• 日本人の原点に農耕はない

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    次のブログ記事が、Tumblr でリブログされているのを見かけました。
    http://shinjihi.hatenablog.com/entry/2013/08/13/165545

    このブログの著者の言わんとしていることはわかるし、それは大いに肯定したいところなんだけど、いかんせん論拠が正しくなくては全面的に賛成とは言えなくなってしまいます。なぜなら、日本人の気質の淵源として「農耕」が挙げられていますが、それが全て間違いなので仕方がありません。以下、各論にて示します。

    1)【上司が来ているのに遅く出るのは非常にまずい】【上司が残っている間は帰りにくい】→これ農耕文化です。

    違います。農耕は耕作者が自分の決めた予定で作業をする産業です。田舎へ行って実際の作業を見てみて下さい。無論、機械化されているので、個別度が極端に上がっていますが、機械が入る前も、田植えと稲刈り以外は各自ばらばらでやってました。田植えや稲刈りは結を組んで集団でやったのですが、それは期間が限られている上に自力で労働力を調達する方法が他になかったからです。田植えの時期は五月女と言って若い女性が集団で田植えを賃作業として請けて村々を回っていましたが、上司なんぞおりません。ムラの庄屋さんが見張ってるわけでなし、村長が監督に来るわけでもなし。およそ上司の目を気にする気質とは無縁でした。

    村の人「明日から全員田植えだ。」

    A君「俺、俺の分の田植えは明日やるから今日は寝てます。」

    そんなことは言えないと主張されていますが、田植えだって一瞬で終わる作業ではありません。当然順番です。どこからどんな順番でやるかはムラの寄り合いで決めていました。ですので、「明日から全員田植えだ」→これ自体がありえません。農業をもっと勉強された方がよいと思います。

    じゃあ、上司の目を気にするってどこから来たのよ? というと、こういう気質を今でも濃厚に持っているのは、狩猟採集民族です。狩猟こそ集団で行わなければ獲物が狩れません。またボスの指示に逆らったり手前勝手なことをする奴がいると、段取りが狂い、やはり獲物が狩れません。全体を采配するのはリーダーやボスです。その指示通りに動かないと成果が手に入らないとなれば、自然、リーダーやボスの動向を気にかけるようになります。

    日本は、縄文時代という、とてつもなく長い、だいたい一万年という期間を狩猟採集で過ごしました。それで定住までしてたんですから、非常に生産性の高い国土だったのです。それが、たかだか二千年ちょいしか歴史のない農耕気質に取って代われる? 馬鹿も休み休み言うものです。日本人の原点は縄文時代にあるのです。

    2)【あいつがサボリ癖あるんで、頭に来る】→ これ農耕文化です。

    これも農業に対する誤解があります。農業は、例えば稲作でも田んぼごとに用水や日射、土壌で条件が違いますから、一斉作業というのは本当に稀です。労働集約の極致、田植えですら、村を挙げて一斉にとはなりません。それに農業は稲作がすべてではありません。畑作、麦作り、養蚕、果樹園、全部耕作者がどんなものを植えるかどこへ売るかを決めてました。また、自作にせよ小作にせよ、耕作者が生産物の責任を負います。荘園制度の昔から惣村制の近世、地租改正以後の近代、皆耕作者が自らの責任で収穫を上げなくてはなりません。平安時代なんか予定の年貢を納められなかった者を武士がリンチにかけている話があちこちに残っています。その武士自身、都に上れば年貢の未納で同じように貴族からリンチされているのですから、それはもう。他人がさぼってようが根を詰めていようが、自分が規定の年貢を納められるかどうかが重要になってきます。そりゃ秀吉の太閤検地までは年貢といえば村に請け負わせるものでしたが、年貢さえ納めれば文句が出なかったので、何をしていても文句は出ません。逆に年貢を納められなかったら普段働き者であっても、村中からリンチされるか村八分になるか、いずれにせよ生きてはいけません。なにせ村が肩代わりしなくちゃならないので。農業こそは成果主義であって、過程を問わないのです。

    「自分の分の田植えをサボって、俺たちにその分を押し付けて楽をしている感じがする」→これ、ないんです。自分の分の田植えをサボったら、自分の田は稲が育たないだけです。無論村八分です。年貢を肩代わりするのは村でしたから。江戸時代なんかは耕作者を直接藩なり幕府なりが代官を通じて把握していましたから、完全に個人の責任です。他人は口を出しません。公儀から仕置きを受けるのも耕作者自身です。もちろんかつての時代も日本人は狩猟採集的でしたから、基本的に真面目に勤め上げるものでした。周りの目も気にしてましたし、サボってばかりだと悪口を言われました。でもそれは農耕の本質とは関係ないのです。

    サボる奴がいると切実に困るのは、やはり狩猟です。決められたことをちゃんとやらない奴がいると、獲物の追い込みにも穴があくわけで、そこから逃げられてしまいます。その結果、全員が食料を調達できなくなります。自然、各自真面目にやってるかどうか互いにチェックするようになります。

    3)【年長の人に反対されると通せない】【全員一致の意見が尊重される】 → これ農耕文化です。

    残念ですが間違っています。本当に年長者の意見が何よりも尊重されるなら、周期的に襲ってくる不作、飢饉に対応できなくてはなりません。が、いつもその場限りの対応で、村は本当に無力です。これはそんな古老の知恵など何の意味もないことをよく表しています。旱が続いたりしたら、古老の知恵より暴力闘争です。水争いが死人の出るほど激烈になる場合もある緊張したものであったことをご存じないのでしょうか。農業の知恵は「暦」に集約されており、それ以上の対応はもっと広域の藩とか幕府といったレベルでないと対応不可能です(ひどい飢饉の場合は藩レベルでも対応不可能で、幕府が藩を救済しなくてはなりませんでした)。ゆえに年長者の意見はほどほどにしか扱われなかったのです。「隠居」というのが何を意味していたのかよくお調べになった方がよろしいかと思います。

    「狩猟社会では、狩りは毎回違います。同じところに同じ獲物が同じ数だけ待っている可能性は限りなくゼロに近い」そうです。だからこそ、古老の意見というものが重要になってくるのです。狩りにせよ災害にせよ様々なケースに対応してきた知識が応用できる場面が無数にあるのです。万年同じ事を繰り返す農耕のどこに古老の意見の出番があるでしょう。しかも既に述べた通り、切実に困った時には役に立たないのです。

    「従い、狩猟社会のリーダーはその能力が衰えれば次のリーダーにその役割を渡す事が集団全体(その衰えてきたリーダーにとってさえも)の利益をもたらします」違います。能力を何だと思ってらっしゃるのでしょうか。ボケたら役に立たないのは狩猟に限りません。ゆえに除外されます。ここで言われているのは体力でしょう。加えて狩りの実際をご存じないため、まるで見当違いのことを仰ってます。狩りのリーダーは体力勝負ではありません。確かに老人にはキツいでしょうが、農耕だって七十,八十になればできることは極端に限られてきます。狩りのリーダーは判断することが仕事です。その判断力を維持する体力がなくなった時点で引退するだけで、過去の豊富な事例知識は臨機応変に対応を迫られる狩猟においてこそ重要なのです。春に判断して結果が出るのは秋とかのロングスパンでは判断もへったくれもありません。結果の見当がつく段階になった時には手遅れです。

    もちろん狩りが終われば、次の狩りまでお休みです。体力を回復する余裕は充分にあるのです。これに対して農耕は年中働き通しです。縄文人に比べて弥生人は骨が太いという研究結果がありますが、農耕により労働が強化されたためであるとされています。体力リタイアは農耕の方が早いのです。

    「一番の年長者は尊敬はするものの、その年長者の意見で狩りが左右されることはなかなか無いはずです」→狩猟採集民族について調べたことがありませんね? 何より一番の年長者の意見をリーダーやボスは尊重します。自分にはない豊富な経験に裏打ちされた忠告は、狩りを成功させるのに重要な要素なのですよ。何せその年長者ですら判じかねて神にお伺いを立てることがままあったのですから。

    なお、全員一致の意見が尊重されるのは、狩猟採集、農耕に限らず、集団運営の基本です。これが尊重されなければ、そもそも多数決原理が破綻してしまいます。

    「イスラエルでは【10人の会議で9人の意見が一致したら、10人目は違う意見を言う事が義務付けられている。これを10人目の男という。】そうです」本当かなぁ。でもこれって多様性の原理を主張しているだけで、全員一致が悪いとは言ってないと思うけど。

    4)現代日本社会は農耕文化だけで良いでしょうか?

    非常に残念ですが、出発点を間違えているために、ことごとく的を外しています。欧米は狩猟民族ではありません。欧米こそ極めて農耕的なのです。だからこそ個人主義が根付くのも早かったし、組織分担というものにシビアなのです。逆に日本は極めて狩猟採集的です。【上司が来ているのに遅く出るのは非常にまずい】【上司が残っている間は帰りにくい】 【あいつがサボリ癖あるんで、頭に来る】 【年長の人に反対されると通せない】【全員一致の意見が尊重される】最後を除いてすべて狩猟採集民族が濃厚に持っている気質です。全員一致は狩猟採集民族、農耕民族、掠奪民族みなに共通する属性です。

    5)農耕は非常に重要です。

    確かに重要です。農耕民族が起こした工業という産業に狩猟採集民族的気質で適応してしまったがために、社会の各所で歪みが出ています。農耕民族的規範に従わないと社会が病んでしまうのです。その意味で、日本人は農耕民族的規範を身につけるべきで、特に政治家や官僚、経営者はそのような規範を自らに課し、進んで社会を引っ張らなくてはなりません。ブラック企業を放置していると労働市場が不健全化し、産業そのものが成り立ち行かなくなっていきます。

    ですが、私は日本人の狩猟採集民族的気質、つまり、空気を読んで交際を考える。集団内の視線に敏感で、周囲にきちんと配慮ができる。年長者を敬う。外来の者にも親切に接する。宗教に寛容である。そんな点が大好きです。それは美徳でもあります。どんな規範にも良い面悪い面が必ずあります。狩猟採集民族規範の良い面と農耕民族的規範の良い面のいいとこ取りができれば理想なのですが、さすがにそれは望みすぎでしょう。でもできるだけそういう良い面も残しつつ、しかしビジネスはドライに現実的に対応していきたいし、してもらいたいと思います。

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  • 日本の古代史を考える—⑲壬申の乱

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    さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも大海人皇子と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。

    一方の大海人皇子は複雑であったかも知れません。自分の祖国は「白村江の戦い」でぼろぼろになってしまいました。オオキミすら捕虜になったのです。オオキミが死んでいれば、皇太子—あるいはそれは大海人皇子自身だっかかも知れません—が跡を継いで国を復興すべく一丸となって努力することもできたでしょう。しかし、オオキミは生きて唐に連れ去られたままです。賠償も過酷なものが課されたでしょう。自らは避難してきた身です。身を寄せた国に貢献するのは当然として、祖国とは異なり、たちまち国力は充実し、今や彼我の差は逆転しているかも知れません。

    そんな日々を過ごす大海人皇子の元へ「倭國」のオオキミが帰還したという知らせが入ります。同時に朝廷にも知らせが行ったでしょう。帰国することを考えなかったはずはありません。しかし、今更帰ってどうするのか、オオキミが受難の間、難を避けるためとはいえ、逃げていた自分はどんな顔をして帰ることができるでしょう。そして「大皇弟」という尊称はあっても平和になり、落ち着いた大和朝廷では逆に浮いてしまったのではないでしょうか。帰るに帰れず、しかし今いるところも終の棲家とならざる様子にひとり懊悩したものと推察されます。

    両者沈思黙考の日々が続いたのでしょう。しかし周りは放っておいてはくれません。大友皇子の近臣は皇太子とはいえ、多大な実績のある大海人皇子を警戒しています。当然天智天皇大海人皇子を遠ざけるように進言したでしょう。一方の大海人皇子周辺も「日本國」が立ち直れたのは自分たちの貢献を大としていますから、そのような朝廷の空気に拒否感を持つものもいたと思われます。当然、実力で地位をもぎ取るべしと進言する者もいたでしょう。そうしているうちに、大友皇子派の豪族に押されたのか、天智天皇は、大友皇子を太政大臣に任命します。あるいは大友皇子が皇太子であればこの叙任はなかったかも知れません。いずれにせよ、大友皇子が執政権を一手に握ることを天智天皇が許したことになります。それは、婉曲に大海人皇子に手を引くことを求めたことになるのです。

    むろん、天智天皇が生きている間は、大過なく過ごすことができました。大友皇子にあっては父天皇ですし、大海人皇子にあっては避難してきた自分を受け入れてくれた恩人です。両者ともその顔を潰すことなどできませんでした。

    しかし、天智天皇10年(西暦672年)、天智天皇は崩御します。そして、当然大友皇子は即位したでしょう。

    日本書紀』は、天智天皇の死の間際、大海人皇子は出家して吉野に隠遁することを願って許されたと書いています。ただちに吉野へ赴き、出家入道して修行を重ねていたところ、近江の朝廷が大海人皇子を謀殺するという情報を掴んで挙兵したことになっていますが…ここが一番怪しいのです。大友皇子大海人皇子を謀殺する理由がありません。大人しく出家していてくれれば、自然に影響力も衰え、放っておいても脅威ではなくなるのです。

    もう当然だと思いますが、大海人皇子が自ら立って実力で大和朝廷を奪うことを決意したと私は考えます。大友皇子は余裕綽々ですが、大海人皇子の方は時間が経てば立つほど功績を忘れ去られ、異邦人として拠って立つ地もなく消えゆく運命です。大海人皇子は赤い旗を掲げたとされていますが、これは高祖劉邦に自らをなぞらえたのだとする説があります。高祖劉邦は、赤帝の子を自称し、赤い旗印を使い、一介の布衣から身を起こし、秦帝国を倒して、項羽との天下分け目の戦いに勝って、新たに王朝をひらき、漢帝国を建てました。その劉邦に自らをなぞらえたということは、大海人皇子大和朝廷とは関係のない人であったことを示します。そして、即位の際には新たに王朝を開くことを宣言したと言いますから、天智天皇と同母の兄弟であったというのは、後世の粉飾であることがわかります。これには傍証があり、『新唐書』東夷伝日本条に永徽初めのこととして、「天智死子天武立」「天智死して子の天武立つ」とあります。唐に献上されていた史書では、そのように書かれていたのでしょう。続柄が変わると言うことは、粉飾であることの証左です(この一文、2013年6月22日に追記)。閑話休題。

    白村江の戦い」で大敗してもなお「大倭國」の残照は余命を保っていました。美濃やほかの東国諸国から援軍を得ることができたのはそのおかげでしょう。大和の地で大伴吹負が挙兵したり、河内国守来目塩籠が近江朝廷に背いたのは、大海人皇子の器量を見込んだところが大でしょう。近江羽田矢国が寝返ったのも、大海人皇子の挙兵に狼狽える近江王朝を見限ったからだと思います。こうして、大海人皇子の挙兵は成功し、近江朝廷は滅びました。大海人皇子はしばらく美濃で戦後処理にあたっていましたが、それを終えると飛鳥の地に入り、即位しました。しかし天武天皇は、天智天皇の恩を忘れたわけではありませんでした。弘文天皇は死んでも、他にも天智天皇の皇子は生きていたのです。彼らとともに「吉野の盟約」を結び、今後は一致団結することを子供らに誓わせています。

    さて、世に言う「壬申の乱」が終結した後、私は天武天皇が一族を「倭國」から呼び寄せたと考えています。それは、

    • 天武天皇の政治は「皇親政治」と呼ばれていますが、それは大和朝廷の皇族だけでなく、自分の一族を使ったと思われること。
      地着きの豪族は無理ですが、王子や王都の官僚たちなら移動が不可能ではありません。また大和朝廷の皇族は豪族の合議による政治に慣れていましたから、「皇親政治」の即戦力になったとは思えません。
    • 「倭國」で重要だったと思われる施設が、大和の地へ移築されていること。
      移住に当たって貴重品を持参するのは当然ですが、持ち運べない建物のようなものでも、移築が可能なら、その方が手間がありませんし、目に馴染んだものの方が喜ばれたでしょう。その代表が法隆寺だと言う人がいます。え? じゃあ山背大兄王が立てこもったのはどこになるのよ? と言う人もいるでしょうが、それが若草伽藍として残っているんじゃないでしょうか。『日本書紀』は天智天皇の9年(西暦670年)に「夏四月癸卯朔壬申夜半之後災法隆寺一屋無餘」と一切合切が焼失したと伝えていますが、釈迦三尊像とか薬師如来像は明らかに火災の影響を受けていません。どうやって火事の中運び出したんでしょう。謎ですね。それはともかく、逆に「日本國」が「」と手を組んで、掠奪したのだという人がいますが、持ち運びのできる金銀財宝はともかく、建物などを移してどうしようというのでしょう。むしろ、移住にあたり、故地を偲ぶ気持ちを慰めるため、自分たちで運んでいったという方がよほど筋が通ります。
    • 「倭國」が『舊唐書』より後の中国の正史に全く現れなくなり、国としては滅びたと思われること。

    によります。言葉を変えると、「倭國」による「日本國」乗っ取りです。別の言い方をすれば、「日本國」が「倭國」を併呑させられたことになります。もっと別の言い方をすれば、「倭國」による「日本國」の簒奪という言葉も使えます。天網恢々疎にして漏らさず。継体天皇はあの世で歯がみして悔しがったでしょう。

    ところで、天武天皇は非常に不思議な天皇で、

    • それまで当然であった豪族たちによる政治を排除して、「皇親政治」という皇族だけで執り行う政治を実施した。
      専制的とまではいかないにしても、権力をトップに集中させて、官僚を手足のように使う政治に慣れていた様子が覗えます。それは「倭國」で行われていた政治形態をそのまま持ってきたものでしょう。
    • 律令制を指向している。
      以前から中国では律令が施行されていたのですが、天武天皇まで大和朝廷がそれを取り入れようとした気配がありません。
    • 冠を被ることを強制している。
      それまでの髪型は角髪といって冠を被るのに適していませんでした。これを改めさせています。冠を被るのは元々中国の風習でした。それを取り入れた「倭國」の習俗に慣れていた大海人皇子には、官人や貴族が冠を被らないことに違和感を感じていたのでしょう。
    • 官人に武装させている。
      中国では官人であっても普通に武装していました。皇帝の御前など特別な場では武装を解除されましたが。なので、中国の制度を導入した「倭國」出身の大海人皇子にとって官人が武装していることは当然だったのです。天武天皇までは大和朝廷の官人が武装することはありませんでした。実は天武天皇以降も官人に武装させることはなかったのです。律令が制定され、軍団制が施行されたからだと言う人もいますが。
    • 恒久的な都を建設することを考えていた。
      「倭國」の首都「太宰府」は長安をモデルとした恒久都市でした。自分の代で「日本國」が「倭國」を併せた以上、当然恒久的な都を築くべきだと考えたのです。
    • 複都制を指向した。
      難波宮の跡地に難波京を置いています。これも中国周代からある複都制を模倣したものです。
    • 史書の編纂を発起した。
      古事記』『日本書紀』は共に天武天皇の発起によるとされています。中国では、前の王朝の歴史を、跡を継いだ王朝が書く伝統ができていました。しかしそれ以前の大和朝廷ではそんな建議すらありませんでした。
    • 五節の舞新嘗祭大嘗祭など主要な宮廷儀式を集大成した。
      おそらく、それまで「倭國」で行われていた儀式を移したのでしょう。
    • 国家神道を形成した。
      天照大神を祖神とする神々の系譜は、「倭國」で伝えられていたものが「日本國」へ移されたものと考えられます。伊勢神宮天照大神が祭られたのもおそらく、天武天皇の頃からでしょう。「倭國」は天つ神を信仰していたと考えられ、太宰府天満宮で「天神」そのものを祭っていたと思われます。天照大神は元男神だったのが大和へ移されるとき、大和朝廷がそれまで信仰していた祖神が女神だったため、性別を変更されたと考えられます。
    • 仏教を手厚く保護した。
      「倭國」はまた「多利思北孤」以来仏教を熱心に信仰し、保護していました。大海人皇子ももちろんそれに感化されていたでしょう。天武天皇以前に仏教を積極的に保護した天皇はいません。
    • 新羅と手を結んだ
      天武天皇は、遣唐使を一回も派遣していません。祖国を滅ぼされたのですから当然ですが。しかし、敵の敵は味方の俗諺通り、新羅とは通交し、遣新羅使も頻繁に送っています。この方針は文武天皇が即位するまで堅持されます。

    とこれだけ独特なことをしています。それまでの天皇観を破壊するがごときです。しかし、見方を変えれば、「倭國」で実際に行われていたことを移しただけであり、天武天皇自身は、特別なことをしているとは思ってもいなかったでしょう。

    「倭國」は消え去りましたが、なくなってしまったわけではありません。日本の中に溶け込んで今もその血を伝えているのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

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    蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされていますが、百済系の渡来人とする説もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうが、たった四代で成り上がった新興豪族なのは間違いありません。

    蘇我稲目大臣になったのは、宣化天皇の元年です。宣化天皇継体天皇の皇子です。このことから、継体の大和入りを支援した畿外豪族だったという人もいます。それはともかく、この稲目という人は崇仏派で、物部氏中臣氏らの排仏派と衝突したと伝えられています。古代の人々の宗教に懸ける情熱は現代人の想像を超えたところにあります。同時にそれは国家をどうまとめていくのかという統治論でもあったのです。

    しかし統治論は所詮という言い方では語弊があるかも知れませんが、方法論にすぎません。それで一触即発の事態に陥るでしょうか。継体天皇による九州王朝の簒奪の失敗からまだ時間は経っていません。むしろ、継体に従い大和に入った蘇我氏の長である稲目継体以来の倭國との対立=冷戦路線を主張する一方で、物部氏中臣氏はかつてあった友邦国として交流を復活させる宥和路線を主張したのではないかと考えます。これは国の存亡に関わる政治問題です。倭國の出方次第では、対立を続ければ攻め込まれる恐れがあり、一方で宥和路線を敷けば下手を打つと倭國の属国になってしまうという、極めてシビアな判断が求められる場面であり、国家の安危が関わるのですから、激論になったでしょう。しかしここで宥和路線を取るなら、継体天皇の業績が全くの無駄になってしまいます。継体によって引き立てられたと思しき蘇我氏にとって、それは氏族の否定に等しい暴論でした。国家の安危に加え、自分たちの氏族の安危がかかっているのですから、相手を謀殺してでも方針を固めたいと考えたのではないでしょうか。

    しかし、この時は欽明天皇の取りなしもあっていったんは収まります。おそらく、表向きは対立=冷戦路線を続けながら、裏で交渉の糸口を探るよう裁定が下ったのでしょう。

    次の代になり、蘇我馬子稲目の跡を継いで、対立=冷戦路線を続けます。物部守屋宥和路線です。この対立は妥協点を見いだすことができず、これに皇位継承問題がからんで、遂に戦争になってしてしまいました。おそらく、物部氏中臣氏の交渉が実り、宥和路線に手応えを感じていたのでしょう。物部守屋は一歩も引きませんでした。対する馬子も引けません。その結果は蘇我氏の勝ち。つまり、対立=冷戦路線が改めて規定方針となったのです。

    さて、蘇我氏が勝ったことで、蘇我氏側についた泊瀬部皇子は即位して崇峻天皇となります。ところが、本音は宥和派だったのか、あるいは蘇我氏の勢力が強大で恣に政治ができないことを密かに憎んで宥和派を取り立てたのかわかりませんが、馬子の逆鱗に触れることをやらかします。『日本書紀』崇峻紀によると、崇峻天皇四年に、「冬十一月己卯朔壬午、差紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴囓連、葛城烏奈良臣、爲大將軍。率氏々臣連、爲裨將部隊、領二萬餘軍、出居筑紫。遣吉士金於新羅、遣吉士木蓮子於任那、問任那事」「(崇峻天皇の四年(西暦591年))冬十一月、紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍に任命した。臣、連それぞれは氏族を率いて副将や部隊とし、全部で二万人余りの軍となり、出陣して筑紫に下った。吉士金を新羅に遣わし、吉士木蓮子を任那に遣わして、任那のことを問うた」とあります。皆まで言う必要はありません。いきなり「倭國」と手を組んで軍を出してしまったのです。まさかの宥和派大勝利。馬子の面子丸つぶれです。激怒しない方がおかしいでしょう。しかしことは国の安全保障です。物部守屋らの打った手が正しかったわけですから、ぐっとこらえたでしょう。ところがその翌年冬十月、猪を狩って献上した人がいたのですが、その頭を落とされた猪を指さして「何時如斷此猪之頸、斷朕所嫌之人」「何時になったら、この猪の頭のように朕の嫌いな奴の頭を落とせるものやら」と暗に馬子を始末してやると宣う始末。まさか大王に手出しはできまいという油断があったのか、馬子を舐めていたのかわかりませんが、ここまで虚仮にされて黙っている馬子ではありません。また、放置すれば、自分ばかりでなく、蘇我氏という氏族そのものが族滅させられることは火を見るより明らかです。同じ年の十一月、馬子の配下、東漢直駒崇峻天皇は殺されてしまいます。こうして史上唯一、臣下に弑された天皇が生まれたわけです。(この項、2013年6月17日に追記)

    馬子の嫡男、蝦夷も父の敷いた対立=冷戦路線を守りました。だから、甘樫岡に天皇の宮を中心とした防衛施設を建設したのです。それは継体天皇の怨念と言ってもよいかもしれません。しかしそれではいつか、強大な「倭國」に蹂躙されることになるのではないか。ことにいったん手を取りながらまたその手を振り払ったのですから、その懸念は一層深まります。蘇我氏を憚り、表だった動きは見せませんでしたが、宥和派は、裏で連絡をとりあい対応を協議したでしょう。「倭國」も宥和派が主流になってくれた方が、いつ叛くか分からない対立=冷戦派よりましでしょうから、敢えて旧悪に囚われず、謀略の手を伸ばしたと思われます。

    蘇我氏は強大です。これに戦争をしかけるのは無謀というものです。したがって、現職の大臣であり、蘇我氏宗家の嫡男である蘇我入鹿を暗殺し、クーデターを起こすことを計画したのです。だから、中臣鎌足がここで登場するわけです。中臣氏物部氏と並んで宥和派でした。しかし、臣下で争っていても頭に頂く皇族がいなければ大義名分が立ちません。最初は軽皇子に目を付けましたが、その器なしとして見放し、次に中大兄皇子に目を付けました。『日本書紀』では二人で計画を練ったとありますが、暗殺によるクーデターとはいえ、その後豪族たちの支持がなければ、ただの殺人事件で終わってしまいます。宥和派による支持が既にあったと見てよいでしょう。

    そして「乙巳の変」が起きます。皇極天皇の四年(西暦645年)朝鮮三国の親善使節を受け入れる儀式があり、これに大臣である入鹿は出御しないわけにはいきません。そこを狙われ、非命に倒れました。入鹿は「私に何の罪があったというのだ。(この者たちを)お裁き下さい」と天皇に直訴したと言われています。しかしそれも虚しく、入鹿は殺されてしまったのです。これを聞いた蝦夷は、国のためと推進してきた倭國との対立=冷戦路線蘇我氏を太らせてきたとともに、諸豪族の不満をここまで募らせてきたのだと思い、その反発のすさまじさを感じて従容として死についたものと思われます。

    この入鹿の悲痛な叫びは決して専横をこととし、上宮王家を私怨で討ち滅ぼした人物の口から出てくる類のものではありません。

    しかし、変は成りました。中大兄皇子はこの時19歳。平安の頃ならともかく、当時は即位に難のある年でした。そこで軽皇子を立てたのです。

    その孝徳天皇は難波に出て、難波宮を営みました。奈良の山のから開けた海辺に出てきたのです。その理由は、これから倭國と宥和路線で接していくその第一段階の表明でありました。聖徳太子の前例にちなんで、皇太子が摂政をする体制を取り、実際の政務は皇太子に立てられた中大兄皇子が見ました。彼は倭國との関係改善に熱心に取り組んだでしょう。またこの路線に不満があると見られた皇族、有間皇子をためらうことなく謀殺しました。

    ここで中大兄皇子に天佑が下ります。西暦660年の百済の滅亡です。危機を憶えた倭國は旧悪などふっとんでしまい、日本國との関係を改善し、できれば同盟を結ぶことを考慮したでしょう。いや、同盟したと言ってよいと思います。なぜなら、倭が発出する軍に日本國からも軍を出したと見られるからです。宥和路線が完全に成功したのです。

    ところが、そうして軍を送り出してはみたものの、結果は大惨敗で、倭國は王(『日本書紀』で筑紫君薩夜麻と記されている人物)が連れ去られ、亡国となります。中大兄皇子にとっても驚天動地のできごとだったでしょう。「白村江の戦い」は、よく言われるように倭・百済連合軍が衆において負けていたわけではなく、むしろ新羅軍より大軍を繰り出したことがわかっています。それで大敗北を喫しているのですから、群臣の受けた衝撃もひとかたならぬものがあったはずです。中大兄皇子らが進めてきた宥和路線が意外な形で「日本國」に悪影響を及ぼすことになったわけのです。これは中大兄皇子の求心力を大きく低下させたでしょう。

    一方、いち早く敗報を耳にし、王が捕虜となったことを知った倭國は、ただちに皇子たちに伴をつけて避難させたと思われます。もちろん他にも避難した人は大勢居たでしょう。四国、吉備などに留まった人もいたでしょうが、身分のある人は同盟国「日本國」を頼ったと思われます。その避難した皇子の一人こそ、大海人皇子ではなかったでしょうか。大海人皇子の海人は「阿海」=「」で、それに「大」が付された名前です。九州王朝の正統後継者であることを示す、立派な名前であることがわかります。中大兄皇子も「大皇弟」という尊称を奉り、迎え入れることに何ら異議はなかったと思われます。そしてまさにこの後から大海人皇子が「大皇弟」として『日本書紀』に姿を見せるのです。

    大海人皇子、天武天皇は、生年が『日本書紀』に記されていません。他に記されていないのは、崇峻天皇だけです。崇峻天皇はともかく、「壬申の乱」を経て「皇親政治」で強権を発揮し、日本の律令制の土台を造った人で、なおかつ崩御してから『日本書紀』編纂までそれほど時間が経っていない人物の生年を書き忘れることなどありえるでしょうか。『日本書紀』は天武天皇に特別に二巻を費やしているにも関わらず。そういう不審の目で見ると、この人は『日本書紀』において、『天武天皇』紀以外で名前が出てこないことに気付きます。これだけ偉大な帝王の若年の際の事績が不明というのがいかに奇異なことであるかおわかり頂けるでしょうか。しかも一説には天智天皇より年長だったとあり、まさに謎の人物なのです。

    天武天皇らしき人は、『天智天皇』巻において、前振りもなく突然、大皇弟、東宮大皇弟として登場します。が、最期まで名前は書かれません。あるいは大海人皇子とは後に自称した名前でこの頃は別の名前だったのかも知れません。また、いつ立太子したのかも書かれていません。出自が「倭國」の皇子なら、「日本國」である大和朝廷の皇室関係の記録に生年月日が記されていなくても当たり前です。「倭國」から避難してきたのなら、大和朝廷で立太子の儀式などするはずもありません。

    つまり、それもこれも「倭國」の亡命皇子であったためです。中大兄皇子は当然、これを歓迎したと思われます。期せずして正統王朝の跡継ぎが転がり込んできたのです。中大兄皇子はこの皇子に非常に気を遣い、「大皇弟」という尊称を奉っただけでなく、娘を四人も娶せています。同母の弟であれば歳が離れていたとしてもこんな気の遣い方はしません。他人であるからこそ婚姻でその紐帯を緊密にする必要があったのです。しかも、いずれ子が産まれれば、名実共に正統王朝の血が大和朝廷に入ることになるのであり、それも歓迎すべきことです。一方大海人皇子も、身一つで逃げてきたのではないであろうにしろ、そこまで厚遇してくれる中大兄皇子に感謝したことでしょう。加えて、皇子やその取り巻きは「倭國」の先進的な政治形態や軍備の知識がありました。「白村江の戦い」で惨敗を喫した日本には課題が山積していました。倭國は滅亡していないものの、王が不在では滅んだも同然です。これまで対外交渉は「倭國」が中心となっていましたが、今後は独立してやらねばなりません。

    その布石としてただちに遣唐使を派遣しています。もちろんこれは「日本國」にやってきた唐使を送り返す便だったのですが、唐使に対して弁解これ勉めたでしょう。おそらくその甲斐あって、「日本國」にはさしたる咎もありませんでした。

    とはいえ、「乙巳の変」を起こしてまで推進した宥和路線で、とんでもない国難が降ってきたわけで、中大兄皇子の即位は当分群臣の支持を得られない情勢だったと思います。実際、斉明天皇亡き後、相当の期間を称制でしのいだのですから、抵抗が極めて強かったのでしょう。かといってこの国難に当たって他に皇位に就くべき皇子は他におらず、称制を続けるしかなかったのです。そこで、大海人皇子は厚遇に応えるため、離反しがちな豪族たち、特に地方の豪族に思い止まるよう説得に勉めたものと思われます。「大倭國」皇子の看板が効いたことは疑いありません。

    さらに、大海人皇子とその取り巻きの意見は、さすが先進国「倭國」と唸らせる施策も多かったのでしょう。そしてもはや海沿いに都するのは却って危険であり、内陸に下がるべきだと言ったのではないでしょうか。ところがここに障害が発生します。孝徳天皇その人が宮を移すことに反対したのです。なぜでしょうか。それは天皇と言っても名ばかりで中大兄皇子が諸事専断していたことに対する不満が爆発したのでしょうか。あるいは存在感を増す「倭國」皇子大海人皇子に危機感を抱いたのでしょうか。今となってはわかりません。中大兄皇子はそんな天皇を放置して、皇后、皇子たち、大皇弟や群臣を引き連れて西暦653年、近江宮へ移ってしまいました。

    中大兄皇子は、大海人皇子らの建言を受け入れ、飛鳥を中心に西国へ防衛網を構築していきます。「倭國」にも改めて防衛施設の建設が提起されたことでしょう。水城の造築はこの頃のこととされています。こうした大建築事業は従来の豪族任せのやり方では実現不可能です。各地から直接税を収拾し、その莫大な支出に当てなければとても間に合うものではありません。実際、税の徴収を示すものと思われる木簡はこの頃から出土し始めます。

    西暦668年、長年の称制に終止符を打ち、中大兄皇子は即位して、天智天皇となります。なぜこの年なのでしょうか。この年、第六次の遣唐使がありました。実際にはへ行っていないとも言われていますが、その前の遣唐使で来日したの使者、法聡がこれで帰国しています。この遣使は、送唐客使だったのです。つまり、「白村江の戦い」の事後処理について、漸く決着がつき、安堵することができたからだと思われます。そして周囲もそれを認めたので即位となったのでしょう。

    つまり、世に言う「大化の改新」はなかったにしても、継体天皇以来対立=冷戦路線を取っていた「日本國」が宥和路線に転換した画期、という意味では「改新」であったのです。

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  • 日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

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    漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

    1. 縄文時代晩期には、既に宗族=國といってよい規模の集団が複数存在していたのではないか。

      根拠は、『漢書』地理志である。今更くだくだしい説明は不要であろう。

    2. の使節は朝鮮半島内で陸路を取ったのではないか。

      魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
    3. 倭國(倭奴國)は九州にあったのではないか。

      • 後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
      • 魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
      • 魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
      • 隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
      • やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
      • 舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。
    4. 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。

      • 魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
      • 隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
      • 舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
      • 魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である。
    5. 宋書』夷蠻伝倭國条に名前が出る「倭王武」を雄略天皇に比定する根拠は何か。

      「武」と「ワカタケル」の語感が似ているからなどというのは論外だが、根拠は何だろうか。

      • 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘には「獲□□□鹵大王世」と欠字があって何と言う大王だったか不明である。
      • 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘には「獲加多支鹵大王」とあるが、これを「ワカタケル」と読むのは何故か。
      • 仮に両者とも「ワカタケル大王」だとしてこれが雄略天皇であるという科学的な根拠は何か。
    6. 隋書』東夷伝俀国条で名前が出るオオキミ「多利思比孤」を聖徳太子に比定する根拠は何か。

      聖徳太子の逸話はすべて『日本書紀』から出ており、これほど重要な人物であるにも関わらず『古事記』では触れられていない。

      • 「多利思比孤」はオオキミを号していたとあるが、聖徳太子は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいる。
      • 裴世清は「多利思比孤」に実際に会っており、遣隋使の使者のごまかしでないことは明らかである。
      • 聖徳太子には「多利思比孤」に類似する別名がない。
    7. 太宰府」はいつ誰の指示によって造営されたのか。

      「遠の朝廷」と呼ばれ、殷賑を極めた都会であったことがわかっているのに、それがいつ誰の指示で造営されたか記録がない。

      • Ⅰ期の遺構は、白村江の戦いの後、天智天皇が「那津官家」を移したものとされているが、天智天皇が「那津官家」を移したという記録を基にⅠ期遺構の造営時期を決定しているだけで、まるで科学的根拠がない。『記紀』にも大規模な造営があったとは記録されていない。造営時期の比定が無茶苦茶である。
      • Ⅱ期の造営時期については、歴史学者の単なる妄想を述べているに過ぎない。律令制度上の要請があり、大改築を行ったのなら、正史に記録が残って当然であるのに、その事実を無視している。
      • Ⅱ期の遺構により、条坊制を採用していたことが明らかであり、あるいは長安が直接的なモデルになったことは明らかである。
      • 太宰府天満宮は非常に大規模な大社だが、菅原道真を祭る前は何の神を祭っていたか記録がない。
      • 鴻臚館が置かれ、古くから外交の根拠地となっていたが、それならなぜもっと便のよい海岸よりに造営しなかったのか。元は海岸沿いにあったという人もいるが、それならなぜ「白村江の戦い」で大敗した後に移転したのか。現に二年後にはから使者を迎え、遣唐使を派遣している。とてもそんな緊張があったとは考えられない。

    まだ他にも細かく詮索したいところはあるのだが、少なくともこれらの疑問は、日本の古代史を勉強する上で、放置しておいて良い問題ではないと考える。

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  • 日本の古代史を考える—⑫舊唐書東夷伝倭国条・日本國条

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    」の後は「」ということで、「」の歴史書での倭国、日本を見ていくわけですが、『唐書』と呼ばれる書物は二種類あります。ひとつは、五代十国時代に「後晋」で編纂された『唐書』です。西暦945年に完成しています。ただ、その翌年に「後晋」が滅んでしまっていることで察することができるように、国自体が安定しておらず、編纂責任者も途中で交代していたりいます。そのため錯誤や遺漏が多く、記事も初唐の頃に偏っており晩唐の頃の物がほとんどないなど、後世の評判は良くありませんでした。そこで、北宋(こちらは、平清盛日宋貿易を行った、あのです)の時代になってから、欧陽脩らによって新しい『唐書』が編まれ、西暦1060年に仁宗に献上されました。そこで古い方の『唐書』を『舊唐書』あるいは『旧唐書』、新しい『唐書』を『新唐書』あるいは単に『唐書』と呼びます。新しいものができているなら、古い『舊唐書』は無視して良いかというと、実は作りが雑だということは、生の資料がそのまま引き写しされているという利点があるということでもあり、決して資料価値が低いわけではありません。

    ということで、『舊唐書』を見ていくのですが、その東夷伝には、倭国の条と日本の条があります。さてさて、どういうことでしょうか。

    ■倭国条

    倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通

    倭國は、昔の倭奴國である。京師(長安)を離れること一万四千里の彼方にある。新羅の東南の大海の中にあり、山島によって国をなしている。東の端から西の端まで五ヶ月かかる。北の端から南の端まで三ヶ月かかる。代々中国に朝貢してきた。

    「漢倭委奴国王」の金印でお馴染みの「倭奴国」が、倭国の旧名であると述べられています。全く誤解しようがありません。歴史学者や考古学者は何を見てるんでしょうね?『魏志倭人伝』において「楽浪郡」から一万二千里でしたから、長安から楽浪郡までの距離、二千里を足して、一万四千里としたようです。そして『舊唐書』が撰進された頃には、朝鮮半島は「新羅」によって統一されていましたので、「新羅東南大海中」となっているわけです。「東西五月行南北三月行」とあるのは『隋書』から引用したかまたは『隋書』が参照したのと同じ資料によったのでしょう。倭国がかなり広大な領域に広がっていたことがわかります。

    其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉

    その国には城郭がなく、木を以て柵としている。草を使って家を作っている。四方に小島が五十国あまりある。皆、倭国の属国である。

    何度も出てきているので、目に馴染んだ表現かも知れませんが、中国の街は城郭都市といって、必ず長大な防壁で囲まれています。壁と言っても人がやすやすと乗り越えられるようなものではありません。上から大声で怒鳴っても下に居る人に聞こえないくらい高いものもありましたから、落ちたら大けがをするか下手をすると死にます。日本の街にはそういう防壁がないことを言っています。そりゃ海辺であったり山間であったりするところをそんな防壁で囲んでも労力の無駄だからやらなかっただけだと思いますが。平野部にあった街にはおそらく濠が掘られていたと思われます。「以草爲屋」とあるのに注意して下さい。この時代になっても庶民は竪穴式住居に住んでいたことを考えれば、確かに「草」を使って家を作っていたことが理解できます。また、ここでも重要な記述が出てきます。「四面小島五十餘國」に該当するところといえばどこでしょう。実は、四面が海に囲まれているのは北海道、四国、九州です。そのうち、四方に小島が五十あまりという条件を満たすのは、九州だけなのです。

    其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯婦人衣純色長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅

    その王の姓は阿毎(あま)氏である。一大率を置き、諸国を検察している。皆これを畏怖している。官位があり十二の位階に別れている。訴えがある者は、這いつくばって前に進む。その地は男が少なく、女が多い。漢字がかなり通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

    「其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地」は『隋書』の要約か、『隋書』が参照した資料と同じ資料を見てそれを要約して書いたかいずれかでしょう。そしてまたしても「多女少男」です。もう本当にそうだったんじゃないかと思えてくるくらいしつこく書かれています。『隋書』では「佛經始有文字」であったのですが、あっと言う間に広まったのでしょうか。現代的な感覚で「頗有文字」を理解するととんだ誤解になりそうです。官吏でもないのに文字を解するものが多いという意味に取らなくてはならないでしょう。「俗敬佛法」とあるからには、仏教が瞬く間に広がった様子がわかります。「貴人戴錦帽」とありますが、ただ冠というと唐制の冠になってしまうので、違いを際立たせるために敢えて「帽」と述べているのだと思われます。

    貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史髙表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還

    貞観五年(西暦631年)、倭国は使いを遣わして来て、様々な産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、朝命を伝えずに帰国した。

    さて、『隋書』において「多利思北孤」は礼儀を知らずと謙遜していましたが、この頃には王子が礼について揉め事を起こせるくらいには、理解が深まっていたようです。「高表仁」は融通の利かない人だったのでしょう。蛮夷の無礼などある程度は大目に見るべきなのに朝命を果たさず帰るとは何事か。と叱っているかのような文章です。

    至二十二年又附新羅奉表以通起居

    貞観二十二年(西暦648年)になって再び、倭国王は新羅の遣唐使に上表文をことづけて皇帝へ安否を伺うあいさつをしてきた。

    東夷伝倭国条ではここで終わりですが、高宗本紀に倭の記事があります。

    永徽五年十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙

    永徽五年(西暦654年)十二月癸丑の日に、倭国が琥珀と瑪瑙を献上した。

    白雉五年(西暦654年)に派出された第三次遣唐使が対応していますが、「倭国」とあるのに注意が必要です。「日本」の遣使ではなかったのです。おそらく唐の情勢を把握するために送られたのでしょう。

    国際情勢は徐々に緊迫の度を増しています。新羅に上表文を託しただけで朝貢しなかったのは、貞観十八年(西暦644年)に高句麗討伐が行われたことを受け、倭の対外政策が揺れ動いていたからでしょう。高句麗という重しがなくなれば、朝鮮半島の情勢はどう動くかわかりません。また、結果的に失敗に終わったとは言え、唐がそれで諦めるとも思えません。その懸念は、西暦660年に百済の滅亡という形で現実化します。そして西暦663年、倭は百済遺民と連合し、白村江新羅連合軍と戦い、これに大敗北を喫します。倭はこの痛手から立ち直れず、以後、中国の歴史から、もちろん日本の歴史からも姿を消します。

    ■日本國条

    日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地

    日本国は倭国の別の種族である。その国が日の上る方にあるため、日本という名前にした。あるいは、倭国がその名前が雅やかではないことを嫌って、日本と改めたとも伝える。あるいは、日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合したとも伝える。

    のっけからいきなり「日本國者倭國之別種也」と倭と日本は別の国だと述べています。そして、「日本」という名称の由来について他に二説あげています。ひとつは「倭が卑語なので、日本に改名した」という改名説。もうひとつが「日本国が倭国を併呑した」という併呑説。さて、どれが正しいでしょうか。『舊唐書』の編纂者は、もちろん、別種の国だという認識でした。正解は、「全部正しい」です。なぜなら、これはすべて「日本」の使者に尋ねて得られた回答だからです。

    其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉

    その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、質問に誠実に答えない。それで中国ではこれを疑った。

    明らかに「倭」の使者とは態度が違います。それは「倭」を併呑して大国になったという気宇が滲み出たのか、あるいは別に理由があるのか。自分たちは「倭国」に属するが「倭奴国」とは別の国の者だと言ってみたり、「倭国」のものだが、名前がよくないから「日本」改称したのだと主張してみたり、あるいは「日本」は「倭」を併呑したのだと言ってみたり、その主張が首尾一貫せず、「倭奴国」の者とも見なせないが、かといって「倭」と無関係でもなさそうだという不審の目を向けられていたのがよくわかります。あるいは不当な簒奪者と見られていたのかも知れません。それが『日本書紀』編纂の動機のひとつとなったのではないでしょうか。

    又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國

    また、彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言った。

    「又云」は前の文を受けて述べているわけだから、もちろんこの発言も疑われています。ところで、東の境にあるという大山は、「富士山」かなとも思いますが、北の境の大山とはどの山でしょうか。七世紀頃の毛人(蝦夷)は宮城県中部から山形県以北に住んでいたとされています。あるいは古墳の分布を王権の証とする現代考古学の思い込みがそう見せているだけで、毛人(蝦夷)はもっと南や西までいたのではないでしょうか。

    長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史觧屬文容止温雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國

    長安三年(西暦703年)、日本の大臣、粟田朝臣真人が来朝して様々な産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶっており、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。真人経書や史書を読むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

    粟田朝臣真人」が大使となったのは、第八次遣唐使。進徳冠とは、唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついているもので、昭陵博物館のホームページに出土品の写真が掲載されています。これを見ると、俀国の冠が「帽」とされていたのに対し、随分と異なることがわかります。確かにこれは「冠」です。この頃、「大宝律令」が施行されましたから、粟田真人が「紫袍」を着ているのは不思議ではありませんが、唐の朝廷に対する配慮に欠けていたと言わざるを得ません。唐では紫は天子にだけ許された色だったからです。おそらく、蛮夷のことだから大目に見ようという空気と、その挙措が温雅で文章を解したから見逃されたのでしょう。そして多分、ハンサムだったはずです。則天武后が宴に招いて(名誉職とはいえ)官位を授けたのはよほど気に入ったからです。

    さて、『舊唐書』ではこの年の遣使が初めてですが、貞観五年(西暦631年)の遣唐使はともかく、第二次の遣唐使(白雉四年=西暦653年派出)の様子が『新唐書』に「獻虎魄大如斗碼碯若五升器」と記載されています。その次は、また『新唐書』に天智天皇が即位した次の年に遣唐使があったと記されていますが、『日本書紀』では斉明天皇の五年(西暦659年)となっています。これが第四次の遣唐使ですが、その翌年に百済が滅ぼされているのに、同盟国の危機を放って何をしに行ったのでしょうね?『新唐書』にはさらに、咸亨元年(西暦670年)に高句麗を滅ぼしたことを祝賀する使者が来たと書かれているのですが、これが『日本書紀』では「天智八年(西暦669年)」に派遣した第七次の遣唐使となっています。『日本書紀』によると、第五次(天智四年=西暦665年)と第六次(天智六年=西暦667年)の遣唐使があったことになっていますが、『舊唐書』にも『新唐書』にもその記載がありません。この二回の遣唐使は、送唐客使でもあり、唐から来日した使者を送り届ける役目を持っていました。使者が来るくらいですから、重要な政治課題があったはずです。第五次の遣唐使は「白村江の戦い」の余塵消えやらぬ時期であり、第六次もさらにその二年後でしかありません。この使者の往来を伴う二回の遣唐使が、「白村江の戦い」の戦後処理のためであることは明らかです。しかし別段、天智天皇がそれで何か叱責されたとか、責任を追及されたというような雰囲気ではありません。怪しげな政治取引の臭いがするのですが、いかがでしょうか。近畿天皇王朝=大和朝廷は百済と同盟しておらず、倭が「白村江の戦い」で大打撃を受けるのを横目で見ていたのではないでしょうか。この時期の『日本書紀』には明らかに粉飾やごまかしがあります。何かあったのは確かなようです。

    開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助敎趙玄黙就鴻臚寺敎之乃遣玄黙闊幅布以爲束修之禮

    開元の初め頃、また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。

    養老元年(西暦717年)に派出された第九次遣唐使のことだと思われます。儒学を教授されたのは「吉備真備」ではないかと推測しています。あるいは「阿倍仲麻呂」や「井真成」も一緒に学んだかも知れません。

    題云白龜元年調布人亦疑其僞

    その布には「白龜元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

    また疑われています。確かに「白龜」という元号は存在しません。『日本書紀』は天皇の万世一系を無理矢理説明するために、かなりのでっち上げをやった上に、不都合な情報を改削した疑いがありますから、倭の弱体化につけこんで、私年号を使っていたのかも知れません。

    此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去

    この貢ぎ物(白龜元年の調布)で得た下賜品を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。その副使の阿倍朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡と改めて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第十二王子)の学友となった。朝衡京師(長安)に 50 年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

    「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」で有名な阿倍仲麻呂(中国名朝衡)の逸話です。実は第十二次遣唐使が来朝した時(大使は、藤原清河)、一度は帰国を試みたのですが(王維が別離の詩を送っていますから事実でしょう)、仲麻呂や清河らが乗った第一船はあえなく難破。安南驩州に流れ着きました。結局、仲麻呂一行は天平勝宝七年(西暦755年)に長安へ帰着しています。ところが、この年に安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来したのですが、唐朝は行路が危険である事を理由に仲麻呂清河らの帰国を認めなかったのです。仲麻呂はその後もで昇進を続け、潞州大都督(従二品)を贈られています。

    天寶十二年又遣使貢

    天寶十二年(西暦753年)にまた使いを遣わし朝貢してきた。

    天平勝宝四年(西暦752年)派出の第十二次遣唐使です。大使は、藤原清河。副使は、吉備真備大伴古麻呂です。この時に高僧鑑真を日本に連れ帰ったことは有名です。

    上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護

    上元年間(西暦760年~西暦762年)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

    阿倍仲麻呂の出世の様子が語られています。『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡の二人のみ」と故郷では賞賛されています。

    貞元二十年遣使來朝留学學生橘免勢學問僧空海

    貞元二十年(西暦804年)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)、学問僧の空海が留まった。

    延暦二十三年(西暦804年)派出の第十八次遣唐使です。三筆のうち二人がこの時学生として渡唐しています。空海は真言密教の伝統を継いで帰国することになります。

    元和元年日本國使判官髙階眞人上言前件學生藝業稍成願本國歸便請與臣同歸從之

    元和元年(西暦806年)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。

    橘逸勢空海を併せ、第十八次遣唐使一行は帰国します。情勢が不安でこれを逃すと次はいつ帰れるかわからなかったからでしょう。事実、次の遣使は三十三年後になります。それでも多くの学生が残ったものと思われます。

    開成四年又遣使朝貢

    開成四年(西暦839年)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。

    承和五年(西暦838年)の第十九次にして最後の遣唐使です。

    こうして見ると、唐朝は当初、日本国からの使者に不審の目を向けていたことがわかります。たった数行の文章に「疑」と二度まで出てくるのは、その不審の表れです。その疑いも無理ありません。明らかに「倭」の使者と異なることを言うのです。これを別種と判断するのは当然ですし、私も別種だと理解しています。つまり「倭」は九州王朝であり、白村江の戦いで弱体化してしまった。その倭を近畿天皇王朝が併呑あるいは、簒奪した結果生まれた国が「日本」という構図です。簒奪したので正直に話すこともできません。使いは近畿天皇王朝から出ていますから、「倭」のことを聞かれてもちんぷんかんぷんです。でも自分たちも「倭」だと言い張るのですから、何者だと思われても当然です。

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  • 日本の古代史を考える—③魏志倭人伝

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    卑弥呼で有名な邪馬台国が記載されていることで有名な魏志倭人伝。魏志とは、西晋陳寿が編纂した『三国志』のうち、の正史である『魏書』のことを云う。

    魏は、西暦 220 年から 265 年に中国に存在した国である。この国とその祖曹操については、三国志演義で日本人にもおなじみであろう。なお、日本では弥生時代後期にあたる。弥生時代を代表する遺跡といえば、昔々は登呂遺跡だったりしたのであるが、現在では何と言っても吉野ヶ里遺跡であろう。筆者も現地へ行ったことがあるが、見ると読むでは大違い。吉野ヶ里遺跡は、非常に大規模な遺構であり、現地に立つと圧倒されるものがある。さてもこのような基地を設けねばならなかった時代背景とは非常に物騒なものであったと実感した次第である。このような基地を必要とした時代とはどんな時代だったのであろうか。それを読み解く鍵のひとつが魏志倭人伝である。

    魏志倭人伝については、古来より邪馬台国の所在地を巡って(蒙昧かつ無駄な)論争があり、未だ決着を見ていない。ところが、魏志倭人伝には邪馬台国なる国は載っておらず、現在残っている版本ではすべて邪馬壹國となっていることを本ブログでも既述した。では、改めて本分を検証してみよう。

    倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國

    倭人は帯方郡の東南の大海におり、山島の中で国邑を作っている。元々は百あまりの国であった。前漢の時代に朝見するものがいた。現在使者や通訳が往来するのは三十国である。

    「舊百餘國。漢時有朝見者」とは『漢書』地理志燕地倭人条に記載されている内容を受けている。「漢時有朝見者」は『漢書』地理志燕地倭人条の誤読か、あるいは別に情報があってこのように書いたのかは不明である。そして「今使譯所通三十國」と続く。の時代にの都あるいは帯方郡から倭へ、あるいは倭からへ使者が行き来している国が三十ある。つまり、「往古そういう国があった」ではなく「よくわからないがそんな国があるらしい」でもなく、の当時の日本、あるいは日本の一部について相当に確実な情報があったことをこの文は表している。この点を留意して頂きたい。

    從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

    帯方郡より倭に至るには、至る行程を以下に述べる。海岸に沿って陸路で韓国に入り、水行、韓国に入って、南行東行を繰り返して、主に川を航行し、川の途切れたところは陸路を取る行程を取り、川に沿って南へ下ったり東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到る到着したその間七千余里その間の行程は実質七千里余りになる。初めて一海を渡り、千里余りで対馬国に至る到着した。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)である。家が千戸余りあり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。また、南に一海を渡ること千里余り、名を瀚海(広漠とした海の意)といい、一大国に至る到着した官も長官をまた卑狗といい、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、ここも南北の市に出かけて糴する。また別の海を渡り、千里余りで末盧国に至る到着した。家が四千戸余りあり、山海に沿って暮らしている。草木が盛んに茂っており、前を行く歩く人の姿が見えないような険しい行程だった。上手に魚や鰒(アワビ)を捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。東南に陸行すること主に陸路を取り、五百里歩いたところで、伊都国に到る到着した長官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。家が千戸余りあり千余りの家があり、代々王がいる。ここまでの国は皆、女王国の統治下に属していた。郡使は往来の途中で常にこれらの国々この国に立ち寄るのである。東南に行くと百里の行程で奴国に至る到着した長官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、家が二万戸余りある。東に行くと百里の行程で不彌国に至る到着した長官は多模、副は卑奴母離といい、家が千戸余りある。南へ行くと水行二十日で川を航行して投馬国に至る到着した航行には二十日をかけた。長官は彌彌、副は彌彌那利といい、家は五万戸余りはあるかあることを確かめた。南に行くと邪馬壹国、女王の都するところである。帯方郡からは総日程で水行十日、陸行一月である。川を十日かけて航行し、陸路には一ヶ月をかけた。長官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。家は七万戸余りはあるだろうかあることを確かめている。女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、そこから南の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。次に斯馬国があり、次に已百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に彌奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に對蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国がある。これが女王に属する領域内の全部である。そのそれら女王国の南に狗奴国があり、男性を王と為し、長官には狗古智卑狗があり、女王に従属していない。帯方郡より女王国に至るには一万二千里余りである。

    ここで『邪馬國』が初めて見える。後で出てくる景初二年が、三年の誤りであるというのはわかるが、この『邪馬國』が『邪馬國』の誤りであるとするのはわからない。確かに『後漢書』以降、後代に作成された正史には、『邪馬』と出てくる。普通はそういう場合、国名が変更になったのだと考えると思うのだが、なぜ誤りでなくてはならないか。それは『邪馬(ヤマタイ)』→『ヤマト』と繋ぎたいからである。何のことはない。皇国史観にどっぷり浸かって色眼鏡で見るからそう見えるだけのことなのだ。それでも写し間違いは誰でもあるし…とお考えの方には、唐代に用いられた楷書正字と、三世紀当時、正式な文書で用いられていた隷書、およびその基となった小篆で字形をお見せしよう。
    』楷書(唐代正字)壹(楷書)隷書壹(隷書)小篆壹
    』楷書(唐代正字)臺(楷書)隷書臺(隷書)小篆臺
    これが写し間違えるほど似ているというなら、何だって似てるだろう。『後漢書』が書かれたのは五世紀であり、国名が既にタイとなっていたことは、『隋書』に「俀国伝」となっていることからも明らかである。だがそれをもって三世紀の『三国志』の頃も同じと見なす根拠がない。学者の脳は常人とは異なる不思議な思考回路を有するものらしい。『俀』については、の時代に『大倭』を「たゐ」または「たいゐ」と読んで自称していたものが「たい」に変化したものではないかと筆者は考える。ちなみに、日本がヤマトを公式に使用するのは、八世紀の養老令からである。全く時代が違うのでお話にならない。中国上古(前漢後漢の時代)に『邪馬國』はなく、中国中古(の時代)にはあっても「やまたい」としか読めないのである。どうやっても「やまと」にはならない。これは皇国史観で見るからおかしな話になるわけで、九州と近畿に別々に王朝が存在していたと考え、九州の王朝が朝見していたと考えれば、おかしくも何ともなくなる。残念ながら。こういう事例を見かける度に歴史学とは胡散臭い学問だとの想念が頭をよぎるのである。

    なお、邪馬壹國への行程、所在地だが、これを検証することは本稿の目的ではないので省く。
    (2013年6月2日追記)「南へ行くと水行二十日で投馬国に至る」が特に不明なのだが、距離的には台湾になるのか? しかし魏志に琉球を飛ばして台湾が登場するのもおかしい…琉球だとして水行二十日もかかるか? と愚考す。まあ少し考えてわかるくらいならとっくに謎は解決されているはずですな。(笑)
    (2013年6月3日追記)「歴韓國乍南乍東」の翻訳を古田武彦氏の説に従い修正。当時「倭」は「諸韓國」とも交通があり、また「諸韓國」も帯方郡と交通があったので、陸路を取ることは別段不自然ではない。さらに、「対馬國」と「一大國」は「南北市糴」していたのだから、両国を経由し「狗邪韓國」と「末盧國」を結ぶ定期便が出ていたと解釈するのが妥当であり、「倭」の航路として確立していたと考えれば、帯方郡から船で直接北九州へ行かなかったことの説明がつく。
    (2013年7月4日追記)訳文を中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従い修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。

    成人の男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。古来より遣使が中国にやって来ると、皆自分を大夫だと称した。夏王朝少康王の王子が会稽に封じられている。髪を短く切って入れ墨をすると大魚や水禽の害を避けられるとその王子は人民に教え諭した。現在、倭で海辺に暮らす者は自ら海に潜り魚や蛤を捕っている。入れ墨をしていると大魚や水禽が近寄ってこない。しばらく後になって、装飾にもなった。諸国の入れ墨はそれぞれが異なり、体の左側にしたり右側にしたり、あるいは大きく入れ墨する者や小さくする者もおり、身分によっても違いがある。いる。身分秩序があり、その道理入れ墨の風俗や身分がしっかりしている理由を勘案するに、と、これこそまさに会稽東治(夏王朝少康王の王子の治績)が東の地にまで及んだものである。

    さて、縄文時代弥生時代を通じて、現代でも有名な風習とは何か。即ち「抜歯」である。然るに、魏志倭人伝は抜歯の風習に触れていない。当時の中国にはそのような風習はなかった(4,000年以上前に廃れた)から、もし倭に抜歯なる奇怪な風習があると記録に残っていれば、あるいは使節が抜歯をしていれば、当然触れられるはずのものが一切記載されていない。これは、倭と総称された国々には、抜歯の風習がなかったことを示すと筆者は考えている。筆者はまた、北九州では抜歯痕跡のある弥生時代人の人骨出土が非常に少ないのではないかと考えており、倭を北九州、特に太宰府を中心とした政権と考えているが、それを論証する、あるいは否定する調査結果を見つけることができなかった。詳しい方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いである。一方、気になるのは入れ墨である。身分の高低に関わらず、とあるのだから、王も庶民も入れ墨をしたいたのである。ところで近畿天皇王朝が伝える『古事記』『日本書紀』には抜歯の風習も入れ墨の風習もかけらも出てこないのである。少なくとも一族揃って入れ墨していたという例は皆無である。実際に出自がそうであれば、説話として語り継がれてもよさそうなものだが、撰者に抹殺されてしまったのかも知れない。あるいは元々入れ墨の風習がない部族であったことも考えられる。どちらかと言えば後者の可能性を見る。つまり、倭が大和政権と関係ないという傍証がこんなところにも転がっているわけである。
    (2013年7月4日追記)訳文を中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従い修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    それはさておき、倭は東夷の一種なので、その風俗が中華からの教化が及んだ結果であると陳寿は考えた。考えただけでなく論証した。それが、少康の子の話として出てくるのである。会稽とは古い国名でいうと「」である。呉越同舟の臥薪嘗胆呉越である。また、「魏略」には「其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後」とある。太伯とは太伯を言うので、自分たちは太伯の末裔であると称していたという意味である。つまり、呉越すなわち江南の人々が日本へ移住していたこと、それを通じて倭が教化されたことをこの文は言っている。古代の人々は現代人が考えるよりずっとアグレッシブだったのである。

    其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。

    その風俗は道をはずしていない。男性は皆が露紒(ろけい=頭に何も被らない)で、木綿(紵のことか? 当時木綿は日本に伝わっていなかった)を頭に巻いている(つまり鉢巻き)。その衣服は横に長い布を互いに結束して連ね(これを再現した写真があります)、簡単な縫製もない。婦人は髮を伸ばして髷を結っており、衣は単被のように作ってその中央に穴を開け、これに頭を突き出す(貫頭衣のこと。これも再現した写真があります)。水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、桑を植え養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、真綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄、あるいは骨の鏃、有無するところが儋耳や朱崖(ともに海南島の地名)に同じである。

    男性の服装女性の服装ともに簡素だが、絹を産していたことには注意が必要である。昔も今も絹は贅沢品だ。庶民やあるいは身分の高い人でも普段は紵でできた衣を着ていたのであろうが、絹が倭の特産であったわけだ。真綿も絹のことなので念のため。とすると当然、倭があった土地からは絹が出なくてはならない。それもひとつやふたつでは論外だ。産していた以上、結構な数の絹製品あるいはその残滓が出ないとおかしい。もちろん、弥生時代の絹などほとんどは消滅しているだろう。保存性が良い素材ではないからだ。弥生時代は人骨ですらあまり多く見つかっていない。考古学的に物が残りにくかった時代なんだろうか。牛や馬がいないということは、農耕はすべて人手によって行われていたことを意味する。矛、盾、木弓を用いて戦うとあるのはもちろん戦争のことである。弥生時代は戦争の時代でもある。

    倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處

    倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。立派なお屋敷もあるが、父母と兄弟それぞれは別のところで寝る(妻問婚のため、夜寝る時は、成年男子は妻のいる里へ出かける)。

    「父母兄弟臥息異處」だが、私はこのように解釈している。あるいは中国においては儒教の影響で父母兄弟が同室で寝るのは野蛮な風習とされていたから(遊牧民のパオやゲルを考えてみるとわかる。彼らは北狄、あるいは西戎と呼ばれていたのだ)、別室に寝たというだけだという意見もあるが、その直前に「有屋室」とわざわざ断っているのに、「異處」するわけだから、少なくとも、建物自体を別にしたとするのが妥当である。それに、当時の庶民は竪穴式住居に住んでいた。建物ひとつ=一部屋であることを考えれば、少なくとも「別の建物」であることは自明のことである。弥生時代竪穴式住居から出る人骨が男女一対、または男性一人に対して女性複数、あるいはそれに子供が付属するという例が非常に多く、馬鹿な考古学者はこれを一夫一婦制の萌芽と酔ったことを言っている。寝る時は夫婦だけ、または夫婦と小さい子供だけで寝るのが当たり前だったのなら、それと家族制は何の関係もないことになることは子供でもわかる。それとも何か、一夫多妻で母系制の大家族なら複数プレイでいたしていたとでも主張したいのだろうか。いかに学者というのが想像力貧困であるかこういう事例でもよくわかる。

    以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

    中国の白粉を用いるように、朱丹を身体に塗る。飲食には籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る木製の皿、あるいは鉢)を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴びをする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

    丹とは赤い色をした鉱物のこと。辰砂鉛丹を含むため赤い色をしている。白粉のように使うとあるのだから、顔にも塗ったのであろう。箸はまだない。棺はあるが槨がない、私たちはそういう墓をいくつも見ている。甕棺墓と呼ばれている墓がそれである。塚はいわゆる墳丘墓だろう。お葬式の時、お酒を出して騒ぐのは—今や自宅でお葬式をする人も少なくなったので珍しくなったが—この頃からの風習のようだ。葬儀の後、水浴びするというのはのことだろうか。

    其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

    中国を訪れるには、海を渡って行き来をするが、必ず遣使の一人に、頭髪を櫛で梳(けず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を取らず、衣服は垢で汚れるままにし、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにした者を含める。これを持衰(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれれば、それを顧みて報酬として、生口(奴隷)や財物を与え、もし疾病があったり、暴風の災害などに遭ったりすれば、ただちにこれを殺そうとする。その持衰が謹んでいなかったことがその原因だとするからだ。

    道中無事を祈るのはいつの時代も同じだが、専門の人を置いていたのはこの頃の特徴だろう。誰もが気軽に海外へ出かかられる時代ではない。無事に帰れればよし、ご褒美も貰えるが、さもなければ命がないとなれば、道中の間、必死になって祈ったことだろう。今の時代、フェリーや飛行機に乗るからと言って命を落とすことを覚悟して乗る人は、まずいないだろうが、当時のことだから、危険性は遙かに高く、あたら命を落とした持衰も少なくなかったものと思われる。尤も、遙か後の遣唐使が辿って散々な目に遭った南路と違い、北九州から壱岐、対馬を経て朝鮮半島へもしくは朝鮮半島沿いに帯方郡へ行ったのだから、そうそう難に遭うこともなかったのかも知れない。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    出真珠、青玉。其山有丹、其木有柟、杼、豫樟、楺、櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黑雉。

    真珠や青玉を産出する。山からが取れる。樹木には、楠木タブノキ、楺、橿がある。竹には篠簳、桃支がある。生姜山椒茗荷があるが、賞味することを知らない。猿や黒い雉がいる。

    とは翡翠のことで、硬玉軟玉がある。硬玉は、翡翠輝石つまり、ジェダイトのことで、中国には18世紀にミャンマーから輸入されるようになったのが始まりである。従ってここで言う「青玉」は、軟玉ネフライトのことである。青が実際は緑色を指していることに注意。杼を栃と訳してみたが、どんぐり全般を言うのかも知れない。楺は不明。この頃蜜柑はなかったので、橘をミカンと解釈している翻訳があれば間違い。(この項、2013年7月4日に追記)

    其俗舉事行來、有所云為。輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拜。

    その風俗に、何か事を行う、あるいはどこかへ往来するにあたり、言動を行う予定ができれば、必ずお告げを頂く。そのたびごとに都度、骨を焼いて卜占でその吉凶を占うことが挙げられる。い、先ず卜占の結果を唱えるが、目的を告げるため骨に刻む。そのとき方は令亀(亀甲を焼いて生じるひび割れで占う亀卜のこと)の法と同様で、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆を占う。会同での立ち居振る舞いに、父子男女の差別がない。人々は酒を嗜むことを好む。身分の高い者への表敬の仕方を観ると、ただ拍手することが跪拜(膝を着いての拝礼)に相当する。

    獣骨を焼いて卜占を行うのは、非常に古い、どちらかと言うと原始的な占いの形で、当時の中国では既に廃れていた。中華で廃れた礼式が周辺国で保存されている好例だと言える。会同で座る順番や解散の際の退場順など中国の礼はかなりやかましく、当主、子、女性でそれぞれ異なっていたが、日本ではそういったことが重視されていなかったことがわかる。それらの礼は当然地位を表しているわけだから、男女あるいは父子でそういった差を意識していなかったことになる。貴人に対する礼として拍手するというのは驚きだが、多分拍手して頭を下げたのではないだろうか。今も神社での拝礼の作法はそうなっている。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    なお、卜があるということは文字があるということでもある点に注意が必要である。卜には、

    1. 前辞
      「(日付)に(貞人)が占う」という意味を持つ定型文「(日付)卜(貞人)貞」
    2. 命辞
      占う内容に該当する主文
    3. 占辞
      王の判断
    4. 験辞
      実行後の結果

    を書き込むことが必要で、文字がないと卜にならないのである(占辞、験辞はない場合もある)。
    (2013年7月14日追記)

    其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。

    人々は長寿で、中には百年生きる人もいるし、あるいは八、九十年を生きる人もいる。その風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の妻を持ち、下戸(庶民)にも二、三人の妻を持つ者がいる。婦人は浮気をせず、嫉妬をしない。窃盗をする者がなく、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子を没して奴隷とし、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている(上下関係の秩序があるの意)。租賦を収める。それを納めるための邸閣(立派な高楼)が国にある。国には市もあり、双方の有無とする物を交易し、身分の高い倭人にこれを監督させている。

    当時既に百歳を越える人がいたのは驚きだ。また一夫多妻の制であったことがわかるが、妻問婚が行われていたのであれば、庶民でも二、三人の妻がいることに納得できる。嫁取婚では、庶民でも複数の妻を持てるという点が腑に落ちない。当時は現代的感覚の「身分は庶民だが大富豪」なんてものは存在しない。庶民=財産なしということである。この点からも嫁取りはかなり疑わしい。さて、犯罪を犯す者が全くいなかったわけではないだろうが、現代でも犯罪に対する忌避感が強く、訴訟を好まないのが日本人である。少なくともこの頃からそういった風俗を維持していることがわかる。

    自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

    女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国に常駐して治めており、国の中では刺史の如きものである。洛陽(魏の都)や帯方郡諸韓国に詣でて王へ遣いを使わして、帯方郡の郡使がその答礼で倭国に来たときは、皆、港に臨んで文書や賜物を点検照合し、女王の元へ届ける際に、間違いがないようにする。

    刺史は、州の行政、警察、司法、軍事を管轄する高官であり、大変な権力を持っていた。それに匹敵するというのだから、一大率も強権を振るっていたのであろう。これをみても伊都国は重要な国であったことがわかる。それにしては千余戸と人口が少ないように思えるが、海沿いの交通の要所であったからか、あるいは宗教的に重要な土地だったのだろうか。遣使の帰還や郡使の到来の際は、ここで下賜品や文書の点検をしたとあるから、少なくとも「倭国」の入り口と考えられていたのは間違いない。

    下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

    身分の低い者が高貴な人物と道で出会えば、後ずさりして草群に入る。伝達すべきことや説明すべきことがあれば、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまづ)いて行い、両手を地に着けて相手に対する敬意を表す。応答する声は噫(あい、ぅあい、わい)と言い、これで承諾を示す。

    この作法は何と近代に入っても変わってません。身分が上の人に尻を向けるのは大変な無礼とされ、去るときは後ずさりするのが正しい作法です。両手を地に着けて経緯を表すのは時代劇でもよく見かける作法ですね。明治に入って椅子に座るようになってからは立礼が基本となって廃れましたが。(この個所が抜けていたので、2013年6月8日に追加)

    其國本亦以男子為王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫婿。有男弟佐治國。自為王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

    倭の国は、もとは男性を王としていて、七、八十年は問題がなかった続いたが、その後倭国に内乱が相次ぎ、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道に従い、よく衆を惑わした。高齢になっても夫がおらず王に立てられた時既に成人していたが、夫はおらず、弟がいて国の統治を補佐していた。王位に就いて以来、面会できるものは少なかったけれど、婢(下女、あるいは女奴隷)が千人、その側に侍り、を千人自分のそばに侍らせていた。ただ一人の男性が食事を給仕飲食の給仕をし、言葉の取り次ぎのために出入りしていた。居住する宮殿や楼観には、城柵が厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいた。

    倭国大乱(?)の後、卑弥呼が立てられたことを述べた部分である。鬼道とは、初期道教である、五斗米道のことである、初期の神道である、と様々な説があり、決着を見ていない。中国は当時もちろん儒教だったので、その儒教にそぐわない政治体制を「鬼道」と称した例があることから、これもそうではないかとする者もいて、人の数だけ「鬼道」がある状況。:) 筆者は初期神道だと考えている。儒教的観点からするとそれは「正道」ではなく「鬼道」となる。「よく衆を惑わした」とは「民衆が卑弥呼の指導によく従った」ことを表す。「鬼道」による卑弥呼の指示を民衆が聞き入れるのは「惑わされた結果」と解釈するのが儒教的立場というものでもある。

    ところでここの文章は様々な解釈が可能で、例えば、「住七八十年」の「住」を「とどまる」と解釈すれば、男王が七十年から八十年続いたことを表すが、「やむ、やめる」と解釈すると、七十年から八十年は男性による王位の継承が断絶していたことになる。『後漢書』は後者を拡大解釈して「王が七十年から八十年いなかった」として「倭國大亂」と称しているが、その後に「歴年」とあるのに注意。「歴」はつぎつぎに巡り歩く意から転じて年月を経る意味になっているので、次々と年月が経る長い間抗争が続いたことを述べている。「七、八十年乱れて、さらに何年も攻め合う」では意味が重複するため、『後漢書』の解釈を取ることはできない。また、「本亦」とある点に着目して魏使が到来した頃には再び男王が立てられていたとする説もあるが、それだと女王が七十年から八十年続いたことになり、「乃共立一女子為王」と文脈が繋がらない上に、後の壹与の即位事情に繋がらない。悩ましい。(この項、2013年7月4日に追記)

    「年已長大」は呉書巻五十二「張顧諸葛步傳」にやはり「年已長大」とあり、曹丕が王位を継いだ時のことを述べている。曹丕(魏の文帝)は四十歳で死んでいるので、年寄りという意味ではない。後に壹与が立てられた時まだ十三だったので、それに対して成人していたという意味だろう。古代は早婚なので成人しているのに夫がいないというのが魏使の目には奇異と映ったと思われる。「有男弟佐治國」は祭祀の王と政治の王による複式統治を表したもので、卑弥呼の神託を現実の政治に反映するには、そのような制度が不可欠であったのだろう。(この項、2013年7月4日に追記)

    また、「自為王以來少有見者以婢千人自侍」も読み下すと「王と為りて自(よ)り見ゆる者少なく有れど婢千人を以て自らを侍らしむ」となるが、王であるのに遭ったことがある人が少ないとはどういうことだという疑問が出てくる。これは誰に会うことが少なかったかということを考えなくてはならない。民衆はまあ無視してよろしい。たまに顔を見せれば済む。しかし、祭祀や政務について各国の王たちやその配下と会見を持つことは必須である。これは或いは卑弥呼が国人、つまり氏族の主たちに人気があるので、これ以上存在感を増されて自分たちの地位が脅かされることを恐れた部族長たち、即ち各国の王が氏族の族長クラスの面会を制限した、ということではないか。じゃあ何故そのような女性を王位に就けたのだと問われれば、まさしく国人の要求がそれだけ強かったからと答えるしかない。しかし、王は存在を誇示してこそ王なので、会えない王はいないのと同じである。やはり悩ましい。なお、卑弥呼は祭祀王で、また巫女でもあったので、男子をそばに近づけなかったのだが、はしためでは用を為さない用事については例外を認めて一人だけ男子の出入りを許可したことが覗える。(この項、2013年7月4日に追記)

    女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

    女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。それも皆、倭人である。また、その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黑歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。倭の地と比較して訊いてみるとを調べたり訊ねてみたところ絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど海の中に島々が互いに離れて存在し、海で隔たったところもあれば、繋がっているところもあり、周囲をぐるりと囲むと五千里余りあることがわかった

    魏の一尺は、24㎝ 余りだから、身長が 1 m に満たない人々が住んでる国があったことになる。倭国の人から聞いたのだろうが、倭の人がおおげさに言ったのだろうか。女王国の南に四千里余りですから、一里 = 433.8 m(長里)で計算すると、南に 1735 ㎞、一里 = 75 m(短里)で計算すると、南に約 300 ㎞ なので、長里だとすれば、フィリピンのことを言ってることになる。短里が正しいとすれば、日本国内にあったことなることは間違いない。縄文人は短身だったので、中でもひときわ背の低い人たちが生き延びて建てた国があったということかも知れない。ところが興味深いことに、フィリピンにはネグリトと呼ばれる民族がおり、「小黒人」と別名がついていたほど背が低い。長里、短里どちらの説を採るべきだろうか? 侏儒国から東南の方向に、船で行くと 1 年かかるところにある裸国や黒歯国の場所も面白い。そこまで長旅をしてたどり着く可能性のある土地は、南アメリカ大陸である。してみると、倭人は南アメリカ大陸に関する知識を持っていたことになる。謎は尽きない。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」

    景初二年(238年)六月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。太守の劉夏は官吏を遣わし、遣使を率いて洛陽に詣でた。その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を大切に思う。今、汝を親魏倭王と為し、金印紫綬を授ける。包装して帯方太守に付託して、汝に授けさせるものとする。同族の人々を安んじいたわり、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中よく勤めた。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮け、引見して慰労を賜い、遣わして還す。今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを汝の貢献の値として贈答する。また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して授けるので、難升米、牛利が帰還したら目録を受けとるがよい。(これらの品々を)すべて汝が国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである」

    さて、有名な卑弥呼の遣使を説明した段だ。まず景初二年が景初三年の誤りであるのはこれは古来より言われている通りだと思う。いくらかの有名な司馬仲達といえど、公孫淵を切って朝鮮を平定した後、過去に遡って帯方郡を置いたとは考えられない。何が何でも原典に誤りなしと拘るのも問題だろう。さて、朝貢において、奴隷の他に班布を二匹二丈献上している。班布は一組の絹布地のことで、長さ 240 m × 幅 50 ㎝(二匹=四反=八丈+二丈=合計十丈、一丈は魏尺では約 24m、幅は二尺二寸=約 50 ㎝)となる。あまり豪華とは言えない。これに対して下賜品として金印と夥しい絹織物、銅鏡百枚その他が卑弥呼に授けられている。絳とは「赤い」の意味です。金八両って魏の頃は、113g くらいですから、微妙な量です。:) もちろん遣使二人で持って帰ることができる量ではないので、まず目録を遣使に授けたわけである。絹の量が莫大だが、これは献上品が絹であったので、「本場物」を褒美として授けたものと思われる。ということは、弥生時代の遺跡があり、絹が数多く出るところかつ、製の銅鏡が出るところ、が邪馬壹国のあったところになる。一時期、三角縁神獣鏡がこの銅鏡ではないかと言われていたが、後に日本製であることが指摘され、今のところ卑弥呼が下賜されたものであることが間違いないと判断できる銅鏡は出てきていない。

    正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。

    正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。同四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗ら一同は率善中郎将の印綬を拝受した。同六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して授けさせた。同八年(247年)、帯方郡太守の王頎が、洛陽の官府に到着した。倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元から不和だった。倭は載斯、烏越らを派遣して、帯方郡に詣でて戦争の状況を説明した。帯方郡は。長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらして、難升米に授けさせ、檄を作って(戦いを止めるように)告諭した。

    正治元年になってから、景初三年の遣使の折に目録を渡した下賜品を携えて、帯方郡から使者が倭にやってきたことを示している段。卑彌弓呼はヒミヒコと読むのだろうか。ヒミコといいヒミヒコといい、名前と言うより何かの称号のように思える。檄は檄文の檄。お触れのことだ。

    卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

    卑彌呼が死ぬと、大きな墓を作った。直径は百歩あまりで、殉葬した奴婢は百人あまり。改めて男の王を立てたが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人が殺された。元のように(卑弥呼を立てた時のように)卑彌呼の宗女「壹與」を立てた。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄を以てして壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けた。遣使は臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠(白くて球形の璧のことか?)五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。

    卑弥呼死後のことになる。男王を立てると国が乱れ、女王を頂くと国が治まるというのは、女系制の感じがしないのでもないのだが、どうだろう。壹與が卑弥呼の宗族であったから倭の国々の有力者も納得したとすると、そうかなと思い、しかし中には男もいただろうがなぜそれは対象にならなかったのか、あるいは立てられた男王というのがそうだったのか、想念は尽きない。いずれにせよ、卑弥呼が王に立てられた際も卑弥呼の死後も戦争が起きたということは、弥生時代は戦争の時代であったと言いうるところであろう。卑弥呼在位中にも戦争があったと書かれていることから、その平和も極めて緊張したものであったに違いない。

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  • 日本の古代史を考える—①漢書地理志

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    日本は『古事記』『日本書紀』以前に歴史書があったことは明らかにされているが、その内容については、『古事記』『日本書紀』に盛り込まれたもの(どれがそうであるかは不明である)のほかに現代に伝わっているものはごくわずかでしかない。そこで古来より中国の歴史書を引くことが当然とされてきた。しかしその内容については充分に吟味され、教育されているとは言い難い。日本が始めて登場する中国の歴史書は『漢書』であるが、高校の授業でも、百あまりの国に別れていたという程度のことしか教えられない。しかしこの条の本質はそんなところにはない。その前こそが重要なのである。以下に地理志燕地倭人条を示す。

    然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

    以下読み下し文

    然して東夷の天性柔順、三方のほかに異なる。故に孔子、道の行われざるをしみ、いかだを海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆゑ)有るかな。楽浪らくろう海中に倭人あり、 分かれて百余国と為し、 歳時を以つて来たりて献見すとふ。

    訳文

    かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

    この条の前段には、楽浪郡が置かれる前の朝鮮について、が滅んだ後、箕子が赴いてを建て、人民を教化したとある。その仁を賞賛し、その教化が東夷全体に及んだ証拠として、倭人条が続けて記されているのである。ここで重要なのは、孔子がその生きた時代、即ち春秋時代に道が行われないと嘆き、海を渡って東夷の地へ行きたいと(九夷は、中国語で「九州=全世界」とあるのと同じで、すべての東夷、あるいは東夷を代表するものという意味)こぼしたことに対して、それには理由があったのだと続いている点である。有名な「楽浪海中に倭人あり…」の文はその後に続くのである。末尾の「云」は単に「と言う」と簡単に訳してしまっている場合が多いが、漢書は、個人が酔狂で書いた適当な感想文ではない。後漢王朝により、前漢の正式な国史と認められた書物なのである。従ってこの伝聞は、噂に聞いたなどという意味ではなく、そのように正式な記録が伝えられている。あるいは、信憑すべき歴史上のできごととして伝えられている。ということなのである。孔子がまさに「道が行われている」と信じたからには、野蛮人が物珍しげに都へやってきた程度のことであろうはずがない。威儀を正し、礼儀を守り、道理にかなった正式な遣使が定期的にやってきたからこそである。孔子はうろんなことを口にする人ではなかったから、孔子の言葉の根拠として挙げられた倭人の伝聞もまた充分に根拠があって書かれているのだ。

    なお、ここまでくれば、ではその天子とは誰か? は改めて述べるまでもないだろう。それは、天子である。孔子がいかに周礼を重視したかは今でも伝わっている。つまり、この条は、西周時代に倭人が朝貢していたことを示す重要な文章なのである。日本はその頃、縄文時代晩期(ウィキペディア日本史時代区分表に基づく)である。

    しかも、朝貢である限り、倭人は臣下ということになるが、臣下であればお目見えの際に表を呈するのが礼儀である。つまり、その頃の倭人には(もちろん渡来人/帰化人であろうが)、文字を読み書きできる者がいた=文字が伝わっていたという事実を見落としてはならない。現時点で、歴史的/考古学的に確認できる最古の文字は、志賀島の金印である。「漢委奴國王」という例の金印だが、これは拝受する方が文字を解さないと、光武帝がの使節に下げ渡す意味がない。もちろん現代のように誰でも読み書きできたわけではなく、上流階級の一部が読み書きできただけだろうが、とにもかくにもその頃には日本にも文字があったと言いうる証拠である。文字をもたらしたのは渡来人/帰化人であるのは間違いないが、別に前漢滅亡から後漢建国の頃に限らずそれまでも渡来人/帰化人は日本に来ていたのであり、とすれば、文字もそれだけ古くから伝わっていたと考えるのが常識である。倭人条はそれを裏書きしていると言えよう。惜しむらくは縄文時代晩期あるいは弥生時代初期の遺物でさえ文字の記されているものがないことである。今後の発見が待たれる。

    縄文人というと文字も知らず、記録も口伝だけで部族単位で小集落を作り、それぞれで牧歌的に狩猟採集していただけかのようなイメージがあるが、いかにそれが空想的で誤ったイメージであるかがわかる。漢書地理志の一文は、本来、そのように読み解くべき内容なのである。

    同日追記。なお、後漢時代に王充が著した『論衡』には、以下の文が含まれている。

    之時 天下太平 倭人來獻暢草 (第五卷 異虚第十八)
    時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 (第八卷 儒增第二十六)
    成王之時 越常獻雉 倭人貢暢 (第十九卷 恢國第五十八)

    王充は当時流行していた讖緯説・陰陽五行説に基づく迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理をこの書で徹底的に批判しているので、さすがに倭の朝貢が虚妄であると片付けることはできない。これも西周時代に倭が朝貢していたことを示す、貴重な証拠である。

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