• 『中国正史』に見える古代日本

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    『中国正史』に見える古代日本」を作成しました。縦書き対応かつルビ対応のブラウザが必要ですが、是非ご覧になって下さい。『漢書』から『新唐書』までに記載されている倭人、倭國、日本に関する下りを抜粋し、原文、訓読文、現代語訳に註をつけています。

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  • 日本の古代史を考える—補足5『後漢書』東夷伝倭人条全文

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    全文を引かずに揶揄してばかりだと不公平なので、以下に全文と訓読文をあげます。

    原文

    倭在韓東南大海中依山爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓竹矢或以骨爲鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆橫幅結束相連女人被髮屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹坋身如中國之用粉也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞爲恭敬人性嗜酒多壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盜竊少爭訟犯法者沒其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞爲樂灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以爲持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衞法俗嚴峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒東南行船一年至裸國黑齒國使驛所傳極於此矣

    訓読文

    倭は韓東南の大海中にり。山にりて居をす。およそ百國。武帝、朝鮮を滅してより使驛しえき漢に通じるところ三十國ばかり。くにみな王あり。世世よよ統をつたふ。の大倭王は邪馬臺國やまたいこくに居す。樂浪らくろうきょうの國を去ること萬二千里。其の西北界、拘邪韓國くやかんこくを去ること七千里。の地、大較おおむね會稽かいけい東冶とうやの東に在り。朱崖しゅがい儋耳たんじと相ちかし。ゆゑの法俗、多くは同じ。土は、禾稻くゎたう麻紵まちょ蠶桑さんそうよろしく、織績しょくせきを知り、縑布けんぷす。白珠、青玉を出し、の山にはたんあり。土温腝おんどんにして、冬夏菜茹さいじょしょうず。牛、馬、虎、豹、羊、しゃく無し。の兵、矛、楯、木弓、竹矢あり。或いは骨を以てやじりす。男子は皆黥面げいめん文身ぶんしんす。其の文の左右大小を以て尊卑の差をわかつ。の男衣はみな橫幅、結束して相連ね、女人は被髮ひはつ屈紒くっけいし、衣は單被たんぴごとく頭を貫きしかうして之をあらわし、ならび丹朱たんしゅを以て身をふんすること、中國の粉を用ゐるが如きなり城柵じゃうさく屋室おくしつを有し、父母兄弟はところことにす。ただ會同かいどうに男女の別無し。飲食は手を以てし、しかうして籩豆へんとうを用ゐる。ぞくみな徒跣とせん蹲踞そんきょを以て恭敬とす。人性酒をこのむ。壽考じゅこう多く、百餘歳に至る者はなはおほし。國、女子多く、大人には皆、四五妻有り。、或いはりょう或いは三。女人いんせず、せず。又俗は盜竊とうせつせず、爭訟少なし。法を犯す者はの妻子を沒し、重い者はの門族を滅す。の死、喪にとどまること十日。家人は哭泣こくきゅうし、酒食を進めず。しかうして等類は歌舞にきて樂をす。骨をいて以てぼくとし、吉凶を決するに用ゐる。行來、度海には一人をして櫛沐せつもくさせず、肉を食させず、婦人を近づけさせず。名を持衰じすゐと言ふ。し、みちりて吉利なれば、すなはち財物を以て雇ひ、病疾へいしつごとき害に遭へば、以て持衰がつつしまずとし、便すなはち共にこれを殺す。建武中元二年、倭奴ゐぬ國、みつぎものを奉り朝賀す。使人みずからを大夫たいふしょうす。倭國の極南界なり光武、印綬を以て賜ふ。安帝永初元年、倭國王帥升すいしょう生口せいこう百六十人をけんじ、まみゆるを願ひ請ふ。桓靈かんれいあひだ、倭國大いにみだれ、更に相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名は卑彌呼ひみこ。年長ずるも嫁さず。鬼神の道を事とし、く妖を以て衆を惑わす。これにおいて共に立て王とす。侍婢じひ千人。まみゆる者有るが少なし。ただ男子一人有りて、飲食を給し、辭語じごつたふ。居處きょしょ、宮室、樓觀ろうかん城柵じゃうさく、皆兵を持して守衛す。法俗は嚴峻げんしゅんなり。女王國より東へ海をわたること千餘里で、拘奴くぬ國へ至る。皆倭種といへどしかうして女王にぞくさず。女王國より南へ四千餘里で、朱儒しゅじゅ國へ至る。人長、三四尺なり。朱儒しゅじゅより東南へ行船一年で國、黑齒こくし國へ至る。使驛しえきつたふる所、これにおいてきわまる。

    現代語訳

    倭は朝鮮の東南の大海の中にあり、山野の中に住んでいて、だいたい百余りの国がある。前漢武帝が朝鮮を滅ぼして(楽浪郡を置いて)から交通が開けた国が三十国あまりある。それらの国にはすべて王がいて、代々血筋を残してきている。大倭王が邪馬臺國(やまたいこく)にいる。楽浪郡の境界より、邪馬臺國まで一万二千里ある。倭の西北の端にある拘邪韓國までは七千里である。その地はおおよそ、会稽郡の東冶県の東に位置している。朱崖、儋耳(共に、現在の海南島にあった地名)に近い。そのため、その法や風俗の多くが同じものである。土壌は、稲、紵麻、養蚕のための桑の育成に適しており、糸を紡ぎ布を織る術を心得ており、絹布を生産している。白珠(真珠のこと)、青玉を産出し、山からが取れる。気候は温暖で、冬でも夏でも野菜が採れる。牛や馬、虎、豹、羊、カササギはいない。矛や楯、木の弓、竹の弓で武装しており、動物の骨を遣って鏃にしている。大人の男は、皆顔や体に入れ墨をしている。入れ墨の左右上下の位置や大きさで身分の違いを表している。男性は皆横に長い布を巻いて結んでいる(具体的なスタイルは、風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。女性は、髪を伸ばしてまげを結い、単衣に作った布に頭を通して着ている(これも風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。また、中国で白粉を使うように、丹朱(赤い粉)を使って体を飾る。城柵があり、屋敷もあって、父母と兄弟は別々に住んでいる。会同でも男女で区別はしない。飲食は手を使い、籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る鉢)を用いている。風俗としてみな裸足である。身分の高い人の前では蹲踞して敬意を表す。そこの人の性質は酒を好む。年寄りが多く、百歳以上になるものがとても沢山いる。国には女性が多く、身分の高い人は夫人を四、五人持ち、それ以外でも、二人、あるいは三人の夫人を持つ。女性は浮気をせず、嫉妬もしない。また、盗みをする者はなく、訴訟で争うことも少ない。法を犯した者はその妻子を没収して奴隷とし、罪が重い者は、一族を滅ぼす。死人が出ると、十日余り喪に服する。家族は悲しんで泣き叫び、酒を飲んだり食事を取ったりしない。友人は歌い踊り音楽を奏でる。骨を焼いて卜筮を行い、吉凶を決める。旅に出たりあるいは旅から帰る時や、海を渡る時は、髪に櫛を入れず体も洗わず、肉を食べたり婦人を近づけたりしない者を一人供にする。これを持衰という。もし旅が順調だった場合は、財物を与えて賞し、疾病のような害があれば、持衰が謹まなかったせいだとして、すぐに全員でこれを殺す。建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が貢ぎ物を持って朝貢してきた。使者は自分のことを大夫だと言った。倭奴國は倭國の最南端にある。光武帝は印綬を授けた。安帝永初元年(西暦107年)、倭國の王たち、帥升らが奴隷を百六十人献上して、皇帝にお目見えしたいと願ってきた。桓帝(西暦146年〜167年在位)と靈帝(西暦168年〜189年在位)が在位の間、倭國は大変な内乱状態で、互いに攻め合い、長い間倭國全体を統治する王がいなかった。卑彌呼という女性がいて、年長になっても結婚しないでいた。鬼道の道に詳しく、あやしげな術で民衆をうまく導いていた。この女性を諸国がこぞって王に立てた。侍女やはしためが千人いて、直接顔を合わせた者はごく少なかった。男性がただ一人で飲食の世話や、奏上や指示の取り次ぎをしていた。日常の住居や、宮殿、楼観、城柵には兵がいて守備していた。法は極めて厳しい。女王国より東へ海を千里余り渡ると、拘奴國へ着く。みな倭人であるが、女王国には属していない。女王国より南へ四千里余り行くと侏儒国に着く。そこの人は身長が三、四尺くらいしかない。侏儒国より船で東南に一年の距離に裸國、黑齒國がある。交通のあるところはここまでである。

    さて、この条が『魏志倭人伝』を参照して書かれたことは確かであるとされています。そして、東夷伝を書いた者が(范曄の部下?)、その内容をよくわからないまま改変して引用したことも確かだとされています。中国人でも古典を読むにはちゃんと勉強してかなりの教養を身につけていなければならないことがよくわかる下りでもありますね。

    まずは「使「使。単純な誤字ですが、意味が全く変わってしまいます。漢字テストに出そうな違いですね。

    魏志倭人伝』では「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」つまり「古くは百国余り」と『漢書』地理志燕地条の記述を押さえた上で「漢の時代に朝見する者があって、今は使者や通訳が行き来する国が三十ある」だったのに、「凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國」=「(今でも)百国余りある。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてから漢との間に三十国ばかり交通が開けた」と、オイオイと言いたくなるような話に変わっています。

    魏志倭人伝』で陳寿がせっかく丁寧に会稽の故事を引いて中国の教化を賛美していた「當在會稽東之東」が「其地大較在會稽東之東」とただの地名にされてしまっています。そこに「與朱崖儋耳相近」と、元は「衣裳や農産物、動物や武器について、朱崖や儋耳と共通の点がある」という意味だったのに、日本がとんでもなく南にあることに改変されています。ここを書いた人は地理を知らなかったことがわかりますね。陳寿も報われません。

    魏志倭人伝』では「父母兄弟臥息異處」とちゃんと「寝る時は」と断っているのに、ここでは「父母兄弟異處」と完全別居として書かれています。困ったものです。

    元は「其人壽考或百年或八九十年」と単に長命の人が多く、中には百歳の人や八十、九十歳の人がいるというだけのことだったのが、「多壽考至百餘歳者甚衆」とすごい長寿国にされています。蓬莱伝説とか考慮して敢えて変更したんでしょうか。それとも単なる無知…?

    その次が前にも取り上げた「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」です。陳寿は「國大人皆四五婦下戸或二三婦」と平民でも複数妻を持つ者がいるよとしか書いてないのに、国に女性が多く(笑)、そのため皆が多妻であったと解釈したようです。まあ男の浪漫であることは認めますが。(笑)

    極めつけはやはりこれでしょう。元々「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」と、陳寿が書いた文を「桓靈閒倭國大亂」と改変しています。「その国は元々男性を王にして、七、八十年それが続いていた。倭國が乱れ…」という文なのですが、これが読めなかったようです。つまり「七、八十年倭國が乱れた」と理解してしまったのですね。そりゃ確かに大乱です(笑)。卑弥呼の遣使が魏の景初三年(西暦239年)ですから、そこから逆算して桓帝靈帝の在位中、乱れっばなしにしてしまったんですな。

    と今の我々は、古典の研究が進んでその読み方もほぼわかってるから偉そうに言えますが、きっとこれを書いた人はぽんと魏志とか渡されて、これ読んで引用してねとか言われて必死になって書いたんじゃないでしょうか。それはないか。とまれ、元は句読点も文の区切りもない白文ですから、ちゃんと習ってないと中国人の官僚=知識人でも間違えまくるという例でした。

    ところで最後に「使驛所傳極於此矣」とあるのもすごいミスです。「船行一年可至」とそういう話も(魏の官僚が)聞いてたよというだけの情報から実際に交流があるように変えてしまうのですから、間違う人は最後まで間違ったままという実例そのものになってました。わからない所は人に尋ねて勉強しましょう。(笑)

    それだけではナニなので、誤りではなく『魏志倭人伝』と情報が異なっている点についても触れておきます。

    まずは国名。「邪馬國」から「邪馬國」に変わっています。これは「倭(ゐ)」から五世紀頃には「大倭(たゐ、或いは、たいゐ)」と国名に「大」を付けて尊称するようになったからと私は考えています。それに国土が「山」がちなので、それを頭に付けて「山倭」→「山大倭」としたものが反映されたのでしょう。

    次に「以蹲踞爲恭敬」です。元々は「但搏手以當跪拜」と拍手していたとか、「下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬」と道で身分の高い人に会ったら後ずさりして草むらに入り、受け答えは地に這いつくばったり、両手を地面に付けて行うことで相手を敬うとあったのですが、ここでは単に蹲踞となっています。これは風習が変わったというより、尋ねた方が違ったからではないかと思っています。つまり、貴族同士で身分に高低がある場合は蹲踞して控え、貴族と平民の場合は這いつくばって控えるという恭敬を示す主体の違いではないかと。

    通常は以上を倭人条とするのですが、実は続きがあります。直接「倭」に言及する箇所はないのですが、興味深い内容が書かれているので、続けて掲載します。

    原文

    會稽海外有東鯷人分爲二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來論曰昔箕子違衰殷之運避地朝鮮始其國俗未有聞也及施八條之約使人知禁遂乃邑無淫盜門不夜扃回頑薄之俗就寬略之法行數百千年故東夷通以柔謹爲風異乎三方者也苟政之所暢則道義存焉仲尼懷憤以爲九夷可居或疑其陋子曰君子居之何陋之有亦徒有以焉爾其後遂通接商賈漸交上國而燕人衞滿擾雜其風於是從而澆異焉老子曰法令滋章盜賊多有若箕子之省簡文條而用信義其得聖賢作法之原矣贊曰宅是嵎夷曰乃暘谷巣山潛海厥區九族嬴末紛亂燕人違難雜華澆本遂通有漢眇眇偏譯或從或畔

    訓読文

    會稽かいけいの海外に東鯷とうてい人あり。分かれて二十國をす。また夷洲いしゅう及び澶洲せんしゅうあり。でん言ふ、しん始皇しかう方士徐福じょふくを遣わし、童男女數千人をひきゐて海に入り蓬萊ほうらいの神仙を求むれども得ず。徐福じょふくちゅうおそれてへて還らず。つひこの洲にとどまる。丗丗よよ相いけ、數萬家あり。人民、時に會稽かいけいに至り市す。會稽かいけい東冶とうやけん人、海に入りて行くに風に遭い、流移して澶洲せんしゅうに至る者あり。所在絶遠にして往來すべからず。論曰く、昔、箕子きしは衰えしいんの運をり、地を朝鮮にく。始めその國の俗は未だぶん有らず。八條の約を施すに及び、人をして禁を知らしむ。つひすなはゆう淫盜いんとう無く、門は夜にとざさず。頑薄がんはくの俗をめぐらし、寬略かんりゃくの法にけ、行うこと數百千年。ゆゑ東夷とういは通じ柔謹を以て風とし、三方に異る者なり。いやしくもまつりごとぶる所、すなわち道義存す。仲尼ちゅうじいきどおりいだき、以爲おもえらく九夷に居るし。あるいはそのいやしきを疑う。子曰く、君子これに居らば、何ぞいやしきこれ有らん。またただゆゑ有るのみ。その後、つひ商賈しょうこに通接し、ようやく上國に交わり、しかうしてえんじん衞滿えいまんはその風を擾雜じょうざつし、これに於いて從いて澆異ぎょういす。老子曰く、法令滋章じしょうにして盜賊多く有り。箕子きしの文條を省簡にして信義を用うるがごときは、それ聖賢の作法のみなもとを得たり。さんふ。この嵎夷ぐういに宅し、すなわち暘谷ようこくふ。山にすごもりし、海にひそみ、は九族。えいの末の紛亂ふんらんに、人は難をり、華をまじえ本をうすくし、遂に有漢に通ず。眇眇びょうびょうたる偏譯へんえき、或いは從い或いはそむく。

    現代語訳

    会稽郡の東の海上にある地に東鯷人がいて、二十国余りに分かれている。また夷洲(台湾のことだとされている)及び澶洲がある。伝によると、始皇帝が方士の徐福を派遣して子供の男女男女數千人を引き連れて海に出て蓬莱の神仙を求めさせたが、失敗した。徐福は失敗により誅殺されることを畏れて、とうとうこの地に留まることとした。以降、代々住み続けて戸数が数万戸にまでなった。その人々は会稽郡に来て商売をすることがある。会稽郡東冶県の人で、海に出て強風に吹かれて流されて、澶洲に流れ着く者がいる。その場所はあまりにも遠く、行き来は不可能である。論(昔の人物批評)によると、昔、箕子が滅びたので、朝鮮に去った。始めはそこの風俗もあまり褒められたものではなかった。八条の法を敷いて、その人々にしてはならないことを教えた。すると終いには、町では男女の不純な交わりや盗みがなくなり、門を夜に閉ざすこともなくなった。頑なで浅はかな風俗を少しずつ変えていき、寛容で簡単な法を守らせて、これを数百、あるいは千年行った。だから東夷とは交通があり、柔順で謹直であることを風俗とし、北狄、西戎、南蛮とは異なるようになったのだ。いやしくも、政が行き渡る所には道義があるのだ。孔子は憤りを感じて九夷(九はすべての意、転じて代表、中心の意)の地に行こうと考えた。ある者が九夷は卑しい者ではないかと疑った。すると孔子は、君子がいるのであれば、どうして卑しいことがあるだろうか、と言った。また、理由があるのだとも。その後、とうとう商人と接し、やっと中国と通交したところ、燕國の人衞滿衛氏朝鮮の祖)は、これを乱して低俗なものにしてしまい、それに従って人情が薄く謀反を考えるようになってしまった。老子は、法令が増えると、盗賊も数が多くなる。箕子が法律を省き簡単にして、信義を守らせたのは、聖人賢人のやり方の基本を押さえたのだ。と言った。編纂者の意見だが、この居所とした嵎夷(太古、日が上ってくる場所とされた東方の山)を、暘谷(太古、日が上るとされた場所)と言う。山に住み、海に潜り、その種族は九族(九夷=東夷のこと)である。が滅びる間際にの人たちが難を避け、中華の風俗を伝えて交え、その本性を薄くして、ついにはと通交した。遙か彼方の遠方であり、中国に従った時もあり、叛いた時もあった。

    冒頭は、『漢書』地理志呉地条の末尾にある「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」=「會稽の海外に東鯷人あり。分かれて二十餘國を為す。歳時を以て来たりて獻見すと云ふ」によります。會稽の海の向こうというと、沖縄あたりになるんですが、これらの諸島を二十あまりの部族が争って領有していたと言われると納得してしまいます。それとは別に夷洲、澶洲があるということなのですが、澶洲の位置が不明です。往来不可能と記されているのですから、かなり遠方、小笠原諸島とか、北マリアナ諸島、グアムでしょうか。しかし、たどり着いた者がいることをどうやって編纂者は知ったのでしょう。その情報源の方が不思議です。(この項、2013年6月24日に追記)

    「傳言」の傳とは、経書の注解を言うのですが、それが何という書かはわかりません。普通、単に傳と言えば「春秋左氏伝」を指すのですが、始皇帝徐福を派遣したのは、春秋時代どころか戦国時代も終わった後なので、この場合は違うことがわかります。ご存じの方がいらしたらご教示下さい。(この項、2013年6月24日に追記)

    「論曰」つまり、「過去の人物批評によれば」以降で語られている内容は、『漢書』地理志燕地条で、箕子が東夷を教化したことを詳しく述べ、その遺風が代々伝えられたことを指しています。また、孔子が言った言葉は、『論語』子罕第九にあります。ちなみに、『漢書』に言う、「海に浮を浮かべて…」の句は『論語』公治長第五が出典です。

    「贊曰」は編纂者、この場合は范曄もしくは倭人条を書いた人の意見であることを示します。「嬴末紛亂」の「嬴」は春秋戦国時代の王家の姓です。これは、戦国時代末、太子丹秦王政(後の始皇帝)を暗殺するために刺客として荊軻を送り込んだのですが、からくも失敗に終わり、これに激怒した秦王がを苛烈に攻め滅ぼしたことを指すと思われます。

    ちなみに、ここでもミスをやらかしています。倭人条の最初で、倭は会稽郡東冶県の東にある。と言っておきながら、ここでは、会稽海外には東鯷人がいて、その他に夷洲や澶洲があると言ってます。日本って東冶県と同じくらいの小さい国だと思ってたんでしょうか。なんだか、やっつけ仕事っぽいですよね。

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  • 事実に基づく歴史を伝えよう

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    婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

    とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

    人類の歴史は500万年とも600万年とも言われますが、そのほとんどをそうして暮らしてきたのです。氷河期の最中にたくましく生きて子孫を残してきた先祖に、私たちは敬意を持たねばなりません。

    ここで目を日本に向けます。縄文時代は、今から約14,000年前から紀元前六世紀に当たります。温暖で植生が豊か、海産物や川で取れる食料も豊富、危険な肉食獣がほとんどいない、という原初人類にとっては、パラダイスのような地でした。日本の地にたどり着いたリーダーは心底安堵して肩の力を抜いたでしょう。もはやリーダー一人が懊悩を繰り返して元来不可能な課題に対する決断を下さなくてもよくなったのです。となると、性も解放されてしまうのですが、放置すると集団はバラバラになってしまいます。そのままでは、性欲が非常に強化されていますから、各自勝手に乱交となって集団を統率できなくなります。リーダーはやはりどうすればよいか考えなくてはならなかったでしょう。そして、性を神に捧げる神事とすることで、野合を禁じ、集団で定期的に婚姻を営む形を考え出したのでしょう。これが「群婚」です。近親相姦の問題? あんなの学者が現行のタブーを正当化するためにひねり出した世迷い言です。近親相姦を繰り返すと本当に遺伝的障害が現れるかどうかは実験で確かめることも、観察で確認することもできません。早い話がわからないのですよ。でも、現在の日本人に全体として遺伝的に大きな問題があるように見えませんから、そういう問題などないんじゃないですかね?

    この「群婚」の遺風は後々まで、戦後の昭和まで残っていたことは既に述べました。ですが、日本中が全部そうだったとは限らないのです。ここで、『漢書』地理志の倭人について書かれた記述を思い出して下さい。あれは、西周時代に「倭」が朝貢していたことを表しているのだと述べましたが、それは即ち、「倭」—朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部一帯—に中国の風習が移入されたことも意味しているのです。西周時代といえば、今から三千年前に始まる古代の王朝です。少なくとも九州北部の縄文人は、「」の感化を受けていたと考えられます。縄文人には半分裸の未開人なんてイメージがありますが、縄文土器ひとつ取っても見ても、その美意識が現在の我々と変わらないか、あるいは上回っていることを示しています。そういう人たちがどうして未開でありえましょう。まして中国に朝貢していたということは文字すら知っていたことになるのです。縄文人の交易ルートが日本中に広く広がっていたことも併せて考えると、そこに、高度に組織化され、統率された人々の姿を見ないでいることは不可能です。そしてそれがあるからこそ、次の段階の婚姻「妻問婚」も可能になったのです。

    高群逸枝氏は、「群婚」に「族内婚」と「族外婚」の二段階あったと主張されていますが、それにしては後世に残った「群婚」風習がすべて「族内婚」的なものばかりなのが腑に落ちません。これは氏の勇み足で、私は日本には「族外婚」などなかったのだと考えています。そのような過程を経たのなら、それを示す遺風が必ず見つかるはずです。にも関わらず、その前段階の「族内婚」遺風ばかり見つかるのは、「族外婚」がなかった証でもあります。「群婚」から「妻問婚」に到るには、人々が氏族として統率されていないと不可能でした。いかに縄文時代弥生時代が豊かな時代であったとしても、現代とは比較になりません。個人で生きていくなどまず不可能でした。集団の協力があってこそ、族外の男を受け入れ、生まれた子を養うことができたのです。それは小さな数家族が集まっただけの小集団では保障できようはずがありません。もっと大きな氏族という枠組みがあってこそ互いの生活を保障し合えたのです。また、その枠組みに乗っかる形でしか、妻を集団外に求めることはできなかったのです。妻を他所に求めるということは、「群婚」が不利になる事態が既にないとできません。人口密度が高まり、集団と集団が接するように居住するようになると、そのこと自体がストレスとなって集団にかかってきます(とはいえ、現代の超過密社会を想像しないで下さい。狩猟採集を維持するにはとても広い領域が必要だったのです)。そのストレスを緩和し、集団間の対立を回避する方法としてやはり性が使われました。それが「妻問婚」です。そのような事態は、早ければ縄文時代中期に、遅くても弥生時代が始まる頃には生じていたでしょう。「群婚」で集団を閉鎖しているとそのストレスが緩和されず、ことによると暴発してしまいます。実際そうして争いになった集団もあったのでしょう。ここに至って集団保障(という概念があったかどうかは別にして)のために血を分けた一族をすべて統率し、氏族として全体の生存を保障すると同時に、性によって氏族間の緊張を緩和するに到ったと思われます。それが「妻問い」の形を取ったのは、氏族の政治過程を男が担っていたためです。言葉を変えると、外へ出て交渉事などを片付けるのは男の仕事であったため、男が女の元を訪れるという形になったにすぎません。従って子供も母の里で育てられる母系制が成立したと言えます。

    では「群婚」はなくなったのかというと、そういう訳ではありません。神事としての「群婚」は、弥生時代を経て、古墳時代に入り、飛鳥時代になってもまだ庶民の祭りの場に残されていました。それが戦後まで残っていたということは、すべての地域で行われていたわけではないにしろ、延々と余命を保っていたことがわかります。日本人が性に大らかなのは、性を特別視することなく、ムラの大人総出で楽しむ行事が根底にあったからです。ムラの性的行事と言えば「夜這い」が有名ですが、もちろん「夜這い」は柳田民俗学が言うようなお上品なものではありません。夜に男が女の元へ忍んで通うというのはセックスのためであって、馬鹿じゃなかろうかと思います。赤松啓介氏の著作を読めば、みなさんお盛んであったことがよくわかります。そういう意味では「夜這い」とは「婿取婚」や「嫁取婚」で性が封鎖されてしまうことへの「群婚」的反逆だったのかもしれません。「夜這い」の風習がほぼ全国にあったことはよく知られていますが、これをただの乱交だの強姦だのと同列視している人が結構居ることに驚きます。当然、「夜這い」もムラの規律に従って営まれた行事だったのです。ムラごとに掟が異なるので一概には言えないものの、基本的に男女で同意があったからこそ長く続いた風習であったことを忘れてはいけません。(この項2013年6月17日に追記)

    中国では「東周」になってから戦乱の世となり、朝貢どころではなくなってしまいます。この春秋戦国時代は、紀元前221年に「」によって統一されるまで、500年も続きます。ところがその「」もあっという間に滅んで、紀元前202年、王朝が開かれるまで、また戦乱です。その王朝が武帝の頃最盛となり、中国の正史の中でも特に有名な歴史書「史記」が司馬遷によって書かれます。「史記」には倭のことが出てきません。他に書くことが一杯あったのですから仕方ありませんね。その「史記」の「太伯世家」に「於是太佰、仲雍二人乃奔荊蠻、文身斷發、示不可用、以避季歷」とあります。中国では髪を切ることは文明人のすることではなかったので、太伯と仲雍がそれを以てして「」の跡を継がない決意を表したのですが、ここで「文身」と出てくることに注意して下さい。体に入れ墨をしたという意味ですが、後々重要になります。

    さて、そんな戦乱が続いたのなら、当然戦乱を避け、平穏な地を求めた人々がいたことは論を俟ちません。特に春秋時代の終わりには、の戦争が激しくなり、ついにに滅ぼされてしまい、そのに滅ぼされてしまいます。の人々が南西諸島を経由して日本へ逃れてきたこともまた、論を俟ちません。その人々が稲作をもたらしたことは確実とされています。そして「前漢」末から「」を経て「後漢」が建国されるまでもまた戦乱の中にありました。ここでも大量の避難民が日本を訪れ、定住したことでしょう。既に日本は弥生時代に入っていました。平和的に移住できた時代は終わりを告げており、ここ日本でも戦争が頻々と起きていました。外来の人たちと戦争になったこともあるでしょう。その戦争の結果、様々な部族を統合して「国」を建てる一族が次々と現れたと思われます。『後漢書』東夷伝を見れば、建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が朝貢してきています。既に国家が形作られていたのです。この時下賜された金印志賀島から出土したものであることは既に書きました。

    後漢書』東夷伝の倭人条は『魏志倭人伝』を参照して書かれたことが明らかなのですが、「使」を「使」と間違っていたり、「會稽東之東」を「會稽東之東」と勝手に書き直したり、「國大人皆四五婦、下戸或二三婦(その国で身分の高い人は妻を四、五人持ち、平民でも二、三人の妻を持つ者がいる)」を誤読して「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三(その国には女性が多いので、身分の高い者は妻を四、五人持ち、そうでない者も二、三人の妻を持っている)」と爆笑ものの説明をしていたりと、まあ当てにならないこと夥しいのですが、さすがに「後漢」の公式記録から引用された部分は信用してよいでしょう。

    さて、日本のことが詳しく紹介された史上初の書物が『魏志倭人伝』です。景初三年(西暦239年)卑弥呼に朝貢してきた時の記事を含め、その旅程や風俗まで説明されています。この旅程が、所要日数を距離に換算したものであることが、後の『隋書』で明らかになります。当時はレストランなんて気の利いたものはありませんから、食料を調達=狩りをしたり木の実、山菜を採集しながら旅をしたわけで、しかも保存技術も怪しいですから、一度に大量に狩りや採集をして食料を集めておき、旅程を急ぐ、などということも無理だったと思われ、平均すれば、一日に数㎞進むことがやっとだったのではないでしょうか。実際、狩りをしたり、木の実、山菜を集めてなおかつ料理して、そのついでに移動するような状態だったと思います。そしてその『魏志倭人伝』で紹介された「邪馬國」=「山倭(やまゐ)國」が、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、九州北部にまたがる国であったことは間違いなさそうです。九州中部、今の熊本県あたりから南は「狗奴國」だったのでしょう。なぜなら、『隋書』東夷傳俀国条では触れられている阿蘇山について書かれていないからです。

    さてその『魏志倭人伝』では「男子無大小皆黥面文身」で男性は全員入れ墨をする文化があったことを示しています。倭人が入れ墨をするのは、中華の教化が東の果てに及んだためである。と特に注記しているのです。「史記」の「太伯世家」に「断髪文身」が出ていたでしょう。の風俗として入れ墨は非常に昔から有名だったのです。その上、『魏志倭人伝』と同じ資料を参照して書かれたと思しき『魏略』には「聞其旧語自謂太伯之後」と書かれています。「その昔話を聞くと、自分たちは太伯の末裔であると言う」倭の人々は太伯の末裔だと言っていたのです。から渡来した人々がいたことは確実です。その人たちが入れ墨の風習を持ち込んだのでしょう。そして実際、中国江南から、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が発見されているのです。「男子皆露紒」とあるのでまだ冠を被る習慣がないこともわかります。「有屋室、父母兄弟臥息異處」とあるのは、「妻問婚」で男たちは妻方の実家で寝るからだと説明しました。「以朱丹塗其身體」と中国で白粉を使うように朱丹(赤い顔料)を使うとあれば、『古事記』や『日本書紀』で紹介されている風俗と随分異なることがわかります。また、神社で拍手を打って拝礼するのは、元々身分の高い人に対する礼であったことも書いてありました。一方で、この頃ヤマト近辺では「抜歯」の風があったのにそれには全く触れていません。このことからも、「邪馬國」がヤマト王権とは関係ないことが見て取れます。

    現代人の感覚からすると、入れ墨などヤのつく職業の人たちの特徴みたいに考えがちですが、元々は極めて実用的なものであったのです。それが装飾や身分を表す証に変遷していく過程にあったことも記されています。なぜ歴史学者は「記紀」には記述のないこの風習を重視しないのでしょうね。

    そして、空白の四世紀をはさんで、『宋書』に有名な倭王武の上表文が現れます。その「」の時代に編纂されたのが『後漢書』ですが、この時、国名が「邪馬國」=「山大倭(やまだいゐ)國」に変わっています。既に国名に「大」を冠して恥じない実力を倭が備えていたことを示します。当時の倭の風俗についてはわかりませんが、倭王武の上表文から、先祖代々文字通り東奔西走して戦争していたことがわかります。おそらく東は美濃尾張まで、西は肥前天草を征し、北では新羅高句麗と激闘していたのでしょう。南が書かれていないことを考えると、『魏志倭人伝』に言う「狗奴國」は既に征していたか、あるいは「狗奴國」自体が膨張して倭の国々を従えていたのかも知れません。「記紀」にある「神武東征」もこの頃のことではないかと筆者は考えています。「記紀」には神武天皇淡路島から大阪湾に出る際、明石海峡側ではなく、鳴門海峡側をルートとして選んだことが覗える記述があります。明石海峡側は「五色塚古墳」に象徴される強力な豪族が根を張っていて、これと正面から事を構えることを避けたのでしょう。このことは「神武東征」の頃、「倭國」はまだ吉備国(今の岡山県に広島県東部の一部と兵庫県西部の一部をあわせた領域)あたりまでしか支配もしくは同盟していなかったことを示します。それを考慮すると、むしろヤマト政権は、元々倭の東部前線基地と東部総督を兼ねていたのかも知れません。その由緒がヤマトと他の地方政権との違いとなったこともありえない話ではありません。

    宋書』が倭の風俗を伝えていないことは残念です。海外から見た倭の風俗は、『隋書』まで、即ち六世紀末から七世紀初頭まで空白のままです。しかし『隋書』によると、複式統治が行われていたので、卑弥呼以来の制度が続いていたことが覗えます。冠位十二階があったことはかなり早い段階から位階を設けて豪族を組織化していたことを覗わせます。それが倭王武やその前後の王によって創始されたと考えてもおかしくはないでしょう。そして「」の時代までは冠を被るという風習はなかったのですが、その頃定めたとあります。『隋書』には「男女多黥臂點面文身没水捕魚」とあります。『魏志倭人伝』では男子のみが実用から入れ墨をしていたのが、男女共通の習俗に変化しています。身分を表し、装飾を兼ねていたのは言うまでもありません。当たるも八卦当たらぬも八卦の卜筮は「知卜筮尤信巫覡」とあるのでこの頃には既に一般化していたこともわかります。嫁入りの風習を取り入れていたようですが、「男女相悦者即爲婚」ということで、後の嫁取婚とは全く異なるものだったことがわかります。「貴人三年殯於外」三年間の殯は、中国の儒教の影響がよく現れています。儒教では父母が死ぬと三年間喪に服するのが正式です。尤も、本家中国ではそのような礼は既に孔子の時代でも廃れていたことがわかっています。やはり春秋時代ですが、晏嬰という人が父の喪に本当に三年間服したことが天下の話題になっています。それくらい稀なことだったのです。孔子の死から千年以上経っているのにその教えた礼が形を変えていたとはいえ日本に保存されていたのが面白いところです。文化は中央で生まれ外部へと波及していくのですが、中央でそれが廃れた後も周辺ではよく保たれることが明らかになっています。方言の変遷を説明するのによく援用される理論なのですが、もちろん文化全般に言えることです。四世紀から五世紀の間に様々な風習が中国から影響を受けて生まれていたことがわかりますね。

    日本が中国から影響を受けた風習というと、殯と関連して土葬があげられます。日本は仏教が入った後も長い間土葬が併せて行われていましたが、それは死者の肉体を神聖視し、様々な儀式を儒教が行ったことに由来します。また仏壇というと位牌がつきもののように日本人は考えますが、この位牌というのも由来は儒教です。年功序列=「先輩が上、後輩は下」も儒教です。ブルーカラーよりホワイトカラーを何となく上に見るのも儒教思想に由来します。和を以て貴しとなすという思想も儒教由来です。教育を重視し、子供を愛育すべしという考え方も儒教が根源です。年寄りを労り親を大切にするのも儒教の教えです。今時の宴会は無礼講が当たり前ですが、それでも敢えて無礼講を宣言する場合があるのも、儒教にその根っ子があります。掘り出せばもっと出てくると思います。間違いなく日本人の原風景には中国の影響があるのです。儒教ではありませんが、帽子を被るというのも中国の風習が元です。今や帽子を被る人を滅多に見なくなりましたが、ほんの四、五十年前までは正式な場で無帽は失礼だとされていたのです。閑話休題。

    さて、この頃のヤマト王権の影響範囲はどこからどこまでだったのでしょう。「記紀」にあるオケ王・ヲケ王の物語から、播磨は王権の及ばない地と考えられていたことがわかります。すると、西は摂津の国までだったのでしょう。東については美濃尾張あたりではないでしょうか。天武天皇の挙兵に応じた東国の兵とはそれらの国の兵団でした。とても全国政権とは言えませんね。

    では全国…とはいかなくても南は薩摩大隅屋久島種子島から東は美濃尾張までを配下に治め、号令をかける存在がなかったかというと、それが倭のオオキミだったことが、『宋書』倭王武の上表文から見て取れます。『隋書』においても九州の多利思北孤が倭のオオキミであり、倭を代表していたことがわかります。この多利思北孤の姓が「阿毎」であることは、天つ神を信仰しており、自分たちがその子孫であることを表していると考えられます。太宰府には天満宮がありますが、ここに祭られているのは菅原道真なのに、どうして「天神」さんというか不思議に思ったことはありませんか? 元々倭の神々の筆頭「天神」が祭られていたのが、倭の王族がヤマトへ移住した後放置されていたところに、菅原道真が合祀されたのです。「記紀」に記された天つ神も元々は倭の国の神様だったのです。

    隋書』には王の妻は「キミ」と呼ばれていたとあります。「キサキ」ではないのです。倭は複式統治を取っており、政治を見る王を「オオキミ」、祭祀を司る王を「キサキ」と呼んでいたのでしょう。この「キサキ」に女性が任じられたことは『魏志倭人伝』に見られます。『隋書』では兄弟統治になっていましたから、必ずしも女性に限るものではなくなっていたのでしょう。後代、大和朝廷ではこれが混交され、「キサキ」が「オオキミ」の夫人を意味するようになっていくのですが、元々は「キサキ」を夫人が代行する慣例があったのだと思われます。

    さて、六世紀の大乱といえば、「磐井の乱」があり、これは継体天皇が倭王朝を簒奪しようとした事変であると説明しました。実際、いったんは簒奪に成功したものの、各地の反乱を鎮撫するのに二十年かかり、しかもその後すぐに継体天皇は死んでしまった可能性があるのです。大和朝廷の勢力は駆逐され、再び倭が力を取り戻したのは言うまでもありません。こうして倭とヤマトの一世紀に及ぶ対立が始まるのですが、「記紀」はこれをなかったことにしています。まあ強盗に失敗しましたと書くわけにもいかなかったでしょうし、仕方ないですね。その外交方針を巡ってヤマト蘇我氏物部氏の対立があり、山背大兄王の謀反があり、乙巳の変があったことは既述しました。その宥和路線に転換した大和朝廷を待っていたのは、「白村江の戦い」での大敗北で、これを受けて大海人皇子大和朝廷へ避難し、天智天皇を支えて国をまとめていったのです。最終的に大海人皇子が「壬申の乱」を経て大和朝廷のオオキミの座を勝ち取り、倭の一族を呼び寄せて「皇親政治」を開始しました。敗戦で立て直しもままならなかった倭の国は以降、地方政権へ転落し、代わって大和朝廷が倭を代表する国になったのです。しかし、倭の人々は偉大なる倭王多利思北孤を忘れられなかったのでしょう。由緒のある建物をヤマトへ移築したくらいですから、英明な王であったことは間違いありません。

    代、つまり縄文時代晩期から続き、卑弥呼が総覧し、倭王武が勢威を張った倭國の歴史はここで終わりました。しかしそれは完全に忘れ去られたのでしょうか。私は「記紀」にその名残があると思います。天つ神の系譜に始まり、天孫降臨に至る物語は、元々倭國で伝えられたものでしょう。天武天皇は『古事記』や『日本書紀』の巻頭に敢えて神代を挿入することで自分たちの祖先を顕彰することを忘れませんでした。史書の編纂が中華の伝統を受けたものでしかないなら、神話を冒頭に配置することなどありえません。つまりその編纂に強い意志が働いたことを意味しているのです。偉大なる倭王多利思北孤の事績は、厩戸皇子と結びつけられ、スーパーヒーロー聖徳太子として『日本書紀』に綴られました。おそらく他にも倭國伝来の由緒のある人が仮託されている人物や天皇があるとは思いますが、今の私にはそれを解き明かす材料がありません。いつの日か、歴史学が江戸時代の蒙昧な国学者の影響を脱し、真の科学として発展して真相が解明されることを切に願ってやみません。

    さて、長々と振り返りましたが、これは歴史に対するひとつの説でしかありません。しかし、中華の文献を参照し、また日本の書物を読んでいくと、日本の歴史はこのような形でないとおかしいと思われるのです。もっと過激な説を唱える人がいることも知っていますが、中華文献絶対で、日本文献は完全に恣意の産物というのもありえない話です。私たちの祖先は、そこまで蒙昧だったのでしょうか。そんなことはありません。確かに、政治的な意図からある人物を貶めたり、逆に持ち上げたりすることはあったでしょう。それは中華の正史でも見られることです。あるいは、「倭」の歴史事実を「日本」の歴史に混入もしているでしょう。しかし、事件の年代を入れ替えたり、存在しない事件をでっち上げたりするでしょうか。私はそこまではしなかったと考えます。もちろん「記紀」が編纂されるまでは豪族ごとに自分たちに都合の良い修飾が入った私史が作られていたのでしょう。それを集大成して矛盾のないように整理したのが「記紀」の姿だと思います。歴史を恣意的に改編することはなによりも祖先に対する冒涜です。「記紀」の編纂者がそこまで傲慢であったとはどうしても思えません。

    最後に。あなたは子供たちに、自分たちの祖国、日本の歴史を語るとき何を基準に言って聞かせますか。教科書通りの薄っぺらい中身のない独りよがりな日本史ですか。それとも、連綿と続く誇り高い先祖の事績が詰まった日本史ですか。

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  • 日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

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    漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

    1. 縄文時代晩期には、既に宗族=國といってよい規模の集団が複数存在していたのではないか。

      根拠は、『漢書』地理志である。今更くだくだしい説明は不要であろう。

    2. の使節は朝鮮半島内で陸路を取ったのではないか。

      魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
    3. 倭國(倭奴國)は九州にあったのではないか。

      • 後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
      • 魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
      • 魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
      • 隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
      • やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
      • 舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。
    4. 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。

      • 魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
      • 隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
      • 舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
      • 魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である。
    5. 宋書』夷蠻伝倭國条に名前が出る「倭王武」を雄略天皇に比定する根拠は何か。

      「武」と「ワカタケル」の語感が似ているからなどというのは論外だが、根拠は何だろうか。

      • 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘には「獲□□□鹵大王世」と欠字があって何と言う大王だったか不明である。
      • 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘には「獲加多支鹵大王」とあるが、これを「ワカタケル」と読むのは何故か。
      • 仮に両者とも「ワカタケル大王」だとしてこれが雄略天皇であるという科学的な根拠は何か。
    6. 隋書』東夷伝俀国条で名前が出るオオキミ「多利思比孤」を聖徳太子に比定する根拠は何か。

      聖徳太子の逸話はすべて『日本書紀』から出ており、これほど重要な人物であるにも関わらず『古事記』では触れられていない。

      • 「多利思比孤」はオオキミを号していたとあるが、聖徳太子は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいる。
      • 裴世清は「多利思比孤」に実際に会っており、遣隋使の使者のごまかしでないことは明らかである。
      • 聖徳太子には「多利思比孤」に類似する別名がない。
    7. 太宰府」はいつ誰の指示によって造営されたのか。

      「遠の朝廷」と呼ばれ、殷賑を極めた都会であったことがわかっているのに、それがいつ誰の指示で造営されたか記録がない。

      • Ⅰ期の遺構は、白村江の戦いの後、天智天皇が「那津官家」を移したものとされているが、天智天皇が「那津官家」を移したという記録を基にⅠ期遺構の造営時期を決定しているだけで、まるで科学的根拠がない。『記紀』にも大規模な造営があったとは記録されていない。造営時期の比定が無茶苦茶である。
      • Ⅱ期の造営時期については、歴史学者の単なる妄想を述べているに過ぎない。律令制度上の要請があり、大改築を行ったのなら、正史に記録が残って当然であるのに、その事実を無視している。
      • Ⅱ期の遺構により、条坊制を採用していたことが明らかであり、あるいは長安が直接的なモデルになったことは明らかである。
      • 太宰府天満宮は非常に大規模な大社だが、菅原道真を祭る前は何の神を祭っていたか記録がない。
      • 鴻臚館が置かれ、古くから外交の根拠地となっていたが、それならなぜもっと便のよい海岸よりに造営しなかったのか。元は海岸沿いにあったという人もいるが、それならなぜ「白村江の戦い」で大敗した後に移転したのか。現に二年後にはから使者を迎え、遣唐使を派遣している。とてもそんな緊張があったとは考えられない。

    まだ他にも細かく詮索したいところはあるのだが、少なくともこれらの疑問は、日本の古代史を勉強する上で、放置しておいて良い問題ではないと考える。

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  • 日本の古代史を考える—⑤晋書四夷伝倭人条

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    晋書』は『三国志』に続く正史であるが、書かれたのは「」になってからである。「」は司馬懿の一族が曹操の「」を簒奪して誕生した王朝で、西暦245年から420年まで続いた。三国に分裂していた中国を統一したのが「」である。しかしその統一は束の間で、西暦317年に匈奴前趙)の侵略を受け、南遷を余儀なくされた。それまでのを「西晋」、南遷後のを「東晋」と呼んで区別するのが習わしである。

    この書にも倭のことが書かれているが、明らかに『後漢書』の引き写しである。従って全文を紹介する意味はあまりないのであるが、いくつか指摘すべき点があるので、念のために触れておく。

    倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。

    倭人は帯方郡の東南の海中にあり、山島に拠って国を建てている。その土地は山林が多く、良田がないので、海のものを食べる。百あまりの国が相接して存在していたが、魏の時代には、三十国が魏へ通好していた。戸数は七万である。

    山林が多く、良田がないのは『魏志倭人伝』によると、「対馬國」「一大國」のことであるが、ここでは倭全体がそうであるかのように書かれている。東夷のことだから、対馬國や一大國といった一部のことではあるまい、という臆断が見え隠れする。「有三十國通好」は『魏志倭人伝』において「今使譯所通三十國」が、『後漢書』で「使驛通於漢者三十許國」と誤読された結果である。三十もの国が朝貢していたら『魏志倭人伝』はことさら麗々しくそう書いたであろう。『後漢書』を書いた「范曄」が「譯」と「驛」を間違えた結果である。『後漢書』の倭人条は全体に投げやりな書き方が多く、「范曄」自身が書いたとは思えない。部下に適当に書かせたものをそのまま収録したのではないか、という人までいる始末である。それを受けて書かれたと思われる『晋書』も推して知るべしだ。

    男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。

    成人男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。自分たちを太伯の末裔であると称している。また、大昔から遣使をしており中国に朝貢していたと伝えられている。遣使はみな大夫を自称した。

    倭人が太伯の末裔を自称するということは、『魏略』にも「聞其旧語自謂太伯之後」と見える。『後漢書』にはこの既述はない。「上古」は中国では前漢後漢までのことを言い、西周の頃から倭が朝貢していたことは既に述べた通り。ただし、後漢から禅譲を受けたをすぐに簒奪して立てられた国であるので、ここで言う上古は、春秋戦国時代より前だと思われる。この部分が『漢書』地理志や『論衡』(あるいはその同時代史料)などにも拠っていることは明白である。

    昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。

    昔、王朝の少康王の子が会稽に封じられた。髪を短く切り、体に入れ墨をすることで大魚や水禽の害が避けられると民に教えた。今、倭人はよく水に潜って魚を捕る。また体に入れ墨をして水禽が近寄ってこないようにしている。その位置を勘案すると、会稽郡東冶県の東に当たる。

    「會稽東冶之東」は『後漢書』の誤記である。それがそのまま引き継がれている。というか、「道里」は「道理」なのだが、ここでは「道筋、里程」の意味で使われている。この条を書いた人はあまり教養のある人ではなかったようだ。

    其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。

    男子の衣服は横広の布を結んだだけの物で、縫っていない。女性は重ね着をしておらず、中央に穴が穿たれた貫頭衣で、全員髪を覆って裸足で歩いてる。倭地は温暖、稲作を行い、麻を紡ぎ、養蚕・織り物をする。牛馬がしない。刀・盾・弓・矢が有って、鉄の矢尻を使っている。ちゃんとした家があって、父母と兄弟は別々に寝る。飲食に俎豆を用いる。

    父母兄弟の兄弟はもちろん成人のことを指す。庶民は竪穴式住居が一般的だったのだから、「異處」は建物自体が異なる、つまりは妻問婚で男は妻方を訪れるので、自然、「異處」になることは既に記した。「有屋宇」は、『魏志倭人伝』では「有屋室」、『後漢書』では「有城柵屋室」であり、『後漢書』がやや詳しい。

    嫁娶不持錢帛、以衣迎之。

    嫁を娶る場合、幣物は不要である。衣を用意して迎えるのである。

    中国では婚姻の際、媒人を立て、幣帛を用意して納采の儀を執り行うのが、結婚において重要なこととされていた。さもないと野合と非難されたのである。ところが日本はそんなことをしないというので、新たに書き込んだのであろう。さて「以衣迎之」の「之」は通常「嫁」のこととされるが、それはそれは変わった風俗である。ところが、その前の文は、男が嫁を取る場合のことについて書いてある。その文意を受けて「之」と書いたのなら「男」を意味すると解することができる。つまり、「着物を用意して夫を迎える」が、正しく伝わらなくて、もしくは倭人条を書いた人の「結婚は即ち嫁取りである」という臆断で(こっちの方がありそうだが)、妙な形に歪んでしまったと思われる。元々の意味は妻問婚で妻が夫を迎える習俗を言っていたのであろう。後々の婿取婚でも婿の衣服の世話は妻の実家の役割となっていた。その萌芽があったのだろう。

    死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。

    死ぬと棺(かんおけ)はあるが、椁(かく)はない。土を盛って塚を作る。葬儀が始まると哭泣して肉を食べない。葬儀を終えると、家中で水に入り、水を浴び体を洗い清らかにする。これで禍を除くのである。重要なことをする時は、骨を焼いて吉凶を占う。

    不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。

    一年が四季よりなることを知らず、ただ秋の収穫の時をはかって年としている。

    これを春秋年紀=一年二歳と勘違いしている人が多いが、『魏略』に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」とあるのを混同したものと思われる。ただし、この項目が「但計春耕秋収之時以爲年紀」とすべきところを、書き手が一年=一歳が当然だろうと勝手に臆断して「春耕」を削って書いた疑いがないでもない。

    人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

    百歳まで生きる人が多く、あるいは八十、九十になる人も多い。国には女性が多く、貞節で嫉妬しない。罪を犯した者は、その罪が軽いものであれば、妻子を没して奴隷にし、重い者はその家族と一族を殺す。

    ここの「國多婦女」は、『後漢書』が「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」(国には女性が多いため、身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、それ以外の者も二人や三人の妻を持つ)と書いているのを受けている。『魏志倭人伝』で「國大人皆四五婦下戸或二三婦」(身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、身分の低い者にも二、三人の妻を持つものがいる)を誤解して書いたものと思われる。『魏志倭人伝』では全員が多妻であるとは言ってないのに、『後漢書』でこれを全員多妻と誤解し、全員が多妻なのだから、女性が多いのだろうと結論したと考えられる。お粗末にもほどがある。あるいは本当に女性が多かったのなら、戦乱で消耗された男の多さが窺える文章でもあるのだが、それなら『魏志倭人伝』が男が多数戦乱で死んで女性がすごく多いという点に何も触れてないのが異常となる。

    舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。

    もとは男性を王としていた。後漢の終わり頃、倭で内乱があり、攻伐しあって国が安定しなかった。そのため、女性を王として建てた。名前を卑弥呼という。

    「漢末」とあるのは、『後漢書』に「桓靈閒倭國大亂(桓帝=後漢の第十一代皇帝、西暦146年-167年。靈帝=後漢の第十二代皇帝、西暦168年-189年)」とあるのを受けている。が、その『後漢書』の既述自体が、『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」を誤読したもので、まったく信用がおけない。

    宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

    宣帝(司馬懿)が公孫氏を滅亡させた時、女王が帯方郡に遣使を送り朝貢に来た。その後暫く朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭)が宰相になった時、また何度か朝貢に来た。泰始元年(武帝司馬炎)に、使いを遣わせて通訳を二重に重ねて入貢した。

    晋書』でありながら、実質的に書かれているのは「」の時代のことである。は安定しなかったので、朝貢が途絶えたのだろうか。それより「重譯入貢」が不明である。倭には直接中国語を話せる人がおらず、別の言語を通じて会話したということなのか。しかしそんなことは他の正史には書かれていないし、その状態で朝貢を続けるというのも不自然である。あるいは、倭でも別のグループが朝貢に来たのだろうか。その場合方言間の翻訳が必要なので、確かに重訳となるが…あるいは別の意味があるのか。

    倭人条はこれで終わりだが、倭の記事はもうひとつある。安帝本紀の義煕九年(西暦413年)に倭が朝貢していたことが載っているのである。

    是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物

    この年、高句麗や、倭國、西南夷銅頭大師が並んで様々な物を朝献してきた。

    この記事に関しては、倭の王が冊封を受けた節がないので、ニセモノの遣使だと主張する人もいて、様々な議論があるようです。しかし、の朝廷が衰えていたとはいえ、史官も馬鹿揃いではないのでニセモノ説はさすがに成り立ちにくいと考えます。冊封を受けた様子がないのは、別の説明が必要でしょう。

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  • 日本の古代史を考える—②後漢書東夷伝

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    後漢書』が『三国志』より後の時代に書かれたことはよく知られていることである。従って『倭』の情報も『三国志』の方が的確、豊富であるとするのが常識になっている。事実、『後漢書』東夷列伝の倭人条は、ほとんどが『魏志倭人伝』の引き写し(しかも誤って写し取ったと見られる個所まである)の上に、字数も遙かに少ない(尤もこれは、『魏志倭人伝』の分量が名だたる正史の中でも際だって多いのためであるが)。しかし、にも関わらず、日本史にとって重要な一文があるため、無視はできないのである。

    俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。

    皆裸足で歩くことを習俗としている。蹲踞で恭敬を表す。

    魏志倭人伝』以外からの資料を参照したとおぼしき個所である。蹲踞は今でも地面に座るとき普通にする姿勢である。ただし、足は閉じていただろう。もしくは、時代劇でお侍が庭や廊下に控えるときの、片膝突いてもう片方の膝は立てるあの座り方である。これは『後漢書』を書いた「范曄(西暦398年-445年)」が生きた時代、つまり五世紀はじめの習俗ではないかと思われる。(この項、2013年6月4日に追記)

    建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

    建武中元二年(西暦57年)、倭奴国が貢ぎ物を奉り、朝賀に来た。遣使は大夫を自称した。(倭奴国は)倭国の最南端にある。光武帝は印を授けさせた。安帝永初元年(西暦107年)、倭国の王たち帥升その他がやって来て、生口(奴隷)160人を献上の上、お目見えすることを願った。

    この記事にある、光武帝が授けた印こそ、『漢委奴国王』の金印である。というかこの記事があるからこそ、あの金印は本物であるとされているわけだ。この字面は、「かんのわのなのこくおう」と読むと高校などでは教えられるが、漢は金印を陪臣に与えなかった(与える場合は銀印か、銅印)ので、それはありえない読み方である。また、後世の正史も倭国のことをまた『倭奴國』とも書いている通り、これは『倭奴』の国の王に与えられたと解するべきである。学者さんはなぜ嘘を平気で教えるんでしょうね。では何と読むかというと、当時の漢音から「かんのゐなのこくおう」と読むのが正しい。「いとのこくおう」説のあなた、残念様。私も残念の一人。(笑)

    加えて、金印志賀島から出土したということは、考古学的にも常識的にもその付近に件の金印を頂いた国王が昔存在していたということであり、それ以外に解釈しようがない。けれどもなぜか、輸送中に落として行方不明になってたんだとか、受け取ると冊封されてしまうことになるから、遣使が志賀島に埋めて、もらってないことにしたんだとか訳のわからないことを言って、金印が近畿天皇王朝に下賜されたものだと頑強に言い張る。正直、頭が沸いているとしか言いようがない。ある遺跡から出土した甕棺入りの人骨が、実は棺おけごと移送中にたまたま置き忘れられたものなのだ、などと主張することを考えてみればわかる。まず間違いなく、可哀想な人を見る目で見られることになるだろう。なのにどうしてこの金印だけ例外にしたがるのか? いつまで皇国史観に取り付かれてるんだと、お前らにつぎ込んできた税金を返せと言いたくなる。

    なお、志賀島にある志賀海神社は、『綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である』(ウィキペディアより引用)。なぜ北九州の先端とも言える場所で「君が代」が? と思ったあなたはえらい。

    さて、気を取り直してその続き、西暦107年になって、倭の王たち(複数)が朝見に来たことが記されている。取りあえず定説に従って倭の国々の王たち(そのうちの一人が帥升)という解釈で訳してみたが、『帥升等』が人名で、倭国王は一人だとする説もある。ここで注意すべきは、「謁見を願った」としか書かれておらず、暗に謁見を断られたことを示している点である。後漢が認める倭の王は一人って先例があるんだから、集団でやって来た連中をうっかり引見しようものなら、ご先祖様(光武帝)を馬鹿にすることになる。体よくお引き取り願ったんでしょうな。あるいは、この時、倭が内乱ではないにせよ、群雄割拠で推戴すべき大倭王が不在であったと読み取ることもできる。だからどこかの国だけが朝見することはできず、集団で赴くことになったのだと。時期的にも、卑弥呼の前に 70 年〜 80 年の間即位していた男の大倭王(ただし期間の長さから、ひとりではなく複数の王が相次いで即位したと考えられる)が登場する、その少し前になるので、別段うがった見方でもないと思う。

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