• 日本の古代史を考える—⑤晋書四夷伝倭人条

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    晋書』は『三国志』に続く正史であるが、書かれたのは「」になってからである。「」は司馬懿の一族が曹操の「」を簒奪して誕生した王朝で、西暦245年から420年まで続いた。三国に分裂していた中国を統一したのが「」である。しかしその統一は束の間で、西暦317年に匈奴前趙)の侵略を受け、南遷を余儀なくされた。それまでのを「西晋」、南遷後のを「東晋」と呼んで区別するのが習わしである。

    この書にも倭のことが書かれているが、明らかに『後漢書』の引き写しである。従って全文を紹介する意味はあまりないのであるが、いくつか指摘すべき点があるので、念のために触れておく。

    倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。

    倭人は帯方郡の東南の海中にあり、山島に拠って国を建てている。その土地は山林が多く、良田がないので、海のものを食べる。百あまりの国が相接して存在していたが、魏の時代には、三十国が魏へ通好していた。戸数は七万である。

    山林が多く、良田がないのは『魏志倭人伝』によると、「対馬國」「一大國」のことであるが、ここでは倭全体がそうであるかのように書かれている。東夷のことだから、対馬國や一大國といった一部のことではあるまい、という臆断が見え隠れする。「有三十國通好」は『魏志倭人伝』において「今使譯所通三十國」が、『後漢書』で「使驛通於漢者三十許國」と誤読された結果である。三十もの国が朝貢していたら『魏志倭人伝』はことさら麗々しくそう書いたであろう。『後漢書』を書いた「范曄」が「譯」と「驛」を間違えた結果である。『後漢書』の倭人条は全体に投げやりな書き方が多く、「范曄」自身が書いたとは思えない。部下に適当に書かせたものをそのまま収録したのではないか、という人までいる始末である。それを受けて書かれたと思われる『晋書』も推して知るべしだ。

    男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。

    成人男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。自分たちを太伯の末裔であると称している。また、大昔から遣使をしており中国に朝貢していたと伝えられている。遣使はみな大夫を自称した。

    倭人が太伯の末裔を自称するということは、『魏略』にも「聞其旧語自謂太伯之後」と見える。『後漢書』にはこの既述はない。「上古」は中国では前漢後漢までのことを言い、西周の頃から倭が朝貢していたことは既に述べた通り。ただし、後漢から禅譲を受けたをすぐに簒奪して立てられた国であるので、ここで言う上古は、春秋戦国時代より前だと思われる。この部分が『漢書』地理志や『論衡』(あるいはその同時代史料)などにも拠っていることは明白である。

    昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。

    昔、王朝の少康王の子が会稽に封じられた。髪を短く切り、体に入れ墨をすることで大魚や水禽の害が避けられると民に教えた。今、倭人はよく水に潜って魚を捕る。また体に入れ墨をして水禽が近寄ってこないようにしている。その位置を勘案すると、会稽郡東冶県の東に当たる。

    「會稽東冶之東」は『後漢書』の誤記である。それがそのまま引き継がれている。というか、「道里」は「道理」なのだが、ここでは「道筋、里程」の意味で使われている。この条を書いた人はあまり教養のある人ではなかったようだ。

    其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。

    男子の衣服は横広の布を結んだだけの物で、縫っていない。女性は重ね着をしておらず、中央に穴が穿たれた貫頭衣で、全員髪を覆って裸足で歩いてる。倭地は温暖、稲作を行い、麻を紡ぎ、養蚕・織り物をする。牛馬がしない。刀・盾・弓・矢が有って、鉄の矢尻を使っている。ちゃんとした家があって、父母と兄弟は別々に寝る。飲食に俎豆を用いる。

    父母兄弟の兄弟はもちろん成人のことを指す。庶民は竪穴式住居が一般的だったのだから、「異處」は建物自体が異なる、つまりは妻問婚で男は妻方を訪れるので、自然、「異處」になることは既に記した。「有屋宇」は、『魏志倭人伝』では「有屋室」、『後漢書』では「有城柵屋室」であり、『後漢書』がやや詳しい。

    嫁娶不持錢帛、以衣迎之。

    嫁を娶る場合、幣物は不要である。衣を用意して迎えるのである。

    中国では婚姻の際、媒人を立て、幣帛を用意して納采の儀を執り行うのが、結婚において重要なこととされていた。さもないと野合と非難されたのである。ところが日本はそんなことをしないというので、新たに書き込んだのであろう。さて「以衣迎之」の「之」は通常「嫁」のこととされるが、それはそれは変わった風俗である。ところが、その前の文は、男が嫁を取る場合のことについて書いてある。その文意を受けて「之」と書いたのなら「男」を意味すると解することができる。つまり、「着物を用意して夫を迎える」が、正しく伝わらなくて、もしくは倭人条を書いた人の「結婚は即ち嫁取りである」という臆断で(こっちの方がありそうだが)、妙な形に歪んでしまったと思われる。元々の意味は妻問婚で妻が夫を迎える習俗を言っていたのであろう。後々の婿取婚でも婿の衣服の世話は妻の実家の役割となっていた。その萌芽があったのだろう。

    死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。

    死ぬと棺(かんおけ)はあるが、椁(かく)はない。土を盛って塚を作る。葬儀が始まると哭泣して肉を食べない。葬儀を終えると、家中で水に入り、水を浴び体を洗い清らかにする。これで禍を除くのである。重要なことをする時は、骨を焼いて吉凶を占う。

    不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。

    一年が四季よりなることを知らず、ただ秋の収穫の時をはかって年としている。

    これを春秋年紀=一年二歳と勘違いしている人が多いが、『魏略』に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」とあるのを混同したものと思われる。ただし、この項目が「但計春耕秋収之時以爲年紀」とすべきところを、書き手が一年=一歳が当然だろうと勝手に臆断して「春耕」を削って書いた疑いがないでもない。

    人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

    百歳まで生きる人が多く、あるいは八十、九十になる人も多い。国には女性が多く、貞節で嫉妬しない。罪を犯した者は、その罪が軽いものであれば、妻子を没して奴隷にし、重い者はその家族と一族を殺す。

    ここの「國多婦女」は、『後漢書』が「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」(国には女性が多いため、身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、それ以外の者も二人や三人の妻を持つ)と書いているのを受けている。『魏志倭人伝』で「國大人皆四五婦下戸或二三婦」(身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、身分の低い者にも二、三人の妻を持つものがいる)を誤解して書いたものと思われる。『魏志倭人伝』では全員が多妻であるとは言ってないのに、『後漢書』でこれを全員多妻と誤解し、全員が多妻なのだから、女性が多いのだろうと結論したと考えられる。お粗末にもほどがある。あるいは本当に女性が多かったのなら、戦乱で消耗された男の多さが窺える文章でもあるのだが、それなら『魏志倭人伝』が男が多数戦乱で死んで女性がすごく多いという点に何も触れてないのが異常となる。

    舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。

    もとは男性を王としていた。後漢の終わり頃、倭で内乱があり、攻伐しあって国が安定しなかった。そのため、女性を王として建てた。名前を卑弥呼という。

    「漢末」とあるのは、『後漢書』に「桓靈閒倭國大亂(桓帝=後漢の第十一代皇帝、西暦146年-167年。靈帝=後漢の第十二代皇帝、西暦168年-189年)」とあるのを受けている。が、その『後漢書』の既述自体が、『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」を誤読したもので、まったく信用がおけない。

    宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

    宣帝(司馬懿)が公孫氏を滅亡させた時、女王が帯方郡に遣使を送り朝貢に来た。その後暫く朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭)が宰相になった時、また何度か朝貢に来た。泰始元年(武帝司馬炎)に、使いを遣わせて通訳を二重に重ねて入貢した。

    晋書』でありながら、実質的に書かれているのは「」の時代のことである。は安定しなかったので、朝貢が途絶えたのだろうか。それより「重譯入貢」が不明である。倭には直接中国語を話せる人がおらず、別の言語を通じて会話したということなのか。しかしそんなことは他の正史には書かれていないし、その状態で朝貢を続けるというのも不自然である。あるいは、倭でも別のグループが朝貢に来たのだろうか。その場合方言間の翻訳が必要なので、確かに重訳となるが…あるいは別の意味があるのか。

    倭人条はこれで終わりだが、倭の記事はもうひとつある。安帝本紀の義煕九年(西暦413年)に倭が朝貢していたことが載っているのである。

    是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物

    この年、高句麗や、倭國、西南夷銅頭大師が並んで様々な物を朝献してきた。

    この記事に関しては、倭の王が冊封を受けた節がないので、ニセモノの遣使だと主張する人もいて、様々な議論があるようです。しかし、の朝廷が衰えていたとはいえ、史官も馬鹿揃いではないのでニセモノ説はさすがに成り立ちにくいと考えます。冊封を受けた様子がないのは、別の説明が必要でしょう。

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  • 日本の古代史を考える—④魏志倭人伝諸問題

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    魏志倭人伝』に登場する「」國が日本のことであるのは周知であるが、古来その仮定を前提にすると、種々の問題が生じることが明らかになっている。

    Ⅰ. 「狗邪韓國」はどこか?

    帯方郡から狗邪韓國まで海を渡っていないことは、その直後に「始度一海」とあるので明らかである。故に狗邪韓國は朝鮮半島にあると推定するのが本来であるが、距離が七千余里あるのが問題だ。知られている限りでは「」の頃の里は、433.8 m なので、七千里というと、3,000 ㎞ を越える大距離になる。直線距離ならカムチャッカ半島の先っちょか、ベトナムかというくらいの距離だ。近畿か九州か以前に、日本を素通りしてしまう。日本の大名行列を参考に、一日当たり 35 ㎞ 進んだとしても、87 日かかる。かかりすぎだ。つまり、従来説は初っぱなから破綻しているのである。無論、私にもわからない。

    Ⅱ. 「狗邪韓國」と「末盧國」の間は定期便とも呼ぶべき航路が開かれていたのではないか。

    これは「③魏志倭人伝」の 6月3日付けの追記でも書いたが、対馬國と一大國の人たちは、食料を自給できないので「乖船南北市糴」とある。少し脇道にそれるが、これを物々交換だと思っている人が多いが、「」から冊封を受けた国に貨幣が存在しないと想定することがむしろ滑稽である。大体「市」へ行って何と交換に食料を得るのだ。陳寿が「市」とだけ書いて少しも怪しまないのだから、中華における「市」と同じものと考えるのが当たり前である。閑話休題。「市」は常設か、もしくは定期的に立つものであるから、食料が足りなくなりそうだ→それ市へ行くから船を出せ!という話があるわけもない。使者や通訳が「倭」と「帯方郡」、「倭」と「諸韓國」の間を往来するのであるから、交通路が整備されていたと見なすのが当然ではないか? 逆に交通路が整備されていたから、狗邪韓國まで、難破の恐れのない=下賜品をなくすことがない陸路、河川行を取ったのではないか。同様に「狗邪韓國」⇔「対馬國」⇔「一大國」⇔「末盧國」で交通路ができていた=定期便が出ていたから、既述のようなルートをたどったと考える方がよほど自然である。強盗の類の難を避けるため海路のはずと主張する人もいるが、それなら「帯方郡」から直接「対馬國」あるいは「末盧國」へ行けば良いので、「狗邪韓國」を経る理由がない。そもそも「」皇帝の勅使には護衛がつくわけで、それは常識だ。恐れ多くも皇帝の下賜品を海の藻屑にしましたなんて事態が起きれば、勅使本人は一緒に海に沈んだかも知れないが、下手すると九族まで誅殺されるわけだから、誰がそんな危険を冒すのだ。当然「倭」の遣使も護衛を引き連れていただろうし、どこの誰が護衛付きの皇帝勅使を狙うというのか。反乱軍が跋扈していたわけでもあるまいし。護衛が付くのはあまりにも当然すぎて陳寿もわざわざ書いてないだけだ。

    Ⅲ. 伊都國はなぜあんなに人口が少ないのか。

    「世有王」の地であり、「郡使往來常所駐」であるのに、家が千戸あまりしかない=人口が、五千〜六千人くらいというのは、少なすぎないか? 古田武彦氏は、今代の伊都国王=卑弥呼であるとして、「奴國」をあわせて実質の領土とされているが、國名が別ということは、王も別なのが普通ではないか? 伊都國王=卑弥呼でも構わない。というより、女王國について、「伊都國」だけ「世有王」と書かれているのは、それが「」の冊封した王だからだと考えるのが自然なので、伊都國王=卑弥呼と言い切ってしまってもよいように思えるが、そうするとますます人口の少なさが気になる。「不彌國」「投馬國」など官名だけ書かれて、王の名前が書かれていない=単なる領域名でいわゆる「国」ではないと主張する人もいるが、それだと卑弥呼即位前に「倭國」が乱れて相攻伐した際の王たち、あるいはその子孫はどこへ行ったのだ? 故にその説は取れない。しかしそうすると「南至邪馬壹國、女王之所都」が全く意味不明となってしまう。解せない。

    Ⅳ. 「伊都國」以降は、「伊都國」を起点に所在が説明されているのではないか。

    この説を採る方は少なくない。私にもそう読める。すると、

    • 「伊都國」から東南へ百里のところに「奴國」がある。戸数は、二万戸あまり。
    • 「伊都國」から東へ百里のところに「不彌國」がある。戸数は、千戸あまり。
    • 「伊都國」から南へ水行二十日のところに「投馬國」がある。戸数は、五万戸くらいか?
    • 「伊都國」の南に接して「邪馬壹國」がある。戸数は、七万戸あまり。

    ということになる。

    Ⅴ.「不可得詳」以降に書かれている国々は、単なる列挙ではないか。

    これも採る方が少なくない説である。「次」を列挙に使うのは日本語と同じだと思う。

    Ⅵ.「狗奴國」は「邪馬壹國」と境を接しているのでは?

    Ⅴ. から自然に導き出される結論である。「其南有狗奴國」の「其」は「邪馬壹國」のことだ。

    Ⅶ.「投馬國」はどこにあるのか?

    この国だけ「水行二十日」と所要日数で書かれている。いくら古代でも二十日もあれば、琉球くらいは充分たどり着く。九州内でこれを説明するのは不可能である。陳寿は当然「」の公式記録を参照して倭人条を書いたのだから、その記録に「水行二十日」とあったのでそう既述したに違いない。「到」ではなく「至」なのは郡使が実際には行かなかったからだという説に私も同意する。倭人の説明で距離のわかるところは距離で、所要日数しかわからないところは所要日数で書いたのだと思う。とすると次の問題が出てくる。

    中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従うと、「投馬國に二十日かかって至った」ではなく「投馬國へは河川を船で航行し(土地土地の調査を含めて)二十日をかけた」となる。それならば、日数は問題でなくなる。(2013年7月20日削除、追記)

    Ⅷ.「里」は実際にはどれくらいの長さだったのか?

    いわゆる「長里」vs「短里」問題である。「」の里が、433.8 m であるのは既に書いた。これが「長里」である。これに対して古田武彦氏は、代に起源を持つ 77 m 相当の短い「里」があったと説く。これが「短里」である。だが、これらの論争の前に、倭人の説明によって距離を記したのなら、当時の倭人が「里」をどれくらいだと考えていたのかが問題になるのではないか。大変残念なことにそれを証明する考古学的な史料は存在しない。古田氏は短里が存在した証拠として「周髀算経」の計算結果を出しておられるが、仮に、代の里が 77 m ほどだったとしたら、それが日本に伝わり、代々使用されてきたと考えてもよい根拠がある。「①漢書地理志」で書いた通り、縄文時代から倭人は西周に朝貢して冊封を受けていたと見なすべきだと書いた。つまり、の時代の倭人が説明に「短里」を用い、それがの朝廷の公式記録に残り、陳寿がそれを引用して書いたのだとしたら、何の矛盾も生じないのである。さすがに陳寿には「倭」の地の距離感など持ってなかっただろうし、史料を校合してもそのように書いてあったのなら、所要日数との差が不審だったではあろうが、やむなくそう記したのだと考える。王朝の公式記録を作成する歴代王朝の史官の、記録に懸ける情熱は日本人には理解しがたいほどである。その正当なることに文字通り命を懸けていたので、これを疑うなどという発想は陳寿にはなかっただろう。これに対して近畿朝廷は、遣唐使で初めて冊封を受けた。なので「記紀」以降には当然「長里」が採用される道理である。この説の肝は、当然代が「短里」であったこと、である。その証明が尽くされないと決着はつかない。

    Ⅸ.「倭」と「日本=ヤマト」はあまり関係がないのではないか?

    それは「男子無大小、皆黥面文身」とある、入れ墨の風習が伝わっている痕跡が、大和朝廷にはないからである。もちろん、最初はあったが、中国からの教化を受けて、それが野蛮な風習と見なされてだんだん廃れていったのだ、という説明も可能だが、それにしては何の記録も残っていないというのが不思議である。むしろ、元々なかったから記録がないというのが本来ではないか。逆に『魏志倭人伝』にその頃大和王権にあったはずの「抜歯」が何も記録されていないことも問題だ。これだけ長々と倭人伝を書いたからには、特徴的な風俗の違いが他に存在すれば、必ず陳寿は書いただろう。それがない、ということ自体が、「倭」と「ヤマト」が関係のない証拠となるのである。

    Ⅹ.結局、「邪馬壹國」はどこにあったのか?

    親魏倭王」の金印が出てこない限り決着はつかないのでは?

    上記以外の問題点については、「③魏志倭人伝」で本文中に書いた。改めて目を通して頂きたい。

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  • 邪馬壹国・九州王朝・関東王朝

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    邪馬台国」論争は昔から有名で、九州にあったか近畿にあったか、はたまた海外だったか様々な仮説が出ては消え出ては消えして今に至っている。「婚姻の歴史を考える」を書いた際、魏志倭人伝についても簡単に調べたのだが、古田武彦氏の論によって、積年の疑問が解決したのでここにまとめておきたい。

    魏志倭人伝における従来の解釈に関する疑問は次の通り。

    • 版本では「邪馬壹國(=邪馬一国)」とあるものを何故「邪馬臺國(=邪馬台国)」の誤字だとするのか?
    • 版本では「一大國」とあるものが、何故「一支國」の誤字だとするのか?
    • 何故「水行十日、陸行一月」を全行程に要する日数だと解釈しないのか?
    • 版本では「壹与」とある女王の名前を何故「臺与」の誤りだとするのか?

    大学生の頃も「そりゃ君決まってるよ」とは言うものの、何故を説明できた先生はいなかった。歴史学とは随分胡散臭い学問だと思ったものである。それが今回、古田氏の論文を読んで氷解したのである。つまり、

    • 「邪馬壹國(=邪馬一国)」が正しい。
    • 「一大國」が正しい。
    • 「水行十日、陸行一月」は全行程に要する日数だった
    • 「壹与」が正しい。

    古田氏は、他にも様々な論証を加え、邪馬壹國が博多湾岸にあったことを結論づけている。加えて氏は、この王朝が「漢書」地理志に現れる「倭人」と繋がっており、「隋書」東夷伝の記事、『大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云』で有名な「多利思比孤」も九州王朝の王であったとしている。そして、「旧唐書」で「倭国」条と「日本」条が別になっているのは、「倭国」が九州王朝、「日本」が近畿天皇王朝であるとする。誠に慧眼であり、我意を得た思いである。

    畢竟、従来すべての議論は「王といえば近畿天皇家しかありえない」という臆断から出発していたため、不必要な議論が重なってきたのが事実なのだ。何も近畿天皇家だけが王であったとする意味も必要もない。九州に繁栄した正当な王朝があっていけない理由はなく、また存在しなければおかしい遺跡が存在するのであるから、素直にそう考えればよいのである。後世九州にあって天皇政権に属さない部族を「熊襲」や「隼人」と言ったが、彼らが衰微したその九州王朝の末裔であり、だからこそ近畿天皇家に下ることをよしとせず頑固に抵抗し続けたと考えて何の不思議があろう。逆に「蝦夷」とよばれてやはり近畿天皇家にしつこくしつこく抵抗した部族が関東から東北にかけてあったことを考えれば、関東王朝があってもよいとすら考える。(古田氏稲荷山古墳出土の鉄剣銘を関東王朝存在の証であると主張している。私も同感である)

    邪馬台国論争は江戸時代から続く非常に「歴史的」な問題であるが、たったひとつの理由のない臆断によって、これほどの長時間と多大な労力が無駄に費やされてきたことを考えると、学者の言う「科学的」とか「実証的」とかいう論がいかに怪しいものであるかをこの問題は示している、まさに好例と言えるであろう。

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