• 『中国正史』に見える古代日本

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    『中国正史』に見える古代日本」を作成しました。縦書き対応かつルビ対応のブラウザが必要ですが、是非ご覧になって下さい。『漢書』から『新唐書』までに記載されている倭人、倭國、日本に関する下りを抜粋し、原文、訓読文、現代語訳に註をつけています。

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  • 日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

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    漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

    1. 縄文時代晩期には、既に宗族=國といってよい規模の集団が複数存在していたのではないか。

      根拠は、『漢書』地理志である。今更くだくだしい説明は不要であろう。

    2. の使節は朝鮮半島内で陸路を取ったのではないか。

      魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
    3. 倭國(倭奴國)は九州にあったのではないか。

      • 後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
      • 魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
      • 魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
      • 隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
      • やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
      • 舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。
    4. 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。

      • 魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
      • 隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
      • 舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
      • 魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である。
    5. 宋書』夷蠻伝倭國条に名前が出る「倭王武」を雄略天皇に比定する根拠は何か。

      「武」と「ワカタケル」の語感が似ているからなどというのは論外だが、根拠は何だろうか。

      • 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘には「獲□□□鹵大王世」と欠字があって何と言う大王だったか不明である。
      • 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘には「獲加多支鹵大王」とあるが、これを「ワカタケル」と読むのは何故か。
      • 仮に両者とも「ワカタケル大王」だとしてこれが雄略天皇であるという科学的な根拠は何か。
    6. 隋書』東夷伝俀国条で名前が出るオオキミ「多利思比孤」を聖徳太子に比定する根拠は何か。

      聖徳太子の逸話はすべて『日本書紀』から出ており、これほど重要な人物であるにも関わらず『古事記』では触れられていない。

      • 「多利思比孤」はオオキミを号していたとあるが、聖徳太子は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいる。
      • 裴世清は「多利思比孤」に実際に会っており、遣隋使の使者のごまかしでないことは明らかである。
      • 聖徳太子には「多利思比孤」に類似する別名がない。
    7. 太宰府」はいつ誰の指示によって造営されたのか。

      「遠の朝廷」と呼ばれ、殷賑を極めた都会であったことがわかっているのに、それがいつ誰の指示で造営されたか記録がない。

      • Ⅰ期の遺構は、白村江の戦いの後、天智天皇が「那津官家」を移したものとされているが、天智天皇が「那津官家」を移したという記録を基にⅠ期遺構の造営時期を決定しているだけで、まるで科学的根拠がない。『記紀』にも大規模な造営があったとは記録されていない。造営時期の比定が無茶苦茶である。
      • Ⅱ期の造営時期については、歴史学者の単なる妄想を述べているに過ぎない。律令制度上の要請があり、大改築を行ったのなら、正史に記録が残って当然であるのに、その事実を無視している。
      • Ⅱ期の遺構により、条坊制を採用していたことが明らかであり、あるいは長安が直接的なモデルになったことは明らかである。
      • 太宰府天満宮は非常に大規模な大社だが、菅原道真を祭る前は何の神を祭っていたか記録がない。
      • 鴻臚館が置かれ、古くから外交の根拠地となっていたが、それならなぜもっと便のよい海岸よりに造営しなかったのか。元は海岸沿いにあったという人もいるが、それならなぜ「白村江の戦い」で大敗した後に移転したのか。現に二年後にはから使者を迎え、遣唐使を派遣している。とてもそんな緊張があったとは考えられない。

    まだ他にも細かく詮索したいところはあるのだが、少なくともこれらの疑問は、日本の古代史を勉強する上で、放置しておいて良い問題ではないと考える。

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  • 日本の古代史を考える—⑫舊唐書東夷伝倭国条・日本國条

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    」の後は「」ということで、「」の歴史書での倭国、日本を見ていくわけですが、『唐書』と呼ばれる書物は二種類あります。ひとつは、五代十国時代に「後晋」で編纂された『唐書』です。西暦945年に完成しています。ただ、その翌年に「後晋」が滅んでしまっていることで察することができるように、国自体が安定しておらず、編纂責任者も途中で交代していたりいます。そのため錯誤や遺漏が多く、記事も初唐の頃に偏っており晩唐の頃の物がほとんどないなど、後世の評判は良くありませんでした。そこで、北宋(こちらは、平清盛日宋貿易を行った、あのです)の時代になってから、欧陽脩らによって新しい『唐書』が編まれ、西暦1060年に仁宗に献上されました。そこで古い方の『唐書』を『舊唐書』あるいは『旧唐書』、新しい『唐書』を『新唐書』あるいは単に『唐書』と呼びます。新しいものができているなら、古い『舊唐書』は無視して良いかというと、実は作りが雑だということは、生の資料がそのまま引き写しされているという利点があるということでもあり、決して資料価値が低いわけではありません。

    ということで、『舊唐書』を見ていくのですが、その東夷伝には、倭国の条と日本の条があります。さてさて、どういうことでしょうか。

    ■倭国条

    倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通

    倭國は、昔の倭奴國である。京師(長安)を離れること一万四千里の彼方にある。新羅の東南の大海の中にあり、山島によって国をなしている。東の端から西の端まで五ヶ月かかる。北の端から南の端まで三ヶ月かかる。代々中国に朝貢してきた。

    「漢倭委奴国王」の金印でお馴染みの「倭奴国」が、倭国の旧名であると述べられています。全く誤解しようがありません。歴史学者や考古学者は何を見てるんでしょうね?『魏志倭人伝』において「楽浪郡」から一万二千里でしたから、長安から楽浪郡までの距離、二千里を足して、一万四千里としたようです。そして『舊唐書』が撰進された頃には、朝鮮半島は「新羅」によって統一されていましたので、「新羅東南大海中」となっているわけです。「東西五月行南北三月行」とあるのは『隋書』から引用したかまたは『隋書』が参照したのと同じ資料によったのでしょう。倭国がかなり広大な領域に広がっていたことがわかります。

    其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉

    その国には城郭がなく、木を以て柵としている。草を使って家を作っている。四方に小島が五十国あまりある。皆、倭国の属国である。

    何度も出てきているので、目に馴染んだ表現かも知れませんが、中国の街は城郭都市といって、必ず長大な防壁で囲まれています。壁と言っても人がやすやすと乗り越えられるようなものではありません。上から大声で怒鳴っても下に居る人に聞こえないくらい高いものもありましたから、落ちたら大けがをするか下手をすると死にます。日本の街にはそういう防壁がないことを言っています。そりゃ海辺であったり山間であったりするところをそんな防壁で囲んでも労力の無駄だからやらなかっただけだと思いますが。平野部にあった街にはおそらく濠が掘られていたと思われます。「以草爲屋」とあるのに注意して下さい。この時代になっても庶民は竪穴式住居に住んでいたことを考えれば、確かに「草」を使って家を作っていたことが理解できます。また、ここでも重要な記述が出てきます。「四面小島五十餘國」に該当するところといえばどこでしょう。実は、四面が海に囲まれているのは北海道、四国、九州です。そのうち、四方に小島が五十あまりという条件を満たすのは、九州だけなのです。

    其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯婦人衣純色長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅

    その王の姓は阿毎(あま)氏である。一大率を置き、諸国を検察している。皆これを畏怖している。官位があり十二の位階に別れている。訴えがある者は、這いつくばって前に進む。その地は男が少なく、女が多い。漢字がかなり通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

    「其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地」は『隋書』の要約か、『隋書』が参照した資料と同じ資料を見てそれを要約して書いたかいずれかでしょう。そしてまたしても「多女少男」です。もう本当にそうだったんじゃないかと思えてくるくらいしつこく書かれています。『隋書』では「佛經始有文字」であったのですが、あっと言う間に広まったのでしょうか。現代的な感覚で「頗有文字」を理解するととんだ誤解になりそうです。官吏でもないのに文字を解するものが多いという意味に取らなくてはならないでしょう。「俗敬佛法」とあるからには、仏教が瞬く間に広がった様子がわかります。「貴人戴錦帽」とありますが、ただ冠というと唐制の冠になってしまうので、違いを際立たせるために敢えて「帽」と述べているのだと思われます。

    貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史髙表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還

    貞観五年(西暦631年)、倭国は使いを遣わして来て、様々な産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、朝命を伝えずに帰国した。

    さて、『隋書』において「多利思北孤」は礼儀を知らずと謙遜していましたが、この頃には王子が礼について揉め事を起こせるくらいには、理解が深まっていたようです。「高表仁」は融通の利かない人だったのでしょう。蛮夷の無礼などある程度は大目に見るべきなのに朝命を果たさず帰るとは何事か。と叱っているかのような文章です。

    至二十二年又附新羅奉表以通起居

    貞観二十二年(西暦648年)になって再び、倭国王は新羅の遣唐使に上表文をことづけて皇帝へ安否を伺うあいさつをしてきた。

    東夷伝倭国条ではここで終わりですが、高宗本紀に倭の記事があります。

    永徽五年十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙

    永徽五年(西暦654年)十二月癸丑の日に、倭国が琥珀と瑪瑙を献上した。

    白雉五年(西暦654年)に派出された第三次遣唐使が対応していますが、「倭国」とあるのに注意が必要です。「日本」の遣使ではなかったのです。おそらく唐の情勢を把握するために送られたのでしょう。

    国際情勢は徐々に緊迫の度を増しています。新羅に上表文を託しただけで朝貢しなかったのは、貞観十八年(西暦644年)に高句麗討伐が行われたことを受け、倭の対外政策が揺れ動いていたからでしょう。高句麗という重しがなくなれば、朝鮮半島の情勢はどう動くかわかりません。また、結果的に失敗に終わったとは言え、唐がそれで諦めるとも思えません。その懸念は、西暦660年に百済の滅亡という形で現実化します。そして西暦663年、倭は百済遺民と連合し、白村江新羅連合軍と戦い、これに大敗北を喫します。倭はこの痛手から立ち直れず、以後、中国の歴史から、もちろん日本の歴史からも姿を消します。

    ■日本國条

    日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地

    日本国は倭国の別の種族である。その国が日の上る方にあるため、日本という名前にした。あるいは、倭国がその名前が雅やかではないことを嫌って、日本と改めたとも伝える。あるいは、日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合したとも伝える。

    のっけからいきなり「日本國者倭國之別種也」と倭と日本は別の国だと述べています。そして、「日本」という名称の由来について他に二説あげています。ひとつは「倭が卑語なので、日本に改名した」という改名説。もうひとつが「日本国が倭国を併呑した」という併呑説。さて、どれが正しいでしょうか。『舊唐書』の編纂者は、もちろん、別種の国だという認識でした。正解は、「全部正しい」です。なぜなら、これはすべて「日本」の使者に尋ねて得られた回答だからです。

    其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉

    その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、質問に誠実に答えない。それで中国ではこれを疑った。

    明らかに「倭」の使者とは態度が違います。それは「倭」を併呑して大国になったという気宇が滲み出たのか、あるいは別に理由があるのか。自分たちは「倭国」に属するが「倭奴国」とは別の国の者だと言ってみたり、「倭国」のものだが、名前がよくないから「日本」改称したのだと主張してみたり、あるいは「日本」は「倭」を併呑したのだと言ってみたり、その主張が首尾一貫せず、「倭奴国」の者とも見なせないが、かといって「倭」と無関係でもなさそうだという不審の目を向けられていたのがよくわかります。あるいは不当な簒奪者と見られていたのかも知れません。それが『日本書紀』編纂の動機のひとつとなったのではないでしょうか。

    又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國

    また、彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言った。

    「又云」は前の文を受けて述べているわけだから、もちろんこの発言も疑われています。ところで、東の境にあるという大山は、「富士山」かなとも思いますが、北の境の大山とはどの山でしょうか。七世紀頃の毛人(蝦夷)は宮城県中部から山形県以北に住んでいたとされています。あるいは古墳の分布を王権の証とする現代考古学の思い込みがそう見せているだけで、毛人(蝦夷)はもっと南や西までいたのではないでしょうか。

    長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史觧屬文容止温雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國

    長安三年(西暦703年)、日本の大臣、粟田朝臣真人が来朝して様々な産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶっており、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。真人経書や史書を読むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

    粟田朝臣真人」が大使となったのは、第八次遣唐使。進徳冠とは、唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついているもので、昭陵博物館のホームページに出土品の写真が掲載されています。これを見ると、俀国の冠が「帽」とされていたのに対し、随分と異なることがわかります。確かにこれは「冠」です。この頃、「大宝律令」が施行されましたから、粟田真人が「紫袍」を着ているのは不思議ではありませんが、唐の朝廷に対する配慮に欠けていたと言わざるを得ません。唐では紫は天子にだけ許された色だったからです。おそらく、蛮夷のことだから大目に見ようという空気と、その挙措が温雅で文章を解したから見逃されたのでしょう。そして多分、ハンサムだったはずです。則天武后が宴に招いて(名誉職とはいえ)官位を授けたのはよほど気に入ったからです。

    さて、『舊唐書』ではこの年の遣使が初めてですが、貞観五年(西暦631年)の遣唐使はともかく、第二次の遣唐使(白雉四年=西暦653年派出)の様子が『新唐書』に「獻虎魄大如斗碼碯若五升器」と記載されています。その次は、また『新唐書』に天智天皇が即位した次の年に遣唐使があったと記されていますが、『日本書紀』では斉明天皇の五年(西暦659年)となっています。これが第四次の遣唐使ですが、その翌年に百済が滅ぼされているのに、同盟国の危機を放って何をしに行ったのでしょうね?『新唐書』にはさらに、咸亨元年(西暦670年)に高句麗を滅ぼしたことを祝賀する使者が来たと書かれているのですが、これが『日本書紀』では「天智八年(西暦669年)」に派遣した第七次の遣唐使となっています。『日本書紀』によると、第五次(天智四年=西暦665年)と第六次(天智六年=西暦667年)の遣唐使があったことになっていますが、『舊唐書』にも『新唐書』にもその記載がありません。この二回の遣唐使は、送唐客使でもあり、唐から来日した使者を送り届ける役目を持っていました。使者が来るくらいですから、重要な政治課題があったはずです。第五次の遣唐使は「白村江の戦い」の余塵消えやらぬ時期であり、第六次もさらにその二年後でしかありません。この使者の往来を伴う二回の遣唐使が、「白村江の戦い」の戦後処理のためであることは明らかです。しかし別段、天智天皇がそれで何か叱責されたとか、責任を追及されたというような雰囲気ではありません。怪しげな政治取引の臭いがするのですが、いかがでしょうか。近畿天皇王朝=大和朝廷は百済と同盟しておらず、倭が「白村江の戦い」で大打撃を受けるのを横目で見ていたのではないでしょうか。この時期の『日本書紀』には明らかに粉飾やごまかしがあります。何かあったのは確かなようです。

    開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助敎趙玄黙就鴻臚寺敎之乃遣玄黙闊幅布以爲束修之禮

    開元の初め頃、また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。

    養老元年(西暦717年)に派出された第九次遣唐使のことだと思われます。儒学を教授されたのは「吉備真備」ではないかと推測しています。あるいは「阿倍仲麻呂」や「井真成」も一緒に学んだかも知れません。

    題云白龜元年調布人亦疑其僞

    その布には「白龜元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

    また疑われています。確かに「白龜」という元号は存在しません。『日本書紀』は天皇の万世一系を無理矢理説明するために、かなりのでっち上げをやった上に、不都合な情報を改削した疑いがありますから、倭の弱体化につけこんで、私年号を使っていたのかも知れません。

    此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去

    この貢ぎ物(白龜元年の調布)で得た下賜品を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。その副使の阿倍朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡と改めて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第十二王子)の学友となった。朝衡京師(長安)に 50 年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

    「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」で有名な阿倍仲麻呂(中国名朝衡)の逸話です。実は第十二次遣唐使が来朝した時(大使は、藤原清河)、一度は帰国を試みたのですが(王維が別離の詩を送っていますから事実でしょう)、仲麻呂や清河らが乗った第一船はあえなく難破。安南驩州に流れ着きました。結局、仲麻呂一行は天平勝宝七年(西暦755年)に長安へ帰着しています。ところが、この年に安禄山の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来したのですが、唐朝は行路が危険である事を理由に仲麻呂清河らの帰国を認めなかったのです。仲麻呂はその後もで昇進を続け、潞州大都督(従二品)を贈られています。

    天寶十二年又遣使貢

    天寶十二年(西暦753年)にまた使いを遣わし朝貢してきた。

    天平勝宝四年(西暦752年)派出の第十二次遣唐使です。大使は、藤原清河。副使は、吉備真備大伴古麻呂です。この時に高僧鑑真を日本に連れ帰ったことは有名です。

    上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護

    上元年間(西暦760年~西暦762年)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

    阿倍仲麻呂の出世の様子が語られています。『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備)および朝衡の二人のみ」と故郷では賞賛されています。

    貞元二十年遣使來朝留学學生橘免勢學問僧空海

    貞元二十年(西暦804年)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)、学問僧の空海が留まった。

    延暦二十三年(西暦804年)派出の第十八次遣唐使です。三筆のうち二人がこの時学生として渡唐しています。空海は真言密教の伝統を継いで帰国することになります。

    元和元年日本國使判官髙階眞人上言前件學生藝業稍成願本國歸便請與臣同歸從之

    元和元年(西暦806年)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。

    橘逸勢空海を併せ、第十八次遣唐使一行は帰国します。情勢が不安でこれを逃すと次はいつ帰れるかわからなかったからでしょう。事実、次の遣使は三十三年後になります。それでも多くの学生が残ったものと思われます。

    開成四年又遣使朝貢

    開成四年(西暦839年)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。

    承和五年(西暦838年)の第十九次にして最後の遣唐使です。

    こうして見ると、唐朝は当初、日本国からの使者に不審の目を向けていたことがわかります。たった数行の文章に「疑」と二度まで出てくるのは、その不審の表れです。その疑いも無理ありません。明らかに「倭」の使者と異なることを言うのです。これを別種と判断するのは当然ですし、私も別種だと理解しています。つまり「倭」は九州王朝であり、白村江の戦いで弱体化してしまった。その倭を近畿天皇王朝が併呑あるいは、簒奪した結果生まれた国が「日本」という構図です。簒奪したので正直に話すこともできません。使いは近畿天皇王朝から出ていますから、「倭」のことを聞かれてもちんぷんかんぷんです。でも自分たちも「倭」だと言い張るのですから、何者だと思われても当然です。

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