• 事実に基づく歴史を伝えよう

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    婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

    とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

    人類の歴史は500万年とも600万年とも言われますが、そのほとんどをそうして暮らしてきたのです。氷河期の最中にたくましく生きて子孫を残してきた先祖に、私たちは敬意を持たねばなりません。

    ここで目を日本に向けます。縄文時代は、今から約14,000年前から紀元前六世紀に当たります。温暖で植生が豊か、海産物や川で取れる食料も豊富、危険な肉食獣がほとんどいない、という原初人類にとっては、パラダイスのような地でした。日本の地にたどり着いたリーダーは心底安堵して肩の力を抜いたでしょう。もはやリーダー一人が懊悩を繰り返して元来不可能な課題に対する決断を下さなくてもよくなったのです。となると、性も解放されてしまうのですが、放置すると集団はバラバラになってしまいます。そのままでは、性欲が非常に強化されていますから、各自勝手に乱交となって集団を統率できなくなります。リーダーはやはりどうすればよいか考えなくてはならなかったでしょう。そして、性を神に捧げる神事とすることで、野合を禁じ、集団で定期的に婚姻を営む形を考え出したのでしょう。これが「群婚」です。近親相姦の問題? あんなの学者が現行のタブーを正当化するためにひねり出した世迷い言です。近親相姦を繰り返すと本当に遺伝的障害が現れるかどうかは実験で確かめることも、観察で確認することもできません。早い話がわからないのですよ。でも、現在の日本人に全体として遺伝的に大きな問題があるように見えませんから、そういう問題などないんじゃないですかね?

    この「群婚」の遺風は後々まで、戦後の昭和まで残っていたことは既に述べました。ですが、日本中が全部そうだったとは限らないのです。ここで、『漢書』地理志の倭人について書かれた記述を思い出して下さい。あれは、西周時代に「倭」が朝貢していたことを表しているのだと述べましたが、それは即ち、「倭」—朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部一帯—に中国の風習が移入されたことも意味しているのです。西周時代といえば、今から三千年前に始まる古代の王朝です。少なくとも九州北部の縄文人は、「」の感化を受けていたと考えられます。縄文人には半分裸の未開人なんてイメージがありますが、縄文土器ひとつ取っても見ても、その美意識が現在の我々と変わらないか、あるいは上回っていることを示しています。そういう人たちがどうして未開でありえましょう。まして中国に朝貢していたということは文字すら知っていたことになるのです。縄文人の交易ルートが日本中に広く広がっていたことも併せて考えると、そこに、高度に組織化され、統率された人々の姿を見ないでいることは不可能です。そしてそれがあるからこそ、次の段階の婚姻「妻問婚」も可能になったのです。

    高群逸枝氏は、「群婚」に「族内婚」と「族外婚」の二段階あったと主張されていますが、それにしては後世に残った「群婚」風習がすべて「族内婚」的なものばかりなのが腑に落ちません。これは氏の勇み足で、私は日本には「族外婚」などなかったのだと考えています。そのような過程を経たのなら、それを示す遺風が必ず見つかるはずです。にも関わらず、その前段階の「族内婚」遺風ばかり見つかるのは、「族外婚」がなかった証でもあります。「群婚」から「妻問婚」に到るには、人々が氏族として統率されていないと不可能でした。いかに縄文時代弥生時代が豊かな時代であったとしても、現代とは比較になりません。個人で生きていくなどまず不可能でした。集団の協力があってこそ、族外の男を受け入れ、生まれた子を養うことができたのです。それは小さな数家族が集まっただけの小集団では保障できようはずがありません。もっと大きな氏族という枠組みがあってこそ互いの生活を保障し合えたのです。また、その枠組みに乗っかる形でしか、妻を集団外に求めることはできなかったのです。妻を他所に求めるということは、「群婚」が不利になる事態が既にないとできません。人口密度が高まり、集団と集団が接するように居住するようになると、そのこと自体がストレスとなって集団にかかってきます(とはいえ、現代の超過密社会を想像しないで下さい。狩猟採集を維持するにはとても広い領域が必要だったのです)。そのストレスを緩和し、集団間の対立を回避する方法としてやはり性が使われました。それが「妻問婚」です。そのような事態は、早ければ縄文時代中期に、遅くても弥生時代が始まる頃には生じていたでしょう。「群婚」で集団を閉鎖しているとそのストレスが緩和されず、ことによると暴発してしまいます。実際そうして争いになった集団もあったのでしょう。ここに至って集団保障(という概念があったかどうかは別にして)のために血を分けた一族をすべて統率し、氏族として全体の生存を保障すると同時に、性によって氏族間の緊張を緩和するに到ったと思われます。それが「妻問い」の形を取ったのは、氏族の政治過程を男が担っていたためです。言葉を変えると、外へ出て交渉事などを片付けるのは男の仕事であったため、男が女の元を訪れるという形になったにすぎません。従って子供も母の里で育てられる母系制が成立したと言えます。

    では「群婚」はなくなったのかというと、そういう訳ではありません。神事としての「群婚」は、弥生時代を経て、古墳時代に入り、飛鳥時代になってもまだ庶民の祭りの場に残されていました。それが戦後まで残っていたということは、すべての地域で行われていたわけではないにしろ、延々と余命を保っていたことがわかります。日本人が性に大らかなのは、性を特別視することなく、ムラの大人総出で楽しむ行事が根底にあったからです。ムラの性的行事と言えば「夜這い」が有名ですが、もちろん「夜這い」は柳田民俗学が言うようなお上品なものではありません。夜に男が女の元へ忍んで通うというのはセックスのためであって、馬鹿じゃなかろうかと思います。赤松啓介氏の著作を読めば、みなさんお盛んであったことがよくわかります。そういう意味では「夜這い」とは「婿取婚」や「嫁取婚」で性が封鎖されてしまうことへの「群婚」的反逆だったのかもしれません。「夜這い」の風習がほぼ全国にあったことはよく知られていますが、これをただの乱交だの強姦だのと同列視している人が結構居ることに驚きます。当然、「夜這い」もムラの規律に従って営まれた行事だったのです。ムラごとに掟が異なるので一概には言えないものの、基本的に男女で同意があったからこそ長く続いた風習であったことを忘れてはいけません。(この項2013年6月17日に追記)

    中国では「東周」になってから戦乱の世となり、朝貢どころではなくなってしまいます。この春秋戦国時代は、紀元前221年に「」によって統一されるまで、500年も続きます。ところがその「」もあっという間に滅んで、紀元前202年、王朝が開かれるまで、また戦乱です。その王朝が武帝の頃最盛となり、中国の正史の中でも特に有名な歴史書「史記」が司馬遷によって書かれます。「史記」には倭のことが出てきません。他に書くことが一杯あったのですから仕方ありませんね。その「史記」の「太伯世家」に「於是太佰、仲雍二人乃奔荊蠻、文身斷發、示不可用、以避季歷」とあります。中国では髪を切ることは文明人のすることではなかったので、太伯と仲雍がそれを以てして「」の跡を継がない決意を表したのですが、ここで「文身」と出てくることに注意して下さい。体に入れ墨をしたという意味ですが、後々重要になります。

    さて、そんな戦乱が続いたのなら、当然戦乱を避け、平穏な地を求めた人々がいたことは論を俟ちません。特に春秋時代の終わりには、の戦争が激しくなり、ついにに滅ぼされてしまい、そのに滅ぼされてしまいます。の人々が南西諸島を経由して日本へ逃れてきたこともまた、論を俟ちません。その人々が稲作をもたらしたことは確実とされています。そして「前漢」末から「」を経て「後漢」が建国されるまでもまた戦乱の中にありました。ここでも大量の避難民が日本を訪れ、定住したことでしょう。既に日本は弥生時代に入っていました。平和的に移住できた時代は終わりを告げており、ここ日本でも戦争が頻々と起きていました。外来の人たちと戦争になったこともあるでしょう。その戦争の結果、様々な部族を統合して「国」を建てる一族が次々と現れたと思われます。『後漢書』東夷伝を見れば、建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が朝貢してきています。既に国家が形作られていたのです。この時下賜された金印志賀島から出土したものであることは既に書きました。

    後漢書』東夷伝の倭人条は『魏志倭人伝』を参照して書かれたことが明らかなのですが、「使」を「使」と間違っていたり、「會稽東之東」を「會稽東之東」と勝手に書き直したり、「國大人皆四五婦、下戸或二三婦(その国で身分の高い人は妻を四、五人持ち、平民でも二、三人の妻を持つ者がいる)」を誤読して「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三(その国には女性が多いので、身分の高い者は妻を四、五人持ち、そうでない者も二、三人の妻を持っている)」と爆笑ものの説明をしていたりと、まあ当てにならないこと夥しいのですが、さすがに「後漢」の公式記録から引用された部分は信用してよいでしょう。

    さて、日本のことが詳しく紹介された史上初の書物が『魏志倭人伝』です。景初三年(西暦239年)卑弥呼に朝貢してきた時の記事を含め、その旅程や風俗まで説明されています。この旅程が、所要日数を距離に換算したものであることが、後の『隋書』で明らかになります。当時はレストランなんて気の利いたものはありませんから、食料を調達=狩りをしたり木の実、山菜を採集しながら旅をしたわけで、しかも保存技術も怪しいですから、一度に大量に狩りや採集をして食料を集めておき、旅程を急ぐ、などということも無理だったと思われ、平均すれば、一日に数㎞進むことがやっとだったのではないでしょうか。実際、狩りをしたり、木の実、山菜を集めてなおかつ料理して、そのついでに移動するような状態だったと思います。そしてその『魏志倭人伝』で紹介された「邪馬國」=「山倭(やまゐ)國」が、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、九州北部にまたがる国であったことは間違いなさそうです。九州中部、今の熊本県あたりから南は「狗奴國」だったのでしょう。なぜなら、『隋書』東夷傳俀国条では触れられている阿蘇山について書かれていないからです。

    さてその『魏志倭人伝』では「男子無大小皆黥面文身」で男性は全員入れ墨をする文化があったことを示しています。倭人が入れ墨をするのは、中華の教化が東の果てに及んだためである。と特に注記しているのです。「史記」の「太伯世家」に「断髪文身」が出ていたでしょう。の風俗として入れ墨は非常に昔から有名だったのです。その上、『魏志倭人伝』と同じ資料を参照して書かれたと思しき『魏略』には「聞其旧語自謂太伯之後」と書かれています。「その昔話を聞くと、自分たちは太伯の末裔であると言う」倭の人々は太伯の末裔だと言っていたのです。から渡来した人々がいたことは確実です。その人たちが入れ墨の風習を持ち込んだのでしょう。そして実際、中国江南から、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が発見されているのです。「男子皆露紒」とあるのでまだ冠を被る習慣がないこともわかります。「有屋室、父母兄弟臥息異處」とあるのは、「妻問婚」で男たちは妻方の実家で寝るからだと説明しました。「以朱丹塗其身體」と中国で白粉を使うように朱丹(赤い顔料)を使うとあれば、『古事記』や『日本書紀』で紹介されている風俗と随分異なることがわかります。また、神社で拍手を打って拝礼するのは、元々身分の高い人に対する礼であったことも書いてありました。一方で、この頃ヤマト近辺では「抜歯」の風があったのにそれには全く触れていません。このことからも、「邪馬國」がヤマト王権とは関係ないことが見て取れます。

    現代人の感覚からすると、入れ墨などヤのつく職業の人たちの特徴みたいに考えがちですが、元々は極めて実用的なものであったのです。それが装飾や身分を表す証に変遷していく過程にあったことも記されています。なぜ歴史学者は「記紀」には記述のないこの風習を重視しないのでしょうね。

    そして、空白の四世紀をはさんで、『宋書』に有名な倭王武の上表文が現れます。その「」の時代に編纂されたのが『後漢書』ですが、この時、国名が「邪馬國」=「山大倭(やまだいゐ)國」に変わっています。既に国名に「大」を冠して恥じない実力を倭が備えていたことを示します。当時の倭の風俗についてはわかりませんが、倭王武の上表文から、先祖代々文字通り東奔西走して戦争していたことがわかります。おそらく東は美濃尾張まで、西は肥前天草を征し、北では新羅高句麗と激闘していたのでしょう。南が書かれていないことを考えると、『魏志倭人伝』に言う「狗奴國」は既に征していたか、あるいは「狗奴國」自体が膨張して倭の国々を従えていたのかも知れません。「記紀」にある「神武東征」もこの頃のことではないかと筆者は考えています。「記紀」には神武天皇淡路島から大阪湾に出る際、明石海峡側ではなく、鳴門海峡側をルートとして選んだことが覗える記述があります。明石海峡側は「五色塚古墳」に象徴される強力な豪族が根を張っていて、これと正面から事を構えることを避けたのでしょう。このことは「神武東征」の頃、「倭國」はまだ吉備国(今の岡山県に広島県東部の一部と兵庫県西部の一部をあわせた領域)あたりまでしか支配もしくは同盟していなかったことを示します。それを考慮すると、むしろヤマト政権は、元々倭の東部前線基地と東部総督を兼ねていたのかも知れません。その由緒がヤマトと他の地方政権との違いとなったこともありえない話ではありません。

    宋書』が倭の風俗を伝えていないことは残念です。海外から見た倭の風俗は、『隋書』まで、即ち六世紀末から七世紀初頭まで空白のままです。しかし『隋書』によると、複式統治が行われていたので、卑弥呼以来の制度が続いていたことが覗えます。冠位十二階があったことはかなり早い段階から位階を設けて豪族を組織化していたことを覗わせます。それが倭王武やその前後の王によって創始されたと考えてもおかしくはないでしょう。そして「」の時代までは冠を被るという風習はなかったのですが、その頃定めたとあります。『隋書』には「男女多黥臂點面文身没水捕魚」とあります。『魏志倭人伝』では男子のみが実用から入れ墨をしていたのが、男女共通の習俗に変化しています。身分を表し、装飾を兼ねていたのは言うまでもありません。当たるも八卦当たらぬも八卦の卜筮は「知卜筮尤信巫覡」とあるのでこの頃には既に一般化していたこともわかります。嫁入りの風習を取り入れていたようですが、「男女相悦者即爲婚」ということで、後の嫁取婚とは全く異なるものだったことがわかります。「貴人三年殯於外」三年間の殯は、中国の儒教の影響がよく現れています。儒教では父母が死ぬと三年間喪に服するのが正式です。尤も、本家中国ではそのような礼は既に孔子の時代でも廃れていたことがわかっています。やはり春秋時代ですが、晏嬰という人が父の喪に本当に三年間服したことが天下の話題になっています。それくらい稀なことだったのです。孔子の死から千年以上経っているのにその教えた礼が形を変えていたとはいえ日本に保存されていたのが面白いところです。文化は中央で生まれ外部へと波及していくのですが、中央でそれが廃れた後も周辺ではよく保たれることが明らかになっています。方言の変遷を説明するのによく援用される理論なのですが、もちろん文化全般に言えることです。四世紀から五世紀の間に様々な風習が中国から影響を受けて生まれていたことがわかりますね。

    日本が中国から影響を受けた風習というと、殯と関連して土葬があげられます。日本は仏教が入った後も長い間土葬が併せて行われていましたが、それは死者の肉体を神聖視し、様々な儀式を儒教が行ったことに由来します。また仏壇というと位牌がつきもののように日本人は考えますが、この位牌というのも由来は儒教です。年功序列=「先輩が上、後輩は下」も儒教です。ブルーカラーよりホワイトカラーを何となく上に見るのも儒教思想に由来します。和を以て貴しとなすという思想も儒教由来です。教育を重視し、子供を愛育すべしという考え方も儒教が根源です。年寄りを労り親を大切にするのも儒教の教えです。今時の宴会は無礼講が当たり前ですが、それでも敢えて無礼講を宣言する場合があるのも、儒教にその根っ子があります。掘り出せばもっと出てくると思います。間違いなく日本人の原風景には中国の影響があるのです。儒教ではありませんが、帽子を被るというのも中国の風習が元です。今や帽子を被る人を滅多に見なくなりましたが、ほんの四、五十年前までは正式な場で無帽は失礼だとされていたのです。閑話休題。

    さて、この頃のヤマト王権の影響範囲はどこからどこまでだったのでしょう。「記紀」にあるオケ王・ヲケ王の物語から、播磨は王権の及ばない地と考えられていたことがわかります。すると、西は摂津の国までだったのでしょう。東については美濃尾張あたりではないでしょうか。天武天皇の挙兵に応じた東国の兵とはそれらの国の兵団でした。とても全国政権とは言えませんね。

    では全国…とはいかなくても南は薩摩大隅屋久島種子島から東は美濃尾張までを配下に治め、号令をかける存在がなかったかというと、それが倭のオオキミだったことが、『宋書』倭王武の上表文から見て取れます。『隋書』においても九州の多利思北孤が倭のオオキミであり、倭を代表していたことがわかります。この多利思北孤の姓が「阿毎」であることは、天つ神を信仰しており、自分たちがその子孫であることを表していると考えられます。太宰府には天満宮がありますが、ここに祭られているのは菅原道真なのに、どうして「天神」さんというか不思議に思ったことはありませんか? 元々倭の神々の筆頭「天神」が祭られていたのが、倭の王族がヤマトへ移住した後放置されていたところに、菅原道真が合祀されたのです。「記紀」に記された天つ神も元々は倭の国の神様だったのです。

    隋書』には王の妻は「キミ」と呼ばれていたとあります。「キサキ」ではないのです。倭は複式統治を取っており、政治を見る王を「オオキミ」、祭祀を司る王を「キサキ」と呼んでいたのでしょう。この「キサキ」に女性が任じられたことは『魏志倭人伝』に見られます。『隋書』では兄弟統治になっていましたから、必ずしも女性に限るものではなくなっていたのでしょう。後代、大和朝廷ではこれが混交され、「キサキ」が「オオキミ」の夫人を意味するようになっていくのですが、元々は「キサキ」を夫人が代行する慣例があったのだと思われます。

    さて、六世紀の大乱といえば、「磐井の乱」があり、これは継体天皇が倭王朝を簒奪しようとした事変であると説明しました。実際、いったんは簒奪に成功したものの、各地の反乱を鎮撫するのに二十年かかり、しかもその後すぐに継体天皇は死んでしまった可能性があるのです。大和朝廷の勢力は駆逐され、再び倭が力を取り戻したのは言うまでもありません。こうして倭とヤマトの一世紀に及ぶ対立が始まるのですが、「記紀」はこれをなかったことにしています。まあ強盗に失敗しましたと書くわけにもいかなかったでしょうし、仕方ないですね。その外交方針を巡ってヤマト蘇我氏物部氏の対立があり、山背大兄王の謀反があり、乙巳の変があったことは既述しました。その宥和路線に転換した大和朝廷を待っていたのは、「白村江の戦い」での大敗北で、これを受けて大海人皇子大和朝廷へ避難し、天智天皇を支えて国をまとめていったのです。最終的に大海人皇子が「壬申の乱」を経て大和朝廷のオオキミの座を勝ち取り、倭の一族を呼び寄せて「皇親政治」を開始しました。敗戦で立て直しもままならなかった倭の国は以降、地方政権へ転落し、代わって大和朝廷が倭を代表する国になったのです。しかし、倭の人々は偉大なる倭王多利思北孤を忘れられなかったのでしょう。由緒のある建物をヤマトへ移築したくらいですから、英明な王であったことは間違いありません。

    代、つまり縄文時代晩期から続き、卑弥呼が総覧し、倭王武が勢威を張った倭國の歴史はここで終わりました。しかしそれは完全に忘れ去られたのでしょうか。私は「記紀」にその名残があると思います。天つ神の系譜に始まり、天孫降臨に至る物語は、元々倭國で伝えられたものでしょう。天武天皇は『古事記』や『日本書紀』の巻頭に敢えて神代を挿入することで自分たちの祖先を顕彰することを忘れませんでした。史書の編纂が中華の伝統を受けたものでしかないなら、神話を冒頭に配置することなどありえません。つまりその編纂に強い意志が働いたことを意味しているのです。偉大なる倭王多利思北孤の事績は、厩戸皇子と結びつけられ、スーパーヒーロー聖徳太子として『日本書紀』に綴られました。おそらく他にも倭國伝来の由緒のある人が仮託されている人物や天皇があるとは思いますが、今の私にはそれを解き明かす材料がありません。いつの日か、歴史学が江戸時代の蒙昧な国学者の影響を脱し、真の科学として発展して真相が解明されることを切に願ってやみません。

    さて、長々と振り返りましたが、これは歴史に対するひとつの説でしかありません。しかし、中華の文献を参照し、また日本の書物を読んでいくと、日本の歴史はこのような形でないとおかしいと思われるのです。もっと過激な説を唱える人がいることも知っていますが、中華文献絶対で、日本文献は完全に恣意の産物というのもありえない話です。私たちの祖先は、そこまで蒙昧だったのでしょうか。そんなことはありません。確かに、政治的な意図からある人物を貶めたり、逆に持ち上げたりすることはあったでしょう。それは中華の正史でも見られることです。あるいは、「倭」の歴史事実を「日本」の歴史に混入もしているでしょう。しかし、事件の年代を入れ替えたり、存在しない事件をでっち上げたりするでしょうか。私はそこまではしなかったと考えます。もちろん「記紀」が編纂されるまでは豪族ごとに自分たちに都合の良い修飾が入った私史が作られていたのでしょう。それを集大成して矛盾のないように整理したのが「記紀」の姿だと思います。歴史を恣意的に改編することはなによりも祖先に対する冒涜です。「記紀」の編纂者がそこまで傲慢であったとはどうしても思えません。

    最後に。あなたは子供たちに、自分たちの祖国、日本の歴史を語るとき何を基準に言って聞かせますか。教科書通りの薄っぺらい中身のない独りよがりな日本史ですか。それとも、連綿と続く誇り高い先祖の事績が詰まった日本史ですか。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—⑤妻問婚補記

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    弥生時代の定義は学会でも揺れているようだが、米の栽培/収穫が主要な食糧獲得手段になり、土地の奪い合いによる集団間の紛争が発生していた時期をそう呼ぶことに差し支えはなさそうである。つまり遅くとも、農耕が定着して武力闘争が開始された時期には弥生時代が始まっていたものと見なす。そして、紛争の片が概ねついて各地に「」を称する大首長が現れ、古墳を築造し始める古墳時代の前までを弥生時代とする。以下本稿でいう弥生時代はその意味である。

    弥生時代の農耕に武力闘争が不可分であったことは、環濠集落が北九州から近畿にまで瞬く間に広がったことで明白である(環濠集落の分布に関しては、藤村哲氏『弥生社会における環濠集落の成立と展開』が参考になる)。もちろん、では常時戦闘が続く文字通りの「24時間戦えますか」状態だったかというと、そんなわけはない。農耕は手間暇のかかる生産様式なのだ。そして、戦争といえば敵対以外に同盟や征服が不可分である。いつの世も婚姻による味方作りは戦さにつき物とも言える。いや、たとえば群婚において、婚姻は同族であることを確認する神聖な儀式でもあったこと、略奪婚において、他所からきた女を—身分はともかくとして—同族としたことなどを考えると、いったん敵であったとしても婚姻を結ぶことで神に承認された擬制的な同族関係となる点が着目されて同盟構築の手段として使われるようになったのではないか。

    いずれにせよ、婚姻による同盟が生じていたことは疑うべくもない。あるいは征服支配の際裏切ることがないよう疑似同族化しておく必要もあっただろう。この時、集団婚では非常に都合が悪い。戦争は一方面だけで行っているわけではないからである。前を向いて同盟を結ぶために集団で出かけてたら後ろからばっさりやられた、では話にならない。しかも集団の意思として同盟を結ぶことを示すために、長が婚姻の主体となることは避けられない。ここに、縄文期に萌芽していたと思われる妻問婚が適合する大きな余地があるのである。しかも妻問いは夫が妻方に通う形式なので、人質の交換などという悪辣なことをする必要がない。群婚以来の習慣で子は母につくのが当然とされていたので、仮に同盟解消となっても、子の去就を考える必要がない。しかも複数の女性を妻としても何も問題がおきない=各地の集団と同盟が結べる。といいことづくめで、まるでこのために考え出されたかのような婚姻様式である。戦時における同盟ではなく、平時の親善としても同じことが言えるので、決して政略結婚のために考え出された様式ではないと思うが。

    なお、どこまで歴史的な事実を反映しているのか全く不明ながら、『古事記』に多々見られる妻問い説話は、弥生時代の緊張した集団関係とその中での同盟構築や征服支配を反映していると筆者は考えている。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—④妻問婚

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    日本の古代—主に古墳時代から奈良時代にかけて—に婚姻様式として妻問婚が広く行われていたのは、周知の事実である。

    では、妻問婚はいつ頃始まり、いつ群婚に取って代わったのであろうか。
    筆者は、少なくとも縄文中期には妻問婚が始まっていたと考える。理由は以下の通りである。

    ①既に大規模集落が営まれており、集団が大規模化していたこと。
    ②勾玉の交易から明らかなように他集団との交流が活発であったこと。
    ③(同一血族を示すと思われる)抜歯の風習が始まったこと

    ①について、集団の大規模化は直接、群婚を否定しない。むしろ適齢期の男女がそれだけ多くなるということであるから、群婚が最盛であったとしても異論はない。しかし、一方で狩猟採集の成果という観点から見ると、大規模な集団を維持するにはそれだけ多くの獲物、採集物を必要とすることでもある。必然的に縄張りは拡大し、隣接する集団とその境界が接するに至ったという想像はあながち間違ってはいないだろう。当然のこととして交流が始まり、それが、②の交易結果として結実したのではないか。ここで重要なのは、もっぱら隣接する集団と接するのは狩りを担当する男である点である。縄文時代の狩りは、かつてあったマンモス狩りのように大勢で獲物を追い込んで仕留めるようなものではなく、弓矢を使った小集団での狩りに移行していた。従って、そのような単位での接触が集団間で発生したからといって、例えば族外集団婚といったような様式が発生したとは考えづらい。むしろその小集団がそれぞれ女に求婚する形—妻問いを行う形が自然に発生したと考えるべきであろう。縄文時代は隣接集団間で平和的な交流が持たれていたと思われ、交流の場としての「市」あるいは「山」が設定されていただろう。群婚時代の神聖な儀式であった歌垣が、集団の異なる男女を結びつける儀式へと変化し、そこでの求愛が正式な婚姻の申し込みと承認となったであろうことは想像に難くない。そして、集団内で居住はしていなくとも起居する他集団の男が出てくるに従い、その属する集団を見分けるために抜歯が手段として使われるようになったのではなかろうか。とすると、漁労民のように入れ墨をする風習があった集団ではわざわざ歯を抜かなくともその属するところが一目瞭然であり、従ってそのような集団では抜歯があまり根付かなかったことの証左となる。(尤も、抜歯が集団属性を表すという説には異論も多く、また統計的に確実なことがわかるほどの人骨も見つかっていないことから、あまり重視すべきではないと考える)

    妻問婚の始まりについては以上の通りである。では、群婚はいつ消滅したか。これは婚姻をどのように捉えるかによる。婚姻を性の管理と見なす場合(往古、婚姻とはすなわち性交であった)、その消滅は昭和の戦後である。ヨバヒが夜這いとなって延々と生き残り続けたと言えよう。神事としての共婚は、美濃国郡上郡東村大字祖師野の氏神祭りの例を高群逸枝氏は示している(高群逸枝『日本婚姻史』15頁)。あるいはそんな昔ではなく、第二次世界大戦後というごく最近まで祭りの場で群婚が営まれていた例は枚挙にいとまがない。赤松啓介氏の論説を読むまでもないだろう。一方、家族制度を含む社会的な男女の結合と考える場合、一部上位階級では弥生時代末期には既に大部分が廃れていたと言い得るのみである。この原因は、

    ①軍事的緊張の高まり=多くの集団との政治結婚の必要性が高まる
    ②集団内に身分階層の差が生じ、集団婚がそぐわなくなる。

    だと考えられる。『漢書』地理志にはかの有名な「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」の一文がある。楽浪郡は紀元前108年に設置されているから、弥生時代中期の倭では、多くの宗族が相争いながら既に群立していた様が窺える。この時期の日本には高地性集落も出現していた。すなわち戦乱がそれだけ激しかったことを物語る。また、墳丘墓が小規模ながら弥生時代前期から認められ、身分の差が発生していたことがわかる。以上からすると、弥生時代中期には上位層の妻問婚への移行が完了していた可能性すらある。弥生時代末期になるが、魏志倭人伝に次の言葉がある「父母兄弟の臥息処を異にす」。これを単に寝所が別と解釈する人が多いが、そんなものをわざわざ記事にするわけはないわけで、これは別の建物、もっといえば別集団に寝起きすることを言っているものと考えられる。兄弟姉妹ではなく、兄弟なのがミソ。成人した男は妻問いで他所に寝にいくので、「臥息処を異にす」るわけである。続けて「その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし…」とある。身分のある人はみんな四人から五人の妻を持ち、貧乏人でも二人から三人の妻を持つ者がいる。女性は浮気せず、嫉妬もしない。盗みをしないし、公に訴え相争うこともあまりしない。ということだが、複数の妻がいるというのは、特に貧しくても複数の妻が持てるということは、妻問いの風が一般にも行われていたことの証拠になる。女は家にいて男が通うのを待つだけなので、自ら浮気に出歩かないし、男に他の女がいてもまめまめしく通ってくれるならば、問題にならない。盗み云々は公共心の高さを言っているのだろう。現代日本人も公共心が高く、訴訟を好まないと言われるが、まさしくそれが伝統であることを示す文章であろう。逆に言うと当時の中国ってそんなレベルだったのかということでもあるが(笑)。閑話休題。

    魏志倭人伝では「男子は皆鯨面文身す」とあり、当時中国と交通のあった倭は、入れ墨をする部族ばかりであったことがわかる。そのため抜歯については言及がない。「諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり」とあるので、部族・身分毎に入れ墨が異なっていたことがわかる。妻問いの婚主は家刀自、つまり嬶であり、婚姻を承認/否認するためにも相手がどこの族のどんな階層の人間かを知ることは必須であった。

    以上により、少なくとも弥生時代末期には妻問婚が一般的であったということが言えるだろう。ただし、祭りにおける神事としての群婚例がごく最近まで残存していたという事実を考え合わせると、群婚は庶民の階層に生き残り続け、時には弾圧を受けながらもしぶとく命脈を保ち、決して妻問婚に取って代わられたわけではないということもできるのである。

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