• 『日本婚姻史概説』を公開しました

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    日本婚姻史概説』を公開しました。ぜひご覧になって感想をおよせ下さい。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—⑦禁婚

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    婚姻を考察する上で、必ず考慮しなくてはならない要素に「禁婚」がある。文字通り、結婚してはいけない相手を定めることである。

    現在の日本においては、

    • 民法734条「直系血族又は3親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない。」と禁婚の範囲が定められている。これには附則があり「2 第817条の9の規定により親族関係が終了した後も、前項と同様とする。」
    • 同735条「直系姻族の間では、婚姻をすることができない。第728条又は第817条の9の規定により姻族関係が終了した後も、同様とする。」と姻族でも直系は不可とする規定がある。
    • 同736条「養子若しくはその配偶者又は養子の直系卑属若しくはその配偶者と養親又はその直系尊属との間では、第729条の規定により親族関係が終了した後でも、婚姻をすることができない。」で、一度養子を取ったら縁組みを解消しても結婚できないよと定めている。

    小難しい言葉が出てくるが、簡単に言うと「直系の血縁(親子孫祖父母など)+三親等以内の血縁(兄弟姉妹オジオバ甥姪)と、結婚した相手の親および連れ子とは離婚しても結婚できないよ。一度養子しちゃったらそれも同じ」ということだ。今の日本では当たり前すぎて誰も疑問を抱かないだろうが、これ、近代国家の禁婚規定としてはかなり甘い制度であると述べたら読者は驚かれるであろうか。

    例えば、儒教の影響が大きい中国では、同姓とは結婚できないという社会通念がある。これは、古代中国のさらに古代に存在した族外婚(群婚)から引き継がれた禁婚規定であると考えられる。族外婚(群婚)は、ある集団の男性は必ず別の決まった集団の女性(ただし相手は不特定)と婚姻関係を結ばなくてはならない。女性も同様である。従って「同集団=同じ氏族=同姓」の者との「性交=婚姻」は禁止される。この禁婚は有史以前から存在し、もちろん中国が歴史時代に入ってからも墨守され、儒教によって補強された上で、現代に至るまで根強い禁婚観念を形作っている。中国が夫婦別姓なのは、このタブーに抵触していないことを明らかにするためであり、別段進んだ夫婦関係があるからではない。朝鮮も儒教の影響下でこの禁婚観念を受け入れたため、長らく同姓同本貫は禁婚であった。今は法律上少し緩められているが、避けられるものなら避けるのではないだろうか。

    そこまで極端ではなくても、血族との結婚を避ける国は多い。通常、いとこは余裕で禁婚範囲である。逆に、いとこと結婚できる国は日本を除けば、イスラム諸国くらいなものではなかろうか。もっとも法律を論えば、存外規制がゆるやかな国も多いだろう。同性婚でも許される時代である。例えばスウェーデンでは、異父、異母の兄弟姉妹とは法律上は結婚できる。しかし、この項で論じたいのは、法律がどうなっているかより、社会通念がどのような禁婚観念に従っているかである。可能であるということと、それが一般的であるということは違うのだ。

    さて、日本は元より、イスラム圏を含む世界各国に近親の婚姻を禁止する法律があるのは、私有財産制度の要請に基づく。現代の私有財産制度一夫一婦もしくは一夫多妻私有婚に依存しており、父と母から子へまたその子へと地位や財産が継承されていくことが保証されなくてはならない。近親婚は、この継承を混乱させるので、禁止されているのである。もちろん、歴史的な経緯が国毎に違うので、どこまでを禁婚範囲とするかは、宗教や国ごとに異なる。基本、直系は不可。祖父母まで遡ると同じ系になる近親も不可。というところではないだろうか。

    高群逸枝氏の『日本婚姻史』によると、日本が嫁取婚=現代に続く所有婚に移ったのは、室町時代以降である。むろん、鎌倉時代以前、院政期から召上婚、進上婚といった形で、嫁取りは存在していた。これが一般化したのが室町期に見て取れるのである。召上、進上といった言葉でもわかるように、この頃から嫁は所有されるものであり、血筋は男が保証するものに変わっていた。戦乱とそれに対抗する暴力支配とその正当化の必要から、男系が何よりも重視され、地位、財産の継承に男系が要求されるようになっていた。従って、他の男の種による子供が生まれることは忌避されるべきことであり、女性の浮気は姦通と見なされ、禁止対象となり、上層の武家では奥と表が分離され、男がみだりに奥へ入ることは忌避されるようになっていく。その上で、近親との婚姻も禁止されたことは想像に難くない。おそらく、禁婚観念は現在とさほど変わらないものであったと思われる。この嫁取婚を取り入れたのは、地方の武士階級だと言われている。俗に言う土豪である。

    では、それ以前の日本はどうだったのだろうか。嫁取婚の前は、婿入婚であり、その前は妻問婚である。

    婿入婚と妻問婚は、婿が妻のもとに通うか、妻の家に住み込むかが大きな違いである。もちろん、婚主が妻の父母か、氏族のオヤであるかなど歴史的に見ればこの転換には議論すべき点が多々あるものの、禁婚観念という観点からは大きな違いは無い。

    この時期の禁婚観を取り上げる上で無視できないのは「記紀」に記された允恭天皇の皇子軽太子かるのみこのみことと皇女軽大郎女かるのおおいらつめの説話である。『古事記』では、二人は同母の兄妹でありながら密通したので、軽太子かるのみこのみことは臣下は元より天下の人に背かれ、兵を起こすも弟の穴穗命あなほのみことに敗北し、伊予に流されてしまう。軽大郎女かるのおおいらつめは後を追い、二人寄り添って死んでいる。『日本書紀』では夏の盛りに「御膳おもの羹汁しる」が凍り付いてしまい、これを怪しんだ天皇が占わせたところ、二人の密通が露見したとある。軽大郎女かるのおおいらつめが罪を負い、伊予に流されることでいったんは落着する。ところがその18年後、軽太子かるのみこのみことは淫虐暴嗜で国人に誹られ、群臣に背かれる。ここで弟の穴穗命あなほのみことが兵を起こし、軽太子かるのみこのみことを殺して一件は落着する。

    これを見て明らかなのは、同母の兄弟姉妹は(もちろん、直系親族も)禁婚の対象になっていることである。このタブーに触れることは、皇太子といえども流罪にされる程であり、また、弑逆の正当な理由となるほどのことなのである。妻問婚にしても、婿入婚にしても、子が妻の実家で育てられるのは変わらず、従って同母の兄妹は同族になる。この期間、母系であるとされるのは、子が母方で育てられ、財産が母系により継承されたためである。その意味では財産が母系に保存されるので、問題ないように見えるが、男は他所に婿へ行くのが通念であり、氏族の外交上もそれが求められるため、実家に留まり子をなすのは奇異なこととなる。また、女子も立場が逆なだけで同じである。一方で、氏姓制度律令制官位に見られるように、子は父の地位を受け継ぐ、または父の地位により優遇される制度がある。ゆえにその間で近親婚があると、その継承に混乱を来す。以上の理由で、直系親族および同母の兄弟姉妹間での婚姻が禁じられたと考えられる。逆に、兄弟姉妹の場合、異母である場合は父が同じでも族が異なるので、婚姻に全く差し支えなく、事実、異母兄弟姉妹の結婚事例は山ほどある。敏達天皇推古天皇が代表例である。また、おじと姪の結婚も珍しくない。天武天皇持統天皇が該当する(尤も天武天皇天智天皇が同母の兄妹ということ自体が怪しいのだが)。

    ここで明らかなのは、私有財産発生以前でも、妻問婚における同母の兄弟姉妹との禁婚に見られるように、氏族の社会的要請に背く婚姻は禁婚とされたこと、私有財産あるいは地位の継承に問題がある婚姻が歴史的に禁婚とされてきたことである。では、その前、つまり妻問婚に先立つ、群婚の場合はどうだったのだろうか。日本の場合、群婚は遺風として記録されているか、あるいは祭りなどのハレの場の儀式として群婚が営まれていただけであり、それが主たる婚姻の風俗であった時代の記録はない。しかし、そこから推測することは可能である。

    日本の場合、群婚は族内婚であったことは既に述べた。性が共有されていたことは、すなわち、財産も共有されていたと推定できる。これは、妻問婚の場合も同じで、財産は母系で継承されたといっても、後世現れるような自立した「家」という単位は未だ存在していない。従って、その財産も氏族で管理されていたわけであり、これが氏族外に出ない限りはその継承者が男であろうと女であろうと問題が無かった。これが婿入婚に移行するのは、墾田の開発が活発になる頃からであり、他所から通ってくる婿も労働力として組織化する要求が豪族層にあり、これに対応して通いから同居、すなわち婿取りに進んだものと考えられる。婿入婚では露顕(ところあらはし)と三日餅(みかのもちひ)が重要な儀式であるが、露顕は文字通り男が通ってきていることを妻方の親族が実見し、婚姻を了承することであり、三日餅は通ってきて三日目頃に餅を婿に食べさせて同族に擬制する儀式である。後世このふたつの儀式はともに最初の通いから三日後くらいに実施されるようになった。同じ釜の飯を食うということが特別な友人関係を表すことが現在でも言われるが、これは神話のヘグヒから来ている古来からの風習である。同族なればこそ首長の指揮下に入るのは当然とされ、これを以て婿入りの実となしたのである。婿取られた男が財産を作ったとしても、それは「同族」たる妻方の資産となるので、やはり母系の継承に破綻はなかった。従って禁婚も妻問婚から引き継ぎ、直系親族と同母の兄弟姉妹を禁婚とする以上のタブーはなかったのである。

    群婚の場合も財産を継承するのは氏族である。しかし性が共有されているということは、生物学的な母は特定可能だとしても、社会的には意味を持たなかった。それは血筋を特定することが困難だからである。妻問婚の場合、離婚が簡単かつ曖昧であったとは言え、ある特定の期間に通う男は基本的に一人(もちろん例外もある)なので、誰との子であるか特定が可能である。これによって氏姓制度律令制官位—つまり、男系での地位の継承が初めて可能になった。この血の連鎖が「血筋」として尊ばれるようになり、奈良時代になると、氏族の中にはじめて「家」というものが登場してくる。それは氏族に包み込まれていることが前提であるとはいえ、ある特定の血筋に固有の財産なり地位なりを継承させることが求められた結果である。これには少なからず中国の影響があることを意識しなくてはならない。しかし、原則は氏族側にあり、同父であっても異母の場合、氏族が異なるわけだから、これを禁婚とする社会的要請がない。氏姓制度律令制もどの父の子かは問題としても、誰の子孫かまでは問わない。そう捉えれば、藤原氏の同族内での骨肉相食むがごとき政争も理解できるのではないだろうか。

    さて、群婚に話を戻すと、相手を特定することは不可能である。あるいは例外として一夫一婦のようなものを契るカップルはあったかも知れない。しかし、それが制度として存在しない以上、血筋など氏族というくくりでしか存在し得ない。そして人々がその氏族の中で生活している以上、「系」は男女いずれであっても問題にしようがなかったのである。また社会的にもそれを要請する原因となるものがない。とすると答えはひとつである。禁婚という観念自体がなかった、あるいは百歩譲って直系の母子ならば禁婚とされたかも知れない。多くの学者は母子は禁婚だったとしているが、私はそうは思わない。なぜなら、母子を禁婚しても意味がないからである。群婚においては「血筋」は問題にならない。メンバー全員等しい。そこに現代の倫理観を持ち込むから意味不明な理由付けが必要になってくるわけで、仮に母子で番となって子ができても、氏族で育て、氏族で生きるのだから何の支障もない。実際、後世の群婚遺制を見ても、そこに禁婚という野暮な概念は持ち込まれていない。性の相手は神が決めるのであり、渺々たる人の身でそれに抗ったと考える方が愚かなのである。遺伝的な問題が云々とか、近親相姦を避ける本能が云々とか下らない戯れ言を真顔で言う似非学者が数多いが、それが科学的に厳密に証明されたことなどただの一度も無い。つまり「ない」のである。

    では、さらにその前段階である「族長婚」ではどうだろうか。これはもう考えるまでもない。性が解放されていたのは「族長」のみ、つまり婚姻可能なのも「族長」のみであり、禁じるとか何とか議論すら無駄である。では近親相姦があったのかと言うと、族を構成しているのは、先代の長の子や先々代の長の子、つまり全員親族であり、近親である。早い話が 100% 近親相姦だったと言える。これは、族内婚に移行しても同じである。族を移動する者が皆無であったとは言わないが、全員がよその群から移ってきたハグレモノでは、族の統一性が保たれない。ヒトの認識は生まれ育った環境に大きく左右されるから、部族が異なるということは、宗教も風俗も習慣も異なり、さらには当初、言語すら通じなかった可能性もある。他の族と接して交渉が本格的に始まる段階—妻問婚まではそうではなかったか。そんなところにポンと身一つで入っていけると考えるのは極めて現代的発想である。祖霊に祝福されない他集団に我から望んで加わっていくのは、それこそ狂気の沙汰であろう。とすると、族の人間は皆身内なのであり、やはり近親婚であったと見なすべきである。

    現代日本に取り分け近親相姦が多いなどという言説が児童虐待と絡めてまことしやかに言われるが、昔から変態は一定比率で存在したのであり、現代になって急に増えたとする理由はない。生まれ落ちたときから近親でセックスはしないもの(だから親のセックスも基本的に隠そうとする。貧乏人には無理だが)という刷り込みが行われている以上、禁婚観念は立派に機能していると言える。だから、昔は近親相姦全開だったからと言って、別段現代を否定されるような心境になる必要はない。現代で近親相姦を試みる者がいるからと言っても、アウトローはいつだって存在するものなのである。しかしだからと言って、現代的観点—つまり、現在の認識から過去を判断しようとすると過ちを犯す。それは歴史を考究する以上、当然のことではないだろうか。しかしながら、婚姻の歴史といった際どい命題になると、途端に馬脚を現す者の多いこと多いこと。以て自らの戒めとすべきであると愚考する。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—⑥母系制

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    ヒトがいつから存在するかは未だ確定していないが、そもそもヒトの社会は母系制であったと考えられる。ヒトの妊娠、出産、育児は、他の動物と比較して異常なくらいコストがかかることは改めて述べるまでもない。であれば、それを担うメスを中心としてこれを保護する形で集団が営まれるのは自然なことであり、むしろ生殖負担が全く異なるチンパンジーやゴリラなどを例として父系制を唱えるのは滑稽なことだと言える。

    ヒトが始原において母系制であったことは、各地の神話に地母神の信仰が見られることからも推測される。例えば最古の文明と言われるメソポタミアシュメール神話におけるナンム、イナンナイシュタル、それを引き継いだアッカド文明におけるバビロニア神話ティアマトも母なる神である。中国の神話に登場する女媧も人類を生み出した母なる女神である。元々苗族が信仰していたこの女神を後に伏羲とのペアに改変したものらしい。かつてユダヤ人が侵入してくるまでカナンで信仰されていたのもアシュトレトフェニキアアスタルテも地母神である。ギリシャ神話にもガイアという地母神が登場する。あるいは北欧においても同様であり、インドでも初期のヴェーダ文化から地母神への信仰が存在すると考えれている。ケルト文化でもダヌという古い女神が存在する。詳しく知りたい方は、Wikipedia をご覧あれ。日本においても皇室の祖先とされているのは天照大神という女神である。(天照大神は元々男神だったのが古事記編纂段階で女神へと改変されたという説がある。確かに太陽神信仰において太陽は通常男神に仮託される。また、天の岩戸に隠れた天照大神の気を引くためにアメノウズメがストリップをして他の神々と騒いだというのも男神でなければ意味が通らない。しかしこの説が正しいとしたら、にも関わらず、男神から女神へと改変されたという事実こそが問題となる。元々天照大神を信仰していた集団を別の集団が取り込んだ際に自分たちの母神信仰に適合させるために改変が行われたという推測が一応は可能だが、祖が母神でなくてはならない理由とは何だったのだろうか)

    中国には古典に『爾雅』という辞書がありこの釈親条に昭穆という関係が登場する。これは母系氏族が族外集団婚を行った場合の家系の見方を表していると高群逸枝氏は解いた(高群逸枝『日本婚姻史』昭和38年5月30日初版 至文堂 30頁〜34頁)。遙か古代のそのまた古代には中国にも母系制があったことがこれでもわかる。

    原始、ヒトが性交と出産の関係を理解するまで、親といえば母親を意味したのは当然であるが、日本ではこれが長く続いた。万葉集で親を歌った歌はほとんどが母親を対象としており、父を歌ったものはごくわずかである。要は、父は親の範疇になかったのである。このことは国語学的にも確認されている。古代日本ではそもそも、子供が兄弟姉妹を指していう言葉(イロセ・イモセ)と実母を指して言う言葉(イモセ)はあっても実父を指す言葉がなかった。言葉がないのは実父というものが存在しなかったからで、これも母系を支持する有力な根拠となる。加えて、古代日本独特の禁婚観念がある。日本では実母子および同母の兄弟姉妹の婚姻が禁止されていただけで、他に禁婚とするものはなかった。実際、上古には異父の兄弟姉妹での結婚が数多く見られ、父系のオジ、オバとの結婚すら見られる。これは父系が同族、今日で言う親戚という感覚がなく、他人同然であったことを示唆する。そのような婚姻感を支えうる制度も、やはり母系制以外考えられない。

    母系集団では、男は成人に達すると集団を出て他の集団へ参加するものだという。が、そもそも人類初期は集団を出たからといって別の集団に遭遇する確率は極めて低く、そんなことを本当に行っていたか疑わしい。ニホンザルの行動様式からの誤った推論だろうと思われる。では人口密度が上がればどうなるか。我々は既に答えを手にしている。略奪集団間であれば数が力であった時代であるから、受け入れられただろう。原始の共同体を残している集団相手であれば、妻問いが行われただろう。それだけだ。しかし、そのような恒常的な離脱を集団が許したであろうか。答えは否である。ヒトがまばらな黎明期に一人ハグレヒト(?)となって集団を離脱するのは自殺行為であったことは容易に想定がつく。人口密度が上がり、集団間の緊張が高まると共食共婚によって集団への帰属意識を植え付け、一丸となって集団の存続を図った。やはり恒常的な離脱があったと見るのは難しい。結局、婿取りが始まるまで集団からの恒常的な離脱という現象は見られなかったとするのが正しい見解だろう。

    なお、そもそもニホンザルのオスやチンパンジーのメスがなぜ生まれ育った集団を抜けて他の集団へ参加するのかはよくわかっていない。近親交雑を避けるためとかもっともらしい理由が挙げられることが多いが、そのような本能が存在することは証明されていない。

    話を日本に絞る。日本がかつて母系制であったと考えられることは既に述べた。妻問婚において、子の帰属は母の集団となり、母の元で育てられ、母の集団で死んでいったと思われる。純粋な母系制が存在したということである。尤も集団運営において主導権を握ったのは、女とは限らない。族長婚の段階のように外敵からの防衛や食料の入手先の判断といった不可能課題が課されるわけではないこの段階の族長は、あるいは女であったかも知れない。あるいは族長婚の流れを汲んで男であったかも知れない。集団ごとに様々な取り決め方でリーダーが選ばれていたであろう。

    弥生時代に入り、本格的な農耕を基盤とする渡来人/帰化人集団と共に武力紛争が日本に入ってきた。「⑤妻問婚補記」で述べたように環濠集落が瞬く間に北九州から近畿へと広がったのは、弥生時代前期のことである。おそらく渡来人/帰化人は別にこの時期に限らず、何度となく日本へ大移動を繰り返したと思われる。春秋戦国時代に滅んだ国の末裔や、戦乱を避けた集団があっても不思議ではない。春秋末期には呉越の戦争が激化したことから、江南からも南西諸島沿いに渡来人/帰化人が移動してきたことは容易に想像できる。戦国時代末期に秦に滅ぼされた国の末裔、あるいは戦乱を避けた集団が、朝鮮半島経由であるいは南西諸島経由でまた大人数で移入しただろう。楚漢戦争の折りも、前漢末から後漢建国に至るまでの間も、三国志の動乱の際も同様の事態が起きたに違いない。高地性集落の分布を考えると、前漢末から後漢建国の間に最大規模の移入があった可能性が高い。中国は既に西周時代より、完全に父権制社会へ移行していたので、その価値観も同時に移入されたと見るべきである。

    しかし、同じ頃日本は群婚から妻問婚への移行期または既に移行を終えていた段階とはいえ、母系制が社会の基本認識となっていた。生活基盤である生産手段とその継承が母系で行われているところへ父権制を持ち込んでも機能するはずがない。だが、既に「②私有婚と私有制度・身分制度」でも述べたように私有婚からも母系制は発生する。従ってこの鋭い相克を止揚したのは、父権母系制であったと判断できる。例えば中国でも古代の商(または殷)時代は、父権母系制社会であった可能性が残されている。王族は4つの氏族に別れていたのだが、その氏族の継承が母系であったかも知れないのである。中国人は一面記録人種であるため、その記憶が渡来人/帰化人に引き継がれ、日本の母系制と自分たちの父権制をその記憶を基に融合したことは十分ありうる過程であったと思われる。農耕、武力闘争と共に、身分社会が誕生したのは明らかであるが、その契機も「②私有婚と私有制度・身分制度」で既に述べた通りである。また、既に身分社会を経験していた渡来人/帰化人がそれを持ち込んだことも充分な可能性がある。ただしこれがどの程度末端まで行き渡ったかは定かでない。

    いずれにせよ、父権母系制、あるいは人により双系制と呼ばれる制度は、子の養育は母とその氏族が行い、財産も母から娘へ継承されるが、氏姓や身分は父から息子へ継承される。これは農耕につきものの戦闘を考えると、集団運営の実権を男が担うこと、身分社会とは血の継承が前提となるのでその実権も男系継承されることは当然の帰結である。

    少し脱線するが、日本人の特性として「和を以て尊しとなす」「ねばり強い」「上の言うことに唯々諾々として従う」「世間を過剰に気にする」といった内容が挙げられ、農耕を基盤としたムラ社会の伝統によるものだなどとまことしやかに嘘を吐く言論人がいるが、これら日本人の特性と言われている項目はすべて狩猟採集民族に強く見られる特徴なのである。農耕民族はそこまでお人好しではない。むしろ過剰なくらい好戦的である。中国で革命と称する農耕民族である商(殷)を滅ぼした行為を、は天命による革命と盛んに自己宣伝したが、逆に言うと派手な自己宣伝が必要なほど強引に商(殷)の天下を簒奪したのである。実際、商(殷)紂王は敗れたが、はその子武庚禄父を諸侯に封じたり、武庚禄父が背いたらこれを討ってかわりに紂王の異母兄である微子に封じたりしている。商(殷)の氏族を完全に滅ぼすことは実力的にもできなかったし、またそれを諸侯が許さなかったのであろう。実際、革命が非常に強引であったがゆえに西周時代はゴタゴタ続きであり、終にはは自滅している。このあたりの顛末は、司馬遷の『史記本紀に詳しい。農耕民族が極めて好戦的であるということがおわかり頂けたであろうか。

    農民が好戦的という事例は日本でも顕著に見られる。赤松啓介氏が自身で経験した旱魃における水騒動を『非常民の民族文化』で詳しく説明されている。

    この「水騒動」の実戦部隊の主力となるのが、すなわち「若衆組」なのだ。用水源を防衛したり、あわよくば他のムラの用水であろうと掠奪して、一合の水でも欲しい。血の一滴よりも、水の一滴が役に立つ。したがって水騒動、水喧嘩の乱闘では負傷者も出るし、ときには死者もあって、それほど激烈な抗争になる。いわば戦争状態であるから、なかなか他所者は立ち寄れない。スパイなどに疑われると、袋だたきにされる。

    赤松啓介『非常民の民族文化 —生活民族と差別昔話—』1986年7月8日初版 明石書房 134頁

    どこが和を以て尊しとなすなのかぜひ識者に伺いたい(笑)。農耕に戦闘はつきものなのである。

    話を父権母系制へ戻す。この習俗は非常に長く続き、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代と延々と続いていく。高群逸枝は「天皇は系だけあって母族から母族へ転移した抽象的存在形態(ヤマト時代の父系母族制を端的に表現した)ではなかったろうか」と述べているが(高群逸枝『日本婚姻史』昭和38年5月30日初版 至文堂 58頁)、それは何も天皇に限ったことではない。古代豪族—葛城氏、息長氏、大伴氏、物部氏、蘇我氏、あるいは誰もが知っている藤原氏ですら—すべてが共有した制度なのである。その間に妻問婚は廃れ、婿取婚が取って代わり、鎌倉時代へ入って擬制婿取婚へ進み、戦乱と闘争が全国へ広がっていく室町時代になって、やっと父権原理が全面勝利し、日本も父権制社会へ移行する。日常的に闘争が発生する社会では暴力が常に必要とされる。ここまで闘争が激化して初めて父権制が確立されるのである。

    では母系制は完全に死に絶えたかというとそうでもない。昨今、息子は嫁を迎えて家を出て実家に寄りつかなくなるが、娘は結婚しても実家の面倒を何くれとみてくれるので良いという人が多い。父権制がちょっとでも緩むとたちまち母系制の一面が顔を出すのである。あるいは、日本は離婚調停において子を母につけることがほとんどである。母が禁治産者や生活無能力者でもない限り親権が父親にいくことはまずない。これなども母系が顔を出している一例である。さらには母子家庭が父子家庭に比べて非常に優遇されているのは論を俟たない。もちろん、経済的に母子家庭が不利であった過去があるからであるが、母子を重視することには違いない。

    戦前まで夜這いや群婚の風があったことは「③群婚」でも述べた通りであり、これらの風習については赤松啓介氏の著作が詳しい。むろん赤松氏の方法論に批判があることは百も承知であるが、実体験であるだけにそのような習俗があったことまで否定することはできないだろう。となると、することをすれば子もできるわけで、そういった子もムラの子供として何ら差別されることなく受け入れられていたのは、やはり母系が顔を覗かせた側面であろう。

    将来の婚姻制度がどうなるか、今はまだ混沌としているが、父権原理が事実上崩壊している現実がある以上、新たな制度が生まれてくることだけは予測できる。それは現代の我々からすると非常識かも知れないが、かつてあった制度だって現在から見れば非常識である。我々にできるのはその登場を刮目して待つことだけであろう。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—⑤妻問婚補記

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    弥生時代の定義は学会でも揺れているようだが、米の栽培/収穫が主要な食糧獲得手段になり、土地の奪い合いによる集団間の紛争が発生していた時期をそう呼ぶことに差し支えはなさそうである。つまり遅くとも、農耕が定着して武力闘争が開始された時期には弥生時代が始まっていたものと見なす。そして、紛争の片が概ねついて各地に「」を称する大首長が現れ、古墳を築造し始める古墳時代の前までを弥生時代とする。以下本稿でいう弥生時代はその意味である。

    弥生時代の農耕に武力闘争が不可分であったことは、環濠集落が北九州から近畿にまで瞬く間に広がったことで明白である(環濠集落の分布に関しては、藤村哲氏『弥生社会における環濠集落の成立と展開』が参考になる)。もちろん、では常時戦闘が続く文字通りの「24時間戦えますか」状態だったかというと、そんなわけはない。農耕は手間暇のかかる生産様式なのだ。そして、戦争といえば敵対以外に同盟や征服が不可分である。いつの世も婚姻による味方作りは戦さにつき物とも言える。いや、たとえば群婚において、婚姻は同族であることを確認する神聖な儀式でもあったこと、略奪婚において、他所からきた女を—身分はともかくとして—同族としたことなどを考えると、いったん敵であったとしても婚姻を結ぶことで神に承認された擬制的な同族関係となる点が着目されて同盟構築の手段として使われるようになったのではないか。

    いずれにせよ、婚姻による同盟が生じていたことは疑うべくもない。あるいは征服支配の際裏切ることがないよう疑似同族化しておく必要もあっただろう。この時、集団婚では非常に都合が悪い。戦争は一方面だけで行っているわけではないからである。前を向いて同盟を結ぶために集団で出かけてたら後ろからばっさりやられた、では話にならない。しかも集団の意思として同盟を結ぶことを示すために、長が婚姻の主体となることは避けられない。ここに、縄文期に萌芽していたと思われる妻問婚が適合する大きな余地があるのである。しかも妻問いは夫が妻方に通う形式なので、人質の交換などという悪辣なことをする必要がない。群婚以来の習慣で子は母につくのが当然とされていたので、仮に同盟解消となっても、子の去就を考える必要がない。しかも複数の女性を妻としても何も問題がおきない=各地の集団と同盟が結べる。といいことづくめで、まるでこのために考え出されたかのような婚姻様式である。戦時における同盟ではなく、平時の親善としても同じことが言えるので、決して政略結婚のために考え出された様式ではないと思うが。

    なお、どこまで歴史的な事実を反映しているのか全く不明ながら、『古事記』に多々見られる妻問い説話は、弥生時代の緊張した集団関係とその中での同盟構築や征服支配を反映していると筆者は考えている。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—④妻問婚

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    日本の古代—主に古墳時代から奈良時代にかけて—に婚姻様式として妻問婚が広く行われていたのは、周知の事実である。

    では、妻問婚はいつ頃始まり、いつ群婚に取って代わったのであろうか。
    筆者は、少なくとも縄文中期には妻問婚が始まっていたと考える。理由は以下の通りである。

    ①既に大規模集落が営まれており、集団が大規模化していたこと。
    ②勾玉の交易から明らかなように他集団との交流が活発であったこと。
    ③(同一血族を示すと思われる)抜歯の風習が始まったこと

    ①について、集団の大規模化は直接、群婚を否定しない。むしろ適齢期の男女がそれだけ多くなるということであるから、群婚が最盛であったとしても異論はない。しかし、一方で狩猟採集の成果という観点から見ると、大規模な集団を維持するにはそれだけ多くの獲物、採集物を必要とすることでもある。必然的に縄張りは拡大し、隣接する集団とその境界が接するに至ったという想像はあながち間違ってはいないだろう。当然のこととして交流が始まり、それが、②の交易結果として結実したのではないか。ここで重要なのは、もっぱら隣接する集団と接するのは狩りを担当する男である点である。縄文時代の狩りは、かつてあったマンモス狩りのように大勢で獲物を追い込んで仕留めるようなものではなく、弓矢を使った小集団での狩りに移行していた。従って、そのような単位での接触が集団間で発生したからといって、例えば族外集団婚といったような様式が発生したとは考えづらい。むしろその小集団がそれぞれ女に求婚する形—妻問いを行う形が自然に発生したと考えるべきであろう。縄文時代は隣接集団間で平和的な交流が持たれていたと思われ、交流の場としての「市」あるいは「山」が設定されていただろう。群婚時代の神聖な儀式であった歌垣が、集団の異なる男女を結びつける儀式へと変化し、そこでの求愛が正式な婚姻の申し込みと承認となったであろうことは想像に難くない。そして、集団内で居住はしていなくとも起居する他集団の男が出てくるに従い、その属する集団を見分けるために抜歯が手段として使われるようになったのではなかろうか。とすると、漁労民のように入れ墨をする風習があった集団ではわざわざ歯を抜かなくともその属するところが一目瞭然であり、従ってそのような集団では抜歯があまり根付かなかったことの証左となる。(尤も、抜歯が集団属性を表すという説には異論も多く、また統計的に確実なことがわかるほどの人骨も見つかっていないことから、あまり重視すべきではないと考える)

    妻問婚の始まりについては以上の通りである。では、群婚はいつ消滅したか。これは婚姻をどのように捉えるかによる。婚姻を性の管理と見なす場合(往古、婚姻とはすなわち性交であった)、その消滅は昭和の戦後である。ヨバヒが夜這いとなって延々と生き残り続けたと言えよう。神事としての共婚は、美濃国郡上郡東村大字祖師野の氏神祭りの例を高群逸枝氏は示している(高群逸枝『日本婚姻史』15頁)。あるいはそんな昔ではなく、第二次世界大戦後というごく最近まで祭りの場で群婚が営まれていた例は枚挙にいとまがない。赤松啓介氏の論説を読むまでもないだろう。一方、家族制度を含む社会的な男女の結合と考える場合、一部上位階級では弥生時代末期には既に大部分が廃れていたと言い得るのみである。この原因は、

    ①軍事的緊張の高まり=多くの集団との政治結婚の必要性が高まる
    ②集団内に身分階層の差が生じ、集団婚がそぐわなくなる。

    だと考えられる。『漢書』地理志にはかの有名な「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」の一文がある。楽浪郡は紀元前108年に設置されているから、弥生時代中期の倭では、多くの宗族が相争いながら既に群立していた様が窺える。この時期の日本には高地性集落も出現していた。すなわち戦乱がそれだけ激しかったことを物語る。また、墳丘墓が小規模ながら弥生時代前期から認められ、身分の差が発生していたことがわかる。以上からすると、弥生時代中期には上位層の妻問婚への移行が完了していた可能性すらある。弥生時代末期になるが、魏志倭人伝に次の言葉がある「父母兄弟の臥息処を異にす」。これを単に寝所が別と解釈する人が多いが、そんなものをわざわざ記事にするわけはないわけで、これは別の建物、もっといえば別集団に寝起きすることを言っているものと考えられる。兄弟姉妹ではなく、兄弟なのがミソ。成人した男は妻問いで他所に寝にいくので、「臥息処を異にす」るわけである。続けて「その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし…」とある。身分のある人はみんな四人から五人の妻を持ち、貧乏人でも二人から三人の妻を持つ者がいる。女性は浮気せず、嫉妬もしない。盗みをしないし、公に訴え相争うこともあまりしない。ということだが、複数の妻がいるというのは、特に貧しくても複数の妻が持てるということは、妻問いの風が一般にも行われていたことの証拠になる。女は家にいて男が通うのを待つだけなので、自ら浮気に出歩かないし、男に他の女がいてもまめまめしく通ってくれるならば、問題にならない。盗み云々は公共心の高さを言っているのだろう。現代日本人も公共心が高く、訴訟を好まないと言われるが、まさしくそれが伝統であることを示す文章であろう。逆に言うと当時の中国ってそんなレベルだったのかということでもあるが(笑)。閑話休題。

    魏志倭人伝では「男子は皆鯨面文身す」とあり、当時中国と交通のあった倭は、入れ墨をする部族ばかりであったことがわかる。そのため抜歯については言及がない。「諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり」とあるので、部族・身分毎に入れ墨が異なっていたことがわかる。妻問いの婚主は家刀自、つまり嬶であり、婚姻を承認/否認するためにも相手がどこの族のどんな階層の人間かを知ることは必須であった。

    以上により、少なくとも弥生時代末期には妻問婚が一般的であったということが言えるだろう。ただし、祭りにおける神事としての群婚例がごく最近まで残存していたという事実を考え合わせると、群婚は庶民の階層に生き残り続け、時には弾圧を受けながらもしぶとく命脈を保ち、決して妻問婚に取って代わられたわけではないということもできるのである。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—③群婚

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    族長婚(集中婚)から私有婚への流れは②で記述した。しかし日本では事情が異なるということも書いた。本稿では、日本において族長婚(集中婚)がどのように変化したかを追っていく。

    ヒトの集団が、縄文時代の日本のような、外敵が少なく(深い森の中でなければ肉食獣としては狼がいるくらい)、食料が豊富な地域にたどり着いた場合、リーダーに対する不可能課題として主要な「外敵からの安全」と「食の確保」という命題が解除される。これは、

    ①リーダーに対するプレッシャーが減少する
     =性の解放をリーダーに限定する必要が薄くなる。
    ②生存においてリーダーに強く依存することで保たれていた集団秩序が崩壊する。

    ことを意味する。また、比較的安全で食料が豊富であるということは、

    ③他の集団も流れ込んでくるため、人口密度が上がり、集団間の緊張が生じる。
    ④集団内の人口も増え、同時に適齢期の男女も増加する。

    従って、ここに新たな集団秩序を構築することが必要となる。集団間の緊張が生じるということは、自集団の結束を高める必要が出てくるのだが、一方でそれまでの族長婚で維持されていた秩序は崩壊しており、そこへ返ることは集団の自滅、または分裂を招く。また、適齢期の男女が増加するということは性に対する要求も強くなると言うことで、リーダーはそれを無視したり、押さえ込んだりすることが極めて難しい状況に置かれる。

    このような中で、性を紐帯として集団の結束を固める集団婚が模索される。同じ食、同じ性を分け合うことで、集団を統合したのである。

    この群婚の風は、時代がだいぶ下るものの、万葉集や常陸国風土記に見られる「歌垣」がこれを裏付けられる。万葉集にある「鷲の住む 筑波の山の もはきつの その津の上に おどもひて をとめをとこの 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言とへ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな」という歌によって、歌垣がかつて神前集団婚であったこと、また、万葉の時代にもその遺風があったことを伺わせる。

    考古学的には縄文時代が群婚であったことを直接示す遺物は出ていない。しかし当時の住居跡が中央に広場を置いた馬蹄形をなしていることから、高群逸枝氏はここを群婚神事の場と見なし、弥生時代の住居跡が塊状へと変化することを妻問いへの移行のためと判断した。けだし卓見というべきであろう(高群逸枝『日本婚姻史』38頁)。

    しかし一方で、縄文時代の住居規模やそこから出土した人骨の数から、当時一夫一婦またはそれに近い生活実態があり、群婚はなかったとする説が考古学では流行しているようだ。この説に対する反論は簡単で、住居に男女とその子供と思われる骨が出土するのは、住居が子を扶養する目的があり、あるいは男女の性交の場にもなったことまでは言えても、それをもって家族と断定するほど固定的な関係であったとは証明できない点を突けばこの論は崩れる。おそらく歯冠測定法で血縁の有無を調べたのだろうが、歯冠測定法は血縁があることは高い精度で判定できても、血縁がないことは判定できない統計的手法である。従って、例えば岩手県二戸市・上里遺跡の場合のように、出土した複数の男女と子供の骨から、女の一人が男の姉妹であったことは確言できても、それ以外はすべて空想となる。別稿で述べるが、縄文時代といっても長く、後半には既に妻問婚が芽生えていたと考えられるので、やはりただちに現代的な家族を想定することは困難がある。単に男女の骨が一緒に出てきたことを持って現代的な家族を妄想するのは楽しいだろうが、何の根拠もない。いかに縄文時代が豊穣であったと言っても現代の飽食の時代に比べればその貧弱さは話にならないレベルであり、集団のメンバーは集団に依存せずに生きることは不可能だったと思われる。

    さて、群婚にも段階があって、集団内の群婚に対し、後に集団外共婚が発生したと高群逸枝氏は主張する(高群逸枝『日本婚姻史』20頁〜34頁)。確かに、歌垣が、市場(市は多くの集団が交流する場でもある)や入会山などの場に設定されていたのも、他集団との交婚の便宜を考えてのことだとすると、その存在を想定することに無理はない。しかし、氏が挙げた集団外交婚の例が、いずれも海外であり、日本の例が存在しないように、日本ではこれを伺わせる文献史料や考古学的史料、あるいは民俗学的史料が存在しないのである。故に日本では集団外交婚が存在しなかったとする論者もある。

    私は日本の場合、集団内の群婚から妻問婚へ移行したと考える。集団内の群婚は、祭りの際の神事として庶民の間ではかなりの期間残存し、所によっては戦前までその風習が保存されていた。それは既婚者であるかどうかを問わずムラ総出で群婚を営んでいたのであり、そのような風習が残っていたという事実そのものが、集団内群婚から集団外交婚への移行がなかったことを示すと考えられるからである。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—②私有婚と私有制度・身分制度

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    ヒトの始原が族長婚(集中婚)であることは前に述べた。では、現在に続く一夫一婦制度とそれに基づく私有制度はどのようにして生まれたのだろうか。言うまでもないが、私有制度は、私有という観念が確立していないと生まれ得ない制度である。その私有観念を生み出したものを、それが基づく制度である一夫一婦制に求めるのは当然の論理であろう。

    元々厳しい生存環境に置かれていたヒトは、気候変動の影響で乾燥化が広域で進んだりするとたちまち食糧難に陥る。事実、人類がそのほとんどの期間生き延びざるを得なかった更新世の氷河期は、600万年前に始まり、1万年前に終わっている。その間、氷期と間氷期が繰り返され、気候が変動し続けたのである。食糧難に陥った集団が選択できる行動は二つだけである。即ち、自滅するか他所から掠奪するかである。おそらく人口が少なく集団がまばらに存在していた人類の黎明期では掠奪しようにも近くに手頃な集団が存在する可能性は極めて低く、滅亡していった集団が数知れず存在したであろう。しかし、時代を経てヒトが世界中に広がり、居住可能域における人口密度が増大=集団数が増加するにつれ、掠奪という選択肢が現実のものとなっていく。こうして互いに掠奪しあう集団群ができ上がっていったと考えられる。

    掠奪集団が食い詰めて他集団を襲撃した際、食料は集団が生き延びるために必要な物資であるため占有が許されるはずがない。これは農業生産が普及して食物が余剰に生産されるようになっても簡単に崩すことができない原則である。農業には豊凶があるため、余剰物は蓄えておき、凶作の年に備えるのが集団維持に置いて最優先され、これを犯すことは何人にもできないからである。(つまり、余剰生産物が私有の始まりだとする説は誤り)

    しかし、襲撃の際、男は戦闘の前面に立つため殺されてしまうが、女が残る。族長婚を維持していたとはいえ、集団内の女がリーダー以外に手出しできないのに対し、また食料が個々の自由にできないのに対して、集団外の女はこれをどうするか宙に浮く。いや、戦働きでよく戦った者が報償としてその女を求めるのは至極当然の流れである。ここに集団の他の男が手出しできない占有対象としての女とそれを保証する制度が確立する。私有婚の始まりである。ヨーロッパや各地方にかつてあって掠奪婚は、この掠奪で得た女を自らのものにするという掠奪闘争最初期からの伝統であったのではないかと考えられる。

    この私有婚は副産物として身分を生んだ。つまり、元々の集団にいたリーダーの妻であった女たちが産んだ子供らのグループ=リーダーに妻を出すことのできるグループと、外部から略奪されてきたリーダーの妻ではない女が産んだ子供らのグループ=リーダーに妻を出すことができないグループの分化である。このグループ分けは母から娘へと伝承されることにおいてのみ意味があり、これが母系の源流となったと考えられる。一方で掠奪や戦闘の最前面に立つ男たちが集団運営において実権を握るため、これが父権の源流となる。

    しかし、これだけでは私有婚の成り立ちを考えることはできても、そこから私有制度が起こったと単純に飛躍することはできない。ただ、族長婚(集中婚)が原則の当時、そこへ行けば働き次第で女が手に入るというのは非常な魅力になったことは想像に難くない。加えて、気候変動による食糧難が掠奪集団化の契機であれば、食い詰め者が食料のあるところへ合流することも何ら不思議ではない。つまり、略奪集団が肥大化することは十分にありえる話なのである(狩猟採集だけを生業とする元来の集団は血族集団であるため、容易に肥大しない。食い詰め集団に合流されても同様に食料が足りないわけだから、受け入れないか掠奪集団化するかの二つに一つである)。そうすると組織論上、リーダーが一人で全体を統治することができる規模を簡単に越える。有能な配下を中間管理のために配置することは自然の理であろう。常に全体が一丸となって掠奪に赴くことは非現実的になり、集団内のグループ単位で掠奪を行い、全体を養うために必要な物資を納める(これが税の源流であり、この貢納が慣例化することで、支配者が税を取り立てる権限を持つ根拠となったのであろう)外はグループ単位で分配を決定することとなる。なぜなら、他のグループはその掠奪に何も貢献していないからである。これはまた逆も真なりで、他のグループの獲物の分配に容喙することは許されない。いずれの場合も集団の維持に必要な分は別に差し出されているのであるから、容喙のしようがないし、すれば集団が分裂する危機に陥る。実際それで分裂した集団もあったものと思われる。さらに集団が肥大すれば、グループ内にグループができ、と単位が細分化していき、その小グループ—おそらくそれは血縁ごとのグループだろうが—ごとに掠奪(あるいは狩猟や採取も同時に行っていたことは当然であろう)を行い、獲物を配分するようになる。この配分に他の小グループは容喙できないのは上で述べた通りである。この排他的な分配こそが、私有制度の嚆矢であろうと思う。現在我々が言う私有は個人私有であるが、これは近代に入ってから確立した観念であり、歴史的には氏族単位のつまり血縁グループによる私有が遙かに先にかつ長く存在したのである。

    一方で戦闘が激化すればするほど—実際、農業生産への移行に伴い武力闘争は激化する。例えば日本においても、弥生時代に高地性集落や環濠集落が北九州を起点として、わずかな期間で東へ広がっていくのが何よりの証拠である—女を求める各個人の要求は無視できないものとなり、仮に掠奪で多くの女を引き連れて帰ることができるものがいたとしても常に全員を侍らせることは集団管理上不可能になってくる。俺にもよこせという横やりが入るということだ。また、一方で掠奪の度に女を増やしていたのでは集団が養える限度を簡単に超えてしまう。この両方の制約に答えるため、女は一人だけという一夫一婦制の原則が集団内部で打ち立てられたのであろう。ただしこれは西洋の事情であり、日本では様相を異にすることが、高群逸枝氏の研究以降、明らかになっている。

    さらに時代が下ると、リーダーに婚姻する女を出す身分からリーダーを出す身分が分化する。それまでリーダーは、リーダーに妻を出す身分のものから合議で選ばれていたのが、血脈による継承へ移る。即ち王権の誕生である。王権とは集団を統率する権力であるから、父権原理が働き、これを男系で継承することを求める。やがて、掠奪や闘争の過程で既存のリーダーに不満を持ち、造反を試みる者が出てくる。これがリーダーを出す身分内のことであれば、単なるクーデターに過ぎず、身分秩序のフレームは維持されるが、やがてリーダーに妻を出せない身分の者が造反を成功させるようになる。そうなると既存の血脈は一切の意味を失い、一夫一婦制と父権原理だけが残ることになる。歴史の授業ではこの種の造反を「市民革命」などと称している。私有権は一夫一婦の家の主たる父に集約され、その分配行為は即ち個人の行為と変わらなくなる。私有権の行使が個人の行為と変わらない以上、同じ個人である妻や子もこれを求めて対抗しようとする。こうして「個人私有」という観念が考え出され、近現代の個人主義の土台となったのである。

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  • 婚姻制度の歴史を考える – ①婚姻の始まり

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    人類の始原における婚姻制が何であったかは歴史の遙か彼方のことでもあり、今でも判然としない。しかし血縁による集団を構築していたことはどうやら間違いのないことらしいので、これを出発点として、原始の婚姻制を考えてみたい。

    当たり前のことだが、始原において、婚姻とは性交であった。これが何らの制約がない状態に集団が置かれると、乱婚に陥ることは現代日本を見ても明らかである。結婚するまでは処女でなくてはならず、結婚したら女の浮気は絶対にダメであり、すれば罪に問われる。のが、一夫一婦制度というものである。婚前交渉が花盛りで、不倫乱交が大手を振ってまかり通っている日本の現状を指すものではないことは明々白々としか言いようがない。それはともかく、人類の始原ではどうだったのか。

    人類が誕生したのは、今から500万年前とも600万年前とも言われている。もちろん火は使えず、道具もなく、あるいはあったとしても石を搔いただけの粗末なものでしかなく、サルのように樹上で生活することもできず、肉食獣に狙われ続ける生活である。草食動物のように肉食獣の追跡を振り切る力もない原始のヒトは非常に脆弱な存在であったと言えよう。今でもヒトは恐怖に襲われると体が硬直し身動きできなくなるが、これはパニックに弱い存在を肉食獣にまず食わせることで他の仲間が逃げ切る時間を稼ぎ出す本能的な仕組みではなかろうか。それはともかく、この脆弱なヒトは、外敵を避け、食料を求め、災害から避難するためにどのような手を打ったのか。

    ナポレオンは「リーダー即ち組織なり」と喝破したといい、日本では「上司の命令には服従するのが当然」とする風がある。何のことはない洋の東西を問わず、リーダーの指示に唯々諾々と従うのは人間の本性なのだ。さもないと集団を組織できない以上当然とも言える。とすると先の難問も当然リーダーに丸投げされたことが容易に予想される。難しいことは上の考えること、下はその判断に従うのみ。投げる方も必死だろうが、投げられた方はもっと必死である。どちらへ行けば外敵に出会わずに済むか、そんなのリーダーだってわからないだろう。どこへ行けば食料が手に入るのか。むしろリーダーが聞きたいだろう。巨大な災害に遭遇したときどう行動すればよいのか。パニックに陥らなければ合格点じゃないだろうか。つまるところ不可能課題をリーダーは常に背負い、それを解決してメンバーに指示を出すことが求められていたのである。

    リーダーは懊悩したであろう。そしてかつてそうであったように先代のリーダー、つまりオヤに尋ねたであろう。もちろん既に死んでしまって今は目に見えないことなど百も承知である。それでも問わずにはいられなかったと考えられる状況である。現代の社長連中も占いや手相見に凝る人が少なくないそうだ。ましてや極限状況である。その目に見えない死んでしまった、だけど生きていたときは全面的に頼りにしていたオヤと意思を通じ道を示してくれることを期待して「言葉」が産み出されたと私は考える。決して仲間と対話するためではない。仲間なら目の前にいて産まれた時から一緒なのだから何を考えているか表情やしぐさで見当もつく。目に見えない相手だからこそ「言葉」が必要なのである。(同時に宗教も発生する。どんな民族も、今はアニミズムを取っている民族であっても、その源流を辿れば祖霊崇拝へ至る。それは集団が生き延びるために必要だったのだ。)

    あるいは占いという方法で、オヤが判断を示してくれることを期待し、あるいは、夜空を見上げてはオヤの姿やその指し示すみしるしを探し、あらゆる方法を試して集団が向かうべき方向、外敵が少なく、食料が手に入る方向を目指したのであろう。そのプレッシャーたるや並ではない。原始的と言われる宗教におけるシャーマンの踊りは、一面、狂乱と言って良いほどの激しさを持つものが多いが、始原のヒト集団におけるリーダーも狂乱に近い状態で答えを見いだしていたことは想像に難くない。それほどのプレッシャーである。となると、集団としては、リーダーがリーダーとして使い物にならなくなるのを避けるため、その重圧をある程度解放してやる必要が出てくる。ヒトの二大本能欲は、食欲と性欲である(あるいは睡眠欲を加えて三大欲求と言ったりもする)。食欲を満たすことはメンバー全員に等しくあらねば集団が滅亡する。すると必然的に、性欲を満たすことで重圧の解放としたことは疑いない。ヒトは常時発情し、また性欲が非常に強いことはよく知られた事実であるが、その淵源は不可能課題を克服する重圧の解放にあったと言える。それがリーダー固有の問題であるからこそ、性はリーダーにのみ解放されたと見なすのが自然であろう。

    つまり、始原ヒトは族長婚(あるいはリーダーがすべての女を性の対象にするので集中婚とも言える)だったのである。むろん性欲が強化されたのはリーダーだけではない。すべての男は次のリーダーになる可能性を秘めているので、同様に強化されたであろうし、女はリーダーを(あるいは他の男でも)挑発し、性欲を発散させるために、自らの性欲を強化したであろう。女が欲しくばリーダーになれ。かくして男は切磋琢磨し、集団が生存する可能性を引き上げる。

    とはいえあぶれた男に女はあたらず、性欲を発散できない。となれば何をしたかというとオナニー、あるいはマスターベーションという奴である。もてない男はマスかいて寝ろという俗諺があるが、500万年とも600万年とも言われる人類史のほとんどで、女にあぶれた男はマスかいて寝てたわけである。例えば、コーランには礼拝の前にオナニーしたりセックスしたりしてはいけない、と書いてあったり、ラマダーン(断食月)の間は日の出から日没まで断食とあわせて自慰と性交をしてはならないと定められていたりする。また、古代ギリシャのディオゲネスは公道で自慰をしたという記録があるので、歴史が記録される頃には普通に見られる行為だったことがわかる。あるいは、古代エジプトでは、太陽神ラーが「わが手を合し、わが影にて」抱くすなわち自慰により原初の双生児を生んだと伝えられており、ラーを祭るヘリオポリスでは自慰は神聖な行為であり祝福の対象であったとか。エジプト神話の起源となると大昔どころではない。

    人類が歴史を記録に残すようになってわずか数千年に過ぎず、人類600万年の歴史のほとんどは時の彼方に埋もれたままだが、始原ヒトが族長婚(あるいは集中婚)だったということは、単なる想像と言い切ってしまえないものと考える次第である。

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