• 婚姻制度の歴史を考える—⑦禁婚

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    婚姻を考察する上で、必ず考慮しなくてはならない要素に「禁婚」がある。文字通り、結婚してはいけない相手を定めることである。

    現在の日本においては、

    • 民法734条「直系血族又は3親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない。」と禁婚の範囲が定められている。これには附則があり「2 第817条の9の規定により親族関係が終了した後も、前項と同様とする。」
    • 同735条「直系姻族の間では、婚姻をすることができない。第728条又は第817条の9の規定により姻族関係が終了した後も、同様とする。」と姻族でも直系は不可とする規定がある。
    • 同736条「養子若しくはその配偶者又は養子の直系卑属若しくはその配偶者と養親又はその直系尊属との間では、第729条の規定により親族関係が終了した後でも、婚姻をすることができない。」で、一度養子を取ったら縁組みを解消しても結婚できないよと定めている。

    小難しい言葉が出てくるが、簡単に言うと「直系の血縁(親子孫祖父母など)+三親等以内の血縁(兄弟姉妹オジオバ甥姪)と、結婚した相手の親および連れ子とは離婚しても結婚できないよ。一度養子しちゃったらそれも同じ」ということだ。今の日本では当たり前すぎて誰も疑問を抱かないだろうが、これ、近代国家の禁婚規定としてはかなり甘い制度であると述べたら読者は驚かれるであろうか。

    例えば、儒教の影響が大きい中国では、同姓とは結婚できないという社会通念がある。これは、古代中国のさらに古代に存在した族外婚(群婚)から引き継がれた禁婚規定であると考えられる。族外婚(群婚)は、ある集団の男性は必ず別の決まった集団の女性(ただし相手は不特定)と婚姻関係を結ばなくてはならない。女性も同様である。従って「同集団=同じ氏族=同姓」の者との「性交=婚姻」は禁止される。この禁婚は有史以前から存在し、もちろん中国が歴史時代に入ってからも墨守され、儒教によって補強された上で、現代に至るまで根強い禁婚観念を形作っている。中国が夫婦別姓なのは、このタブーに抵触していないことを明らかにするためであり、別段進んだ夫婦関係があるからではない。朝鮮も儒教の影響下でこの禁婚観念を受け入れたため、長らく同姓同本貫は禁婚であった。今は法律上少し緩められているが、避けられるものなら避けるのではないだろうか。

    そこまで極端ではなくても、血族との結婚を避ける国は多い。通常、いとこは余裕で禁婚範囲である。逆に、いとこと結婚できる国は日本を除けば、イスラム諸国くらいなものではなかろうか。もっとも法律を論えば、存外規制がゆるやかな国も多いだろう。同性婚でも許される時代である。例えばスウェーデンでは、異父、異母の兄弟姉妹とは法律上は結婚できる。しかし、この項で論じたいのは、法律がどうなっているかより、社会通念がどのような禁婚観念に従っているかである。可能であるということと、それが一般的であるということは違うのだ。

    さて、日本は元より、イスラム圏を含む世界各国に近親の婚姻を禁止する法律があるのは、私有財産制度の要請に基づく。現代の私有財産制度一夫一婦もしくは一夫多妻私有婚に依存しており、父と母から子へまたその子へと地位や財産が継承されていくことが保証されなくてはならない。近親婚は、この継承を混乱させるので、禁止されているのである。もちろん、歴史的な経緯が国毎に違うので、どこまでを禁婚範囲とするかは、宗教や国ごとに異なる。基本、直系は不可。祖父母まで遡ると同じ系になる近親も不可。というところではないだろうか。

    高群逸枝氏の『日本婚姻史』によると、日本が嫁取婚=現代に続く所有婚に移ったのは、室町時代以降である。むろん、鎌倉時代以前、院政期から召上婚、進上婚といった形で、嫁取りは存在していた。これが一般化したのが室町期に見て取れるのである。召上、進上といった言葉でもわかるように、この頃から嫁は所有されるものであり、血筋は男が保証するものに変わっていた。戦乱とそれに対抗する暴力支配とその正当化の必要から、男系が何よりも重視され、地位、財産の継承に男系が要求されるようになっていた。従って、他の男の種による子供が生まれることは忌避されるべきことであり、女性の浮気は姦通と見なされ、禁止対象となり、上層の武家では奥と表が分離され、男がみだりに奥へ入ることは忌避されるようになっていく。その上で、近親との婚姻も禁止されたことは想像に難くない。おそらく、禁婚観念は現在とさほど変わらないものであったと思われる。この嫁取婚を取り入れたのは、地方の武士階級だと言われている。俗に言う土豪である。

    では、それ以前の日本はどうだったのだろうか。嫁取婚の前は、婿入婚であり、その前は妻問婚である。

    婿入婚と妻問婚は、婿が妻のもとに通うか、妻の家に住み込むかが大きな違いである。もちろん、婚主が妻の父母か、氏族のオヤであるかなど歴史的に見ればこの転換には議論すべき点が多々あるものの、禁婚観念という観点からは大きな違いは無い。

    この時期の禁婚観を取り上げる上で無視できないのは「記紀」に記された允恭天皇の皇子軽太子かるのみこのみことと皇女軽大郎女かるのおおいらつめの説話である。『古事記』では、二人は同母の兄妹でありながら密通したので、軽太子かるのみこのみことは臣下は元より天下の人に背かれ、兵を起こすも弟の穴穗命あなほのみことに敗北し、伊予に流されてしまう。軽大郎女かるのおおいらつめは後を追い、二人寄り添って死んでいる。『日本書紀』では夏の盛りに「御膳おもの羹汁しる」が凍り付いてしまい、これを怪しんだ天皇が占わせたところ、二人の密通が露見したとある。軽大郎女かるのおおいらつめが罪を負い、伊予に流されることでいったんは落着する。ところがその18年後、軽太子かるのみこのみことは淫虐暴嗜で国人に誹られ、群臣に背かれる。ここで弟の穴穗命あなほのみことが兵を起こし、軽太子かるのみこのみことを殺して一件は落着する。

    これを見て明らかなのは、同母の兄弟姉妹は(もちろん、直系親族も)禁婚の対象になっていることである。このタブーに触れることは、皇太子といえども流罪にされる程であり、また、弑逆の正当な理由となるほどのことなのである。妻問婚にしても、婿入婚にしても、子が妻の実家で育てられるのは変わらず、従って同母の兄妹は同族になる。この期間、母系であるとされるのは、子が母方で育てられ、財産が母系により継承されたためである。その意味では財産が母系に保存されるので、問題ないように見えるが、男は他所に婿へ行くのが通念であり、氏族の外交上もそれが求められるため、実家に留まり子をなすのは奇異なこととなる。また、女子も立場が逆なだけで同じである。一方で、氏姓制度律令制官位に見られるように、子は父の地位を受け継ぐ、または父の地位により優遇される制度がある。ゆえにその間で近親婚があると、その継承に混乱を来す。以上の理由で、直系親族および同母の兄弟姉妹間での婚姻が禁じられたと考えられる。逆に、兄弟姉妹の場合、異母である場合は父が同じでも族が異なるので、婚姻に全く差し支えなく、事実、異母兄弟姉妹の結婚事例は山ほどある。敏達天皇推古天皇が代表例である。また、おじと姪の結婚も珍しくない。天武天皇持統天皇が該当する(尤も天武天皇天智天皇が同母の兄妹ということ自体が怪しいのだが)。

    ここで明らかなのは、私有財産発生以前でも、妻問婚における同母の兄弟姉妹との禁婚に見られるように、氏族の社会的要請に背く婚姻は禁婚とされたこと、私有財産あるいは地位の継承に問題がある婚姻が歴史的に禁婚とされてきたことである。では、その前、つまり妻問婚に先立つ、群婚の場合はどうだったのだろうか。日本の場合、群婚は遺風として記録されているか、あるいは祭りなどのハレの場の儀式として群婚が営まれていただけであり、それが主たる婚姻の風俗であった時代の記録はない。しかし、そこから推測することは可能である。

    日本の場合、群婚は族内婚であったことは既に述べた。性が共有されていたことは、すなわち、財産も共有されていたと推定できる。これは、妻問婚の場合も同じで、財産は母系で継承されたといっても、後世現れるような自立した「家」という単位は未だ存在していない。従って、その財産も氏族で管理されていたわけであり、これが氏族外に出ない限りはその継承者が男であろうと女であろうと問題が無かった。これが婿入婚に移行するのは、墾田の開発が活発になる頃からであり、他所から通ってくる婿も労働力として組織化する要求が豪族層にあり、これに対応して通いから同居、すなわち婿取りに進んだものと考えられる。婿入婚では露顕(ところあらはし)と三日餅(みかのもちひ)が重要な儀式であるが、露顕は文字通り男が通ってきていることを妻方の親族が実見し、婚姻を了承することであり、三日餅は通ってきて三日目頃に餅を婿に食べさせて同族に擬制する儀式である。後世このふたつの儀式はともに最初の通いから三日後くらいに実施されるようになった。同じ釜の飯を食うということが特別な友人関係を表すことが現在でも言われるが、これは神話のヘグヒから来ている古来からの風習である。同族なればこそ首長の指揮下に入るのは当然とされ、これを以て婿入りの実となしたのである。婿取られた男が財産を作ったとしても、それは「同族」たる妻方の資産となるので、やはり母系の継承に破綻はなかった。従って禁婚も妻問婚から引き継ぎ、直系親族と同母の兄弟姉妹を禁婚とする以上のタブーはなかったのである。

    群婚の場合も財産を継承するのは氏族である。しかし性が共有されているということは、生物学的な母は特定可能だとしても、社会的には意味を持たなかった。それは血筋を特定することが困難だからである。妻問婚の場合、離婚が簡単かつ曖昧であったとは言え、ある特定の期間に通う男は基本的に一人(もちろん例外もある)なので、誰との子であるか特定が可能である。これによって氏姓制度律令制官位—つまり、男系での地位の継承が初めて可能になった。この血の連鎖が「血筋」として尊ばれるようになり、奈良時代になると、氏族の中にはじめて「家」というものが登場してくる。それは氏族に包み込まれていることが前提であるとはいえ、ある特定の血筋に固有の財産なり地位なりを継承させることが求められた結果である。これには少なからず中国の影響があることを意識しなくてはならない。しかし、原則は氏族側にあり、同父であっても異母の場合、氏族が異なるわけだから、これを禁婚とする社会的要請がない。氏姓制度律令制もどの父の子かは問題としても、誰の子孫かまでは問わない。そう捉えれば、藤原氏の同族内での骨肉相食むがごとき政争も理解できるのではないだろうか。

    さて、群婚に話を戻すと、相手を特定することは不可能である。あるいは例外として一夫一婦のようなものを契るカップルはあったかも知れない。しかし、それが制度として存在しない以上、血筋など氏族というくくりでしか存在し得ない。そして人々がその氏族の中で生活している以上、「系」は男女いずれであっても問題にしようがなかったのである。また社会的にもそれを要請する原因となるものがない。とすると答えはひとつである。禁婚という観念自体がなかった、あるいは百歩譲って直系の母子ならば禁婚とされたかも知れない。多くの学者は母子は禁婚だったとしているが、私はそうは思わない。なぜなら、母子を禁婚しても意味がないからである。群婚においては「血筋」は問題にならない。メンバー全員等しい。そこに現代の倫理観を持ち込むから意味不明な理由付けが必要になってくるわけで、仮に母子で番となって子ができても、氏族で育て、氏族で生きるのだから何の支障もない。実際、後世の群婚遺制を見ても、そこに禁婚という野暮な概念は持ち込まれていない。性の相手は神が決めるのであり、渺々たる人の身でそれに抗ったと考える方が愚かなのである。遺伝的な問題が云々とか、近親相姦を避ける本能が云々とか下らない戯れ言を真顔で言う似非学者が数多いが、それが科学的に厳密に証明されたことなどただの一度も無い。つまり「ない」のである。

    では、さらにその前段階である「族長婚」ではどうだろうか。これはもう考えるまでもない。性が解放されていたのは「族長」のみ、つまり婚姻可能なのも「族長」のみであり、禁じるとか何とか議論すら無駄である。では近親相姦があったのかと言うと、族を構成しているのは、先代の長の子や先々代の長の子、つまり全員親族であり、近親である。早い話が 100% 近親相姦だったと言える。これは、族内婚に移行しても同じである。族を移動する者が皆無であったとは言わないが、全員がよその群から移ってきたハグレモノでは、族の統一性が保たれない。ヒトの認識は生まれ育った環境に大きく左右されるから、部族が異なるということは、宗教も風俗も習慣も異なり、さらには当初、言語すら通じなかった可能性もある。他の族と接して交渉が本格的に始まる段階—妻問婚まではそうではなかったか。そんなところにポンと身一つで入っていけると考えるのは極めて現代的発想である。祖霊に祝福されない他集団に我から望んで加わっていくのは、それこそ狂気の沙汰であろう。とすると、族の人間は皆身内なのであり、やはり近親婚であったと見なすべきである。

    現代日本に取り分け近親相姦が多いなどという言説が児童虐待と絡めてまことしやかに言われるが、昔から変態は一定比率で存在したのであり、現代になって急に増えたとする理由はない。生まれ落ちたときから近親でセックスはしないもの(だから親のセックスも基本的に隠そうとする。貧乏人には無理だが)という刷り込みが行われている以上、禁婚観念は立派に機能していると言える。だから、昔は近親相姦全開だったからと言って、別段現代を否定されるような心境になる必要はない。現代で近親相姦を試みる者がいるからと言っても、アウトローはいつだって存在するものなのである。しかしだからと言って、現代的観点—つまり、現在の認識から過去を判断しようとすると過ちを犯す。それは歴史を考究する以上、当然のことではないだろうか。しかしながら、婚姻の歴史といった際どい命題になると、途端に馬脚を現す者の多いこと多いこと。以て自らの戒めとすべきであると愚考する。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—③群婚

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    族長婚(集中婚)から私有婚への流れは②で記述した。しかし日本では事情が異なるということも書いた。本稿では、日本において族長婚(集中婚)がどのように変化したかを追っていく。

    ヒトの集団が、縄文時代の日本のような、外敵が少なく(深い森の中でなければ肉食獣としては狼がいるくらい)、食料が豊富な地域にたどり着いた場合、リーダーに対する不可能課題として主要な「外敵からの安全」と「食の確保」という命題が解除される。これは、

    ①リーダーに対するプレッシャーが減少する
     =性の解放をリーダーに限定する必要が薄くなる。
    ②生存においてリーダーに強く依存することで保たれていた集団秩序が崩壊する。

    ことを意味する。また、比較的安全で食料が豊富であるということは、

    ③他の集団も流れ込んでくるため、人口密度が上がり、集団間の緊張が生じる。
    ④集団内の人口も増え、同時に適齢期の男女も増加する。

    従って、ここに新たな集団秩序を構築することが必要となる。集団間の緊張が生じるということは、自集団の結束を高める必要が出てくるのだが、一方でそれまでの族長婚で維持されていた秩序は崩壊しており、そこへ返ることは集団の自滅、または分裂を招く。また、適齢期の男女が増加するということは性に対する要求も強くなると言うことで、リーダーはそれを無視したり、押さえ込んだりすることが極めて難しい状況に置かれる。

    このような中で、性を紐帯として集団の結束を固める集団婚が模索される。同じ食、同じ性を分け合うことで、集団を統合したのである。

    この群婚の風は、時代がだいぶ下るものの、万葉集や常陸国風土記に見られる「歌垣」がこれを裏付けられる。万葉集にある「鷲の住む 筑波の山の もはきつの その津の上に おどもひて をとめをとこの 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言とへ この山を うしはく神の 昔より いさめぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事もとがむな」という歌によって、歌垣がかつて神前集団婚であったこと、また、万葉の時代にもその遺風があったことを伺わせる。

    考古学的には縄文時代が群婚であったことを直接示す遺物は出ていない。しかし当時の住居跡が中央に広場を置いた馬蹄形をなしていることから、高群逸枝氏はここを群婚神事の場と見なし、弥生時代の住居跡が塊状へと変化することを妻問いへの移行のためと判断した。けだし卓見というべきであろう(高群逸枝『日本婚姻史』38頁)。

    しかし一方で、縄文時代の住居規模やそこから出土した人骨の数から、当時一夫一婦またはそれに近い生活実態があり、群婚はなかったとする説が考古学では流行しているようだ。この説に対する反論は簡単で、住居に男女とその子供と思われる骨が出土するのは、住居が子を扶養する目的があり、あるいは男女の性交の場にもなったことまでは言えても、それをもって家族と断定するほど固定的な関係であったとは証明できない点を突けばこの論は崩れる。おそらく歯冠測定法で血縁の有無を調べたのだろうが、歯冠測定法は血縁があることは高い精度で判定できても、血縁がないことは判定できない統計的手法である。従って、例えば岩手県二戸市・上里遺跡の場合のように、出土した複数の男女と子供の骨から、女の一人が男の姉妹であったことは確言できても、それ以外はすべて空想となる。別稿で述べるが、縄文時代といっても長く、後半には既に妻問婚が芽生えていたと考えられるので、やはりただちに現代的な家族を想定することは困難がある。単に男女の骨が一緒に出てきたことを持って現代的な家族を妄想するのは楽しいだろうが、何の根拠もない。いかに縄文時代が豊穣であったと言っても現代の飽食の時代に比べればその貧弱さは話にならないレベルであり、集団のメンバーは集団に依存せずに生きることは不可能だったと思われる。

    さて、群婚にも段階があって、集団内の群婚に対し、後に集団外共婚が発生したと高群逸枝氏は主張する(高群逸枝『日本婚姻史』20頁〜34頁)。確かに、歌垣が、市場(市は多くの集団が交流する場でもある)や入会山などの場に設定されていたのも、他集団との交婚の便宜を考えてのことだとすると、その存在を想定することに無理はない。しかし、氏が挙げた集団外交婚の例が、いずれも海外であり、日本の例が存在しないように、日本ではこれを伺わせる文献史料や考古学的史料、あるいは民俗学的史料が存在しないのである。故に日本では集団外交婚が存在しなかったとする論者もある。

    私は日本の場合、集団内の群婚から妻問婚へ移行したと考える。集団内の群婚は、祭りの際の神事として庶民の間ではかなりの期間残存し、所によっては戦前までその風習が保存されていた。それは既婚者であるかどうかを問わずムラ総出で群婚を営んでいたのであり、そのような風習が残っていたという事実そのものが、集団内群婚から集団外交婚への移行がなかったことを示すと考えられるからである。

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  • 婚姻制度の歴史を考える – ①婚姻の始まり

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    人類の始原における婚姻制が何であったかは歴史の遙か彼方のことでもあり、今でも判然としない。しかし血縁による集団を構築していたことはどうやら間違いのないことらしいので、これを出発点として、原始の婚姻制を考えてみたい。

    当たり前のことだが、始原において、婚姻とは性交であった。これが何らの制約がない状態に集団が置かれると、乱婚に陥ることは現代日本を見ても明らかである。結婚するまでは処女でなくてはならず、結婚したら女の浮気は絶対にダメであり、すれば罪に問われる。のが、一夫一婦制度というものである。婚前交渉が花盛りで、不倫乱交が大手を振ってまかり通っている日本の現状を指すものではないことは明々白々としか言いようがない。それはともかく、人類の始原ではどうだったのか。

    人類が誕生したのは、今から500万年前とも600万年前とも言われている。もちろん火は使えず、道具もなく、あるいはあったとしても石を搔いただけの粗末なものでしかなく、サルのように樹上で生活することもできず、肉食獣に狙われ続ける生活である。草食動物のように肉食獣の追跡を振り切る力もない原始のヒトは非常に脆弱な存在であったと言えよう。今でもヒトは恐怖に襲われると体が硬直し身動きできなくなるが、これはパニックに弱い存在を肉食獣にまず食わせることで他の仲間が逃げ切る時間を稼ぎ出す本能的な仕組みではなかろうか。それはともかく、この脆弱なヒトは、外敵を避け、食料を求め、災害から避難するためにどのような手を打ったのか。

    ナポレオンは「リーダー即ち組織なり」と喝破したといい、日本では「上司の命令には服従するのが当然」とする風がある。何のことはない洋の東西を問わず、リーダーの指示に唯々諾々と従うのは人間の本性なのだ。さもないと集団を組織できない以上当然とも言える。とすると先の難問も当然リーダーに丸投げされたことが容易に予想される。難しいことは上の考えること、下はその判断に従うのみ。投げる方も必死だろうが、投げられた方はもっと必死である。どちらへ行けば外敵に出会わずに済むか、そんなのリーダーだってわからないだろう。どこへ行けば食料が手に入るのか。むしろリーダーが聞きたいだろう。巨大な災害に遭遇したときどう行動すればよいのか。パニックに陥らなければ合格点じゃないだろうか。つまるところ不可能課題をリーダーは常に背負い、それを解決してメンバーに指示を出すことが求められていたのである。

    リーダーは懊悩したであろう。そしてかつてそうであったように先代のリーダー、つまりオヤに尋ねたであろう。もちろん既に死んでしまって今は目に見えないことなど百も承知である。それでも問わずにはいられなかったと考えられる状況である。現代の社長連中も占いや手相見に凝る人が少なくないそうだ。ましてや極限状況である。その目に見えない死んでしまった、だけど生きていたときは全面的に頼りにしていたオヤと意思を通じ道を示してくれることを期待して「言葉」が産み出されたと私は考える。決して仲間と対話するためではない。仲間なら目の前にいて産まれた時から一緒なのだから何を考えているか表情やしぐさで見当もつく。目に見えない相手だからこそ「言葉」が必要なのである。(同時に宗教も発生する。どんな民族も、今はアニミズムを取っている民族であっても、その源流を辿れば祖霊崇拝へ至る。それは集団が生き延びるために必要だったのだ。)

    あるいは占いという方法で、オヤが判断を示してくれることを期待し、あるいは、夜空を見上げてはオヤの姿やその指し示すみしるしを探し、あらゆる方法を試して集団が向かうべき方向、外敵が少なく、食料が手に入る方向を目指したのであろう。そのプレッシャーたるや並ではない。原始的と言われる宗教におけるシャーマンの踊りは、一面、狂乱と言って良いほどの激しさを持つものが多いが、始原のヒト集団におけるリーダーも狂乱に近い状態で答えを見いだしていたことは想像に難くない。それほどのプレッシャーである。となると、集団としては、リーダーがリーダーとして使い物にならなくなるのを避けるため、その重圧をある程度解放してやる必要が出てくる。ヒトの二大本能欲は、食欲と性欲である(あるいは睡眠欲を加えて三大欲求と言ったりもする)。食欲を満たすことはメンバー全員に等しくあらねば集団が滅亡する。すると必然的に、性欲を満たすことで重圧の解放としたことは疑いない。ヒトは常時発情し、また性欲が非常に強いことはよく知られた事実であるが、その淵源は不可能課題を克服する重圧の解放にあったと言える。それがリーダー固有の問題であるからこそ、性はリーダーにのみ解放されたと見なすのが自然であろう。

    つまり、始原ヒトは族長婚(あるいはリーダーがすべての女を性の対象にするので集中婚とも言える)だったのである。むろん性欲が強化されたのはリーダーだけではない。すべての男は次のリーダーになる可能性を秘めているので、同様に強化されたであろうし、女はリーダーを(あるいは他の男でも)挑発し、性欲を発散させるために、自らの性欲を強化したであろう。女が欲しくばリーダーになれ。かくして男は切磋琢磨し、集団が生存する可能性を引き上げる。

    とはいえあぶれた男に女はあたらず、性欲を発散できない。となれば何をしたかというとオナニー、あるいはマスターベーションという奴である。もてない男はマスかいて寝ろという俗諺があるが、500万年とも600万年とも言われる人類史のほとんどで、女にあぶれた男はマスかいて寝てたわけである。例えば、コーランには礼拝の前にオナニーしたりセックスしたりしてはいけない、と書いてあったり、ラマダーン(断食月)の間は日の出から日没まで断食とあわせて自慰と性交をしてはならないと定められていたりする。また、古代ギリシャのディオゲネスは公道で自慰をしたという記録があるので、歴史が記録される頃には普通に見られる行為だったことがわかる。あるいは、古代エジプトでは、太陽神ラーが「わが手を合し、わが影にて」抱くすなわち自慰により原初の双生児を生んだと伝えられており、ラーを祭るヘリオポリスでは自慰は神聖な行為であり祝福の対象であったとか。エジプト神話の起源となると大昔どころではない。

    人類が歴史を記録に残すようになってわずか数千年に過ぎず、人類600万年の歴史のほとんどは時の彼方に埋もれたままだが、始原ヒトが族長婚(あるいは集中婚)だったということは、単なる想像と言い切ってしまえないものと考える次第である。

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