• 『中国正史』に見える古代日本

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    『中国正史』に見える古代日本」を作成しました。縦書き対応かつルビ対応のブラウザが必要ですが、是非ご覧になって下さい。『漢書』から『新唐書』までに記載されている倭人、倭國、日本に関する下りを抜粋し、原文、訓読文、現代語訳に註をつけています。

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  • 事実に基づく歴史を伝えよう

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    婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

    とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

    人類の歴史は500万年とも600万年とも言われますが、そのほとんどをそうして暮らしてきたのです。氷河期の最中にたくましく生きて子孫を残してきた先祖に、私たちは敬意を持たねばなりません。

    ここで目を日本に向けます。縄文時代は、今から約14,000年前から紀元前六世紀に当たります。温暖で植生が豊か、海産物や川で取れる食料も豊富、危険な肉食獣がほとんどいない、という原初人類にとっては、パラダイスのような地でした。日本の地にたどり着いたリーダーは心底安堵して肩の力を抜いたでしょう。もはやリーダー一人が懊悩を繰り返して元来不可能な課題に対する決断を下さなくてもよくなったのです。となると、性も解放されてしまうのですが、放置すると集団はバラバラになってしまいます。そのままでは、性欲が非常に強化されていますから、各自勝手に乱交となって集団を統率できなくなります。リーダーはやはりどうすればよいか考えなくてはならなかったでしょう。そして、性を神に捧げる神事とすることで、野合を禁じ、集団で定期的に婚姻を営む形を考え出したのでしょう。これが「群婚」です。近親相姦の問題? あんなの学者が現行のタブーを正当化するためにひねり出した世迷い言です。近親相姦を繰り返すと本当に遺伝的障害が現れるかどうかは実験で確かめることも、観察で確認することもできません。早い話がわからないのですよ。でも、現在の日本人に全体として遺伝的に大きな問題があるように見えませんから、そういう問題などないんじゃないですかね?

    この「群婚」の遺風は後々まで、戦後の昭和まで残っていたことは既に述べました。ですが、日本中が全部そうだったとは限らないのです。ここで、『漢書』地理志の倭人について書かれた記述を思い出して下さい。あれは、西周時代に「倭」が朝貢していたことを表しているのだと述べましたが、それは即ち、「倭」—朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部一帯—に中国の風習が移入されたことも意味しているのです。西周時代といえば、今から三千年前に始まる古代の王朝です。少なくとも九州北部の縄文人は、「」の感化を受けていたと考えられます。縄文人には半分裸の未開人なんてイメージがありますが、縄文土器ひとつ取っても見ても、その美意識が現在の我々と変わらないか、あるいは上回っていることを示しています。そういう人たちがどうして未開でありえましょう。まして中国に朝貢していたということは文字すら知っていたことになるのです。縄文人の交易ルートが日本中に広く広がっていたことも併せて考えると、そこに、高度に組織化され、統率された人々の姿を見ないでいることは不可能です。そしてそれがあるからこそ、次の段階の婚姻「妻問婚」も可能になったのです。

    高群逸枝氏は、「群婚」に「族内婚」と「族外婚」の二段階あったと主張されていますが、それにしては後世に残った「群婚」風習がすべて「族内婚」的なものばかりなのが腑に落ちません。これは氏の勇み足で、私は日本には「族外婚」などなかったのだと考えています。そのような過程を経たのなら、それを示す遺風が必ず見つかるはずです。にも関わらず、その前段階の「族内婚」遺風ばかり見つかるのは、「族外婚」がなかった証でもあります。「群婚」から「妻問婚」に到るには、人々が氏族として統率されていないと不可能でした。いかに縄文時代弥生時代が豊かな時代であったとしても、現代とは比較になりません。個人で生きていくなどまず不可能でした。集団の協力があってこそ、族外の男を受け入れ、生まれた子を養うことができたのです。それは小さな数家族が集まっただけの小集団では保障できようはずがありません。もっと大きな氏族という枠組みがあってこそ互いの生活を保障し合えたのです。また、その枠組みに乗っかる形でしか、妻を集団外に求めることはできなかったのです。妻を他所に求めるということは、「群婚」が不利になる事態が既にないとできません。人口密度が高まり、集団と集団が接するように居住するようになると、そのこと自体がストレスとなって集団にかかってきます(とはいえ、現代の超過密社会を想像しないで下さい。狩猟採集を維持するにはとても広い領域が必要だったのです)。そのストレスを緩和し、集団間の対立を回避する方法としてやはり性が使われました。それが「妻問婚」です。そのような事態は、早ければ縄文時代中期に、遅くても弥生時代が始まる頃には生じていたでしょう。「群婚」で集団を閉鎖しているとそのストレスが緩和されず、ことによると暴発してしまいます。実際そうして争いになった集団もあったのでしょう。ここに至って集団保障(という概念があったかどうかは別にして)のために血を分けた一族をすべて統率し、氏族として全体の生存を保障すると同時に、性によって氏族間の緊張を緩和するに到ったと思われます。それが「妻問い」の形を取ったのは、氏族の政治過程を男が担っていたためです。言葉を変えると、外へ出て交渉事などを片付けるのは男の仕事であったため、男が女の元を訪れるという形になったにすぎません。従って子供も母の里で育てられる母系制が成立したと言えます。

    では「群婚」はなくなったのかというと、そういう訳ではありません。神事としての「群婚」は、弥生時代を経て、古墳時代に入り、飛鳥時代になってもまだ庶民の祭りの場に残されていました。それが戦後まで残っていたということは、すべての地域で行われていたわけではないにしろ、延々と余命を保っていたことがわかります。日本人が性に大らかなのは、性を特別視することなく、ムラの大人総出で楽しむ行事が根底にあったからです。ムラの性的行事と言えば「夜這い」が有名ですが、もちろん「夜這い」は柳田民俗学が言うようなお上品なものではありません。夜に男が女の元へ忍んで通うというのはセックスのためであって、馬鹿じゃなかろうかと思います。赤松啓介氏の著作を読めば、みなさんお盛んであったことがよくわかります。そういう意味では「夜這い」とは「婿取婚」や「嫁取婚」で性が封鎖されてしまうことへの「群婚」的反逆だったのかもしれません。「夜這い」の風習がほぼ全国にあったことはよく知られていますが、これをただの乱交だの強姦だのと同列視している人が結構居ることに驚きます。当然、「夜這い」もムラの規律に従って営まれた行事だったのです。ムラごとに掟が異なるので一概には言えないものの、基本的に男女で同意があったからこそ長く続いた風習であったことを忘れてはいけません。(この項2013年6月17日に追記)

    中国では「東周」になってから戦乱の世となり、朝貢どころではなくなってしまいます。この春秋戦国時代は、紀元前221年に「」によって統一されるまで、500年も続きます。ところがその「」もあっという間に滅んで、紀元前202年、王朝が開かれるまで、また戦乱です。その王朝が武帝の頃最盛となり、中国の正史の中でも特に有名な歴史書「史記」が司馬遷によって書かれます。「史記」には倭のことが出てきません。他に書くことが一杯あったのですから仕方ありませんね。その「史記」の「太伯世家」に「於是太佰、仲雍二人乃奔荊蠻、文身斷發、示不可用、以避季歷」とあります。中国では髪を切ることは文明人のすることではなかったので、太伯と仲雍がそれを以てして「」の跡を継がない決意を表したのですが、ここで「文身」と出てくることに注意して下さい。体に入れ墨をしたという意味ですが、後々重要になります。

    さて、そんな戦乱が続いたのなら、当然戦乱を避け、平穏な地を求めた人々がいたことは論を俟ちません。特に春秋時代の終わりには、の戦争が激しくなり、ついにに滅ぼされてしまい、そのに滅ぼされてしまいます。の人々が南西諸島を経由して日本へ逃れてきたこともまた、論を俟ちません。その人々が稲作をもたらしたことは確実とされています。そして「前漢」末から「」を経て「後漢」が建国されるまでもまた戦乱の中にありました。ここでも大量の避難民が日本を訪れ、定住したことでしょう。既に日本は弥生時代に入っていました。平和的に移住できた時代は終わりを告げており、ここ日本でも戦争が頻々と起きていました。外来の人たちと戦争になったこともあるでしょう。その戦争の結果、様々な部族を統合して「国」を建てる一族が次々と現れたと思われます。『後漢書』東夷伝を見れば、建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が朝貢してきています。既に国家が形作られていたのです。この時下賜された金印志賀島から出土したものであることは既に書きました。

    後漢書』東夷伝の倭人条は『魏志倭人伝』を参照して書かれたことが明らかなのですが、「使」を「使」と間違っていたり、「會稽東之東」を「會稽東之東」と勝手に書き直したり、「國大人皆四五婦、下戸或二三婦(その国で身分の高い人は妻を四、五人持ち、平民でも二、三人の妻を持つ者がいる)」を誤読して「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三(その国には女性が多いので、身分の高い者は妻を四、五人持ち、そうでない者も二、三人の妻を持っている)」と爆笑ものの説明をしていたりと、まあ当てにならないこと夥しいのですが、さすがに「後漢」の公式記録から引用された部分は信用してよいでしょう。

    さて、日本のことが詳しく紹介された史上初の書物が『魏志倭人伝』です。景初三年(西暦239年)卑弥呼に朝貢してきた時の記事を含め、その旅程や風俗まで説明されています。この旅程が、所要日数を距離に換算したものであることが、後の『隋書』で明らかになります。当時はレストランなんて気の利いたものはありませんから、食料を調達=狩りをしたり木の実、山菜を採集しながら旅をしたわけで、しかも保存技術も怪しいですから、一度に大量に狩りや採集をして食料を集めておき、旅程を急ぐ、などということも無理だったと思われ、平均すれば、一日に数㎞進むことがやっとだったのではないでしょうか。実際、狩りをしたり、木の実、山菜を集めてなおかつ料理して、そのついでに移動するような状態だったと思います。そしてその『魏志倭人伝』で紹介された「邪馬國」=「山倭(やまゐ)國」が、朝鮮半島南岸から対馬、壱岐、九州北部にまたがる国であったことは間違いなさそうです。九州中部、今の熊本県あたりから南は「狗奴國」だったのでしょう。なぜなら、『隋書』東夷傳俀国条では触れられている阿蘇山について書かれていないからです。

    さてその『魏志倭人伝』では「男子無大小皆黥面文身」で男性は全員入れ墨をする文化があったことを示しています。倭人が入れ墨をするのは、中華の教化が東の果てに及んだためである。と特に注記しているのです。「史記」の「太伯世家」に「断髪文身」が出ていたでしょう。の風俗として入れ墨は非常に昔から有名だったのです。その上、『魏志倭人伝』と同じ資料を参照して書かれたと思しき『魏略』には「聞其旧語自謂太伯之後」と書かれています。「その昔話を聞くと、自分たちは太伯の末裔であると言う」倭の人々は太伯の末裔だと言っていたのです。から渡来した人々がいたことは確実です。その人たちが入れ墨の風習を持ち込んだのでしょう。そして実際、中国江南から、三津永田遺跡や山口県土井ヶ浜遺跡弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が発見されているのです。「男子皆露紒」とあるのでまだ冠を被る習慣がないこともわかります。「有屋室、父母兄弟臥息異處」とあるのは、「妻問婚」で男たちは妻方の実家で寝るからだと説明しました。「以朱丹塗其身體」と中国で白粉を使うように朱丹(赤い顔料)を使うとあれば、『古事記』や『日本書紀』で紹介されている風俗と随分異なることがわかります。また、神社で拍手を打って拝礼するのは、元々身分の高い人に対する礼であったことも書いてありました。一方で、この頃ヤマト近辺では「抜歯」の風があったのにそれには全く触れていません。このことからも、「邪馬國」がヤマト王権とは関係ないことが見て取れます。

    現代人の感覚からすると、入れ墨などヤのつく職業の人たちの特徴みたいに考えがちですが、元々は極めて実用的なものであったのです。それが装飾や身分を表す証に変遷していく過程にあったことも記されています。なぜ歴史学者は「記紀」には記述のないこの風習を重視しないのでしょうね。

    そして、空白の四世紀をはさんで、『宋書』に有名な倭王武の上表文が現れます。その「」の時代に編纂されたのが『後漢書』ですが、この時、国名が「邪馬國」=「山大倭(やまだいゐ)國」に変わっています。既に国名に「大」を冠して恥じない実力を倭が備えていたことを示します。当時の倭の風俗についてはわかりませんが、倭王武の上表文から、先祖代々文字通り東奔西走して戦争していたことがわかります。おそらく東は美濃尾張まで、西は肥前天草を征し、北では新羅高句麗と激闘していたのでしょう。南が書かれていないことを考えると、『魏志倭人伝』に言う「狗奴國」は既に征していたか、あるいは「狗奴國」自体が膨張して倭の国々を従えていたのかも知れません。「記紀」にある「神武東征」もこの頃のことではないかと筆者は考えています。「記紀」には神武天皇淡路島から大阪湾に出る際、明石海峡側ではなく、鳴門海峡側をルートとして選んだことが覗える記述があります。明石海峡側は「五色塚古墳」に象徴される強力な豪族が根を張っていて、これと正面から事を構えることを避けたのでしょう。このことは「神武東征」の頃、「倭國」はまだ吉備国(今の岡山県に広島県東部の一部と兵庫県西部の一部をあわせた領域)あたりまでしか支配もしくは同盟していなかったことを示します。それを考慮すると、むしろヤマト政権は、元々倭の東部前線基地と東部総督を兼ねていたのかも知れません。その由緒がヤマトと他の地方政権との違いとなったこともありえない話ではありません。

    宋書』が倭の風俗を伝えていないことは残念です。海外から見た倭の風俗は、『隋書』まで、即ち六世紀末から七世紀初頭まで空白のままです。しかし『隋書』によると、複式統治が行われていたので、卑弥呼以来の制度が続いていたことが覗えます。冠位十二階があったことはかなり早い段階から位階を設けて豪族を組織化していたことを覗わせます。それが倭王武やその前後の王によって創始されたと考えてもおかしくはないでしょう。そして「」の時代までは冠を被るという風習はなかったのですが、その頃定めたとあります。『隋書』には「男女多黥臂點面文身没水捕魚」とあります。『魏志倭人伝』では男子のみが実用から入れ墨をしていたのが、男女共通の習俗に変化しています。身分を表し、装飾を兼ねていたのは言うまでもありません。当たるも八卦当たらぬも八卦の卜筮は「知卜筮尤信巫覡」とあるのでこの頃には既に一般化していたこともわかります。嫁入りの風習を取り入れていたようですが、「男女相悦者即爲婚」ということで、後の嫁取婚とは全く異なるものだったことがわかります。「貴人三年殯於外」三年間の殯は、中国の儒教の影響がよく現れています。儒教では父母が死ぬと三年間喪に服するのが正式です。尤も、本家中国ではそのような礼は既に孔子の時代でも廃れていたことがわかっています。やはり春秋時代ですが、晏嬰という人が父の喪に本当に三年間服したことが天下の話題になっています。それくらい稀なことだったのです。孔子の死から千年以上経っているのにその教えた礼が形を変えていたとはいえ日本に保存されていたのが面白いところです。文化は中央で生まれ外部へと波及していくのですが、中央でそれが廃れた後も周辺ではよく保たれることが明らかになっています。方言の変遷を説明するのによく援用される理論なのですが、もちろん文化全般に言えることです。四世紀から五世紀の間に様々な風習が中国から影響を受けて生まれていたことがわかりますね。

    日本が中国から影響を受けた風習というと、殯と関連して土葬があげられます。日本は仏教が入った後も長い間土葬が併せて行われていましたが、それは死者の肉体を神聖視し、様々な儀式を儒教が行ったことに由来します。また仏壇というと位牌がつきもののように日本人は考えますが、この位牌というのも由来は儒教です。年功序列=「先輩が上、後輩は下」も儒教です。ブルーカラーよりホワイトカラーを何となく上に見るのも儒教思想に由来します。和を以て貴しとなすという思想も儒教由来です。教育を重視し、子供を愛育すべしという考え方も儒教が根源です。年寄りを労り親を大切にするのも儒教の教えです。今時の宴会は無礼講が当たり前ですが、それでも敢えて無礼講を宣言する場合があるのも、儒教にその根っ子があります。掘り出せばもっと出てくると思います。間違いなく日本人の原風景には中国の影響があるのです。儒教ではありませんが、帽子を被るというのも中国の風習が元です。今や帽子を被る人を滅多に見なくなりましたが、ほんの四、五十年前までは正式な場で無帽は失礼だとされていたのです。閑話休題。

    さて、この頃のヤマト王権の影響範囲はどこからどこまでだったのでしょう。「記紀」にあるオケ王・ヲケ王の物語から、播磨は王権の及ばない地と考えられていたことがわかります。すると、西は摂津の国までだったのでしょう。東については美濃尾張あたりではないでしょうか。天武天皇の挙兵に応じた東国の兵とはそれらの国の兵団でした。とても全国政権とは言えませんね。

    では全国…とはいかなくても南は薩摩大隅屋久島種子島から東は美濃尾張までを配下に治め、号令をかける存在がなかったかというと、それが倭のオオキミだったことが、『宋書』倭王武の上表文から見て取れます。『隋書』においても九州の多利思北孤が倭のオオキミであり、倭を代表していたことがわかります。この多利思北孤の姓が「阿毎」であることは、天つ神を信仰しており、自分たちがその子孫であることを表していると考えられます。太宰府には天満宮がありますが、ここに祭られているのは菅原道真なのに、どうして「天神」さんというか不思議に思ったことはありませんか? 元々倭の神々の筆頭「天神」が祭られていたのが、倭の王族がヤマトへ移住した後放置されていたところに、菅原道真が合祀されたのです。「記紀」に記された天つ神も元々は倭の国の神様だったのです。

    隋書』には王の妻は「キミ」と呼ばれていたとあります。「キサキ」ではないのです。倭は複式統治を取っており、政治を見る王を「オオキミ」、祭祀を司る王を「キサキ」と呼んでいたのでしょう。この「キサキ」に女性が任じられたことは『魏志倭人伝』に見られます。『隋書』では兄弟統治になっていましたから、必ずしも女性に限るものではなくなっていたのでしょう。後代、大和朝廷ではこれが混交され、「キサキ」が「オオキミ」の夫人を意味するようになっていくのですが、元々は「キサキ」を夫人が代行する慣例があったのだと思われます。

    さて、六世紀の大乱といえば、「磐井の乱」があり、これは継体天皇が倭王朝を簒奪しようとした事変であると説明しました。実際、いったんは簒奪に成功したものの、各地の反乱を鎮撫するのに二十年かかり、しかもその後すぐに継体天皇は死んでしまった可能性があるのです。大和朝廷の勢力は駆逐され、再び倭が力を取り戻したのは言うまでもありません。こうして倭とヤマトの一世紀に及ぶ対立が始まるのですが、「記紀」はこれをなかったことにしています。まあ強盗に失敗しましたと書くわけにもいかなかったでしょうし、仕方ないですね。その外交方針を巡ってヤマト蘇我氏物部氏の対立があり、山背大兄王の謀反があり、乙巳の変があったことは既述しました。その宥和路線に転換した大和朝廷を待っていたのは、「白村江の戦い」での大敗北で、これを受けて大海人皇子大和朝廷へ避難し、天智天皇を支えて国をまとめていったのです。最終的に大海人皇子が「壬申の乱」を経て大和朝廷のオオキミの座を勝ち取り、倭の一族を呼び寄せて「皇親政治」を開始しました。敗戦で立て直しもままならなかった倭の国は以降、地方政権へ転落し、代わって大和朝廷が倭を代表する国になったのです。しかし、倭の人々は偉大なる倭王多利思北孤を忘れられなかったのでしょう。由緒のある建物をヤマトへ移築したくらいですから、英明な王であったことは間違いありません。

    代、つまり縄文時代晩期から続き、卑弥呼が総覧し、倭王武が勢威を張った倭國の歴史はここで終わりました。しかしそれは完全に忘れ去られたのでしょうか。私は「記紀」にその名残があると思います。天つ神の系譜に始まり、天孫降臨に至る物語は、元々倭國で伝えられたものでしょう。天武天皇は『古事記』や『日本書紀』の巻頭に敢えて神代を挿入することで自分たちの祖先を顕彰することを忘れませんでした。史書の編纂が中華の伝統を受けたものでしかないなら、神話を冒頭に配置することなどありえません。つまりその編纂に強い意志が働いたことを意味しているのです。偉大なる倭王多利思北孤の事績は、厩戸皇子と結びつけられ、スーパーヒーロー聖徳太子として『日本書紀』に綴られました。おそらく他にも倭國伝来の由緒のある人が仮託されている人物や天皇があるとは思いますが、今の私にはそれを解き明かす材料がありません。いつの日か、歴史学が江戸時代の蒙昧な国学者の影響を脱し、真の科学として発展して真相が解明されることを切に願ってやみません。

    さて、長々と振り返りましたが、これは歴史に対するひとつの説でしかありません。しかし、中華の文献を参照し、また日本の書物を読んでいくと、日本の歴史はこのような形でないとおかしいと思われるのです。もっと過激な説を唱える人がいることも知っていますが、中華文献絶対で、日本文献は完全に恣意の産物というのもありえない話です。私たちの祖先は、そこまで蒙昧だったのでしょうか。そんなことはありません。確かに、政治的な意図からある人物を貶めたり、逆に持ち上げたりすることはあったでしょう。それは中華の正史でも見られることです。あるいは、「倭」の歴史事実を「日本」の歴史に混入もしているでしょう。しかし、事件の年代を入れ替えたり、存在しない事件をでっち上げたりするでしょうか。私はそこまではしなかったと考えます。もちろん「記紀」が編纂されるまでは豪族ごとに自分たちに都合の良い修飾が入った私史が作られていたのでしょう。それを集大成して矛盾のないように整理したのが「記紀」の姿だと思います。歴史を恣意的に改編することはなによりも祖先に対する冒涜です。「記紀」の編纂者がそこまで傲慢であったとはどうしても思えません。

    最後に。あなたは子供たちに、自分たちの祖国、日本の歴史を語るとき何を基準に言って聞かせますか。教科書通りの薄っぺらい中身のない独りよがりな日本史ですか。それとも、連綿と続く誇り高い先祖の事績が詰まった日本史ですか。

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  • 日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子

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    法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。

    法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
    前太后崩明年正月廿二日上宮法
    皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並
    著於床時王后王子等及與諸臣深
    懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋
    像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
    住世間若是定業以背世者往登浄
    土早昇妙果
    二月廿一日癸酉王后
    即世翌日法皇登遐癸未年三月中
    如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
    具竟乗斯微福信道知識現在安隠
    出生入死随奉三主紹隆三寳遂共
    彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
    同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

    法興元三十一年歳次は辛巳(西暦621年)の十二月。キサキの太后が崩御された。明くる年正月の二十二日、上宮法皇は病に伏し、具合が悪く食事も喉を通らない。さらに王后も看病疲れで発病し、並んで床に就いた。そこで王后や王子たちは、は諸臣とともに、深く愁いを抱き、ともに次のように発願した。「三宝の仰せに従い、上宮法皇と等身の釈迦像を造ることを誓願する。この誓願の力によって、病気を平癒し、寿命を延ばし、安心した生活を送ることができる。もし、前世の報いによって世を捨てるのであれば、死後は浄土に登り、はやく悟りに至ってほしい。」二月二十一日癸酉、王后がお隠れになった。翌日法皇も登遐された。癸未年(西暦623年)三月中、発願のごとく謹んで釈迦像と脇侍、また荘厳の具(光背と台座)を造りおえた。この小さな善行により、道を信じる知識(造像の施主たち)は、現世では安穏を得て、死後は、太后・上宮法皇・王后に従い、仏教に帰依して、ともに悟りに至り、六道を輪廻する一切衆生も、苦しみの因縁から脱して、同じように菩提に至ることを祈る。この像は、司馬鞍首止利(しば くらつくりのおぶと とり)仏師に造らせた。

    法隆寺は九州太宰府から移築された建物であるとする説があります。山背大兄王が立てこもった斑鳩寺が壊され(その時の遺構が若草伽藍ではないかと思います)、新たに据えられたのが現在の法隆寺ではないでしょうか。立て替えられた跡があるというと、法起寺も該当します。それらを前提に考えると、この上宮法皇が聖徳太子でないことは一目瞭然となります。では誰でしょう。

    法興元三十一年が辛巳の歳と記していることから、これを西暦621年と見る説が定説です。法皇とあるのですから、仏法に帰依したオオキミを指していることは明白です。この頃、仏法を篤く信仰し、天下に号令した王といえば、倭の多利思北孤(あるいは多利思比孤)しかいません。

    「鬼前太后」を従来「后の太后」と解して、上宮法皇=聖徳太子との思い込みから(聖徳太子は、上宮王とは呼ばれましたが、上宮法皇と称された例はありません)、これを穴穂部間人皇女とする解釈が一般的なのですが、穴穂部間人皇女が太后と称された記録はありません。古代、皇太后は前の天皇の后が自動的になるものではなく、ちゃんと叙任の手続きがいります。穴穂部間人皇女が太后に叙せられたという記録はありませんので、これを穴穂部間人皇女とすると、僭称したことになります。そんなものを長く残る銘に記したとはとても考えられることではありません。これは、『魏志倭人伝』や『隋書』俀國伝に見られる「複式統治」の「キサキ」です。とすると、オオキミに並び立つ人ですから、太后という尊称も当然になります。

    干食王后を従来は膳大郎女としてきましたが、これは牽強付会もいいところで、全く根拠がありません。さらに上宮法皇と制作者以外の名前がこんなところにだけ出てくるのも変です。あるいはほかの王后と区別するために、固有名詞を出したのかも知れませんが、14文字×14文字でぴたりと収まるよう苦心された文章にそんな配慮がありえるでしょうか。これは臨終間際の上宮法皇の病が癒えて欲しいという発願に基づく像の銘なのです。ここは「干食」と「王后」を区切って読むべきでしょう。だいたい「ものを食べないお后様」って名前としても変じゃないですか。これは中国が日本を東夷と見下して書いた文章じゃないんですよ。

    私は多利思北孤が倭の王の中でも群を抜いた英傑であり、その後も長く尊崇されたのだと思っています。天武天皇が即位して一族を呼び寄せ、大和朝廷が日本を代表する王権となりましたが、倭の一族は偉大なる王、多利思北孤を忘れられなかったでしょう。遠く太宰府から所縁のある様々な建築物を移築し、故地を偲ぶ気持ちを慰めるとともに、偉大な王を追慕したのではないでしょうか。そのため、『日本書紀』において、本来は関係のない厩戸皇子に同じ崇仏の人であるゆえんを結びつけ、多利思北孤の事績を移して、長く人々に忘れられないようにしたのではないでしょうか。

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  • 日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

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    漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

    1. 縄文時代晩期には、既に宗族=國といってよい規模の集団が複数存在していたのではないか。

      根拠は、『漢書』地理志である。今更くだくだしい説明は不要であろう。

    2. の使節は朝鮮半島内で陸路を取ったのではないか。

      魏志倭人伝』の「歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國」は「韓国に入って南行東行を繰り返して邪馬壹國の北岸の狗邪韓國に到る」としか読めないのだが、なぜ船で海岸沿いを南下し、済州島と朝鮮半島の間を東行したように解釈されているのか。
    3. 倭國(倭奴國)は九州にあったのではないか。

      • 後漢書』東夷伝に光武帝が下賜したと記されている金印が志賀島から出土している。九州から出土したのだから、その金印を拝辞した王朝は九州に存在するのが当然ではないだろうか。
      • 魏志倭人伝』にはその国土の特徴として「依山島為國邑」とあり、山がちで島が多いことを示している。『後漢書』東夷伝でも「依山嶋爲居」とあり、『晋書』四夷伝でも「依山島爲國」とされ、『隋書』東夷伝俀国条でも「於大海之中依山㠀」とある。『舊唐書』東夷伝倭国条にも「依山島而居」とある。そのような条件を地理的に満たすのは、九州だけではないのか。
      • 魏志倭人伝』には「種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿」とあり、絹織物が生産されていたことは明らかである。また、景初三年の朝貢の際、莫大な絹製品が下賜されている。畿内からは絹製品はほとんど出土せず、北九州に偏っている。
      • 隋書』東夷伝俀国条には「有阿蘇山」とあり、わざわざ阿蘇山に触れているが、阿蘇は富士山などのように遠くからでも見ることができる山ではない。それが王朝に近しい場所にあるから特に注記したのではないか。
      • やはり『隋書』東夷伝俀国条で、小徳の「阿輩臺」を(竹斯國に)遣わしてその十日後に都の郊外で大禮の「哥多毗」が出迎えたとあることから、裴世清一行は九州を出ていないことがわかる。
      • 舊唐書』東夷伝倭国条には、「四面小島五十餘國」とあるが、そのように四方を海と小島で囲まれた地理条件を持つのは九州だけである。
    4. 倭國(倭奴國)と大和朝廷は民族的にも全く関係のない別王朝ではないか。

      • 魏志倭人伝』では倭人の習俗として「鯨面文身」を挙げている。『隋書』東夷伝俀国条でも「男女多黥臂點面文身」とやはり同じ習俗を挙げている。ところが、『日本書紀』によれば、「文身」は「毛人(蝦夷)」の習俗であり、大和の風ではないとしている。
      • 隋書』東夷伝俀国条では、「婚嫁不取同姓」とされ、「婦入夫家」となっているが、『記紀』に記された風俗からすると、この頃は「妻問婚」で、同姓であっても妻にしている。このことも国、民族が違うと考える根拠となる。
      • 舊唐書』東夷伝では、倭国条と日本国条を分け、この二つの国が別の国であると述べている。
      • 魏志倭人伝』以来『舊唐書』東夷伝倭国条に至るまで、同じ倭國(倭奴國)が朝貢を続けていたことが述べられている。ところが『古事記』にはそのような記載がないばかりでなく、『日本書紀』では、推古十五年(西暦607年)に小野妹子を「大唐国に致す」とあるのが初出である。
    5. 宋書』夷蠻伝倭國条に名前が出る「倭王武」を雄略天皇に比定する根拠は何か。

      「武」と「ワカタケル」の語感が似ているからなどというのは論外だが、根拠は何だろうか。

      • 熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳から出土した銀象嵌鉄刀の銘には「獲□□□鹵大王世」と欠字があって何と言う大王だったか不明である。
      • 埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘には「獲加多支鹵大王」とあるが、これを「ワカタケル」と読むのは何故か。
      • 仮に両者とも「ワカタケル大王」だとしてこれが雄略天皇であるという科学的な根拠は何か。
    6. 隋書』東夷伝俀国条で名前が出るオオキミ「多利思比孤」を聖徳太子に比定する根拠は何か。

      聖徳太子の逸話はすべて『日本書紀』から出ており、これほど重要な人物であるにも関わらず『古事記』では触れられていない。

      • 「多利思比孤」はオオキミを号していたとあるが、聖徳太子は摂政皇太子であり、皇位に就く前に死んでいる。
      • 裴世清は「多利思比孤」に実際に会っており、遣隋使の使者のごまかしでないことは明らかである。
      • 聖徳太子には「多利思比孤」に類似する別名がない。
    7. 太宰府」はいつ誰の指示によって造営されたのか。

      「遠の朝廷」と呼ばれ、殷賑を極めた都会であったことがわかっているのに、それがいつ誰の指示で造営されたか記録がない。

      • Ⅰ期の遺構は、白村江の戦いの後、天智天皇が「那津官家」を移したものとされているが、天智天皇が「那津官家」を移したという記録を基にⅠ期遺構の造営時期を決定しているだけで、まるで科学的根拠がない。『記紀』にも大規模な造営があったとは記録されていない。造営時期の比定が無茶苦茶である。
      • Ⅱ期の造営時期については、歴史学者の単なる妄想を述べているに過ぎない。律令制度上の要請があり、大改築を行ったのなら、正史に記録が残って当然であるのに、その事実を無視している。
      • Ⅱ期の遺構により、条坊制を採用していたことが明らかであり、あるいは長安が直接的なモデルになったことは明らかである。
      • 太宰府天満宮は非常に大規模な大社だが、菅原道真を祭る前は何の神を祭っていたか記録がない。
      • 鴻臚館が置かれ、古くから外交の根拠地となっていたが、それならなぜもっと便のよい海岸よりに造営しなかったのか。元は海岸沿いにあったという人もいるが、それならなぜ「白村江の戦い」で大敗した後に移転したのか。現に二年後にはから使者を迎え、遣唐使を派遣している。とてもそんな緊張があったとは考えられない。

    まだ他にも細かく詮索したいところはあるのだが、少なくともこれらの疑問は、日本の古代史を勉強する上で、放置しておいて良い問題ではないと考える。

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  • 日本の古代史を考える—⑤晋書四夷伝倭人条

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    晋書』は『三国志』に続く正史であるが、書かれたのは「」になってからである。「」は司馬懿の一族が曹操の「」を簒奪して誕生した王朝で、西暦245年から420年まで続いた。三国に分裂していた中国を統一したのが「」である。しかしその統一は束の間で、西暦317年に匈奴前趙)の侵略を受け、南遷を余儀なくされた。それまでのを「西晋」、南遷後のを「東晋」と呼んで区別するのが習わしである。

    この書にも倭のことが書かれているが、明らかに『後漢書』の引き写しである。従って全文を紹介する意味はあまりないのであるが、いくつか指摘すべき点があるので、念のために触れておく。

    倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。

    倭人は帯方郡の東南の海中にあり、山島に拠って国を建てている。その土地は山林が多く、良田がないので、海のものを食べる。百あまりの国が相接して存在していたが、魏の時代には、三十国が魏へ通好していた。戸数は七万である。

    山林が多く、良田がないのは『魏志倭人伝』によると、「対馬國」「一大國」のことであるが、ここでは倭全体がそうであるかのように書かれている。東夷のことだから、対馬國や一大國といった一部のことではあるまい、という臆断が見え隠れする。「有三十國通好」は『魏志倭人伝』において「今使譯所通三十國」が、『後漢書』で「使驛通於漢者三十許國」と誤読された結果である。三十もの国が朝貢していたら『魏志倭人伝』はことさら麗々しくそう書いたであろう。『後漢書』を書いた「范曄」が「譯」と「驛」を間違えた結果である。『後漢書』の倭人条は全体に投げやりな書き方が多く、「范曄」自身が書いたとは思えない。部下に適当に書かせたものをそのまま収録したのではないか、という人までいる始末である。それを受けて書かれたと思われる『晋書』も推して知るべしだ。

    男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後。又言上古使詣中國、皆自稱大夫。

    成人男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。自分たちを太伯の末裔であると称している。また、大昔から遣使をしており中国に朝貢していたと伝えられている。遣使はみな大夫を自称した。

    倭人が太伯の末裔を自称するということは、『魏略』にも「聞其旧語自謂太伯之後」と見える。『後漢書』にはこの既述はない。「上古」は中国では前漢後漢までのことを言い、西周の頃から倭が朝貢していたことは既に述べた通り。ただし、後漢から禅譲を受けたをすぐに簒奪して立てられた国であるので、ここで言う上古は、春秋戦国時代より前だと思われる。この部分が『漢書』地理志や『論衡』(あるいはその同時代史料)などにも拠っていることは明白である。

    昔夏少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。

    昔、王朝の少康王の子が会稽に封じられた。髪を短く切り、体に入れ墨をすることで大魚や水禽の害が避けられると民に教えた。今、倭人はよく水に潜って魚を捕る。また体に入れ墨をして水禽が近寄ってこないようにしている。その位置を勘案すると、会稽郡東冶県の東に当たる。

    「會稽東冶之東」は『後漢書』の誤記である。それがそのまま引き継がれている。というか、「道里」は「道理」なのだが、ここでは「道筋、里程」の意味で使われている。この条を書いた人はあまり教養のある人ではなかったようだ。

    其男子衣以横幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地温暖、俗種禾稻紵麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飮用俎豆。

    男子の衣服は横広の布を結んだだけの物で、縫っていない。女性は重ね着をしておらず、中央に穴が穿たれた貫頭衣で、全員髪を覆って裸足で歩いてる。倭地は温暖、稲作を行い、麻を紡ぎ、養蚕・織り物をする。牛馬がしない。刀・盾・弓・矢が有って、鉄の矢尻を使っている。ちゃんとした家があって、父母と兄弟は別々に寝る。飲食に俎豆を用いる。

    父母兄弟の兄弟はもちろん成人のことを指す。庶民は竪穴式住居が一般的だったのだから、「異處」は建物自体が異なる、つまりは妻問婚で男は妻方を訪れるので、自然、「異處」になることは既に記した。「有屋宇」は、『魏志倭人伝』では「有屋室」、『後漢書』では「有城柵屋室」であり、『後漢書』がやや詳しい。

    嫁娶不持錢帛、以衣迎之。

    嫁を娶る場合、幣物は不要である。衣を用意して迎えるのである。

    中国では婚姻の際、媒人を立て、幣帛を用意して納采の儀を執り行うのが、結婚において重要なこととされていた。さもないと野合と非難されたのである。ところが日本はそんなことをしないというので、新たに書き込んだのであろう。さて「以衣迎之」の「之」は通常「嫁」のこととされるが、それはそれは変わった風俗である。ところが、その前の文は、男が嫁を取る場合のことについて書いてある。その文意を受けて「之」と書いたのなら「男」を意味すると解することができる。つまり、「着物を用意して夫を迎える」が、正しく伝わらなくて、もしくは倭人条を書いた人の「結婚は即ち嫁取りである」という臆断で(こっちの方がありそうだが)、妙な形に歪んでしまったと思われる。元々の意味は妻問婚で妻が夫を迎える習俗を言っていたのであろう。後々の婿取婚でも婿の衣服の世話は妻の実家の役割となっていた。その萌芽があったのだろう。

    死有棺無椁、封土爲冢。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。

    死ぬと棺(かんおけ)はあるが、椁(かく)はない。土を盛って塚を作る。葬儀が始まると哭泣して肉を食べない。葬儀を終えると、家中で水に入り、水を浴び体を洗い清らかにする。これで禍を除くのである。重要なことをする時は、骨を焼いて吉凶を占う。

    不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀。

    一年が四季よりなることを知らず、ただ秋の収穫の時をはかって年としている。

    これを春秋年紀=一年二歳と勘違いしている人が多いが、『魏略』に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」とあるのを混同したものと思われる。ただし、この項目が「但計春耕秋収之時以爲年紀」とすべきところを、書き手が一年=一歳が当然だろうと勝手に臆断して「春耕」を削って書いた疑いがないでもない。

    人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妬。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。

    百歳まで生きる人が多く、あるいは八十、九十になる人も多い。国には女性が多く、貞節で嫉妬しない。罪を犯した者は、その罪が軽いものであれば、妻子を没して奴隷にし、重い者はその家族と一族を殺す。

    ここの「國多婦女」は、『後漢書』が「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」(国には女性が多いため、身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、それ以外の者も二人や三人の妻を持つ)と書いているのを受けている。『魏志倭人伝』で「國大人皆四五婦下戸或二三婦」(身分のある人はみんな妻を四、五人持ち、身分の低い者にも二、三人の妻を持つものがいる)を誤解して書いたものと思われる。『魏志倭人伝』では全員が多妻であるとは言ってないのに、『後漢書』でこれを全員多妻と誤解し、全員が多妻なのだから、女性が多いのだろうと結論したと考えられる。お粗末にもほどがある。あるいは本当に女性が多かったのなら、戦乱で消耗された男の多さが窺える文章でもあるのだが、それなら『魏志倭人伝』が男が多数戦乱で死んで女性がすごく多いという点に何も触れてないのが異常となる。

    舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定。乃立女子爲王、名曰卑彌呼。

    もとは男性を王としていた。後漢の終わり頃、倭で内乱があり、攻伐しあって国が安定しなかった。そのため、女性を王として建てた。名前を卑弥呼という。

    「漢末」とあるのは、『後漢書』に「桓靈閒倭國大亂(桓帝=後漢の第十一代皇帝、西暦146年-167年。靈帝=後漢の第十二代皇帝、西暦168年-189年)」とあるのを受けている。が、その『後漢書』の既述自体が、『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」を誤読したもので、まったく信用がおけない。

    宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

    宣帝(司馬懿)が公孫氏を滅亡させた時、女王が帯方郡に遣使を送り朝貢に来た。その後暫く朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭)が宰相になった時、また何度か朝貢に来た。泰始元年(武帝司馬炎)に、使いを遣わせて通訳を二重に重ねて入貢した。

    晋書』でありながら、実質的に書かれているのは「」の時代のことである。は安定しなかったので、朝貢が途絶えたのだろうか。それより「重譯入貢」が不明である。倭には直接中国語を話せる人がおらず、別の言語を通じて会話したということなのか。しかしそんなことは他の正史には書かれていないし、その状態で朝貢を続けるというのも不自然である。あるいは、倭でも別のグループが朝貢に来たのだろうか。その場合方言間の翻訳が必要なので、確かに重訳となるが…あるいは別の意味があるのか。

    倭人条はこれで終わりだが、倭の記事はもうひとつある。安帝本紀の義煕九年(西暦413年)に倭が朝貢していたことが載っているのである。

    是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物

    この年、高句麗や、倭國、西南夷銅頭大師が並んで様々な物を朝献してきた。

    この記事に関しては、倭の王が冊封を受けた節がないので、ニセモノの遣使だと主張する人もいて、様々な議論があるようです。しかし、の朝廷が衰えていたとはいえ、史官も馬鹿揃いではないのでニセモノ説はさすがに成り立ちにくいと考えます。冊封を受けた様子がないのは、別の説明が必要でしょう。

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  • 日本の古代史を考える—④魏志倭人伝諸問題

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    魏志倭人伝』に登場する「」國が日本のことであるのは周知であるが、古来その仮定を前提にすると、種々の問題が生じることが明らかになっている。

    Ⅰ. 「狗邪韓國」はどこか?

    帯方郡から狗邪韓國まで海を渡っていないことは、その直後に「始度一海」とあるので明らかである。故に狗邪韓國は朝鮮半島にあると推定するのが本来であるが、距離が七千余里あるのが問題だ。知られている限りでは「」の頃の里は、433.8 m なので、七千里というと、3,000 ㎞ を越える大距離になる。直線距離ならカムチャッカ半島の先っちょか、ベトナムかというくらいの距離だ。近畿か九州か以前に、日本を素通りしてしまう。日本の大名行列を参考に、一日当たり 35 ㎞ 進んだとしても、87 日かかる。かかりすぎだ。つまり、従来説は初っぱなから破綻しているのである。無論、私にもわからない。

    Ⅱ. 「狗邪韓國」と「末盧國」の間は定期便とも呼ぶべき航路が開かれていたのではないか。

    これは「③魏志倭人伝」の 6月3日付けの追記でも書いたが、対馬國と一大國の人たちは、食料を自給できないので「乖船南北市糴」とある。少し脇道にそれるが、これを物々交換だと思っている人が多いが、「」から冊封を受けた国に貨幣が存在しないと想定することがむしろ滑稽である。大体「市」へ行って何と交換に食料を得るのだ。陳寿が「市」とだけ書いて少しも怪しまないのだから、中華における「市」と同じものと考えるのが当たり前である。閑話休題。「市」は常設か、もしくは定期的に立つものであるから、食料が足りなくなりそうだ→それ市へ行くから船を出せ!という話があるわけもない。使者や通訳が「倭」と「帯方郡」、「倭」と「諸韓國」の間を往来するのであるから、交通路が整備されていたと見なすのが当然ではないか? 逆に交通路が整備されていたから、狗邪韓國まで、難破の恐れのない=下賜品をなくすことがない陸路、河川行を取ったのではないか。同様に「狗邪韓國」⇔「対馬國」⇔「一大國」⇔「末盧國」で交通路ができていた=定期便が出ていたから、既述のようなルートをたどったと考える方がよほど自然である。強盗の類の難を避けるため海路のはずと主張する人もいるが、それなら「帯方郡」から直接「対馬國」あるいは「末盧國」へ行けば良いので、「狗邪韓國」を経る理由がない。そもそも「」皇帝の勅使には護衛がつくわけで、それは常識だ。恐れ多くも皇帝の下賜品を海の藻屑にしましたなんて事態が起きれば、勅使本人は一緒に海に沈んだかも知れないが、下手すると九族まで誅殺されるわけだから、誰がそんな危険を冒すのだ。当然「倭」の遣使も護衛を引き連れていただろうし、どこの誰が護衛付きの皇帝勅使を狙うというのか。反乱軍が跋扈していたわけでもあるまいし。護衛が付くのはあまりにも当然すぎて陳寿もわざわざ書いてないだけだ。

    Ⅲ. 伊都國はなぜあんなに人口が少ないのか。

    「世有王」の地であり、「郡使往來常所駐」であるのに、家が千戸あまりしかない=人口が、五千〜六千人くらいというのは、少なすぎないか? 古田武彦氏は、今代の伊都国王=卑弥呼であるとして、「奴國」をあわせて実質の領土とされているが、國名が別ということは、王も別なのが普通ではないか? 伊都國王=卑弥呼でも構わない。というより、女王國について、「伊都國」だけ「世有王」と書かれているのは、それが「」の冊封した王だからだと考えるのが自然なので、伊都國王=卑弥呼と言い切ってしまってもよいように思えるが、そうするとますます人口の少なさが気になる。「不彌國」「投馬國」など官名だけ書かれて、王の名前が書かれていない=単なる領域名でいわゆる「国」ではないと主張する人もいるが、それだと卑弥呼即位前に「倭國」が乱れて相攻伐した際の王たち、あるいはその子孫はどこへ行ったのだ? 故にその説は取れない。しかしそうすると「南至邪馬壹國、女王之所都」が全く意味不明となってしまう。解せない。

    Ⅳ. 「伊都國」以降は、「伊都國」を起点に所在が説明されているのではないか。

    この説を採る方は少なくない。私にもそう読める。すると、

    • 「伊都國」から東南へ百里のところに「奴國」がある。戸数は、二万戸あまり。
    • 「伊都國」から東へ百里のところに「不彌國」がある。戸数は、千戸あまり。
    • 「伊都國」から南へ水行二十日のところに「投馬國」がある。戸数は、五万戸くらいか?
    • 「伊都國」の南に接して「邪馬壹國」がある。戸数は、七万戸あまり。

    ということになる。

    Ⅴ.「不可得詳」以降に書かれている国々は、単なる列挙ではないか。

    これも採る方が少なくない説である。「次」を列挙に使うのは日本語と同じだと思う。

    Ⅵ.「狗奴國」は「邪馬壹國」と境を接しているのでは?

    Ⅴ. から自然に導き出される結論である。「其南有狗奴國」の「其」は「邪馬壹國」のことだ。

    Ⅶ.「投馬國」はどこにあるのか?

    この国だけ「水行二十日」と所要日数で書かれている。いくら古代でも二十日もあれば、琉球くらいは充分たどり着く。九州内でこれを説明するのは不可能である。陳寿は当然「」の公式記録を参照して倭人条を書いたのだから、その記録に「水行二十日」とあったのでそう既述したに違いない。「到」ではなく「至」なのは郡使が実際には行かなかったからだという説に私も同意する。倭人の説明で距離のわかるところは距離で、所要日数しかわからないところは所要日数で書いたのだと思う。とすると次の問題が出てくる。

    中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従うと、「投馬國に二十日かかって至った」ではなく「投馬國へは河川を船で航行し(土地土地の調査を含めて)二十日をかけた」となる。それならば、日数は問題でなくなる。(2013年7月20日削除、追記)

    Ⅷ.「里」は実際にはどれくらいの長さだったのか?

    いわゆる「長里」vs「短里」問題である。「」の里が、433.8 m であるのは既に書いた。これが「長里」である。これに対して古田武彦氏は、代に起源を持つ 77 m 相当の短い「里」があったと説く。これが「短里」である。だが、これらの論争の前に、倭人の説明によって距離を記したのなら、当時の倭人が「里」をどれくらいだと考えていたのかが問題になるのではないか。大変残念なことにそれを証明する考古学的な史料は存在しない。古田氏は短里が存在した証拠として「周髀算経」の計算結果を出しておられるが、仮に、代の里が 77 m ほどだったとしたら、それが日本に伝わり、代々使用されてきたと考えてもよい根拠がある。「①漢書地理志」で書いた通り、縄文時代から倭人は西周に朝貢して冊封を受けていたと見なすべきだと書いた。つまり、の時代の倭人が説明に「短里」を用い、それがの朝廷の公式記録に残り、陳寿がそれを引用して書いたのだとしたら、何の矛盾も生じないのである。さすがに陳寿には「倭」の地の距離感など持ってなかっただろうし、史料を校合してもそのように書いてあったのなら、所要日数との差が不審だったではあろうが、やむなくそう記したのだと考える。王朝の公式記録を作成する歴代王朝の史官の、記録に懸ける情熱は日本人には理解しがたいほどである。その正当なることに文字通り命を懸けていたので、これを疑うなどという発想は陳寿にはなかっただろう。これに対して近畿朝廷は、遣唐使で初めて冊封を受けた。なので「記紀」以降には当然「長里」が採用される道理である。この説の肝は、当然代が「短里」であったこと、である。その証明が尽くされないと決着はつかない。

    Ⅸ.「倭」と「日本=ヤマト」はあまり関係がないのではないか?

    それは「男子無大小、皆黥面文身」とある、入れ墨の風習が伝わっている痕跡が、大和朝廷にはないからである。もちろん、最初はあったが、中国からの教化を受けて、それが野蛮な風習と見なされてだんだん廃れていったのだ、という説明も可能だが、それにしては何の記録も残っていないというのが不思議である。むしろ、元々なかったから記録がないというのが本来ではないか。逆に『魏志倭人伝』にその頃大和王権にあったはずの「抜歯」が何も記録されていないことも問題だ。これだけ長々と倭人伝を書いたからには、特徴的な風俗の違いが他に存在すれば、必ず陳寿は書いただろう。それがない、ということ自体が、「倭」と「ヤマト」が関係のない証拠となるのである。

    Ⅹ.結局、「邪馬壹國」はどこにあったのか?

    親魏倭王」の金印が出てこない限り決着はつかないのでは?

    上記以外の問題点については、「③魏志倭人伝」で本文中に書いた。改めて目を通して頂きたい。

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  • 日本の古代史を考える—③魏志倭人伝

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    卑弥呼で有名な邪馬台国が記載されていることで有名な魏志倭人伝。魏志とは、西晋陳寿が編纂した『三国志』のうち、の正史である『魏書』のことを云う。

    魏は、西暦 220 年から 265 年に中国に存在した国である。この国とその祖曹操については、三国志演義で日本人にもおなじみであろう。なお、日本では弥生時代後期にあたる。弥生時代を代表する遺跡といえば、昔々は登呂遺跡だったりしたのであるが、現在では何と言っても吉野ヶ里遺跡であろう。筆者も現地へ行ったことがあるが、見ると読むでは大違い。吉野ヶ里遺跡は、非常に大規模な遺構であり、現地に立つと圧倒されるものがある。さてもこのような基地を設けねばならなかった時代背景とは非常に物騒なものであったと実感した次第である。このような基地を必要とした時代とはどんな時代だったのであろうか。それを読み解く鍵のひとつが魏志倭人伝である。

    魏志倭人伝については、古来より邪馬台国の所在地を巡って(蒙昧かつ無駄な)論争があり、未だ決着を見ていない。ところが、魏志倭人伝には邪馬台国なる国は載っておらず、現在残っている版本ではすべて邪馬壹國となっていることを本ブログでも既述した。では、改めて本分を検証してみよう。

    倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國

    倭人は帯方郡の東南の大海におり、山島の中で国邑を作っている。元々は百あまりの国であった。前漢の時代に朝見するものがいた。現在使者や通訳が往来するのは三十国である。

    「舊百餘國。漢時有朝見者」とは『漢書』地理志燕地倭人条に記載されている内容を受けている。「漢時有朝見者」は『漢書』地理志燕地倭人条の誤読か、あるいは別に情報があってこのように書いたのかは不明である。そして「今使譯所通三十國」と続く。の時代にの都あるいは帯方郡から倭へ、あるいは倭からへ使者が行き来している国が三十ある。つまり、「往古そういう国があった」ではなく「よくわからないがそんな国があるらしい」でもなく、の当時の日本、あるいは日本の一部について相当に確実な情報があったことをこの文は表している。この点を留意して頂きたい。

    從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國。七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

    帯方郡より倭に至るには、至る行程を以下に述べる。海岸に沿って陸路で韓国に入り、水行、韓国に入って、南行東行を繰り返して、主に川を航行し、川の途切れたところは陸路を取る行程を取り、川に沿って南へ下ったり東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到る到着したその間七千余里その間の行程は実質七千里余りになる。初めて一海を渡り、千里余りで対馬国に至る到着した。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)である。家が千戸余りあり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。また、南に一海を渡ること千里余り、名を瀚海(広漠とした海の意)といい、一大国に至る到着した官も長官をまた卑狗といい、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、ここも南北の市に出かけて糴する。また別の海を渡り、千里余りで末盧国に至る到着した。家が四千戸余りあり、山海に沿って暮らしている。草木が盛んに茂っており、前を行く歩く人の姿が見えないような険しい行程だった。上手に魚や鰒(アワビ)を捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。東南に陸行すること主に陸路を取り、五百里歩いたところで、伊都国に到る到着した長官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。家が千戸余りあり千余りの家があり、代々王がいる。ここまでの国は皆、女王国の統治下に属していた。郡使は往来の途中で常にこれらの国々この国に立ち寄るのである。東南に行くと百里の行程で奴国に至る到着した長官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、家が二万戸余りある。東に行くと百里の行程で不彌国に至る到着した長官は多模、副は卑奴母離といい、家が千戸余りある。南へ行くと水行二十日で川を航行して投馬国に至る到着した航行には二十日をかけた。長官は彌彌、副は彌彌那利といい、家は五万戸余りはあるかあることを確かめた。南に行くと邪馬壹国、女王の都するところである。帯方郡からは総日程で水行十日、陸行一月である。川を十日かけて航行し、陸路には一ヶ月をかけた。長官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。家は七万戸余りはあるだろうかあることを確かめている。女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、そこから南の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。次に斯馬国があり、次に已百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に彌奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に對蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴利国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国がある。これが女王に属する領域内の全部である。そのそれら女王国の南に狗奴国があり、男性を王と為し、長官には狗古智卑狗があり、女王に従属していない。帯方郡より女王国に至るには一万二千里余りである。

    ここで『邪馬國』が初めて見える。後で出てくる景初二年が、三年の誤りであるというのはわかるが、この『邪馬國』が『邪馬國』の誤りであるとするのはわからない。確かに『後漢書』以降、後代に作成された正史には、『邪馬』と出てくる。普通はそういう場合、国名が変更になったのだと考えると思うのだが、なぜ誤りでなくてはならないか。それは『邪馬(ヤマタイ)』→『ヤマト』と繋ぎたいからである。何のことはない。皇国史観にどっぷり浸かって色眼鏡で見るからそう見えるだけのことなのだ。それでも写し間違いは誰でもあるし…とお考えの方には、唐代に用いられた楷書正字と、三世紀当時、正式な文書で用いられていた隷書、およびその基となった小篆で字形をお見せしよう。
    』楷書(唐代正字)壹(楷書)隷書壹(隷書)小篆壹
    』楷書(唐代正字)臺(楷書)隷書臺(隷書)小篆臺
    これが写し間違えるほど似ているというなら、何だって似てるだろう。『後漢書』が書かれたのは五世紀であり、国名が既にタイとなっていたことは、『隋書』に「俀国伝」となっていることからも明らかである。だがそれをもって三世紀の『三国志』の頃も同じと見なす根拠がない。学者の脳は常人とは異なる不思議な思考回路を有するものらしい。『俀』については、の時代に『大倭』を「たゐ」または「たいゐ」と読んで自称していたものが「たい」に変化したものではないかと筆者は考える。ちなみに、日本がヤマトを公式に使用するのは、八世紀の養老令からである。全く時代が違うのでお話にならない。中国上古(前漢後漢の時代)に『邪馬國』はなく、中国中古(の時代)にはあっても「やまたい」としか読めないのである。どうやっても「やまと」にはならない。これは皇国史観で見るからおかしな話になるわけで、九州と近畿に別々に王朝が存在していたと考え、九州の王朝が朝見していたと考えれば、おかしくも何ともなくなる。残念ながら。こういう事例を見かける度に歴史学とは胡散臭い学問だとの想念が頭をよぎるのである。

    なお、邪馬壹國への行程、所在地だが、これを検証することは本稿の目的ではないので省く。
    (2013年6月2日追記)「南へ行くと水行二十日で投馬国に至る」が特に不明なのだが、距離的には台湾になるのか? しかし魏志に琉球を飛ばして台湾が登場するのもおかしい…琉球だとして水行二十日もかかるか? と愚考す。まあ少し考えてわかるくらいならとっくに謎は解決されているはずですな。(笑)
    (2013年6月3日追記)「歴韓國乍南乍東」の翻訳を古田武彦氏の説に従い修正。当時「倭」は「諸韓國」とも交通があり、また「諸韓國」も帯方郡と交通があったので、陸路を取ることは別段不自然ではない。さらに、「対馬國」と「一大國」は「南北市糴」していたのだから、両国を経由し「狗邪韓國」と「末盧國」を結ぶ定期便が出ていたと解釈するのが妥当であり、「倭」の航路として確立していたと考えれば、帯方郡から船で直接北九州へ行かなかったことの説明がつく。
    (2013年7月4日追記)訳文を中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従い修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。

    成人の男性は身分の高低にかかわらず、みな顔や体に入れ墨をしている。古来より遣使が中国にやって来ると、皆自分を大夫だと称した。夏王朝少康王の王子が会稽に封じられている。髪を短く切って入れ墨をすると大魚や水禽の害を避けられるとその王子は人民に教え諭した。現在、倭で海辺に暮らす者は自ら海に潜り魚や蛤を捕っている。入れ墨をしていると大魚や水禽が近寄ってこない。しばらく後になって、装飾にもなった。諸国の入れ墨はそれぞれが異なり、体の左側にしたり右側にしたり、あるいは大きく入れ墨する者や小さくする者もおり、身分によっても違いがある。いる。身分秩序があり、その道理入れ墨の風俗や身分がしっかりしている理由を勘案するに、と、これこそまさに会稽東治(夏王朝少康王の王子の治績)が東の地にまで及んだものである。

    さて、縄文時代弥生時代を通じて、現代でも有名な風習とは何か。即ち「抜歯」である。然るに、魏志倭人伝は抜歯の風習に触れていない。当時の中国にはそのような風習はなかった(4,000年以上前に廃れた)から、もし倭に抜歯なる奇怪な風習があると記録に残っていれば、あるいは使節が抜歯をしていれば、当然触れられるはずのものが一切記載されていない。これは、倭と総称された国々には、抜歯の風習がなかったことを示すと筆者は考えている。筆者はまた、北九州では抜歯痕跡のある弥生時代人の人骨出土が非常に少ないのではないかと考えており、倭を北九州、特に太宰府を中心とした政権と考えているが、それを論証する、あるいは否定する調査結果を見つけることができなかった。詳しい方がいらっしゃればご一報頂ければ幸いである。一方、気になるのは入れ墨である。身分の高低に関わらず、とあるのだから、王も庶民も入れ墨をしたいたのである。ところで近畿天皇王朝が伝える『古事記』『日本書紀』には抜歯の風習も入れ墨の風習もかけらも出てこないのである。少なくとも一族揃って入れ墨していたという例は皆無である。実際に出自がそうであれば、説話として語り継がれてもよさそうなものだが、撰者に抹殺されてしまったのかも知れない。あるいは元々入れ墨の風習がない部族であったことも考えられる。どちらかと言えば後者の可能性を見る。つまり、倭が大和政権と関係ないという傍証がこんなところにも転がっているわけである。
    (2013年7月4日追記)訳文を中島信史氏著『甦る三国志「魏志倭人伝」新「邪馬台国」論争への道』の解釈に従い修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    それはさておき、倭は東夷の一種なので、その風俗が中華からの教化が及んだ結果であると陳寿は考えた。考えただけでなく論証した。それが、少康の子の話として出てくるのである。会稽とは古い国名でいうと「」である。呉越同舟の臥薪嘗胆呉越である。また、「魏略」には「其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後」とある。太伯とは太伯を言うので、自分たちは太伯の末裔であると称していたという意味である。つまり、呉越すなわち江南の人々が日本へ移住していたこと、それを通じて倭が教化されたことをこの文は言っている。古代の人々は現代人が考えるよりずっとアグレッシブだったのである。

    其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。

    その風俗は道をはずしていない。男性は皆が露紒(ろけい=頭に何も被らない)で、木綿(紵のことか? 当時木綿は日本に伝わっていなかった)を頭に巻いている(つまり鉢巻き)。その衣服は横に長い布を互いに結束して連ね(これを再現した写真があります)、簡単な縫製もない。婦人は髮を伸ばして髷を結っており、衣は単被のように作ってその中央に穴を開け、これに頭を突き出す(貫頭衣のこと。これも再現した写真があります)。水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、桑を植え養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、真綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄、あるいは骨の鏃、有無するところが儋耳や朱崖(ともに海南島の地名)に同じである。

    男性の服装女性の服装ともに簡素だが、絹を産していたことには注意が必要である。昔も今も絹は贅沢品だ。庶民やあるいは身分の高い人でも普段は紵でできた衣を着ていたのであろうが、絹が倭の特産であったわけだ。真綿も絹のことなので念のため。とすると当然、倭があった土地からは絹が出なくてはならない。それもひとつやふたつでは論外だ。産していた以上、結構な数の絹製品あるいはその残滓が出ないとおかしい。もちろん、弥生時代の絹などほとんどは消滅しているだろう。保存性が良い素材ではないからだ。弥生時代は人骨ですらあまり多く見つかっていない。考古学的に物が残りにくかった時代なんだろうか。牛や馬がいないということは、農耕はすべて人手によって行われていたことを意味する。矛、盾、木弓を用いて戦うとあるのはもちろん戦争のことである。弥生時代は戦争の時代でもある。

    倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處

    倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。立派なお屋敷もあるが、父母と兄弟それぞれは別のところで寝る(妻問婚のため、夜寝る時は、成年男子は妻のいる里へ出かける)。

    「父母兄弟臥息異處」だが、私はこのように解釈している。あるいは中国においては儒教の影響で父母兄弟が同室で寝るのは野蛮な風習とされていたから(遊牧民のパオやゲルを考えてみるとわかる。彼らは北狄、あるいは西戎と呼ばれていたのだ)、別室に寝たというだけだという意見もあるが、その直前に「有屋室」とわざわざ断っているのに、「異處」するわけだから、少なくとも、建物自体を別にしたとするのが妥当である。それに、当時の庶民は竪穴式住居に住んでいた。建物ひとつ=一部屋であることを考えれば、少なくとも「別の建物」であることは自明のことである。弥生時代竪穴式住居から出る人骨が男女一対、または男性一人に対して女性複数、あるいはそれに子供が付属するという例が非常に多く、馬鹿な考古学者はこれを一夫一婦制の萌芽と酔ったことを言っている。寝る時は夫婦だけ、または夫婦と小さい子供だけで寝るのが当たり前だったのなら、それと家族制は何の関係もないことになることは子供でもわかる。それとも何か、一夫多妻で母系制の大家族なら複数プレイでいたしていたとでも主張したいのだろうか。いかに学者というのが想像力貧困であるかこういう事例でもよくわかる。

    以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

    中国の白粉を用いるように、朱丹を身体に塗る。飲食には籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る木製の皿、あるいは鉢)を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴びをする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

    丹とは赤い色をした鉱物のこと。辰砂鉛丹を含むため赤い色をしている。白粉のように使うとあるのだから、顔にも塗ったのであろう。箸はまだない。棺はあるが槨がない、私たちはそういう墓をいくつも見ている。甕棺墓と呼ばれている墓がそれである。塚はいわゆる墳丘墓だろう。お葬式の時、お酒を出して騒ぐのは—今や自宅でお葬式をする人も少なくなったので珍しくなったが—この頃からの風習のようだ。葬儀の後、水浴びするというのはのことだろうか。

    其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢污、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

    中国を訪れるには、海を渡って行き来をするが、必ず遣使の一人に、頭髪を櫛で梳(けず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を取らず、衣服は垢で汚れるままにし、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにした者を含める。これを持衰(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれれば、それを顧みて報酬として、生口(奴隷)や財物を与え、もし疾病があったり、暴風の災害などに遭ったりすれば、ただちにこれを殺そうとする。その持衰が謹んでいなかったことがその原因だとするからだ。

    道中無事を祈るのはいつの時代も同じだが、専門の人を置いていたのはこの頃の特徴だろう。誰もが気軽に海外へ出かかられる時代ではない。無事に帰れればよし、ご褒美も貰えるが、さもなければ命がないとなれば、道中の間、必死になって祈ったことだろう。今の時代、フェリーや飛行機に乗るからと言って命を落とすことを覚悟して乗る人は、まずいないだろうが、当時のことだから、危険性は遙かに高く、あたら命を落とした持衰も少なくなかったものと思われる。尤も、遙か後の遣唐使が辿って散々な目に遭った南路と違い、北九州から壱岐、対馬を経て朝鮮半島へもしくは朝鮮半島沿いに帯方郡へ行ったのだから、そうそう難に遭うこともなかったのかも知れない。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    出真珠、青玉。其山有丹、其木有柟、杼、豫樟、楺、櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黑雉。

    真珠や青玉を産出する。山からが取れる。樹木には、楠木タブノキ、楺、橿がある。竹には篠簳、桃支がある。生姜山椒茗荷があるが、賞味することを知らない。猿や黒い雉がいる。

    とは翡翠のことで、硬玉軟玉がある。硬玉は、翡翠輝石つまり、ジェダイトのことで、中国には18世紀にミャンマーから輸入されるようになったのが始まりである。従ってここで言う「青玉」は、軟玉ネフライトのことである。青が実際は緑色を指していることに注意。杼を栃と訳してみたが、どんぐり全般を言うのかも知れない。楺は不明。この頃蜜柑はなかったので、橘をミカンと解釈している翻訳があれば間違い。(この項、2013年7月4日に追記)

    其俗舉事行來、有所云為。輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拜。

    その風俗に、何か事を行う、あるいはどこかへ往来するにあたり、言動を行う予定ができれば、必ずお告げを頂く。そのたびごとに都度、骨を焼いて卜占でその吉凶を占うことが挙げられる。い、先ず卜占の結果を唱えるが、目的を告げるため骨に刻む。そのとき方は令亀(亀甲を焼いて生じるひび割れで占う亀卜のこと)の法と同様で、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆を占う。会同での立ち居振る舞いに、父子男女の差別がない。人々は酒を嗜むことを好む。身分の高い者への表敬の仕方を観ると、ただ拍手することが跪拜(膝を着いての拝礼)に相当する。

    獣骨を焼いて卜占を行うのは、非常に古い、どちらかと言うと原始的な占いの形で、当時の中国では既に廃れていた。中華で廃れた礼式が周辺国で保存されている好例だと言える。会同で座る順番や解散の際の退場順など中国の礼はかなりやかましく、当主、子、女性でそれぞれ異なっていたが、日本ではそういったことが重視されていなかったことがわかる。それらの礼は当然地位を表しているわけだから、男女あるいは父子でそういった差を意識していなかったことになる。貴人に対する礼として拍手するというのは驚きだが、多分拍手して頭を下げたのではないだろうか。今も神社での拝礼の作法はそうなっている。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    なお、卜があるということは文字があるということでもある点に注意が必要である。卜には、

    1. 前辞
      「(日付)に(貞人)が占う」という意味を持つ定型文「(日付)卜(貞人)貞」
    2. 命辞
      占う内容に該当する主文
    3. 占辞
      王の判断
    4. 験辞
      実行後の結果

    を書き込むことが必要で、文字がないと卜にならないのである(占辞、験辞はない場合もある)。
    (2013年7月14日追記)

    其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。

    人々は長寿で、中には百年生きる人もいるし、あるいは八、九十年を生きる人もいる。その風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の妻を持ち、下戸(庶民)にも二、三人の妻を持つ者がいる。婦人は浮気をせず、嫉妬をしない。窃盗をする者がなく、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子を没して奴隷とし、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている(上下関係の秩序があるの意)。租賦を収める。それを納めるための邸閣(立派な高楼)が国にある。国には市もあり、双方の有無とする物を交易し、身分の高い倭人にこれを監督させている。

    当時既に百歳を越える人がいたのは驚きだ。また一夫多妻の制であったことがわかるが、妻問婚が行われていたのであれば、庶民でも二、三人の妻がいることに納得できる。嫁取婚では、庶民でも複数の妻を持てるという点が腑に落ちない。当時は現代的感覚の「身分は庶民だが大富豪」なんてものは存在しない。庶民=財産なしということである。この点からも嫁取りはかなり疑わしい。さて、犯罪を犯す者が全くいなかったわけではないだろうが、現代でも犯罪に対する忌避感が強く、訴訟を好まないのが日本人である。少なくともこの頃からそういった風俗を維持していることがわかる。

    自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

    女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国に常駐して治めており、国の中では刺史の如きものである。洛陽(魏の都)や帯方郡諸韓国に詣でて王へ遣いを使わして、帯方郡の郡使がその答礼で倭国に来たときは、皆、港に臨んで文書や賜物を点検照合し、女王の元へ届ける際に、間違いがないようにする。

    刺史は、州の行政、警察、司法、軍事を管轄する高官であり、大変な権力を持っていた。それに匹敵するというのだから、一大率も強権を振るっていたのであろう。これをみても伊都国は重要な国であったことがわかる。それにしては千余戸と人口が少ないように思えるが、海沿いの交通の要所であったからか、あるいは宗教的に重要な土地だったのだろうか。遣使の帰還や郡使の到来の際は、ここで下賜品や文書の点検をしたとあるから、少なくとも「倭国」の入り口と考えられていたのは間違いない。

    下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

    身分の低い者が高貴な人物と道で出会えば、後ずさりして草群に入る。伝達すべきことや説明すべきことがあれば、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまづ)いて行い、両手を地に着けて相手に対する敬意を表す。応答する声は噫(あい、ぅあい、わい)と言い、これで承諾を示す。

    この作法は何と近代に入っても変わってません。身分が上の人に尻を向けるのは大変な無礼とされ、去るときは後ずさりするのが正しい作法です。両手を地に着けて経緯を表すのは時代劇でもよく見かける作法ですね。明治に入って椅子に座るようになってからは立礼が基本となって廃れましたが。(この個所が抜けていたので、2013年6月8日に追加)

    其國本亦以男子為王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫婿。有男弟佐治國。自為王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

    倭の国は、もとは男性を王としていて、七、八十年は問題がなかった続いたが、その後倭国に内乱が相次ぎ、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道に従い、よく衆を惑わした。高齢になっても夫がおらず王に立てられた時既に成人していたが、夫はおらず、弟がいて国の統治を補佐していた。王位に就いて以来、面会できるものは少なかったけれど、婢(下女、あるいは女奴隷)が千人、その側に侍り、を千人自分のそばに侍らせていた。ただ一人の男性が食事を給仕飲食の給仕をし、言葉の取り次ぎのために出入りしていた。居住する宮殿や楼観には、城柵が厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいた。

    倭国大乱(?)の後、卑弥呼が立てられたことを述べた部分である。鬼道とは、初期道教である、五斗米道のことである、初期の神道である、と様々な説があり、決着を見ていない。中国は当時もちろん儒教だったので、その儒教にそぐわない政治体制を「鬼道」と称した例があることから、これもそうではないかとする者もいて、人の数だけ「鬼道」がある状況。:) 筆者は初期神道だと考えている。儒教的観点からするとそれは「正道」ではなく「鬼道」となる。「よく衆を惑わした」とは「民衆が卑弥呼の指導によく従った」ことを表す。「鬼道」による卑弥呼の指示を民衆が聞き入れるのは「惑わされた結果」と解釈するのが儒教的立場というものでもある。

    ところでここの文章は様々な解釈が可能で、例えば、「住七八十年」の「住」を「とどまる」と解釈すれば、男王が七十年から八十年続いたことを表すが、「やむ、やめる」と解釈すると、七十年から八十年は男性による王位の継承が断絶していたことになる。『後漢書』は後者を拡大解釈して「王が七十年から八十年いなかった」として「倭國大亂」と称しているが、その後に「歴年」とあるのに注意。「歴」はつぎつぎに巡り歩く意から転じて年月を経る意味になっているので、次々と年月が経る長い間抗争が続いたことを述べている。「七、八十年乱れて、さらに何年も攻め合う」では意味が重複するため、『後漢書』の解釈を取ることはできない。また、「本亦」とある点に着目して魏使が到来した頃には再び男王が立てられていたとする説もあるが、それだと女王が七十年から八十年続いたことになり、「乃共立一女子為王」と文脈が繋がらない上に、後の壹与の即位事情に繋がらない。悩ましい。(この項、2013年7月4日に追記)

    「年已長大」は呉書巻五十二「張顧諸葛步傳」にやはり「年已長大」とあり、曹丕が王位を継いだ時のことを述べている。曹丕(魏の文帝)は四十歳で死んでいるので、年寄りという意味ではない。後に壹与が立てられた時まだ十三だったので、それに対して成人していたという意味だろう。古代は早婚なので成人しているのに夫がいないというのが魏使の目には奇異と映ったと思われる。「有男弟佐治國」は祭祀の王と政治の王による複式統治を表したもので、卑弥呼の神託を現実の政治に反映するには、そのような制度が不可欠であったのだろう。(この項、2013年7月4日に追記)

    また、「自為王以來少有見者以婢千人自侍」も読み下すと「王と為りて自(よ)り見ゆる者少なく有れど婢千人を以て自らを侍らしむ」となるが、王であるのに遭ったことがある人が少ないとはどういうことだという疑問が出てくる。これは誰に会うことが少なかったかということを考えなくてはならない。民衆はまあ無視してよろしい。たまに顔を見せれば済む。しかし、祭祀や政務について各国の王たちやその配下と会見を持つことは必須である。これは或いは卑弥呼が国人、つまり氏族の主たちに人気があるので、これ以上存在感を増されて自分たちの地位が脅かされることを恐れた部族長たち、即ち各国の王が氏族の族長クラスの面会を制限した、ということではないか。じゃあ何故そのような女性を王位に就けたのだと問われれば、まさしく国人の要求がそれだけ強かったからと答えるしかない。しかし、王は存在を誇示してこそ王なので、会えない王はいないのと同じである。やはり悩ましい。なお、卑弥呼は祭祀王で、また巫女でもあったので、男子をそばに近づけなかったのだが、はしためでは用を為さない用事については例外を認めて一人だけ男子の出入りを許可したことが覗える。(この項、2013年7月4日に追記)

    女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

    女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。それも皆、倭人である。また、その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黑歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。倭の地と比較して訊いてみるとを調べたり訊ねてみたところ絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど海の中に島々が互いに離れて存在し、海で隔たったところもあれば、繋がっているところもあり、周囲をぐるりと囲むと五千里余りあることがわかった

    魏の一尺は、24㎝ 余りだから、身長が 1 m に満たない人々が住んでる国があったことになる。倭国の人から聞いたのだろうが、倭の人がおおげさに言ったのだろうか。女王国の南に四千里余りですから、一里 = 433.8 m(長里)で計算すると、南に 1735 ㎞、一里 = 75 m(短里)で計算すると、南に約 300 ㎞ なので、長里だとすれば、フィリピンのことを言ってることになる。短里が正しいとすれば、日本国内にあったことなることは間違いない。縄文人は短身だったので、中でもひときわ背の低い人たちが生き延びて建てた国があったということかも知れない。ところが興味深いことに、フィリピンにはネグリトと呼ばれる民族がおり、「小黒人」と別名がついていたほど背が低い。長里、短里どちらの説を採るべきだろうか? 侏儒国から東南の方向に、船で行くと 1 年かかるところにある裸国や黒歯国の場所も面白い。そこまで長旅をしてたどり着く可能性のある土地は、南アメリカ大陸である。してみると、倭人は南アメリカ大陸に関する知識を持っていたことになる。謎は尽きない。
    (2013年7月4日追記)訳文を修正した。太字で表示される部分は追記した箇所である。

    景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也」

    景初二年(238年)六月、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。太守の劉夏は官吏を遣わし、遣使を率いて洛陽に詣でた。その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を大切に思う。今、汝を親魏倭王と為し、金印紫綬を授ける。包装して帯方太守に付託して、汝に授けさせるものとする。同族の人々を安んじいたわり、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中よく勤めた。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮け、引見して慰労を賜い、遣わして還す。今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを汝の貢献の値として贈答する。また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して授けるので、難升米、牛利が帰還したら目録を受けとるがよい。(これらの品々を)すべて汝が国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである」

    さて、有名な卑弥呼の遣使を説明した段だ。まず景初二年が景初三年の誤りであるのはこれは古来より言われている通りだと思う。いくらかの有名な司馬仲達といえど、公孫淵を切って朝鮮を平定した後、過去に遡って帯方郡を置いたとは考えられない。何が何でも原典に誤りなしと拘るのも問題だろう。さて、朝貢において、奴隷の他に班布を二匹二丈献上している。班布は一組の絹布地のことで、長さ 240 m × 幅 50 ㎝(二匹=四反=八丈+二丈=合計十丈、一丈は魏尺では約 24m、幅は二尺二寸=約 50 ㎝)となる。あまり豪華とは言えない。これに対して下賜品として金印と夥しい絹織物、銅鏡百枚その他が卑弥呼に授けられている。絳とは「赤い」の意味です。金八両って魏の頃は、113g くらいですから、微妙な量です。:) もちろん遣使二人で持って帰ることができる量ではないので、まず目録を遣使に授けたわけである。絹の量が莫大だが、これは献上品が絹であったので、「本場物」を褒美として授けたものと思われる。ということは、弥生時代の遺跡があり、絹が数多く出るところかつ、製の銅鏡が出るところ、が邪馬壹国のあったところになる。一時期、三角縁神獣鏡がこの銅鏡ではないかと言われていたが、後に日本製であることが指摘され、今のところ卑弥呼が下賜されたものであることが間違いないと判断できる銅鏡は出てきていない。

    正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告喻之。

    正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。同四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗ら一同は率善中郎将の印綬を拝受した。同六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して授けさせた。同八年(247年)、帯方郡太守の王頎が、洛陽の官府に到着した。倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元から不和だった。倭は載斯、烏越らを派遣して、帯方郡に詣でて戦争の状況を説明した。帯方郡は。長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらして、難升米に授けさせ、檄を作って(戦いを止めるように)告諭した。

    正治元年になってから、景初三年の遣使の折に目録を渡した下賜品を携えて、帯方郡から使者が倭にやってきたことを示している段。卑彌弓呼はヒミヒコと読むのだろうか。ヒミコといいヒミヒコといい、名前と言うより何かの称号のように思える。檄は檄文の檄。お触れのことだ。

    卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

    卑彌呼が死ぬと、大きな墓を作った。直径は百歩あまりで、殉葬した奴婢は百人あまり。改めて男の王を立てたが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人が殺された。元のように(卑弥呼を立てた時のように)卑彌呼の宗女「壹與」を立てた。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄を以てして壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けた。遣使は臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠(白くて球形の璧のことか?)五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。

    卑弥呼死後のことになる。男王を立てると国が乱れ、女王を頂くと国が治まるというのは、女系制の感じがしないのでもないのだが、どうだろう。壹與が卑弥呼の宗族であったから倭の国々の有力者も納得したとすると、そうかなと思い、しかし中には男もいただろうがなぜそれは対象にならなかったのか、あるいは立てられた男王というのがそうだったのか、想念は尽きない。いずれにせよ、卑弥呼が王に立てられた際も卑弥呼の死後も戦争が起きたということは、弥生時代は戦争の時代であったと言いうるところであろう。卑弥呼在位中にも戦争があったと書かれていることから、その平和も極めて緊張したものであったに違いない。

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  • 日本の古代史を考える—②後漢書東夷伝

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    後漢書』が『三国志』より後の時代に書かれたことはよく知られていることである。従って『倭』の情報も『三国志』の方が的確、豊富であるとするのが常識になっている。事実、『後漢書』東夷列伝の倭人条は、ほとんどが『魏志倭人伝』の引き写し(しかも誤って写し取ったと見られる個所まである)の上に、字数も遙かに少ない(尤もこれは、『魏志倭人伝』の分量が名だたる正史の中でも際だって多いのためであるが)。しかし、にも関わらず、日本史にとって重要な一文があるため、無視はできないのである。

    俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。

    皆裸足で歩くことを習俗としている。蹲踞で恭敬を表す。

    魏志倭人伝』以外からの資料を参照したとおぼしき個所である。蹲踞は今でも地面に座るとき普通にする姿勢である。ただし、足は閉じていただろう。もしくは、時代劇でお侍が庭や廊下に控えるときの、片膝突いてもう片方の膝は立てるあの座り方である。これは『後漢書』を書いた「范曄(西暦398年-445年)」が生きた時代、つまり五世紀はじめの習俗ではないかと思われる。(この項、2013年6月4日に追記)

    建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。

    建武中元二年(西暦57年)、倭奴国が貢ぎ物を奉り、朝賀に来た。遣使は大夫を自称した。(倭奴国は)倭国の最南端にある。光武帝は印を授けさせた。安帝永初元年(西暦107年)、倭国の王たち帥升その他がやって来て、生口(奴隷)160人を献上の上、お目見えすることを願った。

    この記事にある、光武帝が授けた印こそ、『漢委奴国王』の金印である。というかこの記事があるからこそ、あの金印は本物であるとされているわけだ。この字面は、「かんのわのなのこくおう」と読むと高校などでは教えられるが、漢は金印を陪臣に与えなかった(与える場合は銀印か、銅印)ので、それはありえない読み方である。また、後世の正史も倭国のことをまた『倭奴國』とも書いている通り、これは『倭奴』の国の王に与えられたと解するべきである。学者さんはなぜ嘘を平気で教えるんでしょうね。では何と読むかというと、当時の漢音から「かんのゐなのこくおう」と読むのが正しい。「いとのこくおう」説のあなた、残念様。私も残念の一人。(笑)

    加えて、金印志賀島から出土したということは、考古学的にも常識的にもその付近に件の金印を頂いた国王が昔存在していたということであり、それ以外に解釈しようがない。けれどもなぜか、輸送中に落として行方不明になってたんだとか、受け取ると冊封されてしまうことになるから、遣使が志賀島に埋めて、もらってないことにしたんだとか訳のわからないことを言って、金印が近畿天皇王朝に下賜されたものだと頑強に言い張る。正直、頭が沸いているとしか言いようがない。ある遺跡から出土した甕棺入りの人骨が、実は棺おけごと移送中にたまたま置き忘れられたものなのだ、などと主張することを考えてみればわかる。まず間違いなく、可哀想な人を見る目で見られることになるだろう。なのにどうしてこの金印だけ例外にしたがるのか? いつまで皇国史観に取り付かれてるんだと、お前らにつぎ込んできた税金を返せと言いたくなる。

    なお、志賀島にある志賀海神社は、『綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である』(ウィキペディアより引用)。なぜ北九州の先端とも言える場所で「君が代」が? と思ったあなたはえらい。

    さて、気を取り直してその続き、西暦107年になって、倭の王たち(複数)が朝見に来たことが記されている。取りあえず定説に従って倭の国々の王たち(そのうちの一人が帥升)という解釈で訳してみたが、『帥升等』が人名で、倭国王は一人だとする説もある。ここで注意すべきは、「謁見を願った」としか書かれておらず、暗に謁見を断られたことを示している点である。後漢が認める倭の王は一人って先例があるんだから、集団でやって来た連中をうっかり引見しようものなら、ご先祖様(光武帝)を馬鹿にすることになる。体よくお引き取り願ったんでしょうな。あるいは、この時、倭が内乱ではないにせよ、群雄割拠で推戴すべき大倭王が不在であったと読み取ることもできる。だからどこかの国だけが朝見することはできず、集団で赴くことになったのだと。時期的にも、卑弥呼の前に 70 年〜 80 年の間即位していた男の大倭王(ただし期間の長さから、ひとりではなく複数の王が相次いで即位したと考えられる)が登場する、その少し前になるので、別段うがった見方でもないと思う。

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  • 邪馬壹国・九州王朝・関東王朝

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    邪馬台国」論争は昔から有名で、九州にあったか近畿にあったか、はたまた海外だったか様々な仮説が出ては消え出ては消えして今に至っている。「婚姻の歴史を考える」を書いた際、魏志倭人伝についても簡単に調べたのだが、古田武彦氏の論によって、積年の疑問が解決したのでここにまとめておきたい。

    魏志倭人伝における従来の解釈に関する疑問は次の通り。

    • 版本では「邪馬壹國(=邪馬一国)」とあるものを何故「邪馬臺國(=邪馬台国)」の誤字だとするのか?
    • 版本では「一大國」とあるものが、何故「一支國」の誤字だとするのか?
    • 何故「水行十日、陸行一月」を全行程に要する日数だと解釈しないのか?
    • 版本では「壹与」とある女王の名前を何故「臺与」の誤りだとするのか?

    大学生の頃も「そりゃ君決まってるよ」とは言うものの、何故を説明できた先生はいなかった。歴史学とは随分胡散臭い学問だと思ったものである。それが今回、古田氏の論文を読んで氷解したのである。つまり、

    • 「邪馬壹國(=邪馬一国)」が正しい。
    • 「一大國」が正しい。
    • 「水行十日、陸行一月」は全行程に要する日数だった
    • 「壹与」が正しい。

    古田氏は、他にも様々な論証を加え、邪馬壹國が博多湾岸にあったことを結論づけている。加えて氏は、この王朝が「漢書」地理志に現れる「倭人」と繋がっており、「隋書」東夷伝の記事、『大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云』で有名な「多利思比孤」も九州王朝の王であったとしている。そして、「旧唐書」で「倭国」条と「日本」条が別になっているのは、「倭国」が九州王朝、「日本」が近畿天皇王朝であるとする。誠に慧眼であり、我意を得た思いである。

    畢竟、従来すべての議論は「王といえば近畿天皇家しかありえない」という臆断から出発していたため、不必要な議論が重なってきたのが事実なのだ。何も近畿天皇家だけが王であったとする意味も必要もない。九州に繁栄した正当な王朝があっていけない理由はなく、また存在しなければおかしい遺跡が存在するのであるから、素直にそう考えればよいのである。後世九州にあって天皇政権に属さない部族を「熊襲」や「隼人」と言ったが、彼らが衰微したその九州王朝の末裔であり、だからこそ近畿天皇家に下ることをよしとせず頑固に抵抗し続けたと考えて何の不思議があろう。逆に「蝦夷」とよばれてやはり近畿天皇家にしつこくしつこく抵抗した部族が関東から東北にかけてあったことを考えれば、関東王朝があってもよいとすら考える。(古田氏稲荷山古墳出土の鉄剣銘を関東王朝存在の証であると主張している。私も同感である)

    邪馬台国論争は江戸時代から続く非常に「歴史的」な問題であるが、たったひとつの理由のない臆断によって、これほどの長時間と多大な労力が無駄に費やされてきたことを考えると、学者の言う「科学的」とか「実証的」とかいう論がいかに怪しいものであるかをこの問題は示している、まさに好例と言えるであろう。

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  • 婚姻制度の歴史を考える—④妻問婚

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    日本の古代—主に古墳時代から奈良時代にかけて—に婚姻様式として妻問婚が広く行われていたのは、周知の事実である。

    では、妻問婚はいつ頃始まり、いつ群婚に取って代わったのであろうか。
    筆者は、少なくとも縄文中期には妻問婚が始まっていたと考える。理由は以下の通りである。

    ①既に大規模集落が営まれており、集団が大規模化していたこと。
    ②勾玉の交易から明らかなように他集団との交流が活発であったこと。
    ③(同一血族を示すと思われる)抜歯の風習が始まったこと

    ①について、集団の大規模化は直接、群婚を否定しない。むしろ適齢期の男女がそれだけ多くなるということであるから、群婚が最盛であったとしても異論はない。しかし、一方で狩猟採集の成果という観点から見ると、大規模な集団を維持するにはそれだけ多くの獲物、採集物を必要とすることでもある。必然的に縄張りは拡大し、隣接する集団とその境界が接するに至ったという想像はあながち間違ってはいないだろう。当然のこととして交流が始まり、それが、②の交易結果として結実したのではないか。ここで重要なのは、もっぱら隣接する集団と接するのは狩りを担当する男である点である。縄文時代の狩りは、かつてあったマンモス狩りのように大勢で獲物を追い込んで仕留めるようなものではなく、弓矢を使った小集団での狩りに移行していた。従って、そのような単位での接触が集団間で発生したからといって、例えば族外集団婚といったような様式が発生したとは考えづらい。むしろその小集団がそれぞれ女に求婚する形—妻問いを行う形が自然に発生したと考えるべきであろう。縄文時代は隣接集団間で平和的な交流が持たれていたと思われ、交流の場としての「市」あるいは「山」が設定されていただろう。群婚時代の神聖な儀式であった歌垣が、集団の異なる男女を結びつける儀式へと変化し、そこでの求愛が正式な婚姻の申し込みと承認となったであろうことは想像に難くない。そして、集団内で居住はしていなくとも起居する他集団の男が出てくるに従い、その属する集団を見分けるために抜歯が手段として使われるようになったのではなかろうか。とすると、漁労民のように入れ墨をする風習があった集団ではわざわざ歯を抜かなくともその属するところが一目瞭然であり、従ってそのような集団では抜歯があまり根付かなかったことの証左となる。(尤も、抜歯が集団属性を表すという説には異論も多く、また統計的に確実なことがわかるほどの人骨も見つかっていないことから、あまり重視すべきではないと考える)

    妻問婚の始まりについては以上の通りである。では、群婚はいつ消滅したか。これは婚姻をどのように捉えるかによる。婚姻を性の管理と見なす場合(往古、婚姻とはすなわち性交であった)、その消滅は昭和の戦後である。ヨバヒが夜這いとなって延々と生き残り続けたと言えよう。神事としての共婚は、美濃国郡上郡東村大字祖師野の氏神祭りの例を高群逸枝氏は示している(高群逸枝『日本婚姻史』15頁)。あるいはそんな昔ではなく、第二次世界大戦後というごく最近まで祭りの場で群婚が営まれていた例は枚挙にいとまがない。赤松啓介氏の論説を読むまでもないだろう。一方、家族制度を含む社会的な男女の結合と考える場合、一部上位階級では弥生時代末期には既に大部分が廃れていたと言い得るのみである。この原因は、

    ①軍事的緊張の高まり=多くの集団との政治結婚の必要性が高まる
    ②集団内に身分階層の差が生じ、集団婚がそぐわなくなる。

    だと考えられる。『漢書』地理志にはかの有名な「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」の一文がある。楽浪郡は紀元前108年に設置されているから、弥生時代中期の倭では、多くの宗族が相争いながら既に群立していた様が窺える。この時期の日本には高地性集落も出現していた。すなわち戦乱がそれだけ激しかったことを物語る。また、墳丘墓が小規模ながら弥生時代前期から認められ、身分の差が発生していたことがわかる。以上からすると、弥生時代中期には上位層の妻問婚への移行が完了していた可能性すらある。弥生時代末期になるが、魏志倭人伝に次の言葉がある「父母兄弟の臥息処を異にす」。これを単に寝所が別と解釈する人が多いが、そんなものをわざわざ記事にするわけはないわけで、これは別の建物、もっといえば別集団に寝起きすることを言っているものと考えられる。兄弟姉妹ではなく、兄弟なのがミソ。成人した男は妻問いで他所に寝にいくので、「臥息処を異にす」るわけである。続けて「その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし…」とある。身分のある人はみんな四人から五人の妻を持ち、貧乏人でも二人から三人の妻を持つ者がいる。女性は浮気せず、嫉妬もしない。盗みをしないし、公に訴え相争うこともあまりしない。ということだが、複数の妻がいるというのは、特に貧しくても複数の妻が持てるということは、妻問いの風が一般にも行われていたことの証拠になる。女は家にいて男が通うのを待つだけなので、自ら浮気に出歩かないし、男に他の女がいてもまめまめしく通ってくれるならば、問題にならない。盗み云々は公共心の高さを言っているのだろう。現代日本人も公共心が高く、訴訟を好まないと言われるが、まさしくそれが伝統であることを示す文章であろう。逆に言うと当時の中国ってそんなレベルだったのかということでもあるが(笑)。閑話休題。

    魏志倭人伝では「男子は皆鯨面文身す」とあり、当時中国と交通のあった倭は、入れ墨をする部族ばかりであったことがわかる。そのため抜歯については言及がない。「諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり」とあるので、部族・身分毎に入れ墨が異なっていたことがわかる。妻問いの婚主は家刀自、つまり嬶であり、婚姻を承認/否認するためにも相手がどこの族のどんな階層の人間かを知ることは必須であった。

    以上により、少なくとも弥生時代末期には妻問婚が一般的であったということが言えるだろう。ただし、祭りにおける神事としての群婚例がごく最近まで残存していたという事実を考え合わせると、群婚は庶民の階層に生き残り続け、時には弾圧を受けながらもしぶとく命脈を保ち、決して妻問婚に取って代わられたわけではないということもできるのである。

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