• 日本の古代史を考える—⑩三国史記(新羅本紀)

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    次に『三国史記』の「新羅本紀」を見てみます。え? 高句麗は? というと、「高句麗本紀」には「倭」のことが一言も出てきません。「好太王碑」が現にあり、倭と戦ったことを記しているのですから、現れないということ自体が不自然かつ胡散臭さ満点です。という目で「新羅本紀」を見てみると、卑弥呼が二世紀に新羅に遣使したとか書いてあって、中国の史書と比較検証できない三世紀以前の記事は、まず信用できないと言ってよいでしょう(卑弥呼が生きたのは三世紀。物理的にありえません)。ということで、三世紀以降の記録から倭に関する部分を抜き出してみます。

    (奈解尼師今)十三年夏四月倭人犯境遣伊伐飡利音將兵拒之

    奈解尼師今十三年(西暦210年)夏四月。倭人が国境を侵犯した。伊伐飡利音を遣わし、將兵に防がせた。

    倭の侵略からスタートです。以降読んで頂くとわかりますが、新羅は一貫して倭の侵略を受ける立場として書かれており、新羅が自ら出撃して倭を討ったという話はありません。三世紀、四世紀といえば、『魏志倭人伝』に出てくる「狗邪韓國」が朝鮮半島南岸にありましたし、後には「任那」と呼ばれる倭の領土もありました。当然侵攻したでしょうが、そんなことは「仁慈」の王たる新羅王がしてはならないことなので、書かなかったのです。それは高句麗百済に対しても同じで、『三国史記』が「新羅寄り」と言われる所以でもあります。念頭に置いて頂きたいのは、「倭」が「百済」とは同盟し、ほとんどその運命を共にするくらいに固く結びついていたのに対して、「新羅」とは長い間相攻伐する仇敵であったという事実です。そのうち、新羅が倭を侵攻した場合は書かれず、倭が新羅を攻めた場合だけが、「新羅本紀」に記載されていると見なしてよいでしょう。

    (助賁尼師今)三年夏四月倭人猝至圍金城王親出戰賊潰走遣輕騎追撃之殺獲一千餘級

    助賁尼師今三年(西暦232年)夏四月、倭人が突然金城を包囲した。王が親戦し、倭の賊軍は敗れて逃げた。輕騎を遣わしてこれを追撃させ、一千あまりを殺して首級を得た。

    ここもそうですが、倭は攻めてきても何も得るところなく虚しく帰るか、散々に打ち負かされて逃げ帰ることがほとんどなのです。偶に捕虜を連れ帰りますが。そういう場合もあったということならともかく、ほとんどそう書かれているのは文飾があることを示しています。というか、そこまで負け続けたら、いかに剽悍な倭でも半島進出を諦めるというものです。百済とは同盟してますし。実際は何世紀も戦い続けたのですから、事実は一進一退だったのでしょう。

    (沾解尼師今)三年夏四月倭人殺舒弗邯于老

    沾解尼師今三年(西暦249年)夏四月、倭人が舒弗邯、于老を殺す

    この于老に関する説話は後世の作り話のようですが、軍の将軍が敵に殺されたとは即ち敗北したということです。それを認めたくない人が話をこじつけたのでしょう。

    (儒禮尼師今)四年夏四月倭人襲一禮部縱火燒之虜人一千而去

    儒禮尼師今四年(西暦250年)夏四月、倭人が一禮部を襲い、火を放ってこれを焼いた。捕虜を千人連れ去られた。

    (儒禮尼師今)六年 夏五月聞倭兵至理舟楫繕甲兵

    儒禮尼師今 六年(西暦252年)、倭兵が攻めてくるという情報が入り、船を修理し、鎧と武器の修理をした。

    これを見ると、新羅も余裕綽々で倭の相手をしていたわけではないことがわかります。実際はかなりの脅威だったのではないでしょうか。

    (儒禮尼師今)九年夏六月倭兵攻陷沙道城命一吉大谷領兵救完之

    儒禮尼師今九年(西暦255年)夏六月、倭の軍が沙道城を攻め落とした。一吉大谷に命じ、領兵にこれを救わせた。

    何が倭を新羅に駆り立てたのでしょう。単に屈服しないという理由でしょうか。あるいは何か渡来人/帰化人が絡むのでしょうか。

    (儒禮尼師今)十一年夏倭兵來攻長峯城不克

    儒禮尼師今十一年(西暦256年)年、倭の軍隊が来て長峯城を攻めたが勝てなかった。

    前年と違い、おそらくは守りを固めていたのでしょう。今度の城は落ちませんでした。勝てなくてどうしたかが書いてありません。ただ単に退却したのでしょうか。それこそあり得ないと思うのですが。

    (儒禮尼師今)十二年春王謂臣下曰倭人屢犯我城邑百姓不得安居吾欲與百濟謀一時浮海入撃其國如何舒弗邯弘權對曰吾人不習水戰冒險遠征恐有不測之危況百濟多詐常有呑我國之心亦恐難與同謀王曰善

    儒禮尼師今十二年(西暦257年)春、王が臣下に申して曰く「倭人がしばしば我が国の城邑を侵犯して百姓は安心して暮らすことができない。百済と謀り海を渡って倭国へ反撃を行いたい。どうだろうか」舒弗邯、弘權答えて曰く「われわれは水戦に長けておりません。遠征してもおそらく不測の危難が予想されます。まして百済は詐りが多く、その心は常に我が国を併呑しようとするところにあります。共に謀ることは難しいと思います」王曰く「わかった」

    思いとどまったから書いてあるのでしょう。思いとどまらなかった場合もあったはずですが、委細不明です。

    (基臨尼師今)三年春正月與倭國交聘

    基臨尼師今三年(西暦300年)春正月、倭国と使者を派遣しあった。

    和平交渉でしょうか。この後に出てくる倭との交渉が婚儀に関することなので、おそらく和平が結ばれたのだと思われます。

    (訖解尼師今)三年春三月倭國王遣使爲子求婚以阿急飡利女送之

    訖解尼師今三年(西暦312年)春三月、倭国の国王が使いを遣わして、息子のために求婚してきたので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。

    婚儀を結ぶことは、同族に擬制することを意味し、同盟が成立したか、もしくは相互不可侵の約束ができたことを示します。しかし六等官の娘って…日本で言えば、受領の娘を中華皇帝の皇子に嫁がせるようなもので、よく倭が承知したなと思います。あるいは詐りがあったのかも知れません。

    (訖解尼師今)三十五年春二月倭國遣使請婚辭以女既出嫁

    訖解尼師今三十五年(西暦344年)春二月、倭国が使いを遣わし結婚を申し出たが、娘は既に嫁いだと言って断った。

    ところが時間が経つと、情勢も変わります。「女既出嫁」とは全く理由になっていません。30年前の婚儀では、阿飡(六等官)の娘を出しているのです。要するに新羅は、同盟もしくは相互不可侵の約束を反故にすることを宣言したのです。

    (訖解尼師今三十六年)二月倭王移書絶交

    訖解尼師今三十六年(西暦345年)二月、倭王が文書を送ってきて断交した。

    律儀にも、倭は文書でもって断交を通告しています。実質的には前年の婚儀拒否をもって互いの通交は止まっていたでしょう。

    (訖解尼師今)三十七年倭兵猝至風島抄掠邊戸又進圍金城急攻王欲出兵相戰伊伐康世曰賊遠至其鋒不可當不若緩之待其師老王然之閉門不出賊食盡將退命康世率勁騎追撃走之

    訖解尼師今三十七年(西暦346年)、倭の軍が突然風島に侵攻し、その住民を掠奪し、そこから進軍して金城を囲んで急激に攻めた。王は出兵して戦おうとしたが、伊伐康世曰く「倭の賊軍は遠方から来たり、その勢いに当たるべきではありません。その勢いが余話なり軍が疲れるのを待つべきです」王は尤もだと思い、城門を閉じて出撃しなかった。倭の賊軍は食糧が尽き、そのため撤退した。康世に命じて、勁騎を率いさせ、倭の賊軍を追撃し敗走させた。

    突然も何も、断交したら戦争になるのは洋の東西を問わず、古今当たり前のことです。この「わざとらしさ」が「儒教主義」という奴です。孔子が聞いたら嘆くでしょう。退却する軍を叩くのは兵法ですが、首都を囲まれて出撃できないというのは、倭が大軍を繰り出したからでしょう。大軍と言っても後世のように何十万、何百万とはいきませんから、城を包囲しても落とせなかったのだと思われます。しかし倭軍を追撃して敗走させたのではなく、倭軍が勝手に退却していったのを見送っただけと思うのは私だけでしょうか。退却する大軍を追撃して勝ちを拾ったのは、高祖劉邦くらいなものだと思うのですが。

    (奈勿尼師今)九年夏四月倭兵大至王聞之恐不可敵造草偶人數千衣衣持兵列立吐含山下伏勇士一千於斧東原倭人恃衆直進伏發撃其不意倭人大敗走追撃殺之幾盡

    奈勿尼師今九年(西暦364年)夏四月、倭の大軍が押し寄せてきた。王はこれを聞き、とても敵わないと恐れた。草で人形を数千作らせ、衣を着せて兵に持たせ、吐含山の麓に並べ立てさせた。勇士一千を斧東原に伏せた。倭人は衆を恃んでまっすぐ進んできた。伏兵を発しその不意を突いて攻撃した。倭人は大敗北を喫し逃走したが追撃してこれを殺し全滅近くまで追い込んだ。

    えー?衆を恃むほどの大軍を千人で待ち伏せて殺し尽くしたー?論理矛盾があるんですけどー(笑)。

    (奈勿尼師今)十一年 春三月 百濟人來聘

    奈勿尼師今十一年(西暦366年)春三月、百済人が聘問にやってきた。

    倭と直接は関係ありませんが、この時、第一次羅済同盟が結ばれ、四世紀末まで継続します。そのため、百済新羅の間の交戦はなくなります。

    (奈勿尼師今)三十八年夏五月倭人來圍金城五日不解將士皆請出戰王曰今賊棄舟深入在於死地鋒不可當乃閉城門賊無功而退王先遣勇騎二百遮其歸路又遣歩卒一千追於獨山夾撃大敗之殺獲甚衆

    奈勿尼師今三十八年(西暦393年)夏五月、倭人が攻めてきて金城を囲み、五日も包囲を解かなかった。将士はみな出撃して戦うことを願ったが、王曰く「今倭の賊軍は船を棄て深く我が地に入り込んでいて、死地にいる。鉾先も当たらないだろう」城門を閉じて守った。倭の賊軍は得るところなく退却した。王は勇猛な騎兵を二百先遣し、その退却路を遮り、また歩兵一千を遣わして獨山に追い込み、挟撃してこれを大敗させた。殺して首を取った数が非常に多かった。

    また首都を包囲されています。これに対して出撃は不可とみて籠城したのはよいのですが、そんな大軍を騎兵二百、歩兵千で大敗させたとか、理屈にあいません。「儒教主義」(笑) まあそれはともかく、「好太王碑」によると、この三年後の西暦396年、高句麗百済を下します。この時点で、第一次羅済同盟は解消となったようです。或いは解消は、西暦400年のことかも知れません。

    (實聖尼師今)元年三月與倭國通好以奈勿王子未斯欣爲質

    實聖尼師今元年(西暦402年)三月、倭国と通好し、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。

    ここに至り、再び倭と修好しています。実は、西暦393年と西暦402年の間にあった重大な事件が新羅本紀には記載されていません。それは「好太王碑」に書かれています。「十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵」つまり、「永楽十年(西暦400年)庚子、歩騎五万を派遣して新羅を救わせた。男居城から新羅城に至るまで倭軍が充満している中を官兵で攻撃し、倭の賊軍を退けた。倭軍の背後を急追し、任那加羅の從拔城へ至った。城はすぐさま降伏し、新羅人の国境守備兵を保護した」とある部分です。新羅高句麗に頭を下げて助けて貰っているので書きたくなかったんでしょうね。石碑が残されているなんて思いもよらなかったんでしょう。高句麗は当然、新羅を救援すると引き上げてしまいます。すると、また倭の脅威に直面せざるを得ないので、和平を結ぶことにしたのではないでしょうか。新羅にとって、対等ではなく、屈辱的な和平であったのでしょう。

    (實聖尼師今)四年夏四月倭兵來攻明活城不克而歸王率騎兵要之獨山之南再戰破之殺獲三百餘級

    實聖尼師今四年(西暦405年)夏四月、倭の軍隊が来襲し、明活城を攻めたが、勝てないまま退却した。王は騎兵を率いて獨山の南で待ち伏せし、再戦して倭軍を破った。殺して首を取った数は三百あまりだった。

    はて、和平を結んだはずの倭がまた攻めてきて、しかも迎え撃っています。人質の王子はどうなったー!?

    (實聖尼師今)六年春三月倭人侵東邊夏六月又侵南邊奪掠一百人

    實聖尼師今六年(西暦407年)春三月、倭人が東の海岸から侵入してきた。夏六月にまた南の国境地帯も侵犯して百人を捕らえて連れ去った。

    二年続けて侵攻があったようです。和平どころではありません。

    (實聖尼師今)七年春二月王聞倭人於對馬島置營貯以兵革資粮以謀襲我我欲先其未發揀精兵撃破兵儲舒弗邯未斯品曰臣聞兵凶器戰危事況渉巨浸以伐人萬一失利則悔不可追不若依嶮設關來則禦之使不得侵猾便則出而禽之此所謂致人而不致於人策之上也王從之

    實聖尼師今七年(西暦408年)春二月、王は、倭人が対馬島に軍営を設置し、武器、鎧甲、軍資、食料を貯蔵して、我が国を襲撃する計画を進めているという情報を入手した。兵が出発する前に先んじて、精兵を選んで兵を破りその蓄えを奪いたいと思った。舒弗邯の未斯品曰く「私は、兵は不吉な道具であり、戦は危険な事だと聞いております。況んや大海を渡って他国を征伐しようというのです。万一勝てなければ、後悔しても追いつきません。要害堅固なところを守り、関所を設けることに及びません。来たれば即ちこれを防ぎ、なかなか攻め込めないようにして、機会があれば出撃してこれを虜にする。これが所謂人に致し而して人をして致らせぬところというものでありまして、上策であります」王はこれに従った。

    さてここで、三国時代の朝鮮半島地図をウィキペディアでご覧下さい。五世紀終わり頃で高句麗が最も盛んであった時代です。新羅の領土は百済の半分ほどしかありません。つまり三国の中で最も弱小だったわけです。逆に倭はまさにそれを行っているわけで、力関係でいえば、倭の国力の方が上であったことが分かります。小国が大国の隙を突くようなマネをしても必ず痛い目に遭う。それより防御を固めるのが先だと王に諭しているわけです。

    (實聖尼師今)十四年八月與倭人戰於風島克之

    實聖尼師今十四年(西暦415年)八月、倭人と風島で戦い、勝った。

    またまた懲りずに倭が出兵してきます。多分新羅が勝った戦いだけ書いてるんでしょうね。だからそう見える。戦争とはそういうものではありません。

    (訥祇麻立干)二年春正月親謁始祖廟王弟卜好自高句麗與堤上奈麻還來秋王弟未斯欣自倭國逃還

    訥祇麻立干二年(西暦418年)春正月祖廟で親閲を始める。王の弟、卜好が高句麗より堤上奈麻と帰り来る。秋、王の弟、未斯欣、倭国より逃げ帰る。

    實聖尼師今元年(西暦402年)に人質として倭に渡った未斯欣が逃げて帰ってきました。というか、實聖尼師今四年(西暦405年)には逃げ出していてどこぞに隠れていたのではないでしょうか。高句麗とか。人質が勝手に逃げたから「倭」が實聖尼師今四年(西暦405年)に攻めてきたと考えると符合します。

    (訥祇麻立干)十五年夏四月倭兵來侵東邊圍明活城無功而退

    訥祇麻立干十五年(西暦431年)夏四月。倭の兵が東の海岸地帯を侵犯し、明活城を囲んだ。何も得られず退却した。

    倭は何をしたかったのでしょうか。城を囲んではただ退却する。あるいは、それは次の百済の行動を応援するためだったのかも知れません。

    (訥祇麻立干)十七年秋七月百濟遣使請和從之
    (訥祇麻立干)十八年春二月百濟王送良馬二匹秋九月又送白鷹冬十月王以黄金明珠報聘百濟

    訥祇麻立干十七年(西暦433年)秋七月、百済が使いを遣わせて、和平を求めてきた。これに従った。
    訥祇麻立干十八年(西暦434年)春二月、百済王が良馬二頭を送ってきた。秋九月、また百済王が白鷹を送ってきた。冬十月王は、黄金・明珠を百済の聘物のお返しにした。

    この時成、第二次羅済同盟が成立しています。この同盟は、西暦553年に新羅が漢江流域を奪うまで続きました。大国、高句麗に対抗するために手を組んだのです。従って以降の倭の軍事行動は、倭と百済の同盟に基づく行動ではないことがわかります。

    (訥祇麻立干)二十四年倭人侵南邊掠取生口而去夏六月又侵東邊

    訥祇麻立干二十四年(西暦440年)、倭人が南の国境地帯を侵犯した。奴隷を奪い取って去った。夏六月、倭人がまた東の海岸地帯を侵犯した。

    相変わらず倭は新羅にちょっかいをかけていますが…示し合わせた訳ではないでしょうが、これ以降、倭と高句麗が交互に新羅を攻めるようになります(高句麗百済も攻めましたが)。

    (訥祇麻立干)二十八年夏四月倭兵圍金城十日糧盡乃歸王欲出兵追之左右曰兵家之説曰窮寇勿追王其舍之不聽率數千餘騎追及於獨山之東合戰爲賊所敗將士死者過半王蒼黄棄馬上山賊圍之數重忽昏霧不辨咫尺賊謂有陰助收兵退歸

    訥祇麻立干二十八年(西暦444年)、倭の軍が金城を十日間囲んだ。食料が尽きて帰った。王は兵を出してこれを追撃しようとした。左右の者曰く「軍事の専門家の説に拠れば、追い詰められた賊を追っ手はならない」と。王はこれを捨て置いて聞き入れなかった。数千の騎兵を率いて追撃して獨山の東に及び、合戦して賊に敗れた。将兵は過半数が死んだ。王は慌てふためいて馬を棄て山に登った。賊がこれを幾重にも囲んだ。忽ち霧が出てあたりが暗くなり、一寸先も見分けが付かなくなった。賊は「これぞ陰助だ」と言って、兵を収めて撤退した。

    「新羅本紀」の中で唯一ではないでしょうか、王が倭軍に追い詰められた話とは。

    (慈悲麻立干)二年夏四月倭人以兵船百餘艘襲東邊進圍月城四面矢石如雨王城守賊將退出兵撃敗之追北至海口賊溺死者過半

    慈悲麻立干二年(西暦459年)夏四月、倭人が兵船百艘あまりで東の海岸を襲撃して進軍し、月城を囲んで、四方八方から矢や石を雨あられと打ち込んだ。王城守は賊将を退け、出兵してこれは撃破し、北に追撃して海口まで行った。賊軍で溺死する者が過半数に達した。

    帰化人/渡来人の祖先の多くは朝鮮系だという学者がいますが、百済と同盟する一方でこれほど執拗に倭が新羅に出兵するのは、帰化人/渡来人の影響がないからではないでしょうか。影響力が大きかったらあたら祖国の地を蹂躙するようなことは止めるでしょう。百済新羅を結んだのならなおさらです。

    (慈悲麻立干)五年夏五月倭人襲破活開城虜人一千而去

    慈悲麻立干五年(西暦462年)夏五月、倭人が活開城を撃破し、捕虜を千人連れ去った。

    (慈悲麻立干)六年春二月倭人侵歃良城不克而去王命伐智德智領兵伏候於路要撃大敗之王以倭人屢侵疆埸縁邊築二城

    慈悲麻立干六年(西暦463年)春二月、倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。王は伐智・德智に討伐を命じた。領兵が路に隠れて待ち伏せし、倭軍を要撃して大敗させた。王は以後、倭人が頻繁に国境、海岸を侵犯するので、国境、海岸に城を二つ築いた。

    (慈悲麻立干)十九年夏六月倭人侵東邊王命將軍德智撃敗之殺虜二百餘人

    慈悲麻立干十九年(西暦476年)夏六月、倭人が東部の海岸から侵入してきた。王は将軍德智に命じてこれを撃敗させた。殺したり捕虜にした者が二百人あまりいた。

    (慈悲麻立干)二十年夏五月倭人擧兵五道來侵竟無功而還

    慈悲麻立干二十年(西暦477年)夏五月、倭人が兵を挙げ、五道に侵入したが、何も得るところがなく退却した。

    勝つこともあり負けることもあるから執拗に出兵してくるのだと普通は思いつくのですが、「儒教主義」者には通用しないようです。執拗に倭の負け戦だけを書き連ねます。

    (炤知麻立干)四年五月倭人侵邊
    (炤知麻立干)七年五月百濟來聘
    (炤知麻立干)八年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干四年(西暦482年)五月、倭人が国境を侵犯した。
    炤知麻立干七年(西暦485年)五月、百済が聘問に来た。
    炤知麻立干八年(西暦486年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    百済が別に面従腹背しているわけではないことが聘問の事実によって裏書きされます。しかしその前後で倭は出兵しているわけですから、特に斡旋もしなかったようです。

    (炤知麻立干)十九年夏四月倭人犯邊

    炤知麻立干十九年(西暦497年)夏四月、倭人が国境を侵犯した。

    (炤知麻立干)二十二年 春三月 倭人攻陷長峰鎭

    炤知麻立干二十二年(西暦500年)春三月、倭人が長峰鎭を攻め落とした。

    この記載を最後に、有名な「白村江の戦い」まで、倭のことは出てこなくなります。何があったのでしょう。西暦527年に「磐井の乱」があって外征どころではなかったのかも知れません。西暦589年にはが建国されます。『隋書』東夷伝俀國条には、「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來」「新羅百済はみな倭が大国であり、珍物が多いとして、これを敬仰し、常に通使が往来している」とあります。つまり、遂に新羅は倭の出兵に対抗することに困難を覚え、修好したと考えられます。だから倭が攻めてこなくなったのでしょう。もちろん、新羅はそんなことをしたくなかったのかも知れません。代になってから新羅に接近し、は、高句麗を滅ぼした後、退廃していた百済に目を付けました。これが百済滅亡とそれに続く白村江の戦いを引き起こしたのです。朝鮮半島は新羅によって統一され、倭は半島での足がかりを失いました。隠忍自重、臥薪嘗胆の年月であったのでしょう。

    さてみなさん、『宋書』に記載された倭王武の上表文を憶えておられるでしょうか。そう「渡平海北九十五國」です。「好太王碑」だけではなく、朝鮮の歴史書によっても、それが誇張ではなく、四世紀から五世紀にかけて、頻々と出兵を繰り返した事実があったことが裏書きされました。「東征毛人五十國西服衆夷六十六國」も当然その実があって書かれたのでしょう。その結果が授けられた「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」という称号です。倭および朝鮮半島を配下に治める覇者に相応しいものではないでしょうか。ところで、この出兵を支えたのはどういった人々であったか。遙々近畿地方から軍勢を集めて送り込んだのでしょうか。それこそまさかです。北九州から肥後にかけて兵を集め、軍勢を東西北へ繰り出したのです。そんなことが一地方豪族に可能でしょうか。遠い大和の地にある朝廷の命令がいかほどの影響力があるでしょう。まぎれもなく、そこに王朝があり、国の中心だったからこそ兵を集めることができ、頻繁に出兵することができたのです。九州に古墳が登場するのは、大和・河内より随分遅くなってからですが、これだけ頻繁に出兵していれば、古墳なんぞ作る余裕があるはずもありません。

    それに、最終的に大和朝廷が全国で唯一の王朝となるのですが、頑張って律令を施行したものの、年を追う毎に地方が管理できなくなり、平安時代には全くといってよいほど国司に任せきりになってしまいます。「良二千石」という良吏を表す言葉があるのですが、そんな言葉を使って賞賛しなければならないほど綱紀がゆるんでいたこともわかっています。つまり、大和朝廷には全国をまとめ上げ、末端まで管理する実力など初めからなかったのです。空白の四世紀と言われる時代を含めその前後の頃など、なおさらそれがありえないことだということは、歴史書を丹念に見ればわかる類のことです。なぜ歴史学者という生き物は頑迷に王朝は唯一近畿地方だけと主張するのでしょうか。新井白石が何と言おうが、本居宣長が何を言おうが、科学者は事実を探求すべき職務であるのに、先生の仰る通りとしか言えないのであれば、廃業してしまえばよろしい。

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  • 日本の古代史を考える—⑨三国史記(百済本紀)

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    ここで朝鮮に目を転じます。三世紀〜七世紀にかけて、朝鮮半島では「高句麗」「百済」「新羅」が鼎立し、覇を争っていました。最終的に「白村江の戦い」で倭・百済(この時既に百済は滅亡していたので正確には百済遺民)連合軍に、新羅連合軍が大打撃を与え、倭はこの敗北から立ち直れないまま、新羅が朝鮮を統一します。この三国の歴史を著したのが『三国史記』です。高麗十七代仁宗の命を受けて金富軾らが編纂しました。この書は高麗新羅の後継を自任していた上に、編纂者が新羅王室の血を引いていたため、新羅偏重かつ新羅寄りの既述が目立ちます。そのため、その内容を充分に批判することなしに引用することは不用意の誹りを免れ得ません。とはいえ、倭と新羅の激闘の歴史は見て取れますので、倭に関する部分を抜粋して、その様子をうかがうことにしましょう。

    なお、「ひのもとの史記」さんの「三国史記の倭関連記事」が一覧表になっていてとても見やすいので、概略を掴むのにはもってこいです。是非ご覧になって下さい。トップページから「ひのもとの史記・参」をクリックして、左サイドバー内「CONTENTS」の「三.三国史記」をクリックすれば見ることができます。

    まずは「百済本紀」から。

    六年夏五月王與倭國結好 以太子腆支爲質

    阿莘王の六年(西暦397年)、王は倭國と誼を通じた。太子腆支を人質とした。

    倭と百済の同盟が成立した、ある意味画期的な事件です。以降、白村江の戦いで大敗を喫するまで、倭と百済は同盟を続けたのです。

    (阿莘王十一年)五月遣使倭國求大珠

    阿莘王の十一年(西暦402年)、倭國に使いを遣わして大珠を求めさせた。

    十二年春二月倭國使者至王迎勞之特厚

    阿莘王の十二年(西暦403年)、 倭國が使者を派遣してきた。王はこれを迎えて労い、特に厚く遇した。

    倭と百済の紐帯が固いことを示す記事が続きます。

    十四年王薨王仲弟訓解攝政以待太子還國季弟禮殺訓解自立爲王腆支在倭聞訃哭泣請歸倭王以兵士百人衛送既至國界漢城人解忠來告曰大王棄世王弟禮殺兄自王願太子無輕入腆支留倭人自衛依海島以待之國人殺禮迎支即位妃八須夫人生子久尒辛

    阿莘王の十四年(西暦405年)、王が薨じた。王の次弟、訓解が摂政し、太子が国に帰るのを待った。末弟、禮が訓解を殺して、自立して王となった。腆支は倭にあって訃報を聞き、哭泣して帰国を願った。倭王は兵士百人を護衛に付けて送らせた。国境に至ろうとした時、漢城人の解忠が来てこう言った「大王が世をお棄てになり、王弟の禮が兄を殺して自ら王になりました。太子が軽々に入国されないことを願います」腆支は倭人を留め自らを護衛させた。海島により知らせを待った。国人が禮を殺して、腆支を迎え即位した。妃の八須夫人が王子久尒辛を産んだ。

    簒奪を計った王の末弟を諸豪族が殺して、倭から太子を迎え、王とする話です。倭は太子に護衛を付けて送り届けています。

    五年倭國遣使送夜明珠

    腆支王の五年(西暦410年)、倭國に使いを遣わし、夜明珠を送った。

    十四年夏遣使倭國送白綿十匹

    腆支王の十四年(西暦419年)、十四年夏、倭國に使いを遣わし、白絹十匹を送った。

    なので、倭に恩義を感じたのか、腆支王は贈り物をしています。倭・百済同盟は順調です。

    二年春二月王巡撫四部賜貧乏穀有差倭國使至從者五十人

    毗有王二年春二月(西暦427年)、王は四方を巡撫し、貧乏な者にはその程度に応じて穀物を授けた。倭国の使者が従者を五十人引き連れてやって来た。

    代が変わっても倭との同盟が継続している様子が窺えます。

    (武王)九年春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路

    武王の九年(西暦608年)春三月、使いを遣わして隋に朝貢した。隋の文林郞、裴淸が倭國へ使いを奉り、我が国の南路を通った。

    ここで記事は七世紀に飛びます。隋の裴世清が遣隋使の答礼に倭へ赴く際、百済を通ったことがわかります。つまり、倭・百済同盟は続いているのです。

    (義慈王)十三年春大旱民饑秋八月王與倭國通好

    義慈王の十三年春(西暦653年)、旱がひどく、民が飢えた。秋八月、王は倭國と通好した。

    百済最後の王、義慈王です。国際関係は緊張を増していました。隋が滅び、が建国されたのですが、新羅はそのと同盟を結び、高句麗百済を脅かしていました。高句麗にはかつての栄光はなく、両国とも押され続けています。義慈王は、倭との盟いを新たにする必要を覚えたのでしょう。しかし、その盟いも虚しく、西暦660年、百済新羅に滅ぼされてしまいます。

    龍朔二年七月(前略)時福信既專權、與扶餘豊相猜忌。福信稱疾、臥於窟室、欲俟豊問疾執殺之。豊知之、帥親信、掩殺福信。遣使高句麗倭國乞師、以拒唐兵。孫仁師中路迎撃破之、遂與仁願之衆相合、士氣大振、於是諸將議所向。或曰、加林城水陸之衝、合先撃之。仁軌曰、兵法避實撃虚、加林嶮而固、攻則傷士。守則曠日、周留城百濟巣穴、羣聚焉。若克之、諸城自下。於是、仁師仁願及羅王金法敏帥陸軍進、劉仁軌及別帥杜爽扶餘隆帥水軍及粮船、自熊津江往白江、以會陸軍、同周留城。遇倭人白江口、四戰皆克。焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水爲丹。王扶餘豊脱身而走、不知所在。或云奔高句麗。獲其寶劒。王子扶餘忠勝忠志等帥其衆、與倭人並降。獨遲受信據任存城未下。

    龍朔二年(西暦662年)七月、(前略)時に福信が権力を専横し、扶餘豊とは互いに猜疑し嫌い合っていた。福信は病と称して窟室に伏して、豊が見舞いに来ることを期待し、その時に捉えて殺してしまおうと考えていた。豊がこれを知り、信頼の置ける者たちを率いて福信の不意を突いて殺した。高句麗と倭国に使いを遣わして軍の出動を願い、唐の軍を攻めた。(唐・新羅軍の)孫仁師は中路で迎撃しこれを破り、遂に仁願の軍衆と見え、士気がすこぶる高まった。ここにおいて(唐・新羅軍の)諸将は会議で結論したところへ向かった。或いは曰く、加林城は水陸の要衝なのでまずこれを攻撃して下すべきだと。仁軌は「兵法は実を避け虚を撃つものだ。加林城はなおも守備が固く、攻めても兵を消耗するだけだ」と言った。守則曠は「周留城は百済の巣穴だ。ただ群がり集まっているだけではないか。もしこれに勝つことができれば、他の城は自ずから下ってくるだろう」ここにおいて仁師仁願と新羅王、金法敏は陸路を取り軍を進めた。劉仁軌と別働隊の杜爽、扶餘隆は水軍と軍資を積んだ船を率いた。熊津江より白江に至り、陸で軍を併せ、周留城を下した。(唐・新羅軍は)倭人と白江の港で会戦し、四戦して四勝した。倭の船四百艘を焼き、その煙と炎は天を焦がし、海水を赤い色に変えた。百済王の扶餘豊は脱出して逃走し、所在がわらなくなった。或いは高句麗に逃げたとも伝える。百済の宝剣を奪い取り、百済王子の扶餘忠勝と忠志らはその軍衆を率いて、倭とともに並んで(唐・新羅軍に)降伏した。遲受信は単独で任存城に拠っておりまだ下っていなかった。

    そして、西暦663年、ついに白村江で、倭・百済遺民連合軍と新羅連合軍が雌雄を決しますが、倭は大敗を喫します。倭はこの痛手からついに立ち直れませんでした。

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  • 日本の古代史を考える—⑦広開土王碑

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    時代は前後しますが、「⑥宋書夷蠻伝倭國条」でも触れた「好太王碑」、正式には「広開土王碑」に「倭」と「高句麗」の戦争の様子が書かれているので、関連部分を抜き出して、見てみたいと思います。

    百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民

    百済新羅はもともと高句麗の属国であり、昔から朝貢してきていた。ところが、倭は辛卯の年に海を渡って来襲し、百済、■■■羅(新羅?)を破り、自分たちの属国にしてしまった。

    碑の第一面、永楽五年(西暦395年)のところに出てくる文です。実は、高句麗百済新羅を属国にしたことはなく、また、倭が百済新羅を属国にしたこともありません。じゃあこの文は何を意味しているのだというと、好太王(広開土王)が「侵略してきた無道な倭を撃破して散々な目に遭わせる」という本文のための前振り部分なわけです。好太王(広開土王)の業績を讃える碑ですから、その敵である倭は極悪非道でなくてはなりません。まあそういうことは置いておいて、この碑が残っているおかげで、四世紀末から五世紀にかけて、倭と高句麗が激突を繰り返した事実がわかるのです。どちらが正義かは、暇なサヨクのみなさんのお喋りに任せておきましょう。なお、文中■とあるのは、字が欠けて読めなくなってしまっている部分です。ものすごく長い間野ざらしでしたからねえ。

    九年己亥百残違誓與倭和通王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命

    永楽九年(西暦399年)己亥、百済は誓いに違背して倭と手を組んだ。王は平壌に退いた。そこに新羅の遣使がやってきて王にこう申し上げた「倭人が国境に満ちて城池を破壊し、呼び寄せた奴隷を住民として定住させています。王の仰せに従いますのでご命令をお願いいたします」

    第二面にある、倭の侵攻の様子です。ここで、倭・百済連合対高句麗新羅連合で戦争となったことがわかります。倭が新羅の国境を越えて征服した土地に、よそ者を移住させているとあります。本当にわざわざ奴隷を呼び寄せたりはしないでしょう。侵略を受けた側からすると異民族が自分たちの領土に我が物顔で移ってきたわけですから、「奴」と罵りたくなる気持ちはわかりますが。

    十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戌兵

    永楽十年(西暦400年)庚子、歩騎五万を派遣して新羅を救わせた。男居城から新羅城に至るまで倭軍が充満している中を官兵で攻撃し、倭の賊軍を退けた。倭軍の背後を急追し、任那加羅の從拔城へ至った。城はすぐさま降伏し、新羅人の国境守備兵を保護した。

    その続きです。高句麗軍大進撃の巻。倭・百済連合軍は散々に蹴散らされてしまいます。任那に侵攻を許したということは、倭の領土に攻め込まれたことを意味します。ひどい負け戦ですね。

    十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界

    永楽十四年(西暦404年)甲辰、しかるに倭は、無道にも帯方の境界から侵入してきた。

    第三面から。ところがそれで倭が大人しくしてるはずもありません。四年後また戦争をしかけてきます。今のソウルあたりからということは、またもや倭・百済連合軍です。

    倭寇潰敗斬殺無數

    倭の賊軍は潰敗し、無數の兵を斬殺した。

    この後、欠字が多く、倭軍惨殺の様子を克明に調べる目的もありませんのでカットしてます。いやもう余すところなく倭の兵を斬り殺したとか、はぎ取った鎧甲が一万を越えたとか、分捕った軍資は数え切れないほどだったとかあるのですが、売国サヨクの方が大喜びしそうな文章です。それはともかく、倭と高句麗の間に確執があり、こうして碑文に見えるだけでも二度戦争があったことがわかります。当然この二度だけということはありえないわけで、何度も激突を繰り返したのでしょう。高句麗は五世紀が全盛期で、碑文にあるよう自衛のための戦争しかしなかった…わけがありません。高句麗側からしかけた戦争であっても、倭の侵略というように粉飾している可能性は十分あります。しかし問題はそんな点になく、四世紀から五世紀にかけて、倭が積極的に朝鮮半島へ出撃し戦争を繰り返し行ったという事実です。『宋書』夷蠻伝倭國条に載せられている倭王武の上表文にあった「渡平海北九十五國」が誇張でも何でもなく、事実あったことだとおわかり頂ければ、この項の目的は達せられたことになります。

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  • 日本の古代史を考える—⑥宋書夷蠻伝倭國条

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    晋書』は、三国鼎立時代を終わらせた「」の正史で、西暦265年から420年までの出来事が収められている。ただし、倭人条は、泰始元年(西暦265年)の記事で終わっており、次に倭の名前が見えるのは安帝の義煕九年(西暦413年)であるため、四世紀の日本については何も情報がない。本稿で取り上げる『宋書』は、南北朝時代の「」(平清盛日宋貿易を行った「」とは時代が異なる国)の正史で、南斉武帝の命令で、沈約によって編まれた。西暦420年から479年までの出来事が記されている。かの有名な「倭の五王」が登場するのであるが、当然記録が五世紀に入ってからなので、四世紀がまるまる空白として残る結果となった。いわゆる「空白の四世紀」である。

    倭國在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

    倭國は高麗の東南の海中にあり、代々朝貢してきていた。高祖永初二年(西暦421年)、詔して曰く「倭の讚は万里を越えて朝貢してきた。遠来の忠誠をよろしくはかり、官職、答礼の品を賜うべし」太祖元嘉二年(西暦425年)、讚はまた司馬の曹達を遣わし、表を奉じて、様々なものを献上した。

    倭王讚が朝貢してきたことを示す記事です。讚は中華風名称であり、本名はまた別にあったはずですが、伝わっていません。司馬曹達は人名かも知れませんが、委細不明です。

    讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。

    讚が死に、弟の珍が倭王になって、使いを遣わし朝貢してきた。自ら、使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王と称していた。上表して正式な任官を求め、詔して安東將軍・倭國王に任命した。珍はまた、倭隋等十三人に号して平西・征虜・冠軍・輔國將軍とする正式な任命を求めた。詔してすべて聞き届けた。元嘉二十年(西暦443年)、倭國王濟が使いを遣わし、朝献してきた。また安東將軍・倭國王とした。元嘉二十八年(西暦451年)、もと願っていたように、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍を加えた。併せて都に上ってきていた二十三人を将軍や軍太守に任命した。

    讚が死んで、弟の珍が倭王になって朝貢してきた記事です。冊封を受けていますが、いつのことかわかりません。そして、元嘉二十年(西暦443年)になって倭王濟が朝貢してきたと続きます。珍が死んで後を継いだと書いていないところが意味深です。簒奪があったのかも知れません。当然上表文があったのでしょうが、内容が伝わっていないので何があったか不明のままです。ウィキペディアで検索するとわかりますが、「使持節」や「安東將軍」はいっぱいいます。倭の珍も濟もその中の一人でしかありません。割と安直に任命された名誉号のようです。日本において平安時代、地方の豪族に外従五位下を授けたようなものかも知れません。ただ、元嘉二十八年(西暦451年)に珍が自称し、任命を希望していた「使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王」とよくよく見るとちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」に濟は任命されています。何もないのにそんな任命が行われるはずがないので、軍事的に高句麗を圧倒した可能性があります。

    濟死、世子興遣使貢獻。世祖大明六年、詔曰「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王」

    濟が死に、世子の興が使いを遣わし朝貢してきた。世祖大明六年(西暦462年)、詔して曰く「倭王の世子、興、累代忠を捧げ、外界に藩国を構え、王化を受けてその国境を安寧にし、うやうやしく貢職を勤めてきた。新たな嗣子がその勤めを継ぐに当たり、よろしく爵号を授け、安東將軍・倭國王とすべし」

    さて、その濟も死に、息子の興が朝貢してきます。ひょっとして興も「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」を申請したのかも知れません。

    興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 。

    興が死に、弟の武が倭王に立った。自ら使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王を称した。

    興が死んで、弟の武が倭王になりました。当然朝貢したので、記事になっているわけで、その上表文の中で、珍が授けられた「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」とちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓國諸軍事・安東將軍」を自称しています。書かれていませんが、当然上表文の中で任命を求めたでしょう。もちろんこの時、その希望が叶えれなかったことは続く段落でわかります。

    ところで、ここまででいわゆる「倭の五王」が出尽くしたわけですが、讚と珍が兄弟であることは明らかです。濟と興が親子で、興と武が兄弟なのも明らかです。この続柄は当然上表文に記載されていたものを写したものですから、倭王が嘘を書かない限り、これを事実としない訳にはいきません。この「倭の五王」をどの天皇に比定するかで歴史学者は喧々囂々議論をしてるわけですが、はっきり言って、全員眉唾ものです。そもそも武を雄略天皇に比定するのは共通するみたいですが、それも雄略天皇の名前に「ワカタケル」と入っているから、「武」っぽいじゃん? というだけのことで、全然歴史的事実でも何でもないのです。そもそも雄略が西暦の何年頃に帝位を履んだかも明らかになっていません。即位と西暦が対応するのは、推古天皇からとされていますが、それは推古15年に遣隋使を送ったと『日本書紀』にある記事と、『隋書』俀国伝の「大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢」の記事が一致すると考えられているからです。しかしそもそもその比定が全く根拠がなく、思い込みに等しいものでしかありません。それ故、推古天皇を基準としたそれより過去の天皇の在位期間など全くあてにならないのです。何より「記紀」の雄略紀には、朝貢したとか、何某の官職に任命されたとかそんな話が出てきません。それがどれほどありえないか、続きの段落にある上表文を読んで頂ければ明白です。歴史学といってもそんなレベルなんですよ、皆さん。私どもはそういった方々に税金だの学費だのを投入して養っているわけです。知的レベルが江戸時代の国士から進化してないんじゃないでしょうか。

    雄略の実在を担保する物証として、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣があります。これには銘文が象嵌してあり、その裏の銘文「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」の「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と呼んで、雄略の本名にある「ワカタケル」と同じだとして、これは雄略のことに間違いなしとなっているのですが、これを五世紀の音で読むと、「獲」は「カク、カ、カイ」、「加」は「カ」、「多」は「タ、ダ」、「支」は「シ」、「鹵」は、「ル、ロ」…全然ワカタケルになりません。あるいは国内産ですので、古文的な読み方があるんでしょうか。「支」をキと読む例があるのを知っていますが、「獲」を「ワ」と読む例は寡聞にして知りません。どなたかご教示頂ければ幸いです。

    順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見吞、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

    順帝の昇明二年(西暦478年)、遣使が至り、上表文に曰く「封国(倭国)は、帝都から遠く離れており、藩外に国を構えております。父祖代々自ら鎧兜に身に着け、山川を跋渉し、戦いの毎日で気の休まることはありませんでした。そうして、東に毛人を制圧すること五十五国、西は衆夷を服従させること六十六国、海を渡って海北を平定すること九十五国となりました。王道は寛大で平和であり、首邑から遠く離れたところまで国土を広げました。累代、朝廷を尊び、歳を違えることもありませんでした。私は愚か者ではありますが、かたじけなくも亡き父兄がやり残したことを継ぎ、治めているところで軍を鍛え、崇め帰すこと天を極め、道を百済に通して、船舶も整えました。ところが、高句麗は無道にも領土を併合しようと企て、百済の国境に侵入してきては略奪し、殺戮を行って已みません。朝貢も毎回滞り、良風を得て船出することもできなくなり、では陸路を進もうとしても、ある時はたどり着けますが、ある時はたどり着けないのです。私の亡父濟は、仇敵が帝都に通じる道を塞いだのを大変怒りました。弓兵百万が正義の声に感激してまさに大挙しようとしましたが、俄に父と兄は死んでしまいました。成就間近であった武勲も今ひと息のところで失敗に終わってしまったのです。憎しみを抱いても諒闇であり、兵が動きません。そのために休息を余儀なくされ、いまだに勝つことができておりません。今に至り、兵を鍛え閲兵の儀式を行い、亡き父兄の志を申し上げようと思います。義士や勇士、文武の手柄を立てるには、たとえ目前で白刃が交わされようとも後ろへ退きません。もし、帝徳によって天地を覆い、この強敵を滅ぼし、国難をよく鎮めることができましたら、代々続けた忠功を替えることはありません。ひそかに開府儀同三司を自ら請い、我が祖先の威光にも授けて頂くことを請願いたし、以て忠勤に勤めます」詔して、武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。

    原文は四六駢儷体で格調高い名文です。装飾過剰なんですが、まあそういう形式だということでご納得頂くしかないかと。要は代々貢職を怠らず、周辺諸国を平らげ、中国の威光を広めてきたのに、高句麗が邪な意図で百済を攻めている。これを滅ぼしたいので、ついては官職を頂きたい。ってことです。それに対して「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王」が授けられています。確かに望んだ官職とは異なりますが、先祖も授けられた名誉ある官職ですし、正式に冊封されたのだから、「記紀」にそれが記されていないのは、おかしな話なのです。

    ここで『日本書紀』の編纂目的を思い起こして下さい。同書は歴とした漢文で書かれ、日本が、皇統一系古来より続く有力国であることを内外に示すために編纂されました。当然、唐の朝廷にも献上されています。自分たちが古来より続く名族であることを示すのに、自分の国の中のことだけを綿々と書くより、いついつの朝廷に遣使して冊封された。上表文は然々である。と他でもない中華の国を引き合いに出す方が相手にもわかりやすく、かつ訴求力があるというものです。なのに書かれていない。つまり、「倭の五王」は近畿天皇王朝と関係がなく、もそれを知っていたため、『日本書紀』にも記しようがなかったと考えるのが論理的な判断というものです。うがった見方をすれば、古来より続く「倭」または「俀」という王朝が滅んでしまい(あるいは滅ぼしたので)、代わって近畿天皇王朝が日本の支配者となったことをに納得させるために、自分たちが「倭」(「俀」)に匹敵する古くから続く王朝であることを示す目的があったとも言えます。つまり、それだからこそ、「倭」(「俀」)の冊封のことなどうかつに書き入れることができなかったと。

    さらに感のよい方なら「遣唐使」が国書を持参しない慣例であったことを思い起こすと思います。つまり、日本は上表文を呈しない習慣をに認めさせていたのです。これは、倭(俀)と日本が連続していると考えると大変奇妙な点で、それまで累代形式通り朝貢しては表を奉じていたのに、遣唐使にあたってはそれをしなくなる。が表を呈しなくてもよいと自ら言い出すはずはないので、日本がごり押ししたと考えるのが妥当です。なぜそんなの面目を失するような波風を立たせるごり押しをしたのか、できたのか。これに対して誰も論理的な回答を出していません。そして、この不連続性もまた、倭(俀)と日本が別の王朝であることを示しています。

    それにしても、倭王武は祖先の功績として「東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」を誇っています。南がありませんね? そう、南がないのです。東征の毛人が「蝦夷」であることは言うまでもありません。ただし、これを関東、東北ととるのは即断というものです。ここは慎重にいきましょう。西の衆夷は置いておくとして、海北とあるのは明らかに朝鮮半島へ侵攻したことを意味しています。それを妨げたのが高句麗なわけですね。さて、これを近畿天皇王朝の立場で考えると、東征は納得できます。西の衆夷もまあ関西以西ですからよしとしましょう。北も朝鮮半島ならありえる話です。あれ、南は? 和歌山は放置ですか、そうですか。となるのです。それに、ここにある国ですが、平安時代に置かれた国のような広い範囲を指すのではなく、宗族と解釈するのが一般的です。でないとそんなにたくさん国はない、としか言えなくなるからです。では出雲王朝はどうでしょう。東、北とも問題ありません。西もそれくらいは服属させられそうです。ところが今度はまた、南に触れていないのが問題になります。出雲の南はもとより、四国無視かよ…となってしまうのです。では真打ち、九州王朝だったとしたらどうでしょう。東と北は問題ありません。南がないのは、自分たちが押さえているからですが、西は…? そう。九州の西は海なのです。いえいえ、九州王朝を筑前、筑後、肥後の連合王朝だとしたら、西は肥前で東は豊前、豊後となります。南に鹿児島がありますが、有力な豪族はいなかったと考えられています。あれ、いける…? あるいはこの部分、白髪三千丈式の誇張表現で、実際は大したことなかったという見方もできないではありません。ところがここに同時代資料として『好太王碑』が頑として存在し、「渡平海北九十五國」が誇張でも何でもないことがわかってしまうのです。

    一体、「倭の五王」の王朝はどこにあったのでしょうか。少なくともその王朝が、近畿天皇王朝とは関係がないことだけは明らかです。悩ましいですね。

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