• 『中国正史』に見える古代日本

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    『中国正史』に見える古代日本」を作成しました。縦書き対応かつルビ対応のブラウザが必要ですが、是非ご覧になって下さい。『漢書』から『新唐書』までに記載されている倭人、倭國、日本に関する下りを抜粋し、原文、訓読文、現代語訳に註をつけています。

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  • 事実に基づく歴史を伝えよう

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    婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

    とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

    人類の歴史は500万年とも600万年とも言われますが、そのほとんどをそうして暮らしてきたのです。氷河期の最中にたくましく生きて子孫を残してきた先祖に、私たちは敬意を持たねばなりません。

    ここで目を日本に向けます。縄文時代は、今から約14,000年前から紀元前六世紀に当たります。温暖で植生が豊か、海産物や川で取れる食料も豊富、危険な肉食獣がほとんどいない、という原初人類にとっては、パラダイスのような地でした。日本の地にたどり着いたリーダーは心底安堵して肩の力を抜いたでしょう。もはやリーダー一人が懊悩を繰り返して元来不可能な課題に対する決断を下さなくてもよくなったのです。となると、性も解放されてしまうのですが、放置すると集団はバラバラになってしまいます。そのままでは、性欲が非常に強化されていますから、各自勝手に乱交となって集団を統率できなくなります。リーダーはやはりどうすればよいか考えなくてはならなかったでしょう。そして、性を神に捧げる神事とすることで、野合を禁じ、集団で定期的に婚姻を営む形を考え出したのでしょう。これが「群婚」です。近親相姦の問題? あんなの学者が現行のタブーを正当化するためにひねり出した世迷い言です。近親相姦を繰り返すと本当に遺伝的障害が現れるかどうかは実験で確かめることも、観察で確認することもできません。早い話がわからないのですよ。でも、現在の日本人に全体として遺伝的に大きな問題があるように見えませんから、そういう問題などないんじゃないですかね?

    この「群婚」の遺風は後々まで、戦後の昭和まで残っていたことは既に述べました。ですが、日本中が全部そうだったとは限らないのです。ここで、『漢書』地理志の倭人について書かれた記述を思い出して下さい。あれは、西周時代に「倭」が朝貢していたことを表しているのだと述べましたが、それは即ち、「倭」—朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部一帯—に中国の風習が移入されたことも意味しているのです。西周時代といえば、今から三千年前に始まる古代の王朝です。少なくとも九州北部の縄文人は、「」の感化を受けていたと考えられます。縄文人には半分裸の未開人なんてイメージがありますが、縄文土器ひとつ取っても見ても、その美意識が現在の我々と変わらないか、あるいは上回っていることを示しています。そういう人たちがどうして未開でありえましょう。まして中国に朝貢していたということは文字すら知っていたことになるのです。縄文人の交易ルートが日本中に広く広がっていたことも併せて考えると、そこに、高度に組織化され、統率された人々の姿を見ないでいることは不可能です。そしてそれがあるからこそ、次の段階の婚姻「妻問婚」も可能になったのです。

    高群逸枝氏は、「群婚」に「族内婚」と「族外婚」の二段階あったと主張されていますが、それにしては後世に残った「群婚」風習がすべて「族内婚」的なものばかりなのが腑に落ちません。これは氏の勇み足で、私は日本には「族外婚」などなかったのだと考えています。そのような過程を経たのなら、それを示す遺風が必ず見つかるはずです。にも関わらず、その前段階の「族内婚」遺風ばかり見つかるのは、「族外婚」がなかった証でもあります。「群婚」から「妻問婚」に到るには、人々が氏族として統率されていないと不可能でした。いかに縄文時代弥生時代が豊かな時代であったとしても、現代とは比較になりません。個人で生きていくなどまず不可能でした。集団の協力があってこそ、族外の男を受け入れ、生まれた子を養うことができたのです。それは小さな数家族が集まっただけの小集団では保障できようはずがありません。もっと大きな氏族という枠組みがあってこそ互いの生活を保障し合えたのです。また、その枠組みに乗っかる形でしか、妻を集団外に求めることはできなかったのです。妻を他所に求めるということは、「群婚」が不利になる事態が既にないとできません。人口密度が高まり、集団と集団が接するように居住するようになると、そのこと自体がストレスとなって集団にかかってきます(とはいえ、現代の超過密社会を想像しないで下さい。狩猟採集を維持するにはとても広い領域が必要だったのです)。そのストレスを緩和し、集団間の対立を回避する方法としてやはり性が使われました。それが「妻問婚」です。そのような事態は、早ければ縄文時代中期に、遅くても弥生時代が始まる頃には生じていたでしょう。「群婚」で集団を閉鎖しているとそのストレスが緩和されず、ことによると暴発してしまいます。実際そうして争いになった集団もあったのでしょう。ここに至って集団保障(という概念があったかどうかは別にして)のために血を分けた一族をすべて統率し、氏族として全体の生存を保障すると同時に、性によって氏族間の緊張を緩和するに到ったと思われます。それが「妻問い」の形を取ったのは、氏族の政治過程を男が担っていたためです。言葉を変えると、外へ出て交渉事などを片付けるのは男の仕事であったため、男が女の元を訪れるという形になったにすぎません。従って子供も母の里で育てられる母系制が成立したと言えます。

    では「群婚」はなくなったのかというと、そういう訳ではありません。神事としての「群婚」は、弥生時代を経て、古墳時代に入り、飛鳥時代になってもまだ庶民の祭りの場に残されていました。それが戦後まで残っていたということは、すべての地域で行われていたわけではないにしろ、延々と余命を保っていたことがわかります。日本人が性に大らかなのは、性を特別視することなく、ムラの大人総出で楽しむ行事が根底にあったからです。ムラの性的行事と言えば「夜這い」が有名ですが、もちろん「夜這い」は柳田民俗学が言うようなお上品なものではありません。夜に男が女の元へ忍んで通うというのはセックスのためであって、馬鹿じゃなかろうかと思います。赤松啓介氏の著作を読めば、みなさんお盛んであったことがよくわかります。そういう意味では「夜這い」とは「婿取婚」や「嫁取婚」で性が封鎖されてしまうことへの「群婚」的反逆だったのかもしれません。「夜這い」の風習がほぼ全国にあったことはよく知られていますが、これをただの乱交だの強姦だのと同列視している人が結構居ることに驚きます。当然、「夜這い」もムラの規律に従って営まれた行事だったのです。ムラごとに掟が異なるので一概には言えないものの、基本的に男女で同意があったからこそ長く続いた風習であったことを忘れてはいけません。(この項2013年6月17日に追記)

    中国では「東周」になってから戦乱の世となり、朝貢どころではなくなってしまいます。この春秋戦国時代は、紀元前221年に「」によって統一されるまで、500年も続きます。ところがその「」もあっという間に滅んで、紀元前202年、王朝が開かれるまで、また戦乱です。その王朝が武帝の頃最盛となり、中国の正史の中でも特に有名な歴史書「史記」が司馬遷によって書かれます。「史記」には倭のことが出てきません。他に書くことが一杯あったのですから仕方ありませんね。その「史記」の「太伯世家」に「於是太佰、仲雍二人乃奔荊蠻、文身斷發、示不可用、以避季歷」とあります。中国では髪を切ることは文明人のすることではなかったので、太伯と仲雍がそれを以てして「」の跡を継がない決意を表したのですが、ここで「文身」と出てくることに注意して下さい。体に入れ墨をしたという意味ですが、後々重要になります。

    さて、そんな戦乱が続いたのなら、当然戦乱を避け、平穏な地を求めた人々がいたことは論を俟ちません。特に春秋時代の終わりには、の戦争が激しくなり、ついにに滅ぼされてしまい、そのに滅ぼされてしまいます。の人々が南西諸島を経由して日本へ逃れてきたこともまた、論を俟ちません。その人々が稲作をもたらしたことは確実とされています。そして「前漢」末から「」を経て「後漢」が建国されるまでもまた戦乱の中にありました。ここでも大量の避難民が日本を訪れ、定住したことでしょう。既に日本は弥生時代に入っていました。平和的に移住できた時代は終わりを告げており、ここ日本でも戦争が頻々と起きていました。外来の人たちと戦争になったこともあるでしょう。その戦争の結果、様々な部族を統合して「国」を建てる一族が次々と現れたと思われます。『後漢書』東夷伝を見れば、建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が朝貢してきています。既に国家が形作られていたのです。この時下賜された金印志賀島から出土したものであることは既に書きました。

    後漢書』東夷伝の倭人条は『魏志倭人伝』を参照して書かれたことが明らかなのですが、「使」を「使」と間違っていたり、「會稽東之東」を「會稽東之東」と勝手に書き直したり、「國大人皆四五婦、下戸或二三婦(その国で身分の高い人は妻を四、五人持ち、平民でも二、三人の妻を持つ者がいる)」を誤読して「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三(その国には女性が多いので、身分の高い者は妻を四、五人持ち、そうでない者も二、三人の妻を持っている)」と爆笑ものの説明をしていたりと、まあ当てにならないこと夥しいのですが、さすがに「後漢」の公式記録から引用された部分は信用してよいでしょう。

    さて、日本のことが詳しく紹介された史上初の書物が『魏志倭人伝』です。景初三年(西暦239年)卑弥呼に朝貢してきた時の記事を含め、その旅程や風俗まで説明されています。この旅程が、所要日数を距離に換算したものであることが、後の『隋書』で明らかになります。当時はレストランなんて気の利いたものはありませんから、食料を調達=狩りをしたり木の実、山菜を採集しながら旅をしたわけで、しかも保存技術も怪しいですから、一度に大量に狩りや採集をして食料を集めておき、旅程を急ぐ、などということも無理だったと思われ、平均すれば、一日に数㎞進むことがやっとだったのではないでしょうか。実際、狩りをしたり、木の実、山菜を集めてなおかつ料理して、そのついでに移動するような状態だったと思います。そしてその『魏志倭人伝』で紹介された「邪馬國」=「山倭(やまゐ)國」が、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、九州北部にまたがる国であったことは間違いなさそうです。九州中部、今の熊本県あたりから南は「狗奴國」だったのでしょう。なぜなら、『隋書』東夷傳俀国条では触れられている阿蘇山について書かれていないからです。

    さてその『魏志倭人伝』では「男子無大小皆黥面文身」で男性は全員入れ墨をする文化があったことを示しています。倭人が入れ墨をするのは、中華の教化が東の果てに及んだためである。と特に注記しているのです。「史記」の「太伯世家」に「断髪文身」が出ていたでしょう。の風俗として入れ墨は非常に昔から有名だったのです。その上、『魏志倭人伝』と同じ資料を参照して書かれたと思しき『魏略』には「聞其旧語自謂太伯之後」と書かれています。「その昔話を聞くと、自分たちは太伯の末裔であると言う」倭の人々は太伯の末裔だと言っていたのです。から渡来した人々がいたことは確実です。その人たちが入れ墨の風習を持ち込んだのでしょう。そして実際、中国江南から、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が発見されているのです。「男子皆露紒」とあるのでまだ冠を被る習慣がないこともわかります。「有屋室、父母兄弟臥息異處」とあるのは、「妻問婚」で男たちは妻方の実家で寝るからだと説明しました。「以朱丹塗其身體」と中国で白粉を使うように朱丹(赤い顔料)を使うとあれば、『古事記』や『日本書紀』で紹介されている風俗と随分異なることがわかります。また、神社で拍手を打って拝礼するのは、元々身分の高い人に対する礼であったことも書いてありました。一方で、この頃ヤマト近辺では「抜歯」の風があったのにそれには全く触れていません。このことからも、「邪馬國」がヤマト王権とは関係ないことが見て取れます。

    現代人の感覚からすると、入れ墨などヤのつく職業の人たちの特徴みたいに考えがちですが、元々は極めて実用的なものであったのです。それが装飾や身分を表す証に変遷していく過程にあったことも記されています。なぜ歴史学者は「記紀」には記述のないこの風習を重視しないのでしょうね。

    そして、空白の四世紀をはさんで、『宋書』に有名な倭王武の上表文が現れます。その「」の時代に編纂されたのが『後漢書』ですが、この時、国名が「邪馬國」=「山大倭(やまだいゐ)國」に変わっています。既に国名に「大」を冠して恥じない実力を倭が備えていたことを示します。当時の倭の風俗についてはわかりませんが、倭王武の上表文から、先祖代々文字通り東奔西走して戦争していたことがわかります。おそらく東は美濃尾張まで、西は肥前天草を征し、北では新羅高句麗と激闘していたのでしょう。南が書かれていないことを考えると、『魏志倭人伝』に言う「狗奴國」は既に征していたか、あるいは「狗奴國」自体が膨張して倭の国々を従えていたのかも知れません。「記紀」にある「神武東征」もこの頃のことではないかと筆者は考えています。「記紀」には神武天皇淡路島から大阪湾に出る際、明石海峡側ではなく、鳴門海峡側をルートとして選んだことが覗える記述があります。明石海峡側は「五色塚古墳」に象徴される強力な豪族が根を張っていて、これと正面から事を構えることを避けたのでしょう。このことは「神武東征」の頃、「倭國」はまだ吉備国(今の岡山県に広島県東部の一部と兵庫県西部の一部をあわせた領域)あたりまでしか支配もしくは同盟していなかったことを示します。それを考慮すると、むしろヤマト政権は、元々倭の東部前線基地と東部総督を兼ねていたのかも知れません。その由緒がヤマトと他の地方政権との違いとなったこともありえない話ではありません。

    宋書』が倭の風俗を伝えていないことは残念です。海外から見た倭の風俗は、『隋書』まで、即ち六世紀末から七世紀初頭まで空白のままです。しかし『隋書』によると、複式統治が行われていたので、卑弥呼以来の制度が続いていたことが覗えます。冠位十二階があったことはかなり早い段階から位階を設けて豪族を組織化していたことを覗わせます。それが倭王武やその前後の王によって創始されたと考えてもおかしくはないでしょう。そして「」の時代までは冠を被るという風習はなかったのですが、その頃定めたとあります。『隋書』には「男女多黥臂點面文身没水捕魚」とあります。『魏志倭人伝』では男子のみが実用から入れ墨をしていたのが、男女共通の習俗に変化しています。身分を表し、装飾を兼ねていたのは言うまでもありません。当たるも八卦当たらぬも八卦の卜筮は「知卜筮尤信巫覡」とあるのでこの頃には既に一般化していたこともわかります。嫁入りの風習を取り入れていたようですが、「男女相悦者即爲婚」ということで、後の嫁取婚とは全く異なるものだったことがわかります。「貴人三年殯於外」三年間の殯は、中国の儒教の影響がよく現れています。儒教では父母が死ぬと三年間喪に服するのが正式です。尤も、本家中国ではそのような礼は既に孔子の時代でも廃れていたことがわかっています。やはり春秋時代ですが、晏嬰という人が父の喪に本当に三年間服したことが天下の話題になっています。それくらい稀なことだったのです。孔子の死から千年以上経っているのにその教えた礼が形を変えていたとはいえ日本に保存されていたのが面白いところです。文化は中央で生まれ外部へと波及していくのですが、中央でそれが廃れた後も周辺ではよく保たれることが明らかになっています。方言の変遷を説明するのによく援用される理論なのですが、もちろん文化全般に言えることです。四世紀から五世紀の間に様々な風習が中国から影響を受けて生まれていたことがわかりますね。

    日本が中国から影響を受けた風習というと、殯と関連して土葬があげられます。日本は仏教が入った後も長い間土葬が併せて行われていましたが、それは死者の肉体を神聖視し、様々な儀式を儒教が行ったことに由来します。また仏壇というと位牌がつきもののように日本人は考えますが、この位牌というのも由来は儒教です。年功序列=「先輩が上、後輩は下」も儒教です。ブルーカラーよりホワイトカラーを何となく上に見るのも儒教思想に由来します。和を以て貴しとなすという思想も儒教由来です。教育を重視し、子供を愛育すべしという考え方も儒教が根源です。年寄りを労り親を大切にするのも儒教の教えです。今時の宴会は無礼講が当たり前ですが、それでも敢えて無礼講を宣言する場合があるのも、儒教にその根っ子があります。掘り出せばもっと出てくると思います。間違いなく日本人の原風景には中国の影響があるのです。儒教ではありませんが、帽子を被るというのも中国の風習が元です。今や帽子を被る人を滅多に見なくなりましたが、ほんの四、五十年前までは正式な場で無帽は失礼だとされていたのです。閑話休題。

    さて、この頃のヤマト王権の影響範囲はどこからどこまでだったのでしょう。「記紀」にあるオケ王・ヲケ王の物語から、播磨は王権の及ばない地と考えられていたことがわかります。すると、西は摂津の国までだったのでしょう。東については美濃尾張あたりではないでしょうか。天武天皇の挙兵に応じた東国の兵とはそれらの国の兵団でした。とても全国政権とは言えませんね。

    では全国…とはいかなくても南は薩摩大隅屋久島種子島から東は美濃尾張までを配下に治め、号令をかける存在がなかったかというと、それが倭のオオキミだったことが、『宋書』倭王武の上表文から見て取れます。『隋書』においても九州の多利思北孤が倭のオオキミであり、倭を代表していたことがわかります。この多利思北孤の姓が「阿毎」であることは、天つ神を信仰しており、自分たちがその子孫であることを表していると考えられます。太宰府には天満宮がありますが、ここに祭られているのは菅原道真なのに、どうして「天神」さんというか不思議に思ったことはありませんか? 元々倭の神々の筆頭「天神」が祭られていたのが、倭の王族がヤマトへ移住した後放置されていたところに、菅原道真が合祀されたのです。「記紀」に記された天つ神も元々は倭の国の神様だったのです。

    隋書』には王の妻は「キミ」と呼ばれていたとあります。「キサキ」ではないのです。倭は複式統治を取っており、政治を見る王を「オオキミ」、祭祀を司る王を「キサキ」と呼んでいたのでしょう。この「キサキ」に女性が任じられたことは『魏志倭人伝』に見られます。『隋書』では兄弟統治になっていましたから、必ずしも女性に限るものではなくなっていたのでしょう。後代、大和朝廷ではこれが混交され、「キサキ」が「オオキミ」の夫人を意味するようになっていくのですが、元々は「キサキ」を夫人が代行する慣例があったのだと思われます。

    さて、六世紀の大乱といえば、「磐井の乱」があり、これは継体天皇が倭王朝を簒奪しようとした事変であると説明しました。実際、いったんは簒奪に成功したものの、各地の反乱を鎮撫するのに二十年かかり、しかもその後すぐに継体天皇は死んでしまった可能性があるのです。大和朝廷の勢力は駆逐され、再び倭が力を取り戻したのは言うまでもありません。こうして倭とヤマトの一世紀に及ぶ対立が始まるのですが、「記紀」はこれをなかったことにしています。まあ強盗に失敗しましたと書くわけにもいかなかったでしょうし、仕方ないですね。その外交方針を巡ってヤマト蘇我氏物部氏の対立があり、山背大兄王の謀反があり、乙巳の変があったことは既述しました。その宥和路線に転換した大和朝廷を待っていたのは、「白村江の戦い」での大敗北で、これを受けて大海人皇子大和朝廷へ避難し、天智天皇を支えて国をまとめていったのです。最終的に大海人皇子が「壬申の乱」を経て大和朝廷のオオキミの座を勝ち取り、倭の一族を呼び寄せて「皇親政治」を開始しました。敗戦で立て直しもままならなかった倭の国は以降、地方政権へ転落し、代わって大和朝廷が倭を代表する国になったのです。しかし、倭の人々は偉大なる倭王多利思北孤を忘れられなかったのでしょう。由緒のある建物をヤマトへ移築したくらいですから、英明な王であったことは間違いありません。

    代、つまり縄文時代晩期から続き、卑弥呼が総覧し、倭王武が勢威を張った倭國の歴史はここで終わりました。しかしそれは完全に忘れ去られたのでしょうか。私は「記紀」にその名残があると思います。天つ神の系譜に始まり、天孫降臨に至る物語は、元々倭國で伝えられたものでしょう。天武天皇は『古事記』や『日本書紀』の巻頭に敢えて神代を挿入することで自分たちの祖先を顕彰することを忘れませんでした。史書の編纂が中華の伝統を受けたものでしかないなら、神話を冒頭に配置することなどありえません。つまりその編纂に強い意志が働いたことを意味しているのです。偉大なる倭王多利思北孤の事績は、厩戸皇子と結びつけられ、スーパーヒーロー聖徳太子として『日本書紀』に綴られました。おそらく他にも倭國伝来の由緒のある人が仮託されている人物や天皇があるとは思いますが、今の私にはそれを解き明かす材料がありません。いつの日か、歴史学が江戸時代の蒙昧な国学者の影響を脱し、真の科学として発展して真相が解明されることを切に願ってやみません。

    さて、長々と振り返りましたが、これは歴史に対するひとつの説でしかありません。しかし、中華の文献を参照し、また日本の書物を読んでいくと、日本の歴史はこのような形でないとおかしいと思われるのです。もっと過激な説を唱える人がいることも知っていますが、中華文献絶対で、日本文献は完全に恣意の産物というのもありえない話です。私たちの祖先は、そこまで蒙昧だったのでしょうか。そんなことはありません。確かに、政治的な意図からある人物を貶めたり、逆に持ち上げたりすることはあったでしょう。それは中華の正史でも見られることです。あるいは、「倭」の歴史事実を「日本」の歴史に混入もしているでしょう。しかし、事件の年代を入れ替えたり、存在しない事件をでっち上げたりするでしょうか。私はそこまではしなかったと考えます。もちろん「記紀」が編纂されるまでは豪族ごとに自分たちに都合の良い修飾が入った私史が作られていたのでしょう。それを集大成して矛盾のないように整理したのが「記紀」の姿だと思います。歴史を恣意的に改編することはなによりも祖先に対する冒涜です。「記紀」の編纂者がそこまで傲慢であったとはどうしても思えません。

    最後に。あなたは子供たちに、自分たちの祖国、日本の歴史を語るとき何を基準に言って聞かせますか。教科書通りの薄っぺらい中身のない独りよがりな日本史ですか。それとも、連綿と続く誇り高い先祖の事績が詰まった日本史ですか。

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  • 日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子

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    法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。

    法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
    前太后崩明年正月廿二日上宮法
    皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並
    著於床時王后王子等及與諸臣深
    懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
    像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
    住世間若是定業以背世者往登浄
    土早昇妙果
    二月廿一日癸酉王后
    即世翌日法皇登遐癸未年三月中
    如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
    具竟乗斯微福信道知識現在安隠
    出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
    彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
    同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

    法興元三十一年歳次は辛巳(西暦621年)の十二月。キサキの太后が崩御された。明くる年正月の二十二日、上宮法皇は病に伏し、具合が悪く食事も喉を通らない。さらに王后も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。そこで王后や王子たちは、は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。「三宝の仰せに従い、上宮法皇と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」二月二十一日癸酉、王后がお隠れになった。翌日法皇も登遐された。癸未年(西暦623年)三月中、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背と台座)を造りおえた。この小さな善行により、道を信じる知識(造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、太后・上宮法皇・王后に従い、仏教に帰依して、ともに悟りに至り、六道を輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。この像は、司馬鞍首止利(しば くらつくりのおぶと とり)仏師に造らせた。

    法隆寺は九州太宰府から移築された建物であるとする説があります。山背大兄王が立てこもった斑鳩寺が壊され(その時の遺構が若草伽藍ではないかと思います)、新たに据えられたのが現在の法隆寺ではないでしょうか。立て替えられた跡があるというと、法起寺も該当します。それらを前提に考えると、この上宮法皇が聖徳太子でないことは一目瞭然となります。では誰でしょう。

    法興元三十一年が辛巳の歳と記していることから、これを西暦621年と見る説が定説です。法皇とあるのですから、仏法に帰依したオオキミを指していることは明白です。この頃、仏法を篤く信仰し、天下に号令した王といえば、倭の多利思北孤(あるいは多利思比孤)しかいません。

    「鬼前太后」を従来「后の太后」と解して、上宮法皇=聖徳太子との思い込みから(聖徳太子は、上宮王とは呼ばれましたが、上宮法皇と称された例はありません)、これを穴穂部間人皇女とする解釈が一般的なのですが、穴穂部間人皇女が太后と称された記録はありません。古代、皇太后は前の天皇の后が自動的になるものではなく、ちゃんと叙任の手続きがいります。穴穂部間人皇女が太后に叙せられたという記録はありませんので、これを穴穂部間人皇女とすると、僭称したことになります。そんなものを長く残る銘に記したとはとても考えられることではありません。これは、『魏志倭人伝』や『隋書』俀國伝に見られる「複式統治」の「キサキ」です。とすると、オオキミに並び立つ人ですから、太后という尊称も当然になります。

    干食王后を従来は膳大郎女としてきましたが、これは牽強付会もいいところで、全く根拠がありません。さらに上宮法皇と制作者以外の名前がこんなところにだけ出てくるのも変です。あるいはほかの王后と区別するために、固有名詞を出したのかも知れませんが、14文字×14文字でぴたりと収まるよう苦心された文章にそんな配慮がありえるでしょうか。これは臨終間際の上宮法皇の病が癒えて欲しいという発願に基づく像の銘なのです。ここは「干食」と「王后」を区切って読むべきでしょう。だいたい「ものを食べないお后様」って名前としても変じゃないですか。これは中国が日本を東夷と見下して書いた文章じゃないんですよ。

    私は多利思北孤が倭の王の中でも群を抜いた英傑であり、その後も長く尊崇されたのだと思っています。天武天皇が即位して一族を呼び寄せ、大和朝廷が日本を代表する王権となりましたが、倭の一族は偉大なる王、多利思北孤を忘れられなかったでしょう。遠く太宰府から所縁のある様々な建築物を移築し、故地を偲ぶ気持ちを慰めるとともに、偉大な王を追慕したのではないでしょうか。そのため、『日本書紀』において、本来は関係のない厩戸皇子に同じ崇仏の人であるゆえんを結びつけ、多利思北孤の事績を移して、長く人々に忘れられないようにしたのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑮磐井の乱

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    重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。

    古事記継体天皇の条に、

    此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。

    筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。

    と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、

    廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲往任那、爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前、遂戰而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滯。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。

    二十一年(西暦527年)夏六月壬辰朔甲午の日、近江の毛野臣が六万人の軍を率いて任那に渡ろうとした。新羅が滅ぼした南加羅・喙己呑を任那にあわせて再興しようとしたのである。ここにおいて筑紫國造磐井は叛逆を密かに計画したが、なお数年はためらっていた。反乱の成功が期し難いことを考え、いつも隙を覗っていた。新羅がこれを知り、密かに磐井のところへ賄賂を送り、毛野臣軍を防がせようとした。ここに至り、磐井火國豐國の二国を襲って根城とし、職を修めさせず、外は海路で待ち受けて、高麗百濟新羅任那等の国の貢職船を誘致し、内は毛野臣軍が帰国しようとするのを妨げ、乱語揚言して曰く「今は使者とされているが、昔は自分と伴にして肩を撫でさすり肘を触れあわせ、同じ食器で同じものを食べたのだ。どうして突然使者などというものにして、はしためのように御前にぬかづかせるのだ。戦ってでも受けはしない。そちらが私を軽んじるなら、自分で尊くなるだけだ」ここにおいて毛野臣は、磐井の軍と対峙して踏みとどまらざるを得なかった。天皇は詔して大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人らに曰く「筑紫の磐井が反乱を起こし、西戎の地にいる。討伐の大将には誰を任命すればよかろう」大伴大連らは一致して「軍事において正直で仁勇を備えている者で、麁鹿火の右に立つものはいません」天皇は「よろしい」と許可した。

    と伝えています。この内乱を時の朝廷がいかに重視したかは、続いて述べられる継体天皇の詔にも現れています。曰く

    大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。

    大将を民の司に命ず。社稷の存亡はここにあるのだ。勉めよ。恭しく天罰を行え。天皇は親しく斧鉞をとり、大連に授けて曰く「長門の東は朕がこれ支配する。筑紫の西は汝がこれ支配せよ。賞罰は専断せよ。いちいち奏上する必要はない。

    さて、天皇が「社稷の存亡これにあり」と言った戦いは、かつてありませんでしたし、この後もありません。かつて吉備氏が反乱を起こした時も、そのような大げさな詔が出された形跡がありません。ましてや、遠く九州の片田舎にある反乱を鎮圧するには、過剰なくらい大げさな表現です。この乱が単に大規模であったというだけでなく、ただ事ならぬ意味合いを持っていることは間違いありません。

    日本書紀』によると、継体天皇は大和入りに二十年をかけており、前年に「磐余玉穗」に宮を構えたばかりです。政権が安定していなかったと言うこともでき、ここで反乱の鎮定に失敗すれば、政権が土台からひっくり返される恐れがあったのかも知れません。しかし、継体王朝は、それまで続いていた崇神王朝が武烈天皇で断絶したため、遠縁の継体天皇を大和の豪族が迎えて興した新王朝であることが、今では定説となっています。大方の豪族の支持を得ることができたからこそ、大和入りもできたのでしょうし、だからこそ、反乱の鎮定に大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人といった大豪族を派遣できたのでしょう。それを考えると、政権を脅かしたという定説は素直に肯んじることができません。「社稷の存亡」ということそのものがありえないのです。さらに異様なのは、麁鹿火に「九州はお前が支配しろ」と命じた言葉です。当時、大和政権が全国支配していたとしても(関東以北は蝦夷の支配圏)、政権が支配する領土の半分をくれてやるに等しい言葉を、単なる内乱の鎮圧にあたって述べることができるでしょうか。しかも二十年かかってやっと大和入りした継体が、です。継体の大和入りが二十年かかったのは、豪族間で意見の不一致があったからだとする説が有力なようですが、それならなおさらその豪族の勢力を強化するようなことを継体が敢えて行うなど、常識的に考えてありえません。逆に、それだけの報償をぶら下げないと豪族を動かせなかったのだとも言えますが、大陸との交渉の要である筑紫を押さえられると困るのは、他の豪族も同じであって、敢えて巨大なエサをぶら下げる必要がどこにあったのでしょう。

    ところで、「磐井の乱」に触れているのは『記紀』だけではありません。『釈日本紀』に引用された『筑紫風土記』に次の一文があります。

    古老伝えて云う、雄大迩おほどの天皇の世に当り、筑志の君磐井。豪強暴虐、皇風にしたがわず。生平の時、あらかじめ、此の墓を造る。にわかにして官軍動発し、襲わんと欲するの間、いきおいの勝たざるを知り、ひとみずからら豊前の国、上膳かみつけあがたのがれて、南山峻嶺のくまに終る。ここおいて官軍追尋してあとを失い、士、怒り未だまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ちとしき。

    生前に墓を作ったのが無礼だったのでしょうか。「俄かにして」とあるので、突然官軍が襲ってきたことになります。『日本書紀』とは書きぶりが異なり、同情的でもあります。王権に抵抗したことが後に同情を生んだのだという論者もいますが、それは主客転倒というもので、もともと磐井の君に同情的だったからこそ、このような内容が語り継がれたというものです。あれあれ、何か怪しいですね。内乱があったことは確かでしょうが、これは『日本書紀』の記述を鵜呑みにはできないようです。

    ところで、九州には「キミ」を持つ豪族が多くいたことがわかっています。それらの豪族を束ねる存在がいたとしたら、何と呼ぶのが相応しいでしょう。そうですね。「オオキミ」と普通は呼びますね。「キミ」は天皇の皇子たちに与えられたです。なぜ九州にそのを持つ豪族がたくさんいたのでしょう。答えは自ずから明らかです。九州に「オオキミ」がいて、その子孫が九州内の各所に豪族として定着したからですね。九州に王朝があったことは、中国正史の倭人、倭国に関する記録から明らかになっています。ところで、継体天皇の二十一年は西暦527年に比定されています。ということは、即位が西暦507年になるのですが、そのあたりに何かありませんでしたか? はい。倭王武が「」に朝貢して「征東大将軍」の官位を授けて貰ったのが、西暦502年で、そのすぐ前です。ところがその一回きりで朝貢が途絶えています。あれほど官位を授けられることに熱心だった王朝にしては何か変です。「」は西暦557年まで続きますから、物理的に朝貢できないという事態ではありません。間違いなく何かそれどころではないことが起きたことを示しています。そう言う目で「磐井の乱」を見てみると、九州王朝の主を乾坤一擲、一か八かの大勝負で継体軍が強襲したと解することができます。つまり、これは継体による九州王朝の「簒奪」なのです。だからこそ「社稷の存亡これにあり」と継体が檄を飛ばし、「筑紫の西は汝が支配せよ」と剛毅なことを言ったのも、天下を取るにあたり、人心を収攬する必要があったからでしょう。そんな大軍で攻め寄せられれば、長年の征戦に疲れていた九州「オオキミ」王朝はひとたまりもなかったと思われます。ところが、簒奪があったにしては、後の『隋書』にも明らかなとおり、九州王朝はその後も存続し、に朝貢し、答礼使である裴世清を受け入れ、オオキミ自ら会っています。これはどう理解したらよいのでしょう。

    これは『古事記』の原文にあたればすぐわかります。現代語訳は、枕詞のように宮のあった地名に「大和の」とつけていますが、原文にはそんな言葉はありません。つまり、『古事記』には大和に朝廷があったことなど書かれていないのです。書かれていないことを書かれているかのように説明することを「改竄」と言います。歴史学者はこれを何と説明するのでしょうね。例によって江戸時代からの伝統とか持ち出すんでしょうか。というか、従来の学説の拠ってきたるところは、まさにその「江戸時代」から学者がそのように唱えてきたからでしかなく、何か科学的な根拠があってのことではないのです。ということで、説明が済んでしまいましたね。あるいは『古事記』に従うと、継体天皇は西暦527年に没したことになりますから、国内の鎮定を終えて宮を定めると、すぐに死んだことになります。「磐井の乱」の始末が片付かない間に死んだのかも知れません。そうなると、九州王朝ゆかりの王族が立つのは自然な話です。簒奪を目論んだ大和朝廷の王は死に、再び正当な九州王朝のオオキミが立てられたでしょう。加えて『日本書紀』では今は伝わっていない「百済本記」による説として「天皇と皇太子が同時に亡くなった」という風聞が百済にあったことを述べています。しかし、継体天皇の子供は三人とも皇位を履んでおり、これが継体天皇とその皇子を指すとは考えられません。あり得るのは筑紫の君磐井とその嫡子を指して述べた文であることです。

    継体王朝が正当なる九州王朝を簒奪したのであれば、それ故、朝貢を続けられなかったことが肯けます。また、いくら磐井の君を追ったからといって、九州内の豪族がすぐに服属したとは思えません。簒奪した王権を安定させるには、もちろん様々な懐柔や重ねての討伐もあったでしょう。それが継体の「二十年間」だったのではないでしょうか。それを馬鹿正直に書くわけにはいかなかったので、哀れ継体は「二十年間」も磐余の宮へ落ち着くことができずに、放浪の天子にされてしまったというわけです。そもそも中国の正史や朝鮮の『三国史記』を信用すれば、五世紀から六世紀の初頭まで外征や国内の征討に王権は忙殺されており、大変な時期であったわけですが、『記紀』にはそのことが全く触れられていません。むしろ頭に頂くべき天皇が二十年も宮が定まらずうろうろしている有様ですから、そんなことができようはずもありません。となれば、反乱があったという話もひどくうろんな話になります。『古事記』が簡略に「殺石井也」と片付けているのも、無視するには重大すぎる簒奪の失敗を糊塗するためであったかも知れません。むしろ、『日本書紀』の方が文飾を試みようとして却って真実の一端を表しているようにも思えます。「外邀海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」とあるのは、これらの国を従えていたのは九州王朝ですから、筑紫に船が入るのは当たり前のことです。「內遮遣任那毛野臣軍」とあるのは、突然軍が攻めてきたらこれに対して防衛するのも当然のことです。今まで手厚く遇してきた臣下あるいは分家が突然牙を向いて自分にひれ伏せと言ってくれば、激怒して当たり前です。まさしく飼い犬に手を噛まれたと思ったでしょう。

    いずれにせよ、継体天皇の死を以て簒奪の試みは頓挫したと言えるでしょう。しかし、九州王朝にも少なからぬダメージを与えたはずです。昨日手厚くもてなした者も今日は叛逆する。後継者はその無情をかみしめたことでしょう。『隋書』では倭に仏教が伝来したことが書かれていますが、「多利思北孤」も篤く帰依していたことが「聞海西菩薩天子重興佛法」という言葉や仏僧五十人を遣隋使に随行させたことでもわかります。

    それにしても、なぜ継体天皇は、九州王朝の簒奪という暴挙に出たのでしょう。継体天皇応神天皇五世の孫ということになっていますが、実はこの辺り『日本書紀』でも系図が失われていて、はっきりしたことはわかっていません。大和朝廷の豪族が推戴したのですから、どこの誰ともわからないような係累ではないでしょうが、遠い血であったことは確かでしょう。従って王権も制限され、思うように統治ができなかったものと推察されます。ここで王権を強化するには、と考えを巡らし、本家本元の王朝、九州王朝を奪うことで王権を強化しようと考えたのではないでしょうか。おそらく勇名轟く倭王武は既に崩じていて九州王朝も動揺していたのでしょう。その隙を突いたと考えられます。ところが豈図らんや。抵抗が強固で鎮撫することがなかなかできず、そのうちに没してしまったものと考えられます。

    さてそうすると、いつ頃日本の王権が大和朝廷に移ったのかという疑問が生じます。この疑問には『舊唐書』がヒントを出してくれています。その高宗本紀に、西暦654年に倭国が朝貢した記事があり、それ以降、倭は朝貢していません。その頃あった日本の大変というと、「大化の改新」とそれに続く「壬申の乱」です。なぜ新興豪族蘇我氏を滅ぼしただけの政変が「大化の改新」などと仰々しく言われるのか。なぜ皇太弟であった大海人皇子が乱を起こさなくてはならなかったのか。ひとつ歴史学者に明快な説明を願いたいところです。

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  • 日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

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    漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

    1. 縄文時代晩期には、既に宗族=國といってよい規模の集団が複数存在していたのではないか。

      根拠は、『漢書』地理志である。今更くだくだしい説明は不要であろう。

    2. の使節は朝鮮半島内で陸路を取ったのではないか。

      魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
    3. 倭國(倭奴國)は九州にあったのではないか。

      • 後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
      • 魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
      • 魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
      • 隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
      • やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
      • 舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。
    4. 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。

      • 魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
      • 隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
      • 舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
      • 魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である。
    5. 宋書』夷蠻伝倭國条に名前が出る「倭王武」を雄略天皇に比定する根拠は何か。

      「武」と「ワカタケル」の語感が似ているからなどというのは論外だが、根拠は何だろうか。

      • 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘には「獲□□□鹵大王世」と欠字があって何と言う大王だったか不明である。
      • 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘には「獲加多支鹵大王」とあるが、これを「ワカタケル」と読むのは何故か。
      • 仮に両者とも「ワカタケル大王」だとしてこれが雄略天皇であるという科学的な根拠は何か。
    6. 隋書』東夷伝俀国条で名前が出るオオキミ「多利思比孤」を聖徳太子に比定する根拠は何か。

      聖徳太子の逸話はすべて『日本書紀』から出ており、これほど重要な人物であるにも関わらず『古事記』では触れられていない。

      • 「多利思比孤」はオオキミを号していたとあるが、聖徳太子は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいる。
      • 裴世清は「多利思比孤」に実際に会っており、遣隋使の使者のごまかしでないことは明らかである。
      • 聖徳太子には「多利思比孤」に類似する別名がない。
    7. 太宰府」はいつ誰の指示によって造営されたのか。

      「遠の朝廷」と呼ばれ、殷賑を極めた都会であったことがわかっているのに、それがいつ誰の指示で造営されたか記録がない。

      • Ⅰ期の遺構は、白村江の戦いの後、天智天皇が「那津官家」を移したものとされているが、天智天皇が「那津官家」を移したという記録を基にⅠ期遺構の造営時期を決定しているだけで、まるで科学的根拠がない。『記紀』にも大規模な造営があったとは記録されていない。造営時期の比定が無茶苦茶である。
      • Ⅱ期の造営時期については、歴史学者の単なる妄想を述べているに過ぎない。律令制度上の要請があり、大改築を行ったのなら、正史に記録が残って当然であるのに、その事実を無視している。
      • Ⅱ期の遺構により、条坊制を採用していたことが明らかであり、あるいは長安が直接的なモデルになったことは明らかである。
      • 太宰府天満宮は非常に大規模な大社だが、菅原道真を祭る前は何の神を祭っていたか記録がない。
      • 鴻臚館が置かれ、古くから外交の根拠地となっていたが、それならなぜもっと便のよい海岸よりに造営しなかったのか。元は海岸沿いにあったという人もいるが、それならなぜ「白村江の戦い」で大敗した後に移転したのか。現に二年後にはから使者を迎え、遣唐使を派遣している。とてもそんな緊張があったとは考えられない。

    まだ他にも細かく詮索したいところはあるのだが、少なくともこれらの疑問は、日本の古代史を勉強する上で、放置しておいて良い問題ではないと考える。

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  • 日本の古代史を考える—⑪隋書東夷傳俀国条

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    やっとたどり着いた感があります。『隋書』東夷傳俀国条です。『隋書』は、「」の太宗の勅により魏徴長孫無忌らが撰進しました。書かれているのは「」の時代です。西暦581年から西暦618年に当たります。かの有名な「日出ずる処の天子」という表現はおなじみではないでしょうか。『隋書』からは、七世紀初頭の日本がどのような様子であったのかが覗えます。

    俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王

    俀国は百済新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。

    あれ、「倭」国じゃないね? と思いますよね。私もそう思います。以前も書いたと思いますが、この頃、倭は百済新羅を従え、これらと平和な関係にあり、国内も平穏でした。ですので、それまでの倭という称号に大をつけて「大倭」(「たいゐ」、または「たゐ」)と自称していたのでしょう。ところが、中華からすると、国の名前に「大」を冠してよいのは、中華帝国だけですから、蛮夷の分際で生意気な!ということで読みが同じ漢字の「俀」にしたのだと思われます。それにこの頃には「倭」は「わ」と読むようになっていたので、遣使が自称する国名に一致しなくなっていたのだということも併せて言いうると思います。ところで、『後漢書』の凡ミスがここにも引き継がれています。「使」を「使」と間違うから諸国一斉に朝貢していたことがあるかのような話に…范曄の馬鹿!:D

    夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也

    夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國なり。

    ここで重要な指摘が出てきます。「夷人不知里數」ということは、例の『魏志倭人伝』の旅程も倭人からの聞き取りですから、「日数」であったものを後から「里数」に換算したものであることがわかります。なにしろ「山島」に拠ると言われた国ですから、同じ距離を行くのでも平野が続く中華と違って、何倍もかかったことでしょう。次に「都於邪靡堆」とある部分です。「邪」は「や、じゃ」、「靡」は「みぇ、みゃ」が一番近い発音でしょうか。「堆」は「とぅぁい」となります。これに対して「馬」は「ま」、「臺」は「だい」です。つまり今は「やみゃとぅぁい」と言うがこれは『魏志倭人伝』に出てくる「やまたい」と同じだよと言ってます。しかし少々発音が異なるとは言え、まあ少しなまったかなという程度です。本来は「邪馬壹」=「やまゐ」と書かれていたのですから、昔の「やまゐ」が今の「やみゃとぅぁい」だと言っていることになります。『魏志倭人伝』に現れた「邪馬壹國」と「俀國」は同じ国であることがここで保証されたわけです。さてその地勢は「東高西下」ですから、東が山がちで西が平野というところを探せば俀國の場所が比定できそうな感じです。でも実はこれを真剣に検討すると、奈良盆地すなわち大和は比定の対象から外れてしまうのです。大阪平野が東にありますから、「東高西下」になりません。はてさて困ったものですね(笑)。南北三ヶ月、西に五ヶ月で海に出るというのも謎です。その南北や西の果てがどこを指すのかわかるように書いていてくれれば…と詮無いことを考えたりします。

    古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國

    古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。

    ここは従来の正史を受け継いで書かれています。ここでも『後漢書』が「会稽東の東」などという凡ミスを犯すから、延々引き継がれています。何と罪深い…

    桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通

    後漢の)桓帝靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。からに至るまで代々通交してきた。

    ここも『後漢書』が「桓靈閒倭國大亂」なんて阿呆なことを書いたから、それがまた引き継がれています。こうして単なる錯誤が定説になっていくわけですね。

    「法甚嚴」とありますが、「魏志倭人伝」では「其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族」とあるので、今ことさら厳しくなったというわけでもなさそうです。また、「自至于代」とあるので、少なくとも「」の時代から「」「」を経て「」の時代まで朝貢してきた国はずっと同じである。ということがここでもわかります。

    開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗

    開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ)、使いを遣わせて宮城に詣でた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。

    最初の遣隋使です。さて、いよいよ問題の核心に迫ってきました。従来「多利思比孤」は「聖徳太子」に比定されてきたのですが、「聖徳太子」は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいます。後からまた出てきますが、答礼使の裴世清が実際にこの王に会っていますから、この「多利思比孤」は実際に王であったと考えられるので、聖徳太子説は皇国史観患者の妄説であったことが明らかになります。それより重要なのは、姓があることです。「阿毎」は「天」のことではないかと思うのですが、天皇および皇族には古来姓がありません。無論、聖徳太子にも姓はありません。この点で、この王を天皇や皇族に擬するのは不可能だとなります。しかし号するところは「阿輩雞彌」で、これは「大王=オオキミ」ではないかと考えられています。私もこの点は賛成です。とすると、この王は誰だという問いに帰ります。

    使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之

    使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。

    高祖とは文帝楊堅を指します。有名な煬帝のお父さんですね。ここで語られている内容は明らかに「複式統治」を表しています。『魏志倭人伝』で「有男弟佐治國」とあったのと同様の統治形態ではないでしょうか。しかし「記紀」を読めば明らかなように、近畿天皇王朝が複式統治を行ったという記録はありません。

    王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利

    王の妻は雞彌(けいみ、きえいみえ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふっり、りかみえたふぃぁっり)と呼ぶ。

    王の妻は「キミ」と呼ばれたのでしょう。太子は「リカミタフリ」なんでしょうが、どういう意味なのかちょっとわからないですね。ここで、俀王「多利思比孤」には妻がいたこと、さらに後宮には女性が六百から七百人もいたことがわかります。ということは、「多利思比孤」が「推古女帝」でないことも明らかです。あるいはその夫の「敏達天皇」でしょうか。しかしそうなると、「推古天皇」を基準とした年代比定が全部誤りになってしまい、日本史の辻褄があわなくなってしまいます。痛し痒しですね。大胆な方は「多利思比孤」を「蘇我馬子」だと主張しています。が、いかな馬子といえど、オオキミを僭称して許されるとは考えられません。実は馬子がこの時天皇だったのだ。という主張の方がよほどすっきりします。

    内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼

    内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。

    はて、この十二の等級と称号はどこかで見たような…という方は日本史に詳しい方ですね。「聖徳太子」が制定したと言われている「冠位十二階」と同じです。ただし、一部位階の順番が異なります。この「冠位十二階」は、実際は「蘇我馬子」が大きく関与していたことがわかっています。しかしながら、これが「冠位十二階」を表していると解釈することはできません。なぜなら「冠位十二階」なら位階に応じて冠を授けられるのですが、ここにはそのような記述がないからです。

    其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上

    その国の服飾について、男性は裙襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。

    至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾

    隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。

    これが「冠位十二階」制定のことだとされています。しかしここには、冠の制度を定めたとだけあり、官位に対応していたかどうかはわかりません。冠と言いながら絹で作製されているところを見ると「冠」というより「帽」ですね。注意して頂きたいのは、ここは俀國の使者がの役人に語った内容が綴られている点です。『日本書紀』では「冠位十二階」の制定は西暦604年のこととされていますから、話が合いません。後世の話を編纂者が間違えてここに挿入したのでしょうか。それこそまさかです。使者の話で聞いたから、まさにここに挿入されているのです。むしろ粉飾は『日本書紀』の方でしょう。裙襦は、中国の服そのままではなく、女性の襦裙に似ていたのでそのように書いたのでしょう。

    婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有襈攕竹爲梳

    女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。

    高松塚古墳」の壁画をご覧になった方は多いでしょう。裳とはあの裾を引きずるようなスカート風の衣裳のことです。襈攕とは何でしょう。調べたのですが、わかりませんでした。ご存じの方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いです。

    編草爲薦雜皮爲表縁以文皮

    草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。

    畳も椅子もありませんから、敷物は必須でした。

    有弓矢刀矟弩【矛扁に旁賛】斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦

    弓矢、刀、矟(矛の一種か?)、弩、【矛扁に旁賛】(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。

    この件を読むと私は『宋書』に掲げられた倭王武の上表文を思い起こします。「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國」。四世紀から五世紀は、戦争に次ぐ戦争の時代でした。しかし、それも今は昔。百済新羅との仲は良好。国内も大きな乱はなく、平穏無事。このような情勢であるからこそ、「大」の尊称を付けて「大倭」(たいゐ、たゐ)を自称していたと思うのです。

    其王朝會必陳設儀杖奏其國樂

    その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。

    なんとなく、大和朝廷の朝会にはイメージがあわない気がします。異国の風を感じますね。

    戸可十萬

    戸数は十万ばかりある。

    魏志倭人伝』では十七万戸余りだったはずですから、随分減ってます。四世紀から五世紀まで続いた外征のためでしょうか。「磐井の乱」という内乱もありましたし。

    其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛 或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣

    その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。道理の正しくない者は手が爛れるという。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。邪な者はまた手を噛まれるという。

    さて、隋の役人に「法甚嚴」と書かれたその実際が述べられています。穏やかな刑罰がひとつもありません。確かに厳しいです。は開皇の治と呼ばれる時代で、文帝は開皇律令を定め、残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかり易く改めました。それを知るの役人には「前時代的な」厳しい法と思えたのでしょう。木で膝を圧迫するというのは、重い木材を膝の上に積み重ねる拷問で、強弓の弦で首筋を打たれたら気絶くらいはしたでしょう。沸騰した湯の中に素手を入れさせるというのは、実は「盟神探湯」と言って、上古中国にもあって伝えられた由緒正しい正邪判定法だったのです。これは祖霊や神々の前で執り行う神聖な儀式で、湯を前に対決すると邪な心を持つ者は祖霊や神々の威に服して、湯に手を入れる前に自ずから罪を自白するとされたのです。本当に手を入れたらどっちも大火傷ですから祖霊や神々を信仰していない者には無意味な判定法でもあります。の時代にはとっくに廃れていたので、奇妙な風習として取り上げられたのでしょう。

    人頗恬静罕争訟少盗賊

    人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。

    この辺りは『魏志倭人伝』の頃から変わっていませんね。ほっとします。

    樂有五弦琴笛

    楽器には、五弦、琴、笛がある。

    五弦のとあるのはどんな形でしょう。或いは和琴のことでしょうか。現代の我々がと言ってイメージする楽器は、正しくは「」といって本来琴とは別の楽器でした。

    男女多黥臂點面文身没水捕魚

    男女の多くは肩から手首までと顔、体に入れ墨をし、水に潜って魚を捕らえている。

    そして、しっかり入れ墨の風習に触れられています。この「記紀」には書かれていない風習の存在していた地が俀国(倭國)なのです。

    無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字

    文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手し、はじめて文字を有した。

    文字がなければ、代々朝貢していた時の上表文はどうやって書かれたのだ? ということになりますが、これは民間の風俗を記した段落であることに注意して下さい。つまり、それまで民間では、木を刻んだり縄目で意図を伝えていたのが、仏教と共に文字が入ってきて、これが民間に広がったことを教えているのです。

    知卜筮尤信巫覡

    卜筮が知られているのに、巫覡を信じている。

    卜とは亀卜(亀の甲羅を焼いて水を掛けできたひび割れ「兆といいます」で占う)や獣卜(獣骨を使用する以外は、亀卜と同じ)ですが、この頃の中国では廃れていたので、卜筮といえば、もっぱら筮竹を使った占いでした。そういう「合理的な」予知法を知っているにもかかわらず、神下ろしをし、神託を下すという「怪しげで前時代的なまじない師」のことを信じていると不思議がっているのです。

    毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同

    毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。

    好棊博握槊樗蒲之戲

    囲碁、すごろく、さいころの遊戯を好む。

    日本人のばくち好きはこの頃からなんでしょうか。もはや民族性ですね。

    氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少

    気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。

    「氣候温暖」はともかく「草木冬青」は近畿地方では考えられません。これも、「倭」が大和ではないという傍証になります。

    以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭

    小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る

    鵜飼いってもっと最近始まった漁だと思ってました。江戸時代とか。実は、1400年以上も歴史のある漁法だったんですね。

    俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之

    食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。

    高坏などを使って食事をするのは高貴な方々だけのようで、庶民はかしわの葉を食器代わりにしていたようです。箸はまだ入ってきていませんので、手づかみです。

    性質直有雅風女多男少

    性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。

    これも『後漢書』の頓珍漢な誤解が引き継がれているだけだと思いたいのですが、万一事実を表しているとすれば、戦争がない平和な時代ですので、世界でも極端に珍しい男児の間引きが行われていた可能性があります。どちらが事実でしょう。

    婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬

    同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。

    同姓不婚は、中国の風習が移入されたのでしょうか。「婦入夫家」とあるのは嫁入り=嫁取りということですから、嫁取り婚と同姓不婚の風習が導入されていたということになります。「記紀」には一切そういった事実は見えません。逆に妻問婚ばかりの上に、同姓で結婚した事例が豊富に出てきます。謎です。「記紀」の既述を根拠にして「この部分は隋の役人の創作であると主張する人もいます。それはさすがに、記録人種中国人を舐めているとしか言いようがありません。史官は、事実を記録するために命を懸ける人たちです。『後漢書』のような雑な例があるとはいえ、根拠があって書かれたと考えるのが自然です。しかし、とはいえ導入されたとしても、表面上の形式だけだったようです。「男女相悦者即爲婚」=「男女がセックスしたらそれが結婚となる」ですから、中国や室町時代以降の嫁取り婚を考えると、事実を捉え損ねます。「先跨」は「先跨」の誤りだとされていますが、「火跨がり」の風習を現代にも残しているところがあることから、何となくそうであって欲しいという願望に基づいた通説のようにも思えます。

    死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝

    死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。

    昔の喪服は白かったことがわかります。世界共通で喪服というのは白で、黒の日本が特殊なんですけどね。殯とは死者をすぐに埋葬せず、一定期間安置しておいてその前で歌や舞を捧げたり、誄を述べて死者の霊を慰めることです。葬送の儀礼で船を使うという点にも要注意です。「記紀」には見えない例なのです。

    有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭

    阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。

    そして、唐突に阿蘇山が出てきます。なぜでしょう。仮に王朝が近畿天皇王朝であれば、他にも書く山が沢山あるはずです。それに阿蘇富士山とは違い、遠くからでもよく見える山ではありません。あの一帯山並みが続き、むしろ埋もれています。もちろん中国には火山がありませんので、珍しい不可思議なこととして取り上げられたのでしょうが、この頃は富士山だって活火山だったのですから、歴史家の言う通り、近畿天皇王朝が全国を支配していたのなら、使者は富士山のことを述べたでしょうし、隋の役人もそう書くはずです。そうではなく阿蘇山なのは、これが倭王朝と縁の深い、馴染みのある火山だったからとしか説明できません。

    有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也

    如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。

    実際にそういう宝石があったから、俀の使者は隋の役人に語ったのでしょうが、不思議な石があったものです。見てみたいですね。どこかに埋もれていないでしょうか。

    新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來

    新羅百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。

    新羅百済を従え、平和を謳歌している様子が覗えます。「大倭」と自称するのも故なきことではなかったのです。

    大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

    大業三年(西暦607年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があった。今後はこういう書を取り次ぐな」と仰った。

    有名な「日出ずる処の天子」の件です。でもここはその前の「海西菩薩天子」に注目して下さい。「多利思北孤」は仏教を熱心に敬う人だったことが偲ばれます。隋は煬帝の時代に入っています。中華の価値観からすると世に天子は唯一人、皇帝だけです。「不悦」とは激怒したのだと解釈する人もいますが、そこまで怒ったのなら、裴世清を答礼に送ったりしません。煬帝という人は蛮夷に隋の強勢な様を誇示したがった人ですから、これも「東夷」の言うことだとしてむしろ穏便に済ませたのでしょう。あるいは、こんな愚かなことを言う者には王者として諭してやらねばならないとさえ思ったかも知れません。鴻臚卿=外交担当大臣に「取り次ぐな」と命じたのは、二度と国書を受け取るなという意味ではなく、使節を応接する役目の鴻臚卿であるお前が教えて次からは改めさせろということだったのだと思います。

    明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹㠀南望【身扁に旁冉】羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀

    翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴世清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に【身扁に旁冉】羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。

    そのため、翌年答礼使として文林郎の裴世清を俀に派遣します。この記事は裴世清の旅程を表しています。百済の竹島(現在の竹島ではありません)から望めるという【身扁に旁冉】羅國済州島です。この頃は百済の属国でした。「都斯麻國」は対馬、「一支國」は壱岐です。「竹斯國」は現在の筑紫のどのあたりだったのでしょう。博多湾岸にあったのは間違いないようですが。「竹斯國」の東に「秦王國」があったと言います。の遺民が国を建てていたのでしょうか。「疑不能明也」とありますから、裴世清一行にも判断がつかなかったようです。そこから十国余りを経るとまた海岸に出ます。そこがどこか書いておいてくれてもいいのに…ともかく、国名が記されていないということは、ここが既に俀國であることがわかります。

    俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞

    俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。

    俀王が「小德」の阿輩臺を遣わしたのは、どこでしょう。普通に考えると「竹斯國」です。未知の国を案内を付けずに陸行することは考えられません。ましてや相手は国賓です。すると十日後には都の郊外に出迎えをよこしているのですから、俀國は「竹斯國」からそんなに遠いところではないことがわかります。高官(大徳のようなトップは滅多に下されない名誉官だったので実質トップ官僚だと私は考えています)を派遣して歓迎し、郊外にも上から七番目という格の低い人ではありますが、迎えを出しています。礼に則っているようですが、裴世清からすると、皇帝の名代として来たのだから、王自ら郊外に出迎えないのは無礼と取ったかも知れません。

    既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭

    裴世清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴世清答えて曰く「皇帝の徳はあわせて二徳、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て教化します。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」

    王自ら出迎えに赴かなかったことを言い訳しています。「不聞禮義」とあるのは、前年の国書が皇帝の不興を招いたことの言い訳でしょう。だから裴世清は「あなたたちが野蛮で礼儀を知らないのはわかっている。それ故にこそ私が派遣され、ここで教え諭すのだ」と答えています。それにしても、言い訳するということはわかっているということであり、わかっていながら、答礼使一行を郊外で出迎えなかったのですから、多利思比孤もよくよく自尊の人です。さすが、あの国書を書いた人でもあります。

    既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗

    裴世清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」

    さて、用は済んだとばかりに早々に裴世清は帰国の途に就こうとします。実際はあれやこれや言ったのでしょうが、些末なこととしてカットされたのでしょう。

    於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶

    ここにおいて宴会を催し、裴世清を送り出した。また使者を裴世清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。

    別れにおいて宴会を設けるのも礼です。随行の人間も出したのですが、その後間もなくが滅んでしまったこともあって、朝貢はこれきりになったのでした…と書いておきながら、実はまだこの後も遣使があったことが帝紀の方に記されています。

    (大業四年)三月辛酉(中略)壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物

    大業四年(西暦608年)三月辛酉の日に、(中略)壬戌、百濟、、赤土、迦羅舍國が相次いで使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    これは、裴世清に随行した使いの人たちのことでしょう。

    大業六年春正月(中略)己丑倭國遣使貢方物

    大業六年(西暦610年)春正月、(中略)己丑の日に倭國が使いを遣わし様々な者を献上してきた。

    この西暦610年の遣隋使は、『日本書紀』に見えません。一方、この後の西暦614年から615年にかけて遣隋使を派遣したことが『日本書紀』には記されています。が、『隋書』には記載がありません。さて、この不一致はどう見ればよいでしょう。

    さて、側の記録によると遣隋使は都合四回行われたことになっています。ところが、『日本書紀』には最初の遣隋使の記録がないのです。しかも『隋書』には記載されていない五回目があったことになっています。怪しいと思いませんか? なぜ記録しなかったのでしょう。なぜ側に記録のない遣隋使が存在するのでしょう。普通に考えると、『日本書紀』に記録のない遣使には近畿天皇王朝が関与していなかったからだということになります。そうすると、誰が派遣したのかということにになり、卑弥呼以来、延々と中華の国に朝貢し続けていた(これも「記紀」には記録がありません)倭の国が別にあり、そこから遣使されていたのだという結論に至ります。また九州王朝説かと思われるでしょうが、裴世清の旅程を見て下さい。九州内のことしか書かれていません。加えて阿蘇山です。これを見て、まだ倭=俀の国は九州にない、近畿だという人がいるでしょうか。いい加減、皇国史観からはおさらばして欲しいものです。なお、『隋書』にない最後の遣隋使ですが、これは『記紀』の年代比定に誤りがあるからではないでしょうか。

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