• 歴史を捏造する中国と韓国

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    ほとんど覚え書きだが、忘れないうちにメモ。

    まずは中華人民共和国。代表は「南京大虐殺」。私は、本多勝一『中国の旅』も読んだが、南京大虐殺に関する部分はすべて本人証言だけで構成されており、悪意を以て日本を貶めようとした書であると断定する。この本は中国の南京大虐殺プロパガンダの引き金となった本であり、これだけで朝日新聞社は日本国民に対して謝罪と賠償を行った上で、国際社会に対して弁明を行う責任があるが、知らん顔をしている。さすが、日本を第二次世界大戦へ大衆を煽り駆り立て戦意を高揚させておきながら、GHQ のお咎めを受けることを畏れて軍部に全責任をなすりつけた無責任新聞社だけある。

    「南京大虐殺」がなかったことの証明は簡単である。死体がない。三十万人も殺したというならそれに相応しい大量の白骨が出土しなくてはならない。逆に中国政府にとってこれほど証明の容易いものはない。大量の白骨を南京もしくはその周辺から掘り出せば良いのである。中国の死生観において墓所に埋められていない人骨を掘り出して、改めて埋葬することは何らやましいことではなく、むしろ賞賛に値する行為である。なぜ中国政府はこの一石二鳥の方法を実行しないのか。理由は改めて述べるまでもない。

    何? 長江に流した? 三十万人も長江に流したら如何に広い長江といえども死体が河面を埋め尽くす。目撃者の数が半端なく多いはずだが、そんな目撃証言はない。第一、日本をあげつらうので必死だった東京裁判でも黙殺された事件について何を言っているのだ。日本はそんな事実はないと毅然として反駁し、客観的で合理的な証拠の提示を求めれば良い。

    なお、元日本兵で虐殺を証言したとされる連中が少数存在するが、当然「洗脳」を受けている。日本政府は当人の履歴を確認し、中国共産党軍に捕虜とされていた時期がないか確認すべきだ。

    当時の国民党政府は統治能力が皆無で全国の治安を確保できなかった。むしろ、国民党政府軍による掠奪が至るところで起こっており、日本軍の南京入城はむしろ歓迎されていたのである。なぜそんなところで虐殺など行わなくてはならなかったのか。これも合理的説明はない。当たり前である。虐殺自体存在しない妄想なのだから。

    尤も当時中国軍は「便衣兵」を駆使していたからその掃討は指令されている。「便衣兵」とは民間人=非戦闘員のふりをして民間人に紛れ込んで戦闘行為を行うものであり、日本軍はこの掃討に非常に苦労している。中国側が虐殺の被害者として具体的に申してているのは、まずこの「便衣兵」であると断定してよい。当時のハーグ陸戦条約では「便衣兵」のように非戦闘員を偽装する者を戦闘員と認めていないから、これをどのように排除しても合法である。

    さらに「南京大虐殺」の証拠とされる写真類について、少なくない数の写真が捏造または中国軍自身の残虐行為の写真であることがわかっており、すべての写真について「南京大虐殺」と関係があることを証明することが求められる。これらの写真類については「南京大虐殺」と無関係とする反論には再反論しているが、「南京大虐殺」と明確に関係ありと証明された写真が一枚も存在しない。幻に写真があるわけないのだから当然ではあるが。

    次に、韓国はまず「日本」と交戦した事実はないことを広報によって知らしめるべきである。韓国の若者は朝鮮戦争を日本対韓国、中国、アメリカの戦争であったと妄想を逞しくし、戦勝国であったという幻想に酔っているようだが、無論そんな事実はない。第二次世界大戦中、朝鮮は日本に併合されていたのであり、むしろ日本軍として連合国と戦いたがった。それが事実である。

    「慰安婦問題」については説明を行うことすら馬鹿馬鹿しいので、当時売春は合法な商売であり、日本軍はその健康管理や労働実態を管理したが、日本軍自体がその募集に関与した証拠は全く存在しない。全て民間業者によって募集されている。朝鮮に悪質な業者がいたことは事実であり、娘を騙して慰安所に押し込んだ例もあっただろうが、それは軍の責任ではない。とだけ言っておく。なお、「慰安婦問題」も、本人証言だけしか証拠と呼びうるものはなく、しかもその本人が詐称している可能性が高い。軍が関与していたと言うなら、客観的かつ合理的な証拠が必要であるが、もちろん彼らにそんな理屈は通用しない。

    この件に関してはアメリカに飛び火しているので、駐米大使を召還し、なぜ事態を静観していたのか厳しく詰問すべきである。無論知らなかったは通用しない。情報収集は大使の重要な職務である。やみくもに反論しても泥仕合になるだけなので、アメリカの反韓輿論が盛り上がる気配をキャッチして、これもまた毅然として不当な名誉毀損であると主張すれば良い。そのような機会は韓国および韓国出身者自身がいくらでも提供してくれる。

    そもそも韓国は現在進行形で売春婦を海外へ八万人「輸出」している。うち五万人が日本で稼いでおり、主要な輸出先である。2011 年 12 月 9 日の「韓国経済新聞」で「男性連帯という民間団体の推計では(韓国の売春婦は)189 万人」となっている。海外へは八万人という数字は過小に見積もりすぎたものとしか思えない。韓国の性産業は、GDP 比で言うと、5% を越える一大産業なのである。つまりは、同じ事がかつてもあったというだけのことに過ぎない。馬鹿馬鹿しすぎてため息が出る。

    この件に関して、Wikipedia の英語版における「Comfort women(慰安婦)」の項目は、編集が韓国人の恣意に任されていて日本人の編集だとわかると即座にキャンセルされてしまう。日本政府は、韓国政府および Wikipedia 財団に日本の名誉を著しく毀損したことをもって謝罪と賠償を求める、もしくは、Wikipedia 財団については悪意をもって日本の名誉を傷つけたとして、日米両方で提訴すべきだ。この名誉毀損は GDP に少なからぬ影響を与えていると思われることから、100 億ドルくらい請求しても当然ではなかろうか。

    最後に、日本は第二次世界大戦で行った過ちを悔い、これを繰り返さないことを肝に銘じているが、同時に「中国」と「韓国」が何をしたかも肝に銘じている。そう。肝に銘じている。

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  • 『中国正史』に見える古代日本

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    『中国正史』に見える古代日本」を作成しました。縦書き対応かつルビ対応のブラウザが必要ですが、是非ご覧になって下さい。『漢書』から『新唐書』までに記載されている倭人、倭國、日本に関する下りを抜粋し、原文、訓読文、現代語訳に註をつけています。

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  • 日本の古代史を考える—補足6『魏略』

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    魏略』は魚豢によって編まれた書物で、元々は『三国志』「魏書」と同じ資料を参照して書かれたものだと思われます。現在は写本も伝わっておらず、後の書物に引用された部分が残されている程度です。書かれた年代も末から初ということしかわかっておらず、具体的な編年については定まっていません。ところがその後世に引用された部分に、倭のことが比較的多く出てくるので、日本では早くから注目された書物でもあります。以下、倭に関する引用部分の原文、訓読、現代語訳をあげます。

    原文(『漢書』地理志燕地条・顔師古注より)

    倭在帯方東南大海中依山島爲國度海千里復有國皆倭種

    訓読文

    倭は帯方たいほう東南大海の中にあり、山島にりて國をす。度海とかい千里にしてた國有り。みな倭種。

    現代語訳

    倭は帯方郡から東南の大海の中にあって、山や島ばかりの地で国を建てている。(そこから)海を渡って千里行くとまた国がある。みな、倭人の国である。

    どっちに千里行くのか書いておいてくれよと現代人なら思いますよね。『魏志倭人伝』に従うなら東へ海を千里渡るとなるのですが。それはともかく、決まり文句のように「依山島」という言葉が出てくることに注意して下さい。山はともかく「島」が多いところが「倭」だったのです。当然、奈良県などではないですよね。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國七十里始度一海千余里至対馬國其大官曰卑狗副曰卑奴無良田南北市糴南度海至一支國置官与対同地方三百里

    訓読文

    帯方たいほうより倭に至るには海岸にしたがふ。水行して韓國を拘邪韓國くやかんこくに至る。七十里。はじめて一海をわたる千余里。対馬國に至る。其の大官を卑狗ひくひ、副を卑奴ひぬふ。良田無く南北に市糴してきす。南に海を渡り一支いき國に至る。官を置くこと対に同じ。地の方三百里。

    現代語訳

    帯方郡から倭に行くには、まず海岸沿いに南下し、船で川を航行して韓国を経て拘邪韓國に行く。(ここまで)七十里。そこで初めて海を渡って千里ほど行くと対馬國に着く。そこの長官は「ヒク(或いはヒコ)」といい、副官を「ヒヌ」という。良い田がなく、南北の市に出かけて売買をして食料を得ている。(そこから)南に海を渡ると一支國へ着く。長官、副官など対馬國と同じように置かれている。その地は三百里四方である。

    帯方郡からの旅程の一部を表した部分です。帯方郡から拘邪韓國まで七十里とあります。魏の一里は、443.8 m ですから、約 30 ㎞となり、こちらはこちらで距離があいません。『翰苑』に引用される際に、間違った距離が引用されたのか、もともと間違っていたのか、間に既に失われた別の語句があったのか、今となってはわかりません。なぜ丁度いい七百里を記したものがないのかそれはそれで不思議です。

    なお、ここで「一支國」と出てくるんだから、『魏志倭人伝』の「一大國」はやっぱり「一支國」の間違いじゃないの、と考えがちですが、『翰苑』自体は、代に書かれた本なので、引用の際に修正されている可能性があるのです。悩ましいですね。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    又度海千余里至末廬國人善捕魚能浮没水取之東南五百里到伊都國戸万余置官曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属女王也

    訓読文

    また海をわたること千余里。末廬まつろ國に至る。人く魚を捕へ、く水に浮没して之を取る。東南五百里にして伊都いと國に到る。戸は万余。官を置くに爾支いきといい、副を洩渓觚せもこ柄渠觚へここ?という。その國王、みな女王に属する也。

    現代語訳

    また海を千里あまり渡ると、末廬國に着く。ここの人は魚を捕るのが上手で、巧みに水に浮かんでは潜りして魚を捕る。東南に五百里行くと、伊都國へ到着する。戸数は一万あまり。長官が置かれていて「イキ」といい、副官を「セモコ(或いははシモコ、ヒモコ)」「ヘココ(或いはヘケコ)」という。その国王は代々女王国に服属している。

    「其國王皆属女王也」ですが、『魏志倭人伝』では「丗有王皆統屬女王國」とあるので、それに準じて訳してみました。それにしても官の名称が意味不明です。これは『魏志倭人伝』でも同じで、中には「洩渓觚柄渠觚」でひとつの単語=官職名だと主張する人もいます。それでも意味不明なのは不明なのですが。

    魏志倭人伝』では「有千餘戸」ですが、こちらは「戸万余」です。他の国と比べてあまりに戸数が少ないので、ここは陳寿の書き間違いと思いたいところですが、『後漢書』東夷伝の例がある通り、魚豢が値を改竄した可能性もゼロではありません。あるいは『翰苑』に引用される際の改竄ということも。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    女王之南又有狗奴國以男子爲王其官曰拘右智卑狗不属女王也

    訓読文

    女王の南、また狗奴くぬり。男子を以て王とす。の官を拘右智卑狗くゆじひくふ。女王に属さぬなり

    現代語訳

    女王国の南にはまた狗奴國がある。男性を立てて王としている。行政の長を「クユジヒク」という。女王に服属していない。

    魏志倭人伝』に「其南有狗奴國」とあるのは、女王國の南であることが、この記述からもわかります。

    原文(『翰苑』卷三十より)

    自帯方至女國万二千余里其俗男子皆黥而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后小康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人亦文身以厭水害也

    訓読文

    帯方より女國へ至るには万二千余里。の俗、男子はみなげいし、しかうして文す。の旧語を聞くにみずか太伯たいはくすゑふ。昔、夏后かかう小康の子、会稽かいけいに封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍かうりうの害をけせしむ。今倭人また文身し、以て水害をいとはすなり

    現代語訳

    帯方郡から女王国までは一万二千里余りある。その風俗は、成年男性は皆顔に入れ墨をしてさらに体にも入れ墨をする。その祖先のことを聞いてみると、自分たちは呉の太伯の末裔であると言っている。昔夏王朝の少康王の王子が会稽に領土を貰って移り、髪を切って体に入れ墨することで、大魚水禽の害が避けられると住民に教えた。今倭人もまた体に入れ墨をして、大魚水禽の害を避けている。

    「鯨而文」は「鯨面文(身)」の誤りかも知れません。「聞其旧語自謂太伯之後」の一文は、『魏志倭人伝』にはない記述です。明らかに呉越の人々が倭の地に戦乱を避けてやってきたことを示します。

    原文(『北戸録』卷二・鶏卵卜より)

    倭國大事輒灼骨以卜先如中州令亀視坼占吉凶也

    訓読文

    倭國、大事はすなはちち骨をしゃくし以てぼくとす。せんの中州の令亀れいきの如く、たくて吉凶を占ふなり

    現代語訳

    大事なことがあると、都度骨を焼いて占いをする。昔の中国の亀卜のように、ひび割れを見て吉凶を占う。

    三国志の時代、亀卜は既に廃れていました。なので、「先如中州」とあるわけです。倭にはその亀卜よりさらに古い獣卜が残っていたことを示しています。

    原文(『三国志』「魏書」東夷伝倭人条・裴松之注より)

    其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀

    訓読文

    その俗正歳せいさい四節を知らず、ただ、春耕秋収を計り年紀となす。

    現代語訳

    その風俗には正しい暦がない。ただ、春に耕して、秋に収穫するのを計って一年としている。

    ここの解釈は大きく二つに分かれています。ひとつは「春と秋それぞれで一年と数える、すなわち今の半年がこの頃の倭の一年であった」とする説(古代二倍年歴と呼ばれています)と、もうひとつは、「春に耕して秋に収穫するサイクルをおおざっぱに一年と数えていた。つまり今もこの頃の倭も一年の長さは同じ」とする説です。悩ましいのは「不知正歳四節」とある点で、正歳で正しい年期、四節の節は節句の節で、季節の区切りを意味していると思われる点です。つまり、暦がないとしか言ってないので、春耕秋収もそれ全体で一年を表すと取ることも、春と秋それぞれで一年と取ることもできるのです。悩ましいですね。

    原文(『法苑珠林』魏略輯本より)

    倭南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千余里

    訓読文

    倭の南に侏儒しゅじゅ國有り。其の人のたけ、三四尺。女王國を去ること四千余里。

    現代語訳

    倭の南に侏儒國がある。そこの人は身長が三、四尺しかない。女王国から四千里あまり離れたところにある。

    元の『魏略』には、多分、裸國、黒歯國についても記述があったのでしょうが、引用されていません。

    やけに『翰苑』卷三十からの引用が多いな、そういう本なのか、と思ったあなた。それは間違いです。実はこの本、日本の太宰府天満宮に卷三十だけが現存しているという超貴重本なのです。なので引用も卷三十からしかしようがないんですね。むしろ、倭のことが比較的多く言及されているので、現代まで保存されてきたのではないでしょうか。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—⑦禁婚

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    婚姻を考察する上で、必ず考慮しなくてはならない要素に「禁婚」がある。文字通り、結婚してはいけない相手を定めることである。

    現在の日本においては、

    • 民法734条「直系血族又は3親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない。」と禁婚の範囲が定められている。これには附則があり「2 第817条の9の規定により親族関係が終了した後も、前項と同様とする。」
    • 同735条「直系姻族の間では、婚姻をすることができない。第728条又は第817条の9の規定により姻族関係が終了した後も、同様とする。」と姻族でも直系は不可とする規定がある。
    • 同736条「養子若しくはその配偶者又は養子の直系卑属若しくはその配偶者と養親又はその直系尊属との間では、第729条の規定により親族関係が終了した後でも、婚姻をすることができない。」で、一度養子を取ったら縁組みを解消しても結婚できないよと定めている。

    小難しい言葉が出てくるが、簡単に言うと「直系の血縁(親子孫祖父母など)+三親等以内の血縁(兄弟姉妹オジオバ甥姪)と、結婚した相手の親および連れ子とは離婚しても結婚できないよ。一度養子しちゃったらそれも同じ」ということだ。今の日本では当たり前すぎて誰も疑問を抱かないだろうが、これ、近代国家の禁婚規定としてはかなり甘い制度であると述べたら読者は驚かれるであろうか。

    例えば、儒教の影響が大きい中国では、同姓とは結婚できないという社会通念がある。これは、古代中国のさらに古代に存在した族外婚(群婚)から引き継がれた禁婚規定であると考えられる。族外婚(群婚)は、ある集団の男性は必ず別の決まった集団の女性(ただし相手は不特定)と婚姻関係を結ばなくてはならない。女性も同様である。従って「同集団=同じ氏族=同姓」の者との「性交=婚姻」は禁止される。この禁婚は有史以前から存在し、もちろん中国が歴史時代に入ってからも墨守され、儒教によって補強された上で、現代に至るまで根強い禁婚観念を形作っている。中国が夫婦別姓なのは、このタブーに抵触していないことを明らかにするためであり、別段進んだ夫婦関係があるからではない。朝鮮も儒教の影響下でこの禁婚観念を受け入れたため、長らく同姓同本貫は禁婚であった。今は法律上少し緩められているが、避けられるものなら避けるのではないだろうか。

    そこまで極端ではなくても、血族との結婚を避ける国は多い。通常、いとこは余裕で禁婚範囲である。逆に、いとこと結婚できる国は日本を除けば、イスラム諸国くらいなものではなかろうか。もっとも法律を論えば、存外規制がゆるやかな国も多いだろう。同性婚でも許される時代である。例えばスウェーデンでは、異父、異母の兄弟姉妹とは法律上は結婚できる。しかし、この項で論じたいのは、法律がどうなっているかより、社会通念がどのような禁婚観念に従っているかである。可能であるということと、それが一般的であるということは違うのだ。

    さて、日本は元より、イスラム圏を含む世界各国に近親の婚姻を禁止する法律があるのは、私有財産制度の要請に基づく。現代の私有財産制度一夫一婦もしくは一夫多妻私有婚に依存しており、父と母から子へまたその子へと地位や財産が継承されていくことが保証されなくてはならない。近親婚は、この継承を混乱させるので、禁止されているのである。もちろん、歴史的な経緯が国毎に違うので、どこまでを禁婚範囲とするかは、宗教や国ごとに異なる。基本、直系は不可。祖父母まで遡ると同じ系になる近親も不可。というところではないだろうか。

    高群逸枝氏の『日本婚姻史』によると、日本が嫁取婚=現代に続く所有婚に移ったのは、室町時代以降である。むろん、鎌倉時代以前、院政期から召上婚、進上婚といった形で、嫁取りは存在していた。これが一般化したのが室町期に見て取れるのである。召上、進上といった言葉でもわかるように、この頃から嫁は所有されるものであり、血筋は男が保証するものに変わっていた。戦乱とそれに対抗する暴力支配とその正当化の必要から、男系が何よりも重視され、地位、財産の継承に男系が要求されるようになっていた。従って、他の男の種による子供が生まれることは忌避されるべきことであり、女性の浮気は姦通と見なされ、禁止対象となり、上層の武家では奥と表が分離され、男がみだりに奥へ入ることは忌避されるようになっていく。その上で、近親との婚姻も禁止されたことは想像に難くない。おそらく、禁婚観念は現在とさほど変わらないものであったと思われる。この嫁取婚を取り入れたのは、地方の武士階級だと言われている。俗に言う土豪である。

    では、それ以前の日本はどうだったのだろうか。嫁取婚の前は、婿入婚であり、その前は妻問婚である。

    婿入婚と妻問婚は、婿が妻のもとに通うか、妻の家に住み込むかが大きな違いである。もちろん、婚主が妻の父母か、氏族のオヤであるかなど歴史的に見ればこの転換には議論すべき点が多々あるものの、禁婚観念という観点からは大きな違いは無い。

    この時期の禁婚観を取り上げる上で無視できないのは「記紀」に記された允恭天皇の皇子軽太子かるのみこのみことと皇女軽大郎女かるのおおいらつめの説話である。『古事記』では、二人は同母の兄妹でありながら密通したので、軽太子かるのみこのみことは臣下は元より天下の人に背かれ、兵を起こすも弟の穴穗命あなほのみことに敗北し、伊予に流されてしまう。軽大郎女かるのおおいらつめは後を追い、二人寄り添って死んでいる。『日本書紀』では夏の盛りに「御膳おもの羹汁しる」が凍り付いてしまい、これを怪しんだ天皇が占わせたところ、二人の密通が露見したとある。軽大郎女かるのおおいらつめが罪を負い、伊予に流されることでいったんは落着する。ところがその18年後、軽太子かるのみこのみことは淫虐暴嗜で国人に誹られ、群臣に背かれる。ここで弟の穴穗命あなほのみことが兵を起こし、軽太子かるのみこのみことを殺して一件は落着する。

    これを見て明らかなのは、同母の兄弟姉妹は(もちろん、直系親族も)禁婚の対象になっていることである。このタブーに触れることは、皇太子といえども流罪にされる程であり、また、弑逆の正当な理由となるほどのことなのである。妻問婚にしても、婿入婚にしても、子が妻の実家で育てられるのは変わらず、従って同母の兄妹は同族になる。この期間、母系であるとされるのは、子が母方で育てられ、財産が母系により継承されたためである。その意味では財産が母系に保存されるので、問題ないように見えるが、男は他所に婿へ行くのが通念であり、氏族の外交上もそれが求められるため、実家に留まり子をなすのは奇異なこととなる。また、女子も立場が逆なだけで同じである。一方で、氏姓制度律令制官位に見られるように、子は父の地位を受け継ぐ、または父の地位により優遇される制度がある。ゆえにその間で近親婚があると、その継承に混乱を来す。以上の理由で、直系親族および同母の兄弟姉妹間での婚姻が禁じられたと考えられる。逆に、兄弟姉妹の場合、異母である場合は父が同じでも族が異なるので、婚姻に全く差し支えなく、事実、異母兄弟姉妹の結婚事例は山ほどある。敏達天皇推古天皇が代表例である。また、おじと姪の結婚も珍しくない。天武天皇持統天皇が該当する(尤も天武天皇天智天皇が同母の兄妹ということ自体が怪しいのだが)。

    ここで明らかなのは、私有財産発生以前でも、妻問婚における同母の兄弟姉妹との禁婚に見られるように、氏族の社会的要請に背く婚姻は禁婚とされたこと、私有財産あるいは地位の継承に問題がある婚姻が歴史的に禁婚とされてきたことである。では、その前、つまり妻問婚に先立つ、群婚の場合はどうだったのだろうか。日本の場合、群婚は遺風として記録されているか、あるいは祭りなどのハレの場の儀式として群婚が営まれていただけであり、それが主たる婚姻の風俗であった時代の記録はない。しかし、そこから推測することは可能である。

    日本の場合、群婚は族内婚であったことは既に述べた。性が共有されていたことは、すなわち、財産も共有されていたと推定できる。これは、妻問婚の場合も同じで、財産は母系で継承されたといっても、後世現れるような自立した「家」という単位は未だ存在していない。従って、その財産も氏族で管理されていたわけであり、これが氏族外に出ない限りはその継承者が男であろうと女であろうと問題が無かった。これが婿入婚に移行するのは、墾田の開発が活発になる頃からであり、他所から通ってくる婿も労働力として組織化する要求が豪族層にあり、これに対応して通いから同居、すなわち婿取りに進んだものと考えられる。婿入婚では露顕(ところあらはし)と三日餅(みかのもちひ)が重要な儀式であるが、露顕は文字通り男が通ってきていることを妻方の親族が実見し、婚姻を了承することであり、三日餅は通ってきて三日目頃に餅を婿に食べさせて同族に擬制する儀式である。後世このふたつの儀式はともに最初の通いから三日後くらいに実施されるようになった。同じ釜の飯を食うということが特別な友人関係を表すことが現在でも言われるが、これは神話のヘグヒから来ている古来からの風習である。同族なればこそ首長の指揮下に入るのは当然とされ、これを以て婿入りの実となしたのである。婿取られた男が財産を作ったとしても、それは「同族」たる妻方の資産となるので、やはり母系の継承に破綻はなかった。従って禁婚も妻問婚から引き継ぎ、直系親族と同母の兄弟姉妹を禁婚とする以上のタブーはなかったのである。

    群婚の場合も財産を継承するのは氏族である。しかし性が共有されているということは、生物学的な母は特定可能だとしても、社会的には意味を持たなかった。それは血筋を特定することが困難だからである。妻問婚の場合、離婚が簡単かつ曖昧であったとは言え、ある特定の期間に通う男は基本的に一人(もちろん例外もある)なので、誰との子であるか特定が可能である。これによって氏姓制度律令制官位—つまり、男系での地位の継承が初めて可能になった。この血の連鎖が「血筋」として尊ばれるようになり、奈良時代になると、氏族の中にはじめて「家」というものが登場してくる。それは氏族に包み込まれていることが前提であるとはいえ、ある特定の血筋に固有の財産なり地位なりを継承させることが求められた結果である。これには少なからず中国の影響があることを意識しなくてはならない。しかし、原則は氏族側にあり、同父であっても異母の場合、氏族が異なるわけだから、これを禁婚とする社会的要請がない。氏姓制度律令制もどの父の子かは問題としても、誰の子孫かまでは問わない。そう捉えれば、藤原氏の同族内での骨肉相食むがごとき政争も理解できるのではないだろうか。

    さて、群婚に話を戻すと、相手を特定することは不可能である。あるいは例外として一夫一婦のようなものを契るカップルはあったかも知れない。しかし、それが制度として存在しない以上、血筋など氏族というくくりでしか存在し得ない。そして人々がその氏族の中で生活している以上、「系」は男女いずれであっても問題にしようがなかったのである。また社会的にもそれを要請する原因となるものがない。とすると答えはひとつである。禁婚という観念自体がなかった、あるいは百歩譲って直系の母子ならば禁婚とされたかも知れない。多くの学者は母子は禁婚だったとしているが、私はそうは思わない。なぜなら、母子を禁婚しても意味がないからである。群婚においては「血筋」は問題にならない。メンバー全員等しい。そこに現代の倫理観を持ち込むから意味不明な理由付けが必要になってくるわけで、仮に母子で番となって子ができても、氏族で育て、氏族で生きるのだから何の支障もない。実際、後世の群婚遺制を見ても、そこに禁婚という野暮な概念は持ち込まれていない。性の相手は神が決めるのであり、渺々たる人の身でそれに抗ったと考える方が愚かなのである。遺伝的な問題が云々とか、近親相姦を避ける本能が云々とか下らない戯れ言を真顔で言う似非学者が数多いが、それが科学的に厳密に証明されたことなどただの一度も無い。つまり「ない」のである。

    では、さらにその前段階である「族長婚」ではどうだろうか。これはもう考えるまでもない。性が解放されていたのは「族長」のみ、つまり婚姻可能なのも「族長」のみであり、禁じるとか何とか議論すら無駄である。では近親相姦があったのかと言うと、族を構成しているのは、先代の長の子や先々代の長の子、つまり全員親族であり、近親である。早い話が 100% 近親相姦だったと言える。これは、族内婚に移行しても同じである。族を移動する者が皆無であったとは言わないが、全員がよその群から移ってきたハグレモノでは、族の統一性が保たれない。ヒトの認識は生まれ育った環境に大きく左右されるから、部族が異なるということは、宗教も風俗も習慣も異なり、さらには当初、言語すら通じなかった可能性もある。他の族と接して交渉が本格的に始まる段階—妻問婚まではそうではなかったか。そんなところにポンと身一つで入っていけると考えるのは極めて現代的発想である。祖霊に祝福されない他集団に我から望んで加わっていくのは、それこそ狂気の沙汰であろう。とすると、族の人間は皆身内なのであり、やはり近親婚であったと見なすべきである。

    現代日本に取り分け近親相姦が多いなどという言説が児童虐待と絡めてまことしやかに言われるが、昔から変態は一定比率で存在したのであり、現代になって急に増えたとする理由はない。生まれ落ちたときから近親でセックスはしないもの(だから親のセックスも基本的に隠そうとする。貧乏人には無理だが)という刷り込みが行われている以上、禁婚観念は立派に機能していると言える。だから、昔は近親相姦全開だったからと言って、別段現代を否定されるような心境になる必要はない。現代で近親相姦を試みる者がいるからと言っても、アウトローはいつだって存在するものなのである。しかしだからと言って、現代的観点—つまり、現在の認識から過去を判断しようとすると過ちを犯す。それは歴史を考究する以上、当然のことではないだろうか。しかしながら、婚姻の歴史といった際どい命題になると、途端に馬脚を現す者の多いこと多いこと。以て自らの戒めとすべきであると愚考する。

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  • 婚姻制度の歴史を考える – ①婚姻の始まり

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    人類の始原における婚姻制が何であったかは歴史の遙か彼方のことでもあり、今でも判然としない。しかし血縁による集団を構築していたことはどうやら間違いのないことらしいので、これを出発点として、原始の婚姻制を考えてみたい。

    当たり前のことだが、始原において、婚姻とは性交であった。これが何らの制約がない状態に集団が置かれると、乱婚に陥ることは現代日本を見ても明らかである。結婚するまでは処女でなくてはならず、結婚したら女の浮気は絶対にダメであり、すれば罪に問われる。のが、一夫一婦制度というものである。婚前交渉が花盛りで、不倫乱交が大手を振ってまかり通っている日本の現状を指すものではないことは明々白々としか言いようがない。それはともかく、人類の始原ではどうだったのか。

    人類が誕生したのは、今から500万年前とも600万年前とも言われている。もちろん火は使えず、道具もなく、あるいはあったとしても石を搔いただけの粗末なものでしかなく、サルのように樹上で生活することもできず、肉食獣に狙われ続ける生活である。草食動物のように肉食獣の追跡を振り切る力もない原始のヒトは非常に脆弱な存在であったと言えよう。今でもヒトは恐怖に襲われると体が硬直し身動きできなくなるが、これはパニックに弱い存在を肉食獣にまず食わせることで他の仲間が逃げ切る時間を稼ぎ出す本能的な仕組みではなかろうか。それはともかく、この脆弱なヒトは、外敵を避け、食料を求め、災害から避難するためにどのような手を打ったのか。

    ナポレオンは「リーダー即ち組織なり」と喝破したといい、日本では「上司の命令には服従するのが当然」とする風がある。何のことはない洋の東西を問わず、リーダーの指示に唯々諾々と従うのは人間の本性なのだ。さもないと集団を組織できない以上当然とも言える。とすると先の難問も当然リーダーに丸投げされたことが容易に予想される。難しいことは上の考えること、下はその判断に従うのみ。投げる方も必死だろうが、投げられた方はもっと必死である。どちらへ行けば外敵に出会わずに済むか、そんなのリーダーだってわからないだろう。どこへ行けば食料が手に入るのか。むしろリーダーが聞きたいだろう。巨大な災害に遭遇したときどう行動すればよいのか。パニックに陥らなければ合格点じゃないだろうか。つまるところ不可能課題をリーダーは常に背負い、それを解決してメンバーに指示を出すことが求められていたのである。

    リーダーは懊悩したであろう。そしてかつてそうであったように先代のリーダー、つまりオヤに尋ねたであろう。もちろん既に死んでしまって今は目に見えないことなど百も承知である。それでも問わずにはいられなかったと考えられる状況である。現代の社長連中も占いや手相見に凝る人が少なくないそうだ。ましてや極限状況である。その目に見えない死んでしまった、だけど生きていたときは全面的に頼りにしていたオヤと意思を通じ道を示してくれることを期待して「言葉」が産み出されたと私は考える。決して仲間と対話するためではない。仲間なら目の前にいて産まれた時から一緒なのだから何を考えているか表情やしぐさで見当もつく。目に見えない相手だからこそ「言葉」が必要なのである。(同時に宗教も発生する。どんな民族も、今はアニミズムを取っている民族であっても、その源流を辿れば祖霊崇拝へ至る。それは集団が生き延びるために必要だったのだ。)

    あるいは占いという方法で、オヤが判断を示してくれることを期待し、あるいは、夜空を見上げてはオヤの姿やその指し示すみしるしを探し、あらゆる方法を試して集団が向かうべき方向、外敵が少なく、食料が手に入る方向を目指したのであろう。そのプレッシャーたるや並ではない。原始的と言われる宗教におけるシャーマンの踊りは、一面、狂乱と言って良いほどの激しさを持つものが多いが、始原のヒト集団におけるリーダーも狂乱に近い状態で答えを見いだしていたことは想像に難くない。それほどのプレッシャーである。となると、集団としては、リーダーがリーダーとして使い物にならなくなるのを避けるため、その重圧をある程度解放してやる必要が出てくる。ヒトの二大本能欲は、食欲と性欲である(あるいは睡眠欲を加えて三大欲求と言ったりもする)。食欲を満たすことはメンバー全員に等しくあらねば集団が滅亡する。すると必然的に、性欲を満たすことで重圧の解放としたことは疑いない。ヒトは常時発情し、また性欲が非常に強いことはよく知られた事実であるが、その淵源は不可能課題を克服する重圧の解放にあったと言える。それがリーダー固有の問題であるからこそ、性はリーダーにのみ解放されたと見なすのが自然であろう。

    つまり、始原ヒトは族長婚(あるいはリーダーがすべての女を性の対象にするので集中婚とも言える)だったのである。むろん性欲が強化されたのはリーダーだけではない。すべての男は次のリーダーになる可能性を秘めているので、同様に強化されたであろうし、女はリーダーを(あるいは他の男でも)挑発し、性欲を発散させるために、自らの性欲を強化したであろう。女が欲しくばリーダーになれ。かくして男は切磋琢磨し、集団が生存する可能性を引き上げる。

    とはいえあぶれた男に女はあたらず、性欲を発散できない。となれば何をしたかというとオナニー、あるいはマスターベーションという奴である。もてない男はマスかいて寝ろという俗諺があるが、500万年とも600万年とも言われる人類史のほとんどで、女にあぶれた男はマスかいて寝てたわけである。例えば、コーランには礼拝の前にオナニーしたりセックスしたりしてはいけない、と書いてあったり、ラマダーン(断食月)の間は日の出から日没まで断食とあわせて自慰と性交をしてはならないと定められていたりする。また、古代ギリシャのディオゲネスは公道で自慰をしたという記録があるので、歴史が記録される頃には普通に見られる行為だったことがわかる。あるいは、古代エジプトでは、太陽神ラーが「わが手を合し、わが影にて」抱くすなわち自慰により原初の双生児を生んだと伝えられており、ラーを祭るヘリオポリスでは自慰は神聖な行為であり祝福の対象であったとか。エジプト神話の起源となると大昔どころではない。

    人類が歴史を記録に残すようになってわずか数千年に過ぎず、人類600万年の歴史のほとんどは時の彼方に埋もれたままだが、始原ヒトが族長婚(あるいは集中婚)だったということは、単なる想像と言い切ってしまえないものと考える次第である。

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  • マスコミは責任を取らない

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    非常に興味深い論考がアゴラに投稿されていたので、ぜひみなさんにも読んでいただきたい。以下に各記事に対するリンクを掲載します。


    「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと (1/5)


    「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと (2/5)


    「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと (3/5)


    「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと (4/5)


    「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと (5/5)

    戦前、新聞各社がこぞって戦意を煽り、国民を戦争へ向けて動かした事実はなくなりません。しかし彼らはそれに対して一片の反省記事も書いていません。敗戦のどさくさで頬被りしたまま、今日まで来ています。かつて、椿事件でマスコミが輿論を誘導する悪辣さと傲慢さが話題になりました。マスコミは一部を除いて、ごく一部の偏った思想を持つ人間が影響力を行使したかのように犯人を一斉に擁護しましたが、そんなわけはありません。こうした例は枚挙にいとまがないのです。戦前にも大阪朝日新聞の主筆が時の総理大臣を引きずり下ろしてやると宣言して猛攻撃を行い、ついには総辞職へと追い込んだことがあります。当時、大商社だった鈴木商店米騒動の折りに米を買い占めた悪徳業者であるとする事実無根の捏造キャンペーンを張り、民衆が鈴木商店を襲撃するよう誘導したこともあります。それでいて自分たちが不利益を被りそうだと、報道の自由を盾に猛反発するのです。白虹事件など私に言わせれば自業自得ですが、それをあたかも日本の危機かのごとく未だに宣伝して回っている様は醜悪を通り越して滑稽ですらあります。自己の利益、偏狭な思想のためなら国益や国民のことなどどうでもよいのが、この国のマスコミであり、それが体質として骨の髄までしみ込んでいるのです。反省などどこ吹く風で、妄言を書き捨てて恬として恥じない。それが昔から一貫して変わっていないことをこの論考は我々に教えてくれます。

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