからない。

    Ⅱ. 「狗邪韓國」と「末盧國」の間は定期便とも呼ぶべき航路が開かれていたのではないか。

    これは「③魏志倭人伝」の 6月3日付けの追記でも書いたが、対馬國と一大國の人たちは、食料を自給できないので「乖船南北市糴」とある。少し脇道にそれるが、これを物々交換だと思っている人が多いが、「」から冊封を受けた国に貨幣が存在しないと想定することがむしろ滑稽である。大体「市」へ行って何と交換に食料を得るのだ。陳寿が「市」とだけ書いて少しも怪しまないのだから、中華における「市」と同じものと考えるのが当たり前である。閑話休題。「市」は常設か、もしくは定期的に立つものであるから、食料が足りなくなりそうだ→それ市へ行くから船を出せ!という話があるわけもない。使者や通訳が「倭」と「帯方郡」、「倭」と「諸韓國」の間を往来するのであるから、交通路が整備されていたと見なすのが当然ではないか? 逆に交通路が整備されていたから、狗邪韓國まで、難破の恐れのない=下賜品をなくすことがない陸路、河川行を取ったのではないか。同様に「狗邪韓國」⇔「対馬國」⇔「一大國」⇔「末盧國」で交通路ができていた=定期便が出ていたから、既述のようなルートをたどったと考える方がよほど自然である。強盗の類の難を避けるため海路のはずと主張する人もいるが、それなら「帯方郡」から直接「対馬國」あるいは「末盧國」へ行けば良いので、「狗邪韓國」を経る理由がない。そもそも「」皇帝の勅使には護衛がつくわけで、それは常識だ。恐れ多くも皇帝の下賜品を海の藻屑にしましたなんて事態が起きれば、勅使本人は一緒に海に沈んだかも知れないが、下手すると九族まで誅殺されるわけだから、誰がそんな危険を冒すのだ。当然「倭」の遣使も護衛を引き連れていただろうし、どこの誰が護衛付きの皇帝勅使を狙うというのか。反乱軍が跋扈していたわけでもあるまいし。護衛が付くのはあまりにも当然すぎて陳寿もわざわざ書いてないだけだ。

    Ⅲ. 伊都國はなぜあんなに人口が少ないのか。

    「世有王」の地であり、「郡使往來常所駐」であるのに、家が千戸あまりしかない=人口が、五千〜六千人くらいというのは、少なすぎないか? 古田武彦氏は、今代の伊都国王=卑弥呼であるとして、「奴國」をあわせて実質の領土とされているが、國名が別ということは、王も別なのが普通ではないか? 伊都國王=卑弥呼でも構わない。というより、女王國について、「伊都國」だけ「世有王」と書かれているのは、それが「」の冊封した王だからだと考えるのが自然なので、伊都國王=卑弥呼と言い切ってしまってもよいように思えるが、そうするとますます人口の少なさが気になる。「不彌國」「投馬國」など官名だけ書かれて、王の名前が書かれていない=単なる領域名でいわゆる「国」ではないと主張する人もいるが、それだと卑弥呼即位前に「倭國」が乱れて相攻伐した際の王たち、あるいはその子孫はどこへ行ったのだ? 故にその説は取れない。しかしそうすると「南至邪馬壹國、女王之所都」が全く意味不明となってしまう。解せない。

    Ⅳ. 「伊都國」以降は、「伊都國」を起点に所在が説明されているのではないか。

    この説を採る方は少なくない。私にもそう読める。すると、

    • 「伊都國」から東南へ百里のところに「奴國」がある。戸数は、二万戸あまり。
    • 「伊都國」から東へ百里のところに「不彌國」がある。戸数は、千戸あまり。
    • 「伊都國」から南へ水行二十日のところに「投馬國」がある。戸数は、五万戸くらいか?
    • 「伊都國」の南に接して「邪馬壹國」がある。戸数は、七万戸あまり。

    ということになる。

    Ⅴ.「不可得詳」以降に書かれている国々は、単なる列挙ではないか。

    これも採る方が少なくない説である。「次」を列挙に使うのは日本語と同じだと思う。

    Ⅵ.「狗奴國」は「邪馬壹國」と境を接しているのでは?

    Ⅴ. から自然に導き出される結論である。「其南有狗奴國」の「其」は「邪馬壹國」のことだ。

    Ⅶ.「投馬國」はどこにあるのか?

    この国だけ「水行二十日」と所要日数で書かれている。いくら古代でも二十日もあれば、琉球くらいは充分たどり着く。九州内でこれを説明するのは不可能である。陳寿は当然「」の公式記録を参照して倭人条を書いたのだから、その記録に「水行二十日」とあったのでそう既述したに違いない。「到」ではなく「至」なのは郡使が実際には行かなかったからだという説に私も同意する。倭人の説明で距離のわかるところは距離で、所要日数しかわからないところは所要日数で書いたのだと思う。とすると次の問題が出てくる。

    中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従うと、「投馬國に二十日かかって至った」ではなく「投馬國へは河川を船で航行し(土地土地の調査を含めて)二十日をかけた」となる。それならば、日数は問題でなくなる。(2013年7月20日削除、追記)

    Ⅷ.「里」は実際にはどれくらいの長さだったのか?

    いわゆる「長里」vs「短里」問題である。「」の里が、433.8 m であるのは既に書いた。これが「長里」である。これに対して古田武彦氏は、代に起源を持つ 77 m 相当の短い「里」があったと説く。これが「短里」である。だが、これらの論争の前に、倭人の説明によって距離を記したのなら、当時の倭人が「里」をどれくらいだと考えていたのかが問題になるのではないか。大変残念なことにそれを証明する考古学的な史料は存在しない。古田氏は短里が存在した証拠として「周髀算経」の計算結果を出しておられるが、仮に、代の里が 77 m ほどだったとしたら、それが日本に伝わり、代々使用されてきたと考えてもよい根拠がある。「①漢書地理志」で書いた通り、縄文時代から倭人は西周に朝貢して冊封を受けていたと見なすべきだと書いた。つまり、の時代の倭人が説明に「短里」を用い、それがの朝廷の公式記録に残り、陳寿がそれを引用して書いたのだとしたら、何の矛盾も生じないのである。さすがに陳寿には「倭」の地の距離感など持ってなかっただろうし、史料を校合してもそのように書いてあったのなら、所要日数との差が不審だったではあろうが、やむなくそう記したのだと考える。王朝の公式記録を作成する歴代王朝の史官の、記録に懸ける情熱は日本人には理解しがたいほどである。その正当なることに文字通り命を懸けていたので、これを疑うなどという発想は陳寿にはなかっただろう。これに対して近畿朝廷は、遣唐使で初めて冊封を受けた。なので「記紀」以降には当然「長里」が採用される道理である。この説の肝は、当然代が「短里」であったこと、である。その証明が尽くされないと決着はつかない。

    Ⅸ.「倭」と「日本=ヤマト」はあまり関係がないのではないか?

    それは「男子無大小、皆黥面文身」とある、入れ墨の風習が伝わっている痕跡が、大和朝廷にはないからである。もちろん、最初はあったが、中国からの教化を受けて、それが野蛮な風習と見なされてだんだん廃れていったのだ、という説明も可能だが、それにしては何の記録も残っていないというのが不思議である。むしろ、元々なかったから記録がないというのが本来ではないか。逆に『魏志倭人伝』にその頃大和王権にあったはずの「抜歯」が何も記録されていないことも問題だ。これだけ長々と倭人伝を書いたからには、特徴的な風俗の違いが他に存在すれば、必ず陳寿は書いただろう。それがない、ということ自体が、「倭」と「ヤマト」が関係のない証拠となるのである。

    Ⅹ.結局、「邪馬壹國」はどこにあったのか?

    親魏倭王」の金印が出てこない限り決着はつかないのでは?

    上記以外の問題点については、「③魏志倭人伝」で本文中に書いた。改めて目を通して頂きたい。

    Post to Twitter Post to Digg Post to Facebook Post to LinkedIn Post to Reddit

Top