• 『中国正史』に見える古代日本

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    『中国正史』に見える古代日本」を作成しました。縦書き対応かつルビ対応のブラウザが必要ですが、是非ご覧になって下さい。『漢書』から『新唐書』までに記載されている倭人、倭國、日本に関する下りを抜粋し、原文、訓読文、現代語訳に註をつけています。

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  • 日本の古代史を考える—補足4『漢書』地理志燕地条を正しく引用する

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    漢書』地理志燕地条をちゃんと引用したことがないのに気がついたので、内容の正確な理解を助けるために、改めて必要個所を抜き出し、訳文を付ける。

    玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義田蠶織作樂浪朝鮮民犯禁八條相殺以當時償殺相傷以穀償相盜者男沒入爲其家奴女子爲婢欲自贖者人五十萬雖免爲民俗猶羞之嫁取無所讎是以其民終不相盜無門戸之閉婦人貞信不淫辟其田民飲食以籩豆都邑頗放效吏及内郡賈人往往以杯器食郡初取吏於遼東吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條可貴哉仁賢之化也然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云自危四度至斗六度謂之柝木之次燕之分也

    訓読文

    玄菟げんと樂浪らくろう武帝(ぶていの時に置き、皆、朝鮮、濊貉わいばく句驪くり蠻夷ばんいなり。いんの道衰へ、箕子きしが朝鮮に去りき、の民に、禮義れいぎを以て田蠶でんさん、織作をさとす。樂浪らくろう、朝鮮の民、禁八條犯すに、相殺すは當時とうじを以て殺してつぐなひ、相傷つけるは穀を以てつぐなふ。相盜む者、男は沒入しの家のし、女子はす。自らあがなひを欲する者は、人五十萬。免れて民とすといへども、俗、なほこれはじとす。嫁を取るにむくいる所なし。これを以ての民、つひには相盜むことなく、門戸はこれを閉じることなし。婦人は貞信、淫辟いんじならず。田民でんみん籩豆へんとうを以て飲食し、都邑とゆうすこぶる吏及び内郡の賈人こじん放效ならひ、往往、杯器を以て食す。郡、初め吏を遼東りょうとうに取る。吏、民の閉臧へいかんなきを見る。賈人こじんの往く者、夜にすなはち盜をすにおよんで、俗はやうやく益薄く、今は犯に於いて禁ますます多く、六十餘條に至る。とうとかな仁賢じんけんの化なりしかるに東夷とういの天性柔順、三方の外に異なる。ゆえに孔子道の行われざるをいたみ、はしけを海に設け、九夷きゅういに居らんと欲す。ゆえあるそれ樂浪らくろう海中に倭人わじん分有り、百國をす。歳時を以てきたりて獻見けんげんすとふ。危の四度り、斗の六度に至り、これ柝木たくぼくやどりふ。燕の分なり

    現代語訳

    玄菟郡楽浪郡は、武帝の御代に置かれた。みな、朝鮮、濊貉、句驪の蛮夷である。が滅んだ時、箕子が朝鮮にやってきて、朝鮮の民に礼儀に則った稲作、養蚕、機織りを教えたのである。楽浪郡や朝鮮の人民が禁止されている罪八つを犯した場合、人を殺した場合は、すぐに犯人を殺した。人を傷つけた場合は、穀物で贖わせた。盗みの場合、その身分を落として男は盗みに入った家の奴(やっこ)に、女は婢(はしため)にした。自首して贖罪を望むものは、ひとりにつき五十万鐘(の穀物、一鐘は五十㍑)とした。罪を免れ、民としての地位を保ったとしても、これを恥じるように風俗が変わった。嫁を取る場合も代価が不要となり、ここに至って遂に、その人民は盗みを働かず、門戸を閉じることもなくなり、女性は貞淑で、浮気をすることもなくなった。農民は、籩豆(籩は竹で編んだ高坏、豆は木製で塩などを盛る)を使って食事をし、都市には官僚や中国本土の商人をよく見習い、しばしば食器を使って食事を取るようになった。玄菟郡楽浪郡でははじめ、遼東から官僚を選抜していたが、官僚が摘発したのは、人民が門を閉じて交通を閉ざしたりしないので、官僚が見たところ、人民は町の門を夜も閉ざさない。それで、商人で行商する者が夜になると、盗みを働くことであったくようになっていた。その風俗の益化もようやく少しずつ薄れてて、今は、禁止しなくてはならないことがだんだん悪い行いについて禁令がますます多くなり、今は六十条あまりになっている。仁者賢人の教化というのは誠に貴いものである。こういう次第でそうではあるけども東夷の天性は柔順となった。なのであり、そこが北狄西戎南蛮との違いである。だからこそ、孔先生は道が行われないのを悲しみ、小舟を海に浮かべて九夷(九はすべての意、転じて代表の意。この場合は東夷の中心)の地に行きたいと仰った。それには理由があったのだろうか。(もちろんあったのである。)楽浪郡の先の海に倭人の地のいる分度があり、百あまりの国に分かれているがある。礼に則り毎年朝見していたと伝える。(その分度とは天文上の星分度であり)危の四度から斗の六度までの星分度である。これを「柝木の次」と言う。燕の分度である。

    「吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條」の箇所の誤訳を訂正。倭人条は、「夫」が後の句と対になることを示す助字であること、「倭人分」でひとつの熟語であることなど、Blog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんで紹介されていた解釈に基づいて訳し直した。また欠けていた下の句を追加した。(2013年7月20日)

    こうして見渡せば一目瞭然、ここは、中国の聖人賢人の教化が遠い東の果てにまで及んでいたことを自賛賞賛する記事なのである。遠い昔、箕子が朝鮮の人民を教化・巡撫した成果が、時間を隔てた武帝の時代にまで及んでいたと語り、それが海を渡り、空間を隔てた「倭」の地にまで及んでいたと語っている。倭人はその証拠として駆り出されているのである。『漢書』が編纂された後漢において儒教は国家の規範であり、政治の基本でもあった。従ってその祖であり聖人と見なされている孔子に筆が及ぶと言うことは単なる風聞ではなく、歴とした証拠があったと見なくてはならない。その孔子が、礼が行われていると見なした根拠として挙げられている朝見だが、当然それは周礼に基づいたものであることは言うまでもない。後世、『魏志倭人伝』で「其使詣中國皆自稱大夫」「中国にやってくる遣使は、皆大夫を自称した」とあるところから、大夫による朝見であったことが推測される。大夫による朝見は、年一回と決まっていた。ゆえにこの歳時とは一年であることもわかるのである。また、歳時を四時=四季に対応した言葉であると考えるなら、やはり一年を意味することとなる。ところで孔子が生きた春秋時代はもとより、その後の戦国時代も混沌として天下を統べる王が不在の時期であった。だから、倭人が朝見していた天子というのは、西周の天子であることもまたわかるのである。

    この最後の一文「以歳時來獻見云」を前漢武帝以降、つまり楽浪郡が置かれてから倭の遣使が朝貢してきたのだと誤解している人が余りに多いことに驚く。前漢の時代に実際に朝貢があったのなら、班固は「云」とわざわざ伝聞で書いたりしない。然るべき記録を参照し、本紀はともかく、少なくとも朝鮮伝のついでくらいにはその事実を書くはずである。そうしなかったのは、前漢に倭の遣使が朝貢した事実がなかったことを物語る。前漢楽浪郡を置いたことからもわかるようにとの通商は衛氏朝鮮と対立しておりが独占しており、そこを遣使が通過して前漢に朝貢することはできなかった。また、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を含む四郡を設置しても、短期間で楽浪郡以外を放棄せざるを得なかったように、その支配も安定していたとは言い難い。つまり、前漢を通して倭が遣使を出して朝貢する機会はなかったのである。渤海を抜けて遼河から中国に入るルートがあるとお考えの方もおられるだろうが、そこは匈奴の支配下であり、やはり前漢と対立していたので、遣使は不可能であった。では前漢以前はと言うと、は天下を支配した期間があまりに短く(だからとひとまとめにされることが多いのだが)、朝貢を受けた天子は、の天子以外にありえない。なら東周の天子かというと、中華は春秋時代であり、戦乱に明け暮れた時代である。洛陽(東周の都)まで遣使の無事が保証されなかった。そんな時代に遣使することは考えられず、従って倭が「以歳時來獻見」した天子は西周の天子に外ならないという結論に至るのである。縄文時代の人々がなぜに朝貢しようなどと考えたか、それは殷周革命と呼ばれる戦乱に原因がある。は九夷=東夷の助けを得て王朝を建てたと伝えられており、末の三公(西伯昌、九候、郭候)のうちの「九候」も九夷の首長と考えられる。従ってが滅びた影響で、の族や遼東山東の族が周の追撃を逃れて朝鮮や日本に逃げ込んだことは充分に考えられるのである。一方でその自体、高宗武丁王の頃に江南を支配下に置いており、後のの族の一部が西南諸島を経由して日本や朝鮮に逃げ込んだこともまた確実である。中華に燦然たる王朝があることはこうして日本に伝わり、その冊封を受けて族や国の安全を図ろうとすることは何の不思議もないのである。(この項、2013年6月29日に追記)

    コメントでご指摘頂いた分とBlog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんの記事に従い訳文を修正した。最期に「燕之分也」で終わる句だが、これはあるいは倭人が「燕」にも朝貢していたのかも知れないと思い始めた。燕地条自体にも書いてあるが、戦国時代に「燕」は王を称しており、「燕」までなら戦乱に巻き込まれることもなくたどりつけるからである。あるいは、『山海經』第十二「海内北經」に「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」とあるのを引いたのか、別の資料を引いたのか出典は定かでないものの、無視できる内容ではない。(この項、2013年7月20日に追記)

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  • 日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

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    漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

    1. 縄文時代晩期には、既に宗族=國といってよい規模の集団が複数存在していたのではないか。

      根拠は、『漢書』地理志である。今更くだくだしい説明は不要であろう。

    2. の使節は朝鮮半島内で陸路を取ったのではないか。

      魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
    3. 倭國(倭奴國)は九州にあったのではないか。

      • 後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
      • 魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
      • 魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
      • 隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
      • やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
      • 舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。
    4. 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。

      • 魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
      • 隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
      • 舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
      • 魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である。
    5. 宋書』夷蠻伝倭國条に名前が出る「倭王武」を雄略天皇に比定する根拠は何か。

      「武」と「ワカタケル」の語感が似ているからなどというのは論外だが、根拠は何だろうか。

      • 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘には「獲□□□鹵大王世」と欠字があって何と言う大王だったか不明である。
      • 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘には「獲加多支鹵大王」とあるが、これを「ワカタケル」と読むのは何故か。
      • 仮に両者とも「ワカタケル大王」だとしてこれが雄略天皇であるという科学的な根拠は何か。
    6. 隋書』東夷伝俀国条で名前が出るオオキミ「多利思比孤」を聖徳太子に比定する根拠は何か。

      聖徳太子の逸話はすべて『日本書紀』から出ており、これほど重要な人物であるにも関わらず『古事記』では触れられていない。

      • 「多利思比孤」はオオキミを号していたとあるが、聖徳太子は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいる。
      • 裴世清は「多利思比孤」に実際に会っており、遣隋使の使者のごまかしでないことは明らかである。
      • 聖徳太子には「多利思比孤」に類似する別名がない。
    7. 太宰府」はいつ誰の指示によって造営されたのか。

      「遠の朝廷」と呼ばれ、殷賑を極めた都会であったことがわかっているのに、それがいつ誰の指示で造営されたか記録がない。

      • Ⅰ期の遺構は、白村江の戦いの後、天智天皇が「那津官家」を移したものとされているが、天智天皇が「那津官家」を移したという記録を基にⅠ期遺構の造営時期を決定しているだけで、まるで科学的根拠がない。『記紀』にも大規模な造営があったとは記録されていない。造営時期の比定が無茶苦茶である。
      • Ⅱ期の造営時期については、歴史学者の単なる妄想を述べているに過ぎない。律令制度上の要請があり、大改築を行ったのなら、正史に記録が残って当然であるのに、その事実を無視している。
      • Ⅱ期の遺構により、条坊制を採用していたことが明らかであり、あるいは長安が直接的なモデルになったことは明らかである。
      • 太宰府天満宮は非常に大規模な大社だが、菅原道真を祭る前は何の神を祭っていたか記録がない。
      • 鴻臚館が置かれ、古くから外交の根拠地となっていたが、それならなぜもっと便のよい海岸よりに造営しなかったのか。元は海岸沿いにあったという人もいるが、それならなぜ「白村江の戦い」で大敗した後に移転したのか。現に二年後にはから使者を迎え、遣唐使を派遣している。とてもそんな緊張があったとは考えられない。

    まだ他にも細かく詮索したいところはあるのだが、少なくともこれらの疑問は、日本の古代史を勉強する上で、放置しておいて良い問題ではないと考える。

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  • 日本の古代史を考える—⑬漢書地理志再考

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    漢書』地理志について、考証、説明が不足していたので改めて取り上げます。

    然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

    かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

    前漢武帝以来、儒教は漢の国是でした。孔子は聖人であり、単なる憶測や伝聞でその人となりを揶揄するようなまねは厳に慎まなければならないことでした。畢竟、孔子に筆が及ぶということは、相当の確信があってのことだということになります。そのような時代背景で記述された『漢書』においてもそれは同様です。

    では『漢書』において、なぜ孔子は「以歳時來獻見云」とある東夷が住まう地に行きたいと愚痴を零したと記されたのでしょう。もちろん孔子本人がそう言っていたからですが、それには理由があったと『漢書』の編纂者(=班固)は述べています。単なる憶測や伝聞でそんなことを述べたわけではないことは、既に書きまたし、改めてご理解頂けると思います。

    ではなぜ「以歳時來獻見云」「定期的に朝貢してきていたと言う」事実が、孔子が零した愚痴の根拠となるのでしょう? それを理解するには『歳時』が何かを理解する必要があります。

    孔子は「周礼」を重視しました。孔子が礼という時、それは「周礼」のことです(ここで言う「周礼」は「」で行われていた礼という意味で、現在に伝わる書物の「周礼」ではありません)。その「周礼」では諸侯が天子に見える時期について以下のように定めています。

    諸侯朝見天子有三種形式。每年派大夫朝見天子稱為小聘、每隔三年派卿朝見天子為大聘、每隔五年親自朝見天子為朝。

    諸侯が天子に朝見する場合、三種類の形式がある。
    毎年大夫を派遣して天子に朝見することを「小聘」と称する。
    三年ごとに卿(大臣)を派遣して天子に朝見することを「大聘」と称する。
    五年ごとに諸侯自身が天子に朝見することを「朝」と称する。

    後に倭から朝貢してきた者は皆「大夫」を自称したとあります。

    『後漢書』東夷伝「使人自稱大夫」
    『魏志倭人伝』「皆自稱大夫」
    『晋書』東夷伝「皆自稱大夫」
    『隋書』東夷伝「漢光武時遣使入朝自稱大夫」

    つまり、周礼に言う「小聘」を実行していたのであり、だからこそ「以歳時」と書かれているのです。

    そのような礼はもちろん、渡来人/帰化人が持ち込んだことは言うまでもありません。しかし、それを受け入れる土壌が縄文時代晩期の日本には既にあったことがわかります。朝見は一集落の人間がその気になったからと言って気軽にできることではありません。表を用意し、献上品を選定し、身なりを整えと、少なくともある程度の規模の集団でないと準備もおぼつきません。まして毎年行うのですから、一氏族、一部族でこれを行うことなどできません。周囲の氏族、部族が合同して送り出さねば、成周にたどり着くことすらおぼつかないでしょう。

    さて、一般に縄文時代はそのようなことができる文化的背景があったと理解されているでしょうか。試みに「縄文時代 画像」で検索してみて下さい。牧歌的で小集団に別れて狩猟や採集をしている姿ばかりです。なぜ、今から 3000 年前の人々が半分裸で、呑気に暮らしていたなどと言えるのでしょう。「分爲百餘國」とあるのですから、少なくとも家族単位で孤立して暮らしていたなどということはありえない妄想です。もちろん国家などというものではなかったに違いありません。そのような権力の集中と思われる遺品は弥生時代以降に出土するからです。いえ、ということになっています。しかし、大規模な宗族といった単位で氏族、部族が統率されていたことは充分にうかがい知れる表現です。もちろんその情報をもたらしたのは朝見に来た「倭人」です。

    さて、我々が抱いている根拠のない、3000 年前といえばこの程度だろうという言われなき蔑視観と、『漢書』地理志に書かれた立派な倭人。どちらが私たちの先祖の本当の姿でしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—①漢書地理志

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    日本は『古事記』『日本書紀』以前に歴史書があったことは明らかにされているが、その内容については、『古事記』『日本書紀』に盛り込まれたもの(どれがそうであるかは不明である)のほかに現代に伝わっているものはごくわずかでしかない。そこで古来より中国の歴史書を引くことが当然とされてきた。しかしその内容については充分に吟味され、教育されているとは言い難い。日本が始めて登場する中国の歴史書は『漢書』であるが、高校の授業でも、百あまりの国に別れていたという程度のことしか教えられない。しかしこの条の本質はそんなところにはない。その前こそが重要なのである。以下に地理志燕地倭人条を示す。

    然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

    以下読み下し文

    然して東夷の天性柔順、三方のほかに異なる。故に孔子、道の行われざるをしみ、いかだを海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆゑ)有るかな。楽浪らくろう海中に倭人あり、 分かれて百余国と為し、 歳時を以つて来たりて献見すとふ。

    訳文

    かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

    この条の前段には、楽浪郡が置かれる前の朝鮮について、が滅んだ後、箕子が赴いてを建て、人民を教化したとある。その仁を賞賛し、その教化が東夷全体に及んだ証拠として、倭人条が続けて記されているのである。ここで重要なのは、孔子がその生きた時代、即ち春秋時代に道が行われないと嘆き、海を渡って東夷の地へ行きたいと(九夷は、中国語で「九州=全世界」とあるのと同じで、すべての東夷、あるいは東夷を代表するものという意味)こぼしたことに対して、それには理由があったのだと続いている点である。有名な「楽浪海中に倭人あり…」の文はその後に続くのである。末尾の「云」は単に「と言う」と簡単に訳してしまっている場合が多いが、漢書は、個人が酔狂で書いた適当な感想文ではない。後漢王朝により、前漢の正式な国史と認められた書物なのである。従ってこの伝聞は、噂に聞いたなどという意味ではなく、そのように正式な記録が伝えられている。あるいは、信憑すべき歴史上のできごととして伝えられている。ということなのである。孔子がまさに「道が行われている」と信じたからには、野蛮人が物珍しげに都へやってきた程度のことであろうはずがない。威儀を正し、礼儀を守り、道理にかなった正式な遣使が定期的にやってきたからこそである。孔子はうろんなことを口にする人ではなかったから、孔子の言葉の根拠として挙げられた倭人の伝聞もまた充分に根拠があって書かれているのだ。

    なお、ここまでくれば、ではその天子とは誰か? は改めて述べるまでもないだろう。それは、天子である。孔子がいかに周礼を重視したかは今でも伝わっている。つまり、この条は、西周時代に倭人が朝貢していたことを示す重要な文章なのである。日本はその頃、縄文時代晩期(ウィキペディア日本史時代区分表に基づく)である。

    しかも、朝貢である限り、倭人は臣下ということになるが、臣下であればお目見えの際に表を呈するのが礼儀である。つまり、その頃の倭人には(もちろん渡来人/帰化人であろうが)、文字を読み書きできる者がいた=文字が伝わっていたという事実を見落としてはならない。現時点で、歴史的/考古学的に確認できる最古の文字は、志賀島の金印である。「漢委奴國王」という例の金印だが、これは拝受する方が文字を解さないと、光武帝がの使節に下げ渡す意味がない。もちろん現代のように誰でも読み書きできたわけではなく、上流階級の一部が読み書きできただけだろうが、とにもかくにもその頃には日本にも文字があったと言いうる証拠である。文字をもたらしたのは渡来人/帰化人であるのは間違いないが、別に前漢滅亡から後漢建国の頃に限らずそれまでも渡来人/帰化人は日本に来ていたのであり、とすれば、文字もそれだけ古くから伝わっていたと考えるのが常識である。倭人条はそれを裏書きしていると言えよう。惜しむらくは縄文時代晩期あるいは弥生時代初期の遺物でさえ文字の記されているものがないことである。今後の発見が待たれる。

    縄文人というと文字も知らず、記録も口伝だけで部族単位で小集落を作り、それぞれで牧歌的に狩猟採集していただけかのようなイメージがあるが、いかにそれが空想的で誤ったイメージであるかがわかる。漢書地理志の一文は、本来、そのように読み解くべき内容なのである。

    同日追記。なお、後漢時代に王充が著した『論衡』には、以下の文が含まれている。

    之時 天下太平 倭人來獻暢草 (第五卷 異虚第十八)
    時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 (第八卷 儒增第二十六)
    成王之時 越常獻雉 倭人貢暢 (第十九卷 恢國第五十八)

    王充は当時流行していた讖緯説・陰陽五行説に基づく迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理をこの書で徹底的に批判しているので、さすがに倭の朝貢が虚妄であると片付けることはできない。これも西周時代に倭が朝貢していたことを示す、貴重な証拠である。

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